『日蝕の子ら』

もう僕を指さすのはよし給え
生まれた時から日蝕だった
口唇を抑えて生きてきたんだ

不毛の丘に腰をおろす己の長い脚
それでも遠く
見えない海のあることは知っていた

地球を円く作りなし給うた神よ
いま我は
高らかに御身の愚をあざわらう

−−Hideo Nakai−−

1.

その朝、樹は傍らにいた恋人にうっとりと手を伸ばした。
「どうして、肌身を重ねることを愛し合うっていうのか、今ならよくわかる……」
実感の籠った、熱い吐息。
もちろん、愛などなくても抱き合える。そこにも快楽はある。ただし、愛情をあらわす行為としてのセックスの喜びは、また別のものだ。言葉もなくただ身体だけで親密さをわけあう嬉しさは計り知れないほどだ。どんな深い屈託をも癒すような気がする。
「今更だけど……本当にそう思う」
昨夜の樹は、その満足に充分にひたれたらしい。夜が明けているのに、まだ名残りを惜しむように、恋人を抱き寄せようとした。
だが、忍はするりとその手を逃れた。素早くベッドを降りると、すぐに服をつけ始める。
「忍……?」
怪訝そうに眉を寄せ、樹は忍の背中を見つめた。彼は振り向かずにこう答えた。
「もう朝だ。おまえもそろそろ仕度をしろ」
「ああ」
樹は薄く微笑むと、自分もベッドを降りた。
「そうだね。俺も王子に戻らなくちゃ。忍だって、宿舎に戻っておかないと、S・ブラックは親衛隊員の中で特別扱いされてるってことになっちゃうし」
王子とS・ブラック――これが今の彼らの名前である。忍の死後、すぐに死んだ樹は、転生のタイミングを失って、ちょうどその時地球に来ていたドグラ星の第一王子の魂にとりつき、一時その精神と肉体をのっとった。
王子は、樹を自分の前世の魂だと思い、樹の恋に協力してくれた。地球で、アンドロイドとして転生した忍の魂をドグラ星に持ち帰り、新たな身体にいれて直属の親衛隊員としたのである。忍はそこで新しい名、S・ブラックをもらった。
だから、樹が主導権を握り、王子から本来の姿に戻る夜には、S・ブラックもまた仙水忍となって、こうしてひととき愛し合うのである。
「俺の方は特別扱いしてもいいけど、忍はそういうの嫌いだからな……」
呟きながら、樹は素裸のままで部屋を横切った。隅の水盤で顔を洗うと、クロゼットから新しい服を何枚か出し、胸にあててみる。
「忍、王子には慣れたかい? 昼間、あんまり迷惑かけてないよね?」
昼間の間、樹は王子に戻る。
髪の色も目の色も体格も変化し、本来の王子の性格に戻る。そして、形の上のことだけとはいえ、昼間の忍は樹の部下だ。我が儘を言われれば従わなければならない。それだけが、今の樹の気がかりだ。
「ああ。おまえより余程素直だ、扱いやすい。……だが」
忍の声はそこでくぐもった。
「それよりも、おまえ自身が変わった。随分と可愛らしいことを言うようになったじゃないか」
「え?」
「あ」
振り向いた樹の姿は、もう王子のものに入れかわりつつあった。二重人格の人間が、別人格になるとその容貌を急に変えてゆくように、彼もまた変身してゆく。流れるような緑の髪は波うつ淡い金髪に、憂いを帯びた濡れた瞳はぱっちりと見開かれた悪戯っぽい瞳に、細い眉は丸く長い孤を描き始め……忍の愛する男の存在は、みるみるうちにかき消えてゆく。
ドグラ星の正式な衣装をつける彼は、すでに王子以外の何者でもなくなっていた。
忍は慇懃に頭を下げた。
「いえ。なんでもありません」
王子と樹同士は精神の中で会話できるらしいが、完全に入れ替わると、その間の事は憶えていないらしかった。どうやら王子も他人の濡れ場は遠慮しているらしく、夜の間は意識を閉ざしているのだ。
だから、今の会話は、空しくも続けられない。
忍は苦笑した。
いや、続けてはいけないのだ。昼間の王子に下手な言葉尻を取られて、余計なお節介を焼かれたりした日にはそれこそたまらない。
「今日の御予定は?」
シンプルではあるが、第一正装を選んだ王子に、忍は上着をそっと着せかける。王子は軽くうなずいて、
「アマノ姫に会いに行く。あまり疎遠にしていると、婚約者としてのつとめが果たせないからね」
嬉しそうに微笑む。リリィ・アマノ姫は、王子と相愛のフィアンセである。彼女とつきあいはじめてから、王子はすっかり落ち着いたのだという。もし、彼女と出会う前の王子に樹がとりついていたら、忍はこんなにすんなり再会を果たせたかどうかわからない。妨害につぐ妨害で、かえって面白いくらいの事態を招いていたかもしれない。
そんな事を考えながら、薄い口唇を笑みに歪めて見つめていると、王子はああ、と眉を上げた。
「今日の連れにはクラフトを呼ぶつもりだったが……S・ブラックもついてくるか?」
忍は首を振った。
「遠慮させていただきます。視察や危険な任務でなければ」
親衛隊員といいながら、彼は護衛の仕事をあまりしていなかった。目立ちたくなかったのもあるが、王子とあまり長い間一緒にいたくなかったからだ。ただ、王子の身体に危険が迫ると思われる場合のみ、同行した。同じ体内にいる樹に万が一の事があったら困るからだ。それに、王子も別に無理強いはしなかった。忍が従わないのが面白いらしい。
まあ、クラフト隊長らの様に、ドグラ王に深い恩義がある訳でなし、彼が王子に従わないのは当然なのだが、まだまだそれが新鮮に思えるらしい。
「そうか。なら、待機で構わない」
王子は鷹揚にうなずくと、寝室の扉を開けた。
だが、部屋を出る瞬間、ふと振り向いた。呟くように、
「S・ブラック。まだ心配しなくていいからな。婚礼は、父君が死んだ後の予定だ」
シュ、と音を立てて扉が閉まった。
「なんだ、今のは」
こちら側に一人取り残されて、忍は茫然とたたずんだ。
心配しなくていいとは、どういう意味だ。
「……そうか」
なるほど、どうして王子が、自分に嫌がらせらしい嫌がらせを今までしてこなかったのかやっとわかった。
「おまえ達の恋はどうせ、妃を迎えるまでの短いもの――だからそれまで、せいぜい楽しむがいい、ということか」
最初からかなわない思いを諦めるよりも、うんと甘い思い出をつくってから引き裂かれる方がずっと辛い。だからこそ、王子は今、樹と自分の恋路を応援するようなことまでするのだ。後で自分がゆっくりと楽しむために。
「ああ、だから束の間の逢瀬でいいといったんだ……ドグラ星になど来たくなかったんだ」
忍は暗然と呟いた。
そして、乱れたベッドを簡単に直すと、彼もまた王子の寝室を出ていった。

2.

同日、夜遅く。
王子は、眠る時間になるとS・ブラックこと仙水忍を、わざわざ寝室に呼んだ。
「あ、来たか。着替えを手伝ってくれないか」
「それは私の仕事ではありません」
忍は早口で切り返した。俺は乳母でも召使でもないぞ、とにらみつけてやると、王子は楽しそうに笑った。
「なんだ、朝はちゃんと上着を着せてくれたくせに。初々しい新妻みたいにさ」
忍は小さく舌うちした。確かにそうしたからだ。何故かわからないが、なんとなく身体が動いたのだ。そんな親切にしてやる必要など、少しもなかったのに。
王子は忍のしかめっ面を楽しそうに眺めていたが、すっと近づいてきてこう耳打ちした。
「まあいいや。それに、いきなり樹になっちゃえば、全部脱がせてくれるんだろう?」
「王子!」
忍の動きも早かった。軽く王子を逃れて、部屋の真ん中へ移動し、身構える。
「冗談だよ。怖いな」
王子は自分で服を脱ぎ、さっさとしまいはじめた。いろんな星で様々な生活をしてきたせいか、王子は身じたくが素早く手慣れている。手伝いなどまるで必要ない。
忍はひとつため息をつくと、その背に向かって新しい話題を投げかけた。
「王子、今日のリリィ姫との会見はいかがでした?」
「あ、うん。面白かった。まんまとクラフトをまいてやったし。おかげで仕事がすっかり進んだよ。この調子なら、明日も楽しく遊べるな」
またか、と忍は思う。
毎回まかれるクラフトも大変だと思い、この王子につきあう婚約者姫も大変だと思い、 この王子をいただくこの星も大変だと思った。
「……という訳で、今日は有意義に過ごせて楽しかったから、S・ブラックにも早めにごほうびをあげよう」
そう呟いて、王子はゆっくりこちらを振り向いた。右頬は既に、傷のある樹の顔になっていた。
「ごゆっくり。……後は関知しないから、安心していいよ」
言い終えた瞬間、王子の姿は消えた。
ゆるやかな薄い下着姿でそこに立っていたのは、今朝と同じままの樹だった。
「忍」
その声とその瞳は《逢いたかった。少しでも離れていて寂しかった》と告げている。
一刻でも惜しむように、樹は忍に近づき、その身体にすがりついた。
「……樹」
忍は浮かない顔で、樹の身体を押しのけた。
「どうかしたのか?」
「王子は、おまえがおまえになっている時の事を、どれだけ憶えてるんだ」
樹は、細い瞳をまじまじと見開いた。
今更何を言うという顔だ。なにしろ、アンドロイド忍は、最初に樹を押し倒した時、陸言をきかれても困らないとまで言った。だから樹も、その事は気にしないでいたのだ。
「大丈夫だよ。多少は記憶があると思うけど、本当にほとんど関知してないと思う」
「そうなのか」
樹は軽くうなずいた。
「うん。俺も、昼間のことはよくわからないし。特にアマノ姫とあう時は、王子、ブロックが固くてね。まあ、恋人と二人きりなんだし、他人に覗かれたくないのは当り前なんだろうけど。だから逆に、完全に俺になってる時は、本当にこっちの事情がわからないみたいだ。特にガードしなくてもね」
「そうか」
「だから、忍……」
安心していいよ、とでも言うように、樹は忍を抱きしめた。
明りを消すと、天蓋のついたベッドへ、二人は倒れ込んでいった……。

「愛してる……愛してる……忍」
機械の身体を、樹はいつまでも撫でていた。二の腕の筋肉の動きひとつでさえ、愛しいとでもいうように。たとえ生身でなくとも、こうして触れ合っていられることが、どんなに幸せだろうというように。
しかし、忍の表情は歪んでいた。
湧き上がる感情に耐えかねて、息を殺していた。
そして、しばし薄闇の中で瞳を光らせていたかと思うと、急に樹の首に手をかけた。
「はあっ」
樹は何が起こったのか、一瞬よくわからずにいた。
「しの……ぶ?」
馬乗りにされ、喉をきつく締め上げられて、樹はやっと相手の殺意に気付いた。
逃れられず、ただ苦しげにうめく。
「忍……何故なんだ……俺を殺したいのか……それとも、まさか王子を?」
「俺はおまえを殺したいんだ」
樹は掠れた声で尋ねる。
「どうして……そんな」
哀れな声をきいても、忍の声は尖ったままだった。
「肌身を重ねても、俺達は愛しあってなんかいない。俺達は王子と人形だ。おまえが昔の樹のままだという保証はない。俺は王子なんか愛してない。それに、もし俺達が完璧に生れ変ったというなら、俺達はまた別の俺達なんだぞ。愛し合う必要はない」
「忍」
「王子の時に、おまえを殺そうとも思った。ドグラ星なんかどうなっても構わないからな。だが、王子を殺したとしても、おまえが無事に転生するかどうかわからない。なら、おまえがおまえでいる時に殺した方がいい。そうすれば、確実に死んで、二度と俺をわずらわせることもない」
樹は、観念したように瞳を閉じた。喘ぐような声で、
「そんな、つもりじゃ、なかった……」
目の縁にたまっていた涙が、白い頬を滑り落ちる。
「樹……」
忍の手の力が、抜けた。
急に喉が楽になった樹は、激しく咳こんだ。それでも無理に口を開き、低い声で泣き始めた。
「ごめん……今度こそ、やりなおせると思ってたのに。今度こそ間違えない、優しくできると思ってたのに……それなのに、俺はまた、忍を傷つけてきたんだ……いっそ殺したい、と思うくらい……」
「樹」
違う。
殺したいのではなかった。
そのつもりなら、一瞬で殺せた。
だから、殺したいのではない。ただ樹が、他の誰でもない樹が欲しかっただけだ。
ああ。
俺は、ここまで樹に捕らわれていたのか。
茫然とした忍は、両手を下ろして天蓋をあおいだ。
自分で信じられなかった。発作的にこんなことをしてしまうなんて。
そんなにも、目の前にいるこの男が愛しかったのか。すべて我が物にならないのなら、片時も自分の側にいられないのなら、いっそ破壊しつくしたいと思うほど。
「ご……めん、忍」
樹はまだ泣いていた。幼子のようにすすりあげながら、
「俺が無神経だったんだ。大丈夫だと思ってた……他の人格があっても、忍、ここへ来てから出してこなかったし、だから平気だろうって……違う身体に入ってたって、結局は忍なんだから、同じなんだって思ってた……違うよな。どんなに忍が繊細な人間か忘れてた……我慢を重ねた挙げ句に、自分を滅ぼすような男だってこと……一緒にいられれば幸せだなんて、俺の都合だけで……それなのに、俺はまた、忍を追いつめてたんだ……」
「樹」
忍は、樹の熱い肩に手をおいた。
「もういい。追いつめたのは俺の方だ」
「忍」
「俺がおまえと一緒にいたのは、たった十数年の間だ。闇撫のおまえにとっては、本当にわずかな年月に過ぎなかった筈だ。それなのにおまえは、俺のために生きて、俺のために死んだ。……だから、もういいんだ。自由になっていいんだ。滅びる必要は、ないんだ」
「違う!」
樹は激しく首を振った。
「そうじゃないんだ、忍。俺は、自分のために忍のそばにいたんだ。俺がそうしたかったから、忍と生きたんだ。俺は忍が……忍が……」
「樹」
「信じてくれ……頼む……時間の問題なんて関係ないんだ。俺はただ……おまえに愛されたくて……忍だけは、忍だけはなくしたくない……そう思って……」
忍は、自分の前でここまで取り乱す樹を見るのは初めてだった。
今の樹は、愛という名の病に冒されていた。
一度得た幸せがあまりに大きすぎて、それに目が眩み、我を忘れてしまっているのだ。
忍は思わず目を閉じた。
こいつはもっとクールな男の筈だった。駆け引きも引き際も心得ている筈だった。プライドも誇りも持っていた。哀願して何か頼むようなことは決してなかった。どんな時も、そばにいてくれ、と乞うことさえしなかった。
その男を――そういう男をこんな風にしてしまったのは、俺なのか。
すべては俺のせいなのか。
「みっともないから、泣くんじゃない」
「忍」
顔を上げた樹に、忍はこう囁いた。
「俺達は愛しあっている。それは昔と変わらない。どこにいても、誰の姿を借りていても、それは少しも変わらない。……そうだな?」
「ああ」
「なら、何も心配することはないだろう。どんなに離れていても、どんな姿になっていても、俺達が変わらないなら」
「……忍」
樹は、鉛を飲み込んだような顔で忍を見つめた。
彼の言う言葉の意味がわかってしまったからだ。
今生はしばらく別れよう、というのだ。
気持ちが本当に変わらないのなら、事態が変わるまで、少し距離を置こうというのだ。
樹は、《厭だ》と言えなかった。
こんな風に追いつめて、忍に自分を殺させる訳にはいかない。
第一、忍の決めたことに、彼が逆らえる訳がなかった。
「わかった」
樹は目を閉じた。
「……俺は、また、置いていかれるんだな」
「樹」
「大丈夫さ。大丈夫だよ。俺は平気だ……大したことじゃない」
樹の肩は震えていた。声も低く、今にも消えてしまいそうだ。
忍は樹を抱き寄せた。
「すまない。俺の我が儘だ」
「いいんだ。待つよ。いくらだって待つ……待っていて構わないなら、何億光年離れても……ずっと」
次の瞬間、ぎゅっと固く抱きしめられて、樹は言葉を失った。
愛されないことよりも、愛されているのが辛い、ということを初めて知った。
精神も身体も溶け崩れそうになるのを堪えながら、樹は忍を抱き返した……。

3.

翌日、夜。
王子は寝室に早めに戻ってきた。
上機嫌らしく、調子外れの鼻歌を歌っている。
《いつの日かー生まーれ変われるとしたらー、もっとー、あなたのーそばにいたーいー、誰よりーもー》
上着をとってクロゼットに向かう。
《声に、指に、笑顔、思うのはアア、あーなたのこーとーばかーーり》
「王子」
薄暗がりから現れた黒衣の男に、王子はぎょっと足を止めた。
「驚いた。そんな所にいたのか、S・ブラック」
すっかり気配を消していたので、王子も気付かなかったらしい。
しかも、S・ブラックの表情は暗く――まことによろしくないものだった。
「どうしたんだ」
「地球に帰らせていただきたいんです」
口調こそ丁寧だが、意思強固、この話は決して譲れないという顔だ。王子は丸い瞳をさらに丸くして、
「帰ってどうするんだ。地球にはもう、僕のつくったシノブ・センスイがいるんだぞ。君の居場所はないよ」
「なければつくるまでです。それより、この星を脱出することの方が難しい。特に、親衛隊員の身分では」
王子の懸念顔はさらに深まる。
「今更何をするつもりなんだ。第一、樹を捨てる気なのか」
「ええ。どうせ別れるなら、早い方がいい」
王子は目をパチクリさせた。
「《どうせ》っていうのはどういう意味だ?」
「リリィ・アマノ姫は、アンドロイドの男妾がいる婚約者を喜ばないでしょう。私はあなたの結婚を待って、生殺しのように引き裂かれるのは御免です」
「ああ!」
王子はやっと事情を飲み込んだようだ。
「わかった。そういうことか」
軽く肩をすくめると、視線を扉へ流した。
「もう少し後にするつもりだったが……しかたない、ちょっと来い」
「何処へです」
「来ればわかる。他の連中には内緒だからな」
王子は、忍を連れて部屋を出た。
いくつかある私室の奥の扉を開け、地下へ歩いてゆく。
殺風景な廊下のつきあたりに、まるで何かの工場のようなメカニズムがたたずんでいた。
ほぼ等身大の流線型のカプセルの一つの前で、王子は立ち止まった。
「……これだろう? S・ブラックが欲しいのは」
そこに――小さい泡のたつ蒼い液体の中に、樹がいた。
冷凍されているのかと思うくらい、白い頬。
右眼の上に走る細い傷。
植物の根のように広がる長い髪。
魔装束をゆるくまとった痩せた身体。
間違いない、樹の身体である。
忍はうめいた。
「……クローニング、したのか」
王子の持つ技術なら、それは可能だ。髪の毛一本あれば、そっくり同じクローンがつくれるだけの科学力を持っている。王子は樹の顔を知っているし、事情もある程度知っている。人工の記憶を植え付けて、新しい樹の身体をつくることが出来る筈だ。
しかし、それは本物の樹ではない。
偽物はいらないんだ、と言おうとした瞬間、王子が首を振った。
「樹の身体は本物だ。多少修復はしたけどね。クローニングさせてもらったのはこっちの方なんだよ。……これ」
パチ、と指を鳴らした王子の後ろに、影の手が二本、ボウ、と浮かびあがった。
「影の手!」
忍がうめくと、王子は笑みに口唇を丸めた。
「うん。この手結構便利だからさ、もらってもいいかなと思って無断でつくらせてもらったんだ。僕の言うことをよくきくし、重宝してるよ」
「まさか……それで……」
「そう。これで亜空間を開いて、樹の身体をひろってきたんだ」
それは可能だ。
まるで不可能な事ではない。クローンの影の手が樹の記憶を持っているならば、たやすく樹の遺体を見つけられたろう。
「あ、一つ言っとくけど、亜空間でこの身体を見つけたのは影の手じゃないよ。アマノ姫なんだ」
「アマノ姫?」
王子は真顔で忍を見つめた。
「ああ。彼女はただのお姫様じゃないんだ。以前は軍の優秀なオペレーターでね。影の手なんかよりずっと早く、樹を見つけてくれたよ。女のカンだって笑ってたけど。それに彼女、科学者としても一流なんだ。僕らの魂を二つにわけて、元の身体に戻す方法まで考えてくれたよ。変身中のクローニングも考えたんだが、僕の身体の部分が混じる可能性も高いし、こっちの方がてっとり早いと思ってね。昨日アマノ姫にあいにいったのは、分離計画の打ち合せだったんだ」
「……信じられない」
それでは、樹を元に戻して、自分に返してくれるとでもいうのか。
「それをすることで、あなたには何のメリットもないでしょう」
茫然と呟く忍に、王子は首を振った。
「恋路の邪魔は趣味じゃない。第一、元々君達を引き裂こうなんて思ってなかったんだ。それに、こんなこぶつきで嫁をもらう訳にはいかないじゃないか。だから、彼女に全部話して協力してもらうことにしたんだよ。それに、夜、押し倒されてるのは、一応僕の身体なんだぞ。できれば分離させたい、と思うのは当り前だろう?」
いちいちもっともだが、忍は素直にうなずけなかった。
「ではもし、樹が元の身体に戻ったら、一緒に地球に帰してもらえるんですか」
「もしどうしてもそうしたいなら、協力しないでもない。あの星は気にいってるし、アマノ姫も連れてそのうち行こうと思ってたんだ。彼女と一緒に遊べるなら、考えてもいいよ」
王子の瞳は真面目だった。
いや、こんな顔をしても平気で嘘をつく男だ。忍はまだ信じられなかった。
「どんな悪戯をするつもりです。何をしても、私は貴方に従わないと言ったでしょう」
王子は肩をすくめた。
「あのさ。自分が幸せだと、あえて他人に意地悪をしようとは思わないものなんだよ。だいたい、僕に邪魔されたくらいで引き裂かれるような仲じゃないんだろう? もう少し冷静に考えてもらいたいな」
忍の顔はすっと引き締まった。
そうだった。
別れを切り出した訳を忘れていた。
何があっても、俺達は変わらない。
どんなことになっても、どんな時も。
そう誓ったのは、自分じゃないか。
忍は表情を整え直すと、慇懃に頭を下げた。
「わかりました。貴方の計画にのりましょう」
「よろしい」
王子はニッコリ微笑んだ。
「まあ、ちょっと残念ではあるんだけどね。……ベッドの中で、君達の様子を聴いてるのは楽しかったんだけど。特に君の囁き声は、ぶっきら棒のようでいて、意外に甘ったるくて素敵な……」
「王子!」
忍の頬がひきつる。
王子はくるりと背を向けると、その場を離れて歩き出した。
「大丈夫。テープにはとってあるけど、どこぞへ流したりはしないし、脅迫に使ったりもしない。ただ僕の楽しみのためにつくったんだから」
「それはすでに脅迫……!」
その瞬間、忍は何故クラフト隊長がいつも《あの王子、今すぐ殺してやる》とうめいているのかよくわかった――彼もそう思ったからだ。
王子はひらひらと手を振りながら、
「とりあえず、樹の魂をうつすまでは、僕を殺さない方がいいと思うよ。それに、今の君にうかうか殺されたりするほど、僕もヤワじゃないんだなー、これが」
笑いながら去っていった。
「チッ」
舌打ちして、忍も歩き出そうとした。
ふと足を止め、樹の身体を振り返る。
「……もし、また一緒に暮らせるようになったら、もう二度と置いていかないからな」
ぼうっと光るカプセルをしばらく見上げていた。
苦笑して、再び歩き出す。
「王子の言うとおりらしい。俺の方が、樹よりよっぽどだらしがない」
そう呟いて、薄暗闇に姿を消した。

……果してその後の詳しい展開は、王子とアマノ姫、そして樹と忍のみぞ知る。

(1996.8脱稿/初出・恋人と時限爆弾『虚空の薔薇』1996.9発行)

『虚無への供物』

1.

「神様俺を殺して下さい」
その青年は、胸の前で大きく十字を切って呟いた。
ここは教会でもないし懺悔室でもない。くすんだ地方銀行の片隅である。
だが、青年はその呪文を何度も繰り返した。
「神様俺を殺して下さい・神様俺を殺して下さい・神様俺を殺して下さい・神様俺を殺して下さい……」
呟いたまま、キャッシュ・ディスペンサーの前でガクンと膝を折り、その場に倒れそうになった。
「おい、大丈夫か」
隣で自動入金をしていた刃霧要は、思わずツイと手を伸ばした。倒れかけた青年の手を引いて、グイと立ち上がらせる。
「あ……カナメ」
柔らかく縮れて垂れる前髪の下から、気弱そうな瞳が見上げた。
見覚えのある、顔。
「なんだ、おまえカズミか」
「ああ」
カズミと呼ばれた青年は、力なく微笑んだ。あまりいい表情ではない。
要は、掴んだままの相手の手を、もう一度強くひいた。
「少しくらいなら時間があるか」
放置できるような顔色ではない。必要な手当てをしてやろうと思ったのだ。
「時間?」
カズミはかすかにうなずいた。
「時間は永遠にあるよ。時間はね」
薄く笑って答える。
そういう意味で尋ねたのではない。だが、茶々をいれる場合でもなさそうだ。要はカズミの手を引いて、銀行の外へ連れだした。
「なら、少しつきあえ」
「いいよ」
カズミは、されるままに要の後をついていった。
夏は終わりかけていたが、まだ日差しは充分に熱い。白い舗道の照り返しが、すぐに二人を焼き始めた。

カズミの事はよく知らない。
例の《能力》を持っているので、おそらく魔界の扉が開いた時に、蟲寄市の住民だったのだろう。彼の能力名は《テリトリー》――彼の念じた物質は、土だろうと氷だろうと金属だろうと瞬時にドロリと溶け、狙った相手を閉じ込める。ある意味無敵の能力だ。
要はかつて、彼と組んで殺しをしたことがあった。要は高校を卒業した後、家を出てとある組織に属した。《スナイパー》――狙撃者の能力を活かして、殺人を請け負っていたのだ。
プロになってから五年、仕事は一人ですることが多かったが、組織の方から二人でやれ、という指示がくることもあった。仕事の性質上、普通は一度きりしか顔を会わせない相手が多かったが、カズミとは少なくとも二、三度はやった。
要はカズミが嫌いではなかったし、組むのにも抵抗はなかった。詮索事は嫌いだったし、仕事の上でも詳しく相手を知りたいとは思わなかったが、仕事のしやすい相手で、どちらかといえば好きなタイプのパートナーと言えた。
ただし、外見は何故か御手洗を思わせた。会話の様子などからして年下とは思えなかったが、縮れた淡い色の髪や、騙されやすそうな大きな瞳や、どこか華奢な身体つきがよく似ていた。
いや、何よりも似ているのは、なんとなく漂う被虐の匂いだ。
心病んだ者をひきつける、生けにえの資質。
《神様俺を殺して下さい》という言葉は、カズミになんともふさわしい呪文に思われた。この世の中を生きてゆくには繊細すぎて、堪えきれず死にたくなるのだろう。
「カズミ」
冷房のきいた大きな喫茶店の隅に収まり、注文をすませると、要はようやく切り出した。
「まだあの仕事、してるのか」
殺しとはそのまま言えず、曖昧にぼかして尋ねる。
「ああ、してるよ。カナメもそうだと思うけど」
カズミは、二十代の男とは思えないような、はかなくにじんだ笑みを浮かべた。
要は声を低めた。
「あれは、もしかして死にたいからだったのか」
いくらカズミの能力が優れたものであっても、殺人は危険な稼業だ。怪しい組織に属していること自体が、命をあやうくすることもある。もし死にたくてやっているのなら、神様俺を殺して下さい、という気持ちでやっているのなら、うなずけないこともない。
しかしカズミは首を振った。
「違うよ。僕は、死にたいと思ったことなんてないよ」
「じゃあ、さっきのはなんだ」
要が重ねて尋ねると、カズミは何を問われているのか気付いたらしく、笑みの色を変えた。少しだけ妖しい、悪戯っぽい笑顔に。
「ああ。あれは発作なんだよ」
「発作?」
「そう。発作なんだ」
カズミは説明を始めた。
蟲寄市に能力者が出始めた頃、カズミは高校三年になったばかりだった。
その頃の彼は、不思議な発作にとり憑かれていた。
頭の中で、《神様俺を殺して下さい》というフレーズが脈絡なく繰り返され、彼の精神を毎日のように苦しめた。笑っている瞬間、楽しい瞬間が突然地獄に変わった。
別に何が辛かった訳でもない。地元でも有名な進学校に通っていたため、授業についていくのがいささか大変だったが、友人も少なからずいたし、いじめられていた訳でもないし、受験に必要な教科の成績もまあまあだった。鬱になるような原因はどこにもなかった。
だが、彼をしょっちゅう襲うのは強烈な自己嫌悪、自己否定の感情だった。自分は生きていてはいけない、すぐに死ぬべきなんだという考えで吐きそうになった。
《神様俺を殺して下さい》――理由が思い浮かばないだけに、辛さはいや増した。眠れない日が続いたので、少しずつ睡眠薬を試した。
そしてある晩、彼は睡眠薬と頭痛薬を飲み過ぎ、意識を失った――。
カズミ本人には、自殺するつもりなどなかった。
「僕は死にたかったことなんてないんだ。死ぬのはとても怖いことだと思っていた。だから、自分で自分を殺そうなんて、絶対に思ってなかったんだ」
しかし救急病院の病室で目覚めたカズミを待っていたのは、父親の冷やかな視線だった。
「おまえがこんな軟弱者だったとはな。こんなに早いうちから受験ノイローゼにかかって、自殺をはかってみせるなんて、とんだふぬけだ」
受験ノイローゼだって?
あまりに見当違いな事を言うので、かえって反論もできなかった。言葉をなくしたまま父親を見上げていると、彼はうすら笑ってこう言った。
「そんなに気弱では、到底世の中渡ってゆけまい。本当に死んでしまえばよかったんだ。どうせおまえのような男には、たいした未来なんかありはしない。自殺さえうまくできないんだからな」
息子の心配など露ほどもせず、悪罵だけを言い捨てて病室を出て行った。
カズミの頭の中は真っ白になった。
散々こだましていた、神様僕を殺して下さい、というフレーズは消えていた。
そして、新しい台詞が浮かんでいた――《神様あいつを殺して下さい》という。
その願いはすぐにかなえられた。
カズミの父親は、病院の前の工事中の舗装道路にさしかかった時、できたてのアスファルトに飲み込まれ、全身に火傷した上窒息して死んだ。
工事をしていた男達は、この奇怪な死を目のあたりにして息を飲んだ。
絶対に、自然現象ではありえなかった。
黒いタールをかけただけの砂利が、水のように溶けて人を襲うなどということはありえない――そう、それがカズミの能力が発動した瞬間だったのである。
「今思うと、その頃僕は鬱病にかかってたらしいんだ」
心の病というのは見えにくい。原因も不明なことが多いし、その上本人にもわかりにくい。だが、彼はその時、間違いなく病んでいたのだ。《神様俺を殺して下さい》は、カズミ本人が出していた危険信号で、早くなんとかしろという悲鳴だったのだ。自分が死にたいのではない、助かりたいがための叫びだったのだ。
それが証拠に、病院で精神安定剤をもらい、規定の量だけ服用したら、カズミはだいぶ楽になった。ごくたまに、さっきのように口唇から思わず洩れ出すほどの発作が起こることがあるが、日常生活はほぼ差し支えなくなった。高校生活も無事に終了できた。
ただし父親の死により、大学進学は難しくなった。カズミは進学をやめることにした。 都会で自活すると言い捨てて、家を出た。そして、要のようなプロの殺人者になったのだ。
カズミは前髪をかきあげて呟くように、
「まあ、病気というよりも、親父が死んだから楽になったんだろうけど」
「そんなに憎んでたのか」
要が声を低めると、カズミは首を振った。
「いや、憎んでたっていうんでもないんだが……僕の病気は、どうやら親父のせいだったらしいんだ。親父本人が神経質な性格でね、若い頃は神経衰弱にかかって、自殺未遂も何度かやったらしい。だから息子にはたくましく育ってもらいたかったんだろう。それなのに、薬を飲み過ぎていきなり倒れたりしたろう。それで思わず、自己嫌悪を僕にすりかえたらしい。理由もきかずに罵ったりしたのも、彼の発作だったのさ」
カズミの口調は淡々としていた。
自分の手で鮮やかに父を殺した人間にしては不思議な表情をしている。憎悪はすでに過去に置いてきたのだろうが、悔恨の色も見えないのだ。まあ、今更悔やんだとしても、遅いといえば遅いのだが。
要はかすかにため息をついた。
「おまえ、親父を殺せてよかったな」
「ああ」
カズミは片眉を上げた。
「そうか。……ってことは、カナメは親父さんを憎んでたのか。それなのに殺せなかったんだな」
「そうだ。殺すより前に死なれちまったからな」
要は窓の外を見た。
明るい、明るすぎる世界が、店の外に広がっている。
「しけた巡査の分際で、強盗犯人に撃たれたんだ。殉職で二階級特進だった。あれ以上いい死に様はなかったろう。乱暴な男だったから、いつ街のチンピラに殺されてもおかしくなかった筈だ。兄貴か俺があいつを殺したとしても、俺達子供の方が同情された筈だった――されたくもなかったが」
「そうか、カナメも家族がいたんだな」
カズミも窓の外へ視線を流した。要は軽くうなずいた。
「ああ。母親と兄貴と妹がいる。一つ家で、肩寄せあって暮らしてる。そんなせせこましいことをする必要もないのに」
「なるほど」
そこで注文しておいた物がきたので、一瞬会話が途切れた。
カズミは、淡いきんいろの液体の中にポン、とストローを落とした。
「じゃあ、さっきのは家への仕送りなんだな」
「そういうもんでもないが」
「立派な稼ぎ手なんだな。きっとみんな感謝してる」
「そうじゃない」
要はいつもの皮肉めいた冷たい微笑を浮かべた。
「俺は、プラス・マイナスをゼロにしたいだけだ」
「プラスマイナス?」
「おまえは、一人の人間を十八歳まで育てるのに、今どのくらいの金がかかるか知ってるか?」
カズミは首を傾げた。
「さあ。どのくらいだろう。よくは知らないな」
「普通の学校にやって、普通に育てて、だいたい一千万くらいかかるらしい」
「ふうん、一千万か」
カズミは感心したように呟いた。要も黒い液体の中に、ストローを押し込む。
「俺も黙って家を出たからな。ある程度は返さないとまずいだろう」
「それは、家族に借りをつくっておきたくないってことか」
「ああ。月に二十万ずつくらい振り込んでる。そろそろゼロになるだろう」
「なるほど……そうか、なるほどね」
カズミは妙に納得したようにうなずき、不思議な笑みを浮かべて要を見つめた。
「どうした?」
「意外だったんだ。カナメがこんなに自分の事を打ち明けて話してくれるなんて思わなくてね。なんだか他人を遠ざける雰囲気があるし、仕事中に無駄口もきかないから、もっと口が固いっていうか、秘密主義なんだと思ってた」
「秘密主義、か」
そういえば、他人に自分の身の上を話したのは何年ぶりだろう。学校の友人などには話した事がない。ゆきずりの少女などに、かえって平気で秘密を明かしたりする事の方が多かった。
そう、要はかつて、ゆきずりの男、ゆきずりの医者、ゆきずりの妖怪といきなり時間をわけあったことがある。平凡な日常に執着はなかった。なりゆきまかせも楽しいと思った。だから、命を失いかけるような目に遭いながら、いや、覚悟の上であの状況へ平気で飛び込んでいったのだ。
いや。
もしかして、死にたかったのは俺なんじゃないのか。
あんなに投げやりな計画についていったのは、そのせいか。
「カナメ?」
「あ」
呼びかけられて、やっと我に帰った。
「そろそろここを出ないか?」
飲み物の氷は溶けてしまっていた。コップの汗も消えかかっている。
「そうだな」
急ぎの用もなかったが、いつまでも同じ場所にいても仕方がない。
二人は立ち上がった。
勘定をすませると、カズミは軽く手を振った。
「じゃあな」
「ああ」
会う約束をする間柄でもない。そのまま立ち去ろうとすると、カズミが急に目を細めた。妙に悲しそうな、別れを惜しむような顔で、要を見つめる。
「どうした」
「いや。また、カナメと仕事できるといいなと思っただけさ」
「そうか?」
二人は不思議な笑みを交わした。《仕事》という言葉の意味あいが微妙だったからだ。
また、君と組んで人殺しがしたい――それはおかしな友情だ。
「うん。できらたね」
カズミは踵を返すと、薄い上着の背を見せて歩き出した。要もすぐに方向をかえ、素早くその場を歩み去った。
まるで、今まであったことのない他人同士のように。

2.

「まさかな」
「うん。僕も、本当に再会しちゃうとは思わなかったよ」
その日二人は港の倉庫裏の薄暗がりで出くわし、自分達が同じ仕事を請け負ったことを知った。
要はあたりの気配をうかがいながら、声を低めた。
「まあ、珍しくもない。今回は組む相手を知らされてなかったしな」
「僕もだよ」
彼らの今回のターゲットは、彼らの所属する組織のナンバー2だった。組織内部で抗争があり、その結果始末されることになったらしい。
「あまりいい種類の依頼じゃないから、誰がやるかも極秘事項にしたんだろう」
「ああ。まあ、やるしかないし」
普段は一つ年上とは思えないようなカズミだが、一旦仕事の場にやってくると表情が変わる。眉がキッとつり上がり、瞳がきつくなる。仕事相手としては信頼のおける、適度の緊張のある顔だ。殺人者としての人格をつくりこむのだろう。
だがこの日、カズミの様子は少し変だった。急に青ざめると、その場に座り込んだ。
「どうした」
「ごめん。悪い。こんな時に」
カズミは懐からピルケースを取り出した。白い錠剤をいくつか出し、そのまま口に入れて噛み砕く。
「神様俺を殺して下さい・神様俺を殺して下さい・神様俺を殺して下さい・神様俺を殺して下さい……」
例の発作らしい。膝を抱えると、小刻みに震えている。先日事情を聞いていなければ、麻薬中毒なのかと思うくらいだ。
「大丈夫だ。まだターゲットは来てない」
「ああ。たぶん、来るまでには直る」
だが、カズミはまだ《殺して下さい》を呟きながら、頭を抱えている。
要はいざとなったら一人でやってもいいと思った。ターゲットはここで別の組織の人間と落ち合うという話だった。別の組織とのゴタゴタはまずいので、殺すのは一人だけにしろと言われていた。カズミは保険だと思えばよかった。
ふと、カズミが顔をあげた。
「もし、僕が頼めば、カナメは僕を殺すかい?」
顔色が悪いままだ。まだ薬がきいてこないらしい。要は首を振った。
「おまえを俺が殺しても意味がない。それに俺は神様じゃない」
「うん。ごめん」
額の汗をぬぐいながら、カズミは大きく息をつく。
「悪い……植えつけられたマイナスというのはぬぐいがたいものなんだな。親父にすりこまれたものだとわかった今でも、どうしても抜けきらない」
「本当に自分を裁けるのは自分だけだ。他人じゃない」
「わかってる。わかってるよ」
カズミの震えがおさまってきた。声もだんだん静かになってきた。
「カナメ」
「うん?」
カズミの瞳から濁りが消えてきた。少しでも薬がきいてきたのだろうか。
「どうしてカナメは、殺し屋になったんだい」
「前にもいったろう? 俺が生きてるのはプラスマイナスをゼロにするためだって」
「プラスマイナス?」
灰色の黄昏が深くなってゆくなか、二人の声だけが低く行き交う。
「俺の名――要は《扇の軸》だ。プラスとマイナスが交錯する場所だ。俺のいるところで、なにもかもがゼロにならなければならないんだ。だから俺は、頼まれた殺しをやる。そいつがプラスにしろマイナスにしろ、ゼロにするために」
要の名前は、彼がまだ小学生だった頃に死んだ祖父がつけたものだった。厳しい祖父は、幼い孫に《扇の要》の話を何度もきかせた。そうして染みついた概念というのは、なかなか消えないものらしい。カズミが父に悪念をすりこまれたように、要も祖父に願いをこめられたのだ。
ターゲットはまだ来ない。
要は質問を返した。
「おまえこそ、どうしてこの仕事を始めたんだ?」
「うん。……他にできそうなこともなかったし、死にたくなかったからね。《能力》を使わないで僕に出来ることは、これくらいだ」
そう言って、カズミは虚空に手を閃かせた。
そこに、赤い薔薇の花が一輪浮かび上がった。
要は目を細めた。一種の手品らしいが花は本物だった。香りも色会いも自然のものだ。
「器用だな。そんなことができるなら、いっそなんでもできるだろう」
「少しくらい器用でも、生きる役にたたなけりゃしようがない。僕は、普通の世間に対しては、役にたつ存在じゃなかった。僕は、僕を必要としてくれる場所を待っていた。それがあの組織だったんだ」
カズミの表情は妙に澄んでいた。
要の頭の隅を、危険信号がかすめた。
赤い薔薇。
これは危険だ。
何故だかわからないが、これは危険だ。
「カナメ」
次の瞬間、要は全身を赤い蔓薔薇で覆われていた。
「……っ!」
指先は元より、完全に全身を縛ましめられて動けなかった。
蔓が、肉体をすぐに引き裂き始める。
要はカズミの意図を悟った。
なんのつもりか、ときくまでもなかった。今回のターゲットなどというのはすっかり嘘だったのだ。要はすでに組織に対しては用済みで、その始末のためにカズミが差し向けられたのだ。
「何故だってきかないんだね。声はまだ出るだろう。目も見えてる筈だし」
要は、全身が植物繊維に飲み込まれる激しい痛みに気を失いかけていた。だが、カズミの言うとおり目は見えていたし、声もまだ出た。
「……裏切るところまで同じか」
「同じ?」
「ああ。おまえと同じ瞳をした奴に昔、一度裏切られたんだ」
要は目を閉じた。
「いや、そいつにも裏切られるのはわかってた。わかっていて一緒に仕事をした俺が悪いんだ」
カズミは、淡い光をたたえた瞳で要を見つめている。
すでに薔薇の木になりかかった彼の相棒を。薄汚れた倉庫裏にはにつかわしくない美しい樹木を。
この薔薇はせめてものたむけなのかもしれない。アスファルトだのコンクリだのに変え られないだけマシだ、と要は思った。
カズミの声は続いている。
「カナメ……君もゼロになるだけだよ。今まで殺してきた連中と同じで、プラスマイナスがゼロになるだけだ」
そうか、俺もゼロになるのか。
こんな形でか。
それなら、十七歳のあの時、死んでおけばよかったかもしれない。
神谷の手当てを受けて、蘇る必要などなかったのかもしれない。
まあいい。
この数年間も、それなりに楽しめた。
「カナメ。僕もたぶんそのうち死ぬ。発作の間隔が狭くなってきたから、今度は本当に自殺する羽目になるだろう。だから、許してくれ」
「おまえを、恨んでなんかいない……」
そう呟こうとした要の喉は、裂かれてすぐに塞がれた。
意識は失われかけていた。流れ出す血の量が増えるとともに、痛みを感じなくなってゆく。
「僕達は虚無への供物なんだ。だから、いつかこうして消えてゆくんだよ」
要はもう答えなかった。
彼の聴覚が最後にききとったのは、祈りの言葉だった。
「神様俺を殺して下さい・神様俺を殺して下さい・神様俺を殺して下さい・神様俺を殺して下さい・神様俺を殺して下さい・神様俺を殺して下さい……」
そうか。
俺は死にたかったのか。
俺は虚無への供物なのか。
これで、プラス・マイナス・ゼロなのか。
「神様俺を殺して下さい・神様俺を殺して下さい・神様俺を殺して下さい・神様俺を殺して下さい・神様俺を殺して下さい・神様俺を殺して下さい……」
それでも、いい。
とりあえず、楽しめたからな。

……そして、要の意識はそのまま暗黒の闇の中に沈んだ。

(1996.8脱稿/初出・恋人と時限爆弾『虚空の薔薇』1996.9発行)

『青髯の城』

1.樹

「……いい、格好だ」
忍は、冷酷な笑みを浮かべて樹を見つめていた。
「苦しいか?」
「頼む。早くこの縄をといてくれ」
薄暗い石造りのその部屋は、中世北欧の拷問部屋の様子を呈していた。
樹は両手両足を縛られて、一本の太い鎖で天井から吊されていた。ようやく床に足がつく程度のその姿勢は、見た目よりはるかに苦しいものだ。
「いや。そう簡単に、おまえの望みどおりにしてやる訳にはいかない」
忍の手には、細い革鞭があった。
次の瞬間、鋭い音をたてて、鞭が空を切り裂いた。
「あうっ」
白魔装束に血がにじんだ。
胸板が裂ける。
腕が、足が激しく打ち据えられてゆく。そこに容赦というものはなかった。あまりにむごく鞭は飛ぶ。
「あっ……ひっ」
ビシッという音と共に、思わず声が漏れる。
だが、身体の痛みよりも、胸の奥が痛んだ。
忍が、あの忍が、どうして俺をこんな目に遭わせるのだ。
「俺を殺したいなら、ひとおもいに殺せよっ!」
忍は薄く微笑んだ。
「殺しは、しない。充分楽しませてもらうまでは」
そう呟くと、忍は鞭を置いた。
かなりの刃渡りのあるナイフを取り出し、少しく破れた魔装束を、ブツリブツリと切っていく。
「やめてくれ……なぶるのは」
「そうか? 気持ちがよくはないか?」
露わになった樹の胸が、ナイフでツウッとなぞられる。
「痛うっ」
「そんなに痛みはしない筈だ。違うか?」
押しあてられるナイフの冷たさは、流れる血と肌を冷やす。確かに痛みの度合いは減った。さっきの鞭に比べれば。
だが、問題はそこにはない。
「忍、厭だ、忍……」
「動くな」
忍の手が動いて、胸板を浅く切る。
刃物の感触が、肌の下にズル、と入ってくる。
「あっ」
その瞬間、ゾッとしながらも、樹は自分の身体が快楽にうずくのを感じた。
ああ、なまぬるい!
ずっと深く裂いてくれ。強い力で切ってくれ。この喉首を、いや、何処でもいいからかききってくれ、酷い事をしてくれ、もっとずっと惨いことを……。
思わずそう叫びかけて、樹は口唇を噛んだ。
馬鹿な。
俺はいったい何を、と思いながら、息があがってゆくのを止められない。情欲を感じるのを止められない。
そんな樹の表情の変化を見て取ったか、忍の笑みは更に酷薄なものに変じた。
「そう。おまえも、傷を受ける喜びを知る時が来たんだ。自分の血を流す、喜びを」
忍は、ナイフについた血を指先でぬぐうと、壁に寄って、樹をつなぐ鎖を緩めた。
いざ縛めがなくなると、樹はその場に崩れ落ちた。
立ち上がりたかったが、膝の力が入らない。
かろうじて顔を上げると、忍の手には、身長程も長さのある鉄のパイプが握られていた。
「傷を受ける喜びだって?」
「そうだ。おまえも俺の花嫁だからな。それを知らなければならない」
忍は顎をしゃくった。
よく見ると、その部屋の隅には、何かが幾つもぶらさげられていた。
それは――血塗れになって息絶えた、妖怪の死体だった。
仙水忍に切り裂かれて息たえた、無惨な屍の群れ。
「あ……馬鹿な」
「どうだ、美しいだろう? ここは青髯の城なんだ。だから、おまえもあれに加えてやろうというんだ」
「嘘だ、忍はそんなことはしない。そんなことはしないんだ……絶対に!」

★ ★ ★

喉を振り絞って叫んだ瞬間、樹ははっとして目覚めた。
「馬鹿な……どういう夢だ」
亜空間の隅で、いつものようにまどろんでいただけである。
あんな悪夢を見るような出来事など、最近なかった。
北欧にいた時期もほとんどない。今いるのも亜熱帯のジャングルの中だ。
「それなのに、どうしてあんな」
五年前に見た、B・B・クラブの夜の記憶なのか。
あの日、惨殺された妖怪連中が血の池に浸かっている姿は、忍の神経に大きなダメージを与えた。
だが、あの光景は、樹にとってはなんでもないレベルのものだった筈だ。
魔界ではもっと残忍な殺しがある。それに若い頃、興味本位で覗きにいった人間界でも、あれくらいのものはいくらも見た。
では何故ショックだったのか。
それをやっていたのが、忍だということだ。そして忍が、他でもない、自分を刻もうとしたことだ。
「ありえない。忍は左京じゃない。あんな事を俺にする訳がない。他の人格の時でも、あそこまではやらない筈だ。それなのに、俺は何を……」
更にショックだったのは、自分の身体に反応が起きていたことだ。
熱を帯びて震えている樹の分身が、彼の理性にこう訴えていた。
頼む、忍。
いっそもっと固く縛り上げてくれ。酷く打ち据えてくれ。全身を切り裂いてくれ。
傷を受けることがこんなに深い快楽なら、じわじわとおまえになぶり殺しにされてもいい、と。
青年期の青髯――麗しい死神としての忍。
「よせ……」
大きく息を吸い、少しずつほてりを鎮める。
夢の雫は、急速に樹の身体から落ちていった。
厭な名残りも霧散してゆく。
だが、身体の芯にともった炎が、なぜか消えない。
彼の精神と身体をいぶす。苦痛とともに訪れる快楽を味わえ、と囁く。
「……駄目だ」
樹は影の手を呼んだ。
どうにかしろと命じたかった。
だが、自分をさいなんでみろとは言えない。
さっきの夢が強烈すぎて、どうしようもないのだ。実際にあんな目に遭えば死んでしまう。ただ苦しいだけだ。
樹は低く呟いた。
「俺の喉を押さえろ。加減して、軽く」
影の手は乾いていた。瞳がある以外の部分は、比較的湿っていないのだ。
熱く太い指が、樹の喉にかかる。
「そうだ。そのまま……」
軽く締めあげられると、樹は甘い声を洩らした。
ああ。
こんな声、忍には絶対にきかせられない。
インドの聖地の奥で、ひたすらに行を続けている忍。
行者達と体術を交わし、自らを清め高め続けている忍。
こんな様子を見られたりしたら、絶対に軽蔑される。
殺されるより辛い眼差しで見捨てられる。
「亜空間で一人で眠っていて、よかったのかもしれない」
そんなことを頭の隅で考えながら、樹はかつてしらない不思議な陶酔に、自分から甘く溺れていった……。

2.忍

自らつけた傷とはいえ、大きな怪我はやはり痛む。
忍は行がひとくぎりつくと、水で身体を冷やすことにし、小さな滝に向かった。広い河は、どこも泥のように淀み、濁っているが、滝では比較的きれいな水に打たれることができる。
吸血動物や毒虫の類だけは霊力で近づけないようにし、上半身裸のままで草むらに座る。
そのまま密林の湿った風で血を乾かしていると、背後からふと一人の青年が現れた。
「サティヤか」
「ええ」
浅黒い肌に広い額。隅々まですっきりと整った顔立ち。質素だがきちんとした服装。
忍を行者達の聖地の奥まで案内してくれたのは、このサティヤ・M・カラムチャンドという青年だった。この土地出身の学生で、流暢な英語を操る二十歳の美青年だ。大学でも優秀な成績をおさめているらしいが、今は夏の休暇中で、実家の手伝いをしに戻ってきているのである。
「無茶をしますね、貴方は」
細い身体を折り曲げると、青年は忍の傍らに座った。
「これを使ってください。多少は楽になります」
青年が差しだしたのは傷薬だった。地元の人間しか知らない薬草でこしらえたものである。忍は首を振った。
「有難いが、俺には必要ないんだ」
ただでさえ、ここらは貧しい村である。反政府ゲリラと盗賊団が横行し、身分の高い僧侶達がかえって訪れない程なのだ。その村人達から、施しを受けようとは思わなかった。なにしろ自分には樹がいる。手にいれようと思えば、なんでも手に入るのだ。
サティヤは黒々と濡れた瞳を伏せた。
「たしかに行は、貴いものだと思いますが――傷が、何かの勲章になると考えているのですか」
「いや、そういう訳じゃない。必要なんだ、この傷は」
忍は薄く微笑んだ。何かのしるしになると考えて傷をそのままにしているのではない。背負った傷は彼の鎧だった。傷を受けるたび、自分の肌が分厚さをましてゆくのがわかる。心はなかなか癒されはしないが、身体の傷は消えてゆく。それがごく僅かだが、精神の慰めになるのだ。繊細すぎる精神が必要とする、かすかな安らぎを。
サティヤは軽く首を傾げた。
「忍は不思議な人ですね」
そうかもしれない。
忍の受けている行はかなり厳しいものだ。外国からやってきて耐え抜いた者はいないらしい。行者達も少しずつ少しずつ進めているところを、忍は一挙にやりぬこうとしている。しかもそれで、彼は救いを得ようとしていない。僧侶になるというつもりもない。苦行に耐えた後の人間は信心深いこの国では尊敬されるが、行の成果があれば、忍はこの国をすぐに離れるつもりだった。
ガイドをつとめ、忍の意向をきいていたサティヤは、かえって彼の考えがよく理解できないようだった。それで時々、こうやって忍のいる場へ訪ねてくる。
「そうだな。確かに奇特かもしれない」
忍が笑うと、サティヤは首を振った。
「いえ。そういう意味ではないのです」
「じゃあ何だ?」
「私は行者でないので、本当のところはよくわかりませんが、行の最終目的は、普通は心の平和でしょう。森羅万象と同一になり、宇宙のことわりを知るためものでしょう。でも、貴方は反対のものを求めているように思えます」
「反対のもの?」
「普段はこんなに平穏な空気に包まれている人なのに、貴方は闇にのまれるために、邪悪なものに生まれ変わるために行をしているように見えるのです。そんな必要は少しもないのに」
「サティヤ」
そんなことはない、と言いたかった。だが、すぐに否定できなかった。
そうか。俺は暗黒を呼び寄せるために、生まれてきたのか。
そのために生き続けているのか。
妖魔を呼び、殺戮にあけくれ、自らをおとしめるためにここにいるのか。
「おまえは、俺がそういう人間だと怖ろしいか?」
サティヤはすっと目を細めた。そこには強い光があった。
「別に怖れはしません。忍は私の敵という訳ではありませんし、命は無駄に惜しむものではありませんから」
「なるほど、死は怖るるに足りない、ということか」
青年の薄い口唇に笑みが浮かんだ。
「そういう訳ではありませんが。でも、祖国がよりよい国になるのなら、新しい時代が切り開かれるのなら、私一人の命をあがなってすむというなら、喜んで差しだします」
実はサティヤは独立運動の志士である。いや、ここ一帯の若者達がそうである。インドという国は、これから大きく変わろうとしている。その曙は遥か遠くに思われるが、二十歳を越えたばかりの彼には、確かな未来に思えるのだろう。
忍は、同じ歳の自分が魑魅魍魎との退廃に溺れているのがあまりに卑しく思えて、自分の腕を思わず握りしめた。
乾いていない傷から、新しい血が流れ出す。
「いけません」
サティヤが忍の腕に触れた。
ヒヤリとする。さっきの傷薬を押しあてられたのだ。
「手当てをさせてください。血をとめるくらい構わないでしょう? 少しだけ触れますが、しばらく我慢してください」
そう言われると、逆らえなかった。
サティヤの手は涼しく、そしていたわり深かった。
忍は目を閉じた。
改めて感じる傷の痛みに、自分の落ち込んでいる精神の泥沼の限りなさを感じた。
他人を苦しめる程の、苦痛の深さ。
「……見ていて辛いほど、俺の傷は酷いのか」
「いいえ」
サティヤの声は、急にぐっと低くなった。
「貴方の怪我は凄絶すぎて、かえって美しいくらいです。流れる血のいろにさえ、見とれてしまうほど……」
「っ!」
耳元で熱く囁かれた瞬間、忍は思わず身を引いた。
その時やっと、相手の好意の意味あいに気付いたのだ。単なる親日家でも真摯な親切でもない、それ以上の気持ちをサティヤは持っている、と。
思わず身構え、にらみ据える。
しかしサティヤはたじろがなかった。身を引いた忍を、それ以上追おうともしなかった。
「もう手当ては終わりました。貴方にこれ以上触れたりはしません。……もっとも、貴方にこれ以上触れられる訳もありませんね。潔癖な貴方だ、意に染まない相手と肌を重ねたりはしないのでしょう?」
スラ、と立ち上がって微笑む。
「貴方の恋人によろしく」
言い終えるとくるりと背を向け、現れた時と同じように、森の中に素早く消えていった。
手当てを受けた部分が、熱い。
「違う。……樹は俺には触れない」
そう呟いて、忍は自分で驚いた。
「あいつは、俺には触れないんだ」
確かに樹は、決して自分から触れてこようとはしない。忍が怪我をしていれば手伝いはするが、いかがわしい視線をよこしたこともなければ、甘い囁きを洩らしたこともない。忍が押し倒せば、観念したように目を閉じるが、それは単に忍の癇癪が過ぎるのを待っているだけのように思える。
そうだ。
それが当り前なのかもしれない。
樹は、忍を好きでついてきている。
それはたぶん正しい。自惚れではないだろう。
だが、忍の身体までは欲していないかもしれない。恋人などとは思っていないかもしれない。
「それがどうしたというんだ。別に構わないだろう」
樹も、性の欲望は充分に持っているらしい。人間、妖怪、男女を問わず、寝た事もあるようだ。
だが、その情動が、どうも自分に対して向けられていない気がする。
心配そうに見守りながらも、遠ざけられている気がする。
忍が本当に求めている湿った感情と深い欲望に、到底ついていけないとでもいうように。
「樹……」
抱きたい。
抱かれたい。
どんな形でもいいから、樹が欲しい。
いきなり湧き上がったとりとめのない欲望に、忍は思わず立ち上がった。
そのまま河へ身を投げ、感情を鎮めようとする。
「欲しくなんかあるものか」
泥水が身体を冷やした。
薬がはげ落ちて痛みが増したが、それも情欲をさましてくれる。
「俺が欲しいのは、ただ強い身体だ。強い力だ。この心を鎧うためのものだ」
河から上がると、忍の頬を一筋、涙がスルリと流れ落ちた。
「目に泥が入っただけだ。なんでもないんだ」
涙はしばらく止まらなかった。目が痛む。額から垂れてくる水と涙が混ざって、顔中を汚す。
黄昏が深くなってきた。
そろそろ、樹の待つ小屋まで戻らなければならない。
だが、腫れ上がった目を冷やすのに、傷の熱さを冷ますのに時間がかかった。
「いいんだ。待たせておいていいんだ。待たせておけば」
忍は、乾かした身体にシャツを被った後も、しばらく川べりを動けなかった。
迷子になって戻れない幼い子供のように、膝を抱えてじっと薄闇を見つめていた。
暖かい家の灯火が見えてくるのを、待つように……。

3.樹

何故かその日、忍の帰りは遅かった。
亜空間から出てきて食事の仕度を終えても、なかなか忍は戻ってこない。
「一人ですませてもいいけどな。迎えに行くと叱られるし」
行によっては、何日もぶっ通しでやりとげなければならないものがある。邪魔をすれば忍は怒る。行のせいか、最近は別の人格も出てこないし、比較的落ち着いている。わざわざ機嫌を損ねる必要もない。
「一人なら食べる必要もない、か」
忍のいない食卓は寂しい。亜空間に戻って寝た方がいいかもしれない。
樹は、こんな寂しい山間の村にいつまでもいるのが厭だった。空気こそ違え、魔界にいた頃を思い出す。誰彼構わずたぶらかしては取りついて、放埓な暮らしをしていたすさんだ時代を。
にぎやかな場所に出たい。少しでも気がまぎれるような、明るい街に棲みたい。
「ここらは政情も不安定だしな……忍の好みだから仕方がないけど、ゲリラと間違えられて襲われるのは、あまり嬉しくないんだが」
忍は行った土地土地で、その国の若者達に近づく。あの性格だから深く親しくなったりはしない。だが、何が嬉しいのかしらないが、妙に肩入れするのだ。未来を夢みることができる青年達に、ひどく憧れている。
失われた自分の魂のかけらを、そうやって埋めたがっている。
「だが、忍自身だって、まだ夢を見られる筈だ……」
忍は若い。どの道を行くことも出来る。最悪の将来を選ぶ必要などない。
だが、傍らにいる自分には何もできない。よりよい道を選ぶことを強制する訳にはいかない。
それに、よりよい道というのは何だ?
汚れた妖怪の俺が、忍に示せる最善の事とはなんだ?
「……そんなもの、ある訳がない。この俺に、見守る以外に何ができるというんだ」
そう呟いた瞬間、忍が裏口から、ぬっと入ってきた。
「遅くなった。今日の行は少々きつかった」
忍の表情に曇りはなかった。声も平常だ。
樹はいささか安心し、表情を整えて小さい卓の上を示した。
「食事の仕度は出来てる。一緒に食べよう」
「そうだな」
忍はスイ、と卓に向かった。
嗅ぎ慣れない匂いが樹の鼻先をかすめた。一種、薬草のような匂いだ。
よく見ると、腕に新しい傷が出来ている。服に覆われた部分にもきっとそうとう増えているのだろう。手当てのために、なにかの薬を使ったのだろう、その香りだ。
それにしても――。
生乾きの傷に血の色がにじんで、恐ろしいほど艶っぽい。
樹は口唇を噛み、そっと喉を鳴らした。自分の飢え渇きが、あまりに卑しく思われたからだ。
忍は木の食卓につくと、無言で食事を取り始めた。樹も黙って向いに座り、慎ましく夕食を食べ始めた。
あらかたが片付いた時、不意に忍が鋭い視線を上げた。
「その首の痕、誰がやったんだ」
「えっ」
樹は思わず喉元を抑えた。
どうやら、薄赤い痕が幾つもついているようだ。
それは誤解だ。これはキスマークではない。昼間、影の手と戯れた時についたものだった。
だが、まだ指の痕がうっすらとでも残っているとは思わなかったので、樹は慌てた。
「誰なんだ」
忍の声にいらだちが混じっている。
いったい誰と遊んできたんだ、という口調だ。
「ふん」
樹は笑った。
他の男と寝たりした訳ではない。だが、遊んでいないからこそ、かえって強がってみせたかった。
「そんなこときくなよ、野暮だな。ただの遊びだよ」
「遊びだって?」
「ああ」
実際、影の手の愛撫は、下手なセックスよりも甘い悦楽になっていた。
昼間、忍が出かけてしまうと、亜空間を開く。
そして、待ちきれないように影の手を呼ぶ。
だが、するのは自分の喉だけを軽く押さえさせるだけだ。他の部分には決して触れさせない。
もっとだ、もう少しだけ強く、と呟く時の恍惚は、かつて見た夢よりも、更に甘くなっていた。
自分自身でやるなら気絶するまでしかいかないし、見知らぬ奴にやらせる訳にはいかない。だが、影の手にかかれば、うまくすれば心地よく死ねる。
それが、あらがいがたい誘惑になっていた。
忍がなぜ自分を追いつめてゆくのか、悪戯に身体を傷つけてゆくのか、この時だけはわかる。マゾヒスティックな喜びに、すっかりとりつかれてしまっているのだろう。痛みをおぼえている間は、心の暗黒を見ずにすむのだろうし。
忍は、樹のしたり顔に舌打ちした。
「……遊ぶのは構わないが、あまり危ない奴とやるな」
樹は鼻で笑った。
「本当に危ないと思ったら、逃げるさ」
「そうか」
忍は口を閉ざした。先の怒りは、内部へ深く沈んでしまったようだ。
ふん。
樹は、いつになく攻撃的な気持ちになっていた。
そうやって怒っても、結局俺に何もしないくせに。
そんなに気にいらないなら、あの夢のように、俺をずたずたに引き裂けばいいんだ。
さあ、やれるもんならやってみろ。
目の前にいるおまえに、無惨に犯され殺されむさぼり喰われるのが俺の本当の望みだと言ったら、どんな顔をするだろう。
ふん。
そんな事が、潔癖症のおまえに耐えられる訳が無い。
「忍。俺のする事が気に入らないなら、いつ殺したっていいんだぜ」
吐き捨てるように言って立ち上がった。忍は驚いたように樹を見上げ、
「そういう意味で言った訳じゃない、俺は……」
言いかけて、忍は口唇を閉ざした。樹の瞳に燃える炎に気付いたらしい。
そして、忍の瞳にも、別の火が燃えた。
「その気になれば、おまえなんていつでも殺せるんだ」
「ああ。その通りさ。だからそうしろって言ってるんだ」
「……ふざけるな」
今度は忍が席を立った。
「何処へ行くんだ」
「行の続きだ。おまえは出歩くなよ」
忍は背を向けたまま呟くと、すぐに部屋を出て行った。
「ちっ」
樹は大きく息を吐くと、再び椅子に倒れ込んだ。
「何が遊ぶな、出歩くなだ」
信用されていない――そう思うと、不意に涙が浮かんできた。
この俺が、こんなに大人しく待ち続けているのに。
待つことを許されていると思うからこそ、身体の関係もない男にずっと焦がれたままでいるのに。約束なんていらない、ただ信頼してもらえればそれでいい――そう思ったからこそ、ずっとついてきているのに。
「俺が厭なら、本当に殺せよ……いっそ、そうされた方が俺だって」
呟いて、はっと口元を押さえる。
「そうじゃない。そんなつもりはないんだ。ただ俺は……」
樹は口唇を噛んだ。
どのみち同じ事じゃないか。
「裏男!」
樹は裏男を呼び、亜空間へ逃れた。
今晩はここにはいられない。
また、あの闇の中に落ちよう。そこで大人しく眠ろう。
それが一番安全だ。俺も、誰も巻き込まないですむ。

それから樹は、しばらく自分の世界に閉じ込もった。
しばしば亜空間に一人で眠った。
忍の本当の気持ちと苦しみに、少しも気付くことなく……。

4.樹

「ひぃっ」
さるぐつわを噛まされて、声がでない。
それでも樹は息を飲んだ。
よつんばいにされ、下半身に長い鉄棒を押し込まれていたからだ。
「身動きするな。怪我が酷くなる。堪えていれば、だんだんよくなってくるからな」
恐ろしいことに、本当に厭でなかった。
動けなくなった樹の背中に、革の鞭が飛ぶ。
したたかに打ち据えられて、身体がすぐに熱くなる。性的な反応が隠せなくなる。
「あつっ……くっ」
だが忍は、ただ樹の苦痛と反応を確かめているだけだ。自分で凌辱しようとはしなかった。
傷つくのを見ていることだけが、楽しくてたまらないとでもいうように。
ひとしきり打たれると、くつわを外された。
樹は振り返って忍をにらんだ。
「俺が汚いから、犯さないのか」
忍は首を傾げた。
「汚い? おまえが? この血に濡れた身体が、汚いと思っているのか?」
樹の言う意味が本当にわからないような顔をしていたが、ふと彼は表情を変えた。樹の身体を楽な姿勢に戻してやり、真剣な瞳でじっと見つめる。
「おまえは俺に抱かれたいのか」
返事につまる。
抱かれたい、と言ってもよかった。本当は抱きたいが、それでもよかった。だが、そのどちらも口にできなかった。
忍は樹をひた、と見据えた。
「いいか。俺と肌身を重ねる時は、死ぬ時だと思え。それでもいいなら……」
「忍」
相手の瞳に引き込まれそうになりながら、樹の口唇は勝手に動いた。
「ああ。殺してくれ。もし忍が、俺を最後の花嫁に選んでくれるなら……」

★ ★ ★

言おうとした瞬間に目が醒めた。
亜空間の中で一人、もがいている自分に気付いた。
「……馬鹿な」
樹は眩暈をおぼえていた。
最後の忍の顔が、妙にリアルだったからだ。
そう、あれは最初に殺されかけた晩、《何か言い残すことはないか》と呟いた時の忍の顔だった。
「考えてみれば、あの時にもう、俺の方は血に濡れてたんじゃないか。忍に殺られかけてたんじゃないか」
それなのに、俺は忍についてきた。
何故だ。
どんどんおとしめてゆくのが楽しいからか。
自分を追いつめてゆく忍が、美しいからか。
確かに、堕ちてゆく忍を見るのは嫌いじゃない。
その姿に恋したのだ。
だから俺はついてきた。
それなのに――どうして俺は、自分を引き裂いてもらいたいのか。
同じ気持ちを味わいたいのか。
辛くとも、傷を受ける痛みをわけあいたいのか。
「違う……殺せと迫れば、忍が俺をどう思っているかわかるからだ」
そうすれば、本当に必要としているのかどうかがわかる。
俺は忍が必要だが、忍を受け止めるだけの器がないかもしれない。だとすれば、忍に俺は必要ないのかもしれない。
だが、器がないからといって諦められもしないし、離れられない。
だから、もし必要とされないのなら、いっそ忍の手にかかって……。
「まさか。そんなしおらしいことが言えるものか」
意地でも言ってやるものか。
だいたい、俺は忍を愛しているのだ。
俺の血なんかで、絶対に汚させない。もし、忍がそれを選ぶならばともかく。
つまらぬことで、仲たがいなどしている場合ではない。
すぐにも忍に逢わなければ。
誤解の類はとかなければ。
「忍。どこだ」
樹は影の手を呼んだ。
影の手は、待ちかねていたように忍のいる空間を探した。
ほどなく窓が開かれた。
「あっ……忍!」
樹が忍を発見した瞬間、そこは戦場と化していた。
ジャングルの中で硝煙がうずまき、血濡れた死体が積み重なっていたのだ。
「忍!」
「樹」
振り向いた忍は、人間の返り血を大量に浴びていた。
夢の中よりもむごく、惨めに青ざめた顔で。

5.樹/忍

「忍! なんなんだこれは」
「巻き込まれたくなければおまえも戦え!」
どうやら、潜伏しているゲリラ達を襲うため、軍の私兵が動いたらしい。それに忍は巻き込まれたのだ。
忍は一人で防戦していたが、武器がないのと体術しか使っていないので少々はかがゆかない。樹はとっさに忍と共に草むらに倒れながら、
「どうして霊力を使わないんだ」
霊力を使えば、人間の軍人などどうということもなく消せる筈だ。だが、忍は口唇を噛 んだ。
「今はコントロールできない。素手でやるしかない」
裂蹴紫炎弾――多角攻撃をするための技を、若い忍はまだ完成できていなかった。潜在的な霊力の高さに、彼自身の身体がついていっていなかったのだ。いたずらに霊力のみが増幅されると、コントロールがきかなくなる。今の忍はそういうアンバランスの状態らしい。ここで暴発させれば、ゲリラ連中だけでなく、村もジャングルも吹き飛ばしてしまう可能性があった。
「樹。自分の身は自分で守れよ」
「わかってる」
樹は影の手を幾本も飛ばした。
彼の命じるままに、物陰にひそむ兵士達を締め殺してゆく。
助けを得て身軽になった忍は、素早く木の間をすり抜け、仕掛けられた爆弾とトラップを次々に外してゆく。
最後の爆発が終わり、敵兵の影はすべて消えた。
死んだ者以外は、完全に撤退したらしい。
「……忍、もういいだろう?」
そう言いかけて黒衣の相棒の背後に寄った樹は、自分達が殺ったのではない死体を見た。
おそらくは端正な顔をしていた、まだ若い青年の骸。
白いシャツを、浅黒い肌を、おびただしい鮮血に染めているそれは――サティヤ・モーニア・カラムチャンドだ。
忍は、茫然と青年を見おろしていた。
「サティヤ……おまえも巻き込まれたのか」
だが、青年はまだ生きていた。
薄く目を開けると、忍の顔を見上げて、意外にしっかりした声で呟いた。
「巻き込まれた訳では、ありません。……これで、いいんです。私は自分の望みのために、祖国のために死ぬんです」
忍はサティヤを抱え起こした。
「こんなこぜりあいが、祖国のためだというのか。おまえは政治学を修める学生で、ゲリラじゃない。巻き込まれただけだ」
青年は薄く笑った。
「お願いですから、そんなことを言って、私を無意味に死なせないでください。せめて、何かに殉じて死にたいんです。それは、いけない望みではない筈です」
「サティヤ」
「それに私は、貴方に殉じることは、できそうにありませんでしたから……」
そこまで言い終えると、サティヤは穏やかに瞳を閉じ、忍の腕の中で崩れ落ちた。
忍は青年をその場に横たえると、赤く濡れた手をシャツにこすりつけた。
彼の頬には、奇妙な笑みが浮かんでいた。
「俺は、坊主共から行でなく、別の事を教わるべきだったな」
「何をだ」
「ああ。ヒンズー教の正しい埋葬の仕方だ」
微笑を浮かべたまま、そんな冗談を言う。
いや、冗談のつもりではないのかもしれない。精神が崩壊しかけているのを、懸命に堪えている状態なのかもしれない。
樹はわざと軽口を叩いた。
「別に、いいかげんに埋めたって構やしないさ。それに、こいつはもしかしたら仏教徒かもしれないじゃないか。無宗教だったかもしれないし」
「そうだな。弔う気持ちの問題だな」
忍はうなずくと、そこここに倒れている、まだ形をとどめている死体を集め始めた。巻き込まれた人々も、軍の私兵も選ばずにだ。
樹はその都度、適当な場所に小さな穴を開け、そこに骸を埋めてゆく。
二人は、しばらく黙って作業を続けた。
血の匂いこそ消えないものの、辺りがほとんど片付くと、ようやく忍は動きをとめた。
苔むした、太くねじれた幹に寄りかかり、そのままズルズルと座り込んだ。
まだ少年の幼さを残している、疲れた横顔。
樹がそれを見守るように傍らに腰を下ろすと、忍はぼそりと呟いた。
「死んだ兵隊共の喉に、影の手の指の痕がついてた」
「うん。だろうね」
当り前の話である。
言われた意味をはかりかねて樹が眉を寄せると、忍はこう続けた。
「おまえの喉についてたのと、同じ間隔だった」
「あ」
樹は言葉を失った。
影の手を相手に、危ない遊びをしていたことがすっかりバレてしまったらしい。
とっさに樹は、誤解してくれ、と願った。
影の手とSMまがいの事をしているなどと知られたくない。足の間を泳がせて、快楽をむさぼっていると思われた方がマシだ。苦しみたかった、血塗れになりたかったなどと言える訳がなかった。
しかし忍は、そこまでしっかり見抜いてしまったらしい。こう続けた。
「おまえまで、自分を追いつめるな。おまえと俺は違うんだ。いや、違ってなければならないんだ」
「忍」
彼の身体がグラリとかしいだ。ぐったりと疲れた身体が、樹の腕の中へ、溺れるように倒れ込む。
「もう、俺は暗黒を呼び寄せたくない。おまえまで俺に似てきたら、俺はどこへ逃げ出せばいいんだ……この不安を、どこへもっていけばいいんだ」
「忍」
「ああ、俺は何を……錯乱してる」
「忍、大丈夫か、忍」
「樹……駄目だ……」
しかしこの時、忍の別人格は現れなかった。そのかわり、彼は樹の胸でそのまま意識を失った。
樹は影の手を呼び、自分達を小屋まで運ぶように命じた。
広げた布のような空間が、二人をくるりと包み込んだ。
「大丈夫だよ、忍」
樹は、胸の底で呟いた。
「俺は、もう自分を追いつめたりしない。忍の孤独が深すぎて、俺には到底救いきれない時も、俺は自分を責めたりしない。ただ、いつまでも側にいる。それが、忍には一番の癒しらしいからね」
それは難しい決心だった。樹はもう、忍の闇に侵されていた。表面上はどれだけ明るく繕っても、いざとなると簡単に闇に呑まれた。
二人の出会いは、運命にも等しかったのだ。
似すぎている、合わせ鏡の存在として。
小屋に戻ると樹は、質素な寝床へ愛する人を横たえた。
「たとえ忍が俺より先に死んでも、永遠に離れない」
そう呟きながら、もう一つの寝床へ彼は入った。

二人の気持ちが通じあうのは、もうしばらく先になるようだった。
わけても――身も心も通じあう日は。

(1996.8脱稿/初出・恋人と時限爆弾『虚空の薔薇』1996.9発行)

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