航空母艦「信濃」(1)
人間に強運な者と薄運な者とがいるように、艦艇にも強運な艦と薄運な艦とが存在する。
前者の代表としては駆逐艦『雪風』が挙げられるが、
航空母艦『信濃』が後者の一員であることは間違いないだろう。
旧海軍の艦艇に関して残された資料は僅かなものに過ぎないが、
その中でも『信濃』に関する資料は極めて少なく、
その全容を知ることは不可能と言っても良い。
そんな状態なのでどうしても推測によることが多くなってしまうのであるが、
工事に関する問題点、
そして被雷してから沈没に至るまでの状況について検討してみたい。
空母『信濃』の不幸の始まりはと言えば、
開戦時に建造ドックに載っている時からであると言って良いだろう。
四番艦のように工事の進捗状況が微々たるものであれば、
工事を中止して既成部分は解体し、船台を空けて有効に活用することが出来る。
しかし『信濃』の場合には解体するにしても多くの工数を要する状態となっており、
四番艦同様解体してドックを空けるのか、
それとも工事を進めて進水させることによってドックを空けるのか、
何れとも決め兼ねない微妙な状態であったと言って良いだろう。
仮に工事を進めた方が早くドックを空けることが出来たとしても、
艦としての使用が期待出来ないような状態で進水させたのでは、
全くの資源の無駄遣いとなってしまう。
海軍造船技術概要(以下技術概要と略す)によれば缶や機械を搭載し、
進水後では困難となる工事は済ませてから進水させることになったようだが、
これは本艦の行方が不明な状況では最善の処置であったと言えよう。
結局はミッドウェイ海戦の結果を踏まえ、
既成部分の改造を最小限に留めて空母として建造することとなったのであるが、
この間の工事の停滞は後の就役時期短縮による突貫工事にも大きな影響があったことは確かであろう。
更にこの頃には損傷艦の修理にも多くの工数を費やさなければならない状況となりつつあり、
人手不足から『信濃』の工事が遅れがちとなるのも止むを得ない状態であったと言えよう。
造船等軍需産業関係の人間の召集は免除されていたと思われるかもしれないが、
実際には熟練工であっても招集される状態であり、
戦争中期からは工数不足に加えて技術的にも低下が避けられないのが実状であった。
ただし開戦時までは当初の計画通り建造が進められており、
その後もしばらくの間は工事量は減ったものの作業自体は熟練工が行なっているので、
主防御部及び機関関係の区画の工事は既成艦と同レベルであったものと思われる。
本艦が不運艦と言われる最大の原因は、
竣工してから沈没するまでの期間が僅か10日と言う短命であったことであり、
この点に関して異論を挟む者は皆無であると言って良いだろう。
しかしながら今回はこの点に関しても敢えて異論を唱えるのであるが、
その要点は『竣工』とは何かと言うことである。
記録の上では『信濃』は昭和19年11月19日に竣工し、同29日に沈没となっている。
現実がどうであれ海軍が了解して籍を入れているのだから、
19日の竣工は揺るがしようの無い事実であると主張する者もいるだろう。
だがそれは責任と言う言葉とは無縁の政治家や評論家のような輩の言であり、
実際に運用して戦闘に携わる用兵者、
そして建造に携わった技術者にとっては到底納得出来るものではない。
個人の思惑を離れて客観的に実状を眺めてみれば、
竣工したのであればその後は慣熟訓練もしくは戦闘行動に従事するのが当然であろう。
残工事を行なうために横須賀から呉に回航しなければならないような艦を、
書類上だけで『竣工』させるなどと言うのは全く持って愚直な行為である。
このように現実を無視した書類上だけの資料を基にして結果を語る行為は、
軍事に限らずあらゆる分野で見られると言ってよいだろう。
最近は複数のビルの強度計算の偽造問題が話題になっているが、
何れも書類の上では全く問題無いとされ、建造が進められて竣工しているのである。
こうした傾向は建築関係に限ったことではないのだが、
要求された性能を満たせないまま形式的に竣工させたとしても、
竣工を認めるのは関係する人間だけであって自然が認めることはない。
形式だけの竣工であった『信濃』が容易に沈んでしまったとしても、
それは極自然な現象に過ぎないと言ってしまうことも出来るだろう。
本題とは外れるが軍事に関する研究で陥りやすい同様な危険性を挙げれば、
陸軍の兵力表現等も代表的なものの一つであろう。
例えば沖縄戦における日本軍の兵力は12万弱と言われているが、
書類上の「兵数」はその通りであったとしても、
兵力としてはとてもそれだけの数量とは認められない。
現地で召集した沖縄県民はもとより、
内地で招集された兵であってもまともな武器は与えられず、
実弾射撃さえ行なえないような状態では数字通りの兵力とはなり得ない。
役所の記録と言うものはとかく建前だけを重視する傾向があるが、
問題を解決するためには建前よりも現実を直視しなければならないのである。
私の持論としては、
いかに『信濃』が艦籍を入れて軍艦旗を掲げようとも、
工事の終わっていない艦は未成艦に過ぎないと言う考えである。
注文主が竣工したと認めて引き取っているのだから完成艦であると主張する輩に対しては、
どのように判断するかは個人の自由であるとだけ言っておこう。
『信濃』の線表を見て異様に感じられるのは、
進水から竣工とされている日までが極端に短いことである。
記録によれば進水は19年10月8日であり、竣工とされる日まで40日強に過ぎない。
開戦直前に就役した『翔鶴』型ではその期間はほぼ2年であり、
戦時中で工事を急いだ『大鳳』でも11ヶ月を費やしている。
勿論『信濃』の場合には他の空母に比べ、
進水前に多くの艤装工事が施工されていたことと予想される。
しかしながらこれだけ巨大な空母の艤装期間が40日と言うのは異常な事態であり、
設計通りの性能が得られることは望み薄であると言わざるを得ない。
戦艦として予定されていた本艦の当初の建造線表によれば、
起工が15年5月で進水が18年10月、竣工は20年3月末であることが技術概要に記されている。
起工から竣工までの期間が一番艦である『大和』より長いものとなっているが、
これは建造施設の整備を実行しつつ建造を進めることに起因するものであり、
施設整備の遅れも空母への改造・工員の不足と共に大きな障害であったと思われる。
なお実際の工事の概要は次の通りである。
16.12.8 戦艦としての工事中止。浮揚出渠のための工事を進める訓令。
17. 6 航空母艦への改造決定。
17. 9 竣工期を19年12月に促進。
19. 1 竣工期を20年2月に延期。
19. 7.下 竣工期を19年10月15日に繰上げ。
19. 8 最上甲板搭載。
19. 9 飛行甲板搭載。
19.10.5 浮揚。
19.10.8 命名式。
19.10.23 出渠。
19.11.19 竣工。但し完全に工廠の手を離れたのは26日頃。
本艦の進水は10月8日とされているが、
これは進水式と同時に命名式が行なわれるのが慣例となっているためであり、
実際には浮揚のために注水を開始した5日が進水日であると言うことが出来る。
ただし注水時の事故のために再入渠を余儀なくされているので、
事実上の進水日は出渠した23日であると言う見方も出来る。
しかし実際には入居中にも艤装工事は進められているし、
全体の工事過程が他に例を見ない特殊なものなので、
細かな日付に拘ることは全く意味の無い行為である。
何しろ飛行甲板の搭載が9月なのだから、
船殻の固めが終わったら直ちに進水・竣工に至るという異常な工程であり、
このような工程で造られた艦は現在に至るまで無いし、
今後も発生することは無いだろう。
鋲接・溶接にかかわらず一般的な艦船の建造工程としては、
船殻工事が終わってから艤装工事に入るのが普通である。
勿論当時でも先行可能な艤装工事は船殻工事と平行して進められていたものと思われるが、
ブロック建造が主流となっている現在ほど大規模なものではなかったはずである。
しかし本艦の建造経過を見てみると、
相当量の先行艤装が行なわれていなければ実現しない工程である。
特に最上甲板及び飛行甲板の搭載から進水までの期間が極端に短く、
艤装工事が残工事のみだったと仮定しても十分な工数が取れたとは思われない。
19年7月に工期の短縮に伴って気密試験の省略が指示されているが、
気密の不備は船殻以上に艤装関係で発生していたものと思われる。
進水から竣工までの期間が短いと言うことは、
艤装員(就役後に乗員となる)の発令にも大きく影響していたはずである。
一般的には進水直前に最初の艤装員が発令され、
その後艤装が進むに連れて艤装員もその数を増し、
海上運転等にも同乗して竣工時には艦の運航に支障が無いように考えられている。
本艦の場合には最初の艤装員が着任したのは19年7月か8月頃のようであるが、
進水はともかく竣工まで4ヶ月にも満たない状態である。
その後の艤装員の増強がどのようであったかは不明であるが、
出渠後の日数から考えても十分に習熟してから竣工に臨んだとは思われない。
恐らく艦の運航に精一杯で、
防火防水訓練等は全く実行されていなかったのではないだろうか。
旧海軍においては、攻撃訓練は列国よりも厳しく実施されていたが、
その反面応急作業に関しては極めて認識が薄く、
十分な研究・訓練が行なわれていたとは思われない節がある。
本艦の場合にも19年7月の竣工期の大幅繰上げに際しては、
『一度戦争に参加し得るに是非必要たるもののみ完成』させ、
『其の他は再び帰港の上工事を完成』する、
と言う条件が付けられていたそうである。
具体的な事項は明記されていないが、
この文面から推定出するならば、航空機を発進させ得ることを主目標とし、
被弾時の対策は二の次であると解釈して差し支えないであろう。
19年7月と言えばマリアナ沖海戦の結果も十分に認識されているはずであるが、
応急作業の重要性は現場の人間にしか理解されていなかったのであろうか。
空母『大鳳』の軽質油タンクからの漏洩に関しては注目されているようで、
それまでの周囲区画への海水注入による漏洩防止ではなく、
鉄筋コンクリートの充填による区画の密閉を図っている。
これ自体は平時においては好ましくない方法であるが、
戦時下であることを考えれば適切な処置であったと言うことが出来る。
しかし全体的に見ればこのような対症療法的な処置に終始し、
最後まで応急に対する関心は甘いものであったと言わざるを得ない。
『信濃』は気密試験を省略した状態で呉への回航に臨んでおり、
それ故に僅か4本の魚雷で沈んでしまった原因もこの影響であると言われている。
しかし実際に気密試験の省略が最大の原因であったのか、
もう少し突っ込んで検討してみることにする。
気密試験という言葉は知っていても、
実際にどのようなことをやるのか知っている人間は少ないと思われるので、
先ずは簡単に気密試験に関して紹介しておく。
なお艦艇の区画は一般的には気密区画ではなく水密区画と呼ばれているが、
この点に関してはトップページから「艦船技術」の「水密・気密」を参照して頂きたい。
なお同記事は現在の溶接艦の監督官を勤めた経験に基いて記述しているが、
鋲接艦の場合には検査箇所は遥かに広大なものであったものと思われる。
具体的に言えば溶接艦なら板の継手や管等の貫通部を検査すればよいが、
鋲接艦ではフレームやビーム等の取付けでも板に穴を開けているので、
全ての鋲接箇所について検査しなければならないはずである。
現在では水密又は気密試験を行なう時期はブロックであれ船台搭載後であれ、
船殻工事が終わった段階で該当箇所の検査を速やかに実施している。
艤装品が取付けられると実施不可能となってしまう場合もあるし、
漏洩があって手直しが発生した場合でも容易に工事が可能だからである。
この流れはフレームを立ててから外板を張っていく鋲接艦においても同様と思われ、
主防御部の区画に関しては水密性が確認出来ていたものと推測される。
即ち缶と主機は空母への改造が決まる前に搭載されているので、
蒸気管等の隔壁や甲板貫通部の施工方法は前2艦と同様と思われ、
水密性に関しても同レベルで確認されていたものと思われる。
なお缶室や機械室のように密閉することの出来ない区画は、
完成しても区画に圧力をかけての気密試験は実施することが出来ない。
故に中甲板を搭載する以前に隔壁等の水密性を確認しておくのが普通であり、
後の気密試験の省略とは全く無縁であったと言うことが出来る。
前述したように19年7月に『防毒区画の気密試験を省略』するよう指示されているが、
具体的にどの区画を示しているのかは不明である。
しかしその直後に最上甲板が搭載されていることから考えれば、
上甲板以下の区画については殆どの区画で気密試験が終了していたものと思われる。
甲板を貫通して上部へ通じる通風管等に関しては不可能な箇所もあったかもしれないが、
水密隔壁に関しては少なくとも船殻関係の水密性は確認されていたはずである。
船殻構造が鋲接なので水密は確保出来ても気密は保てない場合もありうるが、
水密が十分であれば隣接区画へ浸水が拡大していくことは無い。
昭和19年頃には熟練工の召集も増加しているようであり、
工員の減少に対しては民間の造船所等からの応援で対処しているが、
やはり質的な低下は避けられなかったものと思われる。
特に陸上部門から派遣された工員の技量では鋲接箇所の水密性を期待出来ないので、
あるいは水密性が不十分な隔壁や甲板があったかもしれない。
しかし鋲接箇所からの漏洩は破孔や諸管等の破損に比べれば微々たるものなので、
7時間余りで沈没するような大量浸水に繋がるとは考えられない。
このように本艦の水密性を検討してみると、
最も大きな区画を占める主防御部の水密性は確保されているはずなので、
気密試験を省略したからと言って直ちに沈没に至るとは考え難い。
ただし空母の場合には別記事消火水と復原性でも述べているように、
それほど横傾斜が大きくなくても舷側の通風路等から浸水する可能性がある。
気密が不十分で浸水が拡大していったと考えるよりも、
乗員の慣熟訓練が不十分であったために適切な反対舷注水が行なわれず、
傾斜を戻せずに舷側からの大量浸水を許すことになってしまったのではないだろうか。
本艦の出港時の状態は不明であるが、航空機及び軽質油・爆弾は当然未搭載であり、
燃料も回航に必要な分を多少上回る程度のものではなかったかと思われる。
弾薬類に関しては不明であるが、搭載していたとしても満載には至らなかったことだろう。
航空機が無いことは重心降下につながるが、その他の未搭載物件は全て重心を高めることとなる。
重心が高くなると僅かな浸水でも大きく傾斜することになるので、
乾舷の増加を考慮してもより早く最上甲板が海に浸かることになったと思われる。
もし重心の高さが計画よりも大幅に高いものであったとすれば、
僅かな被害でも転覆に至ることは十分に考えられる。
呉への回航に際しては残工事を行うために多数の工員が同乗していたようであるが、
このことからは工事に必要な工具・材料等の撤去が不十分であったことも考えられる。
可燃物の撤去はマリアナ沖海戦以後より徹底したものになったとされているが、
本艦の場合には戦闘行動を目的として出港したわけではないので、
艦内に多数の可燃物が残っていたとしても不思議ではない。
被雷に際しては火災が発生する場合も多いが、
本艦の場合にも発生していたかどうかは不明である。
前述したように『信濃』では艤装員が着任してからの期間が非常に短いので、
艦全体の応急作業を的確に指示できる人間はいなかった可能性も高い。
火災が発生していれば防水作業に優先して消火に努めなければならないが、
指揮官が適切な指示を下さなければ漫然とした放水を続けるだけとなり、
艦内に溜まった消火水の排水作業まで実施することは無かったであろう。
やはり消火水と復原性の中で述べていることだが、
消火水の増加は復原力に悪影響を及ぼす。
生存者の証言で火災に関するものは無いかもしれないが、
それは火災が発生しなかったことを証明するものではなく、
その人の置かれた立場で火災に遭遇しなかっただけのことであると考えられる。
空母となった『信濃』は戦艦に比べれば艦内配置も単純なものになっているが、
それでもこれだけの巨艦の被害状況を把握するのは困難である。
ましてや深夜の被雷であるからある程度でも状況を把握出来たのは当直員だけと思われ、
殆どの乗員及び工員は状況が分からないまま退艦もしくは沈没に巻込まれたのではないだろうか。
全体の応急作業を指揮した人間の証言が得られない限り、
本艦沈没の真相を知ることは出来ないような気がする。
結局沈没の真相は分からないと言う結論になってしまうのであるが、
気密試験の省略が4本の魚雷で沈没した原因ではなかったと言うことは強調しておきたい。
とかく人間と言うものは先入観があるとその方向に流れ勝ちであり、
その結果に不満が無ければ何の疑問を持つことも無く納得してしまう。
その典型的な例がヒンデンブルクの火災であるが、
本艦の場合もそれに匹敵するのではないかと思われる。
最後は沈没原因とは関係無い話であるが、その特異な建造工程に纏わる話を紹介しておく。
一番艦の『大和』は呉の建造ドックで、二番艦の『武蔵』は長崎の船台で造られているが、
本艦の建造が進められたのは横須賀の修繕ドックである。
新艦の建造用としては施設の整備が追いつかない状態であったが、
結果的には修繕ドックで工事を進めていたからこそ、
曲がりなりにも空母『信濃』として完成したと言うことが出来るかも知れない。
当初の予定では進水は18年10月であり、
進水重量は他艦同様35,000屯程度であったものと思われる。
しかし実際に注水して浮揚させたのは就役間近であるから、
進水重量は60,000屯近くになっていたのではないかと思われる。
建造ドックは修繕ドックよりも深さが浅いので、
建造ドックで工事が行なわれていたとすればもっと早く進水させなければ浮揚出来なくなる。
建造不可能と言うわけではないのだが、工程が更に遅れたものになっていた可能性は高い。
勿論船台での建造では進水重量の著しい増加は許されないことである。
新艦建造時の盤木配置は進水時までの重量を支えられるように計画されているが、
本艦の場合には建造中の重量が大幅に増えていくので、
その都度盤木の数を増強して行ったものと思われる。
盤木を据えてから部材を載せていくのは容易なことであるが、
既に出来上がっている船底への盤木の増強は困難な作業だったことと思われる。
本艦の建造では施設の不備に加えて人員・資材が不足する状況となっており、
更に目まぐるしい線表の変更と言う悪条件が重なったにもかかわらず、
就役に漕ぎ着けた関係者の努力は称賛に値すると言って良いだろう。
それだけに『信濃』沈没の報を受けた時の落胆は、
用兵者よりも大きかったのではないだろうか。
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