(承前)

5.哄笑――どちらが敗北か

キース・エヴァンズは、蒼の瞳をウォンの上にヒタ、とあて、
「私が部下をひそませていたのはこのホテルの中だけではない、こんなこともあろうかと、近くにあるヘリポートの類には、すべて監視の目をひからせておいたのだ。サイキッカーには多かれ少なかれ飛行能力がある。君のことだ、増幅装置でも発明して、何人かがかりでクリス嬢をあの窓から運び出して、ヘリで移動できる場所まで連れていったな」
「ハハハハハハ!」
ウォンはいきなり笑いだした。
「キース様ともあろう方が、その程度の推察しかできませんか」
実際の計画はこうだった。
彼はブラドを使ってソニアをそそのかし、ライアン氏の薬に強い催眠薬を混ぜさせる。義理の父がすっかり眠りこんでしまったところで、ソニアが窓を開ける。その後、ブラドが重力を操る力をもって、彼女を窓から救い出す。そんな訳で、報道関係を装ったヘリの置いてあるビルの上まで、ソニアはふわふわと無重力の旅を楽しんだのである。
超能力者ならではのわざだが、手品ともいえぬ素朴さといえる。
が、キースの想像のレベルは越えていた。クリスの救出も部下頼みの芸のない仕方、この口ぶりでは、ブラドが能力を使っているところを目撃した訳でもなさそうだ。
なら、こちらにやや分があるというもの。
「だいたい、クリス嬢を連れだしたサイキッカーとやらが捕まった訳ではないのでしょう。何を証拠にそんなことをおっしゃるのです」
「貴様……」
「そうですね、痛みわけ、ということにしておきましょう。なに、今回は小手しらべです。クリス・ライアン嬢を盗み出す機会は、これからいくらでもあるでしょうし」
「なに、まだやるつもりなのか」
ウォンはすうっと顎をひき、口唇をひきしめて笑顔を消した。
「ええ。貴方が彼女を守ろうとしているので、本当に身体ごと欲しくなりました。私は決して断念しませんよ。……では、今日はこれで」
さっと両手をかかげる。
「時よっ!」
ギャーン、とあたり一面に超音波が響き、瞬間、周囲の視界が灰色になった。
ウォンのサイキック――時が止まったのだ。
次にキースやライアン氏が気付いた時には、派手めかした東洋人の姿はかき消えていた。
「おのれ……」
キースはすぐに部下に追手をかけさせたが、結果は期待していなかった。どんなに訓練された軍人達も、テレポートが自由自在の男を追跡するのはほぼ不可能だからだ。
彼は、宝石商の肩に手をかけて、ゆっくりと抱き起こした。
「ライアンさん、今回はなんとかお嬢さんを守ることができましたが、犯人を捕まえるのは至難の業のようです」
薬の効果でまだ朦朧としているライアン氏は、それでも弱い笑顔をつくって、
「犯人などはどうでもいいんです。どうせ事情のある娘ですし、今までも、商売仇に狙われたことがあった」
キースに支えられて、よろよろと立ち上がる。
「エヴァンズ少佐。今後もクリスをよろしく頼みます。どうか、あの娘を」
「わかりました。……いや、どのみちあの賊を相手にすることになりそうですが」
空を見つめて、キースは苦く呟いた。
ただ、その顔に浮かんだ表情は、してやられた悔しさというような単純なものでなく、もっと微妙な感情を表していた。本人さえ意識していない、不思議な笑みのいろだった。

★ ★ ★

走り続けるベンツの中、後部座席でずっと首を垂れていたブラドは、沈黙に耐えかねたように口を開いた。
「すまねえ。俺のせいで失敗しちまって」
ソニアこそ奪われたものの、ブラドはキースの部下達の目を盗んでなんとか逃げだしていた。予定されたルートでないところをむやみに走っていると、これもやはり無事に脱出してきたウォンが、車で追いついてきて、彼をさらうように中へひっぱり込んだのである。
「ブラドのせいではありませんよ」
並んで座っていたウォンは、いつものほがらかさで答えた。
「むしろ悪いのは、キース様の部下の数を把握しそこねていた私の方です。まあ今回も、ソニアとキース様と直に接触することによって、得るものはありました。ソニアの身体は私のつけた増幅装置をつけているようですし、キース様のサイキック能力は以前より落ちています。すぐ外での超能力の発動にも気付きませんし、テレパシー送信能力も低下しています。再生計画は万全ではないのですよ」
断言しつつ、ウォンの瞳には暗い火がともっていた。
ミュータント化した人間は万能でない。調子の悪い時もある。規格化された機械ではないから、あのサイキッカーなら出来ることも、このサイキッカーに出来るとは限らない。
人間、なのだ。
サイキッカーがいかに優れようと、やはりそれは人間なのだ。
キースの再生が完璧だとしても、すべてにおいて完璧とは限らないのだ――
彼は目を閉じ、できるだけやさしい声を出した。
「ブラド、まだ機会は充分ありますから、自分をあまり責めないでください」
「あ……ああ」
何故かブラドは慰めの言葉に気のないうなずきを返した。さぐるような瞳をして、
「あのよう、ウォン」
「なんですか」
ブラドは、顔を背けてひどく言いにくそうに、
「おまえの昔の恋人ってのは、キースだったんだな」
「ああ!」
ウォンは静かに微笑んだ。今更隠しても仕方のないことだ。自分の手にかけた相手だの、ブラドに少し似ているだの、ヒントを沢山与えすぎてきた。
「そうです、キース様です」
するとブラドは、口唇を奇妙な笑みに歪めた。嫉妬と嘲りの混じった声で、
「……なら、逢えただけで嬉しかったろうな」
ウォンは軽く肩をすくめた。
「いいえ。別に嬉しくはありませんでした」
「なんでだ」
嘘をいうな、とブラドは全身に怒りをこめて問いただす。ウォンは首を振って、
「なにしろあれはキース様ではありませんから。一度死んだ者なのですから、もう別人です。だいたい、人間の一生というのは、一度きりであるからこそ貴重なものなのです。簡単に再生されるべきものではないのですから」
「そうなのか」
半信半疑のブラドの口調はやや勢いを欠く。
「しかしよ、東洋人ってのは例えば、輪廻転生とか信じねえのかよ」
するとウォンは急に表情を厳しくして、
「ブラド」
「あ?」
「貴方は、もう一度恋人を殺したいですか?」
「なに、どういう意味だ」
思いもよらぬ答に混乱したブラドに、ウォンは教えさとすように、
「確かに――子供の頃やはつらつとした十代をやり直したい人は多いかもしれません。強い喜びや気楽さをもう一度味わいたいと思う人は。しかし、新しい人生をスタートできたとしても、いいことばかり起こる訳ではありません。過去は美化されてしまいがちですが、本当は厭なこと、辛いことの方が多いでしょう。それをもう一度繰り返したいですか? 生まれ変わっても、恋人を絶対に殺さずにすむ保証はないのですよ。来世なら完全な生涯を送れるというような脳天気な夢をみて暮らせるほど、私も驕ってはいません」
「ウォン……」
「輪廻の概念は否定しません。が、どんな喜びも悲しみも辛さも、一度きりの人生だからこそ耐えられるのではありませんか。私は決してやり直したくありません。たとえそれで、自分の大きな過ちを正すことができたとしても――」
その声はしみじみと深く、いつになく重い口調だった。
ブラドは再び視線を窓の外へ向けた。
「あいつが死んだ時、そんなに辛かったのか」
ウォンは乾いた笑い声をたてた。
「あなただって恋人をなくしたでしょう。楽しいことではなかったでしょう」
「ああ、辛かったさ。だが、おまえほどじゃねえ」
つらい、の意味あいが違う。
なくしたことがつらいというより、裏切られたことがつらいのだ。
ブラドは恋人を信じていた。記憶をなくし、街角で茫然と立っていた彼に、レオは本当に親切にしてくれた。何もかも与えてくれた。名前だけでなく、食べるものも当座の働き先も。レオは、ブラドが帰れる場所の筈だった。灰いろの瞳に黒い髪、ユダヤ人らしい怜悧さ勤勉さ、それからいつも暖かく包み込んでくれる身体――すべてを愛していた。レオが父であり母であり、正式な配偶者ではなくとも家族の関係を結べていると思っていた。
だから、恋人が自分を利用していたと知った瞬間の、あの衝撃と激情は――
《ああ、あいつは二重人格だから、自分が夜中に人を殺してるなんて記憶がないのさ。まだまだ使える。人殺しが好きらしくて、楽しそうにやってる。長い爪をひらひらさせて馬鹿笑いするんだ。なんにせよ、あいつの手品は凄いぜ、空中に紫色の蛇を出したり、溶岩みたいなでかい岩を出して人を押しつぶすんだからな。後始末もたいしてしなくていいんだ。警察も、いったいどうやって殺したのか想像もできないらしい。なにせ超能力さまだからな!》
あれはレオの誕生日だった。彼が好む白い薔薇を沢山買って、夕方のアルバイトを早めにひけたのだった。もう少し遅く帰っていたなら、あんな電話をきかなくてすんだ筈だった。あまり品のないしゃべり方なので、話しているのが彼だということがにわかに信じられないほどだった。話の内容が自分のことだということもとっぴすぎる気がした。
しかし、その声高な内緒話は更に悪い方へ転んだ。
《目撃者? 俺がヤバくなることはないのかって? ヤバいのは殺しをいつも頼んでるおまえの方だろ? 今までうまくやってきたんだ、大丈夫さ。俺がひろった男なんだから、俺の好きに使わせてもらう。なあに、あいつは自分のしたことを何もおぼえちゃいないんだ。もし危なくなったら、寝てる時にでもズドンとやっちまえばいいんだ、簡単さ。正気の時のあいつはとんでもない臆病者だからな。まともに口説くこともできやしないから、俺が手とり足とりしてやんなきゃなんないぐらいなんだからよ。……なんだ、おまえ妬いてんのか? 馬鹿だな、俺が愛してるのはおまえだけだ。おまえだけだよ。あんなクズ野郎、全然恋人でもなんでもねえや》
その瞬間、ブラドは正気を失った。
すぐに我に帰ったが、目の前の恋人は薔薇の花束とともに朱に染まっていた。
レオは頭の悪い男ではなかったが、ひとつだけ見込み違いがあったようだ。別に超能力など使わなくとも、二重人格のもう片方がでてこなくとも、ブラドは充分人を殺せるのだということを。
ブラドだって、まるで気付いていなかった訳ではなかった。もしかして自分がサイキックなのではと思っていた。だが、レオを信じていた。悪い予感にはすべて目をつぶっていた。
それなのに。
「俺は、好きだったからレオを殺した。だが、あいつを殺した時に、好きだって気持ちも死んじまったんだ。だから、あいつが生きかえってきてもただ憎いだけだ。万が一謝られたとしても、ただ悲しいだけだ。でも、おまえは違うだろ、なあ」
「ブラド……」
ウォンが何か言いかけるのをさえぎって、
「今更隠さなくたっていいじゃねえか。おまえはいつも泣いてる。自分のしたことを死ぬほど後悔してる。毎晩のようにあいつを思いだしてんだ。今でもあいつが好きなんだ。もう一度逢って、恋心に押しつぶされそうになってんだ。そうだろ」
今度はブラドが乾いた笑い声をもらした。
「羨ましいこった、そんなに愛されるなんてな。おまえは何でも自由になる男なのに。いくらでも新しい相手を見つけられる筈なのに、あいつしか目に入らないんだろ。少しでも昔のあいつらしいところを見つけたら、すっかりへなへなになっちまうんだろ」
ウォンは眼鏡を外した。
胸のポケットに収め、ブラドとは反対の窓に顔を向ける。
「……おかしい、でしょうね。あなたには笑われて当然だと思います」
「いや」
ブラドは首を振った。
「そういう意味で笑ったんじゃねえ。俺の方がもっと馬鹿だ。いろんな意味で馬鹿だからな」
ウォンは答えなかった。
振り返りもせず、流れる景色を見つめている。
沈黙が再び重くのしかかってきて、ブラドが先にその圧力に負けた。
「なあウォン、確かめるだけでもしといた方がいいんじゃねえのか。一生は一度きりなんだろ、今度こそ後悔しないように、本当にあいつが昔のままなのか……」
「ブラド! いいかげんこれ以上煽らないでください!」
ウォンの怒鳴り声は、運転手も驚くほど大きかった。
いや、当の本人が一番驚いていた。すぐに頭を垂れてブラドに謝る。
「すみません、私は……」
認めなければならなかった。
逢えて、嬉しかった。
毎晩のように思いだしていた。自分のしたことを死ぬほど後悔した。もう一度逢って、恋心に押しつぶされそうになっている。いくらでも新しい相手を見つけられる筈なのに、他の人間は目に入らない。キースが生きているという話を聞いてから今日この日まで、何度心を揺らし、胸がはりさける想いをしてきたか。
どうとりつくろったところで、隠せない情熱だった。
「俺こそ済まねえ。何にも知らねえのに、余計なこと言っちまって……」
ブラドがしょげかえるとウォンは顔をあげた。
「いいえ、確かにごまかしです。いっそ亡い人だと思う方が楽なので、私はあれをキース様だと認めたくないのです。あのひとには、私を憎む理由が多すぎます。彼ばかりでなく、その友人も手にかけました。決して許してはくださらないでしょう。ですから私は……」
「やめろって」
ブラドはウォンの肩に手を回し、同胞の親しみをこめてひきよせた。
「過去のやり直しができなくたって、未来ってもんがあるだろ。最初からあきらめるなんざ、おめえらしくねえや。時間が操れて人が騙せて、あと何がこええんだよ」
「そうですね。……ありがとう、ブラド」
ウォンはようやくいつもの微笑を取り戻した。
そして、そのままブラドに肩をあずけてしまった。彼はかえって困ってしまい、しばらくぶつぶつ呟いていた。
「そうかよ、そんなに好きとはな」
「ええ」
「ここまでノロケられちゃあ、あきれることもできゃしねえ」
「すみません」
「だから、やめろってえ」
「そうでしたね」
女のように長く流れる相手の黒髪を見つめながら、ブラドはため息をついた。
自分には、どう考えても勝ち目がない。信頼して身を寄せてくれはするが、それ以上のことはありえまい。
口説いてうっかり寝たりした日には、さぞ悲惨な思いをするに違いない。くわばらくわばら。ここまで惚れさすない、馬鹿野郎。
「そんなことを言われましても……」
ウォンがそう呟いたので、読心術でも使われたのかとドキリとした。
違った。
目を閉じた彼は、緊張がとけたらしく、安らかに眠りこんでいたのだった。
「馬鹿野郎」
そう言うブラドの胸に湧きおこる想いは、様々に色を変えた。
「馬鹿野郎……そんな不用心にしてやがると……襲うぞ」
襲える筈もなかったが。
なにしろ彼は臆病者だ。まして、この男が相手では。
「頼むから、泣きながらキース、とか名前を呼ぶようなことだけはしてくれるなよ……」
ため息をついて、ウォンの目が自然に覚めるまで、じっと肩を貸すのだった。

6.籠の鳥と外の鳥

ロサンゼルス、ヴェバリーヒルズの一角に、大宝石商ジョージ・ダーリング・ライアン氏の邸宅がある。この頃、その屋敷を取り巻くコンクリートの塀の上に有刺鉄線がはりめぐらされ、高圧電流が流れている。庭園内にもレーザー光線がはりめぐらされ、侵入者を焼き殺す仕組みになっている。どの部屋にも監視カメラがつけられ、二十四時間誰かが異常がないか見張っている。建物の要所要所の窓には頑丈な鉄格子がはめられて、中世の城か座敷牢という有様だ。
クリス・ライアン嬢は、その鉄格子を張ったひと部屋に、監禁同然の身の上となっていた。次の間にばあやが、反対の部屋にはキース・エヴァンズ少佐が寝泊まりをしていて、玄関脇には三人の部下、その他数人の召使い達が、クリス嬢の部屋を遠巻きにし、ことあれば駆けつけんものと手ぐすねひいて待ちかまえていた。
クリスは部屋に閉じ込もったまま、一歩も外出しなかった。大学はちょうど夏期休暇中、彼女は外へ出る必要がない。まんいち部屋を出る時には、必ず家族なりキースなりがつきそっていた。
いかな黒蜥蝪――リチャード・ウォンといえども、これでは手も足も出ないに違いない。ライアン氏達がロスの自宅に戻ってからもう半月が過ぎているが、賊の気配は全く感じられなかった。
そう、それは彼らの緊張が次第に薄れてきた頃のことに起こった。
「これでは、文字どおり籠の鳥だわ」
クリスは読みかけのコリン・ウィルソンを閉じ、窓辺に寄ってため息をついた。
「どうしているかしら……ブラド」
慕わしい、その名。
今までは、恋というには淡い想いだったが、こうして逢えなくなってみると、彼という存在のかけがえなさが身にしみてくる。
春先にUCLAのキャンパスで出会ってから週に一度、いやそれ以上一緒に過ごした。
ブラド・キルステンというドイツ青年は、自分の生活史がすっぽり抜け落ちているといいながら、達者な英語でかなりの知識を披露した。かなりの不良青年だったと言いつつも、いつも慎ましく紳士的だった。いかにもボンボンらしい薄っぺらな婚約者とくらべて、どれだけ好ましく思われたか。
だから、半月前の誘いは、まるで夢のように思われた。
「いいかい、君に一つ手品をみせるからね。今晩十一時過ぎ、君の部屋の窓を開けてくれ。ホテルからうまく抜け出させる。お養父さんなんか眠らせて僕のところにおいで」
五つ星ホテルで彼に出会った時、その服の上等さにまず驚かされたが、すれ違いざま自分のポケットに、誰の目にも触れない速さで通信文と睡眠薬を滑り込ませた手技は魔術の域だった。
その後、初夏の空をゆっくり飛んだ爽快さ。
自分の身ひとつで軽やかに、ネオンの海の上を泳いだのだ。養父の扱う宝石よりもはるかに美しい夜だった。
不幸にしてあの晩は、無粋なキースの部下達に捕まってしまったが。
「ブラドはもう一度、私を救いだしてはくれないのかしら」
彼の方は、無事逃げおおせたらしい。
それは彼女にとって、大きな救いであり慰めだった。
「あのひと、本当に何者なのかしら。それに、私も」
過去がないという共通項だけでなく、ブラドはもう一つ、彼女とわけあう秘密があるようなことをほのめかしていた。
「君は、他のひとと違うオーラを持ってる。淡い碧いろの輝き――君には特別な力があるんだ。自覚してないかもしれないけど」
「特別な力?」
「そう。僕は知ってる。君と同じ力を持つ人達を。君がライアン氏のお嬢さんとして穏やかに暮らしていくだけならいらないものだけど、でも、君の将来には絶対に波風がたつだろうな。その潜在能力を狙っている者がいるんだ」
「そんな」
「そうだね、信じたくはないだろうな……」
急におし黙る彼の横顔に浮かぶ表情の翳りが、言葉に真実味を加えた。
そして、ブラドがなした空中遊泳のわざ。
「私にも、あんな力が少しでもあるのかしら」
例えば自分に、この鉄格子をねじまげる力があったら。
十センチほどのすきまを、せめて倍に広げることができたら、こんな窮屈な場所から逃れられるのに。
ラプンツェルのように不自由な生活は、もういやだ。
「……あら」
ため息に沈むクリスを慰めるように、一羽の小鳥が彼女の窓辺にやってきた。
夏の鳥らしい、太陽のような明るいいろをしている。
「どうやってここまで飛んできたの」
彼女は思わず鳥に話しかけた。庭にはある程度の高さまで、レーザー光線がはりめぐらされている。つまり、侵入する者は小鳥まで、容赦なく焼かれていたのだ。無事にこの窓までたどり着くものはごくわずか――クリスは黄色い鳥の幸運を喜んだ。
「そうよね。別に、空を飛べれば安全で幸せという訳でもないのよね」
小鳥の胸の前に人差し指を置き、手にとまらせる。鳥のぬくみを楽しみながら、顔の前までもってくる。
「おまえ、ひとなつこいわね。誰かに飼われていたんでしょう? ……あ」
鳥の足には、小さい通信用の管がつけられていた。クリスは監視カメラにくるりと背を向け、
「くすぐったいわ、そんなに爪をくいこませないでね」
呟きながら管を外し、スカートのポケットに滑り込ませた。
「また、私の窓へいらっしゃい」
用事がすむと、クリスは鳥を鉄格子の外へ逃がしてやった。
後でゆっくり、カメラの届かない場所で通信文を読むつもりだった。今度こそキース・エヴァンズを出しぬかなければならない。充分注意しなければ、と。

翌日、クリス・ライアンは、悠々と自分の家の裏庭を歩いていた。
エヴァンズ少佐は、急な軍の指令があって、仕方なくライアン邸を離れていた。
監視カメラをのぞいている彼の部下は、いつもと同じ、生き物不在の庭を見ていた。監視カメラのテープがかけかえられて、別の日の映像を見せられているのにも気付かずに。
殺人光線の方は、一時的に故障していた。
クリスが、やったのである。
昨日の通信文には、こんなようなことが書かれていた。
《とらわれの姫よ。
実は君はバイオメティック・オーガナイズド・ウェポニック・ヒューマノイド――一種のサイボーグなんだ。電気を体内に蓄積していて、自在に使うことができる。君の心臓の部分にその増幅装置がついていて、一瞬でレーザーを沈黙させるだけの力があるんだ。庭と君の部屋の監視カメラは、邸内の召使いを買収して使いものにならないようにしておく。キースは偽の軍の命令で遠ざけておく。だから君も、自分で殺人光線を壊して逃げ出すんだ。いいかい、そこは自分の庭なんだから、堂々と歩いて外へ出てくるんだよ。僕は裏口で待っているからね。――ブラド》
ああ、この身体が生身でないとは!
にわかに信じられない話だった。
この身体、つくりものにしてはあまりによくできている。違和感を感じたことはほとんどない。
しかしそれが真実ならば、自分に記憶の不自然な欠落がある訳、こんな大金持ちの養女にされた訳、なにかあれば軍の人間がとんでくる訳――様々な疑問がとける気がする。
彼女は手紙を信じ、指示どおりレーザーを故障させた。機械に過電圧をかけ、一時的に作動しないようにした。何の道具もつかわず、ただ素手で念をこめただけで。
これが、自分の特殊な力――
ブラドも、やはり機械化された人間なのだろうか。
「逢えばわかるわ」
今度こそ、彼は何もかも話してくれるだろう。
私達は何者なのか。
彼は何をするつもりなのか。
「もう、籠の鳥にはならない」
きっぱりとそう言い切って、彼女は堂々と庭を横切っていった。
キース・エヴァンズが偽の命令に気付いて戻ってきたのは、それから何時間もたってから、クリス・ライアンが用意された車に乗り、遠くへ去った後だった。
今回の誘拐作戦は、こうして見事成功したのである。

7.すべての再会

その夕方、西海岸を南下する二百トンにも足らない小汽船があった。ちょうど凪の時間、鏡のような海原を、見かけによらない快速力で、船は目的地めざしてまっしぐらに進んでいる。
外見は何のへんてつもない真っ黒な貨物船だ。だが、船内には貨物倉などは一つもない。外のみすぼらしさに引きかえ、ハッチを降りると驚くほど立派な船室がズラリと並んでいる。貨物船とみせかけた客船、いや、客船というよりも一つの贅沢な住宅だった。
それらの船室のうち、船尾に近い一室は、広さといい調度といい、きわだって立派に飾られていた。おそらくこの船の持ち主の居間に違いない。敷きつめられた高価なペルシャ絨毯、真っ白に塗った天井、船内とは思えないほど凝ったシャンデリア、アンティークらしい飾り箪笥、ビロードの敷物に覆われた丸テーブル、ソファ、幾つかのアームチェア。
その一つに身を深く沈めていた長髪の東洋人――リチャード・ウォンは、戸口にそっと立った青年にねぎらうような声をかけた。
「そんなところにいないで、こちらへきて座ったらいかがです。疲れたでしょう」
「別に疲れちゃいねえが……」
といって、さからう必要もない。ブラドは歩を進め、相手の斜向いの椅子に腰をおろした。それを待っていたかのように、ウォンが再び口を開いた。
「ソニアは――クリス・ライアン嬢はどうしていますか」
「ああ」
そこでブラドははじめて疲れを感じたような顔をした。
「嬢ちゃんは部屋でおとなしく休んでるよ。ちょっと話もしてみたが、けっこう混乱してるみてえだ。自分がよ、ソニアって名のサイボーグだったってのは納得してくれたんだが、超能力の方は今ひとつピンとこねえらしい。アメリカ人ってのはインチキSFを喜ぶ人種だと思ってたがな――ノアの頃の記憶がねえからなのか?」
ウォンは、青年の素朴な感想を喜ぶように、
「アメリカ人の精神構造はともかく、ソニアはオーストラリア出身ですよ。サイボーグだと納得したのは、やはり、生身の身体とは違う部分があるのを自分でも薄々感じていたからなのでしょう。いくら私のバイオロイドが完璧でも、微妙な個体差や女性特有の感覚までは再現できないということですね。あれはもともと、兵器用に開発したボディですし」
「そうか。まあ、そうなんだろうな」
ブラドはうなずきつつ、ウォンの表情をそれとなくうかがう。
ここへ来たのは、もっと素朴な疑問をぶつけるためだった。
「なあ、ウォン」
「なんですか?」
「その……なんだかよ、えらく簡単に嬢ちゃんを盗み出せちまったよな」
ウォンは単純に肯定した。
「そうですね」
「あれじゃあんまり簡単すぎやしねえか? 向こうさんだって、そうとうの準備をしてきた筈だろうによ」
ウォンはいつものほがらかな笑い声をあげた。
「そうですね。しかし、前回からやや時間がたって、ちょうど警戒心がゆるむ時期を狙いましたからね。それに、厳重な警戒にも、必ず限りというものがあります。人間を少なくすれば目がゆきとどかなかい部分がでますし、人間を多くすれば、スパイをもぐりこませるのが簡単になります。スパイといったってこちらの人間を使う必要もありません、向こうの人間の素性や過去を洗って、うしろ暗いところのある者をゆするなり人質をとるなりするば、なんとでもなります。執念と時間と金さえかければ、たいして頭を使わずとも、大概のものは盗み出せるものです。なにしろ人間のすることですから、そんなに完全ではないんですよ」
するとブラドはますます不安そうに、
「そうだ、人間のするこったから完全じゃねえ。厳重な警戒ももろいもんだろうさ。だがよ、せっかくさらっても、尾行されてたらどうすんだ? 簡単にはふせげねえんじゃねえか? たとえば嬢ちゃんに、特別な発信機がついてるとかよ、なあ……」
するとウォンは、すう、と細い瞳を閉じて、
「つけられていてもよいのです」
「ウォン」
「いっそ望むところです。ノアと軍は、いつかは戦わねばならないのです。この船だって充分に武装してあります。基地までつけてこようと、侵入しようと、サイキッカーの皆で撃退することができます。今までも何人も強奪してきましたが、なんの危険もありませんでしたよ」
「なるほど、どうせしょっちゅう喧嘩を売ってんだからってことか」
考えてみれば、ウォンにとってはいつものことなのだ。自分だって、彼の手で救い出された一人ではないか。
「ブラド」
「なんだ?」
「今夜はしばらくソニアについていてください。話し相手をしてやってください」
ブラドは眉をしかめた。もう、お嬢さんをたぶらかすような真似はしなくてすむと思っていたし、この場を追い払われるような物言いだと感じたからだ。柔らかく抗議する。
「話し相手っていっても、俺はあんまりノアのことや昔のことは知らねえしよ……」
ウォンは冷たい微笑を浮かべ、
「いえ、急いでノアの事情や、彼女の過去を詳しく知らせたりする必要はありません。それよりも、落ち着かせることが大切です。精神状態がよくない状態では何も受け入れることはできません。今は、信頼のおける相手と充分な時間を過ごさせることが大事なのです。彼女には、あなたが必要なのですよ、ブラド」
その言葉はソニアに対する優しさに満ちていて、一瞬ブラドは、ウォンの過去の恋人がソニアではないのかとさえ思った。つい皮肉めいた口調で、
「そうか、おめえは今晩は俺が必要じゃねえんだな」
「ブラド」
ウォンは椅子から立ち上がり、ブラドの肩に手をかけた。顔を近寄せ、
「私はいつでもあなたが必要です。ですが、ソニアも大切な同志なのです。優しくしてあげられるでしょう? 信じていた人に裏切られた過去のあるあなたなら、なにをしたら彼女を傷つけずにすむか、よくわかっているでしょう。彼女をいたわることは、私にはできないんです」
「おい、おまえ……」
そこで急に抱きすくめられて、ブラドは戸惑った。
ウォンの息が耳元をくすぐる。
「いいですか、あなたは本当にいい青年ですから、私など決して好きになってはいけませんよ。愛するものを傷つけることしかできない者なんですから――」
ブラドは、すぐに返事ができなかった。
なんと残酷な拒絶。
こちらの心を知っていながら抱きよせ近よせて、あげくにポンと言葉で心で遠ざけようとするとは。いっそ、嫌われたり無視されたりする方がましかもしれない。こうして肩に相手の体温を感じるだけで、胸が苦しくなるのだから。
「わかった。嬢ちゃんの部屋に行ってくるから心配すんな」
「そうしてください」
ブラドはゆっくりと部屋を出ていった。
彼の背は、まるで重いものがのしかかっているかのように丸められていた。かつて、彼が恋人を殺した晩のように。

★ ★ ★

室内にはシャンデリアがあかあかとついているが、鉄板の壁一重の外は、もうとっぷりと日が暮れて、見渡す限り黒い水、黒い空。静かとはいっても、山のようなうねりが、間を置いては押し寄せてくる。そのたびごとに哀れな小船は、無限の暗闇に漂う一枚の落葉のように、たよりなくゆれている。
ブラドが出ていってからしばらく、ウォンは長椅子に沈みこんでいた。ブランデーグラスを掌の中でもてあそび、酔いが軽くまわってくるのを待っていた。
「キース様……」
つけられていてもいい、という言葉の本当の意味。
そう、ウォンは、キース・エヴァンズに追いかけてきてもらいたかったのだ。前回のように誘拐を阻止しないなら、絶対に尾行してくると思っていたのだ。
だが、その姿いまだ見えず。
ウォンの飢え渇きは、酒の効果でさらに増しつつあった。
「触れなければよかったのか……いっそ抱き合わなければ、こんな飢えを感じることはなかったのか、私は……」
逢いたい。
触れたい。
それだけのために、この計画があった。
今回のソニアの奪回は乱暴で強引なものだった。大勢を巻添えにする可能性があった。いくら自分以外の者はどうなってもよいと豪語する彼とて、同志達やノア地下秘密基地をわざわざ危険に陥れたくはなかった。
それなのに。
そう、彼がソニア守護の筆頭をとっていたとはいえ、必ず後をつけてくるとは限らないのに。
「色恋がどれだけ馬鹿な行為をひきおこすか、前回ですっかりわかっていたつもりだったのに、私はまだ……」
彼のこととなると理性がとぶ。
ホテルで向かい合ってテレパシーを交わした時、キースは激しくウォンを憎んでいる風ではなかった。勝てるつもりか、などと挑発的な台詞を吐きつつ、むしろ共犯者めいた微笑みと優しさでこちらを見つめていた。
だからうっかり、一屡の望みをつないでしまったのだ。
あのひとも、まだ、私のことを――。
彼が何もおぼえていないか、おぼえていても知らん顔を続けていたなら、あきらめようがあったかもしれない。
だが、そうではなかった。だから……。
「キース様」
燃えあがる想いに身をすくめた瞬間、ききおぼえのある声が頭の中に響いた。
〈ウォン〉
どきん、とした。
そら耳を疑う前に、次の声が続いた。
〈私だ。隣室のクローゼットの中にいる〉
間違いない。
キースのテレパシーだ。
耳元で囁かれているかのようにはっきりと聞こえてくる。
〈どうやってこの船に乗り込んだのですか!〉
〈厳重な警戒には、必ず限りというものがあるんだろう? 私がこの半月の間、なにもしないで過ごしてきたと思うのか? 偽の命令にまんまと騙されるとでも思ったか〉
先の会話もすっかりきいていたらしい。ウォンははやる心をおさえ、壁の向こうに思念を送る。
〈それで、軍の命令でソニアを取り戻しにきたのですね〉
〈いや〉
キースの答は、柔らかい波長でかえってくる。
〈今この瞬間は、私は軍の手先ではない。ここへは元ノア総帥としてきたのだ。このままソニアを連れて基地へ戻るつもりなのか、君がノアをどういうつもりで運営しているのか、確かめたいことが幾つかあってな〉
〈それでは、キース様は軍の指示に従ったふりをして……〉
〈一応、ふりでなく従っている。ただ、私にも考えというものがあってな。命令を遂行する前に、おまえと話をしておこうと思ったのだ〉
〈私に、話ですか〉
〈そうだ。どうしても話しておかねばならないことがある〉
ああ。
キース様は、やはり逢いにきてくださった。
もう計画も何も関係ない。
罠でもいい、いまこの瞬間に殺されたって構うものか。
愛している、これは打算もなにもない純粋な気持ちなのだ。
ただ、あなたに触れたいのだ!
そう念じた瞬間、ウォンは隣室にテレポートしていた。クローゼットを乱暴に引きあけ、服をかきわける。
「キース様……本当に」
彼はそこにいた。名を呼ばれて、たんすの中からゆっくりと出てくる。
変わっていない。
銀いろの髪、アイスブルーの瞳、薄く引き締まった口唇。
白い頬に、昔とかわらぬ微苦笑を浮かべて。
背丈も身幅も記憶のままだ。
男の十八歳と二十歳では、だいぶ差がある筈なのに少しも変わっていない。
「ああ……!」
ウォンはほとんど飛びかかるようにしてキースを腕の中にさらいこんだ。
この、しなやかな身体の弾み。
夢まぼろしでない重量が腕にかかるのを、ぐっときつく抱き寄せた。
洩れかかる声を口唇でふさぐ。
「逢いたかった……逢いたかったんです……」
青年の甘い息と柔らかな舌に触れると、ウォンの頭から余裕の二文字がけしとんだ。勘どころを押さえて相手の抵抗を性急に奪い、情熱のままに相手をむさぼる。隅のベッドへ押し倒す。
ウォンはふと、キースの左胸に残るうすしろい刀傷に気付いた。
「これは……」
二年半前、嫉妬に狂った自分がきんいろの剣を突き通した痕だった。当人の証拠であると同時に、かつてこの身体を所有していた印でもあった。
胸が、つまる。
気のきいた言葉などもう出てこない。ただ名を呼びながら、両手で全身の輪郭をなぞってゆく。
「キース様……キース様……」
青年はしかし、決してあらがうことをしなかった。
かつてのように、触れられたところから溶けてしまったように力を抜く。ウォンの常ならぬ勢いに押し流されるように、素直に身体をゆだねてしまう。
「ああ、貴方というひとはどうして……」
今は敵味方にわかれてしまっているのに、どうして少しでも拒んでくれないのだ。嫌がるふりさえしてくださらないのだ。言葉もなく抱かれてしまうのだ。
そんな理不尽を考えながらも、ウォンはキースに文字どおり溺れていった。
「どんなに逢いたかったか……貴方を忘れかねていたか……」
涙が相手の胸を濡らしていることにも気付かず、ただひたすらにかき口説いた。
「あ……愛して、います……」

ひと段落もふた段落も過ぎたところで、ようやくウォンは我に帰った。
キースの息はまだ乱れている。上にある男の身体が少しでも動くたび、低い喘ぎを洩らして堪えている。汗で濡れた肌は透きとおるように白く、ところどころに散る甘咬みの朱が痛々しいほどだ。
「キース様、大丈夫ですか」
「ああ」
彼はなつかしそうに瞳を細め、甘やいだ表情でウォンを見上げた。
「変わらないな……君も」
「キース様……」
かつての彼はそんなことは言わなかった。
強情で弱いところを見せないだけでない、逆に自分が優位にたっても、命令口調を使っても、相手を見下すことはしなかった。もう子供でない中途半端な年齢と、彼本来の性格によるバランスだった。
それなのに、このいたわるような大人びた様子はどうだ。
もうすっかり、スマートな特殊部隊将校になりおおせてしまっているらしい。
ウォンは不安にかられた。
キースにとっては、この二年半は半年に過ぎない筈だ。変わらないという感慨を洩らすには短すぎる年月ではないのか。彼は本当に本物なのか。
「本当に何もかも憶えていらっしゃるのですね、何もかも」
「ああ。だいぶ長い間、夢をみていたが……」
そう言って、ウォンの頬に手を伸ばす。包み込むように触れたかと思うと、首筋から鎖骨に向かって指を滑らせてゆく。
「私も本当は不安だったのだ……こうして君に触れるまでは」
「え」
キースはウォンの胸で右手をとめ、相手の上半身を支えるようにぎゅっと押し返す。鼓動を確かめるようにしばらくあててから、低く呟く。
「これは研究所ですっかりいじられてきた身体だ。自分の意識も記憶も、どこまで信じてよいものかわからなかった。判断も鈍った。時間の感覚も狂った。しかし、君は変わらない。そう、これは私が知っている身体だ。私を愛していた、男の……」
ウォンの肩からこぼれおちる黒髪を、愛しげにすくって左手の指に巻きとる。
「キース……様」
憶えていて、くださったのだ。
灼けるような喜びが全身を浸した。
ああ。
もう何もいらない。
貴方が私の腕の中にいて、こうして安らかな笑顔で見つめてくれている以上の幸せなどあるか。
宙に浮かんでいるような陶酔の中、ウォンは再びキースを抱きすくめた。
「キース様、どうかノアへお戻りください。みな、待っております。貴方が戻ってきてさえくだされば、軍など敵ではありません。再び、あの頃のように大勢のサイキッカーに呼びかけてください。私達と共に闘ってくださ……」
「そう、その話をしなければならなかったのだ」
キースの顔からすうっと笑みが消えた。蒼い瞳のひかりが急に弱まって、
「私は当分、軍にいるつもりだ。ノアへは……もう、もどらない」
ウォンははっと身を起こした。
「貴方はやはり!」
空軍研究所に完全に洗脳されてしまっているのか!
ここへきたのは私を騙すため、スパイとして入り込んだだけだったのか!
そんな、応えてくれたあの腕が嘘だったなどとは、と思いつつ、ウォンはつい身構えてしまった。
「慌てるな。いや、もっと早く話すつもりだったんだが……」
キースも苦笑いしながら、ゆっくりと身体を起こした。
「最初から順を追って話すから、よくきくんだ。私は君を騙そうとしているのでもないし、憎んでいる訳でもない。私の再生がほぼ完璧なのは、君のおかげなのだから……私が死んだ時、君はすぐに私の身体を氷漬けにしたろう」
「あ……ええ」
遺体が醜くなってゆくのがどうしても厭で、ウォンは息が絶えた彼を、すぐに超低温のカプセルに封じ込めた。
キースの身体は、氷柱の中でまるで眠っているように見えた。もともと氷を操る青年だ、その棺桶はあまりに彼にふさわしかった。だから、地下通路から運びだした時も、そのカプセルにつめたままで墓地に埋葬させたのだった。
「そのせいで、空軍研究所に運び込まれた時、脳細胞の損傷があまりすすんでいなかったらしい」
以下、キースの説明はこうだった。
記憶というのは脳細胞に刻まれるもので、それは決して消えることはない。どんなに老化し、活動を停止した細胞でも、一度憶えたものはすべてとどめているのだという。だから、何かを思い出せないということは、単にそこに回路がつながらないだけのことなのだ。例えていえば、鍵のかかった棚にあるものが、鍵がなくて取り出せなくなったようなものなのである。
だが、米空軍研究所は近頃、どんな錆びついた回路もこじあける鍵を開発した。これさえあれば、殺したばかりの捕虜からも情報を引き出せるという、悪魔の発明である。
そして、その技術が、最適のサンプルとして、このキース・エヴァンズに施されたというのだ。
「そんなことが本当にできるのですか」
いまだ未熟なクローン技術など、はるかに越えているではないか。
ウォンが驚くと、キースはこともなげに、
「ここにこうして私がいるだろう? 死体の網膜に、最後の瞬間に見た殺人犯の姿が焼きついていることがある。それを取り出して見るという技術は、二十世紀の終わりにすでにあった。ただ記憶を取り出すだけの技術なら、もう民間にもあるらしい。こうして生きた人間として再生できたのは、軍ならでは、ということのようだがな。まあ、保存状態が悪かったなら、ここまで完璧に再生されることもなかったんだろう。脳死に近い状態の人間を、超低温で冷やして命を救う治療法があるというし、こういうこともできなくはないんだろうな。……だが」
「だが?」
「研究所で脳をいじられている最中、ノアに関する情報をほとんど引き出されてしまったのだ。君がこの二年半、組織をどれだけ変えてきたか知らないが、今の状況はほとんど知られていると思っていい。スパイも一人や二人ではない、おそかれはやかれ、ノアは壊滅の憂き目に遭う運命なのだ。ノア壊滅計画は、着々とすすんでいる」
ウォンはきつく口唇を噛んだ。
相手のいうことが真実だと信じられたからだ。
しかし、ならいっそうノアにはキースが必要ではないか。軍に対抗できる強いサイキッカーが。
ウォンはそう言いかけて、キースにさえぎられた。
「考えたのだ。いま自分がノアに戻って、何ができるかを。そして思った。ノアはすでに、最初の使命を終えているのではないかと。サイキッカー達の孤独は、すでに癒されはじめている。ならばいっそ、新しい組織をつくってもいいのではないか、と」
「新しい組織ですって!」
「ああ、そうだ」
たてひざの上に頬づえをついて、
「私は、このまましばらく空軍研究所にとどまり、内部をさぐってゆくつもりだ。そして、新しいネットワークのための準備をする。方法はいろいろ考えている。ゆくゆくは研究所そのものを解体したいが、逆に研究所を変えてゆく手もあると思う。焦りたくないのだ。理想は、慌てて達成できるものでないことがわかったし――私ももう子供でないのだ」
「キース様」
「とりあえずソニアは、ライアン氏の元へ戻した方がいい。彼は悪い養父ではない。彼女はしばらく充分な保護を受けられるだろう。過去の記憶がないのなら、しかるべき家に嫁いで、幸せに暮らすことができるかもしれないのだし」
「それは……」
ソニアにとって、それが本当に幸せだろうか。
いや、キース自身もそれは信じていないようだった。頬づえの上で目を伏せて、
「どのみち、あと少ししたらノアは襲撃される。その作戦には私も加えてもらうつもりでいるが、基地内にいるサイキッカー達は、殺されるか捕獲されるか――どのみちひどいことになる。だから早く、彼らを逃がすんだ。無意味な戦いをさせるな。生きてさえいれば、知り合い同士で連絡がとることもできる。完全に孤立してしまう訳ではない。だから……」
ウォンが低くさえぎった。
「新しいネットワークをつくるので、ノアはもう用済みという訳ですね」
「そうではない」
キースは首を振った。
「だが、今は早々に解散しなければならない。君も余計な犠牲者を出したくはないだろう」
「では、この私は……?」
私にどうしろというのだ。
私は、今までなんのためにノアを運営してきたのだ。
自分の利益のみを考えるなら、ずっと維持する必要はなかった。使える部分だけを利用して、後は捨て去ればよかった。総帥などやる意味もなかった。
そう、キースの遺志と信じてきたからこそなのだ。つぐないというのではない、ただ、彼と同じ目的を持っていられると思ったからこそ、あんなに面倒なことをやってきたのだ。
「私はやはり、捨てられてしまうという訳ですね。私などどうでもよいと」
「そうではない」
キースは顔をそむけるようにして、
「君が私を愛してくれていたのは嬉しい。ただ、もう君と一緒には……」
ウォンの声は悲しみで潰れた。
「私を許してはくださらないのですね。憎んでいらっしゃるんですね」
「そうではない。君を憎んではいない。いや、愛しているからこそ言うのだ」
頬のあたりを微かに震わせながら、
「私の愛情は、最大の時でも君のものよりずっと淡い。たとえこれから一緒に過ごしたとしても、以前と同じように君をひどく寂しがらせてしまうだろう。余計な物思いをさせてしまうだろう。だから……君には、もっとふさわしい相手が……」
「キース様、私は我慢できます。決して疑ったりしません。嫉妬など」
声音がすでに言葉を裏切っていた。
そう、それは嘘だ。
疑いも不安も嫉妬もいくらでも湧いてくる。キースに魅かれれば魅かれるほど、喜びよりも激しい暗黒にさいなまれる。そんな必要はない筈なのに、普段の理性は完全に失われる。だから、すべて手に入らないのならいっそ――と再び手にかける可能性すらある。
キースはついにこちらに背を向けてしまった。
「すまない。しかし、情を欲しがって飢える君を見るのは、辛いのだ――」
「キース様」
私の祈りはサイキッカーの癒し。
そして、おまえの魂は私では癒しきれないから、というのだ。
それがつらい、たえられない、と。
「ウォン。本当なら、もう一度出会う筈のない人間だったのだ。だから、いっそ思い捨ててくれ。きっぱりと忘れてくれ」
それは、ウォンが何度も自分にいいきかせてきた言葉だった。
この魂、この命だけは、二度とほしがってはならないと。
わかっていたことだった。
身体だけ許されても意味がない、望んだものは手に入らないのだということは。
「そうですか。では、もうお側にはいられないのですね。お逢いしてもいけないのですね」
キースは無言だった。
ウォンは静かに呟いた。
「わかりました。生きては二度とお目にかかりません」
「ウォン」
「これからあう皆さんとお幸せに。望んだ未来がありますように」
ウォンはもう、脱ぎ捨ててあった衣服を身につけはじめていた。
「そうですね、基地に戻る前に、一カ所寄港する場所がありまから、そこで降りられた方がよいかもしれませんねえ。その方が、軍なりなんなりに連絡をつけやすいでしょうから。なに、ノア基地の方には、すぐに連絡しておきますから御心配なく。緊急事態なので、すみやかに避難するようにと伝えます。彼らも意を察して、この場は逃げてくれるでしょう。御忠告、どうもありがとうございました、特殊情報将校キース・エヴァンズ少佐」
白い上着を羽織り終えたウォンは、有能で冷静なノアの総帥にたちかえっていた。もしくは、巨大な資産を扱い大勢の人間を操る、世界最大の貿易商人の顔に。
「ふ」
皮肉めいた微笑を浮かべて、
「今晩は随分といいおもいをさせてもらいました、せいぜい感謝しておきますよ、少佐」
シュン、とその場から消えた。
部屋に静寂が満ちた。
残されたキースも、身体の汚れをシーツの端でぬぐい、元の服をつけはじめた。
「あれで、強がっているつもりなのか……」
あの男、記憶よりもずっと、弱くもろくなっている気がする。
いや、弱くなりもするだろう。
時間がウォンの記憶と想いを深めてしまっているのだから。
二年半の間、過去は美化され、情熱はコントロールできなくなるまで煮詰まってしまった。だから抑えがきかないのだ。《私は我慢できます。決して疑ったりしません。嫉妬など》などと口走ってしまうのだ。あのまましゃべらせていたら、《憎まれていてもいいのです、側に置いてください》なとど言い出しかねなかった。
そんな女々しいウォンを、キースは見たくなかった。
「いずれ、時がたてば……」
バーンの死を忘れるにもまだ時間がかかる。しかし、それを乗り越えれば、いつかきっと、再び会える日がくるだろう。サイキッカーのネットワークをつくれば、必ずどこかでぶつかる筈だ。その頃までには、あんなむやみな恋心はおさまって、有能な指導者同士として、話ができると思う。
「わかってくれ。憎んでいるのではないのだ。ただ、今の私には……」
あの孤独を抱きとって甘やかしてはやれない。ウォンに必要な安らぎになってはやれない。かつて自分が、彼に抱かれて癒された部分を、返してやることはできない。ずっと一緒にいてやることも。
まだ、身体の関係だけならいい。
だが、ウォンの求めているものはそれだけではない。
だから、応えられない。
キースは、愛する者が泣いている晩に、何の力にもなれないような関係を結ぶのがどうしてもいやだった。ウォンが幾晩泣き明かしてきたのか知らない。だが、胸の上に落ちてきた涙の熱さ――あんなに悲しんでいたかと思うと、それだけで苦しくなる。あの激情は受け止めきれない。この身も心も壊されてしまう。
「わかって、くれ……」
告げるべきことはすべて告げた。
理解してはもらえまい、誤解しかされまいが、できることはすべてやったのだ。
あと、ノアに対して自分ができることは、船を降りてなるべくすみやかに軍に戻ることだけだ。上層部が彼を裏切って、今すぐにも基地を襲撃している可能性すらあるのだから。
「現に私も、軍を裏切っているのだしな」
おそらく、上もこちらの行動を計算に入れているだろうとは思う。
だが、彼らとてノアをむやみに破壊する気ではないのだ。サイキッカーを全部殺してしまっては、データもとりにくい。生け捕りにしようとすればかなりの抵抗にあう。軍の思惑としては、今回はノアを解散できればいい、組織をバラして力がそぐことができればいい、という程度のものの筈だ。今の軍研究所は、再生したサイキッカー達だけで手一杯の状態なのである。
「ウォン。いま彼らを救えるのは、私でなくおまえなんだからな。頼むぞ」
かつての右腕に対する感情がふっと口に出る。
信頼していた。愛していたというのも嘘ではない。決して嘘ではないのだ。
だが……。

その晩、ブラドはソニアと語りつづけ、ウォンは基地へ連絡をすませた。
キースは寄港後の移動経路を一人考え続けている。
それぞれの思いを乗せて船は走り続けた。
暗い闇の中を、永遠に近く長い夜の中を。

★ ★ ★

「ブラド!」
翌朝早く。
リチャード・ウォンはシュン、という音とともにブラドの寝室に現れて、彼の肩を軽くゆすぶった。
「起きてください、ブラド」
「なんだ……、もう基地が近いのか」
ブラドは眠い目をこすりながら起き上がった。昨晩遅くまでソニアの話し相手になっていたので、その疲れもあって不機嫌なのである。
「違うだろ、なんだよこんな朝っぱらから」
「あなたに二つ、仕事を頼みたいのです」
ウォンの眼鏡の奥の瞳は笑っていなかった。声も厳しいものなので、ブラドはぴんと背筋を伸ばし、
「あらたまった声を出すない。驚くじゃねえか」
「あらたまりもします。どちらも大変な仕事ですから」
「大変な仕事?」
「ええ」
ウォンは軽く身をかがめ、
「昨夜遅く、ある筋から情報が入りました。近いうちにノア秘密基地が軍に襲われると。今回の襲撃は大規模なもので、下手な抵抗をすれば、基地内のサイキッカーが全員惨殺される可能性があると」
「で、どうすんだ」
ブラドは驚かなかった。
ノアは常にそういう危険にさらされてきた組織だときいている。ウォンはそれに何度も対処してきたのだろうから、ブラドはさして不安には思わなかった。
しかし、次のウォンの台詞は彼の予想を裏切った。
「まず、ソニアをとりあえずむこうに一度返します。彼女は今のままでは戦力になりませんし、かえって足手まといになりますから。ですから、ライアン家に連絡をしてこっそり迎えにきてもらうことにしました。普通の誘拐として、身代金だけ受け取ることにして」
「そうか」
せっかく盗み出せたのに、と思うが、緊急事態ではしかたない。元々意にそまない誘拐であったので、ブラドはむしろほっとした。確かにいきなり血なまぐさい戦闘に巻き込むよりは、家に戻した方がいいだろう。
「で、残ったサイキッカーで連中と闘うわけだな」
「いいえ」
次のウォンの台詞は、さらにブラドの期待を裏切っていた。
「ノアは一時解散します。その規模の襲撃を受ければ、組織の秘密がかなり洩れる可能性があります。ですから基地に連絡を入れて、主だった者以外はすでに基地から脱出するよう伝えました。記録や文書の類は廃棄させ、重要な機械は破壊させました」
「本気か、おまえ」
ブラドは目をむいた。
「ノアはおまえの帝国だろ。そんなにあっさり捨てっちまっていいのかよ」
「ええ」
ウォンは、うなずいたきり何の言い訳もしなかった。
本気なのだ。
このおしゃべりな男がこんなに言葉少なになっているということは、本当に本気なのだ。
ブラドは目を閉じ、低い声で呟いた。
「……で、俺は何をすればいいんだ」
ウォンの舌は、再び滑らかに動きだした。
「ソニアをときふせて、ライアン家の使いが指定した場所まで届けてください。彼女はあなたの言うことしかきかないでしょうから。大変だと思いますがよろしくお願いします。また、彼女の身柄を引き渡した後は、充分注意してください。誘拐犯として捕まる可能性もありますし、命を狙ってくる者があるかもしれません。無事に逃げのびてください。金が邪魔なら捨ててしまっても構いません。あなたの身体の方が大事ですから」
「わかった。で、逃げのびた後の仕事は?」
ふと、ウォンはたまゆら言いよどんだ。
「……あなたが厭なら、二つ目の仕事はしなくて結構です。ソニアの身代金を持って、そのまま逃げてしまってよいのですよ。あなたは自由なのですから」
ブラドは口をとがらせた。
「いきなりそれじゃあ、返事のしようがねえじゃねえか。仕事の内容を話してからそういうことを言ってくれ」
「はい」
ウォンは微かにほほえんだ。
「基地内は、まだ完全に整理がついた訳ではありません。簡単に持ち場を離れられない者もいます。戻ってきてくれるなら、彼らを少しずつ逃がす手伝いをしてもらいたいのです。もちろん、あなたにも最終的には基地を出てもらいます。この仕事で絶対死なないように、最後まで軍に捕まらないようにしてください。少しでも危険だと思ったら、早めに脱出してください」
ブラドは重々しくうなずいて、
「そんだけでいいんだな」
「ええ」
ブラドはベッドから降りて身支度を始めた。
「よし、わかった。二つともやってやる。だが、それには条件がある。条件をのんでくれなきゃ、ソニアのお守りもやらねえぜ」
「条件はなんです」
ブラドは相手に背を向けたまま、
「……教えてくれ。なんでなんだ。なんでおまえ死ぬ気なんだ」
「私は、死ぬなどとは一言もいってませんよ」
ウォンはしらとぼけたが、ブラドの声はさらに低く迫力を増した。
「キースか。キースのせいか」
ウォンは答えない。
答えないことが答えになってしまっている。
ブラドは身仕舞いを整えると、くる、と振り向いた。キッと相手をにらみすえて、
「ウォン、俺はおまえのために働いてきた。これからも、どんな仕事も命を賭けてやってやるつもりでいる。だからよ、勝手に死なれちゃ困るんだ。なんでもいいから、訳を話せよ。どんなくだらねえ理由でもいいから、話せ」
「私はすでに亡者――命のない者ですから」
ウォンは静かな微笑で答えた。
まなざしは、遠くかなたを見つめている。
「キース様を最初にこの手にかけた時、私の背中にあった翼は半分もがれてしまいました。あれ以来、私は以前のように自由に飛べなくなった。いえ、サイキックのことではありません。何をしても心がひろやかにならず、何かを望む力を失ってしまったのです。超能力を持っていても、天使のように穏やかで優しくはいられず、ただ地べたを這い回る暗い異形の者になったのです――黒い蜥蝪のように」
ブラドは怒鳴るような声で、
「堕天使だろうと汚ねえ蜥蝪だろうと別にいいじゃねえか。それにおまえは蜥蝪でも、極彩色の蜥蝪の王様だ。地べたにいたって惨めでもなんでもねえ。この地上はおまえのもんだろ、なんでもできるじゃねえか!」
「ブラド」
眼鏡の奥で黒い瞳がひかった。
「私は元から蜥蝪だったのではないのですよ。蜥蝪と生まれてその王になるのなら、意味もあったでしょう。最初から翼を持っていなかったのなら、反対に天上さえ望んだかもしれません。しかし、今の私は、もう何も望めないのです。昨晩、残っていた方の羽根をもがれてしまって――沢山の血が流れました。私は蜥蝪ですらない、すでに亡霊なのです。かつて羽根をもっていた者の、抜け殻なのです。未来のない者なのです」
「亡霊に仕事を頼まれたってやる訳ねえだろ、おれは生きた人間の言うことしかきかねえ」
「ブラド。話したら頼まれてくれると言ったでしょう。どんな理由でもいいから、と。これは、私の最後のお願いなんです」
ブラドは、口唇を噛んだまま答えない。
今度はウォンが背を向けた。
「わかりました。好きなようにしてください。無理には頼みません。恨む筋ではありませんから。あなたは自由なのですから」
「馬鹿野郎!」
そのまま出ていこうとするウォンの肩を、ブラドはがっちりつかまえた。
「おまえにあった日から、一日だって自由だったことなんかねえや。何が今更お願いだ、だよ。命令しろよ。やれって言えよ。俺が必要だってのは嘘なのかよ」
「いいえ。嘘では、ありません」
ウォンは片頬だけをふりむけて、
「……ですから、お願いします、ブラド」
念を押すように呟いて、シュン、とその場から消えうせた。
肩にかけた手ごと取り残されたブラドは、チッ、と舌打ちした。
結局言うとおりにしろってか。見殺しにして逃げろってか。
ふざけやがって。
「飛べた頃のウォンの翼は、どんな色をしてたんだろうな……」
別に、羽根の色が白だろうと黒だろうと空は舞える。もがれてしまえば死ぬのも同じだ。
しかしブラドは、そんなことを考えずにはいられなかった。
「どのみち俺じゃ、飛ばすことはできねえってんだろうが」
目の前にありながら、自分の力ではどうしても救えない魂。
たとえ、心臓に残る最後の血までどす黒く腐っていたとしても、救いたい男。
しかし、できることといえば。
「おまえの望みをかなえてやる。俺は、どこまでも逃げて生きのびてやるよ。おまえのことを一分でも一秒でも長く憶えていてやる。それしかできねえからよ」
例えば、ノアという組織をつくりなおせるような力や資金があったとしても、ブラドはやりたくなかった。そしてそんなことは、ウォンも望んでいないだろう。
「それしか……できねえ、からよ……」
口唇が震え、声がかすれた。
絨毯に透明な滴がしたたり落ちていくが、ぬぐうことができなかった。
「何度俺を泣かせりゃ気がすむんだ、てめえはよ……」
膝をつき、床に伏して声を殺した。
しばらく彼は、そのまま動くことができなかった。
果たさなければならない仕事の、その時間が迫るまで。

8.永遠の葬礼

その日、太陽がすでに傾き始めた頃。
「ここでお別れだ、ソニア」
とある小島の入り江にぽつんと降ろされて、クリス・ライアンは首を傾げた。
「お別れってどういうこと?」
今までブラドを信じきってついてきた彼女だったが、ようやくおかしいと気付いたようだ。貨物船を降ろされ、モーターボートで岩だらけの無人島につれてこられても、ここが目立たぬ基地への入り口だとしか思わなかったのだ。
だが、よく考えてみればそんな訳はなかった。他のメンバー達は何故ここへこないのか。簡単ではあるが、船員の説明やこれから行く基地のことはきかされていた。もっと怪しむべきだった。
「どうして? 私、ノアへ行くんじゃないの?」
ブラドは顔を伏せた。銀の前髪の下から呟くように、
「……訳あって、君をライアン家に返すことになった」
「返す?」
「ノアはこれから、軍研究所の連中に襲われる。そんな危険な場所へ、君を連れていく訳にはいかない。だから、君をいっときライアンさんに返すんだ」
「襲われるですって!」
ソニアは勢いこんだ。
「なら、私も闘うわ。だって、ノアのみんなは何も悪くないんでしょう。私の力を役立てて。私の電気で軍人なんか焼いてやるわ」
ブラドは首を振った。
「駄目だ。軍とまともにやりあったりしたら、犠牲者が多くなりすぎる。今回は、みんないちど、基地を離れることにしたんだ。だから君も……ここで待っていれば、ライアン家の使いが君を迎えにきてくれる。それが一番、いい方法なんだ」
そう言われてしまうと彼女も困る。しかしそのまま納得はせず、
「みんなが離れるってことは、あなたも?」
「ああ、僕もさ」
するとソニアはブラドの手をとって、
「なら、私と一緒に逃げて。私、もうライアン家には戻りたくないの。あなたもノアに戻らないのなら、一緒に逃げてちょうだい」
ブラドは苦笑した。
「君と逃げるんじゃあんまり目だちすぎるよ。それに、君と駈け落ちしたって、ウォンはどうせ……焼き餅をやいちゃくれない」
吐きすてるようにいうその口調に、ソニアの顔色が変わった。
「あなたは……私を愛してくれてたんじゃないのね」
「クリス」
ブラドは最初あった日のような、優しい、そして弱々しい笑みで彼女を見つめた。
「ソニアだった頃の君に、逢いたかったな」
「え」
彼の言葉は、甘く静かにソニアの心に滑り込んでいく。
「もし、来世というものがあるんなら、そこでまた君に逢えたらいいと思う。でも、今の僕は……」
「ブラド」
相手の慈しむ気持ちを感じて、ソニアはさらに強く手を握った。
「どうして? どうして駄目なの」
「すまない、クリス」
ブラドは予想外に強い力を出し、彼女の手をもぎはなした。すい、と身を翻し、ふわ、と一メートルほど宙に浮かぶ。
「ひどいわ。私をまた籠の鳥に戻そうとするのね」
「ごめんよ。僕には、君を外の鳥にする力がないんだ。だから……」
片手から透き通った紫いろの光を出し、
「さようなら」
反重力の帯に包まれて、すーっと空を飛んで消えた。
ボートのエンジン音が、急激に遠くなっていく。彼はもう乗り込んでいて、急いで貨物船に追いつこうとしているのだ。
「ひどいわ。どうしてなの……」
取り残された彼女はしばし茫然と立ち尽くしていたが、すぐにキッと顔をあげた。
「……わかったわ」
自分の力で、なんとかする。
たとえ今は連れ戻されても、逃げだしてみせる。家や軍のいいなりなどにはならない。仲間を見つけて共に暮らす。彼を絶対さがしだす。
それがどんなに辛い道のりでも。
彼が自分を愛していなくとも。
「負ける訳には、いかない」
薄青の瞳に強い炎を燃やして彼女は誓った。
自分の正体を知り、恋情を知った人間の、それは強さだった……。

★ ★ ★

キースは厭な予感がした。
貨物船を一度は降りてみたものの、軍研究所に戻る前にノアへ行こうと思った。正規の交通ルートと自力で空を飛ぶことを繰り返し、できるだけ早く古巣へ急いだ。
「ああ!」
彼の予感はあたっていた。
すでに軍の特殊部隊は、ノア地下秘密基地を襲っていた。
彼がついた頃には、内部はかなり荒されてしまっていた。美しい青い照明もすっかり落ちて、あたりは墓穴のように薄暗い。
「もう、ここまで破壊してしまったのか」
「エヴァンズ少佐!」
いきなり現れた彼をみた下仕官達は驚いたが、上の命令できた、とキースに言いくるめられて、作戦の説明と状況説明をした。
ほとんどのサイキッカーが逃げてしまっている。資料もかなり破壊されている。つい先ほどまで、紫の蛇を出す男が残っていたが、そいつもすでに包囲網を突破してしまった、と。
「もう、他に超能力者はいないのか」
「先ほど、黒い長髪の東洋人をみかけた、という者がいるのですが、あっという間に姿が消してしまいまして――あれがいわゆるテレポートというやつかと」
一般人らしい素朴な物言いで答える。
キースは青ざめた。
ウォン。なぜ逃げない。
事ここに至っては、逃げるしかないんだぞ。
「わかった。私もさがしてみよう」
キースは、思い当たる部屋を片っぱしから探した。
「どこなんだ。どこにいる」
そして、とある廊下の前で、ウォンとばったり出くわした。
「キース様!」
彼の声は悲鳴に近かった。
「二度とお目にかかりませんと言ったのに!」
次の瞬間、ウォンの姿はかき消えた。
キースはとっさにあたりを探した。
そして、ウォンの気配がすぐ脇の部屋にあることに気付いた。
中からロックがかかっている。外からはすぐに開けられない。
彼はドアを激しく叩いた。
「開けるんだ。ひとこと言いたいことがある、すぐにここを開けるんだ」
急がせるように叫ぶと、中から力ない声が答えた。
「キース様。貴方お一人だけしか、そこにいないのでしたら……」
「ああ、私一人だ。早く開けるんだ」
ロックを回す音がした。ドアが開いた。
「あっ、遅かった……君は毒を呑んだのか」
ふみこみざまキースは叫んだ。
ウォンはやっとドアを開けたまま、その場に打ち倒れていた。
床に投げ出された金の懐中時計は空っぽで、いくつかのカプセルがこぼれだしている。いざという時のために、その中に毒を入れておいたようだ。
キースは床にひざまずいて、その膝の上にウォンの上半身を抱えてのせた。せめて断末魔の苦悩をやわらげてやろうという試みだ。
「すまなかった。今さら何をいっても仕方がないが、君を憎んでいたのではない。無事に逃げて欲しかったのだ……」
ウォンは無理矢理ほほえみを浮かべ、
「ソニアは……クリス・ライアン嬢は、貴方の言うとおり、無事に親元に返しましたよ。彼女は、私にとっても可愛い部下だったので……よかった、早めに手をうっておいて」
キースは何度もうなずいて、
「わかった。ソニアのことは心配するな。私も今後は目を光らせておく。むざむざ研究所の実験台にならないようにな」
「そうですか。ありがとうございます」
ウォンの目尻から、すうっと涙が溢れ出した。
「ああ、私は貴方の腕に抱かれているのですね……こんな幸せな死に方ができようとは、想像もしていませんでした……それにこうして、貴方の残したノアと一緒に、滅びることができて……」
だんだん舌がもつれてきている。
「キース様、そろそろお別れです……お別れに、たった一つのお願いをきいてくださいませんか」
「なんだ」
「……お願いですから、私の遺体を、空軍研究所にだけは……渡さないで下さい。そして、二度と、この世によみがえらせないで……ください」
彼の身体が痙攣を始めた。それでも力をふりしぼるように、
「決して……もう二度と……」
「何故だ。生きてさえいれば、新しいノアをつくれたかもしれないだろう。もう二度と私にあいたくないというのか」
「キース様」
苦しい息の下で、彼はしゃべり続けた。
「この毒は、神経にすみやかに作用するもので……よしんば生き返ったとしても、記憶はすべて、破壊されてしまうのです。貴方のことを、憶えていないで、よみがえっても……しかたが、ありません」
「何故そんな毒を」
「貴方にも、知っていただきたかったのです……自分の腕の中で、冷たくなっていく、愛しい者の体温を。もし、貴方が私を、少しでも愛してくださって、いたのなら……約束して、ください……貴方を失う、あの苦しみを……もう一度味わうのだけは……厭、です。……死なせて、ください」
キースは無言のまま、もう冷たくなりかかっているウォンの額にそっと口唇をつけた。
ウォンの顔に、心からの微笑が浮かんだ。
「有難う、ございます。キース様。愛し、て……」
その微笑みの消えないうちに、ウォンは動かなくなっていた。キースの膝の上で、息絶え、この世を去ったのである。
「そうか」
キースは自分より大きい男の身体を、そっと床に横たえた。
「置いていかれる、というのは、こんな思いをするものなのか」
冷たいリノリウムの上で、ウォンの身体はみるみる生気を失ってゆく。人でないものに変わってゆく。
「私が約束をたがえたらどうするのだ。目の前で、こんな死に方をして……」
いや。
望み通りにしてやろう。
しりぞけたのは私のほうだ。だからウォンは絶望し、こんな結末を選んだのだ。
まして、研究所の手でよみがえるのは、死ぬよりつらい屈辱だろう。
「いっそ私が殺してやればよかったか。そうすれば……」
お互いさま、といえたのか。憎んでいないとわかってくれたか。
いや。そんなことに意味はないだろう。
自分もこんな顔で死んでいったのかと思うと、キース・エヴァンズはなんともいえない感情に胸をしめつけられた。
が、すぐにこの身体をどう軍の連中から隠し通すか、その方法を考え始めた。
彼はまだ抜け殻でなく、生きる時間を残す者であり、やるべきことがまだ残っているのだから。

(1997.6脱稿/初出・恋人と時限爆弾『Gravity Infinity of Love(恋の重力無限大)』1997.6)

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