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 沖縄527(2)(07.6.27一部修正)

3.交戦日に関して

 前節の「渡辺山での戦闘」は、 生還した小板橋平三氏の回想録「沖縄一兵卒の足跡」を主体とし、 その他の戦友の話を付け加えて作成したものである。 小板橋氏の回想録によれば、渡辺山に入って守備に付いたのが24日、 そして米軍が攻めてきたのは3日目の朝となっている。 前節でもそれに従い、交戦日は26日としている。 しかし交戦日に関しては27日である可能性もあるので、 以下この点について検討を進めることとする。
 
1)渡辺隊の証言
 
 戦後間もない1948年に渡辺中尉の遺族が作成した追悼録によれば、 渡辺中尉の戦死は27日とされているので、交戦日は27日と言うことになる。 渡辺中尉の母君は寄稿文の中で、同地区を守備していた知人の中尉からの情報により、 27日に研一氏が戦死したことを、初めて知ったと記述している。 更に21年9月には公報(戦死公報と思われる)を受け取ったと記しているが、 こちらでは日付には触れていない。
 小板橋氏も上記追悼録に寄稿しているが、 その中では戦闘が行われたのは27日であると記している。 回想録が戦後40年を経て書かれたものであることを考慮すれば、 復員直後に書かれた寄稿文の方が信頼性は高いものと思われる。 回想録では27日と言う日付ではなく、 渡辺山に布陣してから3日目の朝と言う表現をしている。 3日目ならば26日になるのであるが、もしこれが小板橋氏の勘違いで、 3日経過した後の朝、であったとすれば、 戦闘が行われたのは27日と言うことになる。
 昭和56年3月下旬、渡辺隊の生き残り数名が現地を訪れている。 小板橋氏以外は、復員後同地を訪れるのは初めてである。 戦後36年が経過しているにもかかわらず、 農村部である渡辺山周辺に大きな変化はなかったようである。 渡辺山自体は若干低くなっていたようであるが、 全員がその丘が自分たちの戦場であったことを確認している。 そして口を揃えて、戦闘が行われたのは海軍記念日であった、と証言している。
 当時の人間ならば海軍関係者でなくても、 5月27日が海軍記念日であることは知っている。○月×日と 数字で覚えている場合には、長い間にはあやふやになってしまうことも多い。 しかし「海軍記念日」であったという記憶は、年月を経ても衰えることはない。 渡辺隊隊員の証言によれば、戦闘が行われたのは27日であった可能性が高い。
 
2)戦史叢書
 
 前節の記事の中で、 部隊の編成については戦史叢書「沖縄方面陸軍作戦」を参考としている。 26〜27日の戦闘については、同書には次のように書かれているだけである。
 
 26日:与那原方面においては豪雨の中で激戦が続いた。 米軍は与那覇地区から西方及
   び南西方の87高地方面に猛攻して来た。 所在部隊は善戦して米軍に多大の損害を
   与えて撃退した。
 27日:与那原方面においては米軍の攻撃もゆるやかで戦線に変化はなかった。
 
 戦史叢書には渡辺山での戦闘に関する詳細な記録はないが、 同書によれば戦闘が行われたのは26日である可能性が高い。 しかしこの箇所の記述の基になっている軍直轄部隊史実資料に関しては、 渡辺隊の生存者は一切関与していない。 この点も含めて戦史叢書の信頼性については後述する。
 
3)OKINAWA:The Last Battle
 
 同書は米陸軍の公刊戦史とも言うべきもので、 その信頼性はかなり高いものと思われる(Web上でも閲覧可能)。 渡辺山付近での戦闘に関しては第14章「雨中での戦闘」の中で、 第7師団の戦闘に関連して書かれているが、要約すれば概ね次のようになる。
 
 26日は降雨量が90ミリに達するほどの大雨であり、 それ以前から降り続く雨のために戦車は泥濘地にはまり込んで動けなかった。 日本軍が戦線を保持する上で最も重要なことは、 喜屋武東方の Duck 及び Mabel Hill の2つの丘周辺を確保しておくことだった。 そこで第32連隊は同地点の突破を試みたが、Duck Hill での激しい戦闘により、 多数の死傷者を出して退却させられた。 戦闘は非常に激しい乱戦となり、 Duck Hill からの退却では死体を残さざるを得ない状況であった。
 27日には前進はなく、28日は偵察以外に積極的な行動はなかった。
 
 小板橋氏の推測によれば、Duck Hill が渡辺山であると考えられている。 Web版の地図では文字まで読み取ることが出来なかったのだが、 国会図書館で原書を見て確認することが出来た。 渡辺中尉を射殺した敵兵の遺体も置き去りのままであり、 渡辺山での戦闘経過とも一致している。
 この資料によっても、戦闘が行われたのは26日と考えられる。 27日は前進がなかったと言う表現だけで、戦闘が無かったとは書かれていない。 しかし死者を置き去りにするほどの戦闘であれば当然記録されているはずであるから、 27日には戦闘そのものがなかった、と解釈するべきであろう。
 
4)沖縄戦アメリカ軍戦時記録
 
 上原正稔訳編・三一書房発行。 本書はアメリカ第10軍G2Reportを中心として、 その他の資料を加味しながら編集したものである。 26〜27日の戦況の中から、渡辺山に関連する箇所を抜粋して紹介する。
 
26日:全ての前線で車両が使えず、物資を手で運ぶ。 第7師団第184連隊は500ヤード前
  進し、大里高地を占領。 与那覇北西800〜900ヤードの地点から、日本軍の小火器と機
  関銃攻撃。 大里、西原の断崖を攻撃するアメリカ軍に対し、日本軍は徹底抗戦。
27日:降り続く雨とぬかるみのため、両軍団地区の作戦は戦闘偵察に限られる。 第7師
  団は西に前進しようとして、日本軍の激しい抵抗にぶつかる。 だが偵察隊は1マイル
  半南進し、稲嶺へ到着。日本軍の組織的抵抗なし。 首里の守備軍が弱まった徴候はな
  い。 全前線で、アメリカ軍偵察隊に対し強力な抵抗。 例外として、与那原の南と南西
  での抵抗は弱い。 師団西、与那覇から喜屋武東と南に至る山岳地帯で、日本軍の猛烈
  な抵抗あり。 一日中迫撃砲、機関銃、ライフル攻撃。 この一帯の日本軍陣地を宮平の
  3門の対戦車砲と3台の軽戦車が支援している。
 
 この記録によれば、26日には渡辺山方面での戦闘記録はないので、 渡辺山での戦闘は27日と考えられる。 しかし偵察行動としては戦闘規模が大き過ぎるし、 偵察隊とは言え稲嶺まで到達するとは考えにくいので、信頼性に関しては疑問が残る。 渡辺山も「喜屋武南の山岳地帯」での抵抗に含まれるかと思われるが、 実際には山岳と呼べる程のものではなく、重火器による反撃も行っていない。
 
5)交戦日の推測
 
 戦史叢書の信頼性に関しては、部隊編成等を除いて大いに疑問がある。 出典としては資料3)に大きく依存しており、 それに加えて戦後復員局が部隊関係者に回想記述させた資料を参考としているようである。 しかし渡辺隊の生存者からは、そのような依頼を受けたと言う話は聞いたことがない。 回想の依頼は一部に曹長の階級が見られるものの、その他は全て将校の証言となっている。 渡辺隊の場合には唯一の将校は戦死しており、復員したのは招集兵だけである。 一兵卒の証言などは、取るに足らないものであると言うことなのだろう。
 将校であっても戦史叢書は陸士又は海兵出身者の証言を重視し、 一般大学や下士官から昇進した将校の証言を軽視していることは、 他の多くの書物でも指摘されている。 組織と言うものは軍隊に限らず、その組織に有利なことだけを記録として残す傾向にある。 米軍の記録でも程度の差はあるとしても、同様の傾向はあるものと考えなければならない。 メディアの発達した現在においても、あるいはメディアが発達すればするほど、 戦場の真実は表に出てこなくなる可能性が高い。 中国の史記は唯一の例外であるとも言えるが、 今後このような記述が生まれることは無いであろう。
 
 戦史叢書では交戦日を特定することはできないが、 資料3)によれば交戦日は26日の可能性が最も高い。 しかし資料4)によれば戦闘は27日と考えられ、 特に注目したいのは「与那原南西の抵抗は弱い」と言う記述である。 多くの日本軍陣地が最低でも機関銃は装備しているのに対し、 渡辺山では小銃のみであり、弾薬も乏しいものであった。 米軍は渡辺山が防御上の欠陥部であると判断したので、 戦車の支援が得られないことを承知で攻撃をかけてきたものと思われる。 後方まで兵士が回り込んでいることから判断しても、 これは単なる偵察行動ではなく、 明らかに渡辺山を奪取するための攻撃であると考えて良いだろう。
 資料3)と資料4)の記述には矛盾点が見られ、交戦日を特定することは出来ない。 と言うことであれば、やはり渡辺隊の生存者の証言が正確な交戦日であると考えられる。 交戦日は「海軍記念日」の5月27日であり、小板橋氏の回想録の記述は、 3日後を3日目と勘違いしたものと思われる。
 
4.考 察   地図を見る
 
1)日本軍に関して
 
 沖縄防衛の第三二軍は、遠く離れた大本営に振り回され、 その力を十分には発揮出来なかったと言って良いだろう。 敵の侵攻を肌で感じている現地の部隊が実戦的な対策を進言しているのに対し、 弾の飛んでこない安全地帯で図面だけを眺めているお偉いさんの考えは、 実戦とはかけ離れた机上計画に終始したと言って良いだろう。 現地の将兵は死力を尽くして戦っているのであるから、 余計な口出しが無ければもっと善戦していたことは確実である。
 日本陸軍のそれまでの戦いは大陸を戦場としており、 孤立した島々での戦闘は太平洋戦争が始まってから経験することになる。 従って大陸とは戦闘の様式が大きく異なる弧島での戦闘経験者は、 大本営には存在しなかったものと考えられる。 島嶼防衛は陸続きの大陸での戦闘とは全く異なり、 隣りの島で戦闘が行われていても戦闘に参加することは出来ない。 こうした当たり前とも思える認識が、大本営では全く欠けていたとしか思えない。
 三二軍の西部軍への編入は無意味なものであり、 更に台湾軍への編入に至っては愚の骨頂であると言えよう。 しかし仮に書類上でそのような指示をしたとしても、 実際の戦闘計画を現地部隊に任せれば極端に大きな問題には発展しない。 戦場を一番良く知っているのは現地にいる部隊なのであるから、 上級司令部は補給と情報だけを担当し、 現地部隊が最善を尽くせるよう支援するのが最善であろう。 しかし日本の場合には全く逆であり、口は出すが物は渡さない、のが実情であった。
 20年になってからの第九師団の台湾派遣も、常識外のものであると言えよう。 直接的には沖縄残存部隊の配備変えと言う大きな問題が発生し、 十分な築城が出来ないまま決戦となってしまった部隊も多いようである。 第九師団の施設をそのまま使える場合もあっただろうが、 部隊が変れば編成も配置も変るので、無駄となってしまった施設も多いかと思われる。 その他にも移動に伴う膨大な労力の損失が発生することとなるが、 資材も油も船舶も不足している状況において、 不要に国力を消耗してしまったことになる。
 
 決戦間近の3月になってからも高級将校の人事異動が行われているが、 これはどうみても戦時下にある軍隊の姿とは思えない。 穿った見方をするならば、これは体の良い敵前逃亡であると言うことも出来よう。 残された将兵は、果たしてどのような気持ちで見ていたであろうか。
 本人に言わせれば、命令だから当然の行動であると言うだろう。 しかしながら僅かでも責任感のある人間ならば、そのような命令は拒否することであろう。 命令を拒否すれば当然軍法会議と言うことになるだろうが、 軍司令官はそのような愚かなことは実行しないであろう。 あるいは書類上は実行したことにして、実際には戦闘に参加させたかもしれない。 死を覚悟した人間は、実力以上の力を発揮するであろうから。 勿論配下の将兵は熱烈歓迎し、一丸となって戦意も大いに向上することであろう。
 下士官兵や下級将校にあっては、人事に口出しすることは出来ない。 勿論高級将校にあっても人事に口出しすることは禁じられていたはずだが、 軍隊に限らず組織と言うものには、必ず抜け道があるものである。 その道の人間にツルを作っておけば、 移動の希望が実現する可能性は高いことであったろう。 異常としか言いようの無い人事異動に対しては、 怨嗟の眼差しが集中したことであろうし、戦意が向上するはずも無い。
 吉田軍曹は下士官の身でありながら、軍法会議を承知で実情無視の命令を拒否した。 命令であることを錦の御旗とし、平然として戦場を後にした将校の行動と比べて、 どちらが本当の軍人にふさわしいものであると言えるだろうか。
 
2)後方部隊の実情
 
 大本営は南西諸島の防衛のため、大陸からの部隊の移動を図ると共に、 多くの兵を新たに招集して部隊を編成している。 しかし兵員と部隊数こそ増加したものの、装備や訓練に関しては十分であったとは思えない。 陸上勤務第七二中隊の場合には小銃と手榴弾だけであるが、 恐らく他の部隊も同様なものであったと思われる。 豊富な重火器を装備した米軍に対し、二昔以上前の装備で立ち向かうことになったのである。
 渡辺隊の場合、出征前に本格的な訓練を受けたと言う話は聞いていない。 部隊編成が7月13日付であり、16日には高崎を発っているので、 基本教練は行われたとしても、部隊としての訓練は実施できなかったはずである。 沖縄に着いてからも後方部隊は支援のための日常業務に追われ、 訓練や築城の時間は与えられなかったものと思われる。 乏しい弾薬しか与えられない状況では実弾射撃の実施は望めないし、 恐らく射場すら無かったのではないかと思われる。
 小板橋氏の回想録によれば、 戦闘に際しては「銃身が焼けて弾が撃てなくなった」と記述されている。 しかし与えられた九九式小銃はボルト式の銃であり、 与えられた弾薬も僅かなものであったのだから、 銃身が焼け付くほどの射撃を行うことは不可能である。 大戦末期に製造された同銃の信頼性は極めて悪かったと言われているが、 恐らく小板橋氏の銃も故障により撃てなくなったものと思われる。 後方部隊には銃剣ですらまともな物が支給されていないのだから、 小銃でも「取りあえず持たせておけば良い」と言った程度の考えだったのかもしれない。 内地では竹槍での戦闘訓練がなされていたと言うが、 流石に敵の上陸を間近に控えた現地部隊にあっては、 銃も持たせずに配置に着けとは言えなかったのであろう。
 
 直接戦闘とは関係無いが、ついでに輸送中の状況も説明しておく。 輸送船とは言っても結局はただの貨物船であり、人間を運ぶための特別な設備は無い。 兵員は全て船倉の底に追い込まれ、寝食は全て船倉内で行うこととなる。 大きな船倉であっても人間がいられるのは底だけであり、 畳1帖の面積に2人以上の混雑であったという。 出港は8月の暑い盛りであったが、当然貨物倉には換気設備などは無い。 勿論甲板を吹き抜ける風も船底までは届かない。 食事は上甲板から下ろされてくるが、良くてにぎり飯、通常は乾パンであった。 水は1日当たり飯盒の蓋1杯に過ぎず、これで10日間の航海を過ごしたのである。 不足分は機械に結露した水滴を集め、 油分を取り除いて飲んでいたそうであるが、 航海中に1名が病死している。
 大便は上甲板から舷外に突き出した2枚の板にまたがって行い、 小便は船倉内の桶で用を足した。 ある程度溜まれば上甲板に引き上げて捨てることになるが、 揺れる桶からは跳ねた小便が撒き散らされる状態であった。 救命胴衣の数は半分にも満たないもので、くじ引きで配布したと言う。 外からみれば立派に見えるかもしれない輸送船団も、 船内では想像も出来ない苦労の連続だったのである。
 後方部隊が通常業務に追われ、築城の余裕がなかったことは既に述べているが、 装備も貧弱なまま戦闘に突入したこれらの部隊は、 正規部隊の戦闘を有利にするための捨て駒的要素が強いものであった。 人海戦術と言うと損害を顧みないでの突撃が頭に浮かぶと思うが、 後方部隊の戦闘は防御の人海戦術であったと言うことが出来るかもしれない。 俗に召集令状のことを1銭5厘と呼んだそうだが、 それは築城資材よりも安い予算で賄えた資材であったのかもしれない。
 渡辺山での戦闘において、渡辺中尉は砲兵隊に支援を依頼したが、 臨時編成の部隊からの、しかも陸士卒で無い将校からの依頼では、 砲兵が行動を起こすはずも無かった。 勿論建前上は上級司令部からの命令が必要となろうが、 僅か1q半しか離れていない所での戦闘なのだから、 当然砲兵隊でもその状況は把握出来たはずである。 司令部からの命令が必要なのであれば戦況を報告し、 拠点確保のための射撃許可を申請するべきであろう。 戦況を考慮せずに前線部隊からの要請を機械的に無視してしまうとは、 戦時と平時の区別もつかない愚かな行為としか言いようがない。 渡辺山を落とした米軍がそのまま進撃を続ければ、 神里の砲兵隊は容易に潰滅していたことであろう。 大量の弾薬と共に米軍に捕獲された野砲の写真もあるが、 戦況に応じての柔軟な運用に欠けていたことは、 硬直化した考えしか持たない日本陸軍の大きな欠陥であったと言えよう。
 
3)アメリカ軍に関して
 
 沖縄における米軍の作戦方針は、 それまでの島嶼とは大きく異なっていると言うことが出来よう。 一つには非戦闘員である住民対策をどうするかであり、 これはそれ以前には考慮する必要の無い問題であった。
 直接的な戦闘方針に関しても、例えば硫黄島と比較しても大きく異なっている。 硫黄島では早期の占領、特に飛行場の確保が急がれており、 戦闘を急いだ結果が多大な損害となって現れたと見ることが出来る。
 沖縄戦においては、日本軍の損害の割には米軍の損害は少ない。 これは硫黄島での戦闘を研究して臨んだこともあり、 日本軍の防御陣地が不完全なものであったことも原因であろうが、 米軍が進撃を急がなかったことが最大の要因であったと言うことも出来よう。 防御が堅い地点に対しては徹底的に砲爆撃を行い、 戦力が弱まるのを待ってから戦車の支援下に進撃占領する。 たとえ攻略に時間がかかっても、兵員の損害を最小限に止める、 これが米軍の基本的な戦略であったと推察することが出来る。
 安全第一とも思える米軍の行動であったが、 逆に弱いと思われる地点に対しては積極的に突撃を行い、 確実に占拠しているようである。 渡辺山の場合にも小銃だけの反撃しかないことから弱点であると判断し、 防御部隊の戦力を減少させるための攻撃ではなく、 渡辺山の占領を意図しての突撃であったものと思われる。 結果としては渡辺隊は潰滅的な打撃を受けながらも、米軍の撃退に成功した。 砲兵の支援も無しの戦闘であるから、 米軍としては全く予想外の結果であったことだろう。
 米軍は日本軍が撤退する徴候をつかみながらも、断定までは出来なかったようである。 両翼の日本軍の弱点部へは浸透しつつも、首里の攻略を急ぐことはしなかった。 首里の陥落以降は掃討戦の様相を呈しているが、 やはり米軍は確実に前進することを基本としていたようである。 一点を突破して奥深くまで侵入する電撃戦ではなく、 全戦線で圧倒して行く古典的とも言える戦略であるが、 沖縄のような洞窟戦においては最善の戦略であったと言えよう。
 首里陥落後は、要所の攻撃においても突撃などは行っていないようである。 攻撃が撃退されたとしても、その攻撃が敵陣の奪取を目的としたもので無ければ、 戦闘に負けたと言う意識は持たないのではないかと思う。 渡辺山での戦闘は要点奪取の目的を打ち砕いた数少ない戦闘であり、 あるいは最後の戦闘であったかもしれない。
 
4)渡辺山・IF
 
 戦争に「IF」は要らないとも言われる。 日本流に言えば「たら、れば」は無用と言うことになる。 もし第九師団が残っていたら、もし築城資材が十分であれば、 と言うようなことを言ってもしょうがないと言うことである。 だがそれを承知で、IF渡辺山が突破されていたら、 その後の戦闘がどうなったか推定してみたい。
 渡辺山を突破すればその南には急峻な地形は無く、 山川と神里の間を通って長堂川沿いに西進すれば、 津嘉山の南に出て首里を包囲する形となる。 首里の防御陣地は北面に対しては強力な火力を発揮出来るようになっているが、 南面に対する防御力は数段劣るものと考えられる。 首里の防衛部隊はそのまま残っているので、 包囲されても首里の陥落自体は実際よりも遅くなったことであろう。 その反面喜屋武半島に残っている部隊は装備・兵力共に弱体化しているので、 沖縄戦全体の終結は格段に早まったことであろう。
 もし米軍の侵攻が渡辺山に留まったとしても、 収容陣地のある津嘉山までは僅かな距離しか離れていない。 更に喜屋武から山川に至る丘陵地帯には強固な陣地は無く、 部隊が配置されている形跡も無いので、 偵察隊が進入すれば後退する日本軍を発見することは難しいことではない。 津嘉山は渡辺山からでも迫撃砲の射程に入るので、日本軍は首里からの撤退を断念するか、 多大の損害が発生することを承知の上で後退することになるだろう。 いずれにしても、やはり沖縄戦の終結が早まったことは確実である。
 日本軍の撤退は渡辺山での死闘、 そして「神風」ならぬ長期の「神雨」に助けられて成功した。 もし晴天で戦車が使える状況であったなら、 小銃しか持たない渡辺隊では丘を保持することは出来ない。 渡辺山が早期に陥落し、戦闘が首里周辺での攻防に留まったとしたら、 6月以降の喜屋武半島での戦闘は軽微なものになっていただろうから、 あるいは住民への被害は軽いものになっていたかも知れない。 沖縄の陥落が早まれば日本の降伏も早まり、原爆の投下は無かったかもしれない。 しかし日本で原爆が使われなければ、朝鮮半島で使われることになったであろう。
 何れもIFの世界である。
 現地の部隊は目前の敵に対して最善を尽くす、ただそれだけのことである。
 
5.終わりに
 
 渡辺中尉は戦死後大尉に昇進しているが、私は一貫して中尉と言う表現を使っている。 四角四面に考える人は使い分けるべきだと言うかもしれないが、 敢えてそのようなことはしなかった。 渡辺中尉自身が、そんなことはどうでもいいよ、と言うような気がするからである。 勿論お会いしたことは無いのだが・・・
 渡辺隊153名の中、生還したのは12名のみである。 しかし復員してから戦傷が元で死亡した人もいる。 役所には戦傷であることを申請したそうだが、将校の証明が無ければ駄目だと言われ、 結局国からは何の援助も得られなかったそうである。 たった一人の将校は戦死し、上部組織である連隊本部の将校を探すことなんて、 負傷した一民間人に出来ようはずも無かった。 召集は1銭5厘で簡単に行うが、補償となると背を向けるのは国家の常である。
 私が子供の頃には、手足を失った復員兵が白装束で街頭に立ち(立てない人は座り)、 ある人はアコーディオンを弾きながら、ある人は全く身動きもせず、 道行く人からの寄進を待っている姿があちこちに見られた。 恐らくあの人たちも国からの援助が得られず、負傷のために働くこともまま成らず、 物乞い同然の生活を強いられたものであろう。
 
政府に責任と言うものは存在しない。
そして今その政府が暴走を始めている。
再び沖縄戦のような事態が発生しないと言う保証は無い。
しかし政府の暴走を許しているのは国民の無責任さにも一因がある。
何れはその付けが回って来ることになるだろう。
だがそれも歴史の一コマに過ぎない。
歴史は繰り返すものである。

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