『Sweet Illusion』

i.(甘い回想)

闇の底で、ゆらりゆらりと揺れている五つの大きな灯火。
地上ではもう朝がきているが、秘倉マネーピットに日の光が差すことはない。
「……」
それでもヴォルドは、換気口から流れ込む新鮮な空気の匂いで夜明けを知る。
浅い眠りから起き出すと、頭と顔を剃り、ぴっちりとした灰色の薄衣で全身を覆う。肩に緋色と金の飾りをつけ、無数の皮のベルトで、身体の各所をきつく絞めつけてゆく。先の尖った靴を履き、ほとんど見えない目を赤い布で覆い、声の出ない口元にくつわをかませ、留め具できっちり留めつける。その掌にそれぞれ三本刃の凶器を填め、ひょろりとした長躯を左右に傾げて、そろそろと足下を探りながら歩き出す。長年住み慣れたマネーピットとはいえ、油断は禁物なのだ。
イタリア半島沖に浮かぶ島に秘かにつくられたこの宝物倉は、先年の豪雨と地震でかなりの部分が水没したため、内部はひどい有様になっている。
彼が努力してつけた排出口のおかげで、溜った水は腐りもせずに外へ流れ出てくれているが、天候の変化で水位が変わり、嵐の日などは補強にも相当の注意が必要だ。昔とりつけられた水没トラップは死んだままだが、何かのはずみで生き返る可能性もあり、そうでなくとも水圧に負けて新たに崩れる石柱があるやもしれず、とにかく危険この上ない建物である。彼一人では修復のしようもない。
水に沈んだ宝の多くを引き上げて、高所にあった玉座の間に主の棺と共に安置し終えたものの、あれらが再び水に流された場合、今度こそ彼も集める自信がない。そして、主の遺産がこれ以上失われるのは、とうてい堪えられることではない。
だが、今の彼にできるのは、こまめな見回りぐらいのものだ。
「……」
ヴォルドは主人の石像の間に出た。
どこからか入り込んできたネズミ数匹が、彼の気配を察してさっと逃げだす。のろまな人間とあなどっていたら、即座に刺し殺されることを知っているからだ。
彼は壁の灯火をともし、その長身をあかりにさらす。
当年とって四十六。もう若くもなく、長すぎる地底生活のために視力もおぼつかない彼であるが、暗殺剣の腕は確かだ。秘倉の番人としてのプライドとその強さは、ふらちな侵入者達を幾度となく蹴散らしてきた。侵入者はそう度々あるものではないが――入り口という入り口には罠が幾重にもしかけられているし、水没後はブルク家の財宝もそのほとんどが流されてしまったろう、とあきらめ気分の噂の方が強くなっていたからだ。
そんな日々の積み重ねの中、ヴォルドの精神はしだいに混濁をきたし始めていた。
訪ねる者のないマネーピットは、水の音すらほとんどしない静穏の住み処だ。相当覚悟した行者でさえ、この孤独には堪えかねるだろう。冷たい石と水と錆びた金属の匂いは、この縦穴の中にいる者の精神を更に深い穴ぐらへ落しこんでゆく。用心のための灯火をつけるのすら、すでにおっくうに思う彼がいた。なにしろ心残りといえば、主人ベルチーが望んだ秘剣ソウルエッジを、求めてえられなかったことぐらいで……。
ヴォルドは巨大な主人の石像の前に立ち、何を思ったかその像によじのぼった。
その膝の上に立ち、大きな腕に抱かれるようにもたれかかる。
くつわを噛んだ口唇から、甘い吐息が洩れる。
ベルチー様。
声にならない、声。
ヴォルドは身体についている留め具の類を、更にぎゅうっときつくする。食い込む革を、食い込む紐を、肌に甘美に感じながら。
そして、彼は再び石像の腕の中にもぐりこんだ。
ベルチー様。
もう一度だけ、お声をきかせて下さい。
もう一度だけ、抱きしめて下さい。
私はいつまでも、貴方のみだらなしもべです。

そのまま彼はだらだらと、回想と白昼夢の中へ落ちこんでゆく……。

ii.(なれそめ)

「どうやら鎮火したようだな」
十六世紀である、花のイタリア、水の都といえども、消火作業には時間がかかった。
他所から流れてきた兵士の小ぜりあいからでた火が一日で消えたのは、むしろ早すぎるほどといえた。だが、飛び火を避けるために打ち壊された家屋も多く、その無惨な廃虚を、豪商ベルチーは馬で見回っていた。
死の商人と陰で指さされる彼だが、ベルチーはあくまで優れた武器の愛好家であって、お膝元が戦火にあうことを望んだりはしない。戦さに乗じてこざかしい強盗を働く者もいるので、こんなふうに巡回もする。ブルク家頭首として、治安維持と復興に対する助力は常に惜しまないできた。
ふと、半分崩れおちた家の中から、すすけた人影がゆらりと現れた。
「!」
鋭い殺気に、ベルチーははっと手綱を引いた。
長身の男がこちらに背を向けたまま、曲芸のようなポーズで短剣を繰り出していた。
もしベルチーが即座に馬を止めなければ、その剣の切っ先が確実に彼の喉笛をかき切っていたはずだ。
「曲者!」
ベルチーの部下がバラバラッと押し包んだが、怪しい男はバッタリその場に倒れた。最後の力をふりしぼった攻撃だったらしい。ほとんど息も絶えかけていた。見れば、まだ若い。ひょろりと背ばかり高いが、青年といっていいような年頃だ。
部下達がそれを足蹴にし、とどめを刺そうとした瞬間、ベルチーが通る声でそれを制した。
「待て。医者を呼べ。すぐに手当てだ」
部下達がざわめき立つ。抗議の響きをさらに高い声が遮る。
「手当てがすんだら屋敷に連れかえる。もしこの者の命を断とうとする者あらば、即刻私の刀の錆になると思え」
部下達は慌てて医者を呼ぶ。そしてその場で応急処置を施された男は、そのままベルチーの豪邸へ、静かにひそやかに運び込まれた。

意識の暗闇に、一条の光が差す。
ヴォルドは、ゆっくりと瞳を開いた。
頭はまだぼんやりしている。煙にやられたためか、視界も霞んでいる。その昏い灰色の瞳が最初にうつしたのは、じっとこちらを見つめる壮年の男だった。
誰だ……?
目をすがめて見る。
身なりからかなりの金持ちであることはわかる。顔がもう少しはっきり見えれば、誰だかわかるかもしれない、とヴォルドは思った。
いや、いっそ尋ねればいいのだ。
「……」
声が、出なかった。
冷たい湿布があてられていたが、喉の痛みは灼熱の棒を突き通されたようだった。
彼の目覚めを確認すると、壮年の男は口を開いた。
「医者が、おまえの喉は火を吸いこんで焼けただれているといっていた。いずれ治るかもしれんが、当分は話せまい。おまえは字が書けるか?」
どうやら、この男に救われたのらしい。
ヴォルドは瞳でうなずいた。
壮年の男は、彼に蝋板と鉄筆を手渡した。蝋板は、薄い木の板のくぼみに黒など色のついた蝋を流し込んだもので、鉄筆で削って文字を記す。紙がまだまだ一般的でないこの時代に、軽くて簡便な筆記具を代表するのが、この蝋板を幾枚か綴ったものと、鉄筆の組み合わせであった。
「ゆっくりでいい、私の質問に答えよ」
ヴォルドは鉄筆の尖った先で、肯定の返事を書く。
壮年の男はよし、とうなずいた。
「では、おまえの名前は?」
〈ヴォルド〉
「年は」
〈十八〉
「何の仕事をしている」
〈細工師〉
「何の細工だ」
〈ガラス細工が専門。親が死んだので家を継いだ〉
「それ以外にも、何かやっていなかったか」
〈兄弟達はガラス細工しかしなかったが、自分は時々宝剣の修理も〉
「戦闘の訓練をうけたことは」
〈ない〉
「おまえは、意識を失う直前に私を襲おうとしたのだぞ。あれは、武術を知らない者の動きではなかった」
〈我流で少し。襲ったのは敵だと思ったから〉
「敵?」
〈いつものように工房で火を吹く作業をしていた時、突然兵士に襲われた。その時自分は、うっかり作業の火を吸って気を失った。気付いた時はあたりは血の海だった。他の兄弟は斬り殺されていた。金目のものも持ち去られていた。外で人の気配がしたので、兵士がまた戻ってきたと思ったから、襲った〉
長い文章を連ねると、何ページ分もあった蝋板はあっという間に埋まってしまった。最初の方の答を鉄筆の丸い尻で消そうとすると、すぐに新しい蝋板の綴りを渡された。
壮年の男は、優しい声で続けた。
「私が誰だかわかるか」
〈よく見えなくてわからない〉
「なぜおまえを助けたと思う」
〈わからない〉
そう書いてから、ヴォルドは慌てて書き足した。
〈ありがとうございます〉
「礼などいらぬ。私はおまえを利用しようと思っているのだから」
ヴォルドはかすかに眉を寄せた。
〈自分は役にたたない。喉がやられていてはガラスも吹けないし〉
男は笑った。
「ガラス職人としてのおまえが欲しい訳ではない。それはおいおい説明してやろう。今は安静にして、身体を治すことだ。おまえの喉はだいぶ悪い、このまま火傷が化膿すれば、おまえは遠からず死ぬだろう。そうならないように、しばらく大人しくしているのだな」
ヴォルドは困った。
助けてくれてありがたいが、この人はいったい何者なのか。
おそるおそる、蝋板に質問を書いてみる。
〈失礼ですが、お名前は〉
男は笑顔のまま答えた。
「悪かったな、名乗りもせず。私はベルチー。知っているか? ブルク家のベルチーだ」
ヴォルドは驚いて、そのまま寝台から転がり落ちそうになった。
まさか、この国屈指の豪商、ブルク家の頭首とは。
スペインの無敵艦隊を得意先として外地で武器を売りさばき、死の商人という黒い噂に包まれた男が、このような温厚な紳士とは。
いわれてみれば三十代後半の年齢といい、いかめしく引き締まった細面といい、着ているものといいその物腰といい、本物のベルチーと判断して間違いなさそうだった。宝剣の修理を趣味で引き受けていたヴォルドは、そういう興味もあって、遠目からこの男を何度か見たこともある。
そう、いわれてみれば、確かに同一人物だ。
いったい自分はなんということを。
ベルチーを襲い、助けてもらったあげくに、無礼な文句をズラズラと。
痛みも忘れて寝台を降り、膝を揃えて、額を床にすりつける。
「かしこまらなくていい。私はおまえが気に入ったのだ」
ベルチーはヴォルドに顔を上げさせ、寝台へ戻るようにうながした。
「おまえは物おじしないし、字も書ければ頭もいいようだ。我流であの腕前なら、私の側仕えにぜひ欲しい。いや、無理にとはいわん。だが、その身体だ、家族も家もすっかりなくしてしまったのなら、しばらく私の屋敷に滞在しても、構うまい?」
ヴォルドは震えあがった。
ベルチーは自分を買いかぶっている。
一介の職人が豪商ベルチーの側仕えなどと。想像するだに恐ろしい勤めだ。少しでも下手をうてば、即座にその剣に血を吸われ、四辻に埋められる身となろう。
「ヴォルドよ」
焼けて短く切り揃えられた髪に、ベルチーの掌が触れた。
「私が、恐ろしいか」
うなずくことができなかった。
恐ろしい、と一瞬思ったのは事実だ。だが、自分を見つめるこの男は、世間の評判どおりの怖い男にはとても思えなかった。外見こそ厳しいが、懐深く、思いやりのある人に感じられて。
「……」
ヴォルドは目を伏せ、軽く首を振ってみせた。
ベルチーは、軽い火傷のある頬に触れないよう、そっと掌を離してくれた。
そんな仕草もいたわりに満ちて。
ヴォルドは考えた。
この人が助けてくれなければ自分は死んでいたのだ。
いまさら惜しむ命でもない、自分がいなくて困る家族もないのだし、この人の申し出を拒む理由が果たしてあるか。
ヴォルドは再び蝋板を手にとった。
〈お屋敷に置いて下さい。どうぞおそばに〉
ベルチーは嬉しそうに微笑んだ。
「ああ。おまえの身体が治ったら、ゆっくり側仕えに仕込んでやろう」

ヴォルドの喉は治らなかった。
火を吸ってから丸一日何の手当てもしなかったので、喉の粘膜がくっついたまま固まってしまった箇所などもあり、それが声の出ない最大の原因となった。火傷の化膿からヴォルドは繰り返し高熱を出し、それは脳まで犯しかけた。生死の境を何度かさまよって、それからヴォルドは再び目覚めた。医者はどの医者も、ヴォルドの声は一生戻らないだろう、と宣告した。ベルチーは構わない、と答えた。側仕えには口が堅い者の方がいいのだから、と。
口はきけないがまともな呼吸ができるようになり、体力を取り戻して時間を持て余しだしたヴォルドを、ベルチーは自分の武器庫へ連れ込んだ。
「おまえはどの剣が好きだ?」
ヴォルドは瞳を輝かせた。
そこには世界各国から集められた、珍しい刀の数々が飾られていた。その美しさに、ヴォルドは時を忘れて見入った。一口に剣といっても、相手を斬る剣、突く剣、叩く剣、砕く剣とあり、それらは形も大きさも違う。使い方はもちろんのこと。流派やそれを使う個人によっては、同じ剣でも別の舞いが見られるのだ。
ヴォルドは装飾用の剣よりもより実践的なものにより興味を示し、ベルチーをいたく喜ばせた。
「思った通りだ。おまえには武器を見る目がある。私のいい話し相手になってくれそうだな」
満足そうにヴォルドを引き回す。
「もし、おまえが自分の身を守るために選ぶとすれば、どれにする」
ヴォルドは様々な剣を見比べて、その中からカタール――正式にはジャマダハル――を選び出した。短い三つの刃が放射状についたグローヴで、それを両手に填めて、近づく敵を切り裂くのだ。接近戦、暗殺者用の武器である。
「面白いものを選んだな。何故だ」
ヴォルドは蝋板に答を書く。
〈大きな剣を振り回す筋肉が自分にはないので、短剣がいいかと。身体の柔らかさには自信がありますし、こういうものの方が、長い身体を活かした攻撃ができるかと〉
「ほう、独学でそこまで判断できるとは」
ベルチーは驚き、苦笑した。
「私が教えることなど、何もなさそうだな」
〈そんなことを言わないで、もっと教えて下さい。私はともかく、ご主人様の好まれる剣はなんなのですか〉
すがるような瞳で見つめられ、ベルチーは表情を和らげた。
「そうだな。私は長剣が好きだが、短剣も得手なのだ。よければおまえに稽古をつけてやってもいい……」
二十も年下の青年と蝋板で語り合いながら、ベルチーは自分の中に不思議な感情が湧いているのに気付いた。
なんだろう、この心の熱さは。
なに、ただ腕が立ちそうだから、こちらに背を向けたまま短剣を繰り出すあの戦闘ポーズに新鮮さを感じたから、気まぐれに拾ってみただけのこと。それが思わぬ拾いものであっただけだ。そう、この男はすべて筆談で話し余計な言葉を吐かないから、普通の若者よりなんとなく好ましく思えるだけだ。語らいがこんなに楽しいのは、ただ趣味が近いからで。
そんなことを、ベルチーはわざわざ自分に言いきかせていた。
彼の本当の気持ちは、しばらくその胸の底に隠されることになる。
ヴォルドの身体が治ると、部下としての仕事を少しずつ仕込み、その我流の戦闘を磨いてやり、何くれとなく面倒を見るベルチーだったが、必要以上にこの若者に触れることはなかった。
そして、数年が過ぎた。

iii.(青年期)

とある宴の直前。
全身をぴったり包む、薄緑と薄青のだんだらの道化姿のヴォルドは、蝋板に言葉を書きつけて、束の間の休息を楽しむ主人に見せた。
〈ベルチー様。私は、お客様のおもてなしをしなくてよいのでしょうか〉
それは、ずっと前から気がかりであったこと。
ブルク家では、時折みだらな宴が開かれていた。貴族や商人を屋敷へ招き、大広間に若く美しい女や男を並べ、豪華な晩餐とそれらの肉体でもてなすのだ。ヴォルドは最初、それに対して何も感じなかった。こういう晩餐を悪とも思わなかった。また、自分はもう二十歳を幾つも越えていて若いともいえず、ただ背が高いだけで美しくもないとも知っていたから、客の相手をする可能性など考えもしなかった。だが、道化の扮装でベルチーの脇に控えていると、悪趣味な客から時々粉をかけられる。ベルチーがきっぱり断わってくれるので肌身を許したことはないが、そういう求めがあるのならば、本当は応えなければならないのではないか、とヴォルドは心配なのだった。
ベルチーは、仮面をつけたままの部下をじっと見つめた。
「客の中には、性技の巧みなものもいる。もしおまえが快楽を求めたいのなら、身体を許す者達の中にまざるがいい。あまりひどくない相手を、私が選んでやろう」
ヴォルドは慌てて首を振った。
進んで快楽を求めたい訳ではない。男に抱かれた経験もないし、ベルチーが望まないのであれば、誰かに身をまかせたくなどなかった。
「なんだ、私の立場をおもんぱかっているのか?」
ベルチーは磊落に笑って、
「いいか、おまえは私の側仕えなのだ、客に貸し出す気など少しもない。私の秘密を一番知っているのはおまえだ、それを簡単に手放したりなどできるものか。まあ、誰に責められようと、おまえが私の内情を少しでもよそへ漏らすとは思わぬが……とにかくおまえを、誰にも譲る気はないぞ」
ベルチー様。
ヴォルドの背筋に震えが走った。
そんなに無雑作に信頼を示されてしまうと、どうしていいかわからない。
嬉しさで涙が出そうになり、喜びを深く噛みしめたまま、ヴォルドは頭を垂れた。ご主人様のためなら、この身がどうなろうとも――そんな覚悟を新たに胸に刻んでいた。
それがこの晩、別の意味で花開くこともまだ知らずに。

「ベルチー殿」
美酒に酔った客の一人が、その夜ふいに胴間声を上げた。
「ベルチー殿が大事になさっているその道化、いったいどのような役にたつのですかな」
場が一瞬ざわめきたった。
財力と武力に秀でたベルチーの宴に招かれて、そのような暴言を吐く者はまれである。しかも相手は同じ階級、商人仲間である。
主人はにこやかに切りかえした。
「私のヴォルドは優秀な側仕えです。ですが、いわば私の守り刀、皆様の前でそう簡単に技をお見せする訳には参りませんな」
「秘蔵の弟子という訳ですな。しかし、このような宴に参加させておきながら、余興の技ひとつ披露していただけないとは、ずいぶんな出し惜しみかと」
あまりにあからさまカラみ方に、さすがのベルチーも気色ばむ。
その瞬間、ヴォルドは腰につけていた飾り帯を一本すらりと外した。端を結んで輪にすると、その端を口にくわえ、主人に差しだした。
ベルチーが驚いていると、ヴォルドはゆっくり身体を後ろに反らせ、曲芸師のように優雅に手をつき、見事なアーチを形づくった。その腰を高くつきあげ、乗って下さいと仕草で示す。
ベルチーは顔色を改め、何気なく飾り帯の手綱を握り、ヴォルドの上に腰を置く。
我が意をえたヴォルドは、ベルチーを乗せたまま、広間を静かに走り出した。
客はみな息をのんでいた。人が四つんばいになってつくる馬なら驚きもしないが、大の大人一人を乗せて、ほっそりと痩せた身体が仰向けのブリッジの形を崩さず、本物の馬のように走る。その強靭な筋力と不思議な美しさに、下卑た野次すらとばなかった。からんできた商人でさえ、言葉を失って見とれていた。
広間を三周したところで、ベルチーは馬を降りた。
「今宵の余興はここまでと致しましょう。後は皆様、それぞれ存分にお楽しみ下さい。お気にめすものがあれば、ごゆるりと」
そう宣言すると、すっくと立ち上がったヴォルドを連れ、二人で宴を退出した。

屋敷の奥にある寝室にひきとり、上着を脱ぎ捨てたベルチーは、道化姿のままのヴォルドをぐっと抱き寄せた。
「屈辱、だったろう。あんな無鉄砲は、しなくていいのだ」
ヴォルドは首をふった。
屈辱などみじんも感じなかった。誰に命じられたのでもない、自分で判断してとった行動だ。しかも自分をかばってくれた主人をなんとか困らせずにすんだのに、いったいどんな屈託があろうか。
しかも、主人に跨られた瞬間、ヴォルドは新しい興奮に目覚めていた。走りながら軽く主人の腰をつきあげる時、その刺激から欲情すら感じていた。
ベルチーは、潤んだ瞳でヴォルドを見つめ続けている。彼をかたく抱きしめて離さない。
しばらくして、思いきったように口唇を開いた。
「ヴォルドよ。今宵は、おまえの身体を、楽しみたい」
ヴォルドは即座にうなずいた。
まだ興奮から醒めていないせいもあったが、その言葉をずっと前から待っていたような気がした。身体でもあなたにかしずきたい、と心のどこかで願っていた気が。
いつもの蝋板に手をのばし、鉄筆で走り書きをする。
〈ご主人様のお望みのままに御奉仕いたします〉
熱に浮かされたような書きぶりを見て、ベルチーは眉を寄せた。
「ヴォルド。奉仕というが、いままで誰かを抱いたり、抱かれたりした経験は豊富なのか」
〈いいえ、一度も。ですから、御奉仕のやり方を教えて下さい〉
ヴォルドだとて、十代の頃は人並みの性欲をもてあましていた。しかしそれを解消する相手はいなかった。年中すすけているガラス職人の息子、自分の身なりは構わないくせに宝剣などに夢中になって、我流で奇妙な技を磨く偏屈な彼に、わざわざ言い寄ってくる女も、そして男もいなかった。この屋敷にきてからは、ベルチーの側仕えという意味で、寄ってくる者がいなかったので。
「……はじめて、か」
ベルチーはヴォルドの仮面をとり、その口唇を甘く吸い上げた。
顔がそっと離れると、艶めいた声が囁く。
「それでは、おまえの口唇は、本当に私だけのものなのだな?」
ヴォルドは、主人の言葉の意味がよくわからなかった。口唇だけではない、すべてあなたのものなのに、と痺れたようになった頭で考えていると、さらに優しい声が降ってきた。
「はじめてなら、私が一から教えてやろう。いいか、私がいいというまで、ずっとされるままでいるのだ。一通りが終わってからがおまえの番になる、それまで身体の力を抜いて、私のすることを肌で感じているのだ」

「っ……」
地獄の責め苦とはこの事か。
ヴォルドは、奉仕を禁じられて何もできない自分に身悶えていた。
淡い灯火の下、絹の寝台の上。
ベルチーの熱い愛撫は、ヴォルドの身体の隅々まで喜びで満たした。耳、喉、胸、腿の内側、快楽に直結した箇所を丁寧にさすられ、吸われ、嘗められて、どうしても乱れずにいられなかった。一番敏感な場所に口づけられた時、ヴォルドはあやうく精を漏らしそうになって、懸命に堪えた。主人は繰り返し、「もう少しだ、まだ達くな」と命じる。ヴォルドは感じやすい自分が恥ずかしく、達けないのが辛くてたまらなかった。主人が一通りを終えて、自分が愛撫する番を待ちこがれていた。
ふと、舌の愛撫がやんだ。やっと、とヴォルドが一安心した瞬間、主人は何かを口に含んで噛みはじめた。
「ヴォルドよ。途中で変わってもらうつもりだったが、やはり最後までさせてくれ。おまえの愛撫を、私は待っていられないようだ」
主人は口に含んだもので指を濡らし、その指をヴォルドの入り口に押し当てた。
覚悟していたことではあったが、初めての侵入に、ヴォルドの身体は思わずすくんだ。それをなだめるように、ベルチーのもう片方の掌がヴォルドの前に触れる。もっと力を抜くのだ、と何度も囁かれて、ヴォルドは主人の長い指を、一本やっと受け入れる。
「狭いな、やはり」
ベルチーは自分のものも、口に含んだ潤滑剤をつかってたっぷり濡らした。
薄暗闇の中でそれは硬くそそり立ち、それ自身が優れた武器のように鈍く輝いている。
あんな立派なもので差し貫かれるのか、と思うと、ヴォルドは少し怖くなった。
中で主人の指がゆっくり動き、十二分にそこを濡らしてから抜き出される。潤滑剤には多少の催淫効果もあるらしく、内壁は、抜け出す指を軽く惜しんだ。
それに気付いたか気付かないのか、大人しく転がされているヴォルドに、ベルチーは脅かすような声をかけた。
「疲れたか? だがこれからが本番だ」
「……」
ヴォルドは観念したように目を閉じた。
つぷ、と濡れた音がして、ベルチーの切っ先が入りこんでくる。
しかし、一気に押し入ってはこなかった。ヴォルドの前を指で煽りながら、うがった場所が凶器の太さに慣れるのを待つように、少しずつ、じわりじわりと身体を進めてくる。
あっ、と鋭い吐息と共に、ヴォルドは主人を受け入れ続けた。
痛みがない、といったら嘘になる。
だが、ヴォルドの胸は激しくときめいていた。
痛みよりも、全身は期待に震えていた。
信じられない。
こんな、こんな喜びがあったなんて。
ああ、もう、堪えきれない。
ベルチーがすべてを埋め込み、軽く腰を揺すり出した瞬間、ヴォルドはついに精を放った。
きゅうっと引き絞られて、ベルチーが低くうめく。しかしヴォルドは立て続けに精を放ち、主人を何度も締めつけた。ついにベルチーは辛抱しきれなくなったらしく、乱暴に腰を使い始めた。ヴォルドは短い呼吸で、内部の蠢きで、主人の求めに懸命に応えた。
ベルチー様!
内奥を、敬愛する主人の熱い凶器で突かれえぐられ何度も濡らされて、ヴォルドは喜びに乱れ狂った。いつしか長い脚で主人の腰を引き寄せ、打ち込まれるものを自分から求めていた。初めての性体験とは信じられないほどの快楽に灼かれ、あまりの絶頂に気を失いかけて、こうして貫かれたまま死んでしまえたら、とまで願った。
「ヴォルド……!」
二人はお互いの肌身をぶつけあい、照らす灯火の消えるまで、飢えた獣のようにお互いの肉をむさぼり続けていた。

目覚めた時、まだベルチーの腕に抱かれていた。
局部だけでなく身体のあちこちに痛みがあり、疲れも重く、互いの体液の匂いもまだ色濃く残っている。そのすべてが、昨夜のことが夢でないことをはっきり告げている。
それでもヴォルドは、どうにも夢見心地だった。
主の肌のぬくもりに、快楽というよりむしろ感動に似たものをおぼえて、放心していた。
「ヴォルドよ」
主人の声に、ヴォルドは二、三度またたいた。
「身体は大丈夫か」
ヴォルドはうなずく。
ベルチーはヴォルドを抱きしめたまま、低く呟いた。
「たとえばこの先、私が没落して、おまえを側仕えとして雇える身でなくなっても、こうして側にいてくれるか? こんなふうにおまえを抱いても、構わぬか……?」
ヴォルドはもういちど瞬きし、長い腕を伸ばして蝋板を手にした。
〈ご主人様がどうなろうと、私はいつまでもご主人様のしもべです。私の身体をお楽しみになりたいのなら、いつどこであろうと、拒みはしません〉
「ヴォルド」
ベルチーの瞳が翳りを帯びた。
「私の気持ちを、わかっていてそれを言うのか」
ご主人様の、気持ち?
「おまえ自身は、私を欲しい……のか?」
反射的にこくりとうなずいた瞬間、ベルチーはヴォルドの腰をぐっと強く抱き寄せた。
「それでは、おまえのこの熱い肌を、おまえの気持ちと思って、いいのだな?」
ベルチーが何を言いたがっているのか、ヴォルドはうっすら理解しはじめた。
それと同時に、恥ずかしさが急に襲ってきて、カッと肌が火照った。単純に側仕えの仕事の一つと思って愛撫に身をまかせていたけれど、ベルチー様はそんなつもりで自分を口説いたのではなかったのだ。つまり、昨夜の甘い囁きは、あれはすべて求愛の言葉――。
そんな。信じられない。
自分はただの側仕えなのに。
いや、身分だけではない、美しくも若くもなく、女でもなく。
それなのに。
ベルチーは、やっとヴォルドから身体を離した。
「ヴォルド。答えてくれ。私は、もうずいぶん長い間、自分を騙してきた。だが、こうしておまえが身体で応えてくれて、偽りようがない自分の気持ちを悟った。もしおまえが私を欲してくれるのなら、私もおまえに、私の全部をくれてやる。本気だ……」
愛している、だから、おまえの気持ちを知りたい――率直な告白。
ヴォルドの瞳は宙をさまよった。
どう答えたらいいのか。
蝋板に鉄筆を置き、ヴォルドはゆっくり文字を彫りつけた。
〈ご主人様を、ずっと尊敬してきました〉
「ヴォルド」
〈自分は、出会った日から、ぜんぶご主人様のものだと思っていました。ですから驚いています〉
記しながら、ヴォルドは自分の視界がすうっと曇るのを感じた。
〈そんなに大事に思って下さって、嬉しいです〉
溢れる涙をとめられなかった。
困った。
ご主人様が変に思う。
なぜ、こんなに涙が。
ベルチーは、ヴォルドの頭を胸に引き寄せ、その涙を自分の肌に吸わせた。
「ヴォルド……私の忠実なしもべよ……私も、おまえの気持ちが、嬉しい」

その日から、ベルチーの側仕えに、新たな試練が加わった。
いつでもどこでも、主の求愛に応じる仕事が。
一度快楽をしったヴォルドの身体は、主の希望に応えてどんなポーズもいとわなかった。アクロバティックな体勢で犯されつつ、自分も楽しむことさえおぼえた。
しかし、ベルチーは、激しいだけの性はさほど好まなかった。奉仕させることよりも、むしろ、ヴォルドが自分の愛撫によってかいまみせる恥じらいを好み、その愛らしさを賛美した。演技でない素朴なはにかみぶりは、ベルチーにとって何よりの媚態なのだった。
「みだらな私のヴォルドよ……」
ベルチーの囁きに、ヴォルドは困ったように長い身体をすくめる。
実際、主人のそばにいるだけでゾクリと欲情する時もあるのだが、何でもない時にこんなふうにベルチーに言葉でなぶられるのが、ヴォルドは一番恥ずかしかった。激しく抱きあっている時には余計なニュアンスはいらないが、こういう場面では蝋板の言葉で答えることができる、瞳や表情で応えることもできる。だからかえって、どうしていいかわからなくなってしまう。
囁かれて、それだけで欲情してしまった時は、もっと。
「今日は、服を着たままで、な……」
ヴォルドは盛装よりも、動きやすい道化の服をより好むので、幾種類もある中からベルチーが選び出して、主が手づから着せる時がある。装飾のための留め具を一つ一つ留められると、ヴォルドは甘いため息を洩らしてしまう。そんなふうに軽くいましめられると、自分の身体が自分のものでなく、すっかり主人のものになっていくような気がするのだ。
「これだけで感じるのか」
ヴォルドの頬がさっと染まると、ベルチーは愛しげにその口唇を指でたどる。
「本当にみだらなのだな。瞳でも誘っているぞ」
わざと股間の防具までつけてから、ベルチーは愛撫を始める。服の上からのもどかしい触れあいに、ヴォルドの腰はつい動いてしまう。そしてまた恥じらう。ベルチーはヴォルドの瞳を緋色の布で覆い、くつわまで噛ませてしまう。そうすると、ヴォルドはかえって安心した。これで、瞳でも吐息でも誘えない。ベルチーを信じているので、怖くもない。
「ヴォルド。これでおまえは、自分からは何もできないのだ」
こくり、とうなずくと、ベルチーはヴォルドの胸の突起に触れた。
「そういう時、人は一番敏感になるものなのだ。少し触れられただけで、いつもの倍も感じるのだ。嬉しかろう、みだらなおまえとしては……ほら、ここももう硬くなりはじめて」
ビクン、と震える身体を慣れた手つきで探りながら、ベルチーは微笑む。言葉でなぶりながら責める時のヴォルドの身体は最高だ。えもいわれぬ締めつけは、訓練を積んだ娼婦でも出せない、極上の味わい――世に隠れた名器や逸品は数あるが、ベルチーが手に入れたこの若者は、紛れもないその一つなのだった。
切なく悶え喘ぎを洩らすヴォルドの服の局所だけを開き、そこをじっくりと犯しながら、ベルチーは至上の幸福に酔った。
「ヴォルドよ。二人で旅に出ようぞ……二人で世界のありとあらゆる刀剣を集めるのだ。ベルチーの武器庫にないものはないと言われるまでな……私の一番の宝はおまえだが……誰にも渡さない……私のヴォルド……」
甘い陸言は誓いに変わり、その後二人はハネムーンにも似た長い船旅へ出発することになる。世界中を巡って珍しい刀剣を宝物を集めることになる。
彼らはまだ知らない。
遠からず、本格的な戦火がこの国を襲おうとしていることを。

iv.(蜜月期)

「本当に、二人きりになってしまったな」
ベルチーが大きな船団を仕立てて宝物集めの旅に出ている間、イタリアはスペインとの全面戦争に突入した。これにより、イタリア全土はかつてない荒廃の憂き目をみることになった。ブルク家は当然のようにスペインに裏切られ、国家からは金銀を摂取され多くの部下を奪われた。兄弟や親戚やその他下々は、意気地なくブルク家を逃げ去った。
ベルチーは航海中に戦争勃発の報をきき、留守の者のふがいなさを嘆いたが、そのままおめおめと国に戻ることを潔しとしなかった。自分の船団に積んでいた武器の数々を、イタリア半島沖に買い取っておいた無人島へ降ろし、そこにつくられた秘密の縦穴に運び込んで入り口を封鎖、望まぬ戦火に流用されないようにした。この縦穴に独自の通路とトラップをつくり、食糧や水や燃料などの物資の運ぶルートを確保したベルチーは、自ら秘倉に籠ることを決意した。こういう場面で多くのお供はいらない。腕の立つ部下を、本当に少しだけ側に置くに限る。
ベルチーはこの生活のパートナーに、迷わずヴォルドを選んだ。忠実な愛人だからというだけではない、彼には身寄りも逃げるあてもないからだった。食糧や水が手に入るならば、むしろ倉の中で共に暮らす方が安全だろう、と判断したのだった。ヴォルドも当然のようにそれを望んだ。職人時代に身の回りのことは一通りできるようにしていたし、長年の側仕え暮しのために更に多くのものを学んでいた。そろそろ三十を過ぎようという彼は、ベルチー様に仕えて不自由させないのはこの自分、というプライドを、その長い身体の中にきっちり育てていた。
そうして、静かな、二人だけの暮しが始まったのだ。
ヴォルドは週に一度、外からの物資を受け取りに、秘密の出口から倉の外へ出る。大きな洗い物なども頼んで戻る。食事や掃除も当然ヴォルドの役目だ。ベルチーは、侵入者を防ぐ手だての考案、武術の訓練、武器の点検のかたわら、運び込んだ蔵書の手入れや研究に没頭しはじめた。羊皮紙や紙の本に記された剣の伝説で、今まで目を通すことが出来なかった海外の文献などを調べ始めた。彼ももう五十を越え、人生の黄昏を感じて、今まで自分が集めてきたものをまとめたいと思っていたのだ。
ヴォルドはかいがいしく働いた。灯火を掲げてもなお昏い縦穴の生活を、清潔で乾いたものに保ち、豪奢な生活を送っていたベルチーにみじめさを感じさせないよう、一心に努力を続けていた。そんなヴォルドに、ベルチーの信頼はさらに厚くなった。
「ヴォルド。私と二人だけで、こんな穴ぐらの底で、おまえは寂しくはないか?」
ヴォルドは微笑み、首を振る。
「そうか。……私は、人肌が前よりもっと恋しいが」
そう言ってベルチーは、自分の寝台へヴォルドを招き寄せる。
いつものように、愛撫はベルチーから始める。ヴォルドに奉仕させる時も、初手は必ずベルチーが打ち、それからしばらくも相手の手を禁じる。その愛撫はヴォルドの奉仕よりも巧みで細やかで、みだらなしもべは先に達してしまうこともしばしばだった。骨までとろけてしまってから犯されると快楽は倍加し、そのまま失神してしまう日もあった。
その夜、充実した愛の営みが終わり、その余韻にひたるベルチーに、ヴォルドはおそるおそる蝋板を差しだした。
〈ご主人様は、どうしていつも、先に私を愛撫してくださるのですか〉
ベルチーは、ヴォルドの短い髪に手をのばし、それを優しく撫でながら、
「おまえは常に忠実なしもべだ。私のためによく働く。だから、寝台の上でぐらい、その忠誠に報いてやっても、構わないだろう?」
ヴォルドはぽうっと瞳を潤ませる。
しかし、蝋板に新たな言葉を書き連ねる。
〈ベルチー様には、もっとふさわしい相手がいらしたはずです。私は若くも美しくもないのです。本当に私は、ご主人様の愛情に値する者でしょうか〉
ベルチーは、その言葉をじっと見つめた。
そして、もう一度ヴォルドを見つめた。
「こうなってしまったし、お互い若くもないのだから、本当のことを話そう」
ヴォルドは筆を置き、主人の言葉を待った。
「私も、若い頃には妻がいた。親の決めた結婚で愛していた訳ではないが、それでも息子が産まれた。だが、二人とも、あっけなく流行病で死んでしまった。私は二度と、妻をめとろうとは思わなかった。世間は跡取りのないのを取り沙汰して、しきりに新しい女をあてがおうとしたが、またすぐ死ぬかもしれないと思うと、到底もらう気などおこらなかった。そんなものより、物言わぬ冷たい武具、優れた刀剣の方が、よほど心の慰めになったからだ」
今まで何度も心の底を語ってくれたベルチーだったが、昔の話は初めてだった。ヴォルドが魅き込まれているのを見てとると、ベルチーはその頬に微かな朱をさした。
「おまえを拾って、側仕えにすることを決めた時、もし息子が生きていたら、おまえと同じ年頃だな、とふと思った。もし、どうしても跡取りを決めなければならない時がきたら、おまえを立ててやろうと思っていた」
ヴォルドは驚いた。
周囲がそんなことを認める訳がないのに、この人はそんな無謀を夢みていたのかと。
いったい自分の、何がそんなに気に入って。
「おまえといる時が、何より楽しかった。企みをめぐらしている時も、おまえがいれば屈託が晴れた。おまえは幼な子のように純粋で、簡単な言葉で私の迷いをいくつも切り払ってくれた。おまえと気に入った剣の一振りがあれば、金などなくとも後はどうにでもなる、と考えていた時期もある。父と息子として、仲良く生きていけたら楽しかろう、いっそ書面にして皆の前で宣言してしまおうかと思った時もある。そうすれば、ずっとおまえと居られると……だが、私の本当の想いは、そんな清らかなものではなかった」
ベルチーは、ヴォルドの髪から掌を離した。
「側に置くうちに、おまえの身体が欲しくなっていたのだ。私は自分が変だと思った、おまえの言うとおりで、おまえの身体は出会った時にすでに成長しきっていた。外見も、女のように美しいという訳ではなかった。そんな者を抱きたいと真剣に願うのは、おかしいとしか考えられなかった。最初はな」
ベルチーは、ついにヴォルドから視線を外してしまった。
「それでも、何度打ち消しても、おまえへの気持ちは大きくなるばかりだ。おまえに軽蔑されずに打ち明けるのはどうしたらいいか、幾晩も幾晩も悩んでいた。主の権限で抱いてしまえばすむ、と思いながら、それだけはしたくなかった。私は何より、この物想いをおまえに知って欲しかった。心で受け入れて欲しかった。おまえの肌身が欲しいのに、おまえが抱かれるのを本気で厭がったなら、無理に強いる気すらなかった。……だが、おまえは、私のすべてをなんなく受け入れてくれた。一度も裏切ることなく、何の不満も訴えず、今日までついてきてくれた。そんな者は他にはいない。だから、おまえ以上に私の愛情に値する者など、いる訳がないのだ」
まるで怒っているような口調で、
「だいたい、私はただ、おまえに触れていたいだけなのだ。こうして抱き合うのに、他に意味や理屈など、ない」
ヴォルドは思わず、主人の身体にすがりついていた。
吐息だけでしか応えられない、瞳で語ることしかできないこの身が、もどかしい。
ベルチー様。
何度もあなたの名を呼びたい。あなたに愛を告げたい。
あなたの率直な愛情に、五感のすべてで応えたい。
二人は互いを抱きしめあい、互いを想う気持ちを肌で確かめた。
単純な欲情ではない、心の隅までぬくもるような抱擁が、今の二人にとって最高の幸せなのだった。

「ヴォルドよ」
膨大な資料をまとめるベルチーは、自分の身体が弱っているのを感じていた。日にあたらない、空気の悪い場所での生活。武術の訓練でも補いきれない運動能力の低下。そして、加齢からくる様々な衰え。ヴォルドは元々頑強な生まれつきらしく、こんな生活でも元気そうにやっているが、ベルチーは己の死期がさほど遠くないのを悟った。
ベルチーは玉座の間を片付け、最終的な瞑想の場にあてた。
そんな主人を、ヴォルドは心配そうに見守る。
ベルチーは、こういう場所で静かに資料を読みたいだけだと嘘をついたが、ある日つい本音を漏らしてしまった。
「私は、世界中の秘剣という秘剣はほぼすべて集めた。世の栄華も充分に味わった。こうしておまえもいてくれることだし、現し世には、もうさしたる未練もない」
ヴォルドは驚き、抗議した。未練がないなどとは縁起でもない、と。
ベルチーは、そんなしもべが愛おしい。いつものように微笑みを与えながら、
「そうだな。もう一つだけ未練がある。覚えているだろう、秘剣ソウルエッジの噂を――」
ヴォルドはうなずいた。
秘剣、ソウルエッジ。
戦乱の世に現れた妖刀とも言われるが、それを手にしたものに不思議な力を与えるのだともきく。国を動かす力、死者を蘇らせる力があると言う者さえある。彼らの船旅の目的の一つは、この秘剣だった。今更幻の剣など探す意味はどこに、とそしる親族の反対も無視して、時に海賊まで動かして求めた剣であったが、それはついに得られることがなかった。
「もしソウルエッジを手に入れられれば、私も力をとり戻せるかもしれん。おまえの喉も治って、その声をきけるようになるかもしれん」
〈あの剣が、今でもベルチー様のお望みなのですか〉
「ああ。戦乱がおさまり、外へ出ても安全な時がきたら、その時はもう一度、おまえに探索を命じる……」
〈わかりました〉
「今ではない。今は私の側にいるのだ、ヴォルドよ」
〈わかっています。私はいつまでもあなたの側に〉

時は流れ。
ある日ヴォルドは、主人が玉座に座ったまま息絶えた姿を見ることになった。
その顔に苦しみの表情はなかった。天命が尽きたのだろう。
彼は主人を手厚く弔い、頭を丸めた。そして、主人が最後に求めたソウルエッジの探索のため、秘倉の鍵を固く降ろし、旅に出た。
例の道化の装束をつけ、両手にカタールをしっかりと填めて。

v.(再び甘い回想)

独りでのソウルエッジ探索に邪魔が入って失敗に終わり、一度主人の墓所に戻ったヴォルドは、天災で水に沈んだ縦穴に驚き、その修復を急がねばならなかった。長年の地下生活で視力の低下したヴォルドだったが、よく見える者以上の力を発揮して、主人の遺産を守り続けている。
しかし、その胸には、ぽっかりと大穴があいていた。
彼が思慕した主人は、もういない。
その望みすら果たせなかった。
なんの実りもない日々の繰り返しで、もう何年、この生活を続けているかも忘れてしまった。
いつか自分は、ここで一人で朽ちてゆくのだろう。
奈落の番人として、生ある限り、ふらちな侵入者を撃退しながら。

ヴォルドはきつく留めた留め具の中に指を差し入れ、巨大な石像のかいなの中で身悶える。
時折湧きあがる性の欲望は、ここでしか癒せない。主人を模した石像の前で、主人が選んでくれた服を着て、その留め具をきつくして抱きしめられている気持ちになりながら秘所をいらって、そこではじめて彼は達くことができる。あなたに抱きしめられたい、あなたの声がききたいと願って、白昼夢の中で何度も達するのだ。
そんな自分を哀れとは、ヴォルド本人は思わない。
生きていた時の主人の愛情は本物だった。その人に仕えた時間は無駄ではなかった。長い船旅も縦穴暮らしも何の苦でもなかった。すでに老境にさしかかった自分が、そんな主人を想って性欲を満たすのは、ごく自然なこと。そう考えていた。
ベルチー様。
私はいつまでも、あなたのみだらなしもべです。
亡き主人の魂に向かって、声なき声が切ない想いを告げる。
ベルチー様……!

激情がおさまり、主人の棺のある部屋へ戻ってその前にぬかづいていた時、ヴォルドは新たな侵入者の気配に気付いた。
何者!
ヴォルドは書庫へ走った。
ブルク家の武器や財宝だけでなく、それに類した文献を狙って入り込む者もまれにはある。
しかし、誰であろうと、主人の遺産は渡さない。
ベルチー様が書いた物のひとひらさえ、渡してなるものか。
今度の侵入者は女だった。
銀の髪を男のように短く切っているが、どうみても大人の女だった。ウェストの細くくびれたプロポーション。熟した胸と腰を包む、なまめかしい黒と紫の特殊装束姿。目尻のきれあがった細面にもゾッとするような色気がある。
女は羊皮紙の本を開き、そのページを熱心に指でたどっている。
ヴォルドは背後から近づき、本を軽くはねあげると、その女を投げ飛ばした。落下したところをカタールで串刺しにしようとした瞬間、女はぱっと横へ避けた。
こヤツできる、とヴォルドが身構えた瞬間、女の手からヒュン、ととんだ鞭のようなものがヴォルドの身体にまきついた。
「暴れるんじゃないよ!」
鋭い気合いと共に、ヴォルドの身体はグルン、と回された。
とたん、服が大きく裂ける。
彼の身体に巻き付いていたのは鞭ではなかった。
蛇腹剣だ。
ツタの葉のような薄い刃を幾つも縦につなげた剣で、鞭のように使って相手を切り裂くものだ。刃の中央に通った鎖を引いてしっかりその刃を噛み合わせれば、普通の一振りの剣としても使える。洋の東西を問わず開発されているが、使いこなすのは難しい剣で、実際に使っている者を見るのは、ヴォルドもほとんど初めてのことだった。
この女、いったい何者。
ヴォルドは女の背後へとび、もう一度獲物を捕まえた。カタールをかざして背中をえぐる。うめきと共に女が倒れる。
とどめを刺そうとした瞬間、女はぱっと立ち上がり、いっさんに書庫を走り出していった。かなわないとみて撤退したらしい。宝物倉に忍び込みながら、わざわざ本を見にきた女だ、必要な情報はもう得てしまったので、これ以上の戦闘は無意味と判断したのかもしれないが。
女の気配がまっすぐ脱出口へ消えていったので、ヴォルドは後を追わなかった。主人の宝は盗まれなかったのだ、深追いする意味はない。彼の仕事はここの番人であり、彼の目的は殺戮ではないのだから。
ヴォルドは侵入者が落とした本を拾った。幸いにして壊れてはいない。安心して棚へ戻し、鎖で本を棚へつなぎなおそうとしたその時、ヴォルドの頭の中に声が響いた。
〈ヴォルドよ〉
〈ご主人様!〉
それは、ありし日のベルチーの声。
〈気付いたか? 今の女、ソウルエッジの匂いがした〉
〈ソウルエッジの?〉
〈今の女が探していたのは、ソウルエッジの秘密だ。きっとあやつは、ソウルエッジにゆかりのものに違いない。あの女を追えば、今度こそソウルエッジが手に入るだろう。ヴォルドよ、行け。そして見事秘剣を手にして、ここへ戻ってくるのだ〉
〈ベルチー様!〉
それきり、主人の声は消えた。
だがそれは、ヴォルドが長い間待ち焦がれていた、ベルチーの魂の声。
主の再びの命令。
ヴォルドは書庫を出、新しい装束に着替えた。
そして、今の女が侵入してきたと思われる通路を塞ぎ、要所に鍵を降ろした。
そう。
今度こそ。
今度こそ主の望みを果たすのだ。
ヴォルドは三年前の孤独な探索に思いを巡らせ、女の行方と出自を考えた。
あの銀色の髪。そして、ソウルエッジに関係する者。
もしやあの女、海賊王セルバンテス・デ・レオンゆかりの者か……もしそうであれば、その行く先はおそらく……。

ヴォルドは秘倉マネーピットから旅立った。
彼はゆく。
主人の残した夢と、そして自分の夢を、永遠に見続けるために――。

(2000.5脱稿)

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Written by Narihara Akira
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