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 航空母艦「信濃」(2)

 空母『信濃』の写真は長らく存在しないと思われていたが、 福井静夫氏の発表により1枚だけ存在が確認された。 【アテネ版大和】に掲載されている写真の解説によれば、 撮影は昭和19年11月、公試に先立つ試運転中の撮影となっている。 本艦は進水浮揚時の事故により再入渠を余儀なくされ、 その出渠から竣工と言われる日までの期間は一ヶ月にも満たない。 果たして海上公試を行なうだけの余裕があったのかと言う疑問と共に、 写真そのものにも疑問があるのだが、 この点については後述する。
 
 『信濃』では水密試験の一部に不十分なものがあったが、 そのことが『信濃』が沈没に至った致命的な原因でないことは前回の記事で述べた。 今回はまず最初に、浮力の大部分を占める主防禦区画内の水密性について検討していく。
 空母への改造が決定した時点での『信濃』の工程はかなり進んだものであり、 主防禦区画内の水密隔壁に関しては全く問題ないものと考えられる。 問題が発生するとすれば改造工事に関係するものであるが、 【艦艇図面集】には一部ではあるが概略の配置図が載っているので、 『大和』型と比較しながら改造工事による影響から調べていくことにする。
 中甲板以下での大きな変更点は主砲と副砲の撤去であるが、 魚雷格納所や重油タンクのように大きな区画の変更はあるものの、 防水作業に際して大きな影響を持つ主横隔壁に変更はない。 また、主砲・副砲の揚弾装置や水圧機等の大型機器は未搭載だったようだが、 仮に搭載されていたとしてもその撤去・陸揚げに際しては、 砲塔開口部をそのまま利用できたものと思われる。 したがって甲板や横隔壁に工事用の開口を開ける必要は無いので、 改造工事によって防水能力が弱体化するとは思われない。
 改造に伴う工事で気になるのは、 各種機器や隔壁等の取り付け部の処理である。 砲塔下部なので取り付けは全て鋲接であったと思われるが、 その場合には取り付け部の構造は右図上段のようになっていたはずである。 このような鋲接構造の機器台を撤去する場合には、 鋲頭を飛ばして結合部材と共に取外すことになるが、 この状態では隔壁や甲板に鋲の孔が開いたままとなってしまう。
 私自身は鋲接工事に立ち会ったことは無いのだが、 不要となった鋲孔を塞いで水密性を確保するためには、 右図中段のように再び鋲孔に鋲を打ち込んだのではないかと推測する。 下段のように結合部材を残して切断すれば隔壁等に対する水密性は確保できるが、 室内に不必要な突起物が残ることになり、 特に甲板面では大きな障害となってしまう場合も考えられる。
 鋲頭を飛ばす作業をガス切断で行なったのか、 それとも機械的にはつる方法を採用したのかは不明だが、 何れにしても鋲孔に変形等を生じた可能性は高い。 その場合には一回り大きな孔を開けてその穴に見合った鋲を打ち込むことになるが、 鋲孔を塞ぐ為だけに大きな工数を費やすのは何とも勿体無い気がする。 あるいは甲板や隔壁も含めた該当箇所の部材を、 そっくり新換えしてしまう方法も考えられる。 撤去部材の搬出は砲塔開口部から容易に行なえたであろうし、 新替部材の搬入も問題ないものと思われる。
 本艦の改造に当たっては工期の短縮が要求されているので、 私が担当者だったら下段のように部材を残す方法を大幅に採用する。 実艦でも恐らくこれらの方法が併用されていたものと思われるが、 水密性を損なうような工事が施工された箇所に関しては、 当然改めて水密試験を行なう必要がある。 水密試験の省略が沈没に至る要因であったとすればこれらの箇所が有力であるが、 仮に主横隔壁の鋲孔を塞ぐ作業が不十分で水密性を確保出来なかったとしても、 その箇所からの浸水は漏水と言うべき程度のものであり、 短時間で転覆に至るような浸水とはなり得ない。 なお本艦でも強度部材以外では溶接もかなり用いられているようであるが、 溶接歪の影響が問題とならない箇所では溶接が用いられていたとも考えられるので、 その場合には改造後の水密性も大きく損なわれることは無かったものと思われる。
 水密性を損なう要因の一つとして、 その特異な建造工程の影響も無視してしまうことは出来ない。 本艦の進水予定重量は不明だが、 実際には6万t近くになっていたと思われるので、 少なく見積もっても2万t以上重くなっていたものと思われる。 工程が進むにつれて適宜盤木を増やしていったとは思われるが、 盤木の配置が不適切なものであれば船体構造に無理な力がかかることになり、 水密隔壁の鋲接部に緩みが生じる可能性は十分にあり得る。 一旦水密性が確認された隔壁や甲板は、 特別なことがない限り再び水密検査を行うことはない。 と言うよりも壁面の両側に多数の艤装品が取り付けられている状態では、 水密試験を行おうにも殆どの場合実施不可能なのである。 他にこのような工程で建造された艦船の実例を知らないので断定は出来ないが、 異例とも言える船台期間の長期化による水密性の低下は、 全くあり得ないこととして否定することも出来ないだろう。
 工程の長期化は船体構造のみならず、 諸管等の艤装品にも悪影響を及ぼしていた可能性も有り得る。 工事の完了した諸管は適宜耐圧及び水密試験を行っていくが、 構造物同様一旦確認すれば変更工事がない限り再び試験を行うことはない。 しかし全く使用せずに長期間放置した場合、 パッキンのへたれなどによって水密性が損なわれる可能性は十分に有り得る。 勿論漏洩があったとしても微量なものであり、 それによって直ちに危険に陥ると言うものではないが、 そう言った箇所が多数に上れば馬鹿に出来ないものとなるかもしれない。 また弁等が錆付いて作動しなくなる可能性も考えられるが、 案外こう言ったことは軽視されて見逃され、 運用する段階になって初めて異常に気が付くこともありうる。 いずれにしても他に例を見ない建造工程の悪影響は、 思わぬところで障害となって発生していたかもしれない。
 
 さて、冒頭で紹介した『信濃』の写真であるが、 撮影は右舷側からであり、僅かに飛行甲板の上面が見えている。 水平線が見えないので撮影位置の推定は難しいが、 船舶からの撮影と見て間違いないだろう。 飛行甲板が見えることからも本艦が右舷に傾斜していることは間違いないのだが、 傾斜の大きさから考えて旋回時の遠心力によるものと思われる。 【アテネ版大和】によれば『大和』の旋回時傾斜角は、 公試状態8/10全力舵角35度で7度となっており、 『信濃』でも水線下の形状は同じであるからほぼ同様であったと思われる。 しかしながらこの写真では船首波が殆ど見られないことから推測して、 その速度は極めて低かったものと思われる。 したがって最大舵角を取っていたとしても、 到底これほどの傾斜が発生するとは思われない。
 艦艇の機関部の運転はボイラであれ主機であれ、 入渠中あるいは船台上で実施することは出来ない。 本艦の場合にも出渠後に燃料を搭載し、 燃料系統の漏洩の有無を確認してから1缶ずつ火を入れて運転を行い、 徐々に圧力を上げて蒸気系統の確認も併せて行ったものと思われる。 機関部の艤装員が着任していたとしても直ちに作業することは出来ないし、 工廠のボイラ要員にも余裕はなかったはずであるから、 同時に多数のボイラの運転確認は不可能であったと思われる。 他の残存工事も多数あるのだから、 短期間で全力が発揮できるほど機関部が完成していた可能性は低いと見てよいだろう。
 旋回時の傾斜は艦の重心位置にも左右され、 重心が高いほど傾斜モーメントが増すので大きく傾斜することになる。 当時の状況から考えて燃料は運転に必要な最低限の量であったと思われるが、 他の物件も合わせて公試状態に対する運転時の主要な非搭載物件を推測してみることにする。
 ・燃料 呉回航も考慮して満載時の1割搭載として5000t(搭載900t)
 ・軽質油 全量非搭載で450t
 ・爆弾各種計486発+魚雷108本 210t
 ・高角砲弾 1門当り弾数を『大和』と同数として147t
 ・機銃弾 同様にして315t
 ・航空機 搭載予定47機として140t
 これらの値を用いて【艦艇図面集】に掲載の側面図から重心を推定して計算すれば、 運転時の排水量は61700t、KG値は12.5m程度となる。 なお軽質油タンク周辺へのセメント充填、飛行甲板へのセメント張は実施されていたものとし、 公試時の重心位置は『大和』と同じと仮定して計算している。
 旋回時に発生する傾斜モーメントはBG値(浮心と重心との距離)に比例するが、 本艦の公試時の重心を『大和』と同じと仮定して計算し、 『大和』の公試時と本艦運転時の各種値を比較すれば次のようになる(単位m)。

 『大和』公試時 KG=11.6 KB=5.5 BG=6.1 KM=14.4 GM=2.8
 『信濃』運転時   12.5   5.0   7.5   16.0   3.5

 傾斜に影響するBG値は23%の増加となるが、 復原モーメントを発生させるGM値も25%の増加となっているので、 この結果から見れば写真撮影時の状態で大きく傾斜するとは考えられない。 なお軽荷状態でのGM値の増加は現在のように駆逐艦等の常識からは逸脱しているが、 バルジを装着した船型では喫水が上がった時に幅が増えることになるので、 KM値の増加が重心の上昇を上回っているためである。
 それでは撮影された『信濃』が何故傾斜しているのかと言えば、 残念ながらその原因を断定することはできない。 秘密保持のために全速航行時の波を消したとも考えられないことは無いが、 公表された写真ではないからその必要性は無い。 更に言えば撮影者は秘密裏に撮影したと思われるし、 印画時にそのような小細工をして保管していたとも思えない。 また、本艦は缶及び主機を搭載してから進水までの期間が極めて長いので、 運転を開始するまでに点検すべき項目は前2艦に比べて多かったことが予想される。 進水・出渠後から写真の撮影時に到るのでの工程から推定して、 到底全速が発揮出来るほど工事が進捗していたとは思えない。
 海軍の正規の建造工程から言えば、 速力公試を行うためには排水量を定められた状態にしておかなければならない。 しかし戦時下であること、 しかも早急に就役することが必要な情勢を考えれば排水量に拘る必要は無く、 運転の目的も艦としての本来の性能を確認するためではなく、 単に推進装置の作動確認として行なっただけと考えることも出来る。 取り敢えず自力航行が可能であることの確認と、 一部ではあっても運転に必要なデータの収集が目的であったものと考えられる。 低速時だけであっても運転諸元が前2艦と大差ないものであれば、 回航時に高速の発揮が必要になっても取り敢えず前2艦のデータを参考にすることが出来る。
 本艦は右舷に被雷して転覆・沈没したわけであるが、 当日の海面状況を考えればその時に米潜が撮影した写真でないことは明らかである。 となればやはり東京湾での試運転時のものと思われるが、 疑問の残る写真ではある。
 
 本艦の度重なる工程の変更、 特に昭和19年のマリアナ沖海戦後の竣工期繰上げは、 現場の実情を全く知らない素人の発想であると言わざるを得ない。 進水から竣工まで10日しか工程が取れない艦の籍を入れたところで、 何ら戦力にならないことはまともな用兵者なら分かるはずである。 尤もそのような人間が作戦を立てていたのだから負けたのだ、 と言ってしまえばそれまでだが・・・
 艤装員に関しては信濃(1)でも簡単に述べているが、 今回は更に詳しく検討して行くことにする。 殆どの艤装員が着任早々艦の運航を任されることになってしまったわけだが、 艦内の配置ですら十分に把握出来ないまま出航する破目に陥ってしまったのではないかと思われる。
 艦艇の乗員は一般航海であれ戦闘であれ、 状況に適応して発令された部署に応じて配置に付き、 己の任務を遂行する。 多数の乗員に対してその都度行動を指示することは出来ないが、 部署を定めることにより命令一つで全員に指示することが出来るのである。 部署の制定に当たっては当然類似艦を参考にしているとは思われるが、 出入港・戦闘・防火防水等必要最小限の部署に限定したとしても、 二千人を越す乗員の適性を生かして部署を作ることは困難であったはずである。 勿論部署は作成しただけでは役には立たず、 実際に部署に従って配置に付く訓練を十分にしておかなければならない。 なおこれは海上自衛隊での部署を参考にして推測したものであるが、 旧海軍においても大きな違いはなかったものと思われる。
 艦艇の建造と言うと要目等に記された装備品を搭載すれば完成であると思われるかもしれないが、 それは単に仕様あるいは契約条件を満足させたに過ぎず、 艦を運航するためには燃料・弾薬や食料は勿論、 数多くの需品を搭載しなければならない。 燃料や弾薬は消耗品なので特定の個艦用に調達することはないが、 需品の場合には艦の就役に合わせて調達計画を定めているはずである。
 現在でも著しく就役が早まった場合には、 就役に間に合うよう需品の調達を行うのは困難である。 尤も現在では製造自体に関しては大きな障害はないので、 防衛庁内部の手続きさえ順調に行けば可能なはずなのだが。 本艦の場合には需品の総量も膨大なものになったと思われるが、 あらゆる方面で生産力が落ち込んでいる国情であるから、 納期を早めた需品の調達が可能であるとは到底思えない。
 需品の中でも寝具や食器等の日用品は代用品を搭載することも可能であるし、 呉への回航に限定すれば必ずしも搭載しなければならないというものでもない。 しかし消火ホースや防水作業に必要な応急用品に関しては、 既に沿海でも襲撃を受ける可能性があるのだから、 絶対に搭載しなければならないものである。 しかしながら本艦の沈没時の状況から推測する限り、 単なる乗員の訓練不足、あるいは部署の不備による応急作業の不手際だけでなく、 需品の不足によって浸水が進んだことも十分に考えられる。
 
 再び信濃の写真に話を戻すが、 不鮮明な写真ではあるが高角砲の存在を確認することが出来ない。 竣工しているのだから当然搭載されているはずだ、 と思っている人間の方が多いかもしれないが、 竣工は飽くまでも書類の上だけでの話であり、 実質的には未成艦なのだから非搭載であっても何ら不思議な話ではない。
 高角砲は高射装置から送られてくる諸元に基いて射撃を行うことになるが、 その発射諸元をは方位盤によって測定された敵機のデータを基にして計算される。 その発射諸元が有効に働くためには互いの相対位置が明確にされており、 方位盤の水平と各高角砲の据付面の水平が一致していなければならない。
 現在の建造工程においては両者の水平面を一致させるため、 半注水又は半排水の状態で水平面の確認を行っている。 半注水とは入渠中の盤木に乗っている状態で注水を始め、 船体が浮き上がる直前で注水を止めた状態であり、 半排水は新たに入渠して排水しながら同様な状態にしたものである。 ホッグ・サッグの影響が最も少ない状態とされており、 太陽熱の影響を避けるために温度が安定した深夜に行っている。
 現在の溶接艦では溶接による歪の影響を避けるため、 水平面の確認は主要な工事が完了してから行っている。 鋲接艦では溶接艦ほど大きな熱影響は無いはずであるが、 それでも大規模な工事が残っていれば熱による歪の可能性はあるので、 通常の工程であれば進水前に実施することは無いだろう。 ただし本艦の建造工程は他に例を見ないほど異例のものであり、 何よりも早期の戦力加入を最優先しているので、 進水前に完了していた可能性を完全に否定することは出来ない。 本艦のような大型艦では方位盤と高角砲の水平は各群毎に行えば十分なはずだが、 この場合には半注水状態でなくてもかなりの精度で実施可能と思われるので、 進水前の実施は全く不可能と言うわけではないと思って良いだろう。
 「信濃」の呉回航時に護衛に当たっていた駆逐艦「磯風」乗員の回想録によれば、 高角砲や機銃は搭載されていないとの記述がある。 これらは外観から容易に視認出来るものであるから、 その信憑性はかなり高いものと思われる。 となればやはり就役時には未搭載であったと言うことになるが、 高角砲要員として艤装員が発令されていたかどうかは微妙なところである。 沈没時の乗員数から推定すると、 工廠の便乗者を考慮してもかなりの乗員が乗っていたことになる。 砲が未搭載なのに乗員だけ乗っているのはおかしな話だが、 呉に到着後直ちに搭載して訓練に移行すると言うのであれば納得できる。 この場合には高角砲自体は既に完成して横須賀工廠に送られており、 本艦への搭載が間に合わなかったと言うことが推測できる。 砲が横須賀に到着しているのであれば、 別便で呉に送るよりも本艦に積んで行った方が確実で手っ取り早い。
 まだ水平面の確認が出来ていないのであれば、 高角砲も機銃も砲座に据え付けて固定するのではなく、 輸送だけのために格納庫内に仮置きしていたとも考えられる。 勿論動揺によって動き出さないよう固縛してあったはずではあるが、 所詮仮置きなので被雷後の傾斜によって荷崩れを起こす可能性は十分に有り得る。 残工事のための材料や工具等もかなりの数量が搭載されたままと思われるので、 これら共々復原性を悪化させる要因となっていたかもしれない。
 
 最後は巷で時折話題になる、 「工員上甲板」を「総員上甲板」と聞き違えたため、 応急作業を放棄して沈没に至らしめた、 と言う説に関してであるが、 これは全くの虚構であると言うことが出来よう。
 先ずは号令に関してであるが、 既に述べてあるように乗員の行動は部署によって定められている。 艦を放棄して退艦するのであれば、 先ず最初に艦を放棄する旨(現在で言えば総員離艦部署)を告げ、 しかる後に避難先又は集合場所を発令したはずである。 いきなり「総員上甲板」と言う号令を出されても、 それを離艦のための号令であると判断して職務を放棄するとは考え難い。 また残工事のために乗り込んでいた横須賀工廠の人間の中には、 工員以外にも事務員や技官も一緒にいたはずであるから、 号令を出すとすれば「便乗者」と言う表現を用いたのではないかと思われる。 なお「総員(又は手空き総員)○○甲板」と言う号令自体は、 日常生活においても行事等のために使われることがあるが、 勿論離艦とは全く関係のない号令である。
 艦内配置から言っても本艦の上甲板は暴露甲板ではないから、 離艦のために上甲板に集合しても意味はない。 最上甲板ならば船首尾部は暴露甲板となっており、 中央部の格納庫内からでも退艦は不可能ではないだろう。 しかし常識的に考えれば最も広い暴露甲板である、 飛行甲板への退避を発令していたはずである。
 
 旧海軍の艦艇に関してはどの艦も資料不足であるが、 特に本艦の場合にはその最たるものであると言うことが出来るだろう。 終戦に際しては軍令部の命令により多くの資料が焼却されてしまったようだが、 これも戦後の復興のために技術力を役立てようと言う考えの無い、 技術音痴の用兵者の愚行であると言わざるを得ない。

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