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 1914/愛・タカラヅカ絢爛(2)(3月27日宝塚大劇場)

 楽日前、午後の部を観て来たが、午前の部は貸切公演であった。 最近は楽日前の貸切公演が多いのが気になって仕方ない。 それでも大劇場では貸切でも当日券が発売されることがあり、 今回も発売されていたようである。 しかし東宝劇場での楽日やサヨナラショーのある公演では、 当日券の入手には前日の電話予約が必要であり、 一般の人が手に入れることの出来る可能性は極めて低くなっている。
 今回は今までとは若干視点を変え、宝塚の舞台について日頃思っていることも含めて、 観劇の感想を述べることとする。

 「1914/愛」では、出演者個々の演技がエスカレートしているようで、 かなり舞台に慣れて来たな、と言う印象を受けた。 あるいは舞台を自分たちの物にした、と言う表現の方が適切であるかもしれないが、 何れにしてもこれは大いに賞賛すべきことであり、 東京公演への期待も高まると言うものである。
 逆に前回同様、と言うより前回以上に気になったのが、 食卓の上に上がったり、足を掛けたりして歌う場面である。 宝塚の舞台を語る上で、「様式美」と言う言葉がしばしば使われる。 ではその「様式美」とは何かと言えば、現実に即した衣装や演技よりも、 見栄えの良い舞台にすることを優先する、と言う解釈で良いのではないかと思っている。
 具体的な例として衣装に関して言えば、 和物でも多用されているブーツはその好例であると言えよう。 時代背景が平安時代であれ江戸時代であれ、和装にブーツと言う組合せは珍しくない。 時代考証の専門家でなくても、これが間違いであることは誰にでも分かることであり、 他の劇団でこのようなことをやったら、手厳しい批評を受けるのではあるまいか。
 宝塚では頻繁に登場する派手な軍服姿も、実情とは異なっている物が多い。 だがこれも「様式美」が優先された結果であり、ファンの間での批判もない。 「様式美」と言えば歌舞伎でも見られるものであり、 中国の京劇や昆劇等においては現実味を帯びた演技は一切なく、 全てが約束事の「様式」で構成されていると言っても間違いではないだろう。

 今回の食卓の上に立つ行為が何故気になるのかと言えば、 前述した「様式美」に反するものとしか思えないからだ。 「エリザベート」でもフランツ皇帝の食卓で踊る場面があったが、 これらの場面を見て、「美しい」と感じる人はいるのだろうか。
 演出家に言わせれば、迫力を出すためだと答えるかもしれない。 だが迫力を出すのが目的であれば、演出方法は他にいくらでもある。 肩車でも良いし、騎馬を作ってその上で歌っても良い。 勿論セリを使えば(店内の配置は多少変るが)もっと簡単に出来る。 更に言えば、2階席から観た場合には、 食卓に上がったところで迫力というものは全く感じられない。
 実際にはどうかと言えば、あるいはこのような場面はあり得るかもしれない。 「土足」と言う概念が、日本人と西洋人とでは大きく異なると思えるからだ。 最近の若い人の間では地面や床に直接座り込んだり、 物を食べながら道を歩くことも極一般的な行為となりつつある。 流行りの言葉で言うならば、グローバル・・・と言うことなのだろうが、 どう見ても美しい行為ではありえない。 宝塚の舞台が現実よりも「様式美」を追求するのであれば、 細かな所にも気を配って欲しいのである。
 今回の舞台でも、画家たちは到底貧乏画家とは思えない服装をしている。 勿論これが現実性より「様式美」を優先した結果であることは、 改めて言うまでもないことであろう。 アポリネールの軍服にしても同様である。 「様式美」を追求するのが宝塚の舞台であるならば、 舞台全体を通して徹底して欲しいので、敢て苦言を呈する次第である。
 もう十年ほど前になるが、名古屋御園座で「二十四の瞳」を観たことがある。 最後にカーテンコールで全員が登場する時、 前列の人は土間なので履物をはいたままであったが、 後列の人は座敷の畳に上がる時に、全員が履物を脱いで上がって行った。 些細なことであるかもしれないが、とても爽やかな印象を受けたものである。 宝塚が今後も「様式美」を誇りたいのであれば、 是非とも参考にすべきことであろうかと考える。

 ショーに関しては、 やはり檀れいさんの出番が異常に少ないことを再確認する結果となった。 ストップウオッチを持って正確に測った訳ではないが、 トップ娘役としてこれほど出番の少ない作品は例が無いのではあるまいか。
 穿った見方をするならば、これは劇団から檀さんに対する、 「嫌なら辞めてもいいんだよ」と言う姿勢さえ感じられる。 勿論劇団も演出家もそのようなことは否定するであろう。 だが組織の発言に真実を見出すのは、極めて希なことであるのも事実である。
 トップコンビが同時に辞める必要はないし、そのような例は幾らでもある。 しかし檀さんの場合、専科への移動自体は新しい人事の魁として問題は無いのだが、 専科に行ってからの扱いは冷遇としか言いようが無いものであった。 もしも二度目の中国公演が無かったとしたら、 そのまま「飼い殺し」になってしまったことは十分に考えられる。
 星組への配属で再び活躍する場を与えられたのであるが、 最初の公演でアイーダを外されたことは、前途多難であることを予感させるものであった。 幸い脚本家の努力によってトップ娘役にふさわしい公演となったが、 今回のショーは、再び専科に戻ってしまったような印象すら受けるものであった。
 月組でも同名のショーが上演される予定になっているが、 タイトルは最初から「〜絢爛U」となっている。 恐らく組や出演者の個性を生かして変更する、と言う理由なのであろうが、 劇団の本音は、実際に月組の舞台を観てから推測することとしよう。 なお檀れいさんと映美くららさんとを比較するつもりは毛頭ない。 両者とも演出家の指示に従って、舞台では最善を尽くしているのだから。

 宝塚と言えば、事ある毎に「清く正しく美しく」の言葉が使われる。 だが最近の舞台やチケットの販売状況等を見ていると、 もうその言葉は使わないでくれ、と言いたくなることがある。 それとも「清く正しく美しく」なければならないのは生徒だけであり、 経営や演出においては、全く無縁の物であると言うことなのであろうか。
 今年は九十周年と言うことで、話題作りに懸命のように見受けられる。 だがそのために海外から著名な演出家を呼ぶことが重要であると考えているとしたら、 宝塚の前途は危ういと言うべきであろう。 もしも記念すべき年として位置付けたいのならば、 発足当時の「少女歌劇団」の原点に戻ることこそ大切なのではないだろうか。 小林氏の理念は、誰もが楽しめる大衆演劇であったはずである。 チケットがオークションや金券屋において、 当然のように1桁高い金額で売られているようでは、 小林氏の理念とは程遠いものであると言わざるを得ない。 百周年を目指して更に躍進したいと思うのであれば、 「清く正しく美しく」の理念にもう一度戻るべきであろう。

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