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 梅雨明け

「わーい、お日様だあ」
 ピョン吉は勢い良く巣穴から飛び出すと、 久し振りに顔を出した太陽の光を浴びてはしゃぎ回りました。 梅雨の長雨のために巣穴から出られなかったピョン吉にとって、 それは待ちに待った晴天だったのです。
「みんな出てこいよー、外はすてきだぜー」
 本当にうれしかったのでしょう、奥にいた兄妹たちまで外に連れ出し、 飛んだり跳ねたりの大騒ぎです。 長い長〜い梅雨が明け、ここ八ケ岳にも夏が来たのです。
 ピョン吉は今年の春に生まれたばかりのオコジョの子供です。 生まれてから三ヶ月程が過ぎ、真っ白だった産着も褐色の毛皮に変わりました。 しっぽの先もお母さんと同じように黒くなったし、 獲物を倒すための立派な牙も生えてきました。 しかし、まだまだ外の世界の事は何も知らない、わんぱく盛りの子供です。
 ピョン吉にはお兄さんがひとりと、妹がふたりいます。 本当は弟もひとりいたのですが、まだピョン吉が真っ白な産着を着ていたころ、 お母さんの願いも空しく死んでしまったのです。 いつもの年より雪解けも早くて暖かい春だったのですが、 突然冬に逆戻りしたような大雪が降ったため、 一番下の弟が寒さのために死んでしまったのです。 ピョン吉はまだ目が開いていなかったので、弟の顔は覚えていません。
 お母さんは近くの岩に上がり、 無防備に遊んでいる子供たちに危険な敵が近寄らないよう、静かに見守っています。 一番上のチョロ吉はのんびり屋ですが頭が良く、 落着いているので何の心配もありません。 ふたりの妹、チコとピコも聞き分けが良く、 お母さんの手をわずらわせることは減多にありません。 でもピョン吉だけは別でした。 お母さんにとって、これほど手を焼かせる子供は初めてでした。 ちょっとでも目を離すとすぐどこかへ行ってしまうので、 お母さんは心配で心配で気の休まる暇がありませんでした。 オコジョは元々好奇心の強い動物なのですが、 ピョン吉はその中でも別格なのです。 お母さんは普通のオコジョだし、 お父さんはどちらかと言えばのんびり屋でした。 チョロ吉はお父さんに似たようですが、 ピョン吉は一体誰に似たと言うのでしょう。
 梅雨に入る前は子供たちも小さく、 巣穴から出ても遠くまで行くことはありませんでした。 梅雨の長雨の時には、外には出ないで巣穴でおとなしくしていました。 小さな子供たちの毛皮は防水性能が十分ではないので、 雨にぬれると体温を奪われ、最悪の場合には死んでしまうこともあるのです。 ピョン吉たちが住んでいる所は標高が二千メートル位の高い山なので、 夏に降る雨でもとても冷たいのです。
 長い梅雨が明けるまでは、狭い巣穴の中でじっとしていたピョン吉のことです。 外へ出られるようになったらおとなしくしているはずがありません。 ピョン吉ひとりだけならお母さんの監視の目も行き届きますが、 他の子供たちにも気を配らなければなりません。 お母さんはもっと多くの子供を育てたこともありますが、 今年は手のかかるピョン吉がいるので、いつもの年よりも苦労しそうです。
 お母さんは外で遊んでいる子供たちを呼び寄せ、 注意しなければならない事を話しました。 空からは大きなタカが襲ってくること、 岩陰からはテンが襲ってくること、等々です。 子供たちはお母さんの顔を見ながら黙って聞いていました。 ピョン吉もおとなしく聞いていましたが、その目は好奇心にあふれていました。 タカやテンがどんな動物なのか見たくて仕方が無い、 そういうような目をしていたのです。
 お母さんの心配はもうひとつありました。 それは梅雨が明けたこの時期になると、毎年恐ろしい『人聞』が大勢やってくるからです。 巣穴の近くにいれば人間に出会う心配はありませんが、 万一出会っても絶対に近付かないよう、念を押しながら何度も言い聞かせました。 それでも心配なお母さんは、絶対に巣穴から出ないようピョン吉に言い渡し、 食べ物を手に入れるために出掛けて行きました。
 のんびり屋のチョロ吉とふたりの妹たちは、 お母さんの言い付けを守って巣穴の中で遊んでいます。 でもピョン吉は外に出たくて仕方がありません。 外の世界にはピョン吉の興味をそそるものが一杯見えてるし、 先程の太陽の光も忘れられません。
『ちょっとだけさ、ほんのちょっとだよ』
 ピョン吉はそう自分に言い聞かせながら、少しずつ体を前に出して行きました。
『もうちょっと、もうちょっとだけなら』
 ちょっとだけ、ちょっとだけと言っているうちに、 もうピョン吉の体はすっかり巣穴から出てしまいました。
『そうさ、大丈夫さ、何かあったらすぐに戻ればいいのだから』
 ピョン吉はさらに前進して行きました。 ぐるりと辺りを見回しましたが、危険なものは何も見えません。 後ろでは巣穴の出口で、チョロ吉と妹たちが心配そうにこちらを見ています。
『大丈夫さ、みんなも来いよ』
 胸を張ってそう言おうと思った瞬間です。何かがピョン吉の頭に当たりました。
「アイタァ」
 ピョン吉が悲鳴を上げるよりも早いくらいに、何者かが首筋をくわえ、 ピョン吉を地面に押さえ付けました。 ピョン吉は必死にもがいて逃げようとしましたが、 強い力で押さえられているので全く動くことが出来ません。
『お母さん、助けてぇ』
 助けを求めて叫ぼうとしても、全く声を出すことが出来ません。 ピョン吉はもう生きた心地がしませんでした。 やっぱりお母さんの言う事を聞いておけば良かったのです。
『ごめんなさい、これからは良い子になりますから助けて!』
 ピョン吉は呼吸をすることさえ出来ません。 もがいているうちにだんだんと意識が無くなってきました。
『このまま死んじゃうんだ、そして食べられちゃうんだ、こわいよう』
 そう思っているうちに、自然に涙が出てきました。 でも、その時です。 何故だか分かりませんが首筋を押えていた力がゆるみ、 ピョン吉は自由になったのです。
『助かったのかなあ』
 ピョン吉はハァハァ言いながら急いで空気を吸い込み、 最後に大きく深呼吸をしました。 一息入れて安心した瞬間、何者かに頭をポカリとたたかれました。
「こらっ、ピョン吉」
 後ろを振り返ると、そこにはお母さんが立っていました。
「おまえはお母さんの言い付けを、ちっとも守らないんだね。 誰かに食べられちゃっても知らないよ!」
 お母さんは、ピョン吉が言い付けを守らず、 外へ遊びに行くことを予想していたのです。 だからすぐに食べ物を探しに行かないで、巣穴の上で見張っていたのです。
「ごめんなさ〜い、もう出ませ〜ん」
 やんちゃなピョン吉も今度ばかりはこりたようで、すっかりしょげています。 お母さんはそれを見て安心し、 子供たちを巣穴に残して本当に食べ物を探しに出掛けました。 もうピョン吉が自分勝手に外へ出ることは無いでしょう。
 ピョン吉は巣穴の中で、首をひねって考えていました。 一体どこからお母さんがやってきたのか、 いくら考えても不思議でならないのです。 だってピョン吉は外へ出るとき、ちゃんと周囲を見回したのに、 お母さんの姿はどこにも見えなかったからです。 もちろん、危険なテンやタカも見えませんでした。 だからこそ外へ出て行ったのです。 そして外に出て後ろを振り返ったときにも、お母さんの姿はありませんでした。
『おっかしいなあ』
 考えれば考えるほど不思議な出来事でした。 ピョン吉はお兄さんや妹たちにも聞いてみましたが、やはり謎は解けません。 狭い巣穴から外を見ていた彼らの話では、 いきなりお母さんが空から降りてきた、と言うのです。
「でもね、出口の上にはお母さんはいなかったんだよ」
 ピョン吉は反論しましたが、チョロ吉もチコもピコも、 お母さんは空から降りてきたのだ、と主張します。 もしかしたら、お母さんは空を飛ぶことができるのでしょうか。 ピョン吉はまた考え込んでしまいました。
 お母さんだってオコジョですから、空を飛ぶことなんて出来ません。 ムササビやモモンガのように、遠くの木から滑空飛行することだって出来ません。 では、どうしてお母さんは空から降りてくることが出来たのでしょうか?
 答は簡単です。 お母さんは巣穴の上の岩陰に隠れていたのです。 じっとピョン吉を見守っていたお母さんは、 ピョン吉が後ろを振り向く寸前に身を隠してしまったのです。 だってピョン吉は素早く周囲を見回したつもりだったのに、 お母さんの目から見ればピョン吉の動きはスローモーションのようなものでしたから。 だからピョン吉には、お母さんを見付けることが出来なかったのです。 もちろん巣穴の中の子供たちにもお母さんは見えませんから、 いきなり空から降りてきたように見えたのです。
 やがてお母さんは、大きなノウサギをくわえて帰ってきました。 狩りの獲物はネズミがほとんどで、 ノウサギを捕まえてきたのは今回が初めてです。
『なんて長い耳をしてるんだろう、おかしな生き物だなあ』
 初めてノウサギを見たピョン吉は、長い耳が不思議でなりませんでした。 だってオコジョの耳はと言えば、頭の上にちょこんと出ているだけなのですから。 ネズミやリスだって、こんなに長い耳ではありません。
『でも、お母さんはすごいなあ』
 お母さんが自分よりも大きな獲物を捕まえてきたので、 ピョン吉はすっかり感心してしまいました。
『ぼくだって、いつかはきっと仕留めてみせるぞ』
 ピョン吉は心の中ではそう思いましたが、今はおなかがぺこぺこでした。 ピョン吉はさっそく夕食にありつこうと思い、ノウサギに近付いて行きましたが、 またもやお母さんに頭をポカリとやられてしまいました。
「こらピョン吉、お前はお母さんの言い付けを守らなかったから、 食事は一番最後だよ」
 ピョン吉はお母さんに押えつけられ、身動き出来なくなってしまいました。 兄妹たちがおいしそうに食べているのをうらめしそうに見ていましたが、 自分が悪いのだから仕方がありません。 でも心配はいりません。 とても大きなノウサギですから、 ちゃんとピョン吉の食べる分も残っているでしょう。
 子供たちは食べ終えるとすぐに寝てしまいました。 ピョン吉は食べるのは最後でしたが、真っ先に眠りにつきました。 ピョン吉は体を動かす事は得意なのですが、頭を使う事は苦手でした。 ところが今日は特別でした。空から降りて来たお母さんの謎が解けず、 ずっと考え込んでいたのです。 なにしろ、こんなに一杯頭を使ったのは初めてのことなので、 すっかり頭が疲れてしまったのです。
 お母さんはぐっすりと寝込んだ子供たちを見て安心し、 残ったノウサギを少し食べてから、 子供たちを守るように出口に近い所で眠りにつきました。 眠りながらお母さんは考えました。 子供たちも大きくなった事だし、そろそろ一緒に狩りに運れて行こうかなあ、と。

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