『愛よりも青い海』
その日いちにち、キース・エヴァンズはずっと不機嫌だった。
「珍しいものが手に入りましたので」
ウォンが抱えて入ってきたものをみて、キースは顔をしかめた。
青い薔薇のブーケだ。そして花瓶も。
「この部屋に飾る気か」
「いけませんか?」
そういうことか。
二月に入ってから、リチャード・ウォンは変にそわそわしていた。何かと思えば、バレンタインの花束を準備していたのか。
キースは眉間に皺を刻んだまま、
「造花ではないな。染めた薔薇か」
純粋に青い薔薇は地球上に存在しない。どんなに品種改良しても、青みがかった薄紫の薔薇がせいぜいという。おそらくウォンが持ってきたのは、白い薔薇を染めたものだろう。
「XX(ダブルエックス)といって、オランダでしかつくれないものだそうですよ。特殊技術で、他の国では真似ができないとか」
「輸入品か」
「そういうことになりますね」
美しくはある。だが。
ウォンは首を傾げる。
「お気に召しませんか」
「冷たいいろだ」
「青はお好きな色だと思っていましたが」
「別に好きでもない」
「そうですか」
ウォンは軽く肩をすくめ、
「では、これは私の部屋へひきとりましょう」
あまりにあっさり言い放つので、キースはあっけにとられた。自分への贈り物ではないのか。その程度のものなのか。
薔薇の香りが嫌いな訳でもない、別にこの部屋に置いてもいいぞ、と言いかけてキースは口をつぐんだ。ウォンの手だ。そう言わせるために、自分の部屋に持ち帰るといっているのだ。
あくまでさりげないプレゼントとして渡したいのだろう。
そんなものより、そっと肩を抱いてもらう方が嬉しいのに。
口唇を噛んだキースに、ウォンはふと思いついたように、
「ところでキース様。読みかけの本などありませんか?」
「うん?」
何冊かないでもない。だが。
「長いフライトになりますから、お気に入りをお持ちください。疲れますから、軽いものもいいでしょう」
「なんだと?」
「ここ一週間のスケジュールはあけてあります。貴方のぶんも」
「待て、何を」
「なにをってこの間、イギリスは雪と霧の時期だ、何も面白いことはない、とおっしゃったでしょう?」
「ウォン!」
「出発は夜です。準備はすべてできていますから、ご心配なく。また後でお会いしましょう」
薔薇の花束を抱えて、ウォンは部屋を出ていこうとする。その背に向かってキースは、
「出かけるのか。その間、花の世話は誰がするんだ」
「おや。そんなことが気になりますか」
ウォンはブーケから一輪を引き抜いた。
「するものはいますから、させておきますよ。……棘に気をつけて」
キースにその一輪を手渡すと、ウォンはきびすを返して部屋を出ていった。
つくられた、青い薔薇。
少し自分に似ている。
本来、存在してはならないもの――。
細いコップへ落としこんで、たっぷりの水を注ぐ。
ため息ひとつ。
「なんのつもりだ……ウォン」
【ああ五月の薔薇よ! 可愛い乙女、優しい妹、かぐわしいオフィーリア! 神様、うら若い乙女の心が、老人の命と同じく、こうもはかなくて良いのですか】
機内でウォンと口をきくのが嫌で、ずっと本に顔を伏せていた。妹の悲劇に苦しむレアティーズの台詞にふと視線がゆきあたり、置いてきた青い薔薇をどうしても思い出す。
早咲きの薔薇の命は短い。まして人工的につくられたものなら。こっそり荷物に忍ばせてこようかとも思ったが、植物検疫にひっかかっても面倒なので、自室に置いてきた。ひとりぼっちの青い薔薇。一週間もほうっておいたらしおれてしまうだろう。水も腐り、異臭を放って、すっかり見られぬ姿となっているだろう。
あろうことか、ウォンは仕事をしている。表の顔の方の仕事だ。モバイルの上で手袋の指が踊っている。情報を集め、部下に指示を出す手際は、平時ならほれぼれするほど鮮やかだ。しかし、こちらを見向きもしないその態度はなんだ。
「フランス領ニューカレドニア?」
空港で飛行機の目的地をようやく知らされ、キースは首を傾げる。
「南の島はお嫌いですか」
「バカンスか。こんな時期に」
「ニューカレドニアは今が夏休みですから。たまには南半球もよろしいかと?」
「夏の国に行く仕度などしていない」
「私がしてありますから大丈夫ですよ」
キースは不機嫌になった。
もともと夏は好きではない。
しかもこの寒い時期に、いきなり夏の国に連れて行かれるとは。
絶対に体調を崩すに決まっている。
南の島に何があるというんだ。食べ物もあわないかもしれない。蚊にも悩まされるだろう。なにしろ暑いに決まっているし、もし寒暖の差の激しい場所ならさらに不安だ。色白のキースは日焼けにも気を使わなければならない。いくら日焼けどめを塗っても、紫外線の強さというのは油断のならないもので、日照不足の国に生まれ育った青年には非常にきつい。亜熱帯出身の男とは元のつくりが違うのだ。
「閉じこもってばかりの方が、身体に毒です」
説教じみた声をかけられて、さらにキースは不機嫌になった。
それでもしぶしぶ飛行機にのったのは、さあ、と軽く腰を引き寄せられたからだ。
瞬間、身体の芯が甘くうずいた。
もし行かない、といったら、ウォンは僕を一週間ほったらかしにしておくつもりだ。
そう思ったら、不本意ながらも足が動いた。
だが。
いま隣にいるのに触るどころか、振り向いてもくれない恋人だ。
キースは本を閉じ、目を閉じた。
長すぎるフライトだ。ウトウトとして目覚めてもまだ飛行機の中だ。
それでも、ウォンの横顔を盗み見ているよりマシだ。
目を更にかたくつぶって、顔を背けた。
「お疲れ様です。やっとつきましたよ」
ウォンが連れてきたのは、本島から更に離れた無人島だった。地図に名もないような場所だが、本当に人がいないのでなく、プライベートビーチの類なのだろう、仏語でイル・デ・バルと書かれた表示とともに、バンガローは整えられていた。おそらくこのような場所では最上級のものを揃えて。
キースは長袖を着せられ、サンダルと日傘を渡された。すでに陽は傾きはじめていたが、そういう時こそ実は紫外線が強い。本当は外を歩きたくもなかったが、荷物を広げたウォンがすぐに外へ出ていこうとするので、慌てて追った。もちろん一人で帰れなくもない。ヘリを呼べなくてもサイキックがある。しかし、ここまできて帰るのは嫌だ。バンガローに取り残されるのも嫌だ。
鬱蒼と茂る森を歩いてしばらく。
「ああ、ここです」
「あ」
ぽっかりと開けた先は、白い砂浜だった。
なにもかもが輝いている。
細かい泡をたてるエメラルドグリーンの波。遠浅の海岸は珊瑚礁につながっている。コバルトブルーの水平線まで、島影どころか船も見えない。打ち寄せる波音が、かえって静けさを際だたせて。
「こんなに綺麗な場所なので、貴方と歩きたいと思って、無理に連れてきてしまいました」
「……」
所詮観光地の海、と内心馬鹿にしていたキースは、言葉を失っていた。
なんという海の青さ。
波打ち際で足を洗われた瞬間、屈託が嘘のように消えた。
このゴミ一つみあたらない浜辺が、人工的につくられたものだとしても、太陽の恵みも海もニセモノではない。
これがウォンからの、本当のプレゼントなんだ。
「二十一歳の誕生日、おめでとう、キース」
柔らかな笑顔に、キースは素直に返事をしていた。
「ありがとう」
ひとしきり水と戯れ、美しい黄昏を迎えると、濡れた服を取り換えにバンガローへ戻った。ウォンが簡単な夕食を用意してくれていて、現地の果物などとあわせて食べる。生水と食べる量さえ気をつければ大丈夫、と言われて、そっと口に運んだが、肌がかぶれたり胃が痛くなったりすることもなしに、食事は終わった。疲れも癒える。
簡単に片づけをしてから、キースが切り出した。
「ウォン」
「なんです?」
「僕は、あまり」
たまゆら言いよどんでから、キースは続けた。
「贅沢はあまり好きじゃないんだ。こんな風に、手品みたいに次々に、欲しいものが現れるのは、その……」
「それは、もしかして、あの浜辺は気に入って下さったということですか」
キースは目でうなずいた。
「なら、私は正しいお金の使い方をしたことになりますよ」
ウォンは細い瞳をさらに細めて、
「誰だって自分の楽しみのために使うんです、贅沢すぎるなど気に病まないで下さい」
「でも、借りをつくるのは好きじゃない」
「借りだなんて」
ウォンはちょっと笑って、
「そんなに借りが嫌なら、身体で払っていただきましょうか」
「!」
「かえって喜ばせてしまいそうですが」
キースはほんのり頬を染めた。
「君が楽しめるように抱けばいい」
「いいんですか」
「構わない」
そう言いながらも、恥ずかしそうにうつむいてしまったキースに、ウォンは優しく声をかける。
「キース様。これは貴方のお誕生日のプレゼントですから。借りだなんて思わなくていいんですよ。私の趣味で、私が勝手に連れてきたんですから。私も楽しんでいるんですから」
「でも」
「では、夜が更けてから、ゆっくり。お楽しみはとっておきたいので」
「わかった」
日が沈むと、キースの眉間には再び皺が刻まれた。
「どうしました?」
「せっかくだから、南十字星を探そうと思ったのに」
キースは空を指さした。
「星だらけで、何がなんだかわからないじゃないか」
「そんなこともないでしょう。少なくともバンガローの周囲は明るいんですから、星が見えすぎるということは……と」
ウォンも星の多さには驚いた。都会育ちの彼だ、ネオンサインのまぶしい空が、闇の色に染まっていたのを見た記憶がない。星も申し訳程度にしか出ていない濃紺の空が、彼にとっての夜空だった。
「怖いほどですね」
「だろう?」
「こんなに星あかりで明るいのなら、少し散歩しましょうか」
「無人島探検か」
「ええ。きっとスリリングですよ」
降るような星、というより、所狭しと夜空を埋めている星のきらめきは目に痛いほどだ。ムードのない言い方だが、それこそ星だらけとしかいいようがない。それでも日焼けの心配はないので、キースはウォンの手をとって歩きたかった。
しかしウォンは、二人してつまづいては危ないからと、その掌を離してしまう。
潮の香。
きゅっと鳴る砂の触感。
草いきれ。
「先に行く」
突然、キースはひとり駆け出した。
昼間すこし歩いたから、まったく地理がわからない訳ではない。
小さな島だ、そう迷うこともあるまい。
昼よりはずっと涼しくなったが、だからといって凍死する訳でもない。
危険な猛獣がいる訳でもなさそうだ、つまづいて転んだからといって、怪我もたかが知れているだろう。
足は高台へ向かった。少しでも見晴らしのいい場所へ。風の吹き抜ける場所へ。
背後でウォンの足音が聞こえる。
キースは逃げる。つれない恋人から。
待ってください、の一言もなく、ゆっくりウォンは追ってくる。いざとなったら捕まえられるという、絶大な自信があるのだろう。キースはさらに走った。
そして。
★ ★ ★
リチャード・ウォンはその日、いちにちずっと思案していた。
どうしたらキース様は喜んでくれるだろう?
もうすぐ誕生日だが、故郷へ帰るのは嫌だと言っていた。できたらお祖父さまの墓参りなど、一度一緒にしてみたいのですが、などと切り出しても良かったが、本人が嫌がることを無理強いするのは、ウォンも趣味でない。とはいえ、相手の好みにだけあわせていると、マンネリを防げない。プレゼントも、実用品ばかり欲しがるので、なかなか特別なものを思いつかない。
そんな時、知人が紹介してくれたプライベートビーチを思い出した。海の国で育った彼にとっては馴染みやすい場所にも思われて、季節はずれのバカンスへキースを連れ出すことにしたのだ。
遠い旅になったこともあり、案の定、キースは不機嫌だった。
ウォンはそれをあえてなだめようとはしなかった。愛撫で丸め込むのは最終手段だ。不機嫌はもっともだが、本当は素直なひとだから、島の風景に心がほぐれるだろう。そうしたら、ゆっくり抱きしめればいいと思った。それまで我慢した方が、きっと貴方も燃え上がると。
だからキースが一人で駆け出した時、内心焦りながらも、落ち着いた足取りで追った。少し引き離されてしまったが、見つける楽しみができたと思えばいい。そう自分に言いきかせて。
「キース?」
その木陰を抜けた場所に、彼はいるはずだった。丸くなった高台で、逃げ場のない頂点である。草むらを踏んで、ウォンはそこへ出た。
「……早く、きて」
甘く掠れた声が、ウォンの下半身を直撃した。
暗闇の中、ぼうっと浮かび上がっているのは、一糸まとわぬ白い裸身。
潮風に吹かれ、星に照らされ、ウォンを濡れた眼差しで見つめている。
「はやく」
次の瞬間、ウォンは何もかもかなぐりすてていた。
キース。
私の愛しい貴方。
「ウォン」
かたく抱きしめあい口唇を重ねる。
ウォンは完全に燃え上がっていた。
ああ。
貴方が。
早く来て、だなんて。
たまらない。
脱ぎ捨てた服を敷き、表かえし裏がえし、ウォンはキースを責めたてた。キースも感じきっているらしく、ひどく敏感になっていて、甘い悲鳴が次々に洩れる。ウォンが引き抜くと、入れて、欲しい、と言葉でねだる。淫らに蠢く腰。夢かと思うほど求めてくる。本当は清潔なベッドが好きで、そこでないと愛撫を堪能できないひとのはずなのに。誰も聞いていないとはいえ、そんなにも声が出せる人だったなんて。
何度も締め付けられて、ウォンは自分の欲望を解放した。それでも興奮はおさまらない。もう一度最初から丁寧にキースを愛撫し、昂めていく。
「なんて白い肌なんでしょう。星あかりでも日焼けをしてしまいそう」
「いいよ、焼かれても」
だから早く続きを、とウォンの腰を足で引き寄せる。
「今夜は私が楽しめるように抱いていいのでしょう?」
「でも、そんなに焦らされたら、僕は……」
「これが、本当に欲しいの?」
「ぜんぶ欲しい」
「では、お望みどおりに」
空が白みはじめる頃、潮の味のするキスを交わして、やっと二人は身体を離した。
「そろそろ、バンガローに戻りましょうか」
「ウォン」
キースは小さく囁く。
「満足した……?」
「貴方は?」
キースはウォンの指に自分の指をからめながら、
「こんな風に、外で、何にも着ないでいるなんて不安な筈なのに、君がちょっとでも触ってくれると、安心する」
「ちょっと、解放感もあるでしょう?」
「うん」
普通男は、空気の中に裸身をさらさないものだ。みっともないというだけでなく、一番弱い部分が剥き出しになるからだ。だからこそ、絶対に安全な場所だと思わなければ、生まれたままの姿にはならない。だからこそ、解放感が大きい。
ウォンはキースの耳に口唇を寄せた。
「嬉しかったです。早く来て、だなんて」
「あれは」
キースは首をすくめた。
「脱いだら、寒かったから」
「早く暖めて欲しい、って?」
ウォンは満足げなため息をついた。
「借りを返すどころか、お釣りがきた感じですね」
「バレンタインのお返しだ」
「そうですか」
ウォンはそっと相手を抱き起こした。
その頬が輝いている。
「薔薇いちりんでこの身体を一週間独り占めできるなら、安いものです」
「僕だって」
「え?」
「……ううん」
よりそったまましばらく。
「帰って、少し眠りましょう」
「うん」
そしてまた太陽は沈み、夜が訪れて……。
(2003.3脱稿)
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Written by Narihara Akira
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