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 飛鳥夕映え/タカラヅカ絢爛U(7月24日大劇場)

 この作品は彩輝直さんの大劇場お披露目公演であると共に、 映美くららさんのサヨナラ公演でもある。 この日観劇した夜の部は阪急交通社の貸切公演であったが、 客の入りは噂通り悪く、2階S席などは2/3以上の空席があった。
 全体的に大劇場の観客は減りつつあるようだが、 それでも宙組の「ファントム」はかなりの入りだったようだから、 やはり脚本の良し悪しは客の入りに密接に関係していると言って良いだろう。
 
 蘇我入鹿に対しては、悪い印象を持っている人間の方が多いと思われる、 脚本の柴田氏は新しい蘇我入鹿像を描きたかったようであるが、 作品を観た限りでは説明不十分な感じは否めず、 柴田氏の意図が観客に伝わったとは思えない。 脚本家が自分の思い入れを作品に盛り込みたいという姿勢は、 ただ漫然とした思いで作品を仕上げることよりも好ましいことである。 しかしこの作品の場合には十分に練り上げたとは思えず、 柴田氏の思いが空転してしまったような印象を受けた。
 一つ一つの場面を見た場合には、決して悪いと言うようなものではない。 しかし物語全体を貫き通す芯となるものが極めて細く、 個々の場面はその芯にかろうじてぶら下がっている感じで、 全体として見ると太い芯が最後まで貫いて物語を形成しているとは思えなかった。 あるいは1本立てとしてもっと時間を与え、 従来の概念には無かった事柄を木目細かく描くことが出来たなら、 柴田氏の思いも舞台上で表現できたかもしれない。
 
 最後の舞台となる映美くららさんは、明らかに今までの舞台とは違っていた。 これまでの舞台では組の仲間から大事に大事にされ、 透明な箱の中に入ったままで演じられてきたような気がする。 それでも本人の子供っぽさが良い方に出て、 他の生徒には見られない独特の『くららワールド』が魅力の一つであった。
 今回の公演ではやはり宝塚最後の舞台と言うことが念頭にあったのか、 映美くららを包み込んでいた目に見えない枠が全て取り払われ、 籠から解き放たれた小鳥のように自由に伸び伸びと演じられていた。 そう、小鳥のように・・・
 宝塚や舞台人に限らず、若手の変化を表現する場合に「成長」と言う言葉が使われる。 勿論「成長」と言う言葉は良い意味で使われているのだが、 くらら嬢の場合には適当な言葉ではないような気がするのだ。 筍のようにぐんぐんと成長していくのではなく、 盆栽のように限られた世界の中で変化して行く、と言う印象が強いのである。
 宝塚の娘役は男役の邪魔にならないことが絶対条件であるが、 くらら嬢はその典型であり、どんな男役とも適合することが出来る。 相手役によって『くららワールド』の見え方は異なり、 今回はより多くの範囲が可視状態となって舞台に現れたことになる。 『くららワールド』にはまだまだ多くの魅力が隠されていると思われるので、 やはり今回の公演で退団してしまうのは残念な気がする。
 
 彩輝さんは持ち前の溌剌とした演技で好感は持てたが、 逆に重厚さには欠けていたのが惜しまれる。 尤も『蘇我入鹿=重厚な人間』と言うのは私の先入観に過ぎないのかもしれないが、 やはり暗殺されるほどの人物なのだから、 善悪を問わず重厚な人間であって欲しいと思うのである。
 中臣鎌足は大空祐飛さんだったが、 地方公演の「ジャワの踊り子」で演じていたタムロンの延長のような感じがした。 少し陰のある鎌足像は作者の意図するところかもしれないが、 入鹿暗殺に至るまでの心情の変化をもっと分かり易くして欲しかった。
 瀬奈じゅんさんの軽皇子は、名前の通り随分と軽い役であった。 説明によれば天皇である皇極帝の弟と言うことであるが、 気弱な感じで皇族としての威厳も感じられなかった。 尤も吹けば飛ぶような軽い存在は名前の通りであり、 かえって良かったと言えないことも無いのであるが・・・
 貴城けいさんの蘇我石川麻呂は、どう言う存在なのか良く分からない。 プログラムにある家系図を見て一応は納得するのだが、 舞台を観た限りでは、出演者の人間関係と言うものがさっぱり分からない。 これは私自身がこの時代に興味を持っていないことも一因ではあるが、 やはり分かりにくい筋書きであると思わざるをえない。
 他の出演者では高ひづるさんの笠置が非常に存在感があった。 余り目立ってはいけない役柄ではあったが、光り輝いて存在感を示すのではなく、 静かな中から存在感がにじみ出てくるのは、 やはり専科の本領発揮と言ったところであろうか。
 
 ショーに関しては、星組公演とはかなり違っている個所もあったが、 どちらが良いかと言う比較は適当でない。 「〜U」とタイトルに添えた劇団の意向は、出演者の個性を生かして変更する、 と言うものであったが、具体的にそれが現れている場面を見つけることは出来なかった。 しかしショーとは一時の時間を満足するものであると考えるならば、 それなりに楽しむ事もできるので問題は無いだろう。
 くららさんが劇団に対して退団の意思表示をした時には、 この作品の根幹は出来上がっていたのだろうか。 しかし仮にそうだったとしても、脚本の変更は十分に可能だったはずである。 個性を生かした作品作りを目指すのであれば、 現状とはもっと違った物になったはずである。 舞台慣れしてきた若いトップ娘役がいるのだから、 もっとその若さを生かせるように変更すべきであると思っている。
 
 最後はプログラムに関してだが、値上げしてからどうもパッとしない。 芝居の中で中堅クラスの人たちにも名前を付けているのは良いと思うのだが、 その名前だけを見ていても舞台上のどの人だかさっぱり分からない。 舞台上で名前を呼ばれる人ならまだしも、 プログラムに名前が載っているだけではどの人なのか分からない。 ただ単に香盤順に並べるのではなく、役柄を併記してグループ化して載せるべきである。 プログラムは購入した観客が見るものであるから、 誰がどんな役をしているかを容易に知り得るもので無ければならない。 稽古場の写真や舞台写真、そして関連する部外者の話を載せるのも有効だろうが、 最も基本的なことを忘れてしまってはならない。

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