駒の話〜その1  将棋トップへ
 駒の話〜その2

 駒の話〜その1をUPし、その2を四半分ほど書いたところで将棋世界誌を購入、 中を見れば駒の特集が載っているではないか!全面的に書きなおす必要は無かったが、 番太郎駒の継承者である伊藤太郎氏が仁寿の号も使っているとは知らなかった。 良い駒とはどんな駒であろうか。値段が高ければ良い駒なのだろうか。将棋世界誌も参考にしながら、 常日頃抱いている駒への思いを書き連ねてみたい。
 
<<駒の評価>>
 
 駒の材料としては木が最も一般的であるが、プラスチック製の駒やそれに磁石の付いた駒などもある。 特殊なものとしては象牙や堆漆の駒も見られるが、 これらは実用性よりもコレクションの対象と言うべきかも知れない。 木製の駒でも、紫檀や黒檀の駒などは同類の駒とみなして良いだろう。 パソコン画面に現れる駒は最も特殊な駒かもしれないが、 これらについては今回は触れないこととする。
 木製の駒は使われている木の種類と、仕上げの方法とによって価格に差が生じてくる。 一般的には印刷駒・書き駒・彫り駒・彫り埋め駒・盛り上げ駒の順に高級となっていくと解釈されているが、 価格と駒の良し悪しとは別物と私は思っている。
 
 私が子供の頃(昭和30年代)には印刷駒が主流であり、彫り駒なんて見たこともなかった。 価格的にも5円・10円といった駒があったと記憶しており、 当時の子供の小遣いでもそれ程の負担とはならなかった。 駒と言えば誰しも五角形を思い浮かべるだろうが、これらの駒は台形もしくは長方形であった。 形も不揃いであり、材料の木材も白太の部分を使っているようで、 周囲は切り落としたままでざらざらな駒も多かった。それでも子供にとっては大切な道具であり、 このような安価な製品が無かったなら、あるいは将棋を覚えていなかったかもしれない。 安い駒とは言え貧乏な時代であったから、そう度々買い換えることなんて出来なかった。 歩の駒が無くなればあまり使わない端歩を1円玉に代え、 金将が無くなれば歩と区別するために10円玉で代用した。 こんな思い出のある年配者は多いのではないだろうか。 普及品は普及品なりに、立派にその役目を果たしていたと思うのである。
 
 順番とすれば次は書き駒になるが、その多くは普及品として出回っている。 書き駒の書体には楷書体と草書体とがあるようだが、 草書体である番太郎駒の書体は兜を表していると言われており、 他の書き駒とは別物と考えるべきだと思っている。 確かに書き駒は他の駒に比べて制作の工数は少ない。それ故に軽い評価を受けがちであるが、 粘性の大きな漆で書き込むので相応の技量が無ければ書くことは出来ない。 もう十年以上前のことになるが天童を訪れた際、 番太郎駒を書くことが出来るのは伊藤太郎氏一人だけと言う話を聞いたことがある。 その時には後継者も無いと言う説明だったから、番太郎駒の制作は途絶えてしまう可能性もある。
 
 右の写真は番太郎駒の角(右)と銀だが、見慣れないと区別がつきにくい。 この駒は咲き分け番太郎と呼ばれて深緑色と朱で書かれているが、黒と朱で書かれた駒もあり、 何れも裏面は朱である。咲き分け番太郎は装飾品として喜ばれているとの説明で、 額の中に並べられている製品も多数あった。確かに慣れないと指しにくいので、 額にして飾っておくのも一興かもしれない。
 私が持っている番太郎駒は明らかにナタ切りで作られた駒であり、大きさは厳密には一致していないし、 文字面の仕上げもそれ程丁寧なものではない。 しかし私は番太郎にはナタ切りの駒木地が似合っていると思う。 自由奔放な荒々しい書体には、お上品に仕上げられた機械製材の木地よりも、 野性味が残っているナタ切りの木地がふさわしい。
 ナタ切りの手法も、後継者が居ないと聞いている。一度横浜の百貨店で実演を見たことがあるが、 5角形の駒型だけでなく、厚さもナタ一つで調整しているのには驚いた。 堅いつげの木をいとも簡単に切っていくのだが、正確に切っていく技量と共に、 使用している道具にも興味を引かれた。 ナタに使われている鋼材がどのようなものかは知らないが、 名刀と称される日本刀よりも良質な素材が必要なのではないだろうか。
 
 次は彫り駒であるが、銘のある書体を彫りこんだ高級品から、 とても文字とは言えないような普及品まで幅広く存在する。 右の写真は並彫り(黒彫りと言う名前を聞いたこともある)と呼ばれている駒であるが、 歩兵はどう見ても「T三」であり、香車も将棋を知っているからこそ香車と判断できるが、 単独で出されたらとても読めたものではない。成り駒になるともっと深刻で、銀と桂馬、 あるいは飛車と角の駒を取り上げ、表を見て駒の確認する光景はしばしば目撃される。
 漢字圏外の国への普及を考えた場合、立派な銘の入った高級品よりも、 むしろこの並彫り駒の方が覚え易いのではないだろうか。 文字として覚えようとすれば大変かもしれないが、並彫りなら単なる記号としてみれば良いのだから。 駒の大きさも更に顕著にすれば、文字が読めなくても駒の識別は容易になるものと思われる。
 天童を舞台にしたテレビ番組「水戸黄門」(再放送)の中で、この並彫りの駒が使用されていたが、 当時はこの書体はなかったはずである。また、現在と同じように字母紙を貼って駒を彫っていたが、 これも当時は行われているはずはない。駒の制作にしても、いとも簡単に仕上がってしまったが、 限られた時間内に物語を収束しなければならないので、 まあ駒作りの過程を紹介してくれたことに感謝しておこうか。
 彫り駒は中彫り、上彫りと価格が上がるにつれて彫る文字の画数も増え、より文字らしくなっていく。 彫るのに要した工数が、そのまま価格に反映されていると思って良いだろう。 塗り込む塗料は明記されていないが、 つげ材を使用した駒を除いてカシュー塗料が使われているのではないだろうか。
 彫り埋め駒も盛り上げ駒も「彫り」の作業はあるわけだが、彫り駒はそれらの駒への通過点ではない。 彫り駒には彫り駒の良さがあり、立派に彫れた駒の場合には、 むしろその彫り跡を埋めてしまう気にはなれないのではないだろうか。 アマチュアの作品であるが、漆を塗らずに彫り跡をそのままにして展示した作品を見たことがある。 作者とすれば、やはりその彫り跡を見てもらいたかったのだろう。 盛り上げ駒がいい加減な彫りをしているとは言わないが、彫り駒の価値も再認識して欲しいのである。
 彫り駒の欠点としては、やはり彫り跡にごみ等がたまり易いことであろうか。 しかしこの問題もきちんと手入れをしていれば大きな問題とはならないであろう。
 
 次は彫り埋め駒であるが、制作される数は最も少ないようである。 その原因としては、もう少し手を加えて盛り上げ駒にすれば、格段に価格が上がるためと考えられる。 駒師にすれば高く売れた方が良い訳だし、消費者にすれば彫り駒は持っているので次は盛り上げを、 という思いが強いのかもしれない。変なたとえだが、彫り埋めは盛り上げと言う終着駅への途中下車、 と言う印象を持たれているのではあるまいか。
 私は彫り埋め駒が一番好きである。彫り駒も盛り上げ駒も持っているが、 実際に指してみて彫り埋めが一番指し易いのである。つまみ上げた時の指の感触、 盤上に降ろした時の感触、表面が平滑な彫り埋めならではの指し心地なのだ。 勿論見た目にも優雅で美しい。つげの木地と面一になった文字は、彫り駒や盛り上げ駒の文字のように、 己が駒であることを主張することがない。まるで生まれた時から木地と文字とが一体になっている、 そのような印象を受けるのが彫り埋め駒なのだ。質素でありながら気品の漂う文字からは、 どうして私の上に漆を盛り上げなければいけないの、と言っているようにも感じられるのだ。
 彫り埋め駒の場合、その彫り跡が表面にくっきりと現れる。 それ故に彫りの良し悪しがそのまま彫り埋め駒の評価へと直結する。彫り駒の時にも述べたが、 十分に満足の行く彫り埋め駒が完成した時、駒師は盛り上げ駒へと手を進めるであろうか。 私としてはそのような作業はやって欲しくない。秀逸の彫り埋め駒が出来たなら、 どんなに盛り上げに自信のある駒師であっても、彫り埋めのまま残して欲しいのである。 たとえそれが盛り上げの受注品であったとしても、これだけの彫り埋め駒は二度と作れないとして、 盛り上げを断るくらいの気構えが欲しいと思う。 それでも盛り上げにしろと言う人間は駒を見る目がないのだから、 てめえなんかに渡す駒はありゃあしねえ、と追い払ってしまえば良いのだ。 こうした職人気質は現在では廃れているかもしれないが・・・
 
 ちょっと彫り埋め駒の肩を持ち過ぎたかもしれないが、決して盛り上げを軽視している訳ではない。 確かに見事に盛り上げられた駒は、最高級品の貫禄を備えている。それでもあまり好きになれないのは、 どうして盛り上げるの?と言う疑問が常に頭の片隅に残っているからである。
 書き駒も盛り上げ駒も、外観上はどちらも駒面に膨らみのある文字が書かれており、 違いは見られない。だが書体を見れば、あるいは駒木地を見れば一目で判別出来る。 番太郎の書体で盛り上げ駒を作ることは可能であるが、それは粋狂で作られたに過ぎない駒であろう。 最高級品と位置付けられたゆえに、並の書体は使えなくなったとも言えよう。
 良い盛り上げ駒とはどんな駒であろうか。盛り上げの技術のみで判断されたのでは、 彫りの技術が全く無視されてしまうので、不満のある人は多いだろう。彫り埋めまでの工程と、 盛り上げ工程の技量が一致するとは限らないのが、現実ではないだろうか。 今は故人となった作家の駒であるが、文字の一部が剥離した駒を見たことがある。 そして下から現れた文字跡は、盛り上げの駒よりも幾分か細めの文字となっていた。 盛り上げ作業を行う際は、彫り埋めの文字跡よりも細くすることは出来ない。 文字跡に完全に一致するように盛り上げるには高度な技術を要するので、 彫り埋めの工程までは細めの文字で仕上げておき、 得意の盛り上げの技術でもって彫りの不備をカバーしていたのかもしれない。 将棋世界誌で紹介されていた駒の場合には、彫り埋め駒としても立派な出来栄えであるので、 このような駒なら盛り上げでも安心して購入することが出来る。
 盛り上げ駒は使い込むに連れて、使用頻度に応じて駒の裏面の文字が磨耗して行くことになる。 とは言っても個人的に使っている場合、磨耗が目立つほどの対局をこなす人は殆どいないかもしれない。 しかし何代かに亘って使い続ければ、文字が磨り減って彫り埋めとなってしまう駒と、 玉や金のように新品のままの駒とが混在することになる。 磨り減った駒は再び盛り上げることも可能であるが、 このことは盛り上げ駒の欠点であることには違いない。
 
 最後に再び問う。良い駒とはどんな駒であろうか?
 駒をコレクションとして保有するのであれば、珍しくかつ美しい木地の駒が最良であろう。 勿論書体も多岐に亘っていた方が良い。駒を投機の対象(そのような市場があるかどうかはしらないが) とするのであれば、あるいは自慢話の種にしたいのであれば、著名な作家の作品でなければならない。 将棋道場で使用するのであれば、丈夫で長持ちで手入れがしやすく、見易い駒で安価なら最高であろう。
 一般的に多数の製品を揃えた場合、個体差が少ない方が良品とされている。駒の場合でも、 駒の大きさや形状だけでなく、文字までもがぴったりと一致している方が良いとされている。 大量生産が得意な工業製品の場合にはそうかもしれないが、手作り製品の場合も同様なのであろうか。 私はそうは思わない。全く違った書体に見えるような仕上がりでは困るが、 それぞれの駒がほんの僅かな違いを持っていた方が、 人間の目にはかえって優しく感じられるのではないだろうか。人間の顔は左右非対称なのだそうである。 これを左右対称な顔に作り変えると、なんとなく違和感を覚えるのだそうである。 人間とは微妙なもので、意識に残らない程度の違いがあった方が良いのかもしれない。
 素材で選ぶのも良い。作者で選ぶのも良い。要は自分が気に入った駒で、経済的な負担もなく、 何時でも気軽に使える駒であることが、最良の駒と言えるのではないだろうか。 他人にとっては平凡な駒であっても、自分にとって大切な駒であれば良いのだ。 盛り上げ駒は大将、彫り駒は中佐、書き駒は少尉、 まるで軍人将棋の駒でもあるかのように序列を付けることなんて出来ないはずである。 現実問題として、価格と駒の評価とはある程度比例するであろうし、市場価値はその通りかもしれない。 しかし個人にとっての価値というものは、市場価値とは異なって当然なのである。

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