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 ナオくんの宝物〜八ヶ岳へ  

 待ちに待った水曜日がやってきました。ナオくんは二千m級の山に登るのは初めてなの
で、うれしくて仕方ありません。もちろん、夢に出てきたモモンガに会えるかもしれない
ということも、大きな楽しみの一つでした。
 小海線の八千穂駅から麦草峠までは、午前と午後それぞれ一便だけバスが走っていまし
た。この日はバス停から一時間ちょっと歩けば山小屋につくので、午後のバスを利用する
ことにしました。そうすれば特別に早起きをする必要もないからです。
 出勤するお父さんを見送った後、お母さんはいなりずしを作り始めました。最初はお握
りにしようと思ったのですが、ナオくんの希望でいなりずしに変更したのです。
 小海線を走っているのは電車ではなく、ディーゼルカーでした。二両だけしかない短い
列車ですが、車内はとてもきれいです。ナオくんは鉄道の旅が好きですが、電車よりディ
ーゼルカーの方が好きでした。ディーゼルカーは電気を伝える架線が必要ないので、線路
に沿って建っている支柱もありません。だから窓から眺める外の風景は、電車よりずっと
すてきに見えるのです。ナオくんはいなりずしを食べながら、窓の外を流れ去る風景を楽
しんでいました。
 八千穂駅からのバスには、九人しかお客がいませんでした。夏休みとは言っても平日な
ので、登山者も少ないのかも知れません。でも最近では登山者もマイカーを使う人が多い
ので、山の上は案外混雑しているかも知れません。

 一時間ほどして『白駒池入口』のバス停で降りると、駐車場はマイカーであふれていま
した。マイカーでやってくる登山者の数は、お母さんの予想以上に多かったのです。ナオ
くんは山小屋に泊まるのは初めてなので、お母さんは『あまり混雑していたらいやだわ』
と思っていたのです。でも行かない訳にはいきません。お母さんはナオくんを従えて、白
駒池に向かって歩き始めました。
 白駒池までの道は予想通り混んでいましたが、意外にもその多くは登山者ではなく、一
般の観光客でした。舗装道路が山を横切って通じているので、登山者よりも観光客の方が
多くなっていたのです。
 道がちょっと下り坂になると、前方の木々の間に白駒池の水面が見えてきました。まだ
まだ元気一杯のナオくんは、思わず大きな声を出してしまいました。
「わあ、すてきな池だなあ」
 白駒池のほとりには、眺めの良い休憩所がありました。白駒池は名前は『池』でも、湖
のように広くて水面にはボートも浮かんでいました。まだ時間も早いので、ナオくんとお
母さんは池を眺めながら休憩することにしました。
「ナオくんはココアがいいわね」
 お母さんはザックの中から小さなガスコンロを取り出し、素早く組み立てるとコッヘル
に水を入れて沸かし始めました。お母さんは学生時代から使っているので手慣れたもので
すが、ナオくんはこんな小さなコンロを見るのは初めてなので興味津々です。
「こんな小さなコンロでお湯が沸かせるの?」
「そうよ、便利でしょ」
 ナオくんはその小さなガスコンロが気に入ったようで、池のことはそっちのけで青いガ
スの炎に見入っています。
「使い方は簡単だから、ナオくんにも使えるわよ」
「でも爆発したらこわいなあ」
「大丈夫よ、爆発なんてしないわよ」
 お母さんは笑いながら言いましたが、小さなガスボンベの真上でガスが燃えているので
すから、ナオくんは心配になって聞いてみたのです。
「沸いたようね。火を止めてみる?」
 お母さんの声でナオくんがコッヘルに目を移すと、コッヘルの底からはたくさんのあぶ
くが上がっています。
「どうやって止めるの?」
 ナオくんはまたコンロに目を移しました。
「簡単よ。その黒いつまみを右に回せばいいのよ」
「これ?」
「そう、それを止まるまで回して」
 ナオくんが黒いつまみを回すと、コンロの火は簡単に消えました。
「なんだ、簡単なんだ」
「そうでしょ。お台所にあるコンロのように自動点火ではないけれど、形が小さいだけで
基本的には同じなのよ。さあ、ココアを入れるからカップを貸して」
 お母さんはカップを受け取ると粉末のココアを入れ、コッヘルの湯を注ぎました。家で
飲んでいるココアと同じはずなのに、山で飲むココアはなぜかとてもおいしく感じられま
した。お母さんは自分用にスティックコーヒーを取り出しましたが、その袋は不思議なこ
とにパンパンにふくらんでいました。
「ねえ、その袋はどうしてそんなにふくらんでいるの?」
 ナオくんは、お母さんが破ろうとしているコーヒーの袋を指さして言いました。
「ああ、これは気圧が低くなっているせいよ」
 お母さんは袋を破ろうとしていた手を止め、パンパンにふくらんだ袋を指で押しながら
言いました。
「ふ一ん、つまり山は、天気予報で言っている低気圧なんだね」
「低気圧とはちょっと違うけど・・・」
「でも気圧が低いんでしょ」
「そうなんだけれど・・・それが低気圧という訳ではないのよ」
 お母さんは自分では分かっているのですが、ナオくんにも分かるように説明するのはな
かなか難しいようです。
「天気予報とは関係なしにね、高い所へいくと空気が少なくなるのよ。富士山の頂上はも
っと空気が少ないし、工ベレストの頂上では三分の一くらいになってしまうのよ。気圧が
低いということは、空気が少ないことと思えば分かりやすいと思うわ」
 ナオくんは、高い所ではどうして空気が少なくなるのか聞こうとしましたが、お母さん
が困ったような顔をしているのでやめました。ナオくんの質問を逃れて安心したお母さん
はコーヒーを入れ、おいしそうに飲み始めました。
「気圧が低くなると、お水が沸騰する温度も低くなるのよ」
 お母さんはコーヒーを飲みながら言いました。
「うん、ぼくも聞いたことがあるけど、どうしてそうなるの?」
 またナオくんの質問が始まりました。
「お母さんだってそんなことまでは知らないわよ。二学期になったら学校の先生に聞きな
さい!」
 お母さんがちょっと怒ったような口調で言ったので、ナオくんはそれ以上聞くことをや
めました。
「さあ、飲み終わったら出発するわよ」
 お母さんはガスボンベを外してコンロを折り畳み、水の入ったポリタンクと一緒にザッ
クの中へ入れて出発の準備をしました。ナオくんもあわてて自分のカップをリュックに入
れ、ふたを閉めて出発できるようにしました。
 池に沿って少し進むと立派な山小屋があり、その角を曲がるとぐんと登山道らしい道が
現れました。坂道もだんだんと急になり、観光客らしい人の姿はなくなりました。ナオく
んが息を切らせながら登っていくと、突然何者かが道を横切りました。
「わあっ、今のはなあに」
 ナオくんはびっくりして大声で叫びました。
「オコジョみたいだったわね」
 お母さんもその動物を見つけましたが、お母さんはナオくんの後ろを歩いていたので、
それがどんな動物だったのかはっきりとは分かりませんでした。勿論ナオくんにはそれが
何なのか全然分かりません。
「オコジョって、どんな動物なの」
 またナオくんの質問ですが、今度はお母さんにも答えることのできる質問でした。
「学問的にはイタチの仲間なんだけれど、とっても愛敬のある顔をしているのよ」
「お母さんは見たことがあるの?」
「もちろんよ。南八ケ岳の岩場で何度か見たことがあるけど、この辺りでは見たことはな
いわねえ」
「ふ一ん、それじゃあ今のオコジョは遠くから来たのかなあ」
「それは分からないわ。オコジョの数が増えて、この辺りにも住んでいるのならうれしい
のだけれど」
 オコジョに限らず、日本では野生動物の生活の様子は全然分かっていないのです。野生
動物の生態調査は地味な研究だし、お金もうけにも縁のない研究なので、希望者が少ない
のかも知れません。
「ナオくんがオコジョ博士になったらどうかしら」
 お母さんは半分冗談で言ったのですが、ナオくんは真剣な顔をして答えました。
「ぼくはモモンガ博士の方がいいな」
 ナオくんがあまりにも真剣に答えるので、お母さんも口を合わせて言いました。
「そう、ナオくんはモモンガが好きなのね。早くモモンガに会えるといいわね」
 ナオくんはモモンガの話が出ると急にうれしそうな顔をして、また元気良く歩き始めま
した。時々は休みながら登りましたが、それでも一時間ちょっと歩くと、高見石の山小屋
に着きました。

「こんにちわ」
「やあ、いらっしゃい」
 お母さんがドアを開けて小屋の中へ入ると、ひげもじゃの小屋の主人が現れました。ナ
オくんはひげもじゃの顔を見て、思わず大きな声で叫んでしまいました。
「わあっ、大きな顔〜っ」
 ナオくんのお父さんはひげを生やしていないし、学校でもひげを生やした先生はいませ
ん。たまに町中で見かけるひげの人も、鼻の下にちょっと生やしているだけです。テレビ
ではひげもじゃの顔を見たこともありますが、目の前で見たのはこれが初めてなので、と
ても大きな顔に見えてしまったのです。お母さんはしきりに謝っていますが、ひげもじゃ
の顔は笑って言いました。
「いやあ、本当にぼくはでっかい顔をしているんですよ。ほらっ」
 小屋の主人はそう言って、ひげもじゃの顔をナオくんに近付けてきました。正直言って
間近に見ると、その顔は一層大きく感じられました。
 ナオくんとお母さんは二階に上がって荷物を置いてから、小屋の裏にある高見石に登る
ことにしました。二階とは言ってもそこは大きな屋根裏部屋のようなもので、棟木まで見
ることができます。ナオくんは初めて見る構造に興味を持ったようで、首が痛くなるほど
天井を見ています。
「さあ、行くわよ」
 お母さんにせかされて、ナオくんは小屋を出て裏に回りました。目の前には大きな岩の
塊が連なっています。
「気を付けて登るのよ」
 お母さんはナオくんを先に行かせ、危険が無いように後ろから見守りながら登っていき
ました。高見石からの眺めは抜群で、ココアを飲みながら見ていた白駒池も小さく見えま
す。夢の中で柿の木に登って見た町の風景もすてきでしたが、高見石で見る自然の風景は
はるかにすばらしいものでした。息を切らせながら急坂を登ってきた疲れも、いっぺんに
吹き飛んでしまったように感じられました。
 小屋に戻ると、何人かの宿泊客がストーブの周りに集まっていました。高い山では平地
より気温が低いので、夏でもストーブが必要なのです。やがて夕ご飯になると、二階から
も何人かの客が降りてきました。お父さんの予想通り、あまり多くはないようです。
「今夜は星は見えますかねえ」
 客の一人が、夕ご飯を食べながら小屋の主人にたずねました。
「雨は降らないと思いますが、ちょっと雲が出てきましたからねえ。あまり期待はできな
いと思いますよ」
「そうですか、残念だなあ」
 ナオくんは気が付きませんでしたが、小屋の前には立派な天体望遠鏡があったのです。
 夕ご飯を食べ終えると、外は急に暗くなってきました。木立に囲まれた山の中では、平
地とは異なって太陽が沈むと急速に暗くなるのです。小屋にはランプが灯され、一休みし
た登山客がストーブの周りに集まってきました。
「坊やはランプを見るのは初めてかい?」
 ひげもじゃの小屋の主人が、珍しそうな顔をしてランプを見上げているナオくんに向か
って言いました。
「うん、こんなもの見たことないや」
「はっはっは、今の子供はそうだろうな。しかし山へ入っても、ランプの宿は少なくなっ
たもんだね」
 ナオくんの隣に座っていたおじいさんが、目を細めながら言いました。
「そうでしょうね。最近では発電機の性能も信頼性も向上しましたからね」
 ひげもじゃ主人は老人に答えるように言いました。
「わしはあの発電機は好きになれないよ。静かな山の夜を楽しみたいし、あの石油の臭い
にもうんざりするよ。やっぱりこの昔ながらのランプの明かりが好きだなあ」
 隣のおじいさんは、今度はランプを見上げて言いました。
「ウチも太陽光発電を始めたんですが、ランプはやっぱり必需品ですよ」
「なるほど、太陽光発電ですか。確かにあれなら音は全然しないし、いやな臭いもしませ
んからね。でもランプは廃止しないで下さいよ」
「勿論ですとも。安心して下さい」
 ひげもじゃ主人の話を聞いて、おじいさんはにっこりと微笑みました。ナオくんは、最
初は薄暗いランプを変なものだと思っていましたが、おじいさんの会話を聞いているうち
に、ランプの光がとてもすてきなものに思えてきました。蛍光灯に比べればずっと暗いけ
れど、なんだか心が和んでくるからです。
「いやあ、やっぱり駄目ですねえ」
 外から入ってきた男の人が、残念そうに言いました。
「どんどん雲が広がって、星は全然見えませんよ。悔しいなあ。ハレー彗星の時もそうだ
ったけれど、ぼくは星には縁がないのかな」
「まあまあ、この雲なら明日も雨の心配はないと思いますよ」
 ひげもじゃ主人は慰めるように言いました。
「いや、ぼくは明日降られたとしても、今夜ここで星を見たいね」
 男の人は力を込めて言いましたが、ナオくんは心の中で、ぼくは雨の中を歩くのはいや
だよお、と思いました。
 山に登る人は、普段は朝寝坊をする人でも、山に入るとたいてい早起きをします。山の
天気は変わりやすいので、朝早く出発して時間に余裕を持たせるためです。ナオくんも家
にいる時よりも早くふとんの中に入りました。

「ナオくん、起きなさい」
 お母さんの声で、ナオくんは目を覚ましました。他の人達はもうみんな起きていて、荷
物を整理していつでも出発できるように準備をしています。
 ナオくんは山小屋に泊まるのは初めてなので、お母さんはナオくんが十分に寝られるか
どうか心配でした。でもナオくんは寝付くのも早かったし、途中で目を覚ますこともなく
熟睡していました。それに朝ご飯も残さず食べたので、お母さんはナオくんが山小屋にな
じんでいることを知って安心しました。
 ナオくんたちが荷物をまとめて小屋を出る準備をしている頃には、もう宿泊客はだれも
残っていませんでした。最後になった二人が下へ降りていくと、ひげもじゃ主人がやって
きました。
「今日はどちらまでですか」
「夏沢峠までです。この子がどうしてもモモンガに会いたいと言うものですから」
「へええ、そんなにモモンガに会いたいのかい」
「うん、友達になりたいんだ」
「ここにだって、モモンガがやってくることはあるんだよ」
「あら、ここにもモモンガが来るんですか」
 お母さんがびっくりしたように言いました。
「ええ、時々ですけどね。でも夏沢峠の小屋には毎晩来ますから、確実に会えますよ」
「ありがとうございます。会えると良いのですが・・・」
 お母さんが話をしている間、ナオくんは部屋の隅に片付けられたランプに見入っていま
した。昨晩のランプの光が好きになったナオくんは、自分の部屋にもあのランプがあった
らすてきだろうなあ、と思っていたのです。
「坊や、あのランプが気に入ったのかい」
 ひげもじゃ主人が、物欲しそうなナオくんの視線に気付いて話しかけてきました。
「うん、ぼくの宝物にしたいんだ」
「ランプの光はおじさんだって好きさ。でもあのランプはこの小屋にとって大切なものだ
から、上げることはできないんだよ」
 ナオくんがランプを持って帰ることができれば、夏休みの宿題である『宝物探し』は終
わります。でもランプは山小屋にとっても宝物だったのです。
「直人、無理を言ってはいけませんよ」
 お母さんは軽くナオくんをしかりました。
「いやあ、そんなに気にしないで下さい。それよりランプの光が気に入ってもらえてうれ
しいですよ」
「あのランプは町でも売っているのですか?」
「まず見つからないと思いますよ。あのガラスが壊れた時には、特別注文で職人さんに依
頼するくらいですから」
「大変なんですね。ナオくん、あきらめましょうね」
 お母さんにそう言われても、ナオくんはまだあきらめ切れないようで、残念そうにラン
プを見上げています。
「そんなに気に入ったのなら、また来て下さいよ。それにお二人が今晩泊まる次の小屋で
も、ランプを使っているんですよ」
「そうなんですか、ナオくん、良かったわね。どうも色々とお世話になりました」
 ナオくんとお母さんはひげもじゃ主人に別れを告げ、小屋を後にしました。見晴らしの
良い中山で少し休憩し、急坂を下って少し行くと狭い峠に出ました。これから登るのが今
日一番の難所、天狗岳です。また少し休憩をして、お母さんはナオくんにこれからの注意
事項を伝えました。
「この山は岩がごろごろしているから、気を付けて登るのよ。ゆっくり登ればいいんだか
ら。頂上に着いたら昼ご飯にしましょうね」
 ナオくんはお母さんに言われた通り、ゆっくりと登っていきました。大人にとっても楽
な道ではありませんから、小さなナオくんにとっては苦労の多い道です。それでも一歩一
歩確実に登っていけば、いつかは頂上に着くのです。
「わ一い、やったぞお」
 途中何回か休みましたが、とうとう天狗岳の頂上に着きました。頂上からは三六○度の
展望が利き、ナオくんは疲れも吹っ飛んではしゃいでいます。お母さんはコンロを取り出
し、湯を沸かして昼ご飯の準備です。今日のメニューはお母さんが学生時代に良く食べた
という、もちを入れて煮込んだ『雑煮みそラーメン』です。
「ほら、あのがけが続いている山が硫黄岳で、モモンガの来る小屋がある夏沢峠はもう少
し手前よ」
 お母さんは大きながけを指さして言いました。ナオくんの心の中では、もうすぐモモン
ガに会えるという希望と、もし来なかったらどうしようという不安とが入り交じっていま
した。

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