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 1914/愛・タカラヅカ絢爛(3月6日宝塚大劇場)

 この作品の劇団発表を見た当初は、重苦しい作品になるかと思っていた。 しかし実際には全く異なった路線の作品で、コメディータッチ、 と言うよりもドタバタ喜劇、あるいはギャグ漫画風の作品であった。 しかし花組の「天使の季節」よりも上演時間が長いためか、 全篇を通じてのコメディー作品ではないので、 シリアスな部分との融合に工夫が欲しかった。

 この作品で最も気になったのは、ブリュアンが連発する「貧乏人」と言う言葉である。 勿論その台詞が大衆を蔑んで言っているのではなく、 逆説的に大衆に親しみを込めて言っていることは分かるのだが、 それでも限度と言うものがあり、度が過ぎると不快感を覚えるものである。 必要最小限の言い回しにして欲しかった。
 檀れいさん演ずるアデルを除き、主要メンバーは全て実在の人物である。 それ故かストーリー自体は悪くなかったのだが、気になる点が一つ。 ブリュアンの伯爵家は落ちぶれて貧乏貴族となっており、 経済的な面から資産家令嬢との結婚が仕組まれたことになっている。 そうであれば金を払えない大衆に「ル・ミルリトン」を開放していたのでは、 たちまち経営は行き詰ってしまうはずである。 でもこの点に関しては、「宝塚だから」許してしまおう。 そう、<宝塚だから>、である。

 第3場で登場の男役美女4人。 最近は男役による「女役の略奪」が相次いでいるが、この場面では気にならなかった。 と言うのも早替りが忙しくて化粧が追いつかなかったのか、 どう見ても「美女」とは言い難いものだったからだ。 こう書くと美女4人のファンからは苦情が殺到しそうだが、 プロローグの紳士が短時間で女装して出て来るのだから、 止むを得ない事実であるとして勘弁願おう。 しかし考えようによっては、 この4人は物語がコメディー風であることを暗示しているのかもしれない。 谷氏がそこまで考えていたのなら大したものである。
 第4場からは若き画家達が登場するが、余り貧乏には見えない。 ブリュアンがいくら「貧乏人共!」と悪態をついても、 やはりこれも「宝塚」、それなりの衣装は用意している。 実際はどうであれこの芝居の中においては、 陰気臭い貧乏画家よりも、陽気な姿の方がふさわしい。
 唯一の女流画家、ローランサンの叶千佳さんは、 自分とはタイプが違うので役作りに苦労していたようだが、 タイプが違う役だからこそ、工夫しながら演技に取り組んでもらいたい。 恐らく画家達の中では一番難しい役だと思われるが、その難役を乗り越えてこそ、 娘役としてのレベルも上がるであろうと思うからだ。
 第6場のアトリエでは、何と言ってもモデル役の百花さんに拍手を送りたい。 かなり体力、と言うより腕力を必要とする役かと思われるが、 「モデル役養成ギブス」で特訓を重ねていたのだろうか。 しかしモモモデルが苦労した割には、余りにもあっさりと暗転してしまった気がする。 暗転する前に何らかの「落ち」を付けて欲しかった。

 第7場からは伯爵邸へと場面が変るが、ここでは仙堂花歩さんの歌唱力が光っていた。 芝居の中では嫌われ物の歌声であったが、しっかりとした実力が無ければ歌えない。 「歌える娘役」がどんどん退団してしまうので心配なのだが、 歌劇団としても個人の特性を生かせるような脚本作りに励んで貰いたいものである。
 ブリュアンは伯爵邸で出会ったアデルに魅せられてしまうが、 単なる「一目惚れ」が原因とすれば、脚本としては余りにも弱すぎる。 父親の非礼を詫びるだけでも根拠に薄いので、 できればもっと丁寧に表現して欲しかったが、時間に限りもあるので止むを得ないか。 これも「宝塚」だから許してしまおう。
 カンカンの柚希礼音さんはなかなかのものだった。 この場面を見ると月組公演「CANCAN」での風花さんを思い出してしまうが、 柚希さんも「踊れる男役」として成長して行って貰いたい。 まだ若いのだから更にスピードをつけ、ピタッと止まれれば申し分ない。
 全篇を通じてアデルと組んでいたクロディーヌの陽月華さんは、 アデルが最も信頼できる友人の役を良く演じていたと思う。 ただし一本調子となってしまった嫌いもあるので、 今後は緩急・陰陽等の演じ分けに努力して欲しい。

 物語の結末ではブリュアンの父であるフルーレ伯爵が、 ブリュアンの結婚予定者だったオルガを自分の嫁としてしまうが、 まさか次回公演を意識したものでは無いだろう。 玄宗皇帝は一旦自分の息子の嫁となった楊貴妃を自分の妻としてしまったのだが、 今回の公演ではまだブリュアンと結婚はしていないので条件は異なる。 しかし次回公演では湖月さんが玄宗を演じることになるだろうが、 立場が逆になる玄宗をどう演じるかに思いが行ってしまった。
 プログラムでちょっと気になったのが、苗字と名前の使い分けである。 シャガールやユトリロのように苗字で表記されている場合と、 アリスティドやマリーのように名前での表示とが混在しているのは宜しく無い。 芝居の中ではどちらで呼んでもかまわないが、 プログラムに載せるのは苗字に統一すべきであったろう。 ローランサンなら誰だか直ぐに分かるが、マリーではちょっと考えてしまう。

 ショーは初めてのキューバ人振付師の起用で話題になったが、 「灼熱の〜」と言う副題の意味するところは感じ取れなかった。 確かに今までのショーとは違った雰囲気も感じられたのだが、 カリビアンと言うよりも中国雑技団と言った方が良いような印象であった。
 このショーは一貫したストーリーがあると言う話であるが、 実際に舞台を観ていてそのようなものは感じられなかった。 上手の花道にセットした時計の針を進めることにより、 物語の進行を表現していたのかと思われるが、 それぞれの場面相互の関連性は見出せなかった。
 第19場のハリケーンは音楽は迫力があって良かったが、 一風変ったあのリフトはいただけない。 「高い高いばあ」程度ならともかく、「腹巻だっこちゃん」に至っては滑稽な、 と言うよりも正しく中国雑技団の出し物ではないだろうか。
 湖月さんの役は一貫してポノポであったが、 劇場内の暗い照明下でプログラムを見た時、私はこれをボノボだと思っていた。 ボノボと言うのはアフリカに棲む霊長目の動物で、 かつてはピグミーチンパンジーとも呼ばれていた。 頭が良くて色々と研究対象となっているが、小柄で捕まえ易いためか乱獲され、 現在では絶滅に瀕している動物である。 草野氏がボノボを意識してポノポと言う名前にしたのかどうかは知らないが、 こうした作品からでも自然保護を訴えるようになれば、 宝塚歌劇団の存在価値も高まるのではないだろうか。

 ショーでの大きな不満は、檀れいさんの出番が異様に少ないことである。 トップ娘役から主演娘役と表現は変ったが、 これほどまでに出番の少ない作品はあったのだろうか。 勿論ある程度のばらつきがあるのは当然のことであるが、 この作品では意識的に減らしているとしか思えない。 ショーが芝居の「おまけ」ではないのだとすれば、 もっと全体のバランスを考えて作って欲しいものである。
 フィナーレも印象の薄いものであった。 特別出演の2人を加えた第23場は満足できるものであったが、 パレードはやはり娘役のエトワールから入って欲しかった。 歌えるエトワールはいるのだし、娘役を育てるためにも、 そして娘役のやる気を出させるためにも、エトワールは是非共必要なスタイルである。
 なお、客席降りは当然人気はあるだろうが、それに頼り過ぎてはいけない。 基本的には舞台上で見せるのが正統的な表現方法であり、 客席降りを多用することなく、観客を魅了できる作品を作って欲しいものである。

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