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アドルフ・ガーラント
Adolf Galland
(1912〜1996)


 ヴェルナー・メルダースに匹敵する名声と実績を持つ、ドイツ空軍撃墜王。パーソナルマークはミッキーマウス。
 1937年、ドイツ空軍義勇兵部隊(コンドル部隊)第88戦闘機隊の中隊長としてスペイン内戦に参加したガーラントでしたが、装備機が複葉戦闘機He51だった為、対地攻撃に専念する事になり、その際の有能な働きが災いして、帰国後も対地攻撃部隊に回される事になります。
 1940年4月、戦闘機部隊復帰がようやく叶い、フランス戦では17機を撃墜し、大尉に昇進します。
 少佐昇進と同時に騎士鉄十字章を拝受したガーラントは、バトル・オブ・ブリテン時にJG26航空団司令官に就任し、9月24日に40機撃墜し、柏葉騎士鉄十字章を拝受します。独ソ戦開始前には全軍を通じて初の剣付き柏葉騎士鉄十字章を拝受し中佐に昇進しますが、ガーラントの良きライバルであったメルダースが事故死すると、彼の後任として戦闘機隊総監に補される事になります。
 栄転後、功績を改めて評価され、宝剣付き柏葉騎士鉄十字章を拝受、大佐に昇進します。
 戦闘機隊総監として、本土防空等の戦闘機隊の運用、新型のジェット戦闘機Me262の実用化等に精力的に働き、大きく貢献しますが、国家元帥兼空軍総司令官であるゲーリングを始めとする、無能な空軍上層部と度々衝突。歯に衣着せぬガーラントの物言いは反感を買い、戦闘機隊総監職を罷免されます。が、この事を知ったパイロット達は結束してガーラントを擁護し、ゲーリングを弾劾します。ヒトラーの取り成しもあり、Me262を装備する第44戦闘団(JV44)の隊長に任じられますが、これは体の良い“死に場所”でした。ですが、ガーラントが、自身と同じ境遇のシュタインホフ、リュッツォーらに声を掛けて編制されたJV44は、キラ星の如き超エースが揃った精鋭部隊となり、ガーラントは現役中将の中隊長してMe262を駆り、本土防空を戦う事になります。
 JV44は終戦までの1ヶ月で、50機を撃墜(ガーラントは7機撃墜)しますが、衆寡敵せず、次第に損害が増し、4月下旬、ガーラントも負傷し、そのままドイツ敗戦を迎えます。
 戦後、アルゼンチン空軍の軍事顧問となり、西ドイツ帰国後は新生ドイツ空軍と関わる事無く、『始まりと終わり』を執筆。出撃回数705回、最終スコアは103機という、将官としては空前絶後の記録でした。

補足
スペイン内戦=社会混乱が続き、人民戦線政府に対する反感から、1936年7月18日に勃発した反乱がきっかけとなり、スペイン全土に広がった内戦。反乱軍最高指導者はフランシス・フランコ将軍。
 政府軍、反乱軍共に外国へ支援を要請(政府側:米、仏、ソ。反乱側:独、伊)し、列強各国が新兵器を投入し、多くの戦訓を得ると云う、一種の実戦テスト場と化した。1939年4月1日、フランコ側の勝利で内戦終結。

Me262=試作機に試乗したガーラントはMe262の本質を見抜き、戦闘機としての実用化を目指しますが、ヒトラーはこれを爆撃機として生産する事を命じ、戦闘機としての生産を禁止します。秘密保持の為、高度4,000m以下での作戦行動を禁止した為に命中率は低く、機体自体が爆撃型に向いていない事、敵爆撃機による損害が増した事で、それを迎撃する戦闘機型“シュヴァルベ”の生産が認められました。これは世界初の実用ジェット戦闘機であり、“シュトルムフォーゲル”は世界初のジェット戦闘爆撃機となります。

第44戦闘団(JV44)=ヒトラーにより、Me262の真価を示すよう命じられたガーラントが編成した部隊。人選権を持つガーラントにより、先のゲーリング弾劾で左遷されたシュタインホフ(178機撃墜)やリュッツォー(110機撃墜)、独空軍(世界)第2位の撃墜王バルクホルン(301機撃墜)等、他にも騎士鉄十字章拝受者が揃った、超エース集団となりました。なお、独空軍(世界)第1位であるハルトマン(352機撃墜)も誘われたのですが、彼はこれを固辞し、古巣のJG52で戦い続けました。

次第に損害が増し=4月18日、シュタインホフ負傷(エンジン不調による離陸事故)。24日、リュッツォー行方不明(戦死と認定)。ガーラント自身も26日に負傷・入院。JV44最後の隊長はベーア(221機撃墜)で、Me262による16機撃墜はジェット機エースとしては第1位。