ナオくんの宝物〜夏休みの宿題
ナオくんは大きな柿の木に登り、町並みを眺めていました。
「うわあ一っ、すごいなあ」
ナオくんは思わず大声で叫んでしまいました。ナオくんの家は小高い丘の中腹にありま
すが、柿の木のてっぺんから見渡した町の景観は、思わず声を出してしまうほどすばらし
いものだったのです。
ナオくんは木登りが好きだし、友達のだれよりも上手でした。だから柿の木だけではな
く、庭に植えてある桜や椿の古木だって簡単に登ってしまいます。近所のお寺には大きな
サルスベリの木がありますが、表面がつるつるとしていて滑りやすくなっています。でも
そんなサルスベリの木だって、ナオくんにとっては他の木と同じことでした。ナオくんは
得意満々で登っていきますが、友達は途中までおっかなびっくり登っていくか、あるいは
ただ下で見ているだけです。ナオくんにとっては歩くのと同じような木登りも、お母さん
にとっては心配の種でした。
お母さんがいる時には、ナオくんは柿の木の途中までしか登れません。あまり高い所ま
で登ろうとすると、お母さんに叱られてしまうからです。でも今日はお母さんが出掛けて
いるので、ナオくんにとってはもっと高い所まで登る絶好のチャンスだったのです。しめ
しめと思いながら、あっと言う間に一番高い所まで登ってしまいました。
地上では太い幹も、この高さまで登るともう細い枝ばかりです。ナオくんは枝が折れな
いように、そして風が吹いても落ちないように、しっかりと姿勢を整えて町並みを眺めて
いました。柿の木は葉がみんな落ちているので、視界をさえぎるのはわずかばかりの小枝
だけです。しかしよく考えるてみると、これは不思議なことでした。だって今は夏休みの
真っ只中、八月の上旬ですから、柿の木には深緑の葉が生い茂り、薄緑色の柿の実だって
なっているはずです。
ナオくんは柿の木から見た町の風景が気に入ったのか、相変わらずうっとりと見とれて
います。柿の木に全然葉や実が無い不思議な現象についても、全く気がついていないよう
です。でも知らないうちに時間が過ぎ去り、お日様も沈んで辺りはだんだんと暗くなって
きました。ナオくんは木から降りようとしましたが、下を見ると急にこわくなってきまし
た。さあ大変、ナオくんは降りられなくなってしまったのです。
カァー、カァー
チュッチュッ、チュチュチユンチュン
まだ明るさの残っている遠くの空ではカラスがねぐらに急ぎ、ナオくんのいる木の近く
ではスズメの集団が、この日最後の、お休み前のおしゃべりを楽しんでいます。でもナオ
くんは柿の木にしがみついたままです。お母さんに助けてもらおうと思っても、外出した
お母さんはまだ帰っていないようで、ナオくんの家には明かりがついていません。しかし
お母さんが帰ってきたとしても、お母さんはナオくんの所までは登ってこられないし、こ
んな高い所まで届くハシゴもありません。
ナオくんはだんだん心細くなってきました。幸いなことに風は全然吹いていなかったの
で、枝が大きく揺れて落ちる心配はありませんでした。でもお月様はまだ顔を出していな
いので、辺りは真っ暗です。真っ暗なので町の明かりはとてもきれいに見えますが、ナオ
くんには町の夜景を楽しんでいる余裕はありませんでした。
スズメのおしゃべりも消え、小枝のささやきも聞こえなくなり、暗闇は不気味なほどに
静まり返っています。ナオくんの不安はだんだん大きくなってきました。そんな時です。
ナオくんの下の方で何か小さな物音がしました。何だろうと思っていると正体を確かめる
間もなく、ナオくんのお尻に何か柔らかな物がぶつかってきました。
「じゃまするなよお」
それはリスのような小さな動物で、ナオくんの隣の枝に移ると、大きな目でナオくんを
にらみつけて言いました。
「ぼくはじゃまなんかしていないよ」
ナオくんはちょっと不安でしたが、小さな声で答えました。
「じゃあ、どうしてそんな所にいるんだい?」
「仕方がないよ、降りられなくなっちゃったんだから」
ナオくんが正直に答えると、その動物は大笑いをしながら言いました。
「何だってえ、どじな奴だなあ」
どじと言われてナオくんはむっとしましたが、実際その通りなのだから怒る訳にもいき
ません。
「降りることなんて簡単じゃないか。ほら、ぼくの後についてきなよ」
言い終わらないうちにその動物は手足を広げ、パッと空中に飛び出しました。でもナオ
くんには、とてもそんなことはできません。ナオくんは高い木の上で、再び独りぼっちに
なってしまいました。
ナオくんは暗闇に消えていった動物をうらやましく思いました。あんなふうに空を飛べ
たなら、簡単に地上まで降りることができるのですから。
「どうしてついてこないんだい?」
いつの間に登ってきたのか、隣の小枝には先ほどの小さな動物がいました。丸く大きな
目でナオくんを見ながら、不思議そうな顔をして言いました。
「だって、ぼくは空を飛べないもの」
ナオくんは残念そうに返事をしました。
「そんなことはないよ。飛ぼうと思えばだれだって飛べるのさ」
「絶対に無理だよお」
ナオくんはもっと話を聞こうと思いましたが、その動物は話を聞く時間も惜しいのか、
また暗闇に消えていきました。
『自分勝手な奴だなあ』
ナオくんは心の中でそう思いました。でも腹を立てたって、木から降りられる訳ではあ
りません。今度きたら空を飛ばずに地上に降りる方法を、あの動物から聞き出そうと思っ
ていました。
「君は大きな体をしているくせに、意気地なしなんだなあ」
隣の枝からは、またまた大きな目玉がナオくんを見ています。
「いいかい、空を飛ぶことなんて簡単なんだ。両方の手足を大きく広げて、思いっきり飛
び出せばいいのさ」
「ぼくには無理だよお。他の方法を教えてよ」
「他の方法なんて知らないよ。だってぼくは木から降りる時は、いつだって空を飛んで降
りているからね。手足を閉じなければ大丈夫だから、今度こそ絶対についてこいよ」
大きな目玉は怒ったような口調で言い終えると、前回と同じように暗闇に消えていきま
した。ナオくんも今度は必死です。いつまでも柿の木にしがみついている訳にもいきませ
んから。
フワアッ!
思い切って空中に飛び出したナオくんの体は、不思議なことに地上には落ちませんでし
た。ナオくんは空を飛んでいるのです。空から見る町の夜景は、柿の木から見たのよりも
ずっとすてきでした。
「うわあっ、すごいやあ」
ナオくんは先ほどの動物が言った忠告を忘れ、うれしさのあまり思わず手をたたいてし
まいました。その瞬間バランスを崩し、ナオくんは墜落してしまいました。
ドッスーン!
「あいたたた一っ」
ナオくんはベッドから落ちて、床に頭をぶつけてしまいました。柿の木に登って降りら
れなくなったことも、空を飛んで墜落したことも、みんな夢だったのです。
夢に出てきた空を飛ぶ動物は、山にいるモモンガでした。寝る前に見たテレビ番組で、
山小屋にやってくるモモンガの様子が放送されていたのです。ナオくんは真ん丸の大きな
目をしたモモンガが、いっぺんに好きになってしまったのです。そして何としてでもモモ
ンガに会いたいと思っていたので、夢の中にモモンガが現れたのに違いありません。
「ねえ、山へ行けばモモンガに会えるの?」
朝ご飯を食べながら、ナオくんはお父さんにたずねました。
「モモンガ?会いたいのかい?」
お父さんはちょっと不思議そうな顔をして、ナオくんを見下ろして言いました。
「うん、ぼくはモモンガと友達になりたいんだ」
「そうか、八ケ岳にはモモンガがやってくる山小屋があるから、そこへ行けば会えるかも
しれないな。でも山登りは木登りより疲れるぞ。それでも行きたいか?」
「うん、大丈夫だよ」
ナオくんは元気よく返事をしましたが、それを聞いていたお母さんは心配そうに言いま
した。
「でもナオくんは、そんな高い山に登ったことはないでしょ」
「いや、北八ケ岳なら標高は二千メートル程度だし、登山道も整備されていて危険な場所
は無い。直人ももう三年生なのだから、台風でもこない限り登れると思うよ」
お父さんが積極的に応援してくれるので、ナオくんはうれしくなりました。でもお母さ
んはまだ心配な様子です。
「お父さんと一緒なら大丈夫だと思うけど、夏休みの宿題はまだ済んでないでしょ」
ナオくんは、やはり来たか、と思いました。
「うん、今度の宿題はやさしいけど難しいんだ」
「何だい?そりゃあ」
お父さんが不思議そうにたずねました。でも本当にナオくんのクラスの宿題は、ちょっ
と変わったものだったのです。
ナオくんのクラスの担任は、奈保子先生と言う、まだ若い先生でした。名前が似ている
こともあって、ナオくんは奈保子先生が大好きでした。そして先生をもっと好きになって
しまったのが、今度の夏休みの宿題だったのです。その宿題というのは、
『一生の思い出になるような宝物を見つける』
というものでした。夏休みが始まる前にこの宿題を聞いたとき、ナオくんは『ラッキー』
と思いました。だって夏休みの宿題と言えば、算数の計算問題や漢字の書取り、そして毎
日続けなければならない絵日記などだったからです。今年だって隣のクラスの宿題は、ナ
オくんの苦手な読書感想文や計算問題でした。
ナオくんは、宝物なんて簡単に見つかると思っていましたから、今年の夏休みは最高の
夏休みになるはずでした。でも夏休みも半分以上が過ぎてしまったというのに、宝物は全
然見つかる気配もありませんでした。簡単だと思っていた宿題は、実際には案外難しいも
のだったのです。
「へえ、宝物探しか。なかなか面白いじゃあないか」
お父さんも奈保子先生の宿題が気に入ったようです。お父さんも子供の頃には、毎年夏
休みの宿題に悩まされていたのです。
「でも直人。宝物なんてそう簡単に見つかるものじゃあないぞ」
「うん、まだぜ〜んぜん見つかってないんだ」
「そんなものさ。だめな時はいくら探しても見つからないのに、見つかる時には向こうか
らやってくるものさ」
ナオくんものんきな方ですが、お父さんはそれ以上にのんきな性格だったのです。
「宝物が見つかるかどうかは分からないけど、気分転換に山へ登ってみるのも悪くはない
な。母さんも行くだろ?」
お母さんは学生時代にハイキング同好会にいたので、八ケ岳へは何度も登ったことがあ
りました。お父さんはお母さんと結婚してから登山を始めたのですが、学生時代にはアメ
リカン・フットボールをやっていたので、スタミナは十分でした。
「そりゃあ私だって行きたいけれど、ナオくんを連れていって本当に大丈夫かしら」
お母さんは二人とは違って、どちらかと言えば心配症でした。
「心配することはないさ。直人、時刻表を持っておいで」
お父さんは軽く笑いながら言いました。ナオくんは心をはずませながら、時刻表を取り
にいきました。
「モモンガの来る山小屋は夏沢峠にあるから、直人には一泊だけでは体力的に無理かも知
れないな」
お父さんは地図を広げて、登山コースの検討を始めました。
「はい、持ってきたよ」
ナオくんは鉄道の時刻表をお父さんに渡しました。
「あまり無理な計画は立てないでよ」
お母さんも地図をのぞき込みながら言いました。
「そうだね。たまにはのんびりと歩いてみるのも悪くないね。夏休みで混むかもしれない
から、平日の方がいいだろうな」
お父さんはあちこちと時刻表をめくりながら、地図とにらめっこをしています。
「来週なら麦草峠までバス便があるんだが、う一ん」
お父さんは時刻表を持ったまま考え込んでしまいました。
「麦草峠までバスがあるのなら、それを使えば楽じゃないの」
お母さんは地図を見なくても山の様子が分かるので、朝ご飯の後片付けをしながら言い
ました。
「うん、でも直人の足ではその日には夏沢峠までは行けないから、どうしてももう一泊し
なければならないんだ」
「それもそうね。もう一日余分には休めないの」
「ああ、平日の休みはそんなに取れないんだ。でも初日は君が直人と二人で行ってくれれ
ば、ぼくは次の日に直接夏沢峠まで行くよ」
「ええ、いいわ。それならナオくんの足でも大丈夫ね」
「よし、では出発は来週の水曜日。その日は高見石に泊まって翌日は夏沢峠、金曜日は直
人が元気なら一気に下山するし、疲れているようならもう一泊することにしよう」
「そうね、土曜日を予備日にしておけば天候が崩れても心配ないし、ナオくんの足でも無
理のない計画だわ」
ナオくんにはお父さんとお母さんが相談している内容は分かりませんでしたが、きっと
良いことだろうとは感じていました。
「じゃあ直人、来週八ケ岳へ行くぞ。おっと、会社にも急がなくちゃ」
「モモンガには会えるの?」
ナオくんは心配そうにたずねました。
「ああ、毎晩やってくるそうだから、絶対に会えるさ」
お父さんはかばんを持って玄関へ行き、靴をはきながら答えました。ナオくんはその返
事を聞いて、何だかわくわくしてきました。そして『早く来週の水曜日になればいいのに』
と思いました。