『Shadow Moon』

1.覚醒/ドグラ星

「クラフト」
その時の王子の笑顔は、本当にまぶしいほどだった。
厭な予感がするというより、むしろ恐怖を感じるくらいに。
いや、王宮の広間でなく、私室に呼ばれた時点で、彼はもう覚悟はしていた。
「久しぶりに、地球に行こうと思う。……おまえもくるか?」
「王子」
ドグラ星王立護衛軍隊隊長、R・クラフトは、若い時分とほとんど変わらないこの王子に対して、相変わらずの説教をしなければならなかった。
「何故いま、地球に行く必要があるんです。現在の地球は、宇宙間犯罪防止条例の調印がすんで十年。治安維持対策委員会の対象からもとっくに外れましたし、援助の必要もない程の進歩をとげています。王子が行かれても、何の権限もありません。それなのに、即位も間近と思われるこの時に、第一王子の貴方が、そんなに簡単に母星を離れてもいいと本気でお考えですか」
「うん。いいだろう? 問題ないよ」
「王子!」
クラフトの眉がつりあがる。だが、王子は少しも悪びれない。
「だから、ほんの少しの間だけだ。知り合いの顔を見に行くだけなんだから」
「ほんの少しと言っても、王子の場合は少しではすみません」
「少々長くなったからといって、父君はまだ死にやしないさ。……それに」
ふと意味ありげな視線を流し、低い声で囁く。
「クラフトだって、あの星に、逢いたい人間がいるだろう?」
護衛隊長の頬は、かすかにひきつれた。
軍人としての訓練は十分に積んでいる筈なのだが、感情の起伏は人並以上だ。昔の色恋沙汰でさえ、彼の心を波だたせる。それを知っているからこそ、王子はあえてこの台詞を口にした。
しかしクラフトは、すぐに平穏な笑みをつくろった。
「遠い昔の事です。第一、もうこの世にいない者です」
ドグラ星と地球では、ライフスパン(生命周期)がまるで違う。地球を離れた時に、その時の事は思い捨てた。従って、隊長の動揺は最低限ですんだ。
当てが外れた王子は、口唇を尖らせて、
「ふうん、ずいぶん丸くなったなあ。……まあいいや。クラフトが行こうが行くまいが、僕は行くからね。ついてこない方が、僕も遊べる。さあて、お家騒動の種でも蒔いてこようかなあ」
「ですから王子!」
「あ、怒った」
王子は、クラフトの眉間の皺をからかうように指さした。
「嬉しいね。その声をきく度にゾクゾクするよ。一番いいのは泣き声だけど。いつかベッドで、できるだけ沢山の人間が聞いてる時に、泣かせたい」
クラフトの背筋に、激しい悪寒が走った。
冗談の気色の悪さにではない。王子に押し倒される事を想像したからでもない。だいたい、そういう冗談ならすぐに慣れる。しかしこの王子は本気なのだ。誰かを泣かせたいと思えば、心底正気で徹底的にやるからだ。
「……それは堅く辞退させていただくとして、地球へは何のために行くんです」
「だから、僕には逢いたい人がいるのさ」
「まさか」
乱れて額に垂れかかるクラフトの前髪が、ピクリと動いた。声を低めて、
「待って下さい。フィアンセのリリィ・アマノ姫はどうするんです。地球に行きっぱなしだなどということになったら……」
王子などと結婚しない方がアマノ姫にとっては幸せのような気もするが、親の決めたものではなくて、王子が彼女を気に入って申し込み、彼女も満更でもなさそうに受け、相思相愛の形で成立した絆である。男勝りで気は強いが、しっかり者で美しい姫と、頭はいいがちゃらんぽらんな王子の取り合わせは、あながち似合いでなくもないので、民衆にも広く支持されている婚約だった。それを、今更あっさり反古にされてはたまらない。
しかし、王子は首を振った。
「だって、うっかり前世の記憶を思いだしちゃったんだから……大丈夫、逢うだけだ」
「なら、ついていきます。不埓な真似をされては困りますから」
「そうかい? ……まあ、こそこそやって追われるよりは、正々堂々とやりたいと思ってたんだが」
そう言って王子は鷹揚に笑った。甘く艶めいた声がもれる。
クラフトは、自分の瞳を疑った。その笑みが、確かに今までの王子と違ったからだ。演技でそうしているのではない、別人の微笑が重なっている。
どうやら、本当らしい。
前世の記憶がよみがえった、というのは。
最初、王子は多くを語らなかった。
一応覚醒はしたのものの、本人にも、事情がよくわかっていないらしい。
魂の移動はよくあることだが、そうそう記憶の覚醒は起こらない。細部が適当に抜けおちているのも、不自然な話ではない。
「しかし、本当ですか、それは」
「ああ」
以前クラフトが聞いたのは、王子の前世は、地球の魔界に存在した亜空間妖怪の一人だという事だけだった――そしてその時、永遠を誓った相手がいたという事だけ。
「僕は、闇撫という種族の王子でね。その時も、辺境の寂しい生活に飽き飽きしていて、人間界に降りた。その時、とても美しい人に逢ったんだよ」
王子はしおらしい顔で呟いた。
普段なら、油断のならないしおらしさと言うべき所だが、今度ばかりは本気の様子だ。思い出はいつも美化される、というのはよく言ったものだが、この王子の青い血にも、ロマンティックな成分が少しく入っていたらしい。
「死んでも一緒だって誓ったんだ。あの人の屍を抱いて誓った――生まれかわっても愛し合う、と。それなのに、前世で死んだ後、僕はその恋を忘れてしまったんだ」
「それを、どうして、思い出されたんです」
「その人に呼ばれたんだ。夢の中でね。俺は目覚めた、おまえは何処にいるって。運命の恋だから、自然に魂がひかれあったんだろう」
「王子」
「うん?」
「……それなのに、逢うだけですむんですか」
クラフトの声はゆっくりとして、懸念で曇っている。運命の恋の相手と再会して、はたして何もなくすむとは思われない、そういう声である。だが、瞳を細くしてにらむ隊長の視線を、王子は軽くはねのける。
「ああ。だって、前世は前世だ。縛られる必要はないさ。どんな約束にも、どんな思いにもね」
そこで、キリ、と表情を引き締め、
「出立は明日だ。この事は、他の誰にも漏らさないように。以上だ」
それだけ言って、隊長をさがらせた。
クラフトは、何度も何度も振り返ろうとしたが、結局、大人しく王子の私室を出ていった。
「忍……」
一人きりになると、王子の顔は更に変化した。
ゆるく波をうつ淡い色の髪は、暗い緑のストレートに。
丸く孤を描いていた眉は、細い一直線に。
瞳は鋭くなり、妖しく輝く黄金になる。
鼻が尖り、頬がこけ、口唇も薄く甘くなって、いささか熱いほど愛らしい顔が、大人びた、寂しいはかなげな女顔に変わる。
正真正銘、前世――闇撫の樹の顔だ。
今までの顔は、実は演技だ。本気も嘘気もごっちゃに表現する彼の業は、年季も筋金入り、何十年となくつきあっている護衛隊員までが騙される。
しかし、今の彼は本当に、前世の記憶に溺れる、情熱的な恋の最中のとんでもない男だ。
沈み込んだ椅子の中で、かつての恋の面影をなぞる。
「さがさなきゃ、彼を。霊界を通ってない筈なのに、忍が転生してるなんてとても信じられないが……しかも、魔界でなく、人間界にいるなんて」
仙水忍。
彼の青年期の王であったのは、この自分だ。
また、自分の青年期(彼よりは年かさだったが)の王であったのは、彼だ。
「逢わなければ……なんとしても」
このうっとりとした声音を聞いた者は、王子の命令を聞いた者よりもさらに深い恐怖をおぼえるに違いない。王子の悪戯はワザとだが、この男の冗談は、冗談でなくて本気の天然だ。意図して止められるものではない。
「……待っていてくれ。すぐにゆくから」
軽く瞳を閉じた彼の右頬に、かすかな影が浮かび上がった。
額の上から長く伸びて、首筋まで続く、一筋の白い影。
それもまた、彼の恋の傷跡だった。口唇が自然に動きだす。
「おーもーいーではー、いーつもキーレーイーだーけどー、それだけじゃ、おなかが空くわー……えーい、これぞ亜空間妖怪の逆襲!」
その顔がいつの間にか王子の表情に戻っていく姿を見るものはしかし、誰もいなかった。

2.覚醒/地球

半透明のドーム。
きらきらと銀色に光る建造物。
人工植物の、鮮やかすぎる緑。
ありきたりというよりは、すでにいささか時代遅れな近代都市の風景が流れていく。

《君はー見たかー、愛がーっ、真っ赤に燃えるのをー!
暗いー闇のー底でーっ、危険な罠が待つーっ!》

チューブの中でエアカーを飛ばしながら、王子は一人鼻歌を歌っていた。
もともと、クラフト一人をまくのに、大した手間は今更かからない。
しかも地球に来た今は、影の手も呼べるというとんでもなさだ。
亜空間を切るこのペットは、王子が逃げたければ、誰からでも、何処からでも出来るようにしてくれる。
「前世の能力というのも、捨てたもんじゃないな」
今の王子は、ほぼ二重人格の状態だった。
一つの肉体の中に、王子と樹、二つの人格が含まれているのだから、文字通りそのものだ。顔まですっかり変わって交替する時もあれば、精神の内部で会話をする時もある。今は、半分ずつの状態だった。左半身が王子、右半身が樹の状態である。
右頬を押さえた樹は、すっかり様変わりした日本の景色を、珍しそうに眺めていたが、ふと思いついたように口を開いた。
「王子、忍は本当にそんな所にいるのか」
「ああ。調査によると、旧臨海副都心ABTにある軍事施設で、訓練を受けている筈だ。すぐに逢えるよう、上部に話はつけてある」
樹の右眉がしかめられる。
「軍人か……いつまでも、戦いにしか縁のない男だ……」
「なに、まだ十六で、訓練中の身だ。今の所、彼がかりだされるべき内戦もない」
「忍は、かりだされなくとも、自分で選んで戦場へゆくんだ」
「そうらしいな……いい顔をしていた。おまえが惚れるのも無理はない」
王子はうなずいた。
彼は自分が樹になった時、その胸の痛みを知った。
それは不思議な体験だった。
他人の恋の駆け引き――自分の知らない種類の力関係――ほぼ対等の位置に立ち、相手を愛し大事にしたいと思いながらも、いつの間にか悪い影響までがゆきかい、互いをおとしめあうことさえある感情の動き――したたかな部分と脆い部分の揺れ――。
それは、王子が王子として生活している中では味わえないものだった。銀河宇宙の中でも高位にあり、自由に自分の力が使え、なおかつ天才的な頭脳に恵まれてなりゆきの遊びには事欠かない王子と、田舎で発展途上の地球の片隅にいて、仲間もわずかだし攻撃の力もろくにもたない妖怪の樹では、経験するものはおのずから違う。身分の差というのは、そういうことだ。
だから王子は、樹を少しだけうらやんだ。重責を持たず、ただ色恋だけに命をかけられる奔放さを。土壇場には誰も頼れないにも関わらず、最後まで誰にも迎合しない芯の強さも、自分にはない。
「……王子」
樹がナビの画面を指さす。
「うん?」
「このままだと、ABT地区は通り過ぎる」
「大丈夫だ。行く先はロックしてある。行き過ぎた所で、おまえの力を使えばすむだろう」
「それはそうだが……その……」
樹の声は、妙に沈んでいる。急に落ち着かなくなってきたようだ。
「おまえ、そろそろ、顔だけでも全部出てきた方がいいんじゃないか」
「そうしよう。施設に入ったら、変わってくれ」
しかし、エアカーを降り、パスポートで施設内に入った瞬間、樹が消えた。
「……樹?」
顔どころの話ではない。樹の人格そのものが、意識の底へ深く沈み込んでしまった。
「どうするんだ。逢いたくないのか?」
返事がない。
「おーい、僕はこのまま帰ってもいいんだぞ」
返事は、ない。
妙な胸さわぎに、王子は柄にもなく慌てた。
「逢いたいのに、逢いたくないのか」
一目見たいが、まだ言葉は交わしたくない、という事らしい。
「じゃあ、まず、僕がさがしてやるからな」
入り口で、王子は自分のIDを出し、ことさら慇懃な声を出した。
「シノブ・センスイという訓練生に逢いにきたのですが」
受付の女性は、立体ホログラフのカードを差しだした。
「お話は伺っております。彼はいま待機の時間です。どうぞお入りください」
小さな生首のように、一人の青年の顔がカードの上にぼんやり浮かび上がる。その下に示された地図の、現在位置と本人の位置のランプを頼りに、王子は施設の中を歩き始めた。
ほどなく彼は見つかった。
「……居た!」
夢にまで見た、美しい人。
それは他人の、いや、前世の夢だが、それとまるで変わらない青年が、休憩施設の前にたたずんでいた。
短く切って片側だけなで上げた、艶のある黒髪。
穏やかで落ち着いた、怜悧な面ざし。
黒の詰襟姿まで、樹が初めて彼と出会った時と変わっていない。いや、一番上まできっちりとボタンをとめて、きちんとしすぎているくらいだ。
王子は、にっこり笑って青年に近づき、その肩を叩こうとした。
「やあ、忍、どうしてここでも学生服のままなんだい」
青年はすっと身を引いた。王子の手は空振りに終わる。
「気安く触らないでください。それにこれは、学生の詰襟ではありません。軍の制服で、官給品なんです」
神経質そうな表情で、王子を見上げる。
そうか、そういえば、黒の詰襟学生服という奴は、海軍の冬の軍服派生のものだと聞いたことがある。それを今なお、百年続けているという訳だ。
王子はふむ、と顎をおさえた。
「……しかし、本当に全然変わってないよ、うん」
「申し訳ありませんが、どちら様でしょうか」
疑わしそうな顔は変わらない。
王子は近くにある椅子に座り、いつもの鷹揚な笑みを浮かべた。
「連絡がいってなかったかな。ドグラ星の第一王子が、連合宇宙軍派遣分隊、S級訓練生シノブ・センスイを訪ねてくる、というような」
「ああ。貴方が!」
そこでようやく、忍も顔をあたらめた。
軽く会釈をすると、王子の脇の椅子にすい、と座る。なかなか洗練された仕草である。
王子は、下手にへりくだらないこの青年が気に入った。隙のない身ごなしも、まだ子供らしさを残した声も、かなりの潔癖症らしい清潔さも、すべてが好ましかった。
「御用をうかがいます」
吐息が聞こえそうな距離で、うすしろい滑らかな口唇が動く。
王子は、胸の底の樹の声を、出来るだけ真似て出した。
「君の顔が見たかったんだ。……なんとも懐かしくてね」
しかしそれは、彼には通用しなかったようだ。無表情で、目だけパチパチと瞬かせ、
「お言葉を返すようで申し訳ありませんが、自分の記憶の限りでは、仙水忍の知り合いに、ドグラ星の王子は入っていません」
「そうか。思い出してはくれないか」
馬鹿な。
この青年が呼んだのだ。
だから、自分の中の樹は目醒めたのだ。
それなのに、樹は出てこないし、忍もまたけんもほろろだ。
自分は、何のために来たのだろう。
「残念だな……。僕にとっては、貴重な思い出なんだが」
「思いだしたくても、貴方を知らないのですから、仕方がありません」
思ったより、睫毛も長い。下瞼の緩いふくらみも、微妙な陰影でなかなかいい。
王子は明るい声を出す。
「それじゃ、これから友達になろう。また、遊びに来てもいいだろう?」
「それはどういう意味ですか」
「どういう意味っていうのは?」
忍の声が、冷たいものに変わる。
「貴方は、自分の評判をご存じですか」
王子は眉を寄せた。忍は、冴え冴えとした頬のまま、きっぱりこう言い放った。
「ドグラ星の第一王子は、宇宙一頭の切れるバカ王子、退屈しのぎのためなら、他人の迷惑なんて何とも思わないロクデナシ、と言われているんですよ。その人がどうして、軍属とはいえ、一般人の自分と友人になりたいなどと言うのか。その意味を尋ねるのは、そんなに不自然ですか」
さすがの王子も苦笑いした。きれいな顔して結構キツイぞ、と。
「君もなかなか言うな。まだ若いから大目に見るが、君は今、星間紛争が発生しかねないような事を言ったんだよ。それとも、僕を敵に回してもいい、という訳か」
すると忍は薄く笑った。
「いいえ、貴方を敵だとは認識していません。もし、敵だと思ったなら……」
いきなり、忍の全身から殺気が発せられた。
顔の前にすっと引かれた手刀が、王子の喉を狙っている。一発で相手の息を止められる部分を、確実に標的に据えて。
「……なるほど」
超一流の暗殺者である事までも、変わっていないらしい。
「それなら、なんのために生まれかわったんだ……」
思わずそう呟いて、王子はドキリとした。樹ではない、自分の気持ちが動いている。
「?」
しかし忍は、すぐに警戒モードをといた。王子は相当な悪趣味ではあるが、人の命をもてあそぶような危険な真似はまずしない、という噂も聞いていたようだ。怪訝そうにこちらを窺う。王子はようやく表情を押さえて、
「君は、樹という名におぼえはないか」
「樹」
瞬間、忍の瞳から表情が消えた。虚ろな視線が宙をさまよう。
そして、かえってきた返事は、こうだった。
「……秘密作戦のコードネーム、ではないようですが」
「そうか。やっぱり、思いだしてはもらえないようだ」
王子はすっくと立ち上がった。
「邪魔をしてすまなかった。失礼するよ」
忍も立ち上がる。
そして、ポケットからホログラフカードを取り出した。
「王子」
「なんだい」
「連絡先です。軍の宿舎ではなく、一人で暮らしています」
伏せた眼差しが、《好きな時においで下さい》というニュアンスを足した。
なるほど、こんな人目のある所では、前世の話はやりにくい、という訳か。
王子はカードを受け取った。ドアキーの暗唱番号まで書かれている。よほど親密な相手に渡すためのものらしい。それとも、予感がして、あらかじめ用意してあったか。
「ありがとう。あえて楽しかった」
上着のポケットにカードを滑り込ませると、王子は軽やかにその場を離れた。
仙水忍は、その姿を無表情で見送った。
何事もなかったかのように、休憩施設の方へ戻っていった。

3.覚醒/再会

エアカーを走らせる王子の姿は、再び左右が違う姿になっていた。フロントは、対向車から見えないスモークガラスではあるものの、片頬ずつの不思議な顔である。
「今これが出来るなら、どうしてさっき出てこなかったんだ」
王子が呟くと、樹は不機嫌な声を出した。
「出たかったさ。どうしても出られなかっただけだ」
「そうか」
王子は、それ以上詮索するつもりはなかった。
なに、後で部屋を訪ねていけば、二人はうちとけるだろう。樹の名を出しただけで、あれだけ態度が変わったのだ。顔も声も戻れば、前世の恋を信じてくれるだろう。万が一信じてもらえなかったとしても、それはそれだ。永遠を誓おうと、約束は永遠ではない。たとえ永遠が何処かに存在するとしても、自分の望む相手から選んでもらえない場合はままあるものだ。不安に思うのも無理はない。
しかし、樹は、王子とは別の事を考えていた。
「忍、相変わらず七重人格だった」
「?」
なんだって? どうしてそんな事がわかる?
そう感じた根拠はいったいなんなんだ?
だが、王子が疑問を口にするまえに、樹は物思いに沈んだ声を出した。
「転生する時、他の人格も一緒になったなんて……統一されてないとは思わなかった。それは別に構わないが、霊界を抜けないで、どうやって生まれかわったんだろう……おかしい」
「まだそんな事を気にしているのか?」
地球の精神界レベルは、霊界、魔界、人間界という形で一応わけられている。しかし、その境界は曖昧で、指導者達でさえ把握していない部分が沢山あるという。人間の生れかわりは、霊界を通るのが普通だとされているが、魔界で死んだ者はその限りでないし、別のパラレルな空間で生き返るものもある。
この三つの界は、王子が地球を訪ねる以前にある程度交流があり、それなりにきちんと治められていた。特に問題や騒動もなかったので、王子はそれに興味はなく、すっかり放置していた。
しかし樹は、それがどうしてもひっかかるらしい。
「気になるさ。忍は、一度決めた事は、何があっても曲げないんだ。死んでも霊界には行きたくないと言っていた男なんだ。魔族に生まれますように、というのは願いだから、かなわないこともあったかもしれない。でも、あれは……」
すっかり右頬を覆い、うめくような声をもらした。
「ああ、どうして俺は死んだんだ。屍になっても、永遠に二人で亜空間をさまよっていられるなんて考えていた俺が馬鹿だった。遠い星まで魂が飛んで、こんな引き裂かれ方をするなんて……」
「落ち着け」
王子はため息をついた。だんだん馬鹿馬鹿しくなってきたのだ。
「とにかく夜、もう一度逢いに行こう。もしまた外へ出られなくとも、僕がなんとか、うまくおまえの事を説明してやる」
「そうだな。……頼む」
言い残して、樹は中へ引っ込んだ。どうやら、夜に向けて休むつもりらしい。
「僕が、一つの器に入っているとはいえ、他人のためにこんなに手間暇かけてやることなんてまずないんだぞ。感謝くらいしてもらいたいな……」
王子はアクセルを踏み込んだ。
日没までの時間を潰すため、当座とりあえず休む場所を目指す。
「いや、まずは買い物かな。面白いジャンクでも出てるといいんだが」
そんな事を呟いて、ようやくいつもの悪戯な笑みを浮かべた。

忍が渡してくれた住所は、集合住宅のユニットの一つだった。
「……もう、帰ってきてるだろうな?」
扉の前で、樹は不安そうな声を出す。まだ半分しか現れていない。王子は苦笑して、
「帰ってきてなければ、中で待たせてもらってもいいだろう。鍵もあるし、もしこれが嘘の鍵だったとしても、おまえの力でいくらでも押し入れるだろう?」
「そうだった。……じゃ、俺が表に出るから、少しだけ引っ込んでてもらえるか?」
「ああ。そのつもりで来たんだからな」
相当の努力をして、樹は表に現れた。そして、インタフォンを鳴らした。
「……樹か?」
機械越しの声だが、昼間の調子と全く違う。
樹はドアを急いで開けた。
「忍」
「入れ」
言われて部屋に入った瞬間、懐かしい香がした。
昔、樹が忍の部屋に行っていた頃、忍がよく煎れていた日本茶の香だ。
「すっかり戻ってるんだな、忍」
「ああ。……何もかも憶えてる」
熱に満ちた瞳が、樹を見つめる。
顔こそまだ高校生だが、辛すぎる二十六年の歳月の重みまでたたえた、深い瞳が。
樹は、思わず忍を抱きしめた。
忍の腕も、樹を固く抱きかえす。
その時、パリ、と音がして、何かが足元に落ちた。
「……なんだ?」
金色の柔いプラスティックの破片だ。忍が怪訝な顔をすると、樹が笑った。
「つけ爪だよ。王子がつけたんだ」
言われてみると、そのようだ。いささか長すぎて、抱擁の強さで割れて、剥がれ落ちたらしい。
「何のためのつけ爪だ?」
樹は肩をすくめた。
「なんでも、他の星から来た感じを出したいんだってさ。昔、『地球に落ちてきた男』って映画で、爪の剥がれる宇宙人が出てきたんだって? デビット・ボウイとかいう俳優が、地球に来た宇宙人を演じていて、人前ではつけ爪をしていて、家に帰ると外して、コップの中に、コンタクトレンズみたいに落とし込むんだ、って」
忍は苦笑した。
「なるほど、あの王子も、随分昔の映画まで観てるんだな」
「忍も、その映画を知ってるのか?」
「ああ。ウォルター・テヴィスの小説も読んだ……地球を侵略するために、スパイとしてやってきた男が、故郷の星が駄目になって孤立無縁になり、最後には地球に馴染んでいこうとする話だ。主人公の寂しさがよく描けていて、いい話だ」
主人公の寂しさがいい、か。
相変わらずだな、と樹の胸が痛む。
しかし、忍の方はそんなつもりはなさそうだった。抱擁をとくと、リビングへ樹を招き入れる。茶をすすめながら、
「それにしても、おまえもとんでもない器に入ったな」
「ああ。でも、王子も、さっきの忍の痛烈さには負けたみたいだよ」
「そうか」
忍はニッコリと笑った。
「まあ、少々やっかいな生まれかわり方だが、しかたないな。霊界を通らないで覚醒するのは、別の星に行く方が簡単だ」
樹も、湯呑を両手で抱えながら嬉しそうに、
「別に、意図してやった訳じゃないさ。それだったら、もうちょっとマシな奴にとりついてたろう」
「そうか? 王子くらいの方が、権限も金もあって面白いだろう」
「そんなものに興味はないよ。闇撫の力さえ戻れば、大抵の事は足りるんだから」
影の手を使って、地球の上でできない事は少ない。金だろうが物だろうが、揃えられないものはない。
しかし忍は首を振った。
「だが、さすがに、宇宙空間を渡ってくるのは辛いだろう」
「……それはそうだ」
王子の身分だからこそ、忍の居場所を調べるのに手間がかからなかった。軍の施設にも無理が言えた。そういう意味では、王子には感謝しなければならないかもしれない。
「そういえば、忍」
樹は、昼間からの疑問をふと思いだした。
「忍は、どうやって生まれかわったんだ? 霊界を通らずに、これたのか?」
「ああ。うまく経由は免れた」
樹は不思議そうな顔をした。
「抜け道があったのか? 一度、魔族に生まれかわって、その後人間界に降りたとか、そういう事ができたのか?」
忍も不思議そうな顔をした。瞳を丸くして、
「樹……本当に、まだ気付いてなかったのか」
「何を?」
忍は、椅子を引いて立ち上がった。
いきなり、黒の上衣を脱ぎ始める。上半身が露わになるのに時間はいらなかった。
「忍」
傷ひとつない、滑らかな白い肌。
樹の胸は高鳴った。
忍は樹の前に立ち、その手をとって自分の左胸にあてた。
規則正しい鼓動が、伝わってくる。
「……忍?」
いきなり誘われているのだとは思いたくなかった。また、忍の表情も妖しいものではなかった。しばらく茫然とされるままになっていると、忍は苦笑した。
「まだ、わからないか? ……そんなに、よく出来てるか」
「よく出来てる?」
忍は、樹の手を上から押さえたまま、胸をさぐった。
カチン、という音がして、胸が開いた。
「まさか! アンドロイド……!」
人工心臓が動く体内は、人間から生まれ落ちたものではない、すべてがナノテクと機械でつくられた物だった。そして、丁度樹が手をあてていた部分にあったのが、全身の指令塔とでもいうべき、記憶ディスクの格納庫である。
「地球の科学力も、だいぶ進歩したのさ。一見、人間と見間違うくらいの人形はつくれるようになったんだ。もっとも俺は軍用だから、かなりの高級仕様らしいがな。裸をさらしても、気付かない連中もいるんだから」
魂の宿る、人形。
樹はショックで、しばらく口唇を噛んでいた。ゴク、と喉を鳴らして、
「……なるほど、霊界を通るのを防ぐために、直接、この器の中に復活したのか」
忍はうなずいた。
「そういう事だ。このタイプは、本人の自我と個性と成長が認められる型なんだ。脳にあたる部分に複数のディスクを使う事によって、主人格の欠陥部分を補うようになっている。軍人の時のモードもあれば、日常雑事のモードもある。異性の人格部分まで、予備で用意されてる。メインの仙水忍以下、計七枚のディスクが、俺の生活を支えているんだ」
ああ。
相変わらずの七重人格――王子の底で感じていた直感は、当たっていたのか。
全ての疑問はここでとけた。
忍は、自分の望みを、別な形で果たしたのだ。
七枚のディスクを胸にひめた、鋼鉄のアンドロイド。
自分が、うっかり死んで、離ればなれになってしまったばかりに。
「……そうだったのか」
言葉が出ない。なんと言ってよいか、樹には全くわからなかった。
「ああ、そうだ」
忍は、樹の手を胸から外した。しかし、手そのものは離そうとしない。ほっそりとした機械の手は、樹の手をまさぐりだした。感触を確かめるように、あまりにも惜しそうに握りしめる。
「忍?」
「おまえは、本当に変わらない」
次の瞬間、忍は樹の手を思いきりひいた。
椅子からよろめき出した彼を抱き寄せると、口唇を重ねる。
ぎこちない、だが、それでも記憶をかきみだす感触。
全身が痺れる――。
「いつまでもじらす癖も、そのままじゃないだろうな」
耳元でそう囁かれて、樹の意識は霞みかけた。かろうじて忍にすがりつきながら、
「待ってくれ……今の俺は、王子の意識がまだ……見られるし、聞かれる……下手すると、最中に現れるかもしれない」
忍は、崩れ落ちそうになる樹を、細い腕でしっかりと支えた。
「そんなもの、外へは出させない。……もしおまえが、本当に俺を憶えているなら」
「忍」
パリ、と剥がれ落ちた爪を踏み、二人はそのまま寝室へもつれこんだ。

4.覚醒/別離

朝まだき。
樹は、華奢な青年の胸に頬を寄せて、じっとしていた。
不思議な感慨に陥る。
これが人形だなんて。精神は大人で、すべての記憶も持っているのに、可愛らしいような顔をしたアンドロイドだなんて。
確かに、忍にはいつまでも幼い部分があった。純粋さと我が儘さ。遠く広く夢みているような、熱い瞳が。出会った頃と変わらない、ナイーヴに過ぎる部分が。
しかし、こんな形で再現されると、やはり不思議だ。
「この身体が、本当に機械なのか……心臓の音もするし、胸だって呼吸するみたいに動いてる。こうして寝てみたって、昔の忍と変わらないのに」
「そうか?」
樹の髪を撫でていた忍は、少しだけ身体をずらした。相手の腰に手を回し、
「自分では、そうとう不自由なんだ。思ったとおりには、ならない」
樹は、忍の腕の中で身をすくめる。
「……あんなに思いどおりにしたくせに」
普段のストイックさはどこへ、と思うほど、昨夜の忍は情熱的だった。
文字どおり、何度も泣かされた。
もっとも、その涙の大半は、再会できた嬉しさと、忍が変わらず自分を愛しむ実感によるものだったのだが。
そう。
名を呼ばれるだけで、震えた。
甘える仕草を交わし、黙って見つめあう喜びの深さ――。
忍は、俺の腰を抱きよせながら、かすかに微笑んだ。
「ああ。束の間の逢瀬だと思うと、手加減したくなかったんだ」
「……束の間?」
思わず身を起こす。
「どういう意味だ、もう二度と逢えないっていうのか」
待ってくれ。
俺は、また、置いていかれるのか。
パニックで硬直した樹を見て、忍は表情を引き締めた。
「そうじゃない。だが、冷静になって考えてみろ。おまえは今、ドグラ星の第一王子なんだ。星に帰らない訳にはいかない。一方俺は、宇宙連合軍の機械人形だ。しかも、地球分隊の機密の一つだ。とうてい自由の身にはなれない。まして、他星の王子に盗み出される訳には、いかないだろう」
「ああ、そうか……!」
それは全くそのとおりだ。
時々、王子が地球に来る事ぐらいは可能だろう。束の間一緒に過ごす事は。
しかし、それ以上の事は出来ない。
なるほど、互いの立場が変わるというのは、恋の状況も変わるということなのだ。
樹は目を閉じ、しばらく黙って考え込んでしまった。
「どうした?」
忍が声をかけると、ようやく瞳を見開いた。
「大丈夫さ。星間戦争ぐらい、いつでも起こってるんだ。忍一人さらったって、戦況が急激に悪化する訳でもないだろう」
真剣な声だった。本当に、忍をこのままさらいかねない顔をしている。
「無茶を言う」
「無茶なんかであるもんか。ここを抜け出して一緒に暮らそう。ドグラ星はそんなに悪い所でもない。どうせ軍仕様にできてるなら、王子の護衛隊員の振りをして脱出しよう」
「駄目だ。俺の身体自身が、機密だと言ったろう。ドグラ星の方が、機械人形の水準は高いだろうが、それでも軍の機密なんだからな」
「そんなの、王子ならなんとかできる筈だ」
「よせ。おまえの気持ちは嬉しいが、無理だ」
「忍」
樹の瞳の光が、すうっと弱まった。
忍は、ドグラ星へ行きたいのではないのだ。
自分と、ずっと一緒に暮らしたいのでもないのだ。
ただ、一度逢いたかった、それだけだったのだ。
それならば、どうして無理強いができよう。
「……時々は、逢いにこい」
忍の声に、樹は大人しくうなずいた。
「わかった。……そうするよ、忍」

その夜、エアポートで、クラフトは王子を待っていた。
「もう、用はおすみですか」
「ああ」
「お帰りになるんですね」
「そうだよ」
クラフトは眉をひそめた。
王子の方から連絡をしてきて、帰ると言い出したのだから別に不自然ではないのだが、どうも、素直すぎて気味が悪い。
いつもの王子の顔をしているものの、まるで別人のように思える。
小型挺に乗り込む時も、調子外れな鼻歌を歌いつつも、妙にしおらしい。
「どーれだけー離れたーならー、忘ーれらーれるだーろーぅ、想ーってみてーもー空ーしくてぇー」
「王子」
暗い窓の外を向いて、こちらを見ない。
「問題の方には、おあいになったんですか」
返事がない。
しばらくして、ぽつりと呟く。
「気にいってたんだけどな、あの金のつけ爪。どこでなくしたんだろう。……今度は銀のつけ爪にしよう」
指先を揃えて、じっと見ている。
まだ、こちらを振り返らない。
クラフトは声を低めた。
「忘れる事だけ考えても、しかたないですよ。……かえって苦しい」
「そうだな。……それにどうせ、たかが前世の約束だ」
王子はそれから、母星に戻るまで、一言も口をきかなかった。
クラフトは暗然と、その寂しそうな背中を見守った。

「あ、リリィ姫」
「王子、お元気?」
とある昼下がり、王子の私室の外にある庭園へ、リリィ姫が訪ねてきた。
彼女は結構おてんばな所があって、こういう場所へも平気で忍び込んでくる。
「しばらく顔を見なかったから、遊びにきたわ。そちらはどなた?」
「ああ。護衛隊の新人で、S・ブラックだ」
王子の紹介を受けた青年は、慇懃に頭を下げた。上下を黒で揃えた、逞しい男である。クラフトといい勝負だ。
しかし、姫は眉を寄せた。
「ちょっと待って。こちらの方、もしかして人形じゃない?」
「姫にはかなわないな。一目でわかったのかい?」
王子は苦笑した。姫は首を傾げて、
「一目でわかるっていうか、外側の器は王子の好みなのに、内側の記憶装置には、別の魂が宿ってる感じなんだもの。どなたから譲りうけたの?」
「盗んできたんだ。地球からね。……まあ、その替わりに、別の記憶装置を置いてきたけど」
地球を離れたあの日の昼間、王子は現世の自分を取り戻した。
部屋を出たとたん、樹はすっかり意気消沈してしまい、そのまま内側へ閉じ込もってしまったからだ。
その後の王子の動きは、目ざましかった。
市販の記憶装置ディスクを買い求め、街角にあるネットからABTにアクセス、軍の資料をハッキングし、買ったディスクに次々コピーしていく。
そして夕方、忍の部屋にとって帰った。
「いたな、シノブ・センスイ」
「王子?」
ドアを開けた忍は、不思議そうな顔をした。
しかし、王子は有無を言わさず部屋に押し入った。七枚のディスクを手に、忍に迫る。
「僕が、噂よりは多少マシな人間だと言うことを、君に教えてあげようと思ってね」
「それどころか、噂に尾鰭がついてないようですが」
「ふふ、そうかもしれない」
王子は、忍の胸に触れた。
彼は、ほとんど抵抗しなかった。
元の装置を抜きだされ、新しいディスクを入れられた人形は、忍の顔をし、アンドロイド忍の資料をそっくり入れられてはいたものの、もう、すでに忍ではなかった。
ドグラ星に帰ると、王子は、記憶にある仙水忍の顔を、アンドロイドの上にのせた。そして、持ち出してきた魂を、それに入れた。
「……強引な人だ」
スイッチが入ると、忍は苦笑いした。
王子が用意したのは、地球製のものより自由に動く身体である。感謝すべきなのかもしれないが、どうも納得がいかない、といった様子だ。王子はつん、と鼻をそらし、
「いつでも樹と一緒にいられるのに、感謝もせずにそういう事を言うんだな」
「貴方は、いつでも樹じゃない」
忍は動じなかった。
「新しい玩具でも手にいれたつもりでしょうが、俺は貴方の思いどおりにはなりませんよ」
ただし、王子も動じなかった。
「ああ。それでいいんだ。クラフトが最近丸くなってつまらないから、思いどおりにならない部下が欲しかったんだ」
「なるほど」
そこで二人は、なんとか折り合うことになった。
だが、樹の人格さえ知らないリリィ姫は、事情がよくわからない。
「ただ、盗んできただけなの? いつもの悪戯にしては、シンプル過ぎない?」
「いいや。本当の悪戯は、これから始まるのさ」
王子は薄く微笑んだ。
彼だとて、前世で契りを交わしたのはこの人です、と姫に告げる訳にはいかない。今後も樹の人格が出てきたら、この青年と浮気をしますとも言えない。
まず信じてはもらえないだろうし、もらえた所でいつもの平手打ちですむとは思えない。
それならば、永遠に隠しとおそう、と思った。
次に、魔界に天使の生まれる日まで。

(1996.5脱稿/初出・恋人と時限爆弾『Shadow Moon』1996.5発行)

『夏の憂鬱』

1.

ベッドに腰掛けて靴を脱ぐと、黄色い砂がサラ、と床にこぼれおちる。
「ち……」
つい舌打ちが漏れるほど、まだ気持ちがざわついている。
移動の飛行機の中でも、眼下の風景を見おろす気になれなかった程だ。
「何故だ」
せっかく高級ホテルをとったのに、その清潔さが心をなだめてくれないとは。
疲れているようだな、と、樹が、ナイル河畔のいいホテルを選んでくれた。
それなのに。
「……さすが、五つ星だけあるな」
樹がバスルームから戻ってきた。濡れた手をあげて、
「砂漠の国だっていうのに、水も湯も心配ないんだから。それとも、河べりだから当たり前なのかな。……入るだろう? さすがに砂だらけだからな」
さあ、先に使え、と目でうながす。樹は今晩は、一緒の部屋で眠るつもりなのだ。シングルベッドが二つの部屋だし、深い含みはないのだろうが、俺の心は更にざわついた。
この疲れと、おさまらない気持ちはまずい。下手をすると、感情が爆発して、そのまま樹を押し倒してしまいそうな気がする。そういう種類の歪んだ欲望は、今、一番外へ出したくない。
俺は、樹からそっと顔を背けた。
「すまない、樹。……せっかく部屋をとってもらって悪いが、今晩は少し、一人にしておいてくれないか」
「そうか」
樹は、あっさりとうなずいた。
「じゃあ、俺はどこか別な場所で眠ろう。明日の朝、迎えにきてもいいか?」
そうだ、明日の朝ならこの気持ちも少しは紛れているだろう。樹を迎えて、笑って出かけられるだろう。
「ああ。……朝ならいい」
しかし樹は、俺の返事も待たず、裏男に命じて亜空間を切り裂いていた。一歩入りかけて、こちらを振り向く。
「それじゃ、ゆっくり休めよ、忍」
「言われなくとも、そうするさ。何のためのホテルだと思ってる」
「そうだな。じゃあ、俺は夜遊びに行ってくる」
軽い笑い声をたてると、樹は亜空間の中に消えていった。
次元の縫い目は、すぐに見えなくなった。
「……樹」
俺は、白いシーツの上に、どさりと身体を倒した。
口唇が、動く。
声にならない言葉が洩れた。……側に、いてくれ、と。
「馬鹿な」
いてほしいなら、そう言えばよかったのだ。
樹はきっと、俺の望む距離で静かに待っていた筈だ。
引き寄せたなら、俺の躰を気持ちごとなだめてくれた筈だ。
「それも厭だ」
あいつはきっと、俺が無理強いに押し倒したとしても平気だ。次の朝、何もなかったように起きだして、当たり前のように微笑むだろう。
そう、あいつは俺が望むと言えば、なんでもするのだ。
言葉の裏にある意味など、少しも考えずに。
ああやって、簡単に姿を消すのがいい証拠だ。言われるままにするのが一番いいと信じているから、ためらいがないのだ。
「我が儘な……いったい俺は、何を訳のわからないことを……」
あいつの鈍感さをなじる権利は、俺にはないだろう。
だいたい、あいつが黙って俺の言うことをきくのは、俺を好きだからだ。俺の力を恐れて、いやいや従っているのではない。だから、押し倒されたぐらいで動揺などする訳がない。ただじっと俺について回るだけでも、気まぐれなあいつにとっては、結構な負担の筈だ。いつも俺を待ち受けているのは、大変なことの筈だ。
そんなに我慢してくれているのに、これ以上、何をどうして責める?
《いいんだよ、忍……俺は、忍が望むようにしたいだけなんだから》
よくはない。
あいつが俺の名を呼ぶ声を思う度、心が揺れる。
《忍》
やめろ。
呼ぶな。
呼ばないでくれ。
これ以上、俺の神経に触れるな。
甘い気持ちでなだめられるような、そんな疲れじゃないんだ。
何もかも、どうでもいいんだ。
《……だから、忍》
本当に、声が聞こえるような気がする。
おまえは俺を、本当にすくいあげてくれるのか。
溺れるものが何かにすがるように、腕を伸ばし、手を広げる。
「樹!」
「……なんだい?」
その瞬間、俺の手の先に樹の顔が現れた。
真顔で俺を見おろしている。
「どうして……おまえ」
「なんか呼ばれたような気がして戻ってきたら、ちょうど呼ばれたから」
白い頬骨を覆う淡い緑の髪が、俺の上で揺れている。
だが、樹は決して俺に触れない。髪の先さえ、指先さえ、触れない。
それは、もし少しでも触れたら、俺がすぐにでも押し倒す事がわかっているからなのか。
しかしこいつは、俺の懸念を読み違ったらしい。
「忍。もしかして、別の人格でも出てきそうなのかい?」
別の人格。
凶暴な、冷血な、マニアックな、閉じ込もった、内気な、我が儘な俺の分身達。
確かに、苛立っている今は、連中も出てきやすい。だが、俺の心配はそんな所にはない。樹は俺がどの人格の顔でいても、動じたりしないからだ。どの人格が表にあらわれていても、それを通して本当の俺を見ているからだ。
だから、人格交替はそのものは恐ろしくない。特にこいつの前では。俺は薄白い笑いを浮かべて、
「そうじゃない。……それに、出てきた所で困りはしないさ」
樹はうなずいた。
「そうか。それもそうだな。……邪魔してごめん。おやすみ、忍」
柔らかいその声は、再び闇に消えていった。
不思議な事に、俺の気持ちはそれだけでだいぶ治まった。
横になったまま服を脱ぐこともせず、目を閉じる。
「これで、眠れる……なんとか」
憧れの地へやってきたというのに、俺は長い間、まともな睡眠をとっていなかった。
ここはエジプト、ナイルのほとり。
広大な砂漠と、気の遠くなるような歴史を持つ国。雄大な河の恵みだけを頼りに、想像に余りある巨大な人工物と、不思議な文化をつくりあげた国。
時代は下って現代、政権はこの十年の間に三度変わった。空港はすべて軍港を兼ねる。国中の電力と水瓶を兼ねる巨大なアスワンハイダムと同時に、軍事機密ということで、エアポートで写真をとってはならないとされている。だが、そこにいる兵隊達は皆のんびりとしていて、実はカメラも厭わない。街の人間も陽気で親切だ。Rの強いなまった英語で人なつこくおしゃべりをはじめ、日本人は機械のように勤勉に働きすぎると言って笑う。だが、ガラベーヤという白い貫頭衣ひとつで、この過酷な暑さの中で毎日生活しているエジプト人の方が、よっぽど働き者に思える――そんな国だ。
しかし、特別な事件もなかったのに、俺は落ち着かなくてしかたなかった。
「この神経のいかれようは、どうにかならないのか……」
どうすればいいんだ。
なぜ、こんなに苛立っているんだ。
俺は夢に落ちながら、ずっとその疑問を考え続けていた。
「樹……」
浅いまどろみの中で、いつしか俺は相棒の名を呼んでいた。
しかし、今度こそ奴は現れなかった。
泥のような眠りが、俺をひたした。
悪夢と記憶が錯綜して、そのまま深い闇へとひきずりこまれていった……。

2.

「次のエジプト行きだが、飛行機で移動する」
最初そう切り出した時、樹はきょとんとした顔で俺を見た。
「何故だ? イスラエルからそんなに遠くないし、闇撫の力で行けるのに」
確かに、飛行機の移動は相当の手間だ。イスラエルからの出国は通常かなり面倒なものである。行く先が犬猿の仲のエジプトでは、なおさら厳しい。特に、今のような準戦時下では。
しかし俺は譲らない。
「今回は、亜空間の中を移動したくないんだ。正規のやり方でいく」
樹は怪訝そうに眉を寄せ、
「まあ、金もあるし、なくても切符くらい取れるが、旅券はどうする」
「パスポートはある」
俺がピッと二通の赤い旅券を取り出して見せると、樹はようやく微笑んだ。
「そういう正規か」
「ああ。そういう正規だ」
旅券を投げてやると、樹は器用に受け取めて、パラ、とはじいた。
「しかし、よく俺の分までつくれたな」
「写真さえあれば、どこの国にもルートはあるからな」
虚勢ではない。単に偽造パスポートをつくるのは難しくない。仙水忍二十四歳の存在は偽造する必要さえないし、樹の分だって、盗難パスポートの写真を、丁寧に貼りかえるだけでいいからだ(注/当時のパスポートがまだ、本人の顔写真をフィルムではる形のものだったため。ただし新しい紺のパスポートであっても、やろうと思えば同じような偽造はできる。旅行中の外国人は、外国で紛失したと大使館に申請すると、昔のものと同じく、フィルムで貼る形になるからだ。それを使えば同様の事はできる)。
樹に頼らなくとも、それくらいの事は一人でできるのだ。
「……忍」
樹はしばらく、自分の旅券をためつすがめつしていたが、妙な顔をしたまま、
「これ、写真を替えただけじゃないじゃないか。名前のところ、仙水樹ってなってるぞ」
「ああ。名前のところも変えてもらったんだ。それがどうかしたか?」
「俺達、同じ名字なのか」
「おかしいか?」
樹は一瞬黙り込んだ。眉を寄せたまま、
「同じ名字でいいのか? 入国審査の時に、親戚だとでも言うのか?」
意外に細かい事を気にする。俺は笑って、
「なに、兄弟だとでも思ってくれるだろう」
「この緑の髪と、金の目の色でか?」
「そういう日本人もいると言えば、信じるさ」
「なんだ、そういうつもりなのか」
樹は気の抜けた声を出した。がっかりしたような顔をして、
「俺が女装して、夫婦ですって言う手もあるかと思ったのに。まあ、パスポート名がMR.じゃ、最初から無理か」
思わず俺は苦笑した。
「やめておけ。エジプトでは、外国の女は口説かれまくるぞ」
「口説かれる?」
「ああ。食事でもどう、と言うかわりに、僕と結婚しませんか、と言う国らしいぞ」
エジプトはイスラム教の国で、男女交際には厳しい。しかし現代、結婚を前提としたつきあいには、だいぶ寛容になった。だから、自分と婚約してください、と切り出すのが、《ちょっと遊ばない?》程度の言葉になりさがっている。そのニュアンスを知らないと、特に他国の人間は、かなり愉快な目にあうらしい。
「なるほど」
樹はうなずいた。
「それはそれで面白そうだ」
「遊びたいなら好きにしろ」
言い捨てて俺は旅仕度を始めた。樹も、曖昧な顔のまま自分の仕度をしはじめた。

「……素晴らしい」
眼下に広がる風景に、俺はため息をついた。
高度をあまり出さない小さい飛行機を移動手段に選んだのは正解だった。
飛行機の窓ごしでありながら、それはなんと美しかったろう。
一面、何もないのだ。
あるのは、ただ、熱い砂。
地上は、遮る物が何もないため、強い風が舞っている。赤みがかった砂が吹き散らされて描く流線が、どっと崩れてはまた新たな幾何学模様を描いてゆく。
その中央をつっきって、黒銀色のアスファルトの道が一本、ひたすらまっすぐに伸びている。砂漠の熱気にギラギラと輝いて、細い河のようにさえ見える。
もちろん、道はあっても、人影はない。
高度があるから見えないのではない、真冬でも摂氏三十度を越える場所を徒歩で歩く大馬鹿者はいないからだ。なにしろ、車で走るのさえ危険な場所だ。オーバーヒートやエンジントラブルがあって車が止まった日には、たとえその陰にいても、三時間で死ぬと言われている。いや、問題は日中の脱水症状だけでない、夜の気温変化の凄まじさは、どんなに素早い救援を呼んだとしても致命的である。
しかし。
「地球上で、これ以上美しい景色はないな」
思わず、砂漠の人間に殺されそうな台詞を呟く。
樹が笑った。
「こんなに何にもない光景が? 花も木も動物も好きなくせに」
「そうだな」
しかし、俺は、ひたすらこれが見たかった。
何も考えず、砂漠の熱い空気に包まれ、白い光に焼かれたい。
それだけが、今の願いだった。
飛行機は更に高度を下げた。空港が近くなったらしい。
まずはカイロ。そしてアスワン、ルクソール。
空路でつないでゆっくり巡ろう。
河沿いにひそむゲリラ達にはあえないが、治安の良さを誇るこの国を、高い所から見るのは面白い筈だ。来世のための墓は立派にしながら、現世は泥煉瓦の家で慎ましく暮らす人々を、アラーの恵みとして、取れるものはなんでも取ろうとする商売人と盗賊達を、取らなければ死が待ちうけている人々の群れを、見たかった。
たぶん俺はその時、闘うことに疲れすぎていた。
アラビア半島を覆う、絶え間ない、絶え間ない、絶え間ない紛争。
クウェート侵攻と、それに続く湾岸戦争、その後の膠着状態。
愛国者(patriot)の名を持つミサイルが花火の華麗さで打ち込まれ、多国籍軍などという名の寄せ集めの兵隊達が、ベトナム戦争と同じ過ちと犯罪を繰り返した。
傷つき犯され死んでゆく弱い者。逃げずに戦い続ける、子供、年寄り、女達。
死地をさまよう魂の行方。生まれおちても、死しか約束されない場所。
誇り高くしぶといアラブ、それに群がるヨーロピアンと、その隙をうかがうユダヤ達−−ロレンスのようなカリスマが走り抜けても、なお無駄に争いの起こるような土地を、一時だけ離れたかった。
静かに、何もない場所で、心を休めたかったのだ。
しかし、それは甘すぎる空想だった……。

3.

「……ここへも、来るべきではなかったんだ」
観光客どころか、地元の船も行かない、ナイル中流。
理由は簡単だ。テロが絶えないからである。
軍事的な理由その他で、橋もかけられていないナイルである。
それなのに、樹に言って、影の手を使った。
中州に棲むゲリラ連中に、一応会いにいってみたくてだ。
しかし、話をしていて、彼らの感覚にすぐについていけなくなった。
イスラムでは所詮、女性は子孫を残すためのもの、いや、男の資産の一つにすぎない。他国のゲリラ達は、女性も闘う。ゲリラだけでない、国の軍隊に女性兵士がいる国は多い。前線には出ない事が多いが、男の兵士と一緒に暮らしている。それで特に風紀が乱れるというような事はない。文盲率が九十パーセントといったような荒れた土地の女性兵士達でさえ、近代的な避妊の仕方を知り、実行している。戦闘中に出産する訳にはいかないからだ。
民主的な世界を目指そうとするなら、ここでも女性の権利を考えるべきだ。
しかし、連中は、そんな忍の話を笑った。
「ヨーロッパの人間の方がよっぽど野蛮だ。《ALL IS FAIR IN LOVE AND WAR.(恋と戦争においては何をやっても許される。)》とかなんとか言うんだろう」
「それはそうだが」
生命を維持しようとする本能は否定しない。文明的と言われる国の方が、発展途上の国よりずっと野蛮であることも。
だが、何かが違う。
「俺は、いったい何が厭なんだ?」
自分の中にある、女性の人格の部分が叫んでいるような気がする。
それは確かにそうかもしれないけど、それは厭なの、と。
俺の精神は、深い傷を残したまま、全く癒えていなかったようだ。
「樹」
「ん?」
「どこかの空港へ戻してくれないか」
「わかった」
樹は深くは尋ねなかった。
俺がここで何もなしえないのを、すっかり見切っていたかのように。
すぐに俺達は、近くの町ルクソールへ戻った。
空港の周りには、本当に何もない。小さいオアシスに椰子の木があれば上々という場所である。
首都カイロでさえ、一歩市外へ出れば砂漠の国である。田舎であればなおさら何もない。
陽炎の中に並ぶ軍用機をぼんやり眺めながら、俺達は次の飛行機を待っていた。
ふと、出口ゲートの所で、銃剣をになえていた若い兵隊が、そばに寄ってきた子供に笑顔をむけ、そっと頭を撫でた。
勤務中に子供の相手か、平和な情景だがたるんでいる、と思った。だが、どうやら彼らは親子のようだった。洩れ聞こえてくる会話の断片をつなぎあわせると、子供の方は、母親の具合いがあまりよくないので、できるだけ早く戻って欲しい、と訴えているようだ。若い父親は、なるべく早く戻るから、それまでおまえがしっかり母さんを看ておけ、と言いつける。立派な男の義務として、女を守れと。
少年はうなずき、空港を走りだしてゆく。どこの国の子供もおなじだ。けなげで愛らしい。たとえ、悪ガキの類でさえも。
父親の顔は、もうすっかり曇っていた。温和な笑顔が消えて、黒い肌に憂愁の影がはかれている。
「……どうしたんだい?」
樹が顎をしゃくった。俺は結構長い間、その親子を見つめていたらしい。
「いや、あの兵隊は、俺とたいして違わない歳だろうな、と思っただけだ」
樹は笑った。
「あの年齢で、あんな大きな子がいるのが羨ましいかい?」
「!」
「忍は子供が好きだからなあ。……コウノトリがいつか、忍のところにもくるといいな」
「俺が子供が好きだって?」
この俺が、いつ、この世に子供を送り出すって?
だいたい俺は、肉体的に女に魅かれない。
そこここにいる子供達は嫌いではないが、自分の子供をつくって、この悲惨な世の中におきざりにするなど、考えただけでも真っ平御免だ。
しかし、そんな事を樹に言うつもりはない。薄く笑って返事をする。
「そうだな。……キャベツ畑を探しに行くのもおっくうだ。コウノトリが運んでくるのを、ゆっくり待つとしようか」
その時、一般人用のカイロ行きの飛行機が、空港に降りてきた。
ぞろぞろとゲートを出て行く観光客に混じりながら、俺はさっきの兵士の顔をもう一度見た。
銃を抱えなおした彼の顔は、キリ、と引き締められた無表情になっていた。
文字どおり、兵士の顔だ。
先までの輝いた瞳も、妻と子を思って沈んだ額も、どこにもなかった。
彼だとて、戦場へ駆り出されれば、人間でない存在になる。傷つかない顔で人を殺し、ズタズタになった魂を持って戻って来る。たとえそれが愛する者を守るための戦いだったとしても、決して割り切れない悪夢の記憶を入墨のように刻まれて。
「きっと、俺もあんな顔をしている……」
「何か言ったか?」
樹が振り向いた。その金の瞳に、かすかないたわりの色が混じっている。俺は首を振った。
「なんでもない」
すると樹は足を止め、俺と肩を並べた。
「俺は少し疲れた。カイロに行ったら、ちょっといいホテルをとってもいいか?」
「ああ」
そんな風に慰めてくれるな、とはさすがに言えなかった。
樹に甘えるしかできない自分の状態が哀れで、かえって微笑みさえ洩れた。
「ちょっとじゃなくて、五つ星にしておけ。安宿じゃあ、かえって眠れないぞ」
樹は澄まし顔で、
「眠るつもりなんてないよ。遊びに行くなら、街中から出かける方がいいからね」
「おい、疲れてるんじゃなかったのか?」
「俺が疲れてるのは、砂漠にさ。だって、何もないんだから。いくら何でもすぐに用意できるたって、空気が乾燥しすぎてる。こんな湿気のない国にずっといたら、本当にひからびるぞ。美容にも悪いしな」
「まあ、肌の老化は他の国より早いらしい」
「だろ?」
そんな事を話しながら、冷房が完璧にきいた室内から外へ出た瞬間、俺達は再び熱い風に包まれた。
飛行機までの短い距離でなければ、耐えられない高温に。
「そうだな。……道楽でこんな所まで連れてきて、悪かった」
額に手をかざし、俺は先に立って歩き始めた。
後ろで樹が、小声で何か呟いた。
「別にいいさ。何にもない処だって、……さえいれば」
俺はそれを聞き返さなかった。
聞き取れなくとも、樹が何を言ったかわかっていたからだ。
そして、その言葉さえ実は、今の俺には不快な棘だったからだ。
ホテルに落ち着くまで、言葉をろくに交わさなかった。
そして、挙げ句、奴を追い出したのだ……。

4.

ピンとはったシーツと毛布の海に溺れながら、俺はもがいていた。
明け方の夢は、相変わらずの悪夢だった。
血にまみれて死ぬ子供達の夢。悪どい男達の哄笑。
もう、管をつけられて息もたえだえの子供も、手足のとんだ人々も見たくない。
俺は彼らに、何もしてやれない。
すべての生き物は、確かに弱肉強食だ。恋と戦争は、自分を守るため、種族が生きのびるために、最低限不可欠の要素だ。だから、何をしても、許されてしかるべきの筈だ。
しかし、人間は。
人間だけは、弱肉強食の意味を、はきちがえている――。
「違うんだ……!」
叫びながらようやく目を覚ました時、ベッドの傍らに、黒く長い裳裾をつけ、額でとめる白い顔覆いを垂らした人影がいた。
「あ、起きたか」
「樹」
イスラムの女のような姿で、樹は椅子に座っていた。
どうやら奴は、俺の寝顔をずっとのぞきこんでいたらしい。うなされているのも、全部見ていたのだろう。俺はバツが悪かった。
「いつ来たんだ」
「ちょっと前だ。服も替えられないほど疲れてるんじゃ、起こしちゃ悪いと思って、待ってた」
「待たせてすまなかった。すぐに仕度をしてくる」
俺は、着替えを出してバスルームへ向かった。
シャワーを浴びながら、ふと気付いた。
俺は樹の寝顔を見たことがない、と。
樹は、俺の前で決して無防備に眠らない。二人で並んで眠る時も、俺が眠りにおちるのをじっと待っている。そして、いつも俺より先に起きている。
十年近く一緒にいて、ずっとそうだった。
いじらしい、というべきなのだろう。別に、おしつけがましすぎるという訳でもない。
さっきだって、《うなされてたぞ、どうしたんだ》と言いたそうな顔をしていたが、あえてそれを尋ねなかった。俺に対して適切な思いやりは何かをいつも考え、間合いをはかっているのだ。感謝すべきなのだろう。
水滴を拭き取り、服をつけ、完全に髪を撫で上げてから部屋に戻った。
樹はガイドブックをにらんでいたが、俺を見て顔をあげた。
「行きたい処があるんだ。つきあってくれないか」
珍しい事を言う。
「遺跡か、博物館か? 昼間遊ぶような場所は、カイロ市内にはあまりないぞ」
白茶けた色の古代の発掘品、イスラミック・ブルーの中世のタイル、それなりに目をひくもの、技術的に面白いものはあるが、そんなものに樹が深い興味を示すとは思えない。
「わかってる。だからさ」
樹は、本を置いて立ち上がった。足首までの長い裳裾が揺れる。サンダルを履いた白い足は、女のものより妖艶なニュアンスを醸し出している
俺は口唇を歪めた。
「出かけるのはいいが、その女装だけはやめておけよ」
「ああ。そうする」
樹は妙に素直にうなずき、長袖のTシャツとGパンを出して着替え始めた。
俺はチップ用の小さい紙幣を枕の下にねじこみ、靴をさがして履いた。
「忍の言う通りだったよ」
こちらに背を向けて裳裾を脱ぎながら、樹が呟く。
「なにがだ?」
「昨日の夜、この格好で街を流したら、さんざん口説かれちゃったよ」
Tシャツを被りながらブツブツと、
「本当に凄い国だな。挨拶の次に俺と結婚しないか、だぞ。煙草はどうだ、飲物はどうだ、食事に行こう、踊りに行こう、写真をくれ、君は美しい、どこから来た、住所はどこだ、仕事はなんだ、ホテルはどこに泊まってる……なんておしゃべりなんだろう。ここでは英語は外国語じゃなかったのか? いきなり、君は僕の運命の相手だ、恋人がいたって構うもんか、可能性は俺にもあるだろう、つきあってくれなんて言われたのは、さすがに初めてだ。それとも、外国語だからこそあんな陳腐な台詞が恥ずかしげもなく言えるのか? 夜一人で歩いてるから、不良女だとでも思われたのか。男だっていったら、それでもいいさ、なんて言いやがる」
目に浮かぶようだ。
当たり前だ、樹が一人で歩けば、女の格好をしてなかろうと、物売りや軟派な男でなかろうと、さぞ多くの者が声をかけたに決まっている。身長こそかなりあるが、整った華奢な造作は、どんな女よりも美しい。ぬけるような白い肌も、覆ってもこぼれる碧の髪も、強い光をたたえた金色の瞳も、珍しさだけでなくため息を誘った筈だ。
それが、本来の樹なのだ。
着替え終えた奴は、俺に背を向けたまま、脱いだ服や邪魔な荷物を亜空間へ放りこんでゆく。俺は立ち上がり、ベッドを回った。
「何人に口説かれた」
「一時間で十人くらいか」
まず、平均値だろう。
「それですんだか」
「無理矢理店先へ連れ込んで、おごる奴もいたからな。エジプト煙草を三種類も試した」
「ついていったのか」
声に嫉妬がにじんで、自分で驚いた。相棒の美しさを誇りに思いこそすれ、赤の他人を醜く焼くとは。俺は今なにを言ったんだ、と。
しかし、樹はまるで変わらぬ声で、
「まさか。いくら遊ぶつもりだって、煙草数本やチャイ(茶)二杯で寝るほど、俺も安くないよ」
横顔に浮かぶ表情は、当たり前だろう、そんな連中歯牙にもかけない、という様子だ。
「そうか」
「ああ」
そこで仕度が終わったらしい。薄い色のサングラスをかけ、手をはたいてこちらを振り向く。
「歩きでいいか? バスでもいいんだが」
「どこへ行くんだ」
「市内観光だよ。影の手を使っていいなら、使う」
「面倒だ、影の手で構わない」
「よし」
次の瞬間、俺達二人は、亜空間に落ちていた。
そして、またたく間もなく、黒い鉄柵の中に降り立った。
辺りは、人混みで溢れる公園のような場所だ。子供達がサッカーボールを蹴りあっている。結構うまい。
「……どこなんだ、ここは」
「カイロ動物園。一応、世界中の動物が揃ってて、赤道直下なのに白熊までいるトンデモない動物園てふれこみだよ」
向こうに、見覚えのある、国立大学の白い建物が見える。なるほど、カイロには街のど真ん中に動物園があると聞いていたが、それがここなのか。
「しかし、どうして動物園なんだ」
「うん。別に意味はないけど、ここなら、花も木も動物もあるし、子供も多いし」
「樹……おまえ」
俺は言葉を失った。樹は何かをさがすように辺りをきょろきょろ見回しながら、
「だって忍、毎年夏が近くなると、憂鬱症がひどくなるだろう。気晴らしには、こういうところがいいと思って。……あ、しまった」
額をぽんと一つ打って、
「朝飯どうしよう。売店のですませていいか?」
「……ああ」
景色はその時、さらに美しさをました。
激しい直射日光に照りつけられて、砂漠の埃にまみれながらも、濃い陰影を見せるすべてのものが、胸をうった。
一般の観光客なら絶対手を出さないような朝食をとると、俺達は動物園の中を巡った。
それにしても、閉じ込められた動物の哀れさは、他の動物園の比ではない。なにしろ暑くて仕方がないのだから。
しかし樹は、何か目的があるかのように歩き続け、鳥舎の前で止まった。
「いたよ、忍」
「?」
そこにうずくまっていたのは、大きな羽とくちばしを持つ、くすんだ色の鳥――本物のこうのとりだった。
「ここで、太陽の昇る方へ三回頭を下げて、ムタボールというんだろ?」
それは、ハーフの『隊商』の中のメルヘンだ。魔法でこうのとりになった王様が、元へ戻るためにとなえる有名なまじないだ。樹はなにかと勘違いをしているようだ。
「言って、どうするんだ」
「だってそしたら、自分の子供が授かるんだろう? こうのとりが連れてきてくれるんだろ」
樹の声は、すこぶる真面目だった。
サングラス越しの瞳の表情は読み取れなかったが、口元は笑っている。
どういう、つもりなんだ。
いや。
これが冗談だろうと、本気だろうと、間違いない事が一つだけある。
この男は、俺を愛している、ということだ。
「俺は、子供なんていらない」
「忍」
樹の顔が引き締まる。俺は笑いだした。
「おまえみたいに手のかかる奴がいるのに、その上子供まできたら大変だろう」
どうしようもなくこぼれる笑みを片手で覆いながら、鳥舎の前から歩き出す。
「だいたい、子供が欲しい時には、太陽の昇る方じゃなく、メッカの方を向くんだ」
「え、そうなのか!」
「嘘だ。信じるな」
俺達は、笑いあいながらその場を離れた。

夏の憂鬱は少しく晴れた。
このままずっと一緒にいられるなら、まだ生きられる。おまえがいるなら、他にはなんにもいらない――その時の俺は、まだそんなことを考えていた。それは、単なる幕間の平穏でしか、なかったのだが。

(1996.4脱稿/初出・恋人と時限爆弾『Shadow Moon』1996.5発行)

注:「Shadow Moon」中、王子の歌っている歌は、「vivid colors」L'Arc-en-Cielと「仮面ライダーBlack」の主題歌です。

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