5月27日は言うまでもなく旧海軍の海軍記念日であり、
日露戦争における日本海海戦の勝利に因んでいることも周知の通りである。
平成17年はその日本海海戦から100周年となるが、
では日本海海戦から40年後、
即ち1945年(昭和20年)の5月27日にはどのような出来事があったであろうか。
1.沖縄戦概況
昭和20年4~5月の主戦場は沖縄であり、
5月下旬には米軍は首里の右翼(東側)を回り込み、
後方に進出して包囲するように攻勢を強めていた。
このような戦況を考慮して日本軍は首里からの撤退を決めており、
如何にして損害を押さえつつ、南部に撤退するかが大きな問題であった。
日本軍が主戦場と想定していた首里地区は、
台地を利用して堅固な防御陣地が築かれていた。
首里周辺の独立した台地も同様で、
利用できる地形は有効に活用して防御線を形成していた。
しかし地形によっては陣地の構築が困難であり、
守備方針の変更とも相俟って防御上の弱点となる箇所もあった。
首里東方の与那原地区もその一つであり、
M4戦車を伴う米軍はじりじりと進出して来た。
有効な対戦車火器も無く、堅固な陣地に頼ることも出来ない部隊にあっては、
米軍の進行を防ぐ術は無かった。
戦車に対する肉薄攻撃などと言うものは、
弾の飛んでこない大本営においては有効であったかもしれないが、
実際の戦場においては損害の方が遥に大きかったのである。
首里台地の東南端、南風原村喜屋武地区には野戦病院が置かれ、
87高地と呼ばれて首里防衛の一端を担っていた。
87高地から東方へ約2㎞の古堅地区までの地域は、
比較的平坦な地形となっていて堅固な陣地は構築されていなかった。
なお87高地から与那原地区へは、北東へ3㎞弱の距離となる。
防御戦線を形成する上で、各部隊の担当地域の境界線が弱点となることは、
戦闘形式の如何にかかわらず古来より知られている。
上記の地区は正にその典型であり、
第六二師団と独立混成第四四旅団との境界線となっていた。
陣地を構築する場合には、当然堅固な地形を優先して場所を選択する。
平坦地への布陣を嫌うのはどちらの部隊も同じであり、
結果としては防衛上の欠陥となってしまった訳であるが、
実戦部隊としては止むを得ないことだったのかも知れない。
沖縄では米軍の上陸が近くなってから1個師団を抽出しており、
急遽残存部隊の配置換えが行われている。
それ以前は首里周辺の防衛は第9師団が担当しており、
同地区は連隊の戦闘地境となっていた。
地形的に境界線となってしまうのは止むを得ないのだが、
連隊間の戦闘地境から師団間の作戦地境へ変ってしまうと、
より一層融通が利かなくなってしまう恐れがある。
三二軍は大規模な移動を行い、米軍機の空襲も活発化してきたので、
築城の余裕が無くなってしまったのも一因かもしれない。
喜屋武半島への撤退を決定した軍司令部は、27日に首里から津嘉山へ移動している。
その他の部隊も28日から31日にかけて後退しているが、
その殆どが津嘉山付近を経由している。
下流にある真玉橋はまだ健在であったようだが、
艦砲の攻撃目標となっているので、
真玉橋経由による大部隊の移動は不可能だったようである。
津嘉山の収容陣地から87高地までは2㎞程度の距離であるから、
その東側への米軍の進出を許せば、津嘉山地区は迫撃砲の射程に入ってしまう。
87高地から南方の山川部落までは緩やかな丘陵地帯となっているので、
機関銃の攻撃を受ける恐れは無い。
26日の豪雨はその後も降り続き、米軍も思うように補給が出来なかったようであるが、
後述する渡辺山での戦闘状況から推測しても、
迫撃砲の弾薬は十分にあったものと思われる。
津嘉山が迫撃砲の射程内に入ったとすれば、
首里からの撤退は不可能であったと言って良いだろう。
米軍は上陸前から頻繁に航空機による偵察を行っており、
詳細な地図を作成して作戦に臨んだものと思われる。
部隊の配置までは把握することが出来なかったと思われるが、
地形的な弱点は当然調べ上げていたことだろう。
東部地区では海岸沿いに与那原を目指して進むのが、
戦車も使い易いし、艦砲の直接支援も受けられるので最善であろう。
与那原からは島袋を突破して87高地東へ進出し、
更に山川・神里を突破して東風平村に出れば、首里を包囲する形となる。
87高地の東南500m程の所に、標高で30数m(当時は40m強の可能性あり)、
周囲との標高差で20mにも満たない小さな丘がある。
米軍がDuck Hill、日本軍が後に渡辺山と呼ぶようになった丘で、
この丘の南方は比較的開けた地形となっており、
装備の貧弱な日本軍では防衛は困難な地形である。
それ故に米軍もこの丘の占領、更には丘を突破して進出すべく、
豪雨で戦車が使えないにもかかわらず猛攻をかけてきた。
当時この丘を守っていたのは陸上勤務第七二中隊第一小隊であったが、
小隊とは言っても編成時の人員は153名の大所帯であった。
米軍上陸後守備位置を転々と変えている間に30数名を他部隊に派遣しているので、
戦闘時の実員は120名弱であったものと思われる。
小隊としては兵員こそ十分な数を揃えていたが、
元来が後方部隊であるが故に装備は極めて貧弱なものであった。
同隊の装備は小銃と手榴弾だけであり、1挺の軽機関銃すら無く、
当初の計画では1人当りの弾薬は120発(0.4会戦分)となっている。
しかし空襲及び弾薬輸送中の爆発事故により大量の弾薬を失っているので、
後方部隊に渡された弾薬はその半分にも満たなかったのではないかと思われる。
銃剣は軟鉄製で使い物にならず、竹光の銃剣を渡された者もいるくらいだから、
実際に渡された弾薬はもっと少なかったものと思われる。
貧弱な装備にもかかわらず渡辺隊は健闘し、
潰滅的な損害を受けながらも米軍を撃退した。
僅かに生き残った同隊隊員の証言を元に、当日の戦闘を紹介することとする。
2.渡辺山での戦闘
地図を見る
陸上勤務中隊は後方施設の警備等を目的として前年7月に編成された部隊であり、
沖縄本島には2個中隊が配備されて当初は三二軍直轄であった。
米軍の上陸が必至となった3月下旬、
軍司令部は後方部隊の運用の便を図って特設部隊を編成した。
陸上勤務第七二中隊(隊長:剣持作治中尉)は特設第一旅団特設第四連隊所属となったが、
第一小隊(隊長:渡辺研一中尉、以下渡辺隊と称す)のみは特設第三連隊所属となった。
特設第三連隊は兵器廠、特設第四連隊は貨物廠を中心とした部隊であり、
米軍の上陸当初は従来通り津嘉山周辺に展開していた。
首里地区を担当し、米軍と対峙していたのは第六二師団であったが、
戦闘が進むに連れて後方の第二四師団から増援部隊が派遣され、
その穴埋めとして渡辺隊は糸満北方の阿波根に移動した。
米軍上陸までの渡辺隊の任務は武器集積場の警備・
壕掘り・築城用木材の切出し等であり、
戦闘訓練は全く行っていない。
第一線の部隊が訓練と築城に専念して十分に戦力を発揮できるよう、
他の陸上勤務中隊と共にあらゆる雑用を引き受けていたと解釈して良いだろう。
なお群馬県高崎市での部隊編成から出征までは僅かな日数であり、
生存者から射撃訓練を行ったと言う話も出ていないので、
恐らく実弾射撃は戦闘に至るまで実施していないように思われる。
5月22日、与那原方面への移動を命じられ、
以前駐屯していた山川部落を経由して北東に向かった。
翌23日、目的地と思われる87高地東方1㎞の高地に近付いたが、
機銃射撃を受けて後退、同高地への移動を断念した。
米軍が占拠していた高地は標高55mほどの小さなものであるが、
直ぐ東隣りの若干高い丘も当然米軍の支配下にあったはずである。
周囲は開けた畑となっているので遮蔽物は無く、
小銃しか持たない部隊での昼間の接近は不可能であった。
特設第三連隊副官の回想によれば、
渡辺隊の属する第一大隊は渡辺山北東の大里村島袋、
第二大隊は那覇~与那原道路を越えて与那原町宮城、
第三大隊は島袋南東の大里村南風原部落への移動を予定していたが、
何れも米軍の占領下にあったので各部隊は後方に布陣することとなった。
三二軍司令部がどの程度戦況を把握していたのかは不明だが、
第二線部隊への情報伝達は軽視されていた可能性も有り得る。
結局目的地への進出が不可能となった渡辺隊は、
やむを得ず手前の丘に布陣することとなった。
これが渡辺山であるが、
最も近い600mほど離れた敵の55高地よりも20mほど低く、
若干ではあるが見下ろされる状態となる不利な地形である。
翌日の渡辺山への移動時には55高地からの射撃を受けているが、
死傷者を出すことなく布陣できたようである。
なお第一大隊に属する他の部隊の布陣に関しては不明である。
渡辺山は上部に塹壕が掘られ、西側に入り口のある退避壕が掘られていたが、
当初の部隊は移動しており、渡辺隊が到着するまで無人の状態であった。
前述したように特設第三連隊は米軍の進出状況を把握していないので、
渡辺山への布陣はまだ不要と考えていたものと思われる。
従ってもし米軍がこの状態を把握していたとすれば、
渡辺山は容易に占領されていたことであろう。
優秀な火器を装備した米軍に対し、突撃だけで丘を奪回することは到底不可能である。
渡辺隊が布陣する前日に米軍が渡辺山を占拠していれば、
その後の日本軍の移動は大きく制限を受けることになっていたであろう。
25日は終日迫撃砲と機関銃による攻撃を受けているが、
歩兵の進撃は無く、損害も発生していないようである。
前日の夜から少人数による夜襲を決行しているが、
もとより敵の撃退を期待したものではなく、
帰ってきた者はいないので成果は不明である。
また、米軍は津嘉山方面へ通じる喜屋武地区の道路に大量の迫撃砲弾を打ち込んでいるが、
人間の有無とは無関係に攻撃しているので、これは人員の殺傷を対象としたものではなく、
道路を破壊して移動に制限を与える意図によるものと思われる。
米軍は夜間でも正確に打ち込んでいることから、
既に詳細な地図が作製されていたものと考えられる。
26日は早朝から豪雨であったが、米軍の砲撃はより激しいものとなり、
歩兵の進撃が開始された。
渡辺隊では砲撃による損害を避けるため、歩哨を残して壕内で待機していたが、
血達磨になった歩哨が山頂から転がり落ちてきて敵の進撃を伝えた。
渡辺中尉は歩哨に持ち場に戻るよう指示し、
砲撃(迫撃砲と思われる)が激しいので南方の神里部落にいる砲兵隊に支援を依頼したが、
既に当日の割り当て分10発を撃っているので射撃は出来ない、との返事であった。
更に窮状を強く訴えて支援を依頼したが効果は無かったので、
壕内の隊員に山頂に向かうよう指示して自らも壕を飛び出した。
渡辺山では中央の壕に指揮班、左の壕に第一分隊、右の壕に第二及び第三分隊が入っていたが、
事態を察知して壕の出口で隊長の指示を待っていた。
結果としては砲撃支援の依頼をした分だけ配置に着くのが遅れることとなってしまったので、
先に配置に着くよう指示してから支援の電話をするのが最善だったということになるだろう。
しかし切羽詰った状態では経験豊富な職業軍人でも最善の行動は困難であり、
再召集された渡辺中尉にとっては止むを得ないことと言えるだろう。
渡辺中尉は山頂に向かっている時に後方から射撃を受け、
部下一名と共にその場で戦死した。
丘の左翼から回りこんだ3名の敵兵が、後方から機関銃による射撃を行ったのである。
後方の敵兵は手榴弾によって倒し、
全ての隊員が山頂に駆け上がって塹壕に入り、戦闘を開始した。
渡辺山一帯は畑地であり、堅固な岩盤地帯ではない。
壕も素掘りのままであり、コンクリートによる補強は施されていない。
渡辺山に掘られていた壕は他部隊が構築したものだが、
築城に必要な資材は第一線部隊に回され、
後方部隊は使用することが出来なかったものと思われる。
また、主力部隊が築城に携わっている時にも支援業務を行わなければならず、
自らの壕を強化する時間的な余裕は無かったものと考えられる。
首里一帯の戦闘が攻城戦のような様相であったのに対し、
渡辺山での戦闘は野戦そのものであると言うことが出来よう。
有効な防御施設に頼ることの出来ない戦闘では、
火力の性能差がそのまま戦闘結果に反映されることとなる。
隊長を失いながらも渡辺隊は小銃と手榴弾のみで反撃し、優勢な敵を撃退した。
しかし歩兵が撤退した米軍は、更に激しい迫撃砲による攻撃を続行した。
渡辺山には1箇所の銃眼も無く、全ての隊員は上部の開けた塹壕で戦っている。
塹壕では高い角度から落ちてくる迫撃砲の弾を防ぐことは出来ず、
隊員の死傷は増すばかりであったが、退避壕に戻ることは出来なかった。
山頂から撤退すれば再び米軍の進撃が始まり、
山頂を占領されれば馬乗り攻撃で潰滅することが分かっていたからだ。
生き残った兵士の話によれば、迫撃砲による攻撃が一番恐ろしかったと言う。
ニュース映画等では艦砲やロケット弾の派手な映像が流されることが多いが、
それらの攻撃は弾量の割りに効果は殆どなかったのである。
米軍は戦場一帯を碁盤目に区切って座標を作成しており、
番地を指定すれば任意の地点への正確な射撃が可能だったようである。
しかし艦砲の散布界はそれほど小さなものではないので、
射撃前には米軍も該当地域から大きく後退することとなり、
こちらも壕に入って避けることが出来るのだ。
歩兵の進撃も射撃が終了してからある程度の時間をおいてから始まるので、
壕を出てから戦闘配置に着いても十分に間に合うのである。
猛烈な迫撃砲の攻撃にも渡辺隊は後退することなく戦線を保持していたが、
それは部隊が潰滅的な打撃を受けることをも意味していた。
沖縄戦における米軍の攻勢は昼に限られており、
夜間は占領地域の防衛に徹していたようである。
日没になって砲撃は止んだが、渡辺隊で無傷の者はほんの僅かであり、
弾薬も撃ちつくしてしまった者が多かった。
死守と言う言葉があるが、渡辺隊の戦闘は正に死守そのものであり、
標的となって死ぬまでの時間が、
米軍の進撃を遅らせる時間に直結したと表現することも出来よう。
渡辺隊の将校は渡辺中尉ただ1人であり、
渡辺中尉の戦死後は先任下士官である第一分隊長の吉田軍曹が指揮を取ることとなった。
吉田軍曹の戦歴は不明であるが、
階級から推測すれば大陸方面での実戦経験はあったものと考えられる。
渡辺中尉も大陸での作戦に従軍しているが、装備の劣る中国軍との交戦経験は、
格段の火力を誇る米軍との戦闘ではそれ程役に立たなかったものと思われる。
吉田軍曹も分隊レベルの指揮を執った経験はあると思われるが、
分隊レベルを遥に超える100人もの指揮を取るのは初めてのはずである。
砲撃に曝されたままでは無謀とも思える山頂の守備を続行したのも、
後退が出来ないこととも相俟って無理からぬ行動であったと言うことが出来よう。
たとえ誰が指揮したとしても、小銃しか持たない部隊の行動は、
死ぬまで留まるか、それとも後退するかのどちらかしかあり得ないのだから。
戦闘終了後、足を負傷して歩けなくなっていた吉田軍曹は、
部下に背負われて特設第三連隊の本部に行って状況を報告した。
渡辺山への本格的な攻勢は、連隊本部では全く予期していなかったことであり、
渡辺山は当然陥落したものと思っていたらしい。
堅固な防御施設も無く、1挺の軽機すらない貧弱な戦力で、
味方の支援砲撃も得られない状況にあっては、
連隊本部の予想は当然のものであったと言って良い。
吉田軍曹の報告を受けた連隊長は感激し、米軍から鹵獲した機関銃の提出を求めた。
渡辺小隊長を倒した銃であるが、敵兵を倒した後で渡辺隊が使用していたのである。
日本軍は夜間の斬り込み隊とは別に兵器鹵獲班を適宜編成していたが、
どの程度の成果があったかは不明である。
しかしある兵士の回想によれば、夜襲が成功した時には米兵は一目散に逃げ出し、
小銃も機関銃も邪魔になるので携行しなかったそうだから、
ある程度は兵器の鹵獲もあったものと考えられる。
武器を捨てて逃げるなんて日本側では考えられないことであるが、
丸腰で逃げた米兵も次の戦闘においては、
再び十分な武器弾薬を装備して進撃してきたそうである。
鹵獲した機関銃を持って連隊本部に戻った吉田軍曹は、
渡辺隊残存兵の原隊(陸上勤務第七二中隊)復帰を願い出た。
唯1人の将校である渡辺中尉は戦死し、吉田軍曹自身も歩行不能となっている。
兵も少なく、弾薬は底を突き、鹵獲した機関銃すら取り上げられている。
渡辺隊単独での戦闘継続は、到底不可能と判断したのであろう。
残った兵も見知らぬ他部隊に編入されるよりも、
僅かでも顔見知りのいる原隊に復帰した方が心強く戦えるはずだ。
恐らく吉田軍曹は、このように考えていたものと思われる。
しかし吉田軍曹の申し出は拒絶され、負傷兵のみが後退し、
無傷の者は現地に残すよう命じられた。
それでも吉田軍曹は食い下がり、負傷兵だけでの後退は不可能であり、
全員で撤退すると進言した。
怒った連隊長は軍法会議にかけてやると脅しをかけてきたが、
吉田軍曹は平然として「どうぞご自由に」と答え、
渡辺山に戻って自分の思惑通り撤退を開始した。
射的の標的にされたような吉田軍曹にとって、
軍法会議なんて恐れるに足らないものであったのだろう。
仮に兵を残したとしても武器弾薬の補給は無く、
食料(24日に乾パン2袋)にしても補給されていないのであるから、
何ら戦力になりえないと考えたのかもしれない。
渡辺隊の残存兵は以前配備されたことのある阿波根の壕に向かったが、
そこでは既に七二中隊の本部と第二・第三小隊が入壕していた。
配備変えに先立つ軍司令部の津嘉山への移動に伴い、
追い出される格好で阿波根に移動していたのである。
吉田軍曹は戦闘の模様を中隊長に報告し、その後の行動について指示を求めたが、
渡辺隊の戦闘可能な兵が他の小隊に配属されることは無かった。
この時点での中隊の残存兵力は不明だが、
兵糧はやはり大幅に不足していたものと思われる。
剣持中尉にしても兵力が増加するのは歓迎だろうが、
残り少ない兵糧を分配してしまっては、
戦力としてはかえって減少することになる、と考えたのかもしれない。
七二中隊はその後東進して三二軍の最終戦闘に加わっているが、
渡辺隊は何らの補給も受けることなく真栄里から喜屋武岬へと後退し、
ゲリラ活動、と言うよりは単なる逃亡生活を強いられる状況となった。
将校のいない敗残兵部隊にとっては、
補給を受ける術は皆無であったと言えるだろう。
負傷兵は何らの手当てを受けることも無く、
その後の空襲で発生した負傷者も含めて、自ら命を絶つこととなった。
食料や水の調達に行くことの出来ない人間は、生きる術が無かったのである。
サツマ芋畑は真っ先に狙われて丸裸となり、
芋と言うよりは根としか呼べないような細いものまで食べ尽くされた。
サトウキビ畑もまた同様であり、
僅かに地中に残っている茎まで掘り出されて胃の中に消えていった。
カエルやヘビはご馳走であり、トカゲさえも食料の対象であった。
なお、火を焚けばどうしても煙が出て米軍に発見されるので、
何れも生のままで食べざるを得ない状況であった。
食料以上に困ったのは水であり、水が得られる場所は限定されるので、
水汲みは正に命懸けの行動であった。
米軍も水の得られる場所は承知しているので、
当然待ち構えていて攻撃してくるのである。
勿論手榴弾だけの日本兵に反撃の機会はなく、
無事に水汲みから帰還することだけを念頭に置いた行動であった。
ある水場での米軍の行動は、日本兵の常識を根底から覆すものであった。
予め日本兵の通過すると思われる地点に照準を付けておき、
発見次第射撃するのは格別珍しいものではない。
だがそこの米軍は、「弾の川」を作っていたと言うのである。
弾の川とは何かと言えば、文字通り水の代わりに弾丸が流れているのである。
米軍は日本兵の予想通過点に対し、人間の有無にかかわらず射撃を行っていたのである。
勿論常時発砲していたのでは銃身が焼き付いてしまう。
恐らく発射速度を落とし、断続的な射撃を行っていたものと思われるが、
そこを通って水汲みに行った日本兵はいなかったそうである。
渡辺山にはその後連隊本部の兵が入って守備に付いたが、
31日に馬乗り攻撃を受けて米軍の手に落ちている。
一度は吉田軍曹を軍法会議にかけるとまで激怒した連隊長だが、
その後冷静になって状況を判断し、改めて渡辺隊の奮闘に高い評価を下したようである。
名前を付けるほどのものでもない小さな丘を、
その時から連隊本部でも渡辺山と呼ぶようになったそうである。
《追記》(04.6.20)
別図に示す六二師団と四四旅団の境界線は、4月1日の米軍上陸時のものである。
昭和19年11月までの同地区は第九師団の管轄となっており、
歩兵第七連隊と一九連隊の境界が若干南東寄りに設定されている。
第九師団の台湾抽出後は六二師団が担当することとなり、
今度は同師団の六三旅団と六四旅団の境界線となったが、
境界は野戦病院の北東部を回り込むように変更されている。
第九師団の代替部隊の見込みが無くなってからは戦略が大きく変り、
島の北部を担当していた混成第四四旅団が南部に移動し、
最終的に別図のような区分となっている。
このように頻繁に境界線が変更されたことも、
渡辺山の陣地構築が不十分なものとなった原因と考えられる。
次項3)の資料に寄れば、
米軍は渡辺山(Duck Hill)と87高地(Mabel Hill)とを重要な防御線と見ていたようである。
日本側も87高地に関してはそれなりの陣地を構築していたようであるが、
これは恐らく野戦病院があったことと、防御に適した地形であったためであろう。
しかし平凡な丘陵である渡辺山の場合には、
相当量の資材を投入しないことには有力な防御施設とはならない。
担当部隊と境界が変更されたことも手伝って、
不備のまま戦闘に突入してしまったと考えられる。
米軍としてはそれまでの戦闘経験から、
渡辺山のような要所の防御は強固であると判断し、
慎重に攻勢をかけてきたものと思われる。
もし日本側の実情を知っていれば、容易に攻略されていたことであろう。
馬乗り攻撃に関しては、馴染みの無い人も多いかと思われるので、
渡辺山を例にして簡単な説明図を作成した。
《馬乗り攻撃の説明》