『剣の花束』


 1.

 退社時刻が近づいていた。
 大きな花束をぼんやり眺める。
 春らしい、うすももいろのカーネーション。
 会社をやめた娘が「お世話になりました」と持ってきたのだ。
 MJBの空缶に水をはり、むぞうさに投げ入れた。

 花束なんて、何時ぶりだ?
 幼なじみの結婚式、「次は貴女の番ね」とブーケを渡された時か。
 ひどく頑丈な花束で、花弁が乾ききった今も、寝室の箪笥の上で、そのまま埃をかぶっている。

 2.

 五時の鐘が鳴り終わると、外へ出て電話をかけた。
「おめでとうございます」
 受話器に向かって頭を下げる。
 話した相手はお祖母さんで、老いで声が震えていた。
 私の声も震えていた。
 お祖母さんが、おびえるほどに。

 自分のデスクに戻り、花束を掴み出す。
 切り口を濡れ紙で手当てして、むきだしのまま引っさげて、会社を飛び出す。

 幼なじみがついに娘を!
 とるものもとりあえず駆けつけなければ。
 面会時間が終わるまえに!
 その事のみを念じて走る。

 いや、むしろ終わっていてくれ。
 そうすれば看護師が花束を届けてくれる。
 それで充分ではないのか。
 やつれた人妻に、わざわざ会う意味はあるのか。

 ああ、やけに花束が重い。
 会社をやめたあの娘は、私の企みを知っていて、短刀でも仕組んでくれたのか?

 少女趣味な妄想だ。
 だがいっそ、そうであったら!
 ひどく重い花束なのだ。
 ぶらさげていて、手がしびれるほど。
 剣のように重いのだ。

 昔の騎士は偉かった。
 重たい剣を振り回し、自分の姫を守ったのだから。
 私の細腕では、とてもやりおおせないことをした……

 だが、この花束は私の武器だ。
 なにもなければ、逢う口実を作れない。
 もらいものの花束で誕生祝いにかえる、この暗い心持ち。
 花屋で花を買い直そうとはしない訳は、いったいなんだ?

 ああ、なんて重い花束だ!

 電車に揺られながら、暗い窓を覗く。
 うつる蒼白い顔を見る。

 あの人につりあう恋人になりたかった。
 しかし私の昏い何かが、その幸せを許さなかった。

 事情を察する者がいる。
 ある者はせせら笑い、ある者は同情し、ある者は親切な忠告さえしてくれる。

 しかし、そんなによこしまな想いか?
 臆病者と貶されるべきなのか?
 ただ、彼女を不幸せにしたくなかっただけなのだ。
 この薄汚れた魂で。

 駅は明るすぎるほど明るい。
 光と人波が溢れる。
 雑踏に入ると、花束が痛みだす。
 花が傷つく予感に、いっそ誰かに投げつけたくなる。

 胸の底で叫ぶ声。

《そこな者 退け!
 この剣が見えぬのか!
 押し寄せる者ども、みな切り捨ててくれよう!》

 大上段にふりかぶり、袈裟がけに何人を切り倒したか?

 花の青い血の香りが、私を正気に返す……。

 駅裏の売店で病院の場所を確かめ、線路沿いを歩きだす。
 ろくに街灯もない道を、わずかな店の灯が照らす。

 銃器店、本屋、果物屋……

 何故かこの街には、銃器店が多い。
 バスで一時間も揺られて行けば、優れた冬の猟場に出る。
 毎年一人は撃たれて死ぬ。

 産婦人科の看板ばかりが、高い所で輝いている。
 道はいよいよ狭くて昏い。
 なにやら出そうな雰囲気だ。
 こんな所で女性を襲う、ふらちな輩もいるまいが。

 入口にたどりつき、インターフォンを押すと、面会は御自由に、と許しが出る。
 足音を忍ばせてドアを押すと、赤ん坊の遠い鳴き声。
 弱く細く、そして長く、悲鳴のように……

 ああ、逃げだしたい!
 花束だけ置いて、帰りたい!

 3.

 思いきってドアを開ける。
 彼女は横たわっていた。
 少しも変わっていなかった。
 舌足らずな甘い声も、豊かな頬の深いえくぼも、少女の頃のままだった。
 私も、はにかみやの少女にかえる……

 互いを認める仲だった。
 相手の気持ちを計りながら、たわいのないおしゃべりで何時間も過ごせた。
 その内容が変わっても、いつまでもかわらぬ友だった。

 剣はほどかれ、水をはったミルクの空缶に投げ込まれた。

 重いコートを脱がずに座る。
 その中にすべてを押し隠して。
「所詮、この痛みは男の人にはわからないのよ」
 彼女の話を、うなずきなから聞く。
 面会時間の終わり、彼女は電話をかけるといった。
 起き上がった幼なじみに、私はカーディガンを着せかけた。
「ありがとう」と彼女はいった。
 電話のところまでついていく。

 彼女の小さな白い手が、ある番号を選んで回す。

 私は席を外した。それ以上なにもしなかった。
 できなかった。

 4.

 病院を追い立てられて、夜道をさまよう。
 屋台の飲み屋にはひとけがなく、
 映画館も早々と幕を降ろしていた。
 バス通りばかりが灯を残し。
 夜の早い街である。
 バス停に立って、澄みきった冬空の星座に挨拶する。
 《愛》の定義を考える。
 そんなことはどうでもいい。
 世間がなんといおうと、許されぬ恋であろうと。
 一緒にいるときは楽しく、離れているときには切ない。
 ただ、それだけのこと。

 こんな想いは信仰に近い。
 私はひよわな羊飼い、女神を慰めるために捧げ物を携えて、遠路はるばるやってきた――

 パラドックス?

 想いを断ち切る剣がなければ、誰とも結ばれることはない。
 どんな悲劇を望んで、私は剣の花束を運んだ?

 ゆえに花束は重かった……

《そこな者 去れ!
 この剣が見えぬか!
 去らぬ者は切り刻んでくれる!
 傷つけ! 傷つけ!
 我が胸の痛み、思いしれ!》

 今宵、清い白百合と眠ろう。
 根を切られ死んでゆくばかりの、白百合の花束と――

 まだ開いている花屋はあるだろうか?

 胸の底に刃物ひそめ、ただ痛みに耐えて夜を歩く、我、花束の剣の騎士の哀れさよ!




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(2019.1 テキレボアンソロ「花」参加作品。いただいた感想はこちら。最初のバージョンは1991年版で詩のページに収録されています)

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