『気にしない -- DON'T WORRY, IT'S OK. --』

Written by Margaret Bluewater / Translated by Narihara Akira


1.

「ああ! あんたが例の――ヴィダにレイプされた人」
彼女のルームメイトにいきなりそう浴びせかけられて、ジェニーはその場に凍りついた。
「違……」
違う。
そうじゃない。
あれはレイプでもなんでもない、それに私がヴィを拒否したのは、女だからでもないし嫌いだからでも厭だったからでもない、全く別の事情があったからなのに。
でも、そんな話をおいそれと、他の人には出来ない。ジェニーは懸命に表情をつくろいながら、
「何の話ですか、サンドさん? 私はただ、ヴィダさん――スプリングウェルさんがこちらにお住まいだときいて、訪ねてきただけなんですけど」
声を抑えてそれだけ言った。
戸口に寄りかかって彼女をじろじろ見つめていたルーシール・サンド嬢は、ひとつ大きなため息をついて、
「白とぼけても無駄よ。あんたが自分でジェニー・L・スティーヴンスって名乗ったんじゃないのさ。あたしが何回、あんたの名前をヴィダからきかされたと思ってんの? あの娘はね、あんたと旅行に行く前、毎晩毎晩別人みたいに舞い上がってたのよ。それなのに、帰ってきたら顔をすっかり真っ青にしてさ、ああ大変なことをした、二度とジェニーと顔をあわせられないって大騒ぎでさ。ごめんなさいごめんなさいって死にそうな声で繰り返してるんだもの、ついにやったな、いきなり押し倒したんだなって、どんなニブチンだって気付くわよ。だから忠告しといたのに。本当に相手の気持ちをちゃあんと確かめたのかって。あんたが女を好きだってことを打ち明けても気安くつきあってくれてるからって簡単に有頂天になりなさんな、惚れてるって言われた訳じゃないんでしょ、くどくなら時間をかけてやんなさい、順序を考えて進めなさいよって口酸っぱくして言ったのに」
「だから、そんなことなかったんです、違うんです」
ジェニーは青ざめた顔で繰り返したが、サンドはやれやれと肩をすくめた。
「別に隠さなくたっていいよ。あたしも女好きじゃないもの、友達としては好きだったけど、ヴィダにいきなり抱きつかれたらギャッて驚いたでしょうよ。無理しなさんなって」
好きだった?
どうしてこの人は、過去形でそれをいうの?
ジェニーは嫌な予感にかられて、急いで言葉を継いだ。
「あの、ヴィは――もしかしてここにいないんですか?」
「そうよ」
サンドは当たり前のようにうなずいて、
「旅行から帰ってきた翌日、大急ぎで引っ越してったわ。大きなトランク二つに、身の回りのものを詰めて、ポンと出てっちゃったわよ」
「そんな」
ヴィがここにいないなんて。勇気を出して、やっと会いにきたっていうのに。
ジェニーは更に勢い込んで、
「引っ越し先は? ヴィはいったい何処へ行ったんですか?」
「知らない。教えてくれなかったから。NY市内かそうでないかも判らない」
サンドは紙巻きに火をつけて、フウ、と煙を吐き出した。
「知ってたらね、残していった荷物、全部向こうへ送りつけてやるわよ。あの子、古い本とか箪笥とかの大物、みんな置いてっちゃってさ、あたしも困ってるんだから。新しい同居人にあげて、とか言われてもね、誰だって好みってのがあるでしょう。かといって、全部捨てちゃうのも大変だし。ただでさえいきなり出てかれて、家賃の問題だけで頭が痛いってのに、前の住人の家具だのカーテンだの下がったままじゃ、新しいルームメイトを探すのも一苦労よ、ホント困るわ」
そんな。
じゃあ、私は、どうしたら。
待って。
ヴィは、本当にここにいないのだろうか。
私に会いたくないから、ルームメイトにそれとなくかばってもらっているのではないのか。
ジェニーは薄い笑みを浮かべて慇懃に切り出した。
「もしよろしかったら、彼女の部屋を見せてもらえませんか? 何か行き先のヒントが残っているかもしれないので」
今のがその場限りの嘘であれば中に入れたがるまい、ヴィの物が沢山あるから見せないだろうと思ってそう尋ねたのだが、サンドは小さな携帯用の灰皿にトンと灰を落とすと、あっさりこう答えた。
「見たけりゃどうぞ。ついでにあんたの友達で、ルームメイト探してる人がいたら紹介してよ。こういう部屋でもいいって人をさ。絵描きの部屋だから窓が大きくて明るいって取柄はあんだけど、冬場は寒くて大変でね」
うそぶくサンドに導かれて、ジェニーはヴィの部屋に入った。
かすかに漂う、絵の具をとく油の匂い。
しかし、画材も画布も見あたらない。
本棚の中身は奇妙に欠けて。デスク周りも個人的な情報は残っていない。開けさせてもらったクローゼットの中身も空っぽ。
そして、無惨に抜かれた電話の線。
やはりヴィは、本当に行ってしまったのか。
「どう? なんかヒントはめっかった?」
茫然としているジェニーに、サンドはのんびり声をかけた。
「あんたならなんか面白いものを見つけるかと思ったんだけど……あたし、捜し物が苦手なのよ。他人のものを引っかきまわす趣味もないしね」
ジェニーは首を振った。
「すっかりきれいに片付いていて、何にも。一日で全部片付けてしまったなんて信じられないぐらいで」
サンドは煙草の火を灰皿に押し付けた。
「もともと近々引っ越すつもりだったらしくて、荷物の整理をしてたみたいよ。たぶん、あんたと暮らす日でも夢みてたんじゃない?」
ジェニーは一瞬答に詰まった。目を伏せると、低く呟くように一言、
「……どうもお邪魔しました。失礼します」

ヴィダの部屋を後にしたジェニーの頭の中で、悪い想像と激しい後悔がぐるぐる回り続けていた。
レイプだなんて。
違うのに。全然違うのに。
確かにびっくりしたというのもあった。だけど。
全部をヴィに話したい。考えれば考えるほど何もかも話しづらいけれど、会いたい。
でも、どうしたら。
私だって捜し物は苦手だ。この世で一番苦手なことだといってもいいぐらい。ミステリ小説を読むのも書くのも好きだけれど、実際の失踪人にはお手上げだ。
考えなきゃ。
いっしょうけんめい考えなきゃ。
足早に帰路をたどりながら、ジェニーの思考は続いた。
だって、考えなければ、もう二度とヴィに会えないかもしれないのだから。

2.

いったい世の男共は、どうやったらレイプなんてできるんだろう。
そう呟きかけて、ヴィダは泣きだしそうになった。
狭いのにガランとした薄暗いアパートの部屋。中身を整頓するのが面倒で、開きっぱなしになっている二つのトランク。まだ初秋だというのに、真冬より寒々しいこの光景。
早く新しい勤め先を見つけて、働かなきゃ。昼からこんな馬鹿な考えを考えなくてもすむようにしなきゃ。
そう思いながら、ヴィダの思考は続いていた。
レイプなんて、面白いこと一つもない。少なくとも、好きな相手にはできない筈だわ。惚れた女が本物の悲鳴をあげてるのに、無理強いが出来たらおかしい。ああ忘れられない、この腕の中で、私の下で、死人みたいに硬く冷たくなった貴女。かたくなに身も心も閉ざしているんだとわかった瞬間、私の心も凍りつくようだった。いつまでも無言が続いて。「したくないの?」ときいても、それに答えてもくれなかった。あのまま服を脱がせて続きをやったら、鬼畜よ。
いいえ、あれだけで充分すぎるほど悪いわ。彼女を本当に殺してしまうより悪い。
だからもう、二度と会えない。ジェニー。

どうして私、ジェニーが受け入れてくれると思い込んでたんだろう。ちゃんとステップを踏んだつもりだったから?
最初は書店の店員と客。それから友達になって、一緒に近所の公園でのピクニックや絵画展に出かけるようになって、お互いが絵描きの卵と小説家の卵であることまで打ち明けあって。ここまではOKだった筈。それから充分時間をかけてジェニーの人柄を確かめて、それから打ち明けたんだった、私が女が好きな女なんだってことを。
あの時ジェニーは、ああ、と眉を開いた。
「大丈夫。私、気にしないから(Don't worry, it's OK.)」
告白の第一歩だというのに、あまりに明るく答えられたので、私はそこで口をつぐんでしまった。
あの時ちゃんと確かめておくべきだったのかもしれない。私が貴女を、そういう意味で好きなんだけれど、それでも大丈夫かしら、と。
でも、きけなかった。
貴女の態度が告白前と全然変わらなかったから。屈託なく微笑んでくれたから。だからかえってきけなかった。
だから、あの映画を行った時も、本当に嬉しかった。
「ヴィ、本当のことを言うと、前にこの映画、私、一人で観たことがあるの」
フィルムが半分以上終わった時、隣席の貴女にいきなりそう打ち明けられて私は驚いた。なら、どうして観たいと言った時に反対してくれなかったの、と囁き返した。
すると貴女はこう答えた。
「凄く好きな話なの。二度でも三度でも観たいし、ヴィがせっかく誘ってくれたから。でもね、御免なさい、この映画、これから先の五分か十分先ぐらいに、とても気味の悪い場面があるの。ある青年が自殺するんだけど、そのシーンを観て、前回とっても気持ちが悪くなってしまって、今、それを思いだしたものだから……」
「じゃあ、このまま映画館を出る?」
貴女は首を振った。
「出たくはないの。最後もとても素晴らしい映画だもの。だから、我が儘を言っていい?」
「何?」
「私、その場面の間中、目を閉じているから、終わったら教えてくれないかしら。終わるとパーティーの場面になるわ。そしたら知らせて。でももし、ヴィも気持ち悪くなったら、目をつぶって。知らせてくれなくていい」
「わかったわ。たぶん大丈夫だから、安心して」
すると貴女は目を閉じた。それから、私の膝にそうっと上半身をもたせかけてきて、
「ヴィ。……こうしていても、いい?」
その重みと温もりから、安心と信頼感が伝わってくる。
「ええ、いいわ」
そう答えて、私は貴女の背を静かに撫でた。
貴女はじいっと、それに黙って身をまかせて。
その瞬間、熱い風が胸の奥を吹き抜けた。この人は私に触れても、私に触れられても厭でないのだ、そう思った瞬間の、身体がはちきれそうな喜び。この人は、私が女を好きだと知っていて、これをさせている。
脈がある。
画面では、自分の過去に苦しみぬいた青年がついに投身自殺を遂げて、大量の血を流しながら断末魔を演じていた。確かに気持ちのいい場面ではなかったけれど、私はそれを凝視していた。終わったらジェニーに知らせるという、重大な使命に燃えて。
例えばあの時、貴女の気持ちをちゃんと確認をすべきだったのかしら。
でも、あの場面が終わった時、そっと肩を叩いて知らせてあげると、ゆっくり身を起こして「有難う」と囁いた貴女の頬には少し赤みがさしていて、暗い中でもあまりに美しかった。瞳の輝きもいつもと違っていて、私の気持ちを知っていて試そうとしたのだ、誘惑しようとしたのだとさえ思えた。何も尋ねる必要はないと思った。
なんて、思いあがり。
でも、私がニューアーク行きを切り出した時の、あの時の貴女だって。
「たまには外で一泊して、女二人でのんびりホテルで贅沢しない? ニューアークに素敵なホテルが新しく出来たらしいの、ドライブがてら行ってみない?」
そう持ちかけた時、泊まりがけならニューアークなんて近すぎるわ、たいして見るものもないし、車はどうするの、それよりいつものピクニックをやりましょうよ、それでもゆっくり話が出来るわ、などと言われやしないかとヒヤヒヤした。
でも、貴女は手を打って喜んで、
「いいわね、たまには。ヴィと泊まりがけなんて初めてよね、嬉しいわ、どの週末にする?必ず空けておくわ」
何のためらいもなく答えてくれた。
だから私は、あの晩、貴女を抱きすくめた。
本当は、「好き」とちゃんと言ってから、と思ったけれど、どうしてもうまく言えなくて、言葉より先に抱きしめてしまった。それでも「優しくするから」と囁いてベッドへもつれこめば、なんとかなると思ってた。
でも、貴女は悲鳴を上げた。「厭」と言った。しかも激しく抵抗してくれたならまだしも、すぐにカチンコチンになってしまった。お芝居の死人なんかよりもずっと早く、生きているものの動きを止めてしまった。
だから、それより先、何もできはしなかった。してもいいことが何一つないことを無理にするほど、私も馬鹿でないつもりだった。
でも、辛かった。
いや、一番辛かったのは翌日の夕方だった。
私達は前の晩に何もなかったような顔でホテルの朝食をとった。そして軽くあたりをドライブしてNYに戻ってきた。別れ際、車から降りた貴女はぽつりと言った。
「あの……私、気にしてないから(Don't worry, it's OK.)」
最悪だった。
ショックだった。何もかもが。
気にしないって言葉が、あんなに辛いものだなんて知らなかった。
つまり、何もかも私の一人合点だったのだ。
私、馬鹿だわ。貴女の言葉を眼差しを仕草を、すべて良くとろう良くとろうとして。
あの人はただ正義感の強い人だから、だから私にも優しかっただけ。誰にでも公平でありたいと考える人だから、私の発言にひるまなかっただけ。いきなり抱きすくめられても、自分に隙があったからああなったのだ、あなたのせいではないわ、と言いたかったのだろう。
私、馬鹿だわ。
貴女のそういう、つとめて正義であろうとするところが好きだったのに、それを忘れて喜んでいて。
だから、もう会えない。やり直すこともできない。
もっと時間をかけて、ゆっくり話をしていたら、ちゃんと心を打ち明けて誠実に付き合いを続けていたら、いつかそういう二人になれたかしら。ううん、駄目なら恋人同士になれなくても良かった。せめてずっといい友達でいたかった。
美しい、ジェニー。
貴女の栗色の髪をほどいて一晩中触っていたい、そういつも願っていた。そっと抱きしめて眠りたいと思っていた。
でも、もう駄目。
私は馬鹿で臆病者。こんな風に、逃げ出す準備だけして。初めての恋でもないのに、ううん、初めての恋でないからこそ、貴女が好きでたまらなかったからこそ、怖くって本当に逃げだして。
でもたぶん、私に二度と会わなかったら、あの晩のことは忘れてくれる。きっと。たぶん。
せめてジェニーが、あの晩のことであまり長く不快な思いをしていませんように。早く忘れて、新しい友達や恋人を見つけて楽しく暮らしていてくれたら、それだけでいいから。
ジェニー。
お願い。ほんの少しでいいから、今は幸せでいて。

3.

「……後はもう、人捜しのプロに頼むしかないのかしら」
ジェニーはその夜、自室のタイプの前で頭を抱え、薄茶の瞳を潤ませていた。十日ほどの調査行に、彼女は疲れ果てていた。
ヴィはアパートに戻ってきた様子もなく、念のためにサンドに尋ねても全く無駄。
彼女がつとめていた書店の同僚や店長に尋ねてみたが、向こうも唐突に止められて困っているとしか答えてくれない。当然、誰も行く先を知らない。
彼女が夜通っていたデザイン・スクールへも行ってみた。ここでは策を弄して、私はヴィの田舎の姉ですが、久しぶりに妹を尋ねてきたら引っ越していて困っています、新しい住所を教えていただけませんか、などと鷹揚に切り出した。
すると親切な受付嬢は、ためらいもなく学生名簿をめくってくれた。だが、すぐに首を傾げて、
「お尋ねのヴィクトリア・W・スプリングウェルさんですが、現在こちらには休学届けが出ていますね。残念ですが、電話や住所の変更届けは出されていません」
バッター・アウト、ゲーム・セット。
ジェニーの思考は宙をさまよい続ける。タイプ用紙の上に、Vとiの文字があてどなくペタペタ打たれていく。
手がかりが少しあったとしても、ヴィは見つからないかもしれない。引っ越したといっても、定住しているとは限らないのだ。トランクを持っていったきりだ、もしかして安いホテルを転々としている可能性だってある。NYの家賃は高いし人口密度も高い、適当な引っ越し先をすみやかに見つけるのは困難だ。ホテルを捜索するのは、アパートのそれよりも更に難しいだろう。
プロに頼めば彼女の行方もすぐに判るのかもしれない。だが、ちゃんと捜してくれるだろうか。いんちきな探偵も多くいる。また、盗聴とか尾行とかダウジングとか(以前見たTV番組で、犬猫を捜すのに振り子を揺らして調べている怪しげな探偵が出てきた)、そういうイヤらしい方法を彼女に使われるのは嫌だ。それに、彼女の失踪の理由に心当たりはないかと問われた時、私は答える自信がない。私がどうしてヴィダを見つけたいのかも。調査員に嘘をつくのか? それも嫌だ。
でも、彼女にさえ、あの日の事情をうまく話せる自信が、まだないのに。

ニューアークへのドライブは、当日の朝まで本当に楽しみな計画だった。ヴィが泊まりの話をを切り出した時、一日以上ゆっくり彼女と話が出来るのを幸せに思ったし、実はかすかな期待さえ抱いていた。
というのは、ヴィには話していなかったが、ジェニーは大学の頃、美しいブロンドの女性と恋仲になったことがあったのだ。結局別れてしまったけれど、それは大事な思い出となった。その時寄せられた情熱は、今でも懐かしいという気持ち以上のものだ。だからヴィが「私、女性が好きなの」と切り出した時も、少しも厭な気はしなかった。それに、映画館で気分が悪くなってヴィの膝に寄り添った時、ヴィは本当に優しくジェニーを撫でてくれた。慈しむ、という言葉そのままに。その心地よさに、この人の愛があれば、この人の腕の中でなら、自分の無意識を縛る鎖を、深い屈託を解き放つことができるかもしれない、とジェニーは思った。
そうでなくとも、ジェニーはヴィに解き放たれていた。三歳年少の彼女と知り合ってからの三年の間、ジェニーは大きく塗りかえられていた。だってヴィはジェニーの話に、いつも辛抱強く耳を傾けてくれた。どんなにつまらない習作小説を書いても、黙って読んで適切な批評を与えてくれた。ただ甘やかすだけでなく、高いモラルで諭してくれた。それからヴィは、自分の瞳に見える単色単調な世界しか知らないジェニーに、世界には色がついているのだということ、時にそれはパステルカラーだしドギツイ油絵の具いろであること、そして目に見えないものさえも、人は芸術の形で表せるのだということを教えてくれた。ヴィのおかげで、ジェニーの世界は何倍にもふくらんだ。人の心や情感というものが肌身に染みとおるようになった。ジェニーが派遣社員と投稿作家の二足のわらじを履き続け、とあるミステリ専門誌での連載契約をかち取れたのは、ほとんどヴィのおかげと思っていい。
だから彼女と新しい情熱を育めるというなら、怖いことなど何もなかった。もしヴィが本気ならば、この旅行でそういう関係になってもいいと思った。だから、出かける直前のあの事さえなければ、せめてあんなに醜いしりぞけ方をしなくて済んだ筈だった。

「スティーヴンスさん」
あの日、ジェニーの仕事は早めに終わった。というか土曜で休日出勤だったので、自分のペースで仕事が進められたのである。これでもヴィとの約束の時間には充分間に合う、と片付けを始めた途端、後ろから低い声をかけられた。
「あ、レッドさん。今日もお仕事だったんですね。ご苦労様です」
レッド・ディキンソンは、今時の会社に珍しい使い走りの男だった。平日は他の社員の雑用を頼まれ、休日は警備員のようなことをしている。中年の男がする仕事でないので、職場ではひどく低く見られていた。無口な上、妙な宗教にこっていて人づきあいが良くない。会社の偉い人の昔の知人で、お情けで雇ってもらっているらしいという噂もあった。なので《ディック(奴)》などというあだ名で呼ばれ、何かにつけ冷たく疎外されていた。
ジェニーはだが、彼をディックとは呼ばなかった。彼がレッド、と名前で呼んで欲しいというのでそう呼ぶ。ここの会社が長いとはいえ、しょせん彼女も派遣社員、一種孤独な存在である。レッドは多少気がきかないにしろ、頼んだお使いは間違いなくやってくれる。奥さんと早くに死に別れて、年頃の娘を一人で育てているなどという打ち明け話をきくと、同情の気持ちも湧く。少なくとも、彼に悪い感情は持ち合わせていなかった。
だからこの日、レッドの表情が妙に曇っているのに、浮かれていたジェニーは少しも気付かなかった。
「土曜も仕事なんて大変だ。それに、つまらないタイプ打ちなんか、スティーヴンスさんがやるような仕事じゃないよ」
ジェニーは朗らかに笑い返した。
「テンプ(派遣社員)の仕事は面白いですよ。テープおこしのタイプ打ちも楽しいです。いろんな方の口調を真似て書くのも楽しいですし、いろんな文書を読むのもいい社会勉強になります。ちょっと肩は凝りますけど」
「いいや」
レッドは彼女ににじりよってきた。
「スティーヴンスさんは立派な小説家だ。今度また、例の雑誌に載るんだよねえ、そういう人がこんな処で時間を潰してちゃ駄目だ。大体こんな、人でなしばかりがいるような会社は駄目だ」
「そんなことないですよ」
「でも、雑誌にどんどん書くようになって、契約が切れたら、ここをよすんだろう」
「そうですね、いずれはそうなるだろうと思います。今度『ミステリ・サプリメント』が一年書かせてくれるらしいので、昼の仕事がどうしてもきつくなったら……」
言いかけて、ジェニーは先の言葉をのんだ。
一瞬、何が起こったかわからなかった。
きつくかたく抱きしめられて息苦しい。いつも小さく縮こまっているレッドの力が、こんなにも強いとは思わなかった。信じられない。まして、こんな風に硬い下半身を押し付けてくるなんて。
ジェニーはもがいた。もがき続けた。言葉が出ない。何をどう言っていいかわからない。
「俺は真面目な男なんだ、ジェニー。幸せにするから。幸せにするから」
レッドはふざけているのではなかった。しかしこの場でこの台詞はない。ジェニーの中に強い拒絶の気持ちが沸き上がった。
「私をどうするつもり!」
「したいんだ。させてくれ」
「やめて!」
やっとの思いでレッドをもぎはなすと、ジェニーはオフィスを飛び出した。
どうして? 何故? 私に隙があったの? レッドが私を好きだなんて全然知らなかった。愛の言葉を捧げられたこともなかった。それなのに、いきなりオフィスで無理強いに犯そうとするなんて。ちょうど二人きりだったから? 私は彼に親切にし過ぎたの? 誤解を受けるようなことをしたの? 慣れ慣れしくあんな無礼を働かれるようなことを?
混乱と嫌悪で胸がいっぱいだった。
ヴィとの約束の刻限が近づいているというのに。
彼女に話す事ではない、いや、話してはいけない。何にもなかった顔をして出かけなければ。それにきっと、ヴィに会えば落ち着くだろう。大丈夫。彼女と話したら楽しくなる。あんなことはすっかり忘れられる。だって何もなかったんだから。週明けの出勤を考えると気が重いけれど、レッドと二人きりにならなければ大丈夫な筈。彼もそんなに愚かではないだろう、時間をおいて話せばあんな熱はすぐに落ち着くだろう。
そう考えて、そのままドライブに出かけたのだった。
それなのに、あのていたらく。

今も考え続けている。
彼女にレッドのことを話すべきだったのではないかと。
もし打ち明けていたら、お互いあまりいい気持ちになれなかったろう。旅行が台無しになったかもしれない。でも、ちゃんと話をしたなら、嫌な思いをしたのね、とヴィは慰めてくれたかもしれない。少なくとも夜、あんな風にいきなり抱きすくめられることはなかったろう。
待ち合わせの場所に来たヴィは、礼儀正しい、いつもの彼女だった。むしろ常より屈託なく見え、ドライブ中も何度も朗らかな笑い声がきけて、二人きりの旅行に多少身構えていた自分が恥ずかしくなる程だった。だから安心していた。夜が更けて、ふと会話が途切れたあの瞬間まで。
「イヤ!」
きつく抱きしめられベッドに押し伏された時、私は悲鳴をあげていた。怖かった。薄闇の中でひかる彼女の瞳が、昼間のレッドの瞳と重なって見えたのだ。
悪寒と恐怖で全身が強張った。
ヴィが私の身体を目当てでつきあっていたなどと、その時までは露ほども思っていなかった。それなのに、私はヴィをひどく不潔に感じた。喉が乾いて声が出ず、こんなの違う、私の好きなヴィじゃない、とかたくなに拒み続けた。
何も恐れる必要はない筈だった。私はレッドをちゃんとはねのけた。無事に逃げおおせた。ヴィとの旅行は楽しくて、私はヴィがとても好きで、レッドのことは彼女に全く関係ないことだ。
でも、どうしても怖かった。恐怖は言葉を奪い、説明をする勇気を奪った。
その結果が――彼女の失踪。

顔をあわせづらい、話しづらいと思っても、せめて電話の一本もいれるべきだった。アパートを訪ねるまで、一週間も迷っているべきではなかった。でも、何をどう話したらいいのかどうしてもわからなかった。誤解されて当然だと思うけど、あなたが嫌いで拒絶したんじゃないの、好きだからこそうまく言えなかったの、他の時ならもっとちゃんと言えた筈なの、と告白の決意を固めた時には、すでに手遅れだったのだ。
でも、だから、これっきりなの?
もう駄目なの? お別れなの? やり直せないの?
そんなの嫌。
最初からもう一度、あなたとやり直したい。
できるだけ早くヴィに会いたい。会って謝りたい。彼女が私のことで傷ついている時間が、なるべく短くなるように。
こんな時、推理小説の手法は役たたずだ。誰が誰をどんな方法で殺したってそんなのはどうでもいいことだ、なによりも大事なのは生きている者、生きている者が幸せになることだ。
どうしたらいいの?
彼女と再会できる方法は、ないの?
「……一か八か、あれを試してみようかしら」
駄目で元々だ。足で捜せないのなら、プロを頼むのが嫌なら、自分の頭と友人を使うしかない。
ジェニーはタイプ用紙を引き抜いた。ヴィの名前を打ち続けた紙の裏に、奇妙な台詞を書き出した。
《私、NYデザイン・スクールのジョアン・ノウバディと申します。スプリングウェルさんの休学中、カリキュラムの変更が行われることになりましたので、その詳しい御案内をお送りしたいのですが、新しい御住所の方を教えていただけませんでしょうか》
「こんな感じでいいかしら」
彼女の電話は部屋からなくなっていた。電話機と番号は別物だが、学校に住所の変更届けを出していないということは、番号をそのまま引っ越し先で使っている可能性もある。私がかけたら切られるだろうが、知人に芝居をしてもらえば、ヴィを騙せるかもしれない。
ジェニーはアドレス帳を取り出した。
「もし、彼女が田舎に帰っていないのなら、まだ絵に未練を持っているのなら、単純な手だけどうまく行く筈」
そう呟いて、芝居っ気のある友人を吟味しはじめた。
その窓の外にはもう、早い冬が忍び寄って。

4.

「ふう」
新入荷の本を平積みにし終えて、ヴィダはほつれた黒髪をかきあげた。
疲れる。本屋の仕事は重労働だ。ガムシャラに働こうと思えばいくらでも働ける職場なのだ。以前勤めていた書店と同程度の規模の店だが、覚えることも多くて楽ではない。だが、仕事が見つかって本当に良かった。忙しいのも有難いことだった。
身体を動かしていないと、どうしても考えてしまう。
ジェニーのことを。
彼女はどうしているだろう。落ち着いた生活を送っているかしら。新しい友人や恋人が出来て、楽しく過ごしているかしら。
やはり本屋で働くべきではなかったかもしれない。思い出してしまう。彼女と知り合ったのも本屋なのだから。

出会った頃のジェニーは、面白い客だった。お得意様というのではないけれど、すぐにヴィダの目を奪った。
「……変わった、ひと」
本屋に入ってきて、いろいろな本を眺めてゆく客は、実はあまり多くない。まず一定の棚しか利用しないものだ。しかしジェニーは興味の方向が雑多だった。会社帰りらしく、いつも決まった時間に飛び込んでくるのだが、その度に違う棚へ行く。童話やジュブナイルを開く、拳銃の本や戦記も開く、絵画や音楽の雑誌、園芸や旅行や車やコンピュータや宇宙の本、何でも面白そうに読みふける。あげく、俗悪な犯罪実話と高級文芸誌を一緒にレジへ持ってくるようなことも度々。
いったいどういう人かしら、と注意深く見ていたが、一向に謎はとけない。単なる活字中毒者、文字なら何でもいい輩かもしれないと思い始めた頃、ジェニーがあるハードカヴァーの本を注文し、それを大事そうに抱えて帰るのを見て、ヴィダは直感的に悟った――この人は小説を書く人だ、そして独学で自分の勉強を続けている人なのだ、と。雑多な興味の方向は、小説を書く資料として必要なのだろう。最新の情報や流行や常識を補強するため。そして、独学者だと気付いたのは、彼女の注文したハードカヴァーが高価な専門書で、なおかつ古典と呼べるものであったのに、あえてそれを買っていったせいだった。こういう本は図書館に絶対あるもので、当座借りれば用がすむものだ、だがこの人は時々借りてくるだけでは我慢出来ないほどそのジャンルが好きな人、自分の好きな本だけは身近に置いておきたいと思う人なのだ。
ヴィダの中で、ジェニーのイメージがピンと結ばれた――このひとは、本と小説と自分の世界を愛する孤独な人、こつこつと静かに何かを築きあげようとする人。
その瞬間が、恋の始まりだったかもしれない。
親しく口をきくきっかけが出来たのは、それから間もなくのことだった。
「ストレイチーの伝記の改訂版が出てるってきいたんですけど、ここ、入ってます?」
来た、とヴィダは嬉しくなった。
「こちらです」
その本のある棚の前に連れていくと、ジェニーはとたんに目を輝かせた。
「凄いわ、ストレイチーだけじゃない、フォースターやベルやフライはともかく、ケインズやG・E・ムアまでならんでる……ヴァネッサの画集まで。出版社も発行年もみんな違うっていうのに」
ヴィダはニッコリして、
「ブルムズベリ・グループの棚をつくってみたんです。グループの周辺にいた人まで入れてあります。ばらばらでは探しにくい作家や画家や学者達も多いので、こういうコーナーがあってもいいかと思って」
「ってことは、そういうお客さんが多いの? ちょっと待って、そういう知識があるってことは、あなたもブルムズベリ連中が好きなの?」
ジェニーはそこでア、と口元を押さえて、
「もしかして、買った本の間に、後期印象派絵画展のチケットを挟んだりしてくれてたのはあなた?」
「え……あ、はい」
「そうだったの、割引券ならともかく、書店のサービスにしては気前がいいなと思ってたの。それから、誰かのが間違って入ってたんじゃないといいなって思って。でも判ってよかった、あなたの個人的な好意だったのね、嬉しいわ」
ヴィダは図星をさされて赤面しかかったが、ジェニーは磊落に笑って、
「ね、教えて、あなたのおすすめの本は何? いつもはどんな本を読む人? どんな絵が好き?」
ジェニーは一つことに興味を絞ると、それに向かって突進する人だった。私に関心を持つと、どんどん近づいてきた。明るく裏表がなく、内輪なこともざっくばらんに話してくれるので、私もいつの間にか自分の夢を語り出していた。絵が好きで、いずれそれで食べていけるようになりたい、書店勤めは好きだけれど、いつか世に出たい、ものになるかわからないし、本当に馬鹿みたいな夢なんだけれど、と。
ジェニーは大きくうなずいた。
「わかるわ。本当に馬鹿みたいって思うわよね。でも、私も同じなの。食べていくだけなら、昼間の仕事だけでなんとかなるっていうのに、役にもたたない小説書きになろうと思ってるんだから。あのね、毎日、自分の小説が、一行でも進まないと気持ちが悪くてたまらないの、生きてる気がしないの。別に大したものに取り組んでるのでもないのに、書かないと眠れない、息ができなくなるの」
「わかります。私もそうだから。毎日絵を描き続けてないと、絵のことをちょっとでも考えてないと、呼吸が苦しくなるんです」
「ああ、やっぱりそう! 私も同じ。ずっと泳いでないと溺れちゃう、鮫みたいなのよね」

ああ、あの頃が懐かしい。
懐かしくてたまらない。
貴女と離れたくなかった。時々会っておしゃべりするだけの知人でいいから、側にいたかった。
ブルムズベリ・グループという文化人集団は、ゲイ・ピープルの集団でもあった。それを好きな人だから、つい妙な期待を抱いてしまったのかも。でもそれは言い訳にはならない。
お願い。許してね。
今はここで、貴女の幸せを祈っているから。
貴女がずっと自分の勉強を続けられますように、くだらないすべての煩いから自由でありますように。
ジェニー。

「リンダル・ゴードンが書いたウルフの伝記は、この店に置いてありますか」
後ろからいきなりそう声をかけられて、ヴィダはびくりと身を強張らせた。
懐かしい、その声。
どうして?
ここは、貴女の家から遥か遠い、書店の画集の棚の前。
どうして貴女がここに居るの? いったい何をしに来たの?
「……厭……」
ヴィダは思わず、その場を走りだした。細い通路を走り抜けて、店の外へ飛び出した。
「厭! いや、いや、いや!」
「待って、行かないで!」
ジェニーはすぐに追いつき、後ろからヴィダを抱きしめた。
苦しそうな息の下で、ジェニーは囁く。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ヴィ」
ヴィダは太いため息をついた。覚悟を決めた人の落ち着いた声で、
「ごめんなさいを言わなければならないのは私の方よ、ジェニー。どうして謝るの?」
ジェニーはほとんど泣き声で、
「私、わかったの。何もわかってなかったことが。何も考えてなかった。自分がどんなに無神経だったか。きいて、あなたに話さなければならないことがあるの。私、あなたともう一度やり直したいの。お願いだから、最初からやり直させて」
ヴィダは首を振った。
「最初からなんて、いや」
「ヴィ」
「あなたが私を好きでないなら、辛いだけだもの。だから、同情なら、こんな風に追ってきて欲しくなかった。私、あなたにあんな不快な思いをさせて、二度と会わせる顔がないと思ってたのよ。いいえ、会いたくなかったの。ねえ、少しでも想像してくれた? 私がどんなに惨めな気持ちになってたかってことを」
ジェニーの腕から力が抜けて、茫然だらりと落ちる。
ヴィの言葉の激しさは、彼女の恋情の強さをそのまま物語っていた。本当は頑固なヴィダ。如才なく人あたりが良さそうに見えて、でもとても内気で繊細なあなた。下手なことを言ったら、もう一度あなたを失ってしまいそう。
ああ、どうしたらあなたをそっくり取り戻せるの?
どんな言葉なら、どんな誠意なら、あなたにちゃんと伝わるの?
ジェニーは、祈る気持ちで言葉を継いだ。
「私、あなたのせいで不快になったりしなかった」
ヴィダは無言だ。背を向けたままだ。
「私、自分があなたの愛情に値する人間なのかどうか、わからない。でも私、あなたが大切なの。あなたがいないと息ができなくなるの。生きている気がしないの」
ヴィダはまだ振り向かない。
「ねえ、ヴィ、少しでも想像してくれた? あなたが突然いなくなったら、私がどんなに苦しむかってことを」
「……苦し、かったの?」
涙声。
「私、ジェニーを苦しめたのね?」
クル、と振り向くと、ヴィダはジェニーの首筋に顔を埋めた。
「ごめんなさい……私……」
凍えそうな野天の下、ジェニーは正直な喜びに瞳を潤ませながら、相手の背を抱き寄せた。
「いいのよ。もう大丈夫、気にしないわ(Don't worry, it's OK.)」
ヴィダの瞳が丸く見開かれる。
「じゃあ私、あなたを好きでいて、いいのね?」
「いいに決まってるじゃないの」
「……私、あなたを好きになって、良かった」
ヴィダはジェニーを抱き返し、血の通った柔らかさを感じて、確かに自分が大切なものを取り戻したのを知った。
もう大丈夫、何も心配することはないのだ(Don't worry, it's OK.)、と。

(1998.9脱稿/初出・恋人と時限爆弾『気にしない』1998.11/「DON'T WORRY, IT'S OK.」バージョン「XX(くすくす)VOL.7」1998.12発行)

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