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 野風の笛/レヴュー誕生(8月24日東宝劇場)  
 この公演での一番の興味は、やはり専科の轟さんと、組トップの春野さんの立場がどう
なっているかであった。しかし余計な心配は無用と言う感じで、2人とも自分の持ち味を
出して好演であったと言える。轟さんの日本物は雪組時代から定評があるが(個人的には
闇太郎の印象が強い)、この作品でも自然体で演じられていた。
 全体の印象としては、今回も脚本の貧弱さが感じられた。私が初めて観た宝塚の舞台は
雪組の「風と共に去りぬ」であるが、この作品を観た後で原作本を読んでみようと言う気
になった。しかし今回の作品を観ても、とても原作を読もうと言う気は起こらなかった。
小説でも戯曲でも、発想は自由であって良い。必ずしも史実に沿った物である必要はない
のだが、その時代背景と言うものを無視してしまっては、軽薄で腰の据わらない作品にな
ってしまうのではないだろうか。
 実際には家康自身が秀頼の抹殺を計画し、将軍職を秀忠に譲った後も全権力を手中にし
ていた。そんな状況下での秀忠による家康暗殺計画と言うのは、発想としては面白いかも
しれない。その10数年前までは、親殺し・子殺しは特別に珍しいことでもなかったのだ
から。しかし家康と言えば、服部半蔵を始めとする伊賀者の存在を無視することは出来な
い。本能寺の変以来、家康の貴重な戦力として密接な結びつきがあり、それは柳生の比で
はない。柳生を秀忠の手先として登場させていながら、伊賀者の存在を無視してしまった
のでは話に締りがなくなる。傀儡師の集団やキリシタンの集団移住と言うのも、何だか訳
が分からないと言う印象を受けた。
 原作はかなりの長編のようだが、作者は何を言いたかったのかが伝わってこなかった。
舞台でも大きな山場と言うものが無かったが(あえて言えば秀忠への主水正の諫言シーン
くらいか)、これも観終えた後の印象の薄さに繋がっているといえよう。また、専科の3
人の印象が薄かったのも気になった。家康も政宗も重要な役柄なのだが、重みと言うもの
が感じられなかったのだ。星組の「王家に捧ぐ歌」では、2人の国王は圧倒的な存在感を
持っていた。今回出演した3人とも、実力的には星組での2人に比べて遜色はない。にも
かかわらず存在感が薄かったのは、やはり脚本に原因があると言わざるを得ない。
 今度もまたか、と思ったのは娘役の出番が殆ど無いことである。五郎八姫にしても存在
感が今ひとつ薄いし、他にめぼしい役と言えば茶阿の局くらいしかいない。谷氏もベテラ
ンの域に入っているであろうから、原作に囚われずにもっと自由に発想を膨らませて欲し
かった。時代物の作品はどうしても男主体となってしまうのはやむを得ないが、工夫次第
で娘役の出番も増やせるはずだと思う。
 チャンバラに関しては、これまた「時代」と言うものを感じられなかった。慶長年間は
まだ戦国の名残が残っており、江戸中期以降のようなのほほんとした時代ではない。刀を
振り回して斬り合いをするにしても、鎧を装着しての戦闘を前提としており、後の道場剣
法とは全く異なる。ちょん髷を付けたら何時の時代でも同じ、ではないのである。主水正
の鎧姿は桃太郎のようであったが、この鎧も時代にそぐわない。こうした間違いはちょっ
と気を付けていれば訂正できるので、各係共もっと責任感を持って欲しい。
 松平忠輝に関しては、詳しいことは知らない。しかし円熟期に達している家康ほどの者
が、悪相だからと言って赤子を捨てろと言うとは思われない。記録がどうなっているかは
知らないが、記録と言うものはしばしば事実とは異なっている(あるいは事実の方が少な
いかもしれない)ものであり、これは現在でも例外ではない。ただし長男信康の二の舞を
踏まないように、予め遠ざけておいたと言うことは考えられる。秀吉は信長ほど異常な性
格ではないが、それでも晩年になると尋常でない行動が見られるようになっている。忠輝
を遠ざけることによって事前に難を避け、機会が訪れたら呼び戻して戦力とする、と言う
家康らしい遠謀な計画であったのかもしれない。

 ショーに関しては、やはり印象が薄かった。マンネリ気味に陥っていると言うことであ
ろうか。ショーでも優れた作品であれば再演の要望があるものだが、最近のショーではそ
のような作品が出現していない気がする。芝居以上に個人を追いかけて観るような舞台に
なっているのではないだろうか。
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