『常 闇』


「三成よ」
秀吉の床の前にぬかづいていた三成は、その声で顔を上げた。
「後をおまえに託す」
老いた主君の低い呟きに、三成は目を潤ませて、
「そんな……秀吉様は、これからも私を導いてくださらなければ」
「永遠にそのままではいられる者はおらぬ。我とてよく、半兵衛なしでここまでやってこられたと思うておるわ。貴様がいてこそのことよ、三成」
「もったいなきお言葉。しかし、私も刑部あってこその」
「何を言う。吉継亡き後も、よく我を支えて来たではないか」
「ああ……あれからどれぐらい経ったものか」
三成は目を細めた。
かつて、大切な朋友がいた。何もかもを支えてくれる男が。
「我の左腕よ。たとえ独りになろうとも、我の理想を伝えよ」
「おおせのままに」
そう、朋友がいてくれた懐かしいあの頃は、すでにもう、遠く――。


三成は飛び起きた。
「無理だ、そんなことは不可能だ」
びっしょり汗をかいていた。
「私が、刑部なしで、永らえる、ことなど」
離れて眠っているだけで、こんな悪夢を見てしまうほどなのに。
「半兵衛様、やはり、私は刑部なしでは」


「やっぱり君たちは面白いねえ」
竹中半兵衛が軍師として豊臣に来たばかりの頃、佐吉と紀之介を目の前に二人並べて、
「どうやら二人一緒だと、ひとりで寝るより体力の回復が早い。お互いの精気を増やす力でも持ってるみたいだ。不思議だね」
「本当ですか、半兵衛様」
佐吉は目を丸くし、紀之介は無言で脇を向いた。
「目を覚ましたままなのに、眠ったのと同じように元気になるように見えるんだよね」
「おそれながら、半兵衛様。いくさばではいつも、紀之介が私を助けてくれます。不思議なことでも、特別なことでも、ないように思います」
「そうかい。なら、試しに少し離れてみるかい?」
「それは困ります」
佐吉は大真面目に、
「私は、紀之介なしでいられません」
「やめよ、佐吉。賢人殿は、われらをからかっておるのよ」
紀之介が低く叱責すると、半兵衛は笑った。
「いいや、僕は真面目だよ。君たちのその不思議な力を、常闇と名付けよう。特に連戦しなきゃならない時は、用心して、なるべく離れないで戦うといい」
「とこやみ?」
「君たちの仲に名前をつけられたら、嫌かい?」
「いいえ、半兵衛様」
佐吉は深く頭を下げて、
「至らぬ私も、これからは紀之介を少しでも助けられるよう、精進いたします」
「そうだね。がんばって」
半兵衛は、笑顔でしめくくった。
二人きりになって少し歩き出したとたん、紀之介はムッとした声で、
「ぬしの律儀さには、ほんにあきれるばかりよ」
「なにがだ」
「太閤への忠誠はともかく、賢人の冗談につきあう必要はなかろ」
「それは単に、半兵衛様の目に、私たちが助け合う仲と見える、というだけのことだろう。私への励ましとして言ってくださったのかもしれない」
「さよか」
佐吉はそれ以上、言葉を重ねなかった。紀之介は何かでくくられるのが嫌なのだ、だから拗ねているだけ、それだけのことだとわかっていたからだ。
だが、いつか彼も、半兵衛の言葉を呪いと思うようになった。
なぜなら、常闇が本当にある力だとしても、刑部の病は治せないのだから――。


佐和山から急ぎ戻ると、三成はすぐに下屋敷の、吉継の部屋へ足を運んだ。
「刑部、いるか」
「おる」
障子を開けると、吉継は文机に向かって書き物をしていた。
「何をしている」
「敦賀からの文がたまっておってな。名ばかりの領主でも、少し片付けておかねばと」
「なら、忙しいな」
「閑ではないが、ぬしは何用よ」
「いや。貴様の邪魔はしないから、ここにいてよいか」
吉継は首をかしげた。
「なんぞ戻れぬわけでもあるのか」
「いや、理由は……」
言いよどむ三成を見て、吉継はため息をついた。
「まあよい。好きにしておれ」
「いいのか」
「邪魔をせぬなら、よ」
「わかった」
三成はいったん廊下へ引っ込むと、吉継と同じような文の山を持ち込んできた。
「あまり散らかさないようにするから、ここで仕事をさせてくれ」
吉継は文の端をじっと見つめて、
「佐和山のことなら、相談にのれぬでもないが」
「邪魔はしないといったろう」
「さよか」
吉継は本当に多忙らしく、三成が自分に背を向けて文を広げだしたのを見ると、書状の続きを黙ってしたため始めた。
かすかに紙が動く音、筆が走る音。
二人は無言で己の作業に没頭していた。
先に筆を置いたのは、吉継の方だった。
「われは済んだが、ぬしはどうよ」
「もう少しだ。気にしないでくれ」
吉継は小姓を呼び、書き上げた文を持たせ、茶の用意を命じた。
二人分の薄茶が届く頃には、三成も持ち込んだすべての文を片付けていた。
「すまない。気を遣わせた」
三成は膝を揃えて頭を垂れた。吉継は笑った。
「ぬしの口からそのような言葉をきこうとはな。疲れたであろ、少し休め」
「いや、すっかりはかどったし、疲れていない」
「冷める前に喉を湿すぐらいは、よかろ」
「すまない、ありがたくいただこう」
三成は薄茶を飲み、ほうっとため息をついた。吉継はその様子をあたたかく見つめながら、
「小姓の頃は、こうしてよく、ぬしと一つ部屋で、いろいろとすませておったなァ」
「そうだな。刑部のそばにいると、なんでもはかが行った。いや、今でもだ。頭がすっきりした」
「ぬしはもともと手が速いゆえなァ。なんでも片が付けば、セイセイするであろ」
「刑部」
「ん?」
「半兵衛様が、常闇という言葉を使ったのを覚えているか」
「アア」
吉継は苦笑した。
「賢人のまじないが今でも通用するとは、ほんにぬしは、素直というかなんというか。なるほど、気の進まぬ文を片付けたくて、ここへ来たのか」
「刑部は今でも信じていないのだな」
吉継はふむ、と考え込んだ。
「なんぞ、独り寝のせいで、夢見でも悪かったか」
三成はドキリとした。寝ていないような顔をしているのか。やはりあの悪夢のせいで顔色が悪いのか。
「まあ、われのような者は、常に闇の中にあるのとかわらぬがな。まともに構うのはぬしぐらいのものよ。おかげで隠居もできぬが」
「したいのか」
「いずれはな」
「私は、貴様なしでは……」
「われはな。正直、ぬしとおると、気が散る」
「え」
三成は凍りついた。
吉継と同じ部屋で仕事をしているうち、三成はすっかり気持ちが落ち着いて、目の前の仕事に集中できた。静けさの中で、幸福感さえ感じていた。吉継もそうかと思っていたのに、まるで正反対のことを言われてしまうとは。
「しかも、こんな明るいうちから」
三成はハッとした。
二人きりでいると意識してしまうのか。
触れて欲しいと誘われているのか。
「刑部」
「ぬしが山から戻るのは、早くても明日かと思うておったから、あまり身ぎれいにしておらぬ。来るなら夜にせよ。常闇がほんにあるなら、なおさらよ」
目を伏せがちにそういうので、三成は即座に立ち上がった。
「わかった。今宵、もう一度来る。考えて見れば、私も旅の埃を落としきっていなかった。気を散らせてすまない」
そう言うと、本当に座敷を出て行ってしまった。
吉継はため息をついた。
「やれ、われが先に朽ちた夢でも見たか……」
重い病の身にしてみれば、それは夢ではなく、そう遠くないうつつの話なわけだが、三成は朋友の滅びを意識の端にのぼらせただけで、こうして飛んできてしまう。その極端な傾心は時に重荷なのだが、三成に隅々まで愛され、熱い肌に抱かれて眠る喜びは何にも代えがたく、ばっさりと捨ててしまうことができない。
「ぬしには、われのぶんまで働いてもらわねば困るというのに」
だが、自分が滅びた後も、忙しく仕事に励むだろう三成の姿を想像したとたん、吉継の背筋は冷えた。
三成には太閤がいる。
太閤が無事なら、その身を惜しまず豊臣に尽くすはずで、たとえその傍らに、この身がなくなったとしても――。
目の前が暗くなった瞬間、足音が障子の前で止まった。
「戻った」
「どうした、何か忘れたか」
三成は浴衣を持って現れた。
「じきに暗くなる。なら、風呂も共にすませればよい」
「いや、それは夕餉をしたためてからで」
「なら、夕餉から共にする。だめか」
吉継は苦笑した。
「ぬし、いいかげん、見飽きぬのか、われの顔など」
「飽きない。それに、刑部の顔は好みだが、顔で好きになったのではない。だからどんな暗闇の中でも、貴様が欲しい」
「さよか、さよか、もう、ぬしの好きにせよ」
冗談めかして流したが、吉継は胸の奥が温かくなっていくのを感じていた。
半兵衛の冗談は今も信じていないが、常闇とは己に似つかわしい言葉と思っている。
豊臣の者なら二人の仲を知らぬ者はないというのに、この身が秘めている微熱を、目の前の男にまともに告げることすらできない、素直になりきれない心を知っているからだ。
「刑部」
「ん」
「そんなことをいうと、本当に好きにしてしまうぞ?」
目の前に薄いくちびるが降りてきた。そのまま、甘く吸い上げられて――。


(2017.6脱稿)

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Written by Narihara Akira
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