『The King of Dark Lizard/黒蜥蝪の王』(前編)

1.暗黒街の堕天使

ベルリンのキャバレー(独語ではカバレット)は、この二十一世紀の初頭においても、前世紀末の退廃を懐古的に引き継いでいる。詩人や演劇家、画家や音楽家ら芸術家達の即興的発表の場というのが建前だが、そこには亡命者や犯罪者や春売りなど最下層の人間も多く、文化的というよりはアンダーグラウンドという言葉がふさわしい。
カフェ《グレーセンヴァーン/誇大妄想狂》もその例に洩れなかった。自殺者がひんぱんに出るような、厳しくも陰鬱なドイツの冬空の下、他の大衆酒場と同じく夜どおし開いて、より集う人々の心を妖しくかきたてていた。前衛的な半裸体のダンス、はじけとぶクラッカーの色テープ、パンクミュージックのギリギリいうビート、渦巻き流れる紫の煙、熱っぽい男同士のカップルの語らい、ひっくり返される砂糖壷とこぼれたビール。
そして、眠らないその夜の中で、先ほどからひそやかに囁き交わされる名があった。
「ああ、あすこにダーク・エンジェルがいるぜ」
「今日は何しにきたんだろう」
「あの人に頼んでかなわないことはないっていうな」
「だから闇の天使か」
「ああ。ブラック・リザードと呼ぶ奴もいるがな」
彼らの視線のかすめる先に、静かに目を伏せて酒をたしなむ一人の東洋人がいた。
《堕天使》、もしくは《黒蜥蝪》。
ダークやブラックの形容はおそらく、その瞳や髪のいろからきたのだろう。肌が青みがかってみえるほどに白く、爬虫類を思わせるほど冷たくなめらかなので、リザード(とかげ)などと称されるのもわかる。
だが、彼にどうしてエンジェルのあだ名がついたのか。
異邦人、という意味ではあるまい。東洋人そのものは珍しくないからだ。ここは外国人の多い都市である。トルコ人、ロシア人、アンゴラ、ベトナム、キューバ人。実際、囁きあっている彼らの中に純正ゲルマン民族はほとんどおらず、それゆえドイツ語に英語混じりの会話であったりするのだ。
とにかくこのエンジェルは、三十代半ばの逞しい男である。背も恐ろしく高い。金糸の縫いとりのある白い上着をゆったりと着込んでいる姿は中華系だろうか。後ろへ垂らした長い黒髪を軽く結んでいるが、他に女性的な部分はない。物腰や雰囲気こそ柔らかいが、小さな眼鏡の奥にひかっている細い瞳の鋭さが、その男がけっして穏やかならない者であることを知らせている。
「あれはどのみち人でないのさ。だから、人でない名で呼ばれるんだ」
「不可能がないなら、確かに人ではないだろうな」
羨望と蔑みの混じった口調で呟きながら、彼らは男を盗み見る。薄暗がりの中で、淡いオーラを放つその《堕天使》は、囁きにも視線にも気付かぬふりで飲み続けている。
「……お」
ふと、うぞうむぞうの集団の中から、一人の若者が抜け出した。
背中を丸めた妙な格好で、ふらふらと例の男へ近づいていく。
白く見えるほど薄い銀髪。それによく映える黒いビニールレザーを羽織っている。ギロギロとした大きな瞳は赤く血走り、あらぬ彼方を見つめている。二十代半ばのようだが、頬がこけ、全身もげっそり痩せて一撃で打ち倒せそうだった。きちんと栄養をとってしゃんと背筋を伸ばせば、目の前の東洋人といい勝負になりそうなのだが。
青年は、ダーク・エンジェルのテーブルによろめくように座った。
「あんたに頼んでかなわないことがないってのは、本当かい」
いかにもドロップ・アウトというかチンピラめいた台詞だが、その口調は意外と優しく、妙な気弱ささえ含んでいた。
東洋人は顔をあげると、おや、と目を細めて呟いた。
「フロイライン――?」
「よせ。俺はお嬢ちゃんなんかじゃねえ」
青年の声は怒りに満ちた。《フロイライン》はかつては未婚の女性につける敬称だが、今ではめったに使われず、むしろ《ゲイカップルの女役》の意味の方が強い。そうでなくとも、いきなり《花のようなあなた》と言われれば、性的な誘いかと憤るのも無理はない。
「すみません。私が知っているひとに少し似ている気がして、思わず」
ダーク・エンジェルは端正なドイツ語で返答する。青年は吐き捨てるように、
「けっ、そりゃあ女を口説く時に使う文句だぜ」
《堕天使》は曖昧な微笑を浮かべ、
「それで結構、男も口説けるものですよ。さて、それではまず、あなたの苦しみを当ててみましょうか」
「なんだって」
青年は青ざめた。《堕天使》は追い打ちをかけるように、
「今ここで言ってしまって構いませんか? 人目のあるところでは話しづらいことだと思いますが」
青年は脅すような低い声で、
「嘘をつけ。わかるはずがねえ。俺の心を読んだんでもなけりゃ」
「あなたの心を読むことぐらい出来なくもないですが、見ただけですぐにわかりますよ」
「見ただけで?」
「ええ」
《堕天使》はじっと青年を見返し、
「そのレザーの染みは、パンクファッションに色を添えるものでなく、返り血をぬぐった跡でしょう。あなたは、ここにくる前に恋人を殺しましたね。信じていたかったのに無惨に裏切られて、激情のままに全身を斬り裂いてしまった」
周囲に軽い緊張が走った。
いくら犯罪者が珍しくない場所であるとはいえ、事はあまり穏やかでないようだ。しかもこれはダーク・エンジェルの御神託だ。
「どうしてわかったんだ」
青年は急に震えだした。
「どうして恋人だと……裏切られたんだと……」
《堕天使》はため息をついた。
「なんと正直な。図星をさされてもすぐに白状するものではありませんよ。どうやら自分をつくろう嘘が苦手のようですね。麗しい人柄で私は好きですが、あまり素直なのも罪なものですよ」
「何が言いたいんだ。俺をどうするつもりだ」
青年はすっかりおびえていた。
確かに彼は人を殺してきたのだった。しかしそれは血に飢えた凶悪な性格や大胆さを示す行為ではなかった。激しいショックに見舞われて我を失ってやってしまっただけ、平凡な市民でもおこしうる類の事件だった。
だから彼は、自分がこれからどうしていいのかわからなかった。
逃げたかった。
裁かれたかった。
死にたかった。
泥のように眠りたかった。
そのどれもが望ましく、彼は千々に思い乱れた。何でも出来る魔術師がいるなら、いっそ自分の行く先をはっきり示してもらいたかった。それがどんな道であっても。
しかし、いざあっさりその苦境を看破されてしまうと、相手が恐ろしいばかりである。
《堕天使》は穏やかな微笑で続けた。
「では、正直に言いましょう。あなたという人が欲しい。これから私と一緒にいらっしゃい。あなたの苦痛を和らげることができるかもしれませんから」
「あんたは何者なんだ」
「ダーク・エンジェルでもブラック・リザードでも、好きなように呼んでくださって構いませんよ」
そう呟くと、手袋を填めてコートを羽織り、すらりと立ち上がって青年の手をとった。高らかに叫ぶような声で、
「それでは皆さん、今日はこれでごきげんよう。彼が気に入ったのでさらってゆくことにします。この恋の行く末を祝福してください!」
あっけにとられている周囲をしりめに、青年の腕をグイグイとひっぱってカフェを出ていく。
外には黒塗りのメルセデス・ベンツが横付けにしてあった。
《堕天使》は青年を後部座席へ押し込み、自分もすいと乗り込んだ。運転手に命じて素早く発車させる。
「さて、今後の準備をしておかなければなりませんね」
車内電話を取り上げると、横顔をキリ、と引き締めて、
「ああ、私だ。ここの研究所内にあるか? 二十代半ばのゲルマン人男性、銀髪で紫の瞳、身長百八十弱、体重六十キロ前後。ウェストがくびれたタイプの痩せ型で、血液型は――」
いきなり青年の方を振り向いて、
「あなたの血液型は?」
「……ABだ」
すっかり毒気を抜かれていたので、反射的に答えてしまう。《堕天使》は嬉しそうにうなずいて、
「自分でご存じなんですね、結構。……血液型はABだ。この条件に一番近いものを用意してくれ。おそらくぴったり一致するサンプルがある筈だ。ああ、一時間でだ」
電話を切ると、ああ、と何か思い立ったように口元を押さえた。
「すみません、あなたの名前をまだきいていませんでした」
青年は上目づかいにくぐもった声で、
「ブラド――ブラド・キルステンだ。そう呼ばれてた」
「ブラド、ですか」
《堕天使》は味わうように呟いて、
「悪い名とは言いませんが、昔の暴君の名はあなたにあまりふさわしくないように思いますが――呼ばれていた、ということは、何か特殊な事情がおありですね」
ブラドの瞳は恐ろしい勢いで翳った。我を取り戻したかのように声も鋭く、
「お得意の透視術で見抜いたらどうなんだ、自分は名乗りもしねえくせに」
「ああ、失礼しました。こちらから名乗るべきでたね」
軽く頭を下げると眼鏡の縁を押し上げて、
「通り名をリチャード・ウォンといいます。表向きの職業は香港の貿易会社社長――表向きというよりは本業といった方がいいのかもしれませんが。世界をまたにかけて、なんでも手広く売り買いしています。ドイツでもどこでも、商売をするのは楽しいことでね」
ブラドは相手をにらみつつ、
「その貿易会社の社長さんが、俺と何をしようってんだ。いったい何をしてくれるってんだ」
リチャード・ウォンと名乗る男は楽しそうに微笑んで、
「黙ってついていらっしゃい。悪いようにはしませんから。詳しいことは順にお話していきますよ。……ところで、あなたのお住まいはどこですか?」
「ヴィーン通り13、三角ボロアパートの五階だ。そんなことをきいてどうする」
「五階、それは素晴らしい! では、下見がてらそこに向かいましょう。君!」
運転手に命じて進路を変えさせる。ブラドは顔色を変えて、
「おい、俺のアパートに戻ってどうするんだ、あそこにはまだあいつの死体が――」
「ああ」
ウォンは突き合わせた指の上に顎をのせ、
「あった方がずっと都合がいいのです。因果関係がわかりやすいですし。あなたを生かしたままブラド・キルステンという青年をこの世から抹殺してしまうには、その方がいい」
「そんなことが――」
本当にできるのか、とブラドがうめく前に、ウォンはうなずいた。
「可能です。なんとも厭なことに、非常に簡単にできてしまう筈です。なにしろあなた、サイキッカーでしょう……その淡いオーラは」
「えっ」
ブラドははっと身を固くした。自分の周りに漂いでている何かを慌てて隠すような無意味な仕草をしながら、
「そうか、もしかしておまえも……そうだったのか」
「自覚もあるようですね。なら、話はずっとしやすくなります」
リチャード・ウォンはなだめるようにブラドの肩に触れ、
「そう、私もサイキッカーなのです。あなたとは種類が違いますが、超能力を持っています。私が何でもできるというのは、そういう意味もあるのですよ」
ブラドは更に身を縮め、
「俺は、この力があっても、何にもできやしなかった……」
ウォンはひどく優しい声で、
「それはあなたが孤立していたからです。私でさえ、一人でできることは多くありません。だからこそ、常にこうして仲間を探しているのです。ですから今晩、あなたに出会えて本当に良かった」
「良かった?」
「ええ。互いの力になれます」
「互いの、力?」
「そうです、ブラド」
瞳に柔らかな光をたたえて、ウォンは呟いた。
「最初はまず、私があなたに力を貸します。そして次に、あなたに私の手伝いをしてもらいます――そういう取り引きはお厭ですか?」
ブラドはじっと相手を見つめた。蜥蝪のように滑らかな頬を。たちのぼる淡い陽炎のようなオーラを。
そして、直感的に見てとった。この男が仲間を探しているというのは本当だ、と。たやすく癒せない孤独ゆえに、怪しげなカフェなどに出入りし、あらぬ噂をたてられてきたのだと。
彼は静かに目を伏せた。
「……俺なんかが誰かの役にたつんなら、せいぜい使うがいいさ」
「よかった」
ウォンはニコリとうなずいた。
しかしブラドは、その微笑みに寂しげな翳りを見てとって、かえって胸を突かれる気がした。
「おまえは馬鹿だ。俺が使えると思うなんて」
つい憎まれ口を叩く。
ウォンは再び笑った。そして、何かいいたげにブラドを見たが、すぐに口をつぐんでしまった。
「なんだよ、おい」
「少なくとも、あなたのおかげで今夜は退屈せずにすみます。話もきいてもらえます。それだけで、充分すぎるほど役にたっていますよ」
なるほど、それはそうなのかもしれない。
その時、車がブラドのアパートの裏手につけられた。ウォンは表情の曇りを払い、ほがらかな声でこう告げた。
「さて、それでは第一幕を開けることにいたしましょう!」

★ ★ ★

その晩、ブラドはいっときも退屈することはなかった。退屈どころではなかったからだ。
「ああ、たまらない。まだこの手ににおいが染みついてるみたいだ。あんなむごたらしいこと、生まれてはじめてやった」
下着まですべて着替えをすませ、血もきれいに洗い流しはしたものの、両腕に死体の感触がまだしっかり残っていた。彼は集合住宅の暗い廊下を二人で歩き、自分によく似た男の屍を、アパートの窓から外へ投げ落としたのである。ウォンに命じられるままに。
香港貿易会社社長は、にこやかにこう説明した。
「……そう、ブラド・キルステンは、はずみで恋人を殺してしまい、罪の意識にたえかねて、自分の部屋の窓からこうして飛び降りてしまったのです。恋人の死体が部屋にあるのですから、普通の警察はそう判断してくれます。むしろ、下手に遺書など残さない方がよいでしょう。こういうことは、大雑把な仕方のほうが効果が高いのです。万が一追求されるような羽目になっても、私の力で全部抑え込みますから安心なさい。あなたは、もうこれで自由なのです。何もかも白紙の状態でやり直せるのです」
確かにそうかもしれないが、ブラドは仕事を終えた後、震えがずっと止まらなかった。
「ああ、思いだしてもゾッとする。顔を鉄棒で叩き潰して、窓の外へ投げ出した時、うんと下の方でベシャッと音が――ウウ、たまらない」
ベンツの後部座席でいつまでもうめいているブラドに、ウォンは低い声を投げかけた。
「さっきのアレと恋人を殺した時と、どちらが辛かったですか」
ブラドははっと顔を上げた。
「う」
思いだしてしまった。恋人が口の端から血を流し、大きく目を見開いて自分をにらんだ形相が、断末魔の五本の指が空中をひっかくようにした様が、巨大な幻となってウォンに重なる。
「それは、それは……」
「わかります」
ウォンは、ブラドの肩に静かに手を回した。子供をあやすように引き寄せて、
「そう、どちらもあまりにも辛いものでしょう。愛しい者をなくすのも、自分を消すことも。つまりあなたは、これで充分な罰を受けたのです。罪は清算されたのです」
「罰を……受けたのか」
急に震えがおさまってきた。幻が薄れてきた。
それは、清算がすんだという言葉の暗示だけでない、ウォンの抱擁の具合いが丁度よく、大きな安心感を与えてくれたようだ。
ブラドは、幼子のように相手の肩口に頭を押しつけたまま、
「質問してもいいか?」
「ええ。どうぞ」
「あの身代りはどうやって調達したんだ。もしかして、俺がサイキッカーであることと関係があるのか」
「……ブラド」
ウォンは、じっとうつむく青年の髪を見つめて考えた。
どうやら頭は悪くないらしい。隠し事はしない方が賢明のようだ。素直な青年のようだから、順序よく丁寧に話をすればよい筈だ。下手に操るよりもいうことをきくだろう。
「それは長い話になります。あなたも疲れたでしょうから、今夜はもう休みましょう。ホテルに部屋を用意させますから」
ブラドは軽くいやいやをし、
「眠らなくても死にゃあしない。ベルリンっ子は夜明けまで酒場で飲んで、朝飯を食って帰るもんなんだぜ」
「そうですか、わかりました。なら、お話しましょう」
郊外のホテルに向かう道々、ウォンはこんな風に語り始めた。
「二年前の二○一○年――《ノア》という超能力者の秘密結社が組織されていました。総帥の名はキース・エヴァンズ。彼は弱冠十八歳でしたが、その強大な超能力で、世界中のサイキッカーに呼び掛け、同志を募っていました」
「ああ」
ブラドは額を押さえた。
「憶えてる。俺も、その声を聞いた記憶が――」
キースの声を知っていた。三年ほど前、《同志よ集え》のテレパシー放送は、たびたびブラドに届いていたのだった。
だが、あえて反応はしなかった。彼はその頃、恋人と幸せに暮らしていた。強い超能力のせいか、時々発作的に意識不明になることがあったが、どうしても仲間を必要とするほど切羽つまってはいなかった。そのうち、テレパシー放送は聞こえなくなってしまった。
「ってことは、おまえもノアの人間なんだな?」
ブラドが顔を上げると、ウォンはゆっくりとうなずいた。
「はい。今の総帥は私です。二年前、キース様はおなくなりになりました。それと前後して、何人かのサイキッカーが死にました。それから私は、キース様に後を託された形で、ノアを運営してきたのです」
「で、キースと同じように、同志を集めてるって訳か」
「いえ、それだけではないのですよ」
ウォンの表情がかすかに翳る。
「……さっき、あなたはどうして身代りを調達できたか、と尋ねましたね」
「ああ。顔なんて潰さなくても平気なぐらい、似てたからな」
「ええ、実は――あなたも薄々感じていたと思いますが、サイキッカーの周囲には、国家規模の陰謀が渦巻いているケースが往々としてあります。超能力者の拉致監禁、人体実験は世界中で行われているのです。人権無視の蛮行ですが、政府組織もあまり堂々とした誘拐は気がひけるのでしょう、自分達の自由になる人間を飼っておいて、めぼしいサイキッカーをさらった後に身代りとしておくようなことをするのです。専門の施設に、植物人間状態にしたサンプルを用意していることもあります。彼らは自分達の実験の仕方を知られたくないので、死体さえもごく秘密裏に処理していて――ですから私は、あらかじめ放っておいた部下に命じて、あなたに似たサンプルが研究所内にないか探させました。すると案の定……」
「じゃあ、俺はやっぱりドイツ政府に目をつけられてたのか」
「そうです。おそらくあなたの恋人は、政府関係者だったのではありませんか」
ブラドは答につまった。
家族や恋人の秘密を売ることにかけては、ナチ時代から長い歴史のある国である。STASI(スターシ)という秘密警察が消えてからもまだ二十数年だ。
そう言われて見れば、思いあたることが多かった。彼が恋人を殺したのは、相手が浮気をしていたからだが、ことが露見したのは、相手の行動に怪しい点があったからだった。
そうか、あいつはやっぱり政府のスパイだったのか。
それならいっそ殺さなければよかった。ただ利用されていたというなら、黙って利用されてやればよかった。愛されていると思ったからこそ逆上したのだ。同じ顔の死体まで用意されていたのなら、いっそ俺が殺されればよかった。
いや。
確かに俺は気付いていた。
目を背けていただけなのだ。幻の上に築かれた幸せを失いたくなくて。
ブラドの口唇から低い自嘲の笑いが洩れた。
「クックックッ……おまえ、俺のせいでとんでもなくヤバイことに巻き込まれるぞ。ざまあみろ、俺なんか助けるからだ。俺なんかのために、国の施設から死体まで盗みやがって」
しかしウォンは平然として、
「たいしたことではありませんよ。ドイツ政府も、同じ人間の死体が二つ出るよりはマシだとあきらめてくれるでしょう。なにしろ相手はノアなのですからね、サイキッカーが一人さらわれたぐらいでよかった、と思ってくれなければ」
「えっ」
ウォンの形相が変わっていく。口の端を奇妙につりあげ、眼鏡の奥の瞳をギラギラと輝かせて、
「ノアは、サイキッカーの人権を社会の裏側から支え、守る組織です。そのためならば武力も行使します。そう、私達をあなどった人間はどのような目に遭うか――ふふ、彼らも少なからず、私達の脅威を知っているのですよ」
「って、それは……」
ブラドはあらためて震えを感じた。
とんでもないことに巻き込まれたのは自分の方だと気付いたのだ。下手すると、今までよりもずっと危険だ、と。
ウォンは遠くを見つめながら、
「ドイツはそれでも、研究所のある諸国の中ではまだましな方なのですよ。ノアの今の最大の標的は、アメリカ空軍対サイキッカー研究所です。彼らは憎むべき計画を進めています。なんらかの形で超能力を発動した人間、少しでもミュータント化した人間を生死の別なくさらい、洗脳、加工して自分達の思いどおり動くに人形にしようとしているのです。名付けて《サイキッカー・リバース・プロジェクト》――私は、同胞をもてあそぼうとする国家と研究所に対して、一矢をむくいたいのです。彼らの恐ろしい野望を打ち砕きたい」
そこで青年の手をとって、
「協力してください、ブラド。今は、一人でも多くの仲間が欲しいのです。厭な噂をきいているのですよ、かつて死んだノアのメンバーが空軍研究所に再生され、社会的に利用されはじめているという――」
「もういい」
ブラドはウォンの手をもぎはなした。
「え?」
「命も身体も、あんたにやる。どうせ俺は、今晩死んじまった男だ。生きてたって、帰る家も待つ人間もいないんだ。サイキッカー再生計画だかなんだかしらないが、ちっぽけな俺の命が役にたつんなら、使えよ。おまえの言うとおり、なんでもやってやる」
「ブラド」
ウォンはほっとため息をついた。
「ありがとう」
もう一度青年を抱きよせる。
ブラドは今度はされるままになった。よせ、とも言わず、ウォンの胸の真ん中に顔をうずめた。
明け方が近い。ホテルまではもうすぐだった。

「相部屋で構いませんか? お厭なら別の部屋を用意させますが」
「ああ。フロントに我が侭を言う時間じゃねえだろう。どうせそんなに眠れやしねえ」
ホテルにつくと、二人は明りを落としたロビーを通り抜け、やわらかい緋色の絨毯を踏んで部屋へ向かった。
「ここです」
「あ?」
ウォンがブラドを招きいれたのはツインの部屋だった。室内の落ち着いたインテリアを眺め回し、彼は眉間に深い皺を刻んだ。
「おまえの部屋、なんでベッドが二つあんだよ」
ウォンは肩を軽くすくめた。
「いつもツインをとるんです。こうしてたまに、誰かを連れて帰る可能性があるのでね。初対面の相手をソファに寝かせる訳にはいきませんし、同じベッドに入るのは性急すぎますし。ああ、あなたがお望みなら添い寝をしても構いませんが」
そう言って穏やかに微笑む。ブラドは顔を背けて、
「へっ、くだらねえ冗談とばしやがって。男と寝て楽しいのかよ」
「私は、怖い夢を見ないように、という意味で言ったんですよ」
ウォンはポン、と軽くブラドの背を叩き、
「まあ、私は男とも寝ますが。だいたい、あなたの恋人だって男だったじゃありませんか」
「う」
そうか、おまえはそういう興味で俺をホテルに連れ込んだのか、とブラドは身を縮めた。
確かに、彼の恋人は男だった。
愛しあうのは嫌いではない。
だが、会ったばかりの相手に身を許すようなことは――。
さっきうっかり、命も身体もくれてやるといってしまった。しかも相手は巨漢である、武術の心得もかなりありそうだ。押し倒されたら抵抗できまい。
あらぬ妄想に思わず首を振った瞬間、別のひらめきが彼を襲った。
「ウォン!」
「はい」
「おまえ本当に俺の味方か。もしかしてはかったんじゃねえだろうな。おまえもドイツ政府の手先なんじゃねえのか。あいつを殺した夜に俺の目の前に現れるなんて、できすぎてるじゃねえか。てめえ、予知能力でもあるってのか」
ウォンは何を今更、と笑いだした。
「ドイツ政府の手先なら、もう少しうまいお膳だてをしますよ。私には予知の力はありません、本当に偶然です――似た者同士、ひかれあうことがあったかもしれませんが」
「似た者?」
ブラドが首を傾げると、ウォンはすらりと白い上着を脱いだ。
「ええ。私も昔、愛するひとをこの手にかけました。ゆえのない嫉妬に狂って殺したのです。あのひとには何の罪もなかったのに――そう、これは喪の服」
金糸の縫いとり部分を畳みつつ、
「私の故郷では、白は喪の意味なんです。私の力が及ばず殺してしまった同胞と、あのひとの思い出を忘れないために、私はなるべく白を身につけているのです……ブラド」
ベッドに腰を下ろすと、金いろの懐中時計を取り出してチラ、と眺めた。一種の癖らしく、蓋も開けずに再びチョッキのポケットにしまった。
「疑っても構いません。私と行動するのがお厭なら、今すぐここから逃げ出してもよいのです。無籍のあなたは、私の力を借りなくとも一からやりなおすことができるでしょう」
そう言って目を閉じた。
ブラドは、しばらく黙って立ちつくしていたが、やがてもう一つのベッドへ腰を下ろした。弱々しく目を伏せて、
「俺に少しだけ似てるってのは、おまえが殺した恋人か」
「……ええ」
「そうか」
ブラドは上着を脱ぎ捨て、ベッドの中へもぐりこんだ。ウォンに背を向けて、
「悪かった」
「ブラド」
「さっきも言ったが、おまえの役にたつなら、なんでもやってやる。でも、それは明日っからだ。今晩は一人で泣かせてくれ」
「そうですね。……私も、幾晩も泣きあかしました」
ウォンにそう言われた瞬間、ブラドは毛布をしっかりかぶりなおした。
この一晩、あまりに性急な展開を目の前に感情が麻痺していたが、こうして寝床に落ち着くと、あらゆる後悔が襲ってくる。
苦しい気持ちを抑えきれない。
すすり泣きで我慢しようとしたが、いざ涙が流れると声が洩れてしまう。それはだんだん男泣きに変わってきた。
「畜生、俺だって……殺すつもりなんて……あ、愛してたのに……」
ウォンはあえてなだめる言葉をかけなかった。
自分のベッドに横になり、黙ってブラドの泣き声をきいていた。哀れむでもなく、出ていくでもなく、寝息のような静かな呼吸をたてていた。
涙にくれる青年にとって、それ以上適切な慰めはなかった。
激情はいつしかおさまってきた。
外はもうあかるんでいたが、泣きつかれたブラドは、少しうとうとはじめた。
「……ん?」
夢の入りばな、彼は泣き声をきいた気がした。自分の声ではない、ひどく押し殺した男の声を。
ウォン――か。
そうか、亡くした恋人を思いだしたんだな。
俺のせいで。俺が泣いたせいで。
ブラドは心の奥底でもう一度誓った。
よし、おまえの役にたつなら、本当になんでもやってやるからな、と。

2.過去のない令嬢

季節は春。ここはアメリカ、UCLAの大学構内。
「キャスパー・ハウザーは、一八二八年のある日、ニュルンベルグの街角に突然降って湧いたように出現した。十七年間、暗い《穴》に閉じ込められていたといい、まるで身元不明のままだった。ほとんど言葉も話せず、運動能力も低く、年相応のことは何一つまともにできなかった。彼はそれから数年間のうちに、二度も暗殺未遂の目に遭い、三度目についに暗殺されてしまった。彼はバーデン大公家のお家騒動がらみで幼児誘拐され、《穴》から出た後も殺し屋につきまとわれたという説がある。ただ、一九九七年の血液鑑定では、彼はステファニー・バーデンの息子ではないという結果が出ていて――」
心理学の講義の最中、クリス・ライアンは斜め前の席に座る青年に目を奪われていた。
「あのひと……」
淡い銀いろの髪に薄紫の瞳。熱心にノートをとっているほっそりとした手。
彼女が青年を見つめていたのは、彼が美しい顔立ちをしていたからではない。それまで背を丸めてペンを走らせていたのに、キャスパー・ハウザーの話になった瞬間、急にペンの速度が落ち、その瞳に涙を浮かべたからである。
壮年の教授は野太い声で続ける。
「狼に育てられたために、人間界に戻っても人語がなかなか理解できなかった少女、アマラ、カマラの例もあるが、キャスパー・ハウザーが長い間、不当に監禁されていたのはおそらく本当だろうと思われている。お家騒動が原因かどうかはわからないが、心理学上での貴重なサンプルであったため、十九世紀の研究者達は争って彼と面談した。子供用の木馬を抱え、《お父様のようにお馬が上手になりたい》としか呟かない彼とだ。亡命者の芝居か狂言でないかと疑う者もいたが――」
青年の頬を大粒の涙が滑り落ちる。
「カスパール……」
呟くと、そのまま机につっぷしてしばらく肩を震わせていた。
ああ、なんてひと!
クリスは講義が終わるとすぐに、その青年に声をかけて呼び止めた。
「僕ですか?」
「ええ。あなた、お名前は?」
「ああ」
青年は、泣きはらした顔に気弱そうな笑みを浮かべた。
「すっかりみっともないところを見られちゃったな。僕はブラド。ブラド・キルステン」
「私はクリス。経済学部の二年。ね、これから一緒にカフェテリアへ行かない?」
「え、でも……」
ブラドはひとしきりあらがったが、クリスの押しの方が強かった。
陽光がたっぷり注ぐカフェテリアの隅で、二人は向かい合った。
「ブラド、あなた、キャスパー・ハウザーの話の最中、何を考えていたの?」
急に泣き出したあの有様は尋常でない。ブラドは困ったようにうつむいていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「僕は、カスパールの事件が他人事に思えないんだ。彼の生涯が――」
「他人に思えないってどういうこと? どうしてなの?」
好奇心を煽られたクリスは、ブラドに質問の雨を降らせ始めた。
彼は慎ましく顔を伏せ、ぽつりぽつりと答えていく。
「僕は、ここ三年ぐらいの記憶しかもってないんだ。気付いた時には、もうレオと二人で暮らしてて――」
「レオって?」
ブラドはかすかに頬を染めた。
「彼は、意識のない僕をひろってくれたんだ。そして、親身に世話をしてくれた。僕はカスパール・ハウザーと違って、言葉もしゃべれたし、身体にも不自由はなかった。でも、十代の頃の自分の記憶も、家族の記憶もなんにもなくて。基本的な学問は身につけていたけれど、過去はまったく白紙だった。レオは、僕に新しい名前をくれて、きっと君は何かの事故で記憶喪失になったんだよ、焦るなよって励ましてくれた。それで僕は、働きながらアビトゥーア――大学入学資格試験を受けることにした。職業訓練校へ行ってもよかったんだけれど、なんとなく植物学に興味を持ってね」
クリスはあら、と首を傾げ、
「あなた、もしかしてアメリカ育ちじゃないのね」
「そう、去年までドイツにいたんだ」
ここまでの話に嘘はない。スタイルこそパンクじみた派手なものにし、口調も不良のようにわざと崩していたが、本来的な彼は勉学の好きな真面目な青年だった。ただ一つ隠しているのは、レオが恋人だったということだけだ。彼は低い声で続けた。
「僕は、本当は自分の過去がとても知りたかった。本当に記憶喪失なのか。もしかして、多重人格者か何かで、それで過去の記憶がないのかもしれない。誰かに洗脳でもされたのかもしれない。考えれば考えるほどわからなくなる。お家騒動にまきこまれた貴族様ならまだいいけど、もし犯罪者かなにかだったらどうしようって――」
そこで不意に顔をあげた。
「君は……きれいな顔をしてるんだな」
「ブラド」
不意をつかれたクリスが赤面すると、ブラドは口唇を歪めて、
「僕はどんな顔してる? 醜いだろう? だって僕は罪人なんだ。この手を、赤い血で染めたんだよ」
声が震える。嘘でも芝居でもない、記憶が蘇って自然にうわずるのだ。
「僕はレオに騙されてたんだ。彼は親身な友達のふりをして、本当は僕をずっと監視してた。カスパール・ハウザーを珍しがって、周囲にむらがった学者達みたいに、僕を研究の対象にして、さんざん利用してたんだ。そのあげく、国家に僕をサンプルとして売りつけようとした。それを知った時、思わず彼を――」
両手で顔を覆って、
「僕は本当に犯罪者になってしまった。でも、おめおめと捕まるのはいやだった。それで、少ないつてを頼って、ドイツからここまで逃げてきたんだ」
クリスは目を丸くしてきいている。すぐには信じられないという様子だが、これもほとんど事実なので、ブラドの台詞には真実の重みがあった。
彼は顔を覆ったまま呟く。
「クリス、僕に構わない方がいい。僕はここの学生でもなんでもない、ただ、キャンパスに入ってみたくて、人並みの学生生活を味わってみたくって、それでここへ入り込んだんだ。僕は野良犬だ――君のような綺麗なひとと、口をきけるような身分じゃないんだよ」
「身分だなんて」
クリスはブラドの手に触れ、顔からひきはがすようにした。
「あのね、実は私も、昔の記憶がないの。子供の頃の思い出が。だから、おぼえているのは、ライアンの家に養女に入った頃からのことだけなの。だから、あなたとたいして違いはないのよ」
「ライアン?」
ブラドの瞳がキラ、と光った。
「もしかして、君はあの有名な宝石商のライアン家の」
「ええ。お義父様の仕事はそう。でも、私には関係ないことだわ」
「でも、そうだとすれば、君はやっぱりいい家のお嬢さんだ」
クリスの美しいブロンドに視線を流す。アメリカにおいて、金髪の白人美人、有名大学に通う富豪の娘、それ以上のステイタスがあるだろうか。
「ブラドったら。私達同じじゃないの。私だって犯罪者だったかもしれない。誰かを殺したかもしれないわ」
「君が、そんなわけ――」
「私、同じ悩みをわけあうひとが欲しかったの。時々逢ってもらえないかしら」
「でも僕は」
「ね、また心理学の講義の時にでも」
ブラドは無理矢理、今後も逢う約束をさせられてしまった。
クリスは相手の承知を確認すると、意気揚々と引き上げていった。
彼女が去ると、ブラドの顔に急に青ずんだ翳がさした。
「ウォン」
手に填めた時計の竜頭を押し、盤面に向かって低く話しかける。
どうやらこれが通信器になっているらしい。
「きいてたか? 確かにあんたの言うとおりだったぜ。クリス・ライアンって娘には過去がない。ライアン家に養女で入ったといってた。自分では十代のつもりらしい。一見普通に見えるが、やっぱりあの娘もサイキッカーらしいな。空気が違う」
「ええ」
時計の向こうから、柔らかい声が答える。
「彼女はやや特殊なケースなのですがね。クリスはかつては私の部下で、サイキッカーであると同時に、二十代前半とは思えないほど優秀な科学者だったのです。が、不幸な事故で身体の大部分を損傷したので、私の手で十代の身体に移植したのです。その時私は、彼女の第二の人生のために、ソニアという名を与えました。彼女も二年前、体内の制御装置がうまく働かなくなって死亡したのですが、私達は遺体を盗みだされてしまったのです。最近までその犯人がわからなかったのですが、どうやらこれが空軍研究所の仕業で、サイキッカー・リバース・プロジェクトの成功第一例だということが判明したのです」
そこで小さなため息が入った。
「しかし、空軍研究所もなんともいやらしいことを――彼女は元々クリス・ライアンという名だったのです。ライアン家の養女という形にされたのはそのためでしょう。昔と同じ名を与えても、記憶を取り戻させない自信があるらしいですね」
「なるほど、本人は何にも知らずに、第三番目の人生を送ってるって訳か。それで、俺はこれから何をすればいいんだ?」
ブラドがそこで更に声を低めると、ウォンはふふ、含み笑いをもらした。
「なんだよ、なに笑ってやがる」
「いや、聴いていて、あなたの色男ぶりがたいそう板についていたものですから。今後もあの、かよわいお坊ちゃん風の調子を続けてくれればいいのです。クリスは充分あなたに興味をもったようですし、同情もしています。後はなんとでもなりますよ」
「そうか?」
「ええ。これで、彼女の誘拐計画は八十パーセント成功したも同じです」
なんとでもなる、と言っておきながら、口調がやや心配そうだ。らしくもないウォンにブラドは不安を煽られて、
「じゃ、残り二十パーセントの不成功の原因はなんなんだ」
「邪魔が入るおそれがあるのです。空軍研究所がこちらの動きを感知して、彼女に護衛をつけることを考えているようで」
「なら、護衛がつく前にさらっちまえばいいじゃねえか」
「単純にそうもいかないのですよ。実は空軍研究所は、キース様の遺体も盗みだしているのです。ソニアと同じ頃に。たぶん護衛には、生き返った彼がつけられるでしょう」
「それはつまり……」
ブラドはうめいた。
軍に都合よく洗脳されたサイキッカーが、自分達の敵に回ってしまうかもしれないというのか。
かつてノアを束ねていたほどの優秀な青年が。
「厄介だな。元総帥様が相手じゃ、俺にはとうてい勝ち目がねえ」
ブラドの能力は、重力を操るという、特殊かつ優れたものだ。が、発動するのまでにやや時間がかかる。スピードのあるサイキッカーにはまるで歯がたたないだろう。
するとウォンはなだめるように、
「護衛のキース様と戦う必要はありません。ブラドは、クリス・ライアンの相手に専念していればよいのです。私もキース様とやりあうつもりはない――彼の力が以前と同じ程度ならば、それはかなり苦しい戦闘になります。互いの被害が大きくなりすぎますかね。できれば私は、ノアに戻るよう彼を説得したいのです。全てを思い出させたいのです。そうすれば、何も恐れることはなくなるでしょう。いざとなれば、クリスと共に誘拐するつもりですが」
「一石二鳥って訳か。だが、できるのか」
「だからそれが二十パーセントの懸念なのです。手に入った情報も少なすぎるので慎重にならざるを得ない」
「なるほどな」
ブラドがうなずくと、ウォンも通信器の向こうで首肯したようだった。
「とにかく、最悪の場合でもソニアは――クリス・ライアンは取り戻す、これを目標にしていきます。頼みます、ブラド」
「わかった。じゃあ、またな」
ブラドは竜頭を押し、とりあえず対話を終えた。向こうは常に受信状態なので気やすめに過ぎないのだが、スイッチを切っておけばこちらから話をしないですむからだ。
「……ソニア、か」
美しかった。
凛、とした声が、頭の中で心地よい反響を続けている。
大きな瞳、キリリと引き締まった口唇。優美で豊かな曲線を描く胸元。袖からのぞくたおやかな腕、風に流れるワンピースの裾からすんなりと伸びた足。
あんなひとをさらわなければならないのか――そのために色仕掛けじみたことをしなければならないとは。
「けっ、俺も今更、あんな嬢ちゃんに臆するってか」
恋愛じみた思いが胸を吹き抜けて、ブラドは舌打ちした。女に全く興味がない訳ではない。というより、彼女はかなり好みのタイプだ。うっかり惚れたりしてしまわないようにしなければならない。
「なに、惚れたりするもんか、だいたい俺が好きなのは……」
そう呟きかけて、ブラドは青ざめた。
俺はいま、何を考えた?
馬鹿野郎。
堕天使なんかに惚れてどうする。
しかもあいつは、前の恋人を全然忘れてねえんだぞ。
彼は髪をかきむしった。
「いつのまに……」
そう、いつしか彼の奥底にひそむ物想いの相手は、冷たい頬をひからせて柔らかく微笑む男――リチャード・ウォンになっていたのだ。
「馬鹿野郎。俺って奴はなんて馬鹿だ!」
ひとしきりうめいた。
自分はウォンのいうことをなんでもきく奴隷だ。王に向かって愛を告げることなどできはしない。告げたところで、真剣に相手にしてはもらえないだろう。よしんば気まぐれに抱かれることがあろうとも、その後も対等に扱ってはもらえまい。
甲斐のない、恋。
ブラドはのろのろと立ち上がった。
俺にできることは、あいつの望みにできるだけ沿うことだけだ。あいつを喜ばすには、あいつの命令に従って成果をあげる。それしかない。
「くだらねえな……」
薄く笑いながら、彼は明るいカフェテリアを後にした。
「振り向いてもらえねえのがわかってるくせに、そいつのいうことを喜んできいてやろうとするなんざ、本当にくだらねえや」
呟きを無理に飲み込んで、キャンパスの雑踏の中へ消えていった。

3.賊と特殊将校と

ジョージ・ダーリング・ライアン氏は、血色のよい顔にひげのない、商人らしく恰幅の良い人物だが、今日は特におろおろして、養女のクリスの一挙一動を見守り、その後をつけまわすようなことまでしていた。
今度の旅行は商用の他に、東海岸の某名家との縁談がまとまりかけているので、引き合わせのためにクリスを同伴した。だが、折りも折り、ちょうど出発の半月ほど前から、ライアン氏はほとんど毎日のように配達される、執念深い犯罪予告の手紙に悩まされていたのである。
「お嬢さんの身辺を警戒なさい。クリス・ライアン嬢を誘拐しようとたくらんでいる恐ろしい悪魔がいます。《堕天使》、もしくは《黒蜥蝪》と名乗る者より」
そんな感じの文面が、毎回少しずつ違った文句、違った筆跡で、さも恐ろしく書き記してあった。ライアン氏は、初めはよくある古典的悪戯かと気にもとめなかったが、たびかさなるにつれてだんだん気味が悪くなってきた。手紙の数が増えるにしたがって、誘拐の日が一日一日とせまってくるように感じられた。警察に届けを出してもみたが、差し出し人もいつ出されたのかもつきとめることはできなかった。
そういう際ではあったが、相手の家との約束を破るのもはばかられたし、厭な手紙の舞い込む自宅をしばらく離れるのも好ましく思われたので、ライアン氏は意を決して旅に出ることにした。
しかし、万一のことがあってはと、友人を頼って優秀な軍人に保護を頼むことにした。
しかるべく派遣されてきた若い士官は、細い身体を渋い深緑のユニフォームに包んで慇懃に頭を下げ、低い声でこう挨拶した。
「アメリカ空軍特殊部隊将校、キース・エヴァンズ少佐です」
ライアン氏はひとめ見て、この将校が気に入ってしまった。
なんと凛々しい青年か!
涼しい瞳というのはこれをいうのだろう、深く澄みきって汚れない。態度や物腰に卑しいところが少しもなく、堂々と立派で隙がない。この青年が娘の婿であってもいい、今からでも遅くないなら取り替えてしまおうか、と思うほど秀抜な――。
「あの、どうぞ娘をよろしく頼みます」
「こちらこそ。それで、今後のことですが――」
彼らはその場に座り込み、五つ星ホテルのラウンジでさっそく話を始めてしまった。
クリスは立場上、義父の側に慎ましく座っていた。
しかし彼女は、キース・エヴァンズを見てもライアン氏のような積極的な反応を示そうとはしない。ノアにいた頃は――そう、ソニアであった頃は、とろけそうな熱い瞳でキースを見つめ、堅い忠誠を誓っていた彼女なのに、今はただ出来のいいフランス人形かなにかのように、膝を揃えて静かに目をみはっているだけだ。
「私がお嬢さんと同室という訳にはまいりませんので、隣の部屋をとらせていただきます」
キースが軽く目を伏せると、ライアン氏は身を乗り出して、
「それで大丈夫でしょうか。いえ、私もおりますし、エヴァンズ少佐にも同じ部屋に寝泊まりしていただいて構わないのですが」
「いえ、そういう訳には……」
三人の打ち合せは、ゆきつもどりつ長びいている。
さて。
その様子を、同じラウンジの片隅から眺めている男の二人連れがいた。
「いいのかよ、こんなに大っぴらに近くにいても」
「今は何もしていないのですから、別に問題ないでしょう。それに、近かろうと遠かろうと、気付かれる時は気付かれます。まず彼が相手ではね」
「なるほど、あいつが元ノア総帥か」
「ええ。少しも変わりないようです」
そう、リチャード・ウォンとブラド・キルステンである。
目立たないようウォンは焦茶、ブラドは黒のスーツ姿だ。まあ、いくら服装を地味にしたところで、長身の東洋人と銀髪のドイツ人の取り合わせは人目をひく。大胆といえば、これ以上不敵なこともあるまい。
ブラドは細い眉を寄せ、
「しかしよ、顔だけ同じで別人ってことはねえのか?」
「その可能性もあります。いえ、それを確かめるためにこの計画があるようなものです。だからこそ、あえて陳腐な予告状を出しているのではありませんか」
「そうか、そうだったな」
「ええ……そうです」
ウォンはかつての不覚を思いだし、軽く口唇を噛んだ。
キース・エヴァンズの遺体は、最初氷詰めにされて、ノア地下秘密基地最下層通路の真ん中に飾られた。
サイキッカー達が、長く彼の死を惜しむためだ。
しかし、ウォンはいつまでも総帥の亡骸を見ていることに堪えられなくなった。
そして、一カ月半もすると、彼を基地外の墓地へ埋葬するよう部下に命じた。
それがすべての間違いだった。
ノア内部にスパイが入り込んでおり、気付いた時には、キースのものも含めてかなりの数の遺体が強奪されてしまっていた。
なんのために!
ウォンは理解に苦しんだ。
死者に対してこれ以上の冒涜があろうか。解剖したところで、特殊能力の秘密が解明されるという訳でもあるまいに、と。
しかし、それから一年もたたないうちに、死んだ筈の同志が生きているという部下からの通報があった。彼らはクローン人間や、顔だけ同じにした別人などではなく、ノア時代の記憶もかなり持っている本人、という話だった。
これがおそらく《サイキッカー・リバース・プロジェクト》――ソニアのような白紙状態の者だけが民間にさげわたされ、過去あるサイキッカー達は、米空軍研究所の監視下、もしくは厳重な管理下におかれていた。真偽のほどを確かめる接触は、ウォンの腕をもってしても困難を極めた。
だが、これは本当に《再生》なのだろうか。
一度死んだものの記憶が残っているというのは、どういう訳か。
「……ウォン?」
すっかり物思いに沈んでしまったので、ブラドが怪訝そうに、
「おい、何考えてんだよ」
「ああ、すみません。今後の進行のおさらいをしていました。大丈夫です。ですからあなたの仕事、しっかり頼みましたよ、ブラド」
「なんとかやってみるが――嬢ちゃんはこの縁談に乗り気じゃないから、こころよく協力してくれるだろうよ」
「では、先に部屋に戻っていてください」
「わかった。じゃあな」
ブラドは、ライアン氏達の死角になる通路を通って、自分の部屋へ戻っていった。
ウォンは、それを黙って見送った。
しばらく椅子から立ち上がらなかった。
というか、すぐには立ち上がれなかったのである。
「ああ」
胸の底から、じわりと湧きあがってくるひとつの想い。
「生きていらした――キース様」
本当は、一目見た瞬間、息がとまるかと思った。
駆け寄って抱きしめたかった。愛しています、と何度でも言いたかった。
どうしてしなかったのだろう。できなかったのだろう。
ブラドがいたからか。ライアン氏達がいるからか。
いや、人目を避ける方法などいくらでもある。二人きりになれば、拒まれようと攻撃されようと憎しみの視線で射抜かれてもよかった。ほんの少しでいい、触れたかった。
それなのに、今でもこうしてぐずぐずしているのは、たった一つの懸念のためだ。
蘇生はどこまで完璧になされているのか。
記憶は本当に確かなのか。
完全に洗脳されていて、ノアのことも私のことも白紙の状態ではないのか。
だとしたら、抱擁などはとんだ道化のわざである。
「ああ、私は貴方を……」
すべて憶えているのに。
腕の中にさらいこんだ時の軽い抵抗も、肩のえくぼに触れた時の最初の吐息も、口吻の後にはにかんだように引き結ばれる口唇の柔らかさも、薄く血を登らせた白い頬の滑らかさも。
うなじに触れられるのが好きでゾッと鳥肌をたてるくせに、それを打ち消すように何度もシーツにこすりつけて台無しにしてしまう。太ももを割り込ませると不快そうに眉をしかめるくせに、忍び込ませた手には平気な顔をしてみせる。どんなにわざとじらしても、自分から欲しいとは決して言わない。やめろと叱りもしないが、してくれと嘆願することは絶対にない。意思の力で情動を抑えつけ、こちらのペースにのろうとしないのだ。だから、だんだん堪えきれなくなって低い声が洩れるようになると、すねたふりをして両腕で顔を覆い――。
その姿と感触を忘れた夜はない。
あの頑固さ、そしていじらしさ。
冴え冴えとひかる瞳が、情事に対して醒めた風にみせていたが、本当の彼はひどくさみしがり屋で、好意や触れ合いに飢えていた。拒まないのはそのせいだ。初めは決して自分から求めないが、いつの間にか私の背中に手を回して、おずおずと身肌を引き寄せようとする。そのくせ、最後まで決して強くしがみつかないのは、自分の不器用さを知られたくないからだ。甘えることが本当に下手だからだ。それに気付いた瞬間、切なさに胸をつかれて堅く抱きかえした。慌てて厭そうに押しのける仕草も可憐に過ぎた。
「キース様……」
そう、今ならはっきり言える。
愛していた。
疲れて眠りこんでしまった貴方を静かに抱きよせて左半身を触れあわせ、そして呼吸を重ねあわせた時のあの安らぎ――ただ愛しい、としかいいようがなかった。離れるのが辛いと思うほどで、だからいつも朝になる前に部屋を出た。目覚めた時にそっと寄り添われることも、逆にそっけない態度をとられることも厭だった。これ以上魅かれては危険だから、と――。
どうしてあの頃の私は、あんなくだらないおびえを持っていたのだろう。不器用なのは私の方だ。あのひとの何を疑って、何に嫉妬してあんな酷いことを――断末魔の苦しい息の下で、《おまえに愛されていることが嬉しかった》と告げてくれたというのに。
だが。
「貴方は、本当に何もかも憶えていらっしゃるのですか」
私の息を、口唇を、手指を、肌の名残りをその身体に染み込ませているのだろうか。私の鼓動を、緊張を、囁きを思いだして、ふと心騒がす瞬間があるのか。舌先を軽く噛んだ歯の感触を、胸板に落ちる髪の流れを、身体を締めつけた腕の熱さを、何もかも忘れずにいてくれるのか。
ああ。
そうでなければ、私の前に蘇ってきた意味がない。
愛しい人が生きていて嬉しいと思えるのは、私を憶えていてくれるからだ。ただ生きていてくれさえすれば、などというのは綺麗ごとだ。忘れているのならもう一度振り向かせるという手があるにしろ、一度きりの思い出をきれいになくされるのは許せない。
そう、私はこんなにしっかりと全身に刻みこんでいるのに。焦げつく想いに身悶えるほどに。
この執着。
単に肉欲ならば、貴方でなくてもよい筈だ。貴方しか知らないという訳ではない、また、貴方を一度失った後、誰とも触れあわなかった訳ではない。
しかし、貴方以外の者を抱いた後、独り寝の空しさが深くなった。貴方でなければ駄目だ、と思う気持ちが強まってたまらなくなった。
「馬鹿げている――恋というものはなんと馬鹿馬鹿しいものか」
貴方が欲しい。
貴方のすべてをさらいたい。
そう、たとえあれが何者であっても。
私がしてきたこの物想いをぶつけてやる。どんなに辛い時間を過ごしてきたか、充分に思いしらせてやる。
「さあ、いよいよ本番の幕が上がる――キース様、きっと貴方を私の思いどおりにしてみせますよ」
そう呟いてから、ようやくラウンジを出ていった。
後ろに束ねた髪がゆらりと揺れる。
文字どおり、後ろ髪をひかれているかのように。

4.重力と時の魔術師

すでに夜は更け、十一時を少し回っていた。娘を部屋に入れ、先に休ませたライアン氏は、キース・エヴァンズを伴って、ホテル最上階のバーラウンジでグラスを傾けていた。
「ミスタ・ライアン!」
「ああ、あなたは」
その二人に後ろから声をかけてきたのは、豊かな黒髪を肩に垂らした長身の東洋人だった。トレードマークの金糸の縫いとりのある白い上着、緋色のチョッキを胸元にのぞかせて、すらりと立った姿の美しさ。例の柔らかな身ごなしで近づいてくる。
ライアン氏は商人らしく人あたりのよい笑顔を浮かべて、
「いやあ、ミスタ・ウォンがこちらにいらしていたとは知りませんでした。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
ウォンも如才ない笑みで応酬する。
「こちらこそ。今回の御旅行は商用でいらっしゃいますか」
「いや、それが」
ライアン氏は声をひそめて、
「娘がその……脅迫状めいたものを。悪戯だとは思うのですが、不愉快なので家を出ましてな」
素直に不安を表明する。ウォンは驚いたように眉をあげ、
「ああ、気晴らしの旅という訳ですか。それにしても、名家のお嬢さんも大変ですな、脅迫状とは。いったいどのような……」
「たわいのないものです。何者かが誘拐しようとつけねらっているとかなんとか。一応用心のため、ボディガードに空軍のスペシャリストを呼んだのですが」
「ああ。では、もしかしてこちらが」
「ええ。アメリカ空軍特殊部隊将校のキース・エヴァンズ少佐です」
彼はライアン氏に紹介されて、初めて傍らのキースに気がついたような顔をした。
キースも、軽い一瞥を東洋人に投げる。
二人とも初めてあった人のように無感動な視線だ。
ウォンは狐のように目を細めて、すう、と片手を差しだした。
「随分ものものしい出で立ちと思っていましたが、なるほど軍の方……私はリチャード・ウォンと申します。香港で貿易会社をやっておりまして、ミスタ・ライアンに懇意にしていただいている者です。プライベートでおあいしたのはこれが初めてですが、そうですか、そういう事でしたら、協力できることがあればなんなりとお申しつけください」
キースは事務的に握手をすませると慎ましく目を伏せて、
「いや、そんなに大げさにすべき事件ではないのです。だいたい、このホテルからクリスさんを盗み出すのは不可能なことですからね」
「不可能!」
ウォンがほう、と眉をあげると、蒼い瞳をきらめかせて、
「ええ。お嬢さんがいる部屋はこのすぐ下の六十階ですが、ドアは網膜照合キーになっていて、ライアン氏しか開けることができません。窓は特殊防弾ガラスですから、中から鍵をかけてしまえば、二○三ミリ砲弾でも打ち込まない限りどうしようもないでしょう。二十センチほど外側へ開くことは開きますが、飛びうつれるほどの距離にある建物もない。ビル風の関係で、窓の外にすぐヘリをつけることもできません。ホテル内への出入りには厳重な監視がなされていますし、ホテルのセキュリティとしてはまず万全、といっていいでしょう」
慇懃な口調ながら、なかなか挑戦的なことを言う。ウォンはおやおや、と肩をすくめて、
「なるほど、それで部屋にお嬢さんを一人置いてきて、こうしてお二人で飲みにきたという訳ですか」
「いや」
ライアン氏は顔をあからめた。娘を心配している、というのがそらごとに聞こえてしまうと思ったようだ。いや、実際彼は娘の誘拐よりも、美しい青年との会話にすっかり心奪われていた。だからなおさら慌てたように、
「私もそろそろ戻ろうと思っていたところなんです。いくら部屋の中が安全だといっても、娘が誰かに呼び出されて、うっかり外へ出てしまったりしてはいけませんからな」
キースも軽くうなずいて、
「そうですね。お嬢さんの安全が確認できたら、私も部屋にひきとるべき時間です」
ウォンは大きなため息をついた。
「それは残念。こちらの――あの、エヴァンズ少佐ともう少しお話したかったのですが。とにかく軍の方となれば、私達民間人の思いも及ばぬ経験をなさっているんでしょうな。それこそ生死の境をさまよって……地獄の底から戻ってきた、というような」
最後の部分を意味ありげにゆっくりと呟いたが、キースは表情を少しも崩さず、
「いえ、むしろ貿易などやっている方のほうが、私のような若輩よりもずっときわどいところをやりすごしてらっしゃると思います」
軽くかわしてさっさと歩き出す。ライアン氏も、少し遅れて歩き出す。
ウォンはふ、と鼻先で笑うと、二人の後をついてゆっくりと歩き出した。

ライアン氏は自分の部屋のドアを開けると、中の娘にそっと声をかけた。
「クリスや。まだ起きているかい」
「あ……お養父さま」
眠そうな声がこたえる。
「少しうとうとしていたんだけど……何か御用かしら。お養父さまは、まだおやすみにならないの」
けだるげに身を起こそうとする陰影を見て、ライアン氏はほっと胸をなで下ろした。
「ああ。私もそろそろ眠ることにするよ」
キースとウォンの二人をふりむくと、にこやかに頭を下げた。
「娘は無事のようです。それでは」
「それはよかった。ミスタ・ライアンもどうぞごゆっくりおやすみください」
「私は隣で控えていますから、何かあればすぐに呼んでください」
「はい。ありがとうございます」
ライアン氏は後ろ手でドアを閉め、娘の傍らに寄った。
「疲れているのかい、今日は様子が変だね」
「そうかしら。ただ、とっても眠くて……」
人形のような大きな瞳に、重そうな目蓋がかぶさる。娘のあどけないような様子をみて、彼はほっと安心した。
「そうか。すまなかったな、起こしたりして」
自分のベッドに戻り、コーヒーテーブルの上に置いておいた鞄の中から持病の薬を取り出した。コップに水をつぎ、のみくだす。
「ん……おや、おかしいな……」
いつになく急激な眠気に誘われて、ライアン氏は上着をぬぐのもそこそこに、ベッドにもぐりこんで丸くなってしまった。

ドアが閉まった後、リチャード・ウォンは曖昧な微笑を残してその場を去ろうとした。呼び止めたのは若い軍人の方だった。
「ミスタ・ウォン」
「ああ、なにか御用ですか、エヴァンズ少佐」
「ふ」
キースは薄く笑った。
その瞬間、声にならない声がウォンの心に入り込んできた。
〈エヴァンズ少佐、などと無理をするな。ソニアと違って、私は何もかもおぼえているのだ。君がバーンと私を手にかけたことも、何もかも〉
テレパシー!
ウォンが一瞬表情を凍らせたのをみすますと、キースは精神の通信を続けた。
〈今の私はアメリカ空軍の一軍人だ。上の命令とあればクリス・ライアン嬢を守らなければならない。容赦はしないから覚悟しておけ〉
〈!〉
ウォンは一瞬、相手の言葉の真偽について悩んだ。
このキースは、本当に何もかも憶えているのだろうか。ただ軍にそう思い込まされているだけではないのか。クリス・ライアンを守るというのはどういう意味で言っているのか。軍人として上に背く気はない、というのは本当か。
判断がつきかねたウォンは、言葉の上っ面をそのまま返した。
〈そうですか。でしたら私も容赦しません。見事ソニアをさらってみせますよ〉
〈私に勝てるつもりか。果して、そううまく行くかな〉
〈私も充分な準備はしているつもりですよ。もちろん、貴方一人でソニアを警護しているなどとは思っていません。現にこの階の目立たない場所に五人ばかり部下が配置されていますね。他の階にも、ホテルの玄関と裏口にも〉
〈そうか。ならばお手なみ拝見といこう〉
二人は、ライアン父娘の部屋のドアの前で、じっとにらめっこを始めた。
キースはウォンのテレポート能力を知っている。どんな分厚い壁も一瞬ですりぬけてしまう力を。
だから、ウォンはどんな危険な目に遭っている時でも、自分一人ならばその場から逃げ出すことができる。どんなインチキもやれるので、犯罪者としてはある意味無敵と言えるだろう。
だが、事が誘拐となると話は別だ。
彼は、クリス・ライアンごと移動できるような力を持ってはいない。周囲の時を三秒ほど止めることはできるが、その僅かな間に彼女を連れて、部下の目の届かない所まで逃げおおせることはできまい。
さて、ウォンはどうやって彼女をさらうつもりなのか。
他人を欺く時には意外に古典的な方法を好む男である、自分の前でどんな小細工、どんな手品をみせるつもりでいるのか。
にらみあい、しばし。
二人がじっと向かい合うその光景は、傍から見たらさぞや奇妙なものであったろう。なにしろウォンがなにか御用ですか、と尋ねて以降、一言も交わさずにただ見つめあっているのだ、その視線はなまじな恋人同士よりも高い熱を帯びていた。
この張りつめた空気は、一人のベルボーイの登場によって破られた。
「ライアン様!」
ボーイは二人の脇をすり抜け、実に礼儀正しく部屋の呼び鈴を鳴らした。
返答がない。
「君、こんな遅い時間に、ライアンさんに何の用かな」
キースが後ろから声をかけると、ボーイははあ、と首をすくめ、
「電報をお渡しに参りました。緊急ということですので、夜分ではありますが」
「電報だって」
夜のそれは不自然ではない。二十一世紀のこの時代でも、紙にかかれた通信文を重んじる風潮が残っている。この時間ならば電話の方がむしろ無礼でない筈だが、記録性や簡便さから、金持ちは電報を好む傾向がある。
「だが、ライアンさんはもうお休みになっているんだ」
「ですが、お取りつぎをしない訳には参りませんので」
ボーイは澄まし顔で呼び鈴を鳴らす。
しかし、変わらず応答がない。
「おかしいな。ところで君、その急ぎの電文というのはなんだ」
「え、あ」
有無をいわせず、キースはボーイの手から通信文をもぎとった。
果して、そこに記されていたのは。

《オソカリシダイタンテイ、スデニレイジョウハヌスマレリ!》

遅かりし大探偵、既に令嬢は盗まれり!
なんとも人をくった文章である。
こちら慌てさせ、ドアを開けさせてその隙にクリスを奪おうという魂胆か。
ふざけた真似を、とキースは舌うちしたが、ウォンは薄く笑ったままだ。東洋的な掴みどころのない微笑みで、驚いたような芝居さえしない図々しさだ。
だが、彼女は本当に無事だろうか。
とにかく、ライアン氏の応答がないのは気になる。
キースは呼び鈴を鳴らし、ドアを強く叩いた。
「ライアンさん! お嬢さんは無事ですか、ライアンさん!」
しばらくして、ドアが内側から開いた。
「娘は……娘が、いない……」
ライアン氏は、よろめきながら外へ出てきた。いっぷく盛られてしまった人のどろんと淀んだ瞳を懸命にみひらき、キースにすがりつくようにして訴えた。
「エヴァンズ少佐……消えてしまったんです……姿が、ない……」
窓が少しだけ開いていて、強い風が流れ込んでいた。
クリス・ライアン嬢は窓から飛んでいってしまったのだろうか。
ピーターパンに娘をさらわれてしまった親のように、ライアン氏はなすすべもなくその場に膝をついた。
「ああ……気付いた時には、もう……」
頭を抱えてうずくまってしまった。
ウォンは金いろの懐中時計を取り出し、もったいぶった仕草で蓋を開けた。
「ああ、もう十二時なんですねえ。シンデレラが家に戻る時間です、きっとお嬢さんもかつての姿を取り戻したのでしょう」
ふふ、と笑って二人を見おろす。
キースはうむ、と口唇を噛んだ。
が、次の瞬間、彼の胸元でピーッと電子音が鳴った。すかさずカード型の通信器機を取り出して、その画面を見る。
「……ふ」
彼は白い額を上げた。その頬には勝利の笑みが浮かんでいた。
「残念だったな。ウォン、君の負けだ。クリス・ライアン嬢は私の部下に無事保護されたよ。これを見たまえ」
示された通信機の画面の中、暗い中で強い風に吹かれながら数人の軍人に囲まれて立っているのは、まぎれもない、寝着のままの令嬢だった。

後編(5章以降)へ続く

《サイキックフォース》パロディのページへ戻る

All stories written by Narihara Akira
http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/