『入学式』

入学式の後、いつまでも学校に居残っている新入生はいない。
春の陽気に浮かれてどこかへ遊びにいくか、半日でラッキー、と家ですでにノンビリしているか、もしくは高校生活への希望に燃えて新学期の準備にいそしんでいるか。
だから自分も、はやく帰ればいい。
着慣れない制服は重たいし、なんだか疲れた。
うろうろしていると怖い先輩に見つかって、初日から目をつけられてしまうかもしれないし。
「帰りたいんだけど、ね」
汐見由貴はため息をつき、買ってもらったばかりの腕時計を眺めた。そして、古ぼけた校舎の間を、再び歩きはじめる。
上級生の始業式は明日なので、校内は静かだ。
「どうしてもここに来たかったわけじゃないし」
親も港城高校だった。語学に力をいれてるらしいし、家からも遠くない。成績もギリギリ足りた。だから志願した。
ほんとに、たったそれだけの理由。
ここは町中にあるせいか、空気もよくない。
せっかくの桜の花も、くすんでみえる。
自由な校風らしいが、県内でも有数の進学校という側面もある。由貴の学力では、授業についていけない可能性も高い。
ほんとに、なんでこんなところに来ちゃったんだろ。
もし。
翠が、三之宮女子校に進むって教えてくれてたら。
せめて、ヒントだけでもあったら。
尊敬している美術の先生が三之宮にいることを、願書の提出日までに、ちらっとでも匂わせてくれていたら。
そしたら私は、どこを受験してた――?
「違う。それは」
目の前が曇る。
由貴は奥歯をかみしめ、こぼれ落ちそうになったものをこらえる。
最後まで、教えてもらえなかった。
つまり、中学卒業と一緒に、こんなつきあいからも卒業しましょう、ということ――それが彼女の答えなのだ。
進路がはっきりした日、由貴は何もいえなかった。
もし「私も三之宮を受ける」といったら、翠は鼻で笑ったろう。「冗談でしょ、汐見さんの成績で三之宮? 大学進学率、何パーセントだと思ってるの?」と軽くあしらわれたろう。「翠の成績だって、三之宮じゃおつりがくるじゃない」といったところで無駄だ。彼女は絵の勉強をするための進路を選んだのだ。高校を出て希望の仕事が見つかりそうになければ、さらに専門学校へすすむだろう。それは美術全般に興味のもてない由貴には、選べない進路だ。
「……覚悟は、してたけど」
立花翠は、実際的で常識的だ。
つまらない関係はひきずらない。
学校の外に、年長の男友達がいるという噂もあった。
自分はいつか切られる。
それはよくわかっていた。
だけど。
「なんで三之宮の生徒が、ここの前を通って帰るのよ」
お互いの高校の立地については考えていなかった。
帰ろうと校門を出たとたん、涼しげな青いセーラー服の集団にでくわして、由貴は反射的に引き返していた。
「信じられない。翠の家の方角からして、会う可能性もあるってこと?」
無理だ。今は顔をあわせられない。
卒業式から三週間たっているが、そんなに簡単にふっきれない。
中学時代の由貴にとって、翠は《すべて》だった。
もし「おまえの神は誰だ」と問われたら、由貴は迷うことなく彼女の名を答えたろう。圧倒的な存在として、抵抗不可能だった。目の前にいなくても、由貴のすべてを支配できるのは、翠だけだった。
それを、どう忘れろというのか。
三之宮の生徒たちの流れが途切れるまでは、どうしても帰れないと思った。だってもし彼女が、新しい友達と談笑でもしてたら?
想像だけで気分が悪くなったが、ゆっくり休めるところも見つからない。
しかたなくあちこち歩いているうち、由貴は入学式の行われた講堂の前に戻っていた。
なんとなく中をのぞいてみると、上級生らしい二人の女子が、後片づけを頼まれたのか、紅白の幕を畳んでいる。
「あ、菊地先輩と、中原先輩」
二人とも中学の先輩だった。吹奏楽部で世話になったが、遠い存在でもあった。
ニキビが出たこともなさそうな、つるりと綺麗な肌。なんで運動部じゃないんだろうと不思議になるぐらい、すらりと伸びた背。成績は学年トップを争っているという噂。菊地ひろみは真面目でキリリとしたタイプ、中原潤子は大人っぽく華やかで、下級生の人気を二分していた。憧れの先輩、という形容が、これほどふさわしい二人もいない。
ふと、潤子が首を傾げた。
「このロープ、どうしまったらいいのかな」
二人は幕を吊していたロープの両端を握っていた。
ひろみはこともなげに、
「幕と同じで、二人で順番に折っていけばいい」
「それだったら、丸めた方がはやいんじゃ」
「それもそうか。でも、その前に」
ひろみはニッコリ笑うと、ロープをゆらしはじめた。
「大縄跳びー!」
由貴は思わず「ええっ」と声を出してしまった。
あの菊地先輩が、そんな子どもっぽいこと!
飛ぶ人間もいないのに、ロープを回して遊んでるなんて。
「そこにいるのは……汐見さん?」
「え、はい!」
潤子に気づかれて、由貴は思わず背筋を伸ばした。
逃げることもできずにいると、ロープの端をひろみに渡して、近づいてくる。
「港城高校へようこそ。悪くないところよ。私が生徒会に入れるぐらい、自由なところだしね」
由貴は目をみはったまま、
「中原先輩、高校でも吹奏楽をやってるんですか」
「そう。春の定演が終わったばっかり。入学式でも一年生の後ろで、フルート吹いてたんだけど?」
「すみません。じゃあ、菊地先輩も」
「ううん、あの人は裏切り者なのよ。高校でソフトボールを始めたの。県大会四位の弱小部なのに。ヒマでしかたないらしいから、生徒会にひっぱりこんじゃった」
ロープを丸めて幕の上に置くと、ひろみも近づいてきた。
不思議そうな顔をして、
「汐見さんが港城に来たってことは……立花さんも?」
その名を聞いた瞬間、ざあっと音がした。
顔から血の気がひき、足から力が抜け、その場に倒れそうになった由貴をとっさに支えてくれたのは、二人のどちらだったか――それすらわからないほど、急激に意識は遠のいていた。

「……のせいじゃないわよ。新入生は当然、お昼も食べてないわけだし。緊張もしてたろうし。急に倒れても、別におかしくはないんだから」
潤子の声で、由貴は目覚めた。
保健室の硬いベッドの上だ。
新しい制服が皺になっているのを感じながら、由貴は虚ろに天井を見上げた。
「ところで、汐見さんの家、どこらへんか知ってる? 連絡しなきゃいけないわよね」
ひろみの声が答える。
「なかなか帰らないから、心配してるだろうけど、私たちが連絡するのも、どうかな?」
「先生たち、まだ会議、終わらないのかしら」
「今夜の花見のことでも、相談してるな」
由貴は身を起こした。
「もう大丈夫ですから。大ごとにしないでください。一人で帰れます」
潤子はふりむき、それから首を振った。
「まだ、顔色がよくないわ。とにかく無理しちゃ、ね?」
ひろみもうなずいて、
「家まで送ろう。私たちにつきあわせて、遅くなったことにすればいい。なんなら今から電話しようか?」
「かまわないでください。私、携帯もってないし、他の人から連絡があったら、かえって親が驚きます。家も遠いわけじゃないし」
入学初日に、生徒会の先輩二人と帰るなんて、いろんな意味で困る。そんな目立ち方はいやだ。
ひろみは難しい顔になった。
「でも、私のせいで倒れた。違う?」
図星をさされて、由貴はうつむいた。
ごまかすどころか、「菊地先輩のせいじゃありません」とすらいえずにいると、ひろみは声を低くして、
「ごめん。汐見さんが港城に来たのが、ちょっと意外だったんだ。立花さんは実務系の学校に行くタイプだから、汐見さんはそれについていくと思ってた。でも、汐見さんはここに来た。ということは立花さんがあわせたのか、それはなかなか、決断だな、と、つい」
「翠は三之宮に行きました」
ひろみは首をすくめた。
「女子校か。まあ、三之宮も、遠くはないしね」
「あの、なんで菊地先輩は、翠のことを?」
ひろみは苦笑した。
「有名だったからね。性格も部活もまったく違うのに、いつも一緒に帰ってる。別のクラスにされた時も、休み時間は必ず一緒にいるって」
由貴は顔を伏せた。
親しくない先輩にまで、異様なものとして知られていたのか。
自分が翠に捨てられた理由が、あらためて身にしみる。
つまり、目立って、邪魔だったから。
重い塊を飲み込んだ心地がする。空腹どころか、何も喉を通りそうにない。
「そうだったの。あんなに仲の良かった彼女と別の学校になったんじゃ、ガッカリするわよね。だけど」
潤子は首を傾げながら、
「立花さん、引っ越したわけじゃないんでしょう? 三之宮なら、学校の帰りに待ち合わせて遊びに行くこともできるんじゃない? 学校だけがすべてじゃないし」
由貴は首を振った。
「無理です。何の相談もしてくれなかったし」
「まあ、汐見さんはひとこと、欲しかったろうけど」
潤子は由貴の顔をのぞきこむようにして、
「進路の相談、立花さんにした? 得意分野が違いすぎるから、最初からお互い、同じ高校はあきらめてたんじゃない?」
「それは」
ひろみが割って入った。
「中原さん、無理いっちゃいけない。相談しにくいことだよ、将来のことは、特に」
ひろみは由貴の目をのぞきこむようにして、
「まあ、立花さんも三之宮じゃ、いずれ時間を持てあますだろう。すこし離れてみると、汐見さんのありがたみもわかると思う。あんまり、悲観しない!」
「でも」
「本当の友達は、そんなに簡単に離れないよ。それでもやっぱり一緒の高校がいいと思うなら、三之宮の転入試験を受けることもできるわけだし」
「そこまでは考えてませんでした……けど」
なんで先輩たちは、そんなに親身なんですか?
心をすっかり見透かしてるのは、どうして?
そう口にしかけて、由貴はハッとした。
ああ、そうか。
先輩たちも、そうなんだ。
たしかに、こうして並んでいる姿はお似合いだ。
講堂で最後まで片づけをしてたのも、そういうこと。二人きりだから、菊地先輩もあんな風にはしゃいでた。部活を変えたぐらいで中原先輩が恨みごとをいうのも、いつも一緒にいたいから。
そういう二人だから、自分の気持ちもわかってくれた。
だけど。
「先輩は……」
彼女たちは釣り合いがとれている。性格的にも、成績的にも。将来もたとえば、スポーツ選手と音楽家に別れてゆく可能性は、低いだろう。そういうものを目指しているなら、他に向いた高校があるからだ。
二人はこれから先も、ずっと一緒にいられる。
私たちと違って。
由貴は制服の裾をかるくはたいて、立ち上がった。
「帰ります。もう大丈夫です。ありがとうございました」
潤子は心配そうに、
「ならいいけど、また倒れたりしないでね」
ひろみはそれに添えるように、
「もし、相談にのれることがあったら、声かけて」
由貴は微笑で応えた。
好意はありがたいけれど、きっと相談しない。
社交辞令でも、「ええ、その時は」とはいえなかった。

*      *      *

「ただいま」
のんびりした母親の声が、由貴を迎えた。
「あら、遅かったわね、どこかでお昼たべてきたの」
「ううん。中学の時の先輩がいて、部活のこととか相談にのってもらってたら、こんな時間になっちゃって」
「これから食べる?」
「いらない」
「少しでも食べておいた方がいいわよ」
「疲れたから、夕食までちょっと寝てる」
「あらそう。……そういえば、立花さんから手紙が来てたわよ。机の上においといた」
頬が熱くなるのを感じた。
慌てて自室に上がる。
春らしい色の封筒にペンで書かれた小さな文字は、たしかに翠のものだった。すぐにハサミで端を切り落とす。
中には同色の便箋がはいっていて、携帯電話の番号と、携帯電話のメールアドレス、それからパソコンのメールアドレスが印字されていた。
見慣れた字で、短い添え書きがついている。
「連絡、待ってる」
待ってる?
ほんとうに?
しかし、翠が嘘をつくメリットはなにもない。
由貴との関係を切りたいのなら、手紙を出すわけもない。
そう、まだ「縁を切る」とはっきり宣言されてはいない。
勝手にそう思いこんでいただけかもしれないのだ。
由貴は何度か深呼吸をすると、自室の電話で、携帯電話の番号を押した。
声をきけばわかる。
今の翠の気持ちが、きっと。
コール三回で、聞き慣れた声が応えた。
「もしもし?」
「翠、あの」
由貴が喉に声をつまらせていると、翠は続けた。
「携帯、入学祝いにやっと買ってもらえたから。手紙じゃむずかしい話は、電話かメールくれるとうれしい」
その物言いには、まったくためらいがなかった。
いつものように断定的。由貴かどうかも確認しない。
必ずかけてくるという自信が、翠にはあったのだ。
こっちはこんなに、不安だったのに。
「……いいの? かけて」
ようやくそれだけいうと、深いため息が聞こえてきた。
「それは私の台詞」
「翠?」
「私からかけてもいいの?」
「それは、もちろん」
由貴は受話器から、二度目のため息を聞いた。
「だって、卒業したら、手紙ひとつ、くれないんだから」
翠の声に嘘はなかった。
由貴は震えた。
彼女は待っていた。
そして、待ちきれなくなった。
まだ私が必要だというのだ。
歩む道が違っても、離れないでいよう、と。
由貴は声をつまらせながら、
「これから書くから。メールもするから」
苦笑まじりの声が応えた。
「……ほんと、こんなに長い春休みは、初めてだったよ」

(初出・「百合部」合同誌 2008年5月)

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