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ドイツ突撃歩兵
Stosstruppen

〈浸透戦術〉


 1914年、第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ軍はシュリーフェン計画に則って短期決戦でフランスを降すべく、主力である右翼が、さながら回転扉が回るようにベルギーへ侵攻(これによりベルギーの中立を保障していたイギリスが参戦)し、フランス軍を包囲せんとします。これに対しフランスの第17号計画は、普仏戦争で奪われたアルザス・ロレーヌへの侵攻を図るプランであり、このため北部方面の戦線が弱体となった為、その北部から侵攻するドイツ軍を助ける計画となり、完全な失敗でした。
 9月5日、第一次マルヌの戦いが起こり、ドイツ軍は押し戻され、ここにドイツが想定した短期決戦は潰え去りました。延翼競争の結果、南はスイスから北は英仏海峡にまで両軍の塹壕線は達し、正面突破しか方法は残されていませんでした。歩兵の突撃は機関銃によって薙ぎ倒され、両軍とも、文字通り“寸土を争う”度に多大な犠牲を強いられました。
 この膠着を打破すべく、イギリス軍はソンム会戦において、塹壕突破用の新兵器『タンク(戦車)』を投入。初期の戦車は機械的信頼性が乏しく、その殆どが擱坐しましたが、ドイツ軍は大恐慌に陥りました。
 イギリス軍の、戦車による塹壕突破に対し、ドイツ軍が塹壕を突破するべく訓練されたのが突撃歩兵(シュトース・トルッペン)であり、浸透(フーテア)戦術でした。
 突撃部隊は塹壕内での近接戦闘に備え、短機関銃や手榴弾を持ち、煙幕弾やガス弾による短時間の準備砲撃の後、小グループに分けられた各部隊は、砲撃によって一時的に麻痺した防御側の各所に突入し、突破口を広げると共に通信線を遮断。銃座等の各拠点の攻略は後続に任せ(孤立した各拠点は士気を喪失して降伏する事が多く、そこからさらに多くの予備部隊を浸透させた)、突撃部隊はさらに奥深く浸透するという戦術でした。後に“砂漠の狐”と呼ばれる事になるロンメルもまた、イタリア戦線・カポレットの戦いにおいて、浸透戦術を経験した一人でした。
 各戦線において、多大な戦果を上げた浸透戦術ですが、機械化されていない当時の歩兵では限界があり、また、戦術の勝利で以て、戦略の敗北を覆す事は出来ず、ドイツ(第二帝国)は革命によって崩壊しました。が、浸透戦術は後に、戦車と機械化(もしくは自動車化)した諸兵科による電撃戦(ブリッツ・クリーク)へと昇華され、ヨーロッパを席巻する事になります。

補足

イタリア戦線=ドイツ、オーストリア=ハンガリー二重帝国と三国同盟(1882年)を結んでいたイタリアでしたが、第一次世界大戦勃発時、イタリア首相サランドラは当初、セルビアでの紛争はイタリアが同盟国側で参戦するまでも無いとして中立を宣言します。が、1861年のイタリア王国統一後も二重帝国の領土だった、トリエステやチロルといった“未回収のイタリア”を取り立てるべく、二重帝国に対し、中立と引き換えに南チロルの割譲、トリエステの自治国化等といった、二重帝国の足元を見るかのような法外な要求をする一方、イギリス、フランス、ロシアの三国協商(連合国)側と秘密裡に交渉を進めます。
 二重帝国がイタリアの要求を拒絶したのに対し(ドイツの圧力により了承するも、遅きに失した)、連合国側は、イタリアが連合国側に参戦した際の見返りとして、イタリアの要求を全てのむと約束(1915年4月26日。ロンドン秘密条約)した為、1915年5月23日、イタリアは二重帝国に宣戦布告します。

革命によって崩壊=十月革命により発足した、レーニン率いるボルシェヴィキ政権とブレスト=リトフスク条約を結んだドイツは、東部戦線の兵力を西部戦線やイタリア戦線に振り向け、大攻勢を開始しますが、攻勢限界点に達したドイツに対し、連合国側は反撃を開始(第二次マルヌの戦い)、これによりドイツ軍は押し返され、他の同盟国が相次いで降伏すると、ドイツの勝利は絶望的となりました。
 その空気が銃後にも広がると、さらなる混乱=革命を防ぐべく、参謀次長ルーデンドルフらは、自ら表舞台を退き、議会制政府を誕生させる事で、君主体制の維持と急進的な改革を防ごうとしますが、海軍は戦後の立場を確保すべく、名誉を求めた勝ち目の無い戦闘を目論み、艦隊に出撃を命じます。
 この命令に対し水兵達がキール軍港で反乱を起こすと、混乱は各地へ広がり、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命し、新宰相フォン・バーデンも自ら辞任。そして1918年11月11日、休戦条約が調印され、第一次世界大戦は終結しました。
 余談ですが、ドイツの敗北は、11月の売国奴(ボルシェヴィキ革命を回避すべく、軍部が投げ出した困難な状況を収拾した政治家達)による〈背後からのひと突き〉…未だ戦う力を残しているのに、政治家達が兵士達を欺いて休戦した事が原因であるとし、それを利用して支持を集めたのが、国家社会主義ドイツ労働者党〈Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei〉のアドルフ・ヒトラー(後のドイツ第三帝国総統)でした。尚、“ナチス(Nazis)”とは、国家社会主義者(Natinalsozialist)を蔑称した略語であるナチ(Nazi)の複数形です。