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WEB掲載日:04/06/18
掲載誌:週刊「かけはし」2002年3月18日(第1723号)
寄稿 朝鮮植民地支配と未解決の戦後補償
京都ウトロ地区の在日韓国・朝鮮人強制立ち退きを阻止しよう!
小森政孝

はじめに

 ウトロという地名をご存知だろうか。京都府宇治市にある同地では今、在日韓国・朝鮮人約七十世帯二百三十名の人々が強制立ち退きの危機にさらされている。土地の「所有権」をもつ不動産会社がウトロ住民を相手取って起こした「建物収去・土地明渡」請求訴訟に敗訴したためである。ウトロは戦後半世紀以上にわたって続いてきた在日韓国・朝鮮人の集住地だ。ウトロにずっと住みつづけてきて、出て行けと言われたところで行くあてのない高齢者も少なくない。なぜこのような事態になったのか。ウトロ地区の歴史と今を報告したい。

ウトロの歴史と住民の闘い

 ウトロという土地、正確には宇治市伊勢田町ウトロ五十一番地は、陸上自衛隊大久保駐屯地に隣接している。同駐屯地はもともと占領下の時代を通じて米軍のキャンプであり、とりわけ朝鮮戦争では後方兵站拠点として機能した。ウトロの歴史は、その米軍基地がまだ日本軍の基地だった時にさかのぼる。
 帝国主義日本の対アジア侵略戦争が泥沼化していた一九三八年、政府は航空機の搭乗員を養成する目的で国内五ヶ所に飛行場を建設する計画を発表した。その一つとして「京都飛行場」が宇治市に計画され、対米戦争が迫る一九四〇年、起工されたのだった。同飛行場の用地買収は京都府が行い、国策会社として設立された「日本国際航空工業」が工事を担当した。その工事に二千名が従事し、うち千三百名が各地から集められた朝鮮人だったのである。その朝鮮人労働者と家族が暮らした飯場(宿泊所)が今のウトロ地区の前身となる。人海戦術で進められた飛行場建設だったが、米軍の空襲を受けて壊滅し、間もなく日本帝国主義は敗戦となった。
 日本による植民地支配から解放されたとはいえ、当時日本本土に二百万人以上いた朝鮮人の暮らしは楽にはならなかった。彼/彼女らを徴用あるいは半強制的に雇用していた政府・軍需産業が敗戦と同時に放置したためである。京都飛行場でも、敗戦と同時に工事は中止され、飛行場と付帯設備は進駐軍に接収されたが、朝鮮人労働者は配給を打ち切られてウトロ飯場に取り残され、何らの生活の保証も帰国のための支援もなかった。日本敗戦直後の混乱期のことである。朝鮮人が、その日一日を生きていくために払わねばならない労苦は、日本人の比ではなかったという。食糧自給のために、基地周辺の土地を耕作したり、米軍の演習場で砲弾の破片をひろって屑鉄業者に売ったりして生計をたてた。
 そうしたなか、ウトロは朝鮮人の生活のみならず、交流や運動の拠点ともなっていく。同胞が集まっているウトロには、各地から自然と朝鮮人が集まり、情報を交換したり、帰国の中継地点としたりしていた。光復(日本帝国主義の敗戦)の直後から、日本本土の朝鮮人たちは同胞の組織を作り始め(後に朝連となる)、同時に民族学校をつくって皇民化教育により奪われた言葉を子供たちに取り戻す運動を始めた。
 民族学校は朝鮮人の結集軸となっていく。このため、朝鮮人の団結をおそれる占領軍と日本政府は四十七年、これを弾圧した。ウトロでも民族学校が作られたが、つぶされている。朝鮮戦争がはじまると各地の朝鮮人は米軍に対する抵抗運動を展開する。ウトロに隣接する大久保基地は米軍の兵站拠点となり、しかも「日本国際航空工業」を引き継いだ「新日国工業」が車両や弾薬を製造して供給し、莫大な利益をあげていた。これに対し、ウトロ住民は反基地闘争を行って、米軍と小競り合いを繰り返した。そして日本の治安当局による弾圧も一度ならず受けたのだった。
 ここで、戦争中ウトロの「地権者」であったところの「日本国際航空工業」の戦後について触れておかねばならない。そもそも、「国際工業」という軍需産業がはじめにあり、京都府が飛行場用地を買収してその後身である「日本国際航空工業」の名義としたのが同社のはじまりであった。同社は敗戦によって整理の対象となったが、自動車部門のみを新会社として分離。これが「新日国工業」である。先述のとおり、同社は米軍向けの車両と弾薬を供給した。「新日国工業」はその後日産の系列に入って「日産車体工機」となり、現在の「日産車体」となっている。ウトロの土地所有権も「日産車体」に引き継がれた。
 ウトロ住民の生活は、戦後高度経済成長期に入って、ようやく上向いていった。土建業などで身を立てていく者も出始める。とはいえ、日本人のそれに比して苦しいことに変わりなく、日雇い労働や生活保護に頼って暮らすものも少なくなかった。また低湿地であるために、しばしば水害に見舞われるなどした。水道もなかった。生活用水として井戸が使用されていたが、水質が極端に悪く、洗濯をしようものなら衣類が鉄錆で赤く染まったことさえあったという。しかし宇治市は「地権者の同意がない」として長い間にわたり水道管の埋設をしなかった。土地の所有権が住民にはなく、「日産車体」の名義だったからである。このため、住民の要求運動によって「日産車体」から水道施設同意書をとり、ウトロに水道が引かれたのは一九八七年、実に戦後四十年以上が経過した後のことであった。

突然送られた立ち退き通告

 一九八八年二月、ウトロに事件が起こった。不動産業者が「売買予定物件」として、ウトロ地区の下見に訪れたのだ。住民の間では大騒ぎになった。住民の大半は自分の住んでいる家の土地はもともと自分のものだと思っていたのに、それが他人のものであり、しかも売買の対象にされようとしていることがわかったからである。
 同年末には「西日本殖産」なる会社から各戸宛てに内容証明郵便で立ち退き通告が送られてきた。そして翌八九年二月京都地裁に提訴されるという事態に至ったのである。住民は土地を「不法に占有」しているので、建物を撤去した上で立ち退け、というのだ。最初は六戸が対象であったが、次第に拡大されウトロ全体に及んだ。
 ウトロ地区の土地所有権を持っていたのは、すでに述べてきた通り「日産車体」であったが、同社はほとんどの住民に全く知らせることなく、土地を売却していたのだった。買ったのは、ウトロ住民の一人であり、住民と日産との間の交渉役も務めていた平山桝夫という人物だった。一九八七年三月九日、日産車体は彼個人に三億円で、当時八十世帯三百八十名がすむウトロの土地すべて(二一、〇〇〇平方メートル)を売却した。平山は五月九日、この土地を四億四千五百万円で不動産会社「西日本殖産」に転売するのである。土地転がしであった。同社は、同年四月三十日に設立されたばかりで、なんと平山自身が役員を務めていた。裁判の開始に前後して彼はウトロから姿を消した。

地上げ反対運動と連帯行動

 こうした状況に対して、ウトロ住民は裁判闘争を団結して闘ってゆくとともに、広くこの問題を訴えていくことになる。日本人の市民による「地上げ反対!ウトロを守る会」も結成された。当時、近隣地域の日本人住民とウトロの在日韓国・朝鮮人との関係は良好とはいいがたかったが、地上げに反対する運動を通じて徐々に交流が始まっていった。ウトロ住民と支援する日本人とで、集会を重ねた。デモ行進などは、チャングを叩きながらのにぎやかなものだ。朝鮮半島の民族音楽「農楽」を演奏する「ウトロ農楽隊」も結成され、土地問題の理解を求めて各地で公演し、交流を作っていった。
 ウトロを守る運動では実にさまざまな行動を行っている。八九年、九一年と日産本社に二度の抗議行動を行ったが、日産側は何れも一切の対話を拒絶している。同じころ、曲がりなりにも戦後補償を行ったドイツのフォルクスワーゲンの労働者との交流を行った。また、アメリカでの講演活動や、ニューヨークタイムスやロサンゼルスタイムスなど大新聞への意見広告掲載などを通じて米国の世論に訴えた。大きな反響があり、米国でもウトロの支援委員会が組織され、また二万通の署名も集まった。九三年には、米国日産に対して抗議デモも行ったが、会社側の態度は東京の本社と同様であった。
 また、町内会と「守る会」は韓国の人々とのつながりも着実に作っていった。新聞やTVなどで報道されて反響を得て、韓国のNGOによる支援運動もおこってきた。九六年には韓国キリスト教会協議会などによる署名運動や日本大使館への抗議デモが行われた。九七年には韓国人権団体協議会から調査団をウトロに迎えて集会を持ったほか、韓国政府や国会議員、大韓弁護士協会などに協力を要請するなどした。

和解決裂と裁判闘争の敗北

 しかし、支援運動の広範な広がりに比して、裁判の方は思わしくなかった。八九年三月第一回の口頭弁論で住民の一人が、「飛行場建設のために、半強制的に朝鮮人を雇ったことなどの歴史的経緯や、戦後処理が果たされないまま今日に至った実情を無視し、住民の居住と生活の権利を奪うものだ」という、まったくの正論を述べた。
 とはいえ法廷においては、民法上の私人(しじん)間の紛争としてしか扱われない。原告「西日本殖産」は、「住民らの不法占拠」を主張し、一方住民側は「土地所有権の時効取得」を主張した。大多数の住民は、住んでいる土地は自分のものであると思って二十年間以上暮らしてきた。これによって住民に所有権が移っているという論理構成だ。
 ところが、これを覆す証拠が原告から提出されてしまう。一九七〇年に、「日産車体」に対して住民の代表が土地の買い取り交渉を行った際に提出した要請文が出てきたのである。買う意思があった、ということは所有権を持っていないことを認めたということになるので、これによって先述の時効成立の要件が崩されてしまった。
 こうなると、法論理からは住民側敗訴となることは十分予想されたことだった。九一年と九四年の二回、和解交渉が持たれたが、金額の折り合いがつかず、妥結には至らなかった。加えて、住民のなかには「なぜ地上げ屋から土地を購入しなくてはならないのか」という気持ちが少なくなかったことも要因のひとつだった。裁判所は世論を考慮してか九六年、三度目の和解交渉を勧告した。しかし、裁判所の提示した和解案の額は十四億円。住民の支払能力の二倍であった。買取は不可能だった。そもそも平山が「日産車体」から購入した金額は三億円なのである。交渉は決裂した。
 九八年一月から、順次地裁の判決が下された。被告住民側敗訴である。当然、ウトロ住民側は控訴したが九九年中に大半の住民に高裁における敗訴判決が出た。そして二〇〇〇年十一月、最高裁が最後の住民の上告を棄却して「建物収去・土地明渡命令」判決が確定したのだった。

国連が日本政府に是正勧告

 町内会と「守る会」では、地裁での敗訴以降、司法による解決にある程度見切りをつけ、住民集会を開いて「判決確定後」をどうしていくかの討議を重ねていった。国際世論に訴えていくという路線をさらに進め、また積極的に行政の介入を求めていく方針に転換した。宇治市に対して、ウトロがたびたび被害を受けている水害対策を要請したり、水道がひかれていない家への水道敷設を求め、ウトロ地区の整備に行政を巻き込んでいく取り組みを行った。また、国土交通省所管の「密集市街地整備促進事業」の実施条件(密度、老朽化率、戸数)にウトロが適合することを調査して確認した。同事業の適用を国交省に求めていくことを検討中だ。

 ウトロでは九九年五月から四回に渡って住民参加のワークショップを実施した。住民自身がウトロをどういう地域にしていきたいかを自ら考え、その実現に向けて努力していくためである。そのなかで、ウトロ問題の解決案として「ウトロまちづくりプラン」をまとめ、二〇〇〇年八月に大規模な集会を開いて発表した。その骨子は、ウトロ地区全体を区画整理して、行政が公営住宅を建設し、またウトロのみならず地域全体に役立つ公共施設・スペースを設けるというものだ。これが実現すれば、「西日本殖産」の立場からすると行政が土地を賃貸するなり、買い上げてくれればよく、住民も公営住宅によって居住が保証されることになり、双方の利害が一致する。ただし、行政が乗ってくることが前提となる。いかに国・京都府・宇治市を動かしていくことができるかが、カギだった。
 一方、裁判では控訴審から、被告の主張に国際人権規約社会権規約に基づく「居住の権利」を追加して主張していった。これに平行して、いかに国際社会に訴えていくかが検討された。判決では、案の定「社会権規約は私人間の争いに直接適用されない」として棄却されたが、二〇〇一年八月、「守る会」からジュネーブの国連社会権規約委員会に代表を送り、日本政府(行政・司法)のこうした態度を同委員会に訴えた。日本政府は答弁に窮し、行政としてウトロ問題に取り組んでいるかのような虚偽の回答を行った。同委員会は、その総括所見の中で、日本の司法の場で社会権規約が一切参照されないことを「規約の義務に違反」していると強い表現で批判し、ホームレスを生み出しかねない「立ち退き命令」は規約の趣旨に反するとして、その他の差別問題(ホームレスの人々への強制退去の問題やアイヌ・沖縄・被差別部落への法的あるいは社会的差別など)とあわせて日本政府に是正を勧告した。しかもウトロの名が所見の中に明記されていた上、日本政府が「住民との協議を進めている」と書き込まれていた。一時逃れの答弁が裏目に出て、政府はウトロ問題への介入を「公約」してしまった形である。大きな成果であった。

強制代執行が迫っている

 二月二十四日、ウトロ地区のすぐそばにある府立城南勤労者福祉会館において、ウトロ町内会主催の「『われら、住んで闘う!』ウトロ団結集会」がもたれた。同集会には、住民・支援者合わせて二百人近くが参加した。在日本朝鮮人総連合会(総連)と在日本大韓民国民団(民団)の両民族団体の地域の幹部も駆けつけ、あいさつに立ってウトロへの支援に尽力することを表明した。
 町内会の方から、取り組みと現状の報告がなされた。昨年の国連社会権規約委員会での成果が報告される一方で、地権者たる「西日本殖産」との交渉はあるものの、思うようには進んでいないこと、行政(外務省・京都府・宇治市)の腰が重いことが報告された。裁判での敗訴が確定している以上、原告の申請があれば、「建物収去・土地明渡」は警察権力をつかって現実化されることになるのである(強制代執行)。
 上告棄却から一年以上が経過しており、時間的余裕はあとわずかと考えざるを得ない。同集会では、強制執行には抵抗すること、要求の最低限のラインとして、行き場のない高齢者と生活保護世帯のための代替住宅を求めていくことを確認した。また、そのためには行政の介入を期待するだけではなく、住民の側から基金を設けることも検討されている。
 住民からは、「裁判では歴史的経緯が全く無視された」「ウトロは水道問題など、皆で力を合わせてようやく住めるような町にしてきた。判決一つで破壊されるのはとても悔しい」「相互の人間的つながりの中で五十年間生きてきた。ここを離れて生きていくことは出来ない」などの悲痛な声が挙がっていた。

ウトロへの幅広い支援を

 二月二十六日の月例住民集会で、集会後に隣に座っていた金君子ハルモニ(74)に今の気持ちを尋ねた。
 「だれしも出て行きたくなんかあらへん。(家が)古いかてサラ(新品の意)かておんなじや。苦労して建てたもんを潰すことなんかでけへん。せやけど、もうそんなこというとれへんから……。ウトロのかたすみにでも住むとこ保障してもろたらそんでええんやわ」
 一緒に苦労してきたもの同士のコミュニティだけはなんとか、守り抜きたいということなのだ。一体それはぜいたくに過ぎる願いなのだろうか。繰り返し述べるがウトロ住民のなかには身寄りのない高齢者も少なくない。彼/彼女らこそは苦労して今のウトロを作ってきた人々である。その彼/彼女らが明日にも強制代執行によって住み慣れた住居とコミュニティを失おうとしているのである。
 ウトロ問題の本質を要約すれば以下のようになるだろう。@敗戦時、そもそも日本政府の侵略戦争・植民地支配の結果として多数の朝鮮人が日本国内にいたにも関わらず、何の補償の措置も帰国を支援することもせずに放置し、Aあまつさえ、日本政府と日本社会は戦後も差別的態度をとりつづけたが、Bこれに抗してウトロ住民は結束して、半世紀にわたって独力で生活を築いてきた。Cところが戦争に軍需産業として関わって利益をあげた企業はその責任を放棄して土地を転売し、D裁判所も民事上の土地所有権争いの裁判としてのみ扱って、国や企業の責任を不問に付し、E政府は国連社会権規約委員会の是正勧告に従う気さえもないのである。Fそして日本人大衆はこの問題に無知・無関心でありつづけた。Gその結果として理不尽にもウトロ住民は住居を失おうとしているのである。ウトロ住民に何か一つでも責任があるだろうか。あまりに不正義というほかない。
 今、サッカーのワールドカップを前にして、日韓の「親睦」がさかんに語られているが、しかしそれは商業目的以上のものではない。戦後補償の問題も解決しないで「さあ仲良くしましょう」はないのではなかろうか。ウトロ問題は、日本人大衆の「国際主義」の内容が問われている問題なのである。この事態を看過してはならない。ウトロへの幅広い支援運動を呼びかけたい。

支援等連絡先:「地上げ反対!ウトロを守る会」連絡先:宇治市伊勢田町ウトロ51  厳本方 FAX 0774―44―8500 郵便振替 01030―9―60413


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