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 武士の一分

 檀ちゃんにとって初めての映画出演であるが、 製作前から何かと話題になった作品でもある。 映画の完成に伴って各種メディアで急速に紹介される機会が増えたが、 宝塚を知らない人にも顔と名前を覚えて貰うことが出来、 檀ちゃんにとっては幸運な映画デビューであったと言うことが出来るだろう。
 宝塚の舞台はミュージカルが主体となっているが、 一般的な映画では歌や踊りが盛り込まれることはない。 したがって檀ちゃんにとっては外部出演の「極楽町一丁目」同様、 思う存分に実力を発揮出来たことと思われる。 勿論舞台と映画とでは異なる点も多いだろうが、 基礎がしっかりしていれば容易に対処出来るのではないだろうか。 実際映画を見ていても、上手いなあ、と思わせる場面が多々あった。 監督の指導やカメラマンの技量も大きく影響しているだろうけれど、 やはり本人の演技がしっかりしていなければ冴えない映像となってしまうだろう。 特に舞台とは大きく異なる点として顔のアップシーンが挙げられるが、 しっかりとした目の動きで感情がよく表れていた。
 木村拓哉氏に関しては詳しいことは知らないのだが、 若い人にしては侍姿が様になっていたと思う。 特に正座して食事する姿には清々しいものを感じたが、 その反面様式美に走り過ぎてしまった感も否めない。 おそらく監督の意向によるものと思われるが、 檀ちゃん共々下級武士の生活を逸脱していたように思えた。 勿論下級武士にあってもこのような人間もいたであろうが、 普段の生活ではもっと力を抜いていた方が自然で良かったのではないかと思う。
 
 この映画の年代が江戸時代であることは分かるのだが、 一口に江戸時代と言っても年代によって武士階級の生活もかなり異なっていたはずである。 私が見逃したのでなければ、 年代に加えて藩の場所も石高も表示されていなかったと記憶している。 あるいはこれも監督の方針なのかもしれないが、 やはりこうした背景は明確にしておくべきであろう。
 ストーリーでまず気になったのは、毒見役が5人も存在しているということである。 その後の展開によれば職務は毒見だけのようだが、 余程の大藩であってもそれ程の余裕があったのかと言う疑問が残る。 毒見役そのものについても何時頃まで存在したのか、 あるいはどの程度の規模の藩ならば役職として置いていたのか、 ネット上で検索してみたが分からなかった。 江戸時代も初期を除けば他藩との戦はありえないから、 毒見役が必要であるとすれば内部の人間に対してと言うことになる。 果たして毒見役が必要な藩はどれくらいあったのだろうか。 また、食事が安全であるかどうかの確認は、 毒見役が口にしてからある程度の時間が経過してからでなければ判断出来ない。 将軍等は熱いものを食べたことが無いので猫舌だったとも言われているが、 これは毒見をしてから将軍が口にするまでの時間が長いことを物語っている。
 物語は主人公の失明により失業の危機へと進展していくが、 日頃の嘆きのように職務が毒見だけなのであれば、 目が見えなくても任務を全うすることが出来る。 にも拘らずそれによって禄を失ってしまうのであれば、 藩主は家臣の信頼を失ってしまうのではないだろうか。 戦場における負傷とは性格が異なるものであるが、 忠義を無視してしまったのでは藩主の資格はない。 また、たとえ藩主が家禄没収を指示したとしても、 家臣が有能であればそれを押し留めることも出来る。 封建制と言うと独裁政治を思い浮かべる人もいるかもしれないが、 実際には家臣の意見も大幅に取り入れられていたようであり、 むしろ現在の政党独裁の方が独裁色は強いと言えるのかもしれない。 最終的には藩主の裁量により家禄据置きとなっているが、 これが妥当な結果であると言えるだろう。
 
 もう一つの主題である盲目での果し合いは、 やはりどうしても「座頭市」の影響が強いと思わざるを得ない。 映画は非現実の世界と言ってしまえばそれまでだが、 それを主題とした作品ではないはずである。
 もしも実際に盲目の人間が目明きの人間と対決するとしたら、 どのような作戦を取るであろうか。 交戦距離と言うものはあらゆる戦闘において重要なものであるが、 交戦距離が長くなるほど盲目の人間にとって不利な状況となる。 最も交戦距離が短いのは取っ組み合いであり、 それこそが唯一の勝機であると言って良いだろう。 映画の中でも一度だけその機会があったが、 取っ組み合いで勝敗が決したのではあまりにも現実的に過ぎ、 主人公のイメージが壊れてしまうことになりかねないので、 映画としては見栄えのする斬り合いとせざるをえないのかもしれない。 なお闇夜や濃霧であればかえって盲目の方が有利になるが、 そのような条件下では目明きの人間が戦いを避けるであろう。
 実在した果し合いで有名なものとしては宮本武蔵が挙げられるが、 武蔵の場合には決戦の前に自分に有利な条件を整えたと言われている。 また、鍵屋の辻における荒木又右衛門は優勢な敵勢に対し、 奇襲攻撃により戦局を有利に進めている。 真剣での果し合いなら両者とも命を賭けて戦いに臨むはずであるから、 具足で身を固めることも無く戦うと言うのは、 過去からの時代「劇」の慣習なのであろうか。 因みに忠臣蔵の討ち入りに際しての赤穂浪士は、 火消し装束に入手が可能であった具足を装備していたようである。 目明きの島田の場合には慢心と言うことで説明が可能であるが、 盲目の三村の場合には敵を油断させるためと言うことなのであろうか。
 戦闘の結果は島田が左腕を切られて終了となっているが、 怪我の詳細は分からないはずの盲目の三村が、 止めを刺さずに立ち去ってしまうと言うのも不自然である。 映像からは腕が垂れ下がっているように見受けられたので、 骨まで断ち切ることで島田の戦力は無くなったと言う設定なのかもしれない。 しかし切られた島田は自力で屋敷まで帰っているのだから、 大量出血に至るような負傷はしていないと言うことになる。 それでも現代社会ならば大怪我と言うことになるのだろうが、 戦国の世であればその程度の負傷では直ちに戦力の喪失とはなり得ない。 江戸も太平の世となって武士も実戦から遠ざかり、 単なる階級としての武士と言うことならば納得も出来るが・・・ 島田の免許皆伝と言うのも単なる道場剣法の範囲内のものに過ぎず、 実戦を前提とした戦国武士とは大きく異なっていると言うことになるのだろう。
 
 撮影に当たってはCG等の最新技術は殆ど使っていないようであるが、 この方針は適切であったと思う。 気が付いたところでは蛍と揚羽蝶がCGで作られていたが、 蛍の方は一応見られるものの、 揚羽蝶は完全に失敗であったと言えよう。 撮影時期の関係で実写が出来なかったのであろうが、 映像を借りて合成すると言う方法も有効ではなかったかと思われる。
 映画館で映画を見たのは久し振りのことであるが、 舞台同様どうしても脚本に目が行ってしまう。 しかし映画とは非現実的な世界を見せるのが目的であると言えないことも無いから、 たとえ非現実的な描写があったとしても、 それを無視して楽しむのが現実的な見方なのかもしれない。
 何はともあれ、檀ちゃんの初出演作としては成功であると言えよう。 あと一回くらいは見に行くことにしよう。
 

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