『Self−Defence』
1.
「ナル……?」
その日何故か、マンションの窓辺によって黄昏を見つめている忍は、ナルになっていた。
「……ナル、だよな?」
間違いない。
ただでさえ、白くて細い面ざしが、幼い少女めくものに変わっている。薄い口唇も、小さな鼻梁も、張りつめたような頬も、男の時の忍とさして違いはないのだが、柔らかな印象を醸し出して、別種の美しさを見せている。
いったい、どうしたんだろう。
十年留守をして戻ってきた日本の、この汚い変わり方に、忍はミノルの人格でいることが多かった。理屈で感情まで処理してしまう、あの尖った性格で、自分を鎧い、しっかりと守っていた。
それなのに、今日は珍しく、無防備なナルの状態でいる。
早春の夕暮れの淡い残光に照らされたその横顔は、穏やかだが、とても悲しそうだった。俺は、彼女の側に寄った。
そっと抱きよせて、優しく愛撫したい、と思った。
ナルは、少なくとも俺が好きだ。そう、肌身を許してくれるくらいには。
だから、そんな慰め方をしても、いい筈だ。もし、ナルがいやがらないのなら。俺が、抱きしめたいのなら。
「……ナル」
そう言って腕の中にさらいこもうとした瞬間、彼女は振り返った。
その瞳は、うっすらと涙を浮かべていた。
「樹……」
「ナルちゃん……。何が、あったんだい」
ナルは、小さく首を振った。
「……なんにも」
声も、本当に小さかった。俺は、できるだけ低い、静かな声をつくった。
「……じゃあ、何を、考えてたの」
「つまらない、こと」
ナルは、なんとか微笑もうとして、頬をひきつらせる。
俺は、彼女の脇にすい、と腰を降ろして、
「つまらない、こと?」
「ええ」
ナルは目を伏せ、指先で目の縁を拭った。
「人って、不思議ね。どんなにいいことを目標にしていても、そこに必ず汚い要素がまぎれこんで、駄目にしてしまうんだもの。ずるい人や、悪い人や、足をひっぱる人が必ずあらわれて、滅茶苦茶にしてしまうんだもの。……いいえ、新しく始められる事すべてがみんないいことじゃないし、昔からあるものの良さっていうことも、確かにあるけど、どうして、夢を持った人達の多くは、あんなに悲惨な最期しか、迎えられないのかしら……」
どうやらまた、TVか新聞で、陰惨な事件の幕切れを見てしまったらしい。ミノルであれば、フン、と笑ってすませる所を、ナルはとめどなく泣いてしまう。深く深く傷ついて、悩んでしまう。自分にはまるで関係のないことなのに、自分の胸に穴でも開いてしまったような痛みを訴え、涙を流し続ける。
俺は、ナルの肩に、そっと手を伸ばした。
「そう。……ずいぶんとこわいこと、考えてたんだね」
「樹……」
ナルが、まだ濡れている瞳で、俺を見る。
さて、どこまで聞き出したものか。
適当な言葉をつくろって慰めようとしても、ナルは納得などしない。かといって、根ほり葉ほり何について考えているのか尋ねていくと、なおさら絶望してしまう。体力のある限り、声がでなくなっても哭き続けている彼女を見るのは、いやだ。
すると、彼女は自分から、こう話し始めた。
「あのね。……ミゼル達の国で、また、新しい革命運動が起こったの。そして、沢山の人が、死んだの。死ななくていい人達が、また、沢山、殺されたのよ。……だから私、レジスタンス、嫌い。あんなもの、なくなってしまえばいいと思うわ。命をかけてまでした事が、みんな無駄になってしまうんだもの。ただの騒ぎに、されてしまうんだもの」
ああ。
以前にいた、あの南米の国の事件か。
ミゼルというのは、反政府運動のリーダーだった男だ。忍はそいつの資質の暖かさに憧れていたが、無惨にも彼は、政府の連中に殺されてしまった。相思相愛の恋人と共に、いともたやすく、だ。
その時の忍のショックは、とても大きかった。もっとすさまじい修羅場を見てきた筈なのに、どういう訳か相当に取り乱した。ナルになって泣きだした忍を、俺は抱いた。そうでもしなければ、七人の多重人格全員が崩壊してしまうとでもいいたげに、ナルが俺を求めたからだ。
もし、今、その時の事を思いだしているとしたら、かなり危険な状態だ。
俺は、ナルの肩に置いた手に少しだけ力をこめた。彼女の精神が、どこかにとんでいってしまわないように、しっかりと掴んでおきたかった。
「ナル。……今、とっても辛いかい?」
ナルは、首を振った。
「ううん、大丈夫。……だって、遠い、国の話だもの。私には、関係ない事だもの」
堪えるような顔でそう言うと、俺の肩に、そっと身を寄せてきた。
これは、OKサインだ。
というより、このまま押し倒さなければ、かえってまずいという状態だ。
「……ナル」
「樹」
俺は、彼女の顔を仰むかせ、そのまま口唇を重ねた。
そして、彼女を抱きかかえると、ベッドへ向かった。
この日の忍は珍しく、明け方までナルでいた。
俺は、飽くことなく、ナルの身体の隅々にまで触れた。
ナルはあまり、俺の愛撫を求めなかった。いつもなら激しくせがむ所を、声も出さずにぼんやりしていた。
人形を抱いているような冷たい気持ちが、俺の心を蝕み始めた。
「……ねえ、ナル」
「え……?」
虚ろな瞳が、見返す。
俺は思わず、彼女の両肩を掴みしめた。
「少なくとも、ナルだけは、俺が、好きだよね?」
「……樹」
俺の下で、ナルは、弱々しく微笑んだ。
ナル。――忍の、七分の一の、愛情。
そう、肌身を知ったからといって、すべてが俺の自由になる訳じゃない。俺のものである訳じゃない。たとえナルでさえも、俺の手に入ったという訳じゃない。
こんな風に側にいると、かえって、ヒシ、とそれを感じる。
酷く、寂しい。
ああ。
決して、弱音など吐くまい、と思っていたのに。
しかも、一番ナイーヴなナルに向かって、こんな事を言うなんて。
だが、彼女は、俺の頬にそっと手をのばし、じっと俺を見つめた。
「……樹。七分の一の私で、いいの?」
「ナル……」
引き裂かれた魂――多重人格。
俺は、忍といたこの十年以上の間、この精神の病について、いささかなりとも学んだ。 そして、彼のケースが、かなり特殊なものである事を知った。
普通、多重人格というのは、同じ人間の中にいる互いの性格を知らないものだ。他の人格が何を考え、何をしたか、わからないのだ。だからこその多重人格であり、まわりが混乱したりする。自分の精神を守るための病なのだから、逆にいえば、自覚がないのが当然なのだ。
しかし、少なくとも、忍の場合は、互いの人格の存在は知っている。七人それぞれの名前と気質くらいは知っている。そして、全部は通じあっていないものの、ある程度の意志の疎通ができているらしい。つまり、症状としては軽症なのだ。
だから、忍は、俺が、ナルが好きで、ナルを抱いている事は、おそらく知っている。
それでも俺を遠ざけたりしないのだから、少なくとも、ナルの時くらいは許してやってもいい、と思うくらいは、俺を好きでいてくれるのだろう。
そう、だから、せめてナルが俺を好きでいてくれれば、それでいい。忍が俺を抱きたいと思わなくとも、ナルが俺を少しでも求めてくれるなら、それでいい。
「……じゃあ、ナルは、俺が好きだね?」
ナルは、すうっと目を細めた。
「だから……樹は、七分の一でも、いいの?」
「俺は、ナルが好きだから……七分の一だけでも、いいよ」
次の瞬間、ナルの瞳がキラ、と光った。
そして、恨むような口調で、こう呟いた。
「……忍だって、こうして引き裂かれているのは、辛いのよ」
え?
どういう意味だ?
しかし、次の瞬間、ナルは消えた。
自分の髪をクシャ、と撫であげて、ベッドから立ち上がったのは、ミノルだった。
何もなかったような顔をして、シャワー室へ消えていく彼の背中を、俺は茫然と見送るしかなかった。
引き裂かれている、何が、辛いんだ?
ナルを好きでいることの、何が悪いんだ?
「あ」
俺は、はっとした。
もしかして、忍は七人全部を、俺に愛されたいのだろうか。
いや、全部でなくともいい、ナルだけでなく、俺を、忍を愛していると言え、と思っているのだろうか。
ああ。
もし、そうなのだとしたら。
忍が忍に戻った時、尋ねてみよう。
そして、この愛をすべて告げよう。
引き裂かれているなら、その引き裂かれた全ても、みんな愛しいんだ、と。
その時の俺は完全に舞い上がっていて、忍の屈託を汲む気持ちを、すっかり忘れていた。
それから後、忍の人格は、ぷっつりとあらわれなくなった。
ほぼミノルの状態でいる事が多く、ナルにさえならない。
街を一緒に歩く時も、それとなく様子をうかがっていると、かえって迷惑そうな顔をする。今は側に寄るな、という手まねさえされる。
それでも俺は、少しでも早く忍の本心が聞きたくて、いつもぴったりとついて回った。
忍になる瞬間を捕まえて、何もかも問いただそう、何もかもぶちまけよう、そう思いながら、一緒に歩いた。一緒に起き、一緒に飯を喰い、一緒に眠った。
しかし、忍はなかなかあらわれなかった。
そして、そのあらわれない理由は、やがて、わかった。
「ベンジャミン・ゴムか……これからの季節ものだから、買ってもいいな」
その日、花屋の前で立ちどまった彼は、ヒトシになっていた。
彼が指さしたのは、細かい葉をつけた若いゴムの木だった。二本の細い木がねじれてからみつく形で伸びていた。そういえば、この観葉植物は、こうやって何本もの木がからむ形をよく見る。
「ヒトシ、これ、自然に、こうやって巻くのかい?」
俺がなんの気なしに尋ねると、ヒトシは笑って、
「まさか。わざとからませるんだ。自然にこんな風になる訳は、ないだろう?」
「じゃあ、盆栽みたいに、針金とか、ビニールテープとかで、無理矢理とめるんだ」
それは苦しそうだなあ、と思い、つくづくと若木を見る。
ヒトシはいや、と首を振って、
「そんなものは、使わないよ。葉の多い木だから、枝をねじって、互いにからむようにすると、ちゃんとひっかかるんだ。そうすると、こうやって、互いに巻いていくんだ。そのうち、だんだん幹同士がくっついて、最後には、一つの木になるんだ」
「……ふうん」
ヒトシは葉に手をのばし、その状態をよく見た後、手をひっこめた。
「まあいい。……買うのは、今度にしよう」
「そう」
うなずいて、ヒトシと並んで歩きだしながら、俺は、あ、と声をあげた。
もしかして。
今のは、遠回しな、誘いなのか?
いつも互いに触れ合うようにしていれば、自然にくっついて、一つの木になる、というのは、そういう比喩か?
俺達もそんな風になれる、という意味なのか?
そういえば、さっきの木は、二つの木がねじれ、からんでいた。
「……忍」
「ん?」
忍は、ヒトシの顔のままでこちらを見た。
その顔には、静かな微笑みが浮かんでいる。
「……どうした?」
そうか。
俺はもっと早く自惚れてよかったんだ。
馬鹿だ。
好きでもないのに、一緒に寝てくれる訳などなかった。
俺は、なんて遠まわりをしてきたんだろう。
「忍」
「?」
ヒトシは、きょとんと俺を見つめた。俺は、その向こうにいる忍に、思いをこめて語りかけた。
「……俺も、おまえに、あんな風に枝葉をからめたい。おまえの全てを、包みたい。包み隠しのない全ての忍の人格と、一生、一緒にいたい。……そして、最後には、一つになりたい」
だが、次の瞬間、ヒトシの顔はかき消えた。
でてきたのは、ミノルだった。
そして、非常に不愉快そうな顔で、こう言った。
「ガジュマル、という熱帯の木を、知ってるか?」
「え?」
「いろんなものにじわじわと絡みついて生きる木だ。……俗に、締め殺しの木、ともいう」
ミノルは、俺をにらんでいた。
え?
締め殺しの、木?
「……おまえは、それだ」
そう言い捨てて、彼は先にたって歩きだした。
背中が、完全に俺を拒絶していた。
「……忍」
その時、はっきりわかった。
忍は、俺が、うっとおしいのだ。
彼の精神に、俺の存在は、死にそうなくらい、大きな負担を与えているのだ。
そんな、馬鹿な。
予想だにしなかったショックに打ちのめされて、俺は立ちすくんだ。
しばらく、マンションに、戻れなかった。
戻った後も、俺達の会話は少なく、しても、途切れがちになった。
そして、忍が少しも表にあらわれない日々は、続いた。
2.
裏男の中の亜空間で、身体を丸めて目を閉じる。
キシ、と、胸が痛む音がする。
「苦しい……」
あれからというもの、俺は忍を置いて外へ出ることが多くなった。
雑用やらなにやらの名目もあったが、少し忍と、距離を置いた方がいいかもしれない、と思ったからだ。
そして時々、こうして亜空間に逃げ込んで、泣く。
ここでなら、俺が苦しもうと、泣き叫ぼうと、忍に見られずにすむ。
忍の精神に、あまり負荷をかけずに、すむ。
「忍を助けるつもりでいながら、俺は、すっかりお荷物になってたんだ……」
忍は、俺を、嫌ってはいない。
だが、愛しては、いないのだ。
俺の恋情に、忍はおそらく、ずっとうんざりしていたのだ。だが、長いつきあいもあるし、程度の軽い内は、我慢していた。ベタベタされない分、堪えていたのだ。しかし、繊細な彼の限界を、俺は越えてしまった。
だから、これ以上は、何も許してもらえないだろう。
「俺は、馬鹿だ……」
息が、つまる。
喉の奥に、塊がつかえているようだ。
「忍……」
銀色のスクラップが、いくつもいくつも、亜空間を流れていく。この青いインクを流したような薄闇の中を、弱い光を放ちながら、星のように墜ちていく。
「……樹」
柔らかな声がして、俺の肩に触れる手があった。
「え?」
馬鹿な。
この亜空間の中に、入ってこられる者など、そうそういない筈だ。
同じ闇撫であっても、自分の飼う裏男の中以外には、簡単には入ってこられない筈なのに。
「誰だ!」
「忘れたのか? 俺だ」
「おまえ……ユラ、か」
そこに立っていたのは、由良――黒魔装束をつけた妖怪、諡辺(おくりべ)の由良だった。
すっきりと伸びた上背。黒くて長い髪。引き締まった白い頬。
細い瞳をなおさら細めて、俺に笑いかける。
「そう。由良だ」
諡辺の、由良。
諡辺は、死者の魂を喰らう妖怪だ。死にかけている人間を騙し、霊界へ連れていくふりをして、魔界へ引きずり込む。ほぼ人間と同じ容姿で、攻撃力もさほどないが、めくらましをかける能力が強いため、滅多に他の妖怪にやられる事はない。
そのうえ、諡辺は、どんな結界でも破る事ができる。闇撫のつくる亜空間に、自分で望んで入ってこられる、数少ない魔物だ。しかも、いったん他人の亜空間に入ると、そこの主であっても、自分が支配者になりかわり、動けなくしてしまえる。由良は、若い頃から力の強い方で、死人の魂をいくらでも、欲しいままにすすっていた。
「……樹」
由良は、俺の身体に、すい、と手を回してきた。
「久しぶりだな。んん?」
その手つきには、あからさまに挑発の意志があった。
俺の情欲を煽るように、身体を押し付けてくる。
「よせ。……やめろ」
あまり唐突だったので、由良がふざけているのだ、と思った。俺は身体をねじって、なんとか逃れようとした。
しかし由良は、俺を放そうとはしなかった。
「樹……欲しい……」
耳に吹き込まれる、熱い息。
俺は、口唇を噛んで、うめいた。
「待て。やめろ……昔の事だろう」
しかし、由良の手は、バネのような身体は、休まず俺にからみついてくる。
「昔の事じゃないさ。おまえも、俺を欲しがっている筈だ」
「そんな事は、ない……」
俺が首を振ると、その顎を捕らえられた。
「だが、おまえ、反応してるぞ」
そう言って、足の間に触れる。
確かに、俺の身体は熱くなっていた。
だが、その気にならなくとも、身体だけが性的な反応を引き起こす時もある。今、俺は誰かと抱きあいたくなかった。他の時ならともかく、そっとしておいてもらいたかった。
「やめてくれ……頼む」
俺の哀願も空しく、薄い微笑を含んだまま、由良は俺の身体をもてあそび続ける。
「や……め……うっ」
慣れた手つきが、俺の身体の緊張を高めていく。足の間に這い込んだ手が、深い快楽を引きずり出してくる。何度も鋭く貫かれ、激しく揺さぶられ……いつしか俺は、忍の名を呼びながら、すすり泣いていた。
「ふ……忍……しの……ぶ!」
由良の広い胸が、白い額に垂れかかる黒髪が、何故か忍に重なって見えた瞬間、俺はガクリと意識を失った。
俺が由良に出会ったのは、いったいどのくらい昔の事か。
まだ、うんと若い頃だった。
いろんな連中に、やむを得ず媚びを売っていた時期の事だ。
誰かの関心を一時買って、その場その場の慰めにする――それが、闇撫の普通の成長の仕方だ。俺達の種族は、個体数が少なく群れることもなく、親に育てられることもない。だから、一人で生きられるようになるまで、誰かに取りついて暮らす。主に亜空間移動の技術と引きかえに養ってもらうが、俺は、他の妖怪にくらべて比較的見目がよかったらしく、愛想をふりまくだけでかなりチヤホヤされた。相手はよりどりみどりで、飽きたらいつでも変える事ができた。
由良にあったその日も、前の相手を捨てて、新しく取りつく相手を物色していた。
「お?」
自分とさして変わらないくらい若い妖怪が、木々の間を恐ろしい勢いで飛んでいくのを、俺は見た。しかもそれは、妖力を使っての事でなく、ただ自分の肉体のみを使っていた。
「すごい、とぶな、あいつ……」
ぼんやりと見とれていると、いきなり奴は、俺の亜空間に飛び込んできた。
「……ふん。おまえが樹か。噂ほど小綺麗でもないが、まあ、並だな」
「何者だ、おまえ!」
「由良だ。諡辺――他の術者がつくった結界を、支配することができる」
俺は慌てた。
たとえ力は弱くても、亜空間の中は絶対安全――それだけが俺の武器だ。それなのに、こんなにたやすく結界を破られては、どうしようもない。
しまった、殺される、と思った。
言葉を失い、その場にへたりこんだ。
だが、奴は手を差しだして、すっと俺を引き起こした。
「……おまえ、しばらく俺と組まないか?」
「おまえと、組む?」
俺は、首をひねった。
諡辺は普通、ハイエナのような力の性質上、攻撃力の強い妖怪と組む。逃げが専門の俺と組む理由は、まずない。しかし、由良は俺の疑問を見透かしたように笑って、
「俺は、誰かの後ろにいるのは厭なんだ。だが、後ろをガラ空きにするのも不用心だからな」
「俺なんかに、後ろを守れっていうのか?」
目をしばたかせて見つめると、由良はくるりと背を向けた。
「まあ、まさかの時の保険がわりだ。……ついてこい。結構いい目をみさせてやるぞ」
由良の言ったことは、嘘ではなかった。
俺は、かなりな体験をすることができた。
魔界での暮らしは、実は退屈だ。あまり変化がないからだ。しかも、うまい飯だの酒だの高価な金銀財宝だのに、俺はほとんど興味がなかった。誰かをからかったり、気をひいたりすることが一番楽しかった。
それを知ってか知らずか、由良はよく、俺を人間界へ連れていった。人間の欲望は、妖怪のものより複雑怪奇で面白い。由良は、弱った人間の気持ちを操って、連中の惨劇の度合いを増した。そして、より多くの魂をむさぼり吸った。
彼は時に、悲鳴をあげさせた人間に、悪魔、と罵られた。
しかし、彼にしてみれば、ただの食事の手段である。何の罪悪感も持たず、魂に冷酷な処理を施していく由良の姿は、痛快ですらあった。
俺は由良の生き方にひかれ、しばらく行動を共にした。
そして、好奇心から、肌身も重ねた。
由良、というのは、天の宝玉が、微かに触れ合う音をあらわすらしい。
確かに、由良と身体を触れ合わせると、リン、と涼しい音が鳴るような気がした。身体の中が、細胞が、澄んでいくような気がした。
しかし、由良はじきに俺に飽きた。
その頃、俺達はもう互いに大人になっていて、一人で生きていかれるだけの何かを、ほぼ身につけていた。
だから、秋に木の葉が落ちるように、俺達はごく自然に別れた。
それから二度と逢わなかった。
すべて、昔の事だ。
「大丈夫か? ……ちょっと、やりすぎたか?」
目覚めた時、由良はまだ側にいた。
そっと、俺の髪に触れてくる。
身体に痛みはなかった。少し眠ったせいか、胸の痛みも、少し和らいでいた。
失神した気恥ずかしさを取り繕うため、俺はできるだけ平然を装った。
「よせ。……これくらい、何ともない」
目配せをすると、シャツの胸元を押さえて、身体を起こす。
「そうか」
由良は、俺をつくづくと見つめる。
気遣うような、優しい瞳で。
思えば由良は、ずっと俺に親切だった。他の妖怪に対するよりも、いつも丁寧に扱ってくれていた。
しかし、俺達は、基本的にはこういう関係ではなかった筈だ。身体を激しく求めあったり、好きだ嫌いだをやった覚えは、なかった。
俺は、由良から顔を背け、わざと憎まれ口を叩いた。
「……それにしても、どうしたんだ、今頃? ガキの頃の仲間を押し倒す程飢えてるってのは、どういう訳だ?」
「馬鹿いえ。おまえが、誘ったんだ」
「なに?」
由良は、相変わらずのさっぱりとした口調で、
「声を殺して、あんまり寂しく泣いてるから、いったい誰だ、と思ったんだ。……おかげで、こんな遠い場所まで、久しぶりに来た」
「そんな……」
俺は、遥か魔界まで聞こえる程、激しく泣いていたのか。
恥ずかしさで、ああ、と顔を覆ってしまいたかった。しかし、由良はごく優しい口調で、
「どうした? 何があった?」
と尋ねてくる。こんな時に親身にしてもらうのは、かえって辛い。俺は、弱々しく首を振った。
「別に、大した事はない」
「……そうか」
由良はす、と視線を反らし、裏男の覗き窓の向こうを見た。
「樹。……また、組んで仕事でもするか」
「えっ」
「……なにしろ、おまえと組んでた頃が、一番面白かったからな。気楽で、なんでも楽しかった」
由良はひどく懐かしそうな声を出す。
俺の心は、少しく揺れた。
楽しかったのは、俺も同じだ。由良とわけあった時間は、俺の中でいまだにある種の輝きを帯びている。
だが今、このまま由良と行く訳にはいかない。俺はうつむき、曖昧な口調で断わろうとした。
「いや、でも、俺には……組んでる相手が、いるから……」
「……ああ」
由良は軽くうなずいて、
「さっき言ってた、忍、って奴か」
瞬間、俺の全身の血はカアッと逆流した。
しまった。
さっき泣かされた時、俺は何度忍の名を呼んだか。
本人の前では決していえない欲望を、あからさまに口にしていた。
すべて、バレてしまっているのだ。
「由良……頼む、忍の事は……」
泳ぐように手を伸ばしてすがろうとすると、由良は苦笑いして、
「おい、情けない顔を、するなよ。……そんなに、奴が怖いか?」
「あ」
俺が思わず手を引っ込めると、由良は肩をすくめて、
「……名前を聞いた事はある。忍ってのは、人間のくせに、恐ろしく強いんだってな。馬鹿な連中がつっかかっていって、全部殺られたっていうじゃないか。よくおまえ、今まで無事に、やってこれたな」
「ああ」
俺は内心、安堵のため息をついた。
この様子では、由良はおそらくわかっていない。
たぶん、俺と忍の間柄が、俺と由良との関係と、さして違わないと思っている。単に忍の力が怖いから組んでいて、それに少しばかり、身体の関係がくっついている、くらいにしかとっていない。
だが、本当の俺は、どんなにだらしない状態でいることか。
この人より美しい者はこの世の何処にもいない、と思い、泣き顔も怒った顔も心底嬉しいと思い、彼の身体の内側に秘めた情熱の炎で、いつかすべて焼き尽くされたいと願っている。
俺は、そういう大馬鹿者だ。
しかし、そんな弱味を由良に知らせる事はない。俺は微笑みを繕って、
「……そうだ。奴は、強い。逆らった日には、一瞬にしてやられるだろう。しかも、かなり気難しいもんだから、今更、他の妖怪と組んだりしたら、どんな目にあわされるか、わからないくらいなんだ」
「そうか。……大変だな、おまえも」
「ああ」
しかし、忍が怖いから従っているのだ、などと口に出してしまうと、それが本当の事のような気がしてきた。その上、由良が単純な同情を示してくるので、俺の気持ちはだいぶ楽になった。
「由良。……俺は、そろそろ、戻るよ」
「そうか。じゃあ、俺も戻ろう」
由良の方が先に、俺に背を向けた。そして、半身だけ振り返り、
「久しぶりに泣かせて、面白かった」
そう言って、消えていった。
「あいつ……」
俺は苦笑して、裏男に命じた。
「……忍の所へ、帰るぞ」と。
3.
しかし、俺と忍の間に一度開いてしまった深い溝は、そんなに簡単に埋まるものではなかった。
互いの目も見交わせない冷たい時間が続き、毎日が苦しかった。
忍と一分一秒も離れていたくない、と思う次の瞬間、忍の負担になるなら、もう顔などあわせなくていい、と思う。
だから、俺はたびたびマンションを飛び出し、街をさまよった。
そして、亜空間で眠った。
時間は、痛みを癒す。一人で静かに過ごす事が、この時の俺には必要だった。
「……忍」
もしかすると、俺達はもう、駄目かもしれない。
そう思っただけで、ツ、と涙が溢れ出した。
「ふふ。……それが、どうしたっていうんだ?」
とっくの昔に、わかっていた。
恋愛の関係は、永遠に結んではいられない。いつか、別れ別れになる日がくる。
そして、俺の本性は、相当に暗く淀み、ねじれている。それを見抜かれ、嫌われて、捨てられる日がくる、と、いつも思っていた。
最後の日がくること――それは、ずっと覚悟してきた。
だから、俺は、忍に捨てられても、平気だ。
生きて、いける。
大丈夫だ。
だのに、今更、俺は何を取り乱している?
できないことを願うのは、もうよせ。
ずっと抱きしめていられたら、とか、何もかも忘れさせたい、とか、苦しめないように完全に保護してやりたい、永遠に一緒にいたい、とか、甘ったるい妄想を抱くのは、もうやめなければ。
俺が一番恐ろしいのは、忍が心を取り繕う事だ。本当に耐え難い時に、俺に対しても笑顔の鎧をつける事だ。
それさえ、なければ。
「……それさえなければ、殺されても、二度と逢えなくなっても、いいんだ」
そう呟いた瞬間、いきなり俺の左後ろで、低い声が響いた。
「だらしが、ないな」
「由良!」
振り向くと、そこに、先日俺をもてあそんだ、黒衣の妖怪がいた。
「……おまえ、何故また、ここにいる!」
すると由良は、うっすらと笑って、俺の顎を捕らえた。
「樹。どうしてそんなに、卑屈になってるんだ? 昔は、相手を骨抜きにするのは、いつもおまえの方だったのに。……らしく、ないぞ」
「よせ!」
俺は思わず、由良の手を振り払った。
すると、由良の顔が、すうっと真面目なものに変わる。
「そうか。……本気、なのか」
次の瞬間、由良は諡辺の能力を使い始めた。
俺は、すぐに少しも身動きできなくなった。
魔界では、力の強さが全てだ。妖力、知力、なんでも相手に勝っていれば、相手のいいなりにならざるを得ない。
そして、由良は、その論理で俺を支配しようとしていた。
「由良……やめろ」
だが、由良は、冷たい視線で見おろしながら、俺の着ているものを、ゆっくり、すべて引き裂き始めた。
「今日も、たっぷり泣いてもらおうか」
「……よせ……頼む」
逃れたいのに、かすれた声しか、出ない。
由良は薄い口唇を歪めて、
「こんな事になるくらい、薄々見当がついていたろう? 逃げたければ、すぐに逃げればよかったんだ。亜空間でなければ、俺の力は大した支配力はないんだからな。ここで眠っていたのは、俺に襲われてもいいっていう、おまえの本心のあわられだ。……本当は、俺にこうされるのが、好きなんだろう?」
「違う……」
「違う、ものか」
そのまま全身を露わにされると、いきなり、グン、と貫かれた。
「……由良……あっ」
その時、由良の声が、変わった。
「……樹」
忍の、声だった。
「!」
由良は、忍の顔で、忍の身体で、忍の声で、俺を犯していた。
錯覚では、ない。
諡辺の能力の一番恐ろしい所……相手の心象風景を見抜き、幻覚を見せ、一番弱い所を責めたてる力を、今、由良は使っていた。
もともと、由良と忍はどことなく似た雰囲気を持っている。
そこを、つかれたのだ。
「樹……好きだ」
忍の瞳が、俺を見つめる。忍の声が、熱い思いを告げる。
俺は、思わず目を閉じた。
「やめてくれ、由良……」
「樹……」
「許してくれ……忍は、そんな事は、言わない……忍のふりだけは、やめてくれ……頼む」
「愛している……樹」
由良の動きは、決してやまなかった。
彼にされるままになるうち、俺の意識はだんだん朦朧としてきた。
幾度となく高みへ突きあげられるうち、俺は、自分を抱いているのが、由良なのか忍なのかわからなくなり、何もかもどうでもよくなってきた。
だって、どうでもいいじゃないか。
俺は、忍の身体だけが欲しいのじゃない。
心も身体も、すべてが欲しいのだ。
だから、他の奴に抱かれる事くらい、逆になんでもない。
そこに、心がないのなら。
それなら、なんでもない。……
そう思いながらも、忍の声で繰り返される囁きに、俺の胸はいつまでも痛んでいた。
由良の気が、どうやらすんだらしい。
ひととおり始末をつけた後、疲れた俺達は、背中あわせに座った。
嵐が通りすぎた後では、由良のぬくもりも、重みも、なんとなく心地よい。
由良が、照れたような声で呟く。
「……それで、そいつのいったい何が、そんなによかったんだ?」
俺は、素直に話し始めた。
こうなったら、みんなぶちまけてしまってもいいだろう、と思ったのだ。
「……最初は、忍が、傷つき汚れ、堕ちていこうとする様を見ているのが、面白かった。自分の魂を守るために、かえって細かく自分の魂を引き裂いていく自虐的な忍が、美しいと思った。人格の入れ替わりを見ているだけで、飽きなかった」
「そこまでは、いつもの樹だな」
由良が笑う。軽い振動が伝わってきて、俺の胸をかすかにきしませる。
「ああ。……だが、すぐにそれは痛みに変わった。いや、本当の事を言えば、見ていることしかできなかったんだ。いや、辛くて、見ていたくはなかった……」
なんてしおらしいことを、と自分でも思う。
しかし、忍が相手となると、本当に俺は変わってしまうのだ。
感情のコントロールが、完全にきかなくなる。
俺は、自嘲の笑みを浮かべながら、
「それに……これは自惚れだが、今でも忍を引き裂いているのは、たぶん俺だ。俺が側にいなければ、おそらくもっと早くに、忍は癒えていた筈だ。互いの人格を認めつつある今、忍は精神のバランスを取り戻そうとしている。それを引きとめているのは、例えば俺とつきあう時に、ナルが必要になるからだ。忍は、本当はひどく優しいんだ。だから、俺が屈託しているのを知ったら、忍も心を痛める。俺は、そうやって、忍を傷つけている。俺は、忍の胸にささった、ささくれみたいなものなんだ。致命的ではないが、俺が腐っていくと同時に、忍の中に毒を流しこんでいく。……そういう、存在なんだ」
「樹……」
由良の背が、ふと離れた。どうやら、こっちを向いたらしい。
俺は由良に背を向けたまま、
「……でも、だから離れればいい、という訳じゃない。忍を思うなら離れた方がいいのかもしれないが、離れていて、取り返しのつかない事になるのだけは、いやだ。……それに、俺は忍から離れたくなかった。たとえ破滅させることになっても、最後まで、一緒に、いたかった」
「そうか」
由良は、俺の首に、するりと両腕を回してきた。
「……そんなに、そいつを、愛しているのか」
俺は、喉の奥で笑った。
「やめてくれ。友情や愛なんて、嘘臭い言葉で言えるような関係じゃない」
「樹」
由良の手が、俺をギュウ、と抱き寄せた。
左頭の後ろで、くぐもった声が響く。
「気の毒に……」
「え?」
「ズタズタなのは、忍の方じゃない。……引き裂かれてるのは、おまえだ」
え?
引き裂かれているのが、俺?
「樹。……そこまで傷つけあえば、もう充分だろう。どうして離れられないんだ?」
「……由良?」
由良の声には、奇妙に切ない響きがあった。
「わかってる。……それでも、どうしても、別れる事が、できないんだろう?」
え?
どうしても、別れる事が、できない?
そんな事は、ない。
忍が、俺に一言、《消えろ!》と言えば、俺は忍の前から消える事ができる。
その覚悟が出来ていなければ、ついてこなかった。
しかし、由良の声は続く。
「仕方がないのかもしれないが、そんなに苦しい思いをしても、まだ、どうしても諦められないなら、せめて、苦しむのだけでもやめろ。そうすれば、互いに楽になる……おまえが変われば、おまえが自分を守れるようになれば、忍って奴も、自分を鎧わなくてすむ……本当に相手を大事にしたいなら、自分も大事にしなけりゃ駄目だ。あんまり悲しい顔をした奴が目の前に立ったら、相手だって驚いて動けなくなるだろう? そういう事を、考えたことが、あるか?」
俺が、変わる?
そうしたら、忍が、楽になる?
俺には、由良の言うことが、よくわからなかった。ひとつため息をついて、
「……それで、忍のために、どうしたらいい、というんだ?」
「はは」
由良は、俺に身体を押し付けたまま、笑った。
「簡単だ。……いつもの、冷静で、余裕たっぷりで、人の悪いおまえでいればいいのさ。本性をそのまま、出してりゃいい」
「ふふ。……そうだな。俺は確かに、そういう男だ」
そう。
そうだった。
俺は賢しく、立ち回りがうまくて憎まれず、他人様の余録にあずかって上手に生きられる、いささか気取った男の筈だった。
それが、こんなに女々しく煮詰まってしまった。
そこが最初の間違いだったらしい。
「ふふ。今更、何を悩んでたんだか……」
思わず苦笑いをすると、由良が俺から手を放して、立ち上がった。
「……そうだな。おまえをこんな風に変えられる男が、俺は、うらやましいが」
「由良?」
由良は背を向けたまま、こう呟いた。
「服を、なんとかしてから帰れよ。……そいつは、相当心配してるだろうからな」
「……ああ」
俺が返事をした瞬間、由良は消えた。
俺は、ゆっくりと仕度をした。
忍の元に、帰ろう。
そして、微笑みかけよう。
いつもの俺になって、また、忍といつまでも暮らそう。
何も、悩むことなんて、ないんだ。
部屋に戻った時、すでに春の日は暮れかけていた。
彼は、窓辺によって、淡い黄昏を見つめていた。
「……忍」
忍、だった。
そこにいたのは、忍だった。
忍で、待っていてくれたのだ。
もちろん、意図しての事ではないだろう。しかし、俺の胸は、キュウッと締めつけられた。さっきの決意も、あった筈の理性も、一瞬で消しとんでしまった。
「……ごめん、忍」
俺の口唇からは、何故か謝罪の言葉しか出てこなかった。
「……ごめん……ごめん……」
俺は、何を謝ろうとしているのか。
他の奴と、寝てきた事か。
知らずにずっと、傷つけてきた事か。
忍だけを好きだ、と、ちゃんと言えなかった事をか。
自分でもよくわからないまま、ただ、ごめん、を繰り返していた。
すると、忍が、一つため息をついて、立ち上がった。
「……訳もなく謝るな。おまえだけが、悪いんじゃない」
「忍」
「俺はもう、自分を憎みたくない。引き裂かれてしまっているからには、多重人格のどれをも、憎みたくない。……それに、おまえも、憎みたくないんだ」
忍の瞳は、怒ってはいなかった。
笑っても、いなかった。
そして、彼の静かな声から伝わってくるのは……誠実な心、だった。
「だから、もう、何も言うな」
「……うん」
そう。
それだけで、いい。
これ以上、何もいらない。
何も……。
(1995.11脱稿/初出・恋人と時限爆弾『Self−Defence』1995.11発行)
『奇跡の手』
「告知……か」
医師、神谷実は、ある患者のレントゲン写真を見つめて、ひとつ小さなため息をついた。
「それにしても、なんて酷い有様だ」
その患者の癌は、全身に転移していた。無事な器官は、ほとんどないと言っていい。こんな末期の患者が、今まで医者にも来ず、入院もせずいたというのが信じられないほどに悪化していた。どんなに頑強な人間でも、もってあと一ヶ月、というところだろう。明日に死んでも、いや、今ここで倒れて昏睡状態になってもおかしくないくらいの病状である。
カルテにペンを走らせながら、彼は首を傾げた。
「……これでは、告知しても、無駄だな」
繁盛している今の大凶病院には、適当なベッドの空きがない。いや、すぐに手術をしても、完全に手遅れだ。どのみち、痛みどめを与えて、帰す事しかできない。しかし、その痛みどめも、生半可な効き目の物では駄目だ。麻薬を渡して、淡い最後の夢を見てもらうしかないだろう。この患者に対して普通の医者が出来る仕事は、それくらいしか、ない。
「……この男、家族は、いるのか?」
保険証に記された年齢は、二六歳。職業は自由業。扶養家族の欄は空白だ。都会へでてきて一人暮し、といった所か。家族はいるのだろうか。いなくとも、恋人か、同居人の類はあるかもしれない。告知をするしないはともかく、知人に挨拶くらいはさせてやらないと気の毒かもしれない。
「気の毒……か」
呟いてみて、神谷医師は、自分の心に本当の同情がないのに気付いた。
「……嘘を、つけ」
どうだって、いい。
これが、彼の本音だった。
この患者が、最後をどう生きようと、どう死のうと、俺には関係ない、と。
俺がすべきことは、患者の前で、医者らしく微笑み、医者らしく病名の宣告を告げ、医者らしく患者を診察室から追い出す事だけだ、と。
しかし、患者にはそれがわかっていない。
医者が、自分の病気をすべてすっかり直してくれると思っている。だから、なんにでも文句をつける。必要以上に甘える。弱さと醜さと愚かさの全てを、さらけだす。
患者にはわかっていない。最終的に身体を直すのは自分自身の力だ。薬でも手術でも医者でもない。自分の意志、自分の生き方が、命を救う。それなのに、少しでも楽をしようとして、あがく。医者を神のように信じ、何も出来ないのを知ると、悪魔であるかのように罵って去っていく。
勝手にしろ、と怒鳴りたい時が、何度あった事か。
俺はおまえ達の愚痴のゴミ溜めじゃない、とうめきたい時が、幾度あった事か。
しかし、もう、そんな熱情も、憎悪も、だいぶ昔に失せた。
俺は、自分が死ぬその日まで、看護婦共に《優しい神谷医師》などとおべんちゃらを言われながら、哀れな患者共に、冷酷な宣告を告げ続けるのだ。
神谷医師は、マイクのスイッチを入れ、次の患者の名を呼んだ。
「仙水さん。……仙水忍さん。中へどうぞ」
次の瞬間、カーテンを開けて入ってきた男は、大きな紙袋を脇の籠に置くと、ニコリと微笑んだ。
見ると、思ったより、普通の青年だった。
髪をぴったりとオールバックに撫でつけた、上下に黒を着た男。身体は確かに相当鍛えられているようだが、あの病巣が引き起こす激しい痛みをいったいどう耐えているのか、繊細なニュアンスを顔に浮かべている。
少し蒼ざめてはいるが、内側から光り輝くような白い肌。みずみずしい張りのある滑らかな頬。少し潤んだ小さい瞳。熱でもあるのか、薄い口唇の微妙な紅の、美しさ。
「……俺は、あと一ヶ月くらいは、持ちますね?」
仙水という男は、いきなりそう呟いた。
そうか。
知って、いるのか。
神谷は納得した。なるほど、この男は、もうすでに、自分の死の宿命を受け入れて、潔く生きようという段階なんだ、と。
こういう時の人間の聖性というのは恐ろしいものがある。超自然の存在を思わせるほど、気高い顔になる。もちろん、全ての人間が皆こうなれる訳ではないが、死の予感によって、かえって生命力を輝かせる人間の業の深さを、彼は思った。
神谷はつい、皮肉めいた笑みを浮かべながら本音を吐いた。
「いや、この進行状態では、普通の人間なら、とっくに墓の中でしょう。あなたは、特別に生命力が強いようだ。そのつもりがあれば、二ヶ月でも、……いや、半年でも生きられるでしょう」
「とっくに、墓の中……」
仙水は、神谷の言葉を繰り返し、そして、不吉な微笑を浮かべた。
すうっと瞳を細めて、医者の瞳を覗き込む。
「それは、そっくりそのまま、貴方に返せる言葉だ。貴方も既に、墓の中にいるようなものだから」
「何……?」
仙水の眼差しに捕らえられた瞬間、神谷は自分が身動きできなくなったのを感じた。
巧みな催眠術にかけられたかのように、指一本、ピクリとも動かせない。
仙水は、続けた。
「貴方は、死にたいと思っている。しかし、自分は人の命を救う医者だ。だから、自殺したりして他人から嘲られたくないし、かといって、くだらない連中に殺されたくもないと思っている。だから、ずっと死ねないでいる」
「ち……」
違う、そんなことを考えてはいない、という抗議の声さえ、でなかった。そして、仙水の言った事は、まったく真実だった。
黒衣の男は、更に続ける。
「貴方は、医者をやめたいと思っている。人の命を救いたい、と思って、医者になった。妻に逃げられ、悪徳開業医などと陰口を叩かれた父のようなヤクザな医者にはなりたくないと思い、ここの病院で一生懸命、ずっと真面目に勤めてきた。しかし、ここの院長の三谷は、貴方の父親以上の悪人だった。助けられる患者を殺し、退院できる患者をいつまでも薬漬けにして閉じ込める医療に、貴方は立ち向かいたかった。しかし、駆け出しの貴方には、大病院のやり方を変えるだけの力などなかった。目の前の患者は、一番良心的で丁寧である筈のあなたの医療を、診察時間がかかりすぎる、だの、頼んでも薬をくれない、だのと非難する。だから、貴方は、医者をやめてしまいたいと思っている。しかし、ここでみすみす大凶病院をやめてしまえば、悪い医師が栄えるばかりだ。……だから、やめられないで、いる」
「違……」
瞬きもできないので、目が乾いて痛んできた。どうして、死んだ親父の事まで知ってるんだ、と神谷の背筋は冷たくなる。油汗が流れでるのを、止められない。
「しかも、ある日、貴方は激しい頭痛と吐き気に襲われ、幻覚を見た。手術が出来なくなるかと思うような、ショッキングでリアルな幻覚だった。本当は、症状を誰かに話し、病院を、少し休みたかった。しかし、そんな事をすれば、神谷センセイはノイローゼでメスを握れない、などという不名誉な噂が立ち、不本意な形でやめさせられる。五年もかけて、ほんの少しの患者とつないできた良い関係も、破壊されてしまう。……だから、誰にも言えなかった。どうやったらひそかに精神科で見てもらえるか、毎晩悩んできた」
「……そうだ」
認めた瞬間、神谷の全身は急に楽になった。
身体が動かせるようになった訳ではないが、苦しさが、圧迫感が、なくなったのだ。そして、思わず、喉から本音が流れでた。
「メスもなにもなしで、手術ができる訳はないのに、あんな幻覚を見るなんて。俺は、医者としてももう駄目なんだ、そうとしか思えなくて、ずっと怖かった」
「……そんなことは、ない」
仙水の笑みが、明るいものに変わった。
「第一、それは、幻覚じゃない。貴方の、能力です」
「能力?」
神谷が眉を寄せると、仙水はすっと左手を差しだした。
「ええ。少しなら、俺にも、ある……ほら」
「え? ……痛っ」
次の瞬間、神谷の左手の薬指の根元が、いきなり紅くなった。誰が触れた訳でもないのに、指輪のように丸く浅く切れて、そこから鮮血が溢れ出す。
仙水は、すかさずその手を取り、流れる血にそっと口づけ、チ、とすすった。
「あっ……」
指の間を、仙水の舌がねっとりと這いまわった。
指全体を口に含まれた時、神谷の全身に、痺れるような震えが走った。
これは、悪寒じゃない、情感だ。間違いなく……性的な快感だ。
仙水は、血の味に満足しているのか、熱い吐息を洩らす。神谷の口唇からは、思わず、掠れたうめき声が洩れた。
「ああ……」
「ふうん、随分と、感じやすい……」
「ああ、駄目だ!」
ようやく口唇を放して微笑んだ仙水に、神谷は猛然と抱きつこうとした。発作的に、自分の血をすすった男の口唇を、奪おうとしていた。
「待て!」
制止されて、神谷ははっと我に帰った。
俺は一体、何をしているのだ。
診察室で、初めてあった人間に、こんな。簡単に籠絡されて、突き放されて。いくら相手がきれいな人間だからといっても、こんなにいともたやすく弄ばれてしまうとは。
しかし、仙水は、意味ありげに笑った。
「そういう意味で、待ったをかけたんじゃない。貴方が自分で傷を塞いでから、と思って……ここであんまり血が流れると、まずい」
神谷は慌てて、とっさに自分の傷を塞いだ。
それは、幻覚でなかった。
彼は、一瞬にして、浅い傷を縫合し、血を止めていた。
何も、使わずに。
自分でしたことなのに、どうしても信じられず、神谷は自分の左手を見つめた。
仙水は、薄く笑った。
「そう。それが、貴方の能力だ。奇跡の手……それが欲しくて、俺は来た」
そう言って、自分から神谷の首にすがりついてきた。
神谷は、ああ、と一瞬息を飲み、仙水を抱きしめた。
「君は、私を殺しに、きてくれたんじゃないのか……死神か、と思った……何もかも見抜いて、迎えにきて、くれたんだと……」
神谷の耳に甘い声が響いた。
「馬鹿な……俺は貴方を殺したりしない。ただ、俺の計画にのってくれるなら、すぐに死ねる。それだけの、事だ。……それを、手伝って、もらえるだろうか」
神谷は、夢中でうなずいた。
「教えてくれ……何でも、する、から……」
「……よかった」
仙水は楽しそうに笑った。神谷の目の端に口唇をあてながら、
「あまり、声を、出さないで。良くしますから、少し、堪えて下さい……」
仙水の口唇は、やはり、血の味がした。
彼の舌も、血の味がした。
そして、その肌からは、死の味が、した。……
その夜も、入魔洞窟の中で、樹は黙々と穴を広げていた。湖の真ん中に浮かべた舟の上で、じっと目を閉じ、一心不乱に念じ続けていた。
忍は、大きな紙袋を持ったまま、ふわりと岸から飛び上がり、樹の待つ小舟の上に、降り立った。
「……待たせたな」
「いや」
樹は、薄く目を開いた。
「あれ。……今日は、何処へ行ってたんだい、忍?」
「うむ……何故だ?」
忍がピクリと眉を上げると、樹は顎をしゃくって、
「それ、手に持ってる紙袋の中身。なんだかパチンコの景品みたいに思えるんだけど、気のせいか?」
「いや」
忍は笑った。
「気のせいじゃない。その通りだ。ミノルが……」
そう言いかけて、ふ、と口をつぐんだ。
忍は、病院の待ち時間にパチンコに行っていたのをうっかり樹に漏らしてしまいそうになり、思わず口唇を噛んでいた。もしかすると、その後秘かにした事まで、この妖怪にバレてしまうかもしれない、と思ったら、言葉に詰まってしまったのだ。
知られたくない、と思った。
しかし樹は、思ったよりのんきな声を出した。
「あれ? ミノル、パチンコ、趣味だったか?」
「いや」
確かに、パチンコをやっていたのはミノルの人格だったが、それは趣味ではない。もちろん、樹に日常雑貨を用意させなくとも、パチンコだけで生活が成り立つだけの腕が、仙水自身にあった。しかし、これは生活のためでもない。実の所、人混みがあまりに辛くて、当座の気晴らしにすらならないのだが、有意義に思える時間潰しをするだけの体力が、彼にはもうなかったのだ。だからこその、自堕落な、ギャンブルだった。
「……俺が、ミノルに、逢ってきたんだ」
「え?」
樹は首を傾げた。忍は、ストンと樹の前に腰を降ろし、
「まあ、俺のしているのは、いつも、ギャンブルみたいなものだからな」
と、苦笑した。樹は肩をすくめて、
「やだなあ、あんまり変な事、言わないでくれよ。俺はいつも、真面目にトンネルを開けてるよ。ギャンブルでやってる訳じゃないぞ」
「そうだな。……悪かった」
忍は笑って、菓子の包みを開き始めた。
そして、思った。
後、一ヶ月。……いや、普通の人間なら、とっくに墓の中、か。
急がなければ、と。
目の前にいるこの妖怪に、いったい何時まで自分の生の秘密を隠しておくべきか。
そんなことを思案しながら、いつまでも静かに、忍は微笑んでいた。
(1995.11脱稿/初出・恋人と時限爆弾『Self−Defence』1995.11)
『十五年後』
それはありがちな、喫茶店での無駄なおしゃべりだった。
若い女のように、二人の女はいつまでも話し続けていた。仕事の合間に、久しぶりに出会った旧友同士なので、話も尽きることがない。二人とも会社は違うが、同じ編集の仕事をしている。そういう同士が共通の悩みを話しあえば、自然、話は長くなるものだ。
ふと、片方が話題を変えた。
「千堂。それで、恋人としてはともかく、編集者として見る分には彼はどうなの?」
「……ああ、あの子?」
千堂、と呼ばれた女の方が、眉を上げて苦笑いした。
「あの子はね、うんと単純よ。筆が少しでも気持ちよく滑ってれば、それでもう御機嫌なの。あとは、ちょっと構ってやって、適当に誉めてやればいいんだから、扱いは凄く楽よ。楽すぎて、やんなっちゃうくらい。吉岡の苦労を、ちょっと分けてもらってもいいくらいにね」
吉岡、と呼ばれた女は笑って、
「馬鹿ね、楽ならその方がいいじゃない。私の担当の海藤なんて、最近、すっかり、鳴かず飛ばずなんだから。三枚書かせるにも、苦労しちゃうのよ」
「それはお気の毒様」
千堂は笑って、
「そういえば、彼も十代でデビューした口だったわよねえ。天才も、二十歳過ぎればタダの人、か」
「やあね、二十歳どころか、海藤はもう三十もとっくに過ぎてるわよ」
吉岡はそこで、ふっと真顔になった。
「それにしても、あの子、って言い方は何よ。あなたのトコ、随分彼で稼がせてもらってるんでしょう。若手作家ったって、もう二六にもなる男に、あの子呼ばわりは失礼なんじゃない?」
千堂は、違う、違うと手を振って、
「四十を越えた女から見りゃ、十六だろうと二六だろうとガキと同じよ。向こうだって私の事、女として見ちゃいないわ。ただのオバサンよ」
「まあ、それはそうだけどねえ」
吉岡は軽く返した。千堂とその作家の恋仲の噂は、かなり広まっているからだ。しかし千堂は知らん顔で、
「そうよ。……それに、本当に子供なのよ、あの子。いまだに、天使が世界を救うなんて話、本気で書いてるんだから。信じてるのよ、この世の中の全ての人間に善性があるって」
吉岡はあら、と首を傾げ、
「だって、基本的に子供向けの本なんだから、そういう話でいいんじゃないの?」
「そうなのよ。でも、なんだか知らないけど、あの甘ったるい話がおじさんおばさんにもウケてるのよね。信じられないわよ、ホント」
「そうねえ」
吉岡は、ふうむ、と反対側に首を傾げて、
「……でもね、実を言うと、私も彼の本、好きなのよね」
「やめてよ、あんな子供騙しのSF」
千堂が肩をすくめると、吉岡は遠い瞳をして、
「彼の書く物って、なんだか不思議なのよ。正義と悪がちゃんと塗りわけてあって。善はちゃんと報われるようになってて。友達や身内が困ってたら、身を挺してかばいなさい、とか、わかりやすい筋立てなのよね。昔懐かしい道徳で、いいわ」
千堂はため息をついて、
「そうね。……懐かしい事は懐かしいわ。アメリカが味方でソ連が敵、だから資本主義が善で共産主義は悪、みたいなわかりやすさがあって。アナクロっていうよりはかえって新しいくらい。手塚治虫の漫画や宮崎駿のアニメみたいな、暑苦しいヒューマニズムなんて、今更正面きって書ける人、他にいないものね。……でも、不思議ってほどの事は、ないんじゃないの?」
「ええ」
吉岡はうなずいて、
「でもね、私達の世代って、勧善懲悪、もう、信じてやしなかったでしょう? それなのに、次の世代が、ああいう世界を書けるのって不思議じゃない?」
そう言いながら、つい、と千堂の瞳を覗き込んだ。
「私達が子供の頃、核戦争が一瞬で世界を滅ぼすってずっと言われてたでしょ。大きくなってからは、環境破壊が世界を滅ぼすって言われてた。人口爆発が起こって、貧しい者、弱い者から犠牲になって、宇宙や海底に放り出されるって予言された。機械文明が発達して、人間の感情が滅びるって言われた。絶望だけ刷りこまれて生きてきた。娯楽である筈の、TVも小説も、夢より現実の惨めさを説いてた。健全さを貫くことは厳しい、正義なんてものはないって、繰り返し教えてた。だから、エンタティメントすべてがつまらなかったわ。異端と正統がごちゃごちゃになって、難解である事が立派みたいな風潮が流行って、ダイナミックな物語がみんな死に絶えてしまって。寂しかったわ」
若者のような情熱で、吉岡はそんな事を言う。千堂は困ったような顔をして、
「でも、難解な物語が生まれてきたのは、複雑な現実の写しでしょう。子供だからって、甘い夢ばかり教えてもね」
吉岡は頬杖をついて、ふむ、とうなずいた。
「まあ、確かに夢だけ与えればいいってものじゃ、ないけどね。……でも、千堂は憧れなかった? 健全なお涙頂戴や、骨太のハッピーエンドの物語が、もっとあっていいのになって思わなかった? 私、編集者になった時ね、もっと面白い物語が、もっと多く世に出ていいのに、って思ったわ。編集者の指示に左右されないくらい、痛快なエンタティメントが産まれて欲しいって思ったわ」
「吉岡……」
「だから、彼の書く物、いいと思うの。どうして、神様や天使が、あんな風に自然に信じられるのかしらって。まるで、見てきたように書くじゃない? 予言者や超能力者を、目の前にした事があるみたいに」
「そう。……あなたも、そう、思うの」
その時急に、千堂の口調が変わった。声をぐっと低くして、
「あのね、実を言うと、彼、小さい頃、目の前で見たんですって」
吉岡は眉を寄せた。
「見た? 何を?」
「だから、天使をよ。……神様というか、超能力者というか、そういう類をよ。この目で本当に見たんだって、言うのよ」
あまり千堂が真面目なので、吉岡は思わず吹き出した。
「さすがにファンタジーを書く人ね。そういう空想力があるなんて、素敵な話だわ」
その瞬間、二人の上から柔らかい声が降ってきた。
「それ、空想じゃないんですよ」
「天沼くん!」
千堂が、驚きの声を上げた。
いつの間にか、一人の青年が、吉岡達の後ろに立っていた。瞳の丸い童顔の、奇妙に痩せたその青年は、二人が槍玉にあげていた作家、天沼月人、その人だった。
「人に話すと、狂人だと思われるか、作家の空想だって笑われるんですけど、僕、十一の頃、天使に逢ったんです。素晴らしい力と翼をもった、天使に」
詩人のような口調でそんな事を言う。
吉岡は思わず微笑んだ。
確かに、この男は可愛らしい。精神の若さがうらやましい程だ。だから、つい会話を楽しみたくなった。
「それで、天沼先生。天使に逢って、どうなさったんですか?」
「僕ですか?」
天沼は、千堂の椅子の脇に、すい、と滑り込んだ。嬉しそうに瞳を輝かせて、
「彼とね、一緒に悪だくみをしましたよ」
「悪だくみ?」
「ええ。……人間を滅ぼして、妖怪や魔物の世の中にしてやろうって言うので、僕も手伝うって約束しましたっけ」
そう言って、ニコニコ笑う。吉岡はあら、と頬に手をあて、
「そうだとすると、それはちょっと物騒な天使ですね。まるで、悪役みたいな」
「ええ。悪役でしたよ」
天沼は事もなげに呟いた。
「……だから、彼は、すぐに死にました。更に力の強い奴に倒されてしまったんです。その時、僕は、悲しかった。僕が本当に一人ぼっちだった時に遊んでくれたのは、彼だけだったから。だから、彼に殺されかけた時もあったけれど、それでも彼が好きでした……本当に」
しみじみとした声音を出す。吉岡はうなずいて、
「それで、天使の話を書き始めた、と?」
一瞬、天沼の顔に、皮肉な笑みが浮かんだ。
「……そうですね。書いていれば、また、彼に逢えるかもしれない、と、そんな風に思った事は、ありますよ。逢って、もう恨んでないって、伝えたいですね」
「……はあ」
吉岡が飲み込みかねていると、青年は脇に抱えていたフロッピーケースを、千堂に渡した。携帯ヴィジスクリーンの電源を入れて、銀色のディスクを押し込む。
「ところでさあ、忍。新作書けたから、ちょっと見てよ」
そう言って、読み取り機械をテーブルに置く。描写から立ち上がった小さなホログラムの天使達が、テーブルの上にもこぼれ落ちる。
「待ってよ。こんな所で?」
「一刻も早く見せたくて、こんな店まで捜しにきたんだよ。いいでしょ、忍?」
千堂はチと舌打ちすると、小さな声で、
「とにかく、人前で忍って呼ばないでよ」
「じゃあ、忍も、天沼くん、じゃなくて、天沼先生って呼んでよ。だいたい、こんなに早く仕上げたんだから、誉めてほしいよなあ」
天沼はそう言って、千堂にしなだれかかる。母親程に年の違う編集者に、すっかり無邪気にじゃれついていた。恋人同士だという噂は、やはり嘘ではないらしい。
吉岡は立ち上がった。
「……じゃ、千堂、ごちそうさま」
「あ、吉岡」
「私も、海藤の原稿、催促しにいかなきゃいけないから。じゃあね。ここの払いはよろしく」
この場をさっさと出ていくのが女の友情、とばかりに、吉岡は店を出た。
千堂はついてこなかった。
どうやら、店の中で、天沼の新作をチェックし始めたらしい。
吉岡は、あらまあ幸せな事で、と一つため息をついた。
「それにしても……天使に逢った、男、か」
そういえば、海藤も以前、吉岡の前で妙な事を口走った時があった。超常現象の話の最中に、俺にも一時、超能力があった、と。言霊を操って、人の魂を取ることが出来た、と。その能力は、しかし封じた、と。余計な力で騒ぎを起こすな、と師匠に諭されたからと。
それは酒の席での話で、とんだ与太に違いないのだが、それは何故か吉岡の心に奇妙に残った。そして、その時の自信たっぷりな海藤の微笑みが、さっきの天沼の無邪気さと、どこか重なって思えるのだった。
「まあ、物書きなんて、頭のネジが一本緩んでるくらいのが傑作を書くんだから、あんなもんでいいのかもしれないわ」
天使が世の中を滅ぼそうが救おうが、それはどちらでもいい。
だが、どちらであっても好きだった、と言いきれる青年がうらましい。
何かを一心に信じられる事、そして、裏切られてもヤケにならないこと、それこそが本当の正義ではないかしら、などと吉岡は思った。
「いやだわ。私も、天沼くんの本に毒されてきたのかしら。……正義、ねえ」
人間は年をとればとるほど、実は純情可憐になる。涙もろくなり、人情話に弱くなる。正義を信じたくなる。純粋なものを崇めたくなる。だからこそ、天沼の書くような古典的な物語が、子供よりも大人に流行るのだ。残念ながら吉岡は、そこまで気付いていなかった。
「不思議ねえ」
そう呟いた時、長髪を淡い木の葉色に染めた優男が、吉岡を追い抜いていった。
「あ、失礼」
男は、子供の手をひきながら、かなりの早さで歩いて行く。
「え、はい……あら?」
その時、気のせいか、吉岡の目には、手を引かれている子供の黒いTシャツの背に、白い羽根が生えたように見えた。
何あれ、服の飾りかしら、と目をこすった次の瞬間、羽根は全部、かき消すように消えていた。ファッションであるとしたら、かなり凄い細工だが、そうとも思えない。彼女は首をひねった。
「……老眼? 私も年かしら?」
「年、じゃないですよ。能力です」
男の声にはっと振り向くと、吉岡の後ろに、天沼が立っていた。
「あの……あの……どうして?」
とっさの事で、言葉が思うようにでないでいると、天沼は笑った。吉岡の意を汲み取って、
「忍が、僕の原稿を社に持って帰ってチェックするって言うから、僕も店を出てきたんです」
「そう……そうなの」
まだ吉岡がどぎまぎしていると、天沼はすい、と彼女と肩を並べ、
「あのね、吉岡さんの能力は、テリトリーが狭いんですよ」
「能力? テリトリー?」
「ええ。自分の力の及ぶ範囲、の事です」
思ったより大人びた、いたわるような笑みを浮かべ、
「その話もいつか書こうと思ってますから、楽しみにしてて下さい。……じゃ」
そういって、大股に歩みさっていった。
「テリトリー……ね」
よくわからないまま、吉岡も歩き出した。
「まあいいわ。どうってこと、ないし。錯覚だろうと、妙な能力だろうと、本人の使い方次第だもの」
世の中、これは白、これは黒、と決めつけなくとも、いくらでも生きていけるものだ。超常現象があろうとなかろうと、是だろうと否だろうと、能力があろうとなかろうと、誰が迷惑する訳でもない。甘い夢を見たければ見ればいいし、厳しい現実と戦いたければ、戦えばいいのだ。それを、人間は、自分の力に応じて選べる筈だ。
「……あんたって、相当健全ね」
「千堂!」
吉岡は、もう一度驚いた。千堂が後ろに迫っていたのだった。今日はよくよく、背後をつかれておどかされる日だ。
「千堂、会社に戻ったんじゃ、なかった?」
「戻るけど。天沼が、知り合いを見かけたって飛び出してったから……ちょっと後を追ってきたのよ」
「そう」
そうか。
きっと、さっきのあの子も、天使の一人、なんだわ。
妙な事をつい考えて、吉岡は自分でおかしくなった。
「天沼くんって、本当に天使と知り合いなのね」
「ええ?」
「あの子そのものが天使に近いのかもしれないけど」
千堂は露骨にイヤな顔をした。この友達はついにトチ狂ったか、という表情だ。やれやれ、とこめかみをこすりながら、
「……まあ、どんな人間も、本当はきれいで、天使みたいなものなのかもしれないけどね。どんな悪党だって、いつまでもやってりゃ、悪事にも飽きるでしょうし」
そう呟いて、どんよりと曇った空を見上げた。
その時、どこから飛んできたのか、雪のひとひらにも似た白い羽毛が、ふわ、と二人の上を流れて行った。
(1995.11脱稿/初出・恋人と時限爆弾『Self−Defence』1995.11発行)
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