『誰も知らない』

例えば人口二十余万人の町をカバーする一郵便局から日々配達される郵便物の数は、少なくても何万通、多い日は十数万通といったところだ。通過する郵便の数はもっと多い。
郵便局に勤める人間は現在、正規職員以外もみな国家公務員法に準じており、職業上知り得た秘密を決して漏らしてはならないことになっている。もちろん日々知りえることはわずかだし、通過するもののあまりの量に、細かい情報は記憶から抜け落ちていく。
それでも機械で分けた郵便を配達する順に組み立てていく人間や、それを直接配達する人間は、直接その目で郵便物を見ている。
知っているのだ。あなたの秘密を。

* * *

「このたび私こと
瀬川郵便局集配営業課長を命じられ過日着任致しました
山之辺郵便局在勤中は公私にわたり暖かい御指導と御温情を賜り厚く御礼申し上げます
新任地におきましても精一杯の努力を致す所存でございますので今後一層の御指導と御鞭撻を賜りますようお願い申し上げます
まずは略儀ながら書中をもって御挨拶申し上げます

平成十四年八月
瀬川市瀬川一二三―四
瀬川郵便局集配営業課
塚野田 雅史」


「課長……最初の行、課長のお名前が抜けてます」
山之辺局集配課非常勤職員、南谷綾子が自宅ポストの中にその葉書をみつけた時、そう呟くことしかできなかった。印刷されたものだから、オリジナルのミスタイプだ。もちろん職場で印刷したのではあるまいが、それぐらいの文面ならこの私が打ったのに、と。
局の規模によっても違うが、おおまかにいって、集まった郵便を振り分けるのが郵便課、その郵便を直接配達するのが集配課の仕事となる。その、課と職員を統括するものとして、《計画事務》という仕事がある。その《計画》席に所属する非常勤職員は、正職員の事務的な仕事、および雑用一般を手伝う。計画席の綾子がルーティンワーク以外にメインとしていたのは、塚野田課長が関わる文書の清書だった。総務へ提出するもの、研修資料、日々の広報、ちょっとした挨拶文、その他諸々をせっせとタイプし、打ち出していたのは彼女だった。それは課長の仕事が遅いからではない、むしろ反対で、職場の行き帰り、電車の中で鉛筆で走り書きの下書きをつくらないと間に合わないほどの仕事をこなしていたためだ。
勤めはじめた時から、綾子は課長に好印象をもっていた。真面目で仕事のできる男性であること、かといって頭がカタイのではないこと。自分から率先して働くこと、若者にもおばさんにも等しく優しいこと。五十代であるにも関わらず、一人称に「僕」を使って全くおかしくない柔らかな声音、そこに漂う少年めく清潔さ。
もともと仕事が早い訳でなく、しかも早とちりの多い綾子は、今までの職場では叱責されることばかりだった。だが、「どうしましょう」と青ざめる綾子に課長はいつも、「いいよ、これは僕がいってくるから」と微笑んでみせる。彼女が子どものように課長になつき、彼の仕事を手伝うようになるのは、ごく自然ななりゆきといえた。特に文書作成については、数少ない彼女の得意分野であったため、「悪いけど、南谷さんにコレ頼む。戻ってくるまでに打っておいてくれる?」と言われれば、《課長秘書》とあだ名されるほどのスピードでそれを仕上げた。明日の会議までに必要な書類と言われれば、残業もいとわず印刷した。時には倉庫の薄暗がりで、新しい備品の箱を開けては、二人でせっせと組み立てた。こっそり愚痴もこぼしあった。次のプロジェクトについて意見も出し合った。
必要とされることの、なんという楽しさ。
そんなある日、電話を置いた塚野田課長が、真顔で低く囁いた。
「いま、郵政局から内示が出ました。一週間後、瀬川局へ異動です」
綾子の瞳は思わず潤んだ。
「そんな。今のプロジェクトが途中なのに、こんな時期に転勤ですか」
「皆さんにおまかせするしかない……心残りだけれども、すぐに準備に入ります」
頭を殴られた心地がした。
地元との癒着を防ぐため、正職員が定期的に転勤させられることは知識として知っていた。だが、どうして今。教わりたいことがまだまだある。やっと仕事に慣れてきたのに。これからいったい誰を頼りに働けば……そんな言葉を飲み込んで、綾子は黙々と仕事した。
転勤の日、引き継ぎのために山之辺局へ来た課長に、綾子は深く頭を下げた。
「課長には本当にお世話になりました。どうもありがとうございました」
「こちらこそ本当に、長い間お世話になりました」
課長もすうっと席を立ち、丁寧に頭を下げる。
その黒い小さな瞳が、眼鏡の奧で少し動いた。
「……連れていきたい」
綾子は微笑んだ。冗談めかした声で、
「瀬川局では遠すぎます」
瀬川市に綾子が通うとなれば、一時間半以上の道のりをいくことになる。通勤可能な距離ではある、もし彼女が正規の職員ならば、抜擢され、連れていかれてもおかしくなかろう。だが、綾子は非常勤だ。課長と一緒に移動することなど考えられない。専門的な仕事をしていた訳でもない、極めて有能であった訳でもない。年齢的に、正職員になれる時期も過ぎている。本当に綾子を連れていけば塚野田課長が奇異の目で見られ、下手をすれば火のないところに煙がたってしまう。
だが、半分笑い声の《連れていきたい》が本音であることも、綾子にはよく伝わってきた。一年以上育ててきて息のあいはじめた部下だ。なんでも素直に頼りにくる可愛い部下、不器用なりに尽くしてくれた、気のおけない部下だ。やりかけの仕事を残したまま、まったく新しい職場へ行くのは、転勤に慣れた人間にも辛いことだ。心理的な味方の一人ぐらい、つけて送り出してくれてもいいじゃないか……それが正直なところだろう。
連れて、いかれたい。
強烈な誘惑にふいにかられて、綾子は課長に背を向けた。
「向こうでは、あんまりご無理なさらないでくださいね」
無理だ。
冗談でも《ついていきたい》とは言えない。
まっぴるまだ、みんながきいている。綾子は山之辺市民で、局の近くに住んでいる。つまり彼女の家に届く郵便物は、同じフロアの同僚が区分し、道順に組立て、配達しているのだ。自分のプライバシーをよく知る人達の前で、ほんのちょっとでもそんな素振りは見せられない。
そんな、素振り?
目の前の人を初めて意識した自分に綾子は気づいた。
もちろん課長が好きだった。それは自分の父がこんな人であってくれたなら、というような素朴な感情で、隠す必要すらないものだった。
だから、意識したといっても、淫らなことを考えた訳ではない。そういう想像は二人の間に全くふさわしくなく、そういう意味で何か燃え立った訳でもない。
それでも、《連れていきたい》の言葉は、綾子の中で響きつづけた。

寂しさは日がたつにつれて薄れると思っていた。だが、そんなものは、一日、二日と数えれば募るにきまっているのだ。
だから一週間が過ぎた日、日勤を終えて局を出た瞬間、綾子は幻を見たと思った。
小さな背中。駅へ向かう道の信号を待つ、背広姿。
「課長」
「南谷さん」
振り返ったその人は幻ではなかった。柔らかな声も底の深い瞳も。
「どうして今日は山之辺局に?」
「必要な資料が向こうになくて、昔なじみに借りにきたんだ」
「電話していただければ、調べてコピーでもなんでも送りましたのに」
「それはそうなんだけれども、理由をつけて、来たかったんだよ」
信号が変わると、肩を並べて二人は自然に歩き出した。
歩き出したが、なんの言葉も交わさなかった。
瀬川局はいかがですか、そんな決まりきった挨拶さえ、綾子の喉につっかえる。口を開くと言ってしまいそうなのだ。行かないで下さい、行くのなら連れていって下さい、課長の隣に置いて下さい、と。
「困ったね」
ふいに課長が呟いた。駅はもう目の前だった。見送るのならここまでだ。
「南谷さん」
「はい」
「瀬川局も人員削減中でね。どうしても呼べそうにないんだよ」
あ、と口元を押さえたがもう遅かった。涙が頬を滑り落ちた。慌ててハンカチで押さえても、後から後から溢れでてくる。
眼鏡の奧の課長の瞳も、心なしか潤んでいた。
いつもより更に優しい声が、綾子の上に降ってくる。
「今日だけ、だあれも僕たちを知らないところへ、行こうか」

* * *

人口二十余万人の町をカバーする郵便局から、日々配達される郵便物の数は、少なくても何万通、多い日は十数万通といったところだ。そこに勤める職員は全員、国家公務員法に準じて、職業上知り得た秘密を決して漏らしてはならないことになっている。
それでも郵便を配達する順に組み立てていく人間や、それを直接配達する人間は、直接その目で郵便物を見ている。かつて課長だった人からの葉書や、現在同じフロアで働いている人間にどんなものが来ているかなど、気づかない方がおかしいだろう。
知っているのだ。彼らは秘密を。
それでも、

誰も知らないこともある。

(2002.8脱稿/初出・text jockey『JUICY 2002』2002.11発行・テーマ小説「伝える。」)

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