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 花舞う長安/ロマンチカ宝塚(8月4日博多座)

1)花舞う長安
 楊貴妃と玄宗皇帝を描いた期待の作品であっただけに、 脚本には相当不満の残る仕上がりであった。 物語の概要については多くの人が知っている話であるが故に、 脚本家がかなり手を抜いたな、という印象が拭い切れないのである。
 
 この話は元々は史実に基いたものであるから、 ある程度は史実に沿って展開する必要があるだろう。 そして特別な創作を加えなくても、十分に見応えのある作品に出来るはずである。 大まかな展開としては、先ずは二人の出会いがあり、 それまで善政を行っていた玄宗皇帝が楊貴妃に溺れ、 政務が乱れたために反乱が起こり、それを鎮めるために楊貴妃が命を絶つ、 となるのが一般的であろう。
 第一景は導入部であるので、このような入り方でも問題はない。 第二景は中宗毒殺の形を変えたものであるが、直ちに玄宗の即位とはせず、 あくまでも父親である睿宗から帝位を譲り受けたことを示しておくべきであろう。 それによって玄宗の人間性の一端が垣間見られ、 更に史実通りに玄宗皇帝が善政を実施していることを紹介しておくことにより、 玄宗の人物像が浮き上がって来ることになる。 この人物像が曖昧なままであっては、 最後の楊貴妃の死が持つ意味も希薄なものとなってしまう。
 楊一族にしても、単に玄宗から宝物を受け取っただけでは、 民衆の憎悪の対象となった理由としては弱過ぎる。 楊一族の横暴が安禄山の乱を引き起こしたと民衆が感じていたからこそ、 楊貴妃を含む楊一族の滅亡で兵も民衆が納得するのだから。 そして玄宗に善政の実績があったこともまた、 楊貴妃の死をもって民衆の納得へと繋がるのである。 もし玄宗が単に皇帝の位を継いだだけならば、 兵も民衆も玄宗が生きている限り反乱を続けていたことであろう。 善政への希望が持てない訳であるから。
 十四景の泥酔場面も?マークである。 ここも史実通りに楊貴妃の里帰りから髪切り、 そして玄宗の寵愛が更に深まる様子を描いた方が強力で分かり易い。 同じ創作であっても十二景の清明節の祭りの方は苦にならない。 何やら水戸黄門を思い出させないこともないが、 楊貴妃と玄宗の楽しい一時を象徴していると見れば良いだろう。
 楊貴妃と安禄山の関係については、非常に難しいものがある。 あまり史実に拘っていては宝塚的では無くなってしまうが、 楊貴妃に殴られただけで反乱に走るのでは理由が弱過ぎる。 と言って安禄山の遠謀な計画を逐一追っていたのでは、 2本立てでは時間が足りなくなってしまう。 本来ならば1本物として上演すべき内容を持った物語なので、 ある程度の省略は止むを得ないのかもしれない。
 二十景の戦闘場面はやはり不要。 敢て取り入れるのであれば、京劇のように剣舞としてしまった方が良い。 生の舞台においてはどのように頑張ってみても、 実際の戦闘とは程遠いものとなってしまう。 1対1の決闘場面ならともかく、集団の戦闘をそれらしく表現することはできない。 2本立てで時間が限られているのだから、 もっと有効な場面に時間を割くべきであろう。
 最後に楊貴妃が死ぬ場面は最大の山場であるだけに、 もっと時間を取って肌理細かく表現すべきであろう。 楊貴妃が出て来るなり「はい、死にます」では、あまりにも安直過ぎる。 ここでは二人だけの場面を作り、互いの愛情と苦悩とを表現すべきであった。 照明を落として周囲を暗くし、二人にスポットライトを当てるだけの行為であっても、 印象は全く異なったものとなったであろう。
 プログラムの中で脚本の酒井氏は事件が少ないと述べているが、 その気になれば1本立てとしても時間が足りないくらいの要素を持っている。 勿論創作部分を多用する必要は全くない。 史実に拘らずに宝塚的な作品に仕上げたと言うことであるが、 やはり作品として見るよりも、個人を追ってしまうことになりそうな作品である。
 
 楊貴妃の檀れいさんに関しては、やはり中国系の化粧はぴったりの感じであった。 日本物の白塗りとは異なり、京劇ほど極端な化粧でもなく、 ほんのりと京劇の香を漂わせる化粧は檀ちゃんに相応しいものである。 幕間のロビーで中国に電話している若い女性を見かけたが、 中国人の目から見ても惹かれるものがあったに違いない。
 楊貴妃の心情の変化に関して言えば、必ずしも満足出来るものではなかった。 玄宗との最初の出会いから死ぬまでに16年の歳月が流れており、 その立場も大きく変っている。 寿王の元から連れ去られる時は非常に良かったのだが、 楊貴妃となってからはどの時代でも同じ様に見えてしまった。 まだ舞台は始まったばかりなので、上演を重ねた上での役作りに期待したい。 複雑な心境の変化も表現できる人だけに、 敢て難しい課題を克服して欲しいと思っている。
 玄宗皇帝の湖月さんは、ラダメス将軍に比べると迫力に欠けた。 楊貴妃との関係は上手くいっていたと思うのだが、 やはり皇帝としての威厳は絶対に必要なものである。 宝塚の舞台なので実年令よりも若く設定するのは差し支えないのだが、 迫力に欠ける理由の一つとして、ひげの存在が重要な要素であるのかもしれない。 バトラーのひげでも最初は反対論が多かったようであるから、 玄宗が鯰ひげを蓄えたままではファンの反発を招くと考えたのであろうか。
 安禄山の大和さんも迫力に欠けた。 大和さんは本来良いものを持っているし、演技自体も確実に進歩していると思う。 しかしこの人は、根本的に悪役には向かない人なのかもしれない。 今までにも悪役は何度か演じているが、何れも本当の悪とは見えないのである。 楊貴妃と玄宗が出てくると、どうしても京劇の舞台を連想してしまう。 宝塚的に隈取もひげもない端正な顔立ちでは、 標高の低い安禄"山"ならぬ安禄"丘"に見えてしまうのかもしれない。
 楊国忠もまた隈取とひげが無いせいか、悪役としての迫力に欠けた。 陳玄礼及び他の将軍と共に同じ衣装での出演であったが、 両名とも今回は個性が現れていない印象を受けた。 楊国忠に関しては脚本自体でそれほどの悪役には仕立てていないので、 なおさら目立たない存在となってしまったのかもしれない。 この先中国の歴史物を上演するに当たっては、 ひげの問題は大きな課題となるのではないだろうか。 宝塚は様式美を優先させる、と言ってしまえばそれまでだが・・・
 梅妃の陽月さんは、気の強い所は良く出ていたと思うが、 それが気品の高いことへと繋がらず、一本調子となってしまったのが気になった。 脚本上の梅妃の描き方自体にも問題は残るのであるが・・・
 叶千佳さんの芳楽公主は、持前の童顔が災いしてしまったようである。 ふっくらとした顔立ちは止むを得ないが、 化粧を工夫することによってもっと道士らしい雰囲気を出せたはずである。 こちらも今後の舞台での変化に期待したい。 可愛らしい道士も宝塚的であり、それはそれで良いのだが・・・
 
2)ロマンチカ宝塚
 今回の公演ではどうしても楊貴妃に目が行ってしまいがちであるが、 ショーの方は思わぬ拾い物をしたと言う感じであった。
 ショーでの一番の見所は、矢代鴻さんであると言って良いかもしれない。 専科の方がショーだけに出演するのは珍しい(春日野・松本両人を除き)のかもしれないが、 このような使い方は今後も継続すべきである。 矢代さんは"歌の人"に属するのかもしれないが、 今回は芝居がかったショーの部分で上手く使われていた。 星原さん共々フィナーレまで活躍していたが、たとえ芝居だけの出演の場合でも、 フィナーレには出演できるように工夫して欲しいものである。
 
 檀ちゃんに関しては、第2場の黒いドレスが印象的であった。 衣装そのものも大人の雰囲気を持っていたが、 ここでは檀ちゃんの表情に注目すべきである。 長いスリットから覗かせる白い脚とはおさらばし、 是非とも高倍率の双眼鏡で表情に注目してもらいたい。 今までの檀ちゃんには見られなかった妖しげな表情であり、 新しい『檀れい』を発見した思いであった。
 宝塚の娘役は男役を引立たせる使命(?)を持っているためか、 清純さを要求される場合が多いようである。 それ故にトップ娘役には"妖艶さ"を備えた人は見受けられないような気がする。 稀代の器である花總さんに唯一欠けるものはこの"妖艶さ"であり、 カルメンにおいてもこれだけが満足できないものであった。 古い時代のことは良く知らないのだが、 歴代のトップ娘役のなかでも"妖艶さ"を備えた人は稀な存在ではないだろうか。 ショーで発見した檀ちゃんの一面であるが、 この"妖艶さ"を生かした芝居が上演されれば申し分ないと思うのだが・・・
 1場でゴンドラに乗って降りてくる場面では、 博多座の3階席後部からは顔が隠れて見えなかった。 大劇場では問題ないと思うが、東宝のB席・立見席では見えないだろうと思われる。 もっと下まで下ろしてから止めても問題はないので、 演出家も実際に劇場に足を運んで確認しておくべきである。
 フィナーレでは黒いドレスであったが、これには違和感を覚えた。 黒とは言ってもラメ入りのドレスで豪華ではあるのだが、 フィナーレの衣装としては相応しく無い気がするのである。 やはり宝塚のフィナーレは華やかにいきたいので、 無彩色の世界は避けたいものである。
 
 ショーの中で目立ったのは、 やはり陽気な「フリクニフリクラ」の曲に乗った第4場であろう。 宝塚のショーにおいて音楽の存在は大きなものがあり、 その優劣はショーの仕上がりにも大きく影響する。 本来は山の歌である「フリクニフリクラ」を海の場面に適用したのも面白いが、 要は曲の良し悪しに直結していると言うことであろうか。 何せ元来がCMソングなのだから、 ショーにはもってこいの曲であるかもしれない。
 宝塚のショーとしては長時間に亘る場であったが、 この作品では全体的に場の数が少なくなっている。 個人的な意見としてはこの方が好きであり、 場面転換が減る分だけスピード感が増すはずである。 人数が少ないので出演者は大変だったかもしれないが、 人数が増える大劇場では更に迫力のあるものになることを期待している。
 娘役の赤いセーラー服を交えてのラインダンスも面白かったが、 唯一難点を挙げるとすれば、船のセットが貧弱であったことである。 船員の服装からすれば汽船時代に入っているはずであるが、 両側のシュラウド(網状の縄梯子)は帆船時代の名残であり、汽船には不要なものである。 舵輪も反対側に付けられていたのが目に飛び込んできたが、 恐らく一般の人は誰も気付かないことであろうから、 取り立てて問題にするようなことではない。 ただ私の場合にはこのような船のセットが出てくると、 どうしても不備な点には目が行ってしまうのである。 と言うよりは、あちらから私の目に飛び込んでくると言った方が適切であるかもしれない。 自衛隊時代には艦艇建造の検査・監督業務が一番長かったので、 意識しなくても体のどこかが発動しているのかもしれない。
 
 第2場で登場するチンピラとの喧嘩の類は、私としては最も嫌いな場面である。 ところがこう言う場面は女性には人気があるのか、色々な作品でしばしば登場する。 見ていて面白いものでもないし、楽しいものでもないと思うのだが、 舞台も多数意見が反映されることになるので我慢せざるを得ない。 しかしこの作品においても、どのような意図で挿入されているのか理解出来ない。
 第3場のサテュロスSとフィナーレの極楽鳥は、 大和さんの出演による博多座限りのものであろうか。 サテュロスは今までにない感じで面白いものであったが、 極楽鳥では最後はロケットの一員として列の中に入って欲しかった。
 フィナーレの衣装は檀ちゃんに限らず、湖月さんを除いて無彩色の世界となってしまった。 羽根が濃いピンク色であったとは言え、 やはり華やかさに欠けたものであると言わざるを得ない。 大劇場では是非とも改善して頂きたい。
 
 博多座自体は割と観易い劇場であった。 1階最後列は大劇場S席最後列と同じ20列目となるが、 銀橋とオケボックスが無い分だけ舞台が近く感じられるようである。 3階席は東宝2階後部席と同じ様な感じだったが、 最前列は落下物防止用のアクリル板が邪魔をして観にくい席であった。 2階3階の前方両翼にある席は椅子の取付角度が悪いのか、 その席の経験者の話によると長時間の観劇では疲れるそうである。
 ロビーは色々な売店が出ていて面白い。 大劇場に比べると狭苦しい印象が無いでもないが、 やはり地方色が出ていた方が楽しいものである。 とは言っても貧乏人には縁の無い話であるのだが・・・

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