『天の秤』


その明け方、大谷吉継は、真田幸村の腕の中でうっすらと目を開けた。
前の晩、湯屋を出たところで出くわし、話をしながら部屋へ戻ろうとすると、抱きすくめられ、そのまま孤閨を慰められた。
幸村は客将として、しばらく西軍に滞在しており、その想いを受けるのももう何度目かのことだった。
だいぶ細やかになってきた手業に、吉継は満足した。
《三成も、真田のように、もうすこし優しゅうしてくれたら……》
若者らしい青臭い体臭をかぎながら、ため息をつく。
いや、今さら、三成と淫ら事をしたいわけではない。
三成は頑固な男だ。打算では動けない。子ども扱いされるゆえんだ。
だが、それが三成の魅力なのだ。希なる純粋さを汚したいとは思わない。
それでもせめて、人に笑いかけるということが、できないか。
《無理よ無理、もともと明るい男ではない。太閤を失ってからは、むやみに走り回るばかりで、笑みを浮かべた姿など見たことがない》
それでも一時、われの側で身を休め、頬をゆるめることがあっても、かまうまい?
ふと、幸村が目を開いた。
「もうお目覚めですか、大谷殿」
「そろそろ明るくなるゆえなァ」
「では某、おいとまいたしまする」
「もう行くのか」
「名残り惜しいのですが、石田殿も朝が早い方、某も鍛錬に向かいませぬと」
「そうよな。よいよい、ぬしが床をあたためてくれたおかげで、われもよう眠れたゆえ」
「大谷殿」
幸村の熱い腕が、吉継をギュウと抱きしめる。
「某も、佳き夢を見られました……」

朝餉をすませて居室に戻り、届いた書簡をあらためていた吉継のところへ、三成がふらりとやってきた。
「やれ、どうした三成」
「少しでかける。留守を頼む」
「あい、わかった」
わざわざ声をかけてゆくということは遠出をするのか。しかし行く先を告げぬということは、具体的な進軍準備をしているわけでもないのだろう。そう思いながら吉継が見上げると、三成はふっと視線をそらした。
「……ああいう男が、好みだったか」
吉継は首を傾げた。
「なんの話よ」
「真田だ」
やれ、先ほど襖も障子も開けて風を通し、こもった匂いは消したつもりだったが、などと思いつつ、吉継は笑顔で応えた。
「そうよなァ、佳き男よ。さすがは甲斐の虎の秘蔵っ子、腕が立つだけでなく、なかなか素直で、心根も優しい。人の話もようきくから、物覚えが早い。われは好ましく思うておるが、ぬしは気に入らぬか」
三成は、なんともいえない顔をした。寂しげな声で呟く。
「そうか、優しいか。よかったな」
そのまますうっと、部屋を出て行く。
「ぬしは……」
吉継の胸は、早鐘のように打ちだした。
「今まで誰をこの懐にひきいれようと、気にしなかったぬしが、いったい何を」
病をえる前の吉継の夜は、なかなか華やかなものであったが、三成はそれに対して、何の関心も見せなかった。
もちろん、いい顔はしない。真面目な三成は遊びを嫌う。そして正直な男ゆえ、一緒にいる時に他の相手を優先すると、苛立ちをみせることはあった。
だが、面と向かって妬心を露わにするなど、初めてだ。
「われが真田に、そこまで本気と思うておるのか」
むろん、幸村を好きなのは嘘ではない。
可愛いと思っていなければ、病んだ身を開いたりはしない。
だが。
「よかったな、などと、ゆうてくれるな」
《まるで、われの身をまかせるかのような……われは別に、真田に頼るつもりなど……いや、ぬしに頼るつもりもないが……》
幸村に抱かれて、人肌の熱さを思い出してしまった。若き日に置いてきたはずの情感も、身の内に蘇りつつある。
つまり吉継は、身も心も火がついてしまっているのである。
そんな時に、三成に常ならぬ顔を見せられたら。
違う方向へ、その火を煽られたら。
《いや、われは別に、三成をそんな目で……そんな目で見ては、おらぬゆえ……》
何度も首をふり、打ち消しながら、吉継は筆をとった。
三成の復讐を、その大願を成就させるための策謀を、練るために。

「石田殿ー!」
めずらしく三成が早く戻って、道場にいるという。
幸村は夕餉を共にしようと思い、声をかけにいった。
三成は素振りをしていた。
彼の鍛錬は、今までも何度か見たことがある。低く気合いを発し、正確に同じ場所へ、まっすぐに打ち込んでいくのだ。
落ち着いた構えで、その剣先はまったくぶれない。
剣を交えてみずとも、その後ろ姿だけで、強いということが一目でわかる。
いくさばでは、目にもとまらぬ早業を繰り出す、むしろケレン味の勝った神速の剣士だが、それはこのように、地道で正当すぎるほどの積み重ねの上になりたっているのだ。
家康を倒すための努力を、常に怠らない。
その生真面目さが、幸村の目に好ましくうつった。
「なんと、美しき太刀筋でござろうか」
幸村の呟きを耳にとめたか、三成は素振りをやめた。
剣をおろし、汗をぬぐって振りむく。
「真田か。どうした」
「石田殿のその剣は、どなたが師なのかと思うておりました」
秀吉も武勇の男だったが、槍にしろ剣にしろ、その腕前はあまり有名ではない。
三成の動きは、竹中半兵衛の剣さばきに似ているという噂もあるが、少し違う気もする。おそらく独自に鍛えてきたのだろうと思いつつ尋ねたのだが、なぜか三成は顔を背け、声を低めた。
「紀之介だ」
「大谷殿、なのですか」
幸村は目をみはった。
二人が佐吉と紀之介と呼びあっていた十代の頃から、共に豊臣の臣として生きてきたことは知っていたが、まさかそこまで密度の高い関係とは思っていなかった。
「昔の刑部は強かった。私はかなわなかった。剣を使えなくなった今も、強いがな」
吉継の端正な太刀筋が目に浮かんで、幸村はホウ、とため息をついた。
その艶やかな頬を見つめながら、三成はさらに声を低めた。
「刑部を頼む」
幸村は目をまたたかせた。
「石田殿?」
「貴様のことを、気に入っているようだ」
「頼む、とは、いったい」
「私の命は家康を倒すまでのものだ。刑部は病を気にしているが、すぐに死ぬわけではない。だから、頼むといっている」
幸村は震えた。
目の前の男が一番心配しているのは、己の命でなく、朋友なのか。
なによりも深く結ばれているはずなのに触れもしない、それが、石田三成の真心なのか。
「上田城で小者にからまれた時、貴様は私の背をかばい、私を《我が盟友》といったな。《石田殿が、領内で傷を召されるのは、我が名折れ》と。貴様は筋を通す男だ。刑部を不幸にすることはあるまい」
「石田殿は……」
きいてはならぬ、と思いながらも、幸村は問うた。
「石田殿が、大谷殿を幸せにすることは、お考えにならぬのですか」
「私は人を幸せにできる男ではない。刑部を悲しませたくない」
三成の口元に歪んだ笑みが浮かび、その身が傾いた。
「あの瞳を見ればわかる。今回は遊びでないようだ。貴様も気まぐれで、つまんだのではあるまい」
思わず首を振り、二人の仲を肯定したことに気づいて、幸村は青ざめた。
すべて知っていて、譲るというのだ。
その顔に「本当は私も刑部が愛しい。触れたい」と、はっきり書いてあるのに。
どれだけ長く、思ってきたのか。
「わかりもうした。おまかせくだされ」
そう答える以外、幸村はどうしようもなかった。

「真田よ。上田の城は鉄壁の守りというが、この陣をおとされると、背後がガラ空きにならぬか」
「以前からそのようにいわれておりまして、そのため、この道を封鎖し、跳ね橋の仕組みを……」
「忍が詰めておるなら、こちらの水路は活かせぬのか」
「そこは大谷殿にもお話しできぬ、事情がござりまして」
「さようか。だが上田は、あの男の進路を塞ぐ、要所ゆえなァ」
「そちらはおまかせくだされ。真田丸の整備も、だいぶ進んでおりますゆえ」
その夜、簡単な図面を広げながら、吉継と遅くまで話し込んでいた。
顔がふと近づいてしまい、幸村の瞳は思わず潤んだ。
《某が、大谷殿を幸せに……》
「やれ、どうした真田よ」
問われて思わず、肩を抱き寄せてしまった。
「某は」
言葉が続かず、吸い寄せられるように近づき、吉継の口唇を奪った。
顔が離れると、吉継は微笑んだ。
「やれ、せっかちよな。隣へゆこ」
幸村は黙って吉継を抱き上げると、隣室のしとねへ横たえ、すぐに着物を乱し始めた。
「大谷殿」
「ん」
幸村は、吉継の大事な場所を撫でながら、
「某で、よろしいのですか」
「今さらな。厭であれば、ゆるしもせぬわ」
幸村はため息をついた。
「もし、大谷殿がお望みならば、某が、石田殿のかわりを」
「ぬしはぬしよ。三成ではない」
だが、幸村は吉継の耳を噛みながら、少し高い声をつくった。
「刑部……」
「いやよいや!」
その瞬間、恐ろしい勢いで吉継は幸村を突き飛ばした。
病の身とは思えぬ膂力だ。三成が「今でも強いが」と苦笑したのを、幸村は身をもって知った。
「そのように呼ぶでない。どういうつもりよ。ぬしはわれを、三成に抱かせたいのか。われを恋うてくれておるのではないのか」
吉継の声は震えていた。
明らかに泣き声だ。
少し声を真似ただけで、ここまで動揺するとは、幸村も思っていなかった。
その極端な反応は、吉継にとって、どれだけ三成が大事かをはっきりと示している。
ほんとうは三成に、優しく慈しんで欲しいのだ。
他の誰かを三成と思って抱かれることすら、己に許していないのに。
これでは「石田殿から大谷殿を頼まれまして」などとは、決して伝えられない。
三成が首尾良く復讐を遂げたとしても、その命を失えば、吉継も生きてはいられまい。病が身体を滅ぼす前に、心が死んでしまうだろう。
そうでなくとも、西軍が崩壊するようなことは、決してしてはならぬこと。
裂けない絆の間に、むりやり割り込んでしまった自分ができるのは、二人の心の動きを黙って見守ることだ。
そして時を見極め、いざという時には、いさぎよく引く。
いくさの駆け引きと同じだ、できぬことはあるまい。
「大谷殿」
幸村は平伏した。
「申し訳ござりませぬ。某、まことに浅はかなことを。今宵はこれで、失礼いたしまする」
「待ちやれ」
吉継は身を起こし、幸村を手招いた。
「悲しげな声を出すでない」
「大谷殿」
「見当はつく。三成の様子もおかしかったからなァ、なにか嫌味をいわれたのであろ。だが、ぬしが気にすることはないのよ。われはな、ぬしが好きで、こうしておるゆえ」
おそるおそる近づいてきた幸村の頭を、吉継は優しく撫でた。
「やりかけて放り出していくなど、つれないことをするでない。それとももう、われが嫌になったか」
「いえ、おゆるし、いただけるのならば」
幸村は再び、吉継の上に覆い被さる。
「某は決して、大谷殿をお見捨てしませぬ」
「ぬしの情けを疑うてなどおらぬ。優しゅうしてくれ」
幸村の動きが柔らかくなる。
吉継は安堵のため息をついた。
ああ、真田でよい。
これは三成ではない。三成はこのように優しくできぬ。もしあの三成がこのようにしてきたら、それこそわれは死んでしまうわ――恥ずかしゅうて。
そう思った瞬間、別の情感が襲ってきて、吉継はたじろいだ。
思ってはならぬ。今、三成を思ってはならぬ。それこそ裏切りよ。
「大谷殿?」
「いやすまぬ、ぬしの触れ方がよすぎて、乱れてしまいそうなのよ」
「それでは、もっと優しくいたしますゆえ、某の腕の中で、たくさん乱れてくだされ」
「真田」
優しい腕にすがりつき、吉継は目の前の快楽に身を委ね、すべてを忘れようとし――。

(2012.6脱稿)

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Written by Narihara Akira
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