『クラブ設立について』    1期  徳弘


  昭和42年というと、もうひと昔以上も前のことになった。

私達は、学部学生会の中に潜水部を作ろうとしていたのだが、その発端となった動機の一つに、

学生会体育会が、どれも学年別の序列といった考え方にとらわれすぎて、上下級生間に人間的な交流がないと思われたので、

その中に一つでも1年生から4年生まで一貫して人間的な交流の行われる自由な雰囲気を持つスポーツクラブを作ってみたいという考えがあった。

当時学部学生会は、クラブ、その下に同好会という序列があって、同好会としての実績が何年かなければ、

クラブとして承認しないということだったので、それでは先ず同好会を作ろうということで始めた。


  練習といっても別にたいしたことはできなかったが、週何回かの陸トレ、それに時々は海へも行ったようだった。

実に細々と、その中でも和気あいあいとした雰囲気でやっていて私としては講義に出るよりも会の皆と会うのがたのしみで、

毎日学部に通っていたような日々だった。


  そんな細々とした活動の中にも、何か、コマーシャルめいたことをやって、会員を増やそうとしたことがある。

そのころ、米軍の『シーラブ計画』が進行中で、百メートルほどの居住実験に成功したところだった。

その『シーラブ』のコマーシャルフィルムを米軍から借りられることになり、学部で映写会を開こうではないかということになった。

たしか、『マン・イン・ザ・シー』というタイトルのついたフィルムだった。


  しかし、その当時我々に対する学部体育会の風当りが強く、

その映写会の最中に、体育会の者らしい人物が、私の所に「責任者はお前か」、

「こんな映写会を開くのは禁止されているのに部屋は誰に借りたか」、などと言って来たのを覚えている。

当時私達は、同好会としても正式に認められていたわけではなく、いわば部外者的な存在だったわけだ。

その頃は、すでにスキューバを使っての潜水が流行し始めようとしていたころだったので、

私達の活動は、余計に体育会側を刺激したのだろうと思う。


  現在のSDCが落研と、学部で覇を競うほどになった、というのもスキューバ潜水の流行という、社会の風潮が下地になっていると思う。

確かにダイビングは美しいと思う。

私はもう自分の体調が心配になるような年代になって、ダイビングを自分で意識しないうちに控えるようになってしまったが、

ダイビングするということは、自然という素晴らしい美の世界に自分自身を浸して、

しかもその中で、過酷なまでに現実的な自然現象に接しているがゆえに

常に自分自身を冷静に判断して行動しなければならないところにスリルとロマンが同居した良さがあると思う。



  潜水の体験談などというと、私のものなど、どれ一つを取ってもとるに足らないものばかりで、

文に残すほどのものなどないとは思うが、一つだけ書いて終わりにしたいと思う。



  和知氏とその他数人が高知へ来ていた時、夜、イセエビを生け捕るため、私と和知氏とでバディを組んで潜った。

私達は、それまでに幾度かイセエビを取るため夜間の潜水をしており、

その時も別に何のことはない、どこかにエビはいないかなと水中灯の光を頼りにエビを探していた。

そのうち光の輪の中に何やら海底から突き出た数本の柱のような物が現われたので、

私は何の気なしにその柱を下から上へと水中灯で照らしてみた。

ところがその柱の一本一本に、胴の直径7〜8センチもあろうかと思われる、巨大なヘビが所狭しと巻き付いていて、

その一匹一匹がどれも水面を向いて口をカッと開いているではないか。

私は思わず「ウワッ!」と叫び声をあげそうになった。

いや実際そう叫んだかもしれなかった。それにしても声にはならなかっただろうが・・・。

背筋に寒気がして、思わずたじろいたが好奇心も手伝って、それが動かないとわかってから、もっと良く見るために光を近づけてみた。

何とヘビだと思ったのは、見たこともない大きなウナギだったのだ。そして、柱と思ったのは沈船の残骸の竜骨だった。


  それからが又大変だった。和知氏が持っていた手モリ(手製で竹の本体)でその大ウナギを突いた。

ところがそいつが竹の部分にヘビのように巻き付いて、とうとうその手モリが折れてしまった。

一応その時は一匹とって、その後イセエビの方は中止して、ウナギの大量捕獲作戦と相成ったのだ。

相手は動かないで、ただ口を開いて水面を見ているだけなのだから獲り放題、 したい放題で、面白いほど獲った。

とうとうあまり獲っても食べ切れないから、もう止めようということになって、今度は食べることになったが、

水田氏などは気味悪がって、とうとう一口も口にしなかったほどだった。


  海の中には本当に想像に絶することがあるものだと、私は今でもその時の背筋の寒さを思い出す。