『To Be Happy』

「いつものカット、お願いします」
なんとなく物寂しいので、仕事帰りに美容院に寄った。
二月は髪を短くするには最悪の季節だが、気持ちが寒々しいまま部屋に帰るよりはましだ。小さな病院の受付に一日一人で座っていると、時に落ち込む。病んだ人達と話すのは苦痛ではないが、毎日の笑顔は疲れるものだ。少しでも気をまぎらわせておきたい。他人の静かな微笑みが、優しく触れる手が欲しい。
美容師は、そんな私の低空飛行を察してくれたらしい。余計なおしゃべりはほとんどせず、手早く私を椅子に招いて、シャンプーとカットをすませてくれた。仕上がりも思ったとおりで、気分はだいぶ良くなった。
「……あ」
さて、と店を出る段になって財布を開いてみたら、万札しか入っていなかった。月末までは、と崩さずにとっておいた一枚だ。
「ごめんなさい、大きいのしかないんですけど、おつりあります?」
「あ、ちょうど細かいのがないんです。ちょっと待っててくださいね」
美容師は、細かい札を取りに奥へ入っていった。
カウンターの上では、赤い首輪の白い猫が座って、のんびりと毛づくろいをしていた。ここの美容院には何匹が猫がいて、それぞれおとなしく人の間を縫って生活している。ここへ来る客はだいたいが猫好きで、私もその例に洩れない。大人の猫だがなんとも愛らしいので、喉元にそっと手を伸ばし、軽く撫でてやる。
「ァーア」
猫はされるままになっていた。気持ちよさそうに目を細め、低く喉を鳴らしている。私は彼女の毛並みに触れ、丸い背の上で指を滑らせた。つるっとした感触が掌に心地よい。しなやかな筋肉の流れも美しい。
しかし、顎と背を両方一緒に撫でてやると、ついに猫は身動きした。いけない、ちょっとしつこかったかしら、と手をひく。
すると、彼女の舌が私の指にペロ、と触れた。方向を変えて、何度も嘗めてくる。どうやら愛撫の返礼のつもりらしい。単にひとなつこいというのでない、彼女も気持ちが良かったようだ。ザラ、としたなまあたたかい感触は、この生き物のぬくもりと好意を一緒に伝えてくる。私の心は明るんだ。
「お待たせしました。あらシロ、駄目よ、悪戯しちゃ」
美容師が猫をどけようとするので、私は笑顔で片手を振った。
「いいんです。私も猫、好きですから」
「そうですか? すみません」
おつりを受け取り、外へ出る。
寒くてコートのポケットにつっこんだ指先に、猫の舌の感触が残っている。それは、ある少女の単純な愛撫を思い出させた。一度だけ触れたが、それきりになってしまった彼女のことを。
「そういえばあの子、そろそろ誕生日じゃなかったかしら」
贈り物は大げさだし未練がましいが、カードの一枚くらいは送ってもいいだろう。私はまだ開いている気のきいた小物屋をのぞくことにした。
「これ、可愛い。あの子の趣味にもあってるし」
テディベアの模様のついた、赤い縁どりに金の箔押しがしてあるカードを見つけた。それは誕生日用のカードではなく、書かれている文字は《I HOPE YOU WILL BE HAPPY.》――私はあなたの幸せを願う、だった。そのフレーズが、今の気持ちに一番しっくりきたので、買って帰った。
家に帰ると、カードにハッピーバースディを書き添えて、カルテで憶えた住所を封筒に記し、切手を貼って近所のポストまで歩いた。
差し出し口に入れる前に、封に軽く口唇をあてる。
「ちゃんと彼女の誕生日に届きますように。好意が過不足なく伝わりますように」
封筒は、軽い音をたててポストの底へ落ちた。
その夜の夢は、我ながら都合のいいものだった。戯れていた白い猫の重みが、いつの間にか若い女の子になってこちらを組みしいた。繰り返されるのは甘い愛の言葉で、私はその情熱にたやすく押し流された。
目覚めて、苦笑した。
あんなことが、そう度々起こる訳がない。一度きりでも良かったと思いなさいよ、と自分に言い聞かせた。
「たぶんもう、彼女は二度と逢いにこないわ。病院も別のところに変える。それでも、別にいいけど」
それでもいい――その呟きはやせ我慢ではなかった。だが、胸の奥がかすかにきしんだのも本当だった。

私が彼女と再会したのは、二ヶ月ほど前の事だった。病院の受付に座って一年近く、この仕事にもだいぶ慣れてきて、常連患者の顔をほぼ覚え終えた頃、別の意味で見覚えのある少女が現れたのだった。
「直子先生! どうしてここに」
叫ばれる前に気付いていた。これはかつての教え子だ、と。しかし、少女の方はあまり自信がなかったらしい。
「覚えてますか、私のこと」
「忘れる訳ないでしょう。隅田久美さんよね」
「そうです」
うなずいた少女の顔には、数年前の面影がほぼ残っていた。芯の強そうな表情、豊かな口唇と丸い頬、切りそろえたストレートヘア。熱があるのか、大きな瞳を潤ませていて、全体に霞むようなニュアンスを足している。年頃らしい美しさも加わって、目を奪われるほどだ。
「隅田さんこそ、どうしてここに?」
「私、もう大学生なんですよ」
近所にある大学の名をあげて、
「この間まで学校の寮にいたんですけど、あんまり窮屈なんで一人暮しを始めて」
それで、一番近かった病院が偶然ここの病院だったというのだ。
その日の午後は患者があまり来ておらず、すぐに彼女の番が来た。奥の診察室から、医者と話している声が聞こえてくる。
「三日くらい前から、頭と喉が痛くて……それで昨日の夕方から、熱があがって」
「そう。じゃあ、上を脱いで」
「はい」
触診の音がポンポン、と響く。受付からは見えないが聴診器が彼女の肌にあてられているはずだ。冷たいあの独自の感触が、彼女の胸と肩を這っているのだ。
「血圧は普通だね。ベッドに横になって」
「ここですか?」
彼女は言われるままに横になる。胸とお腹がはだけられ、上から弾力ある肌を強く揉まれているのだ。
「ここは痛む?」
「いいえ」
「下は?」
「平気です」
苦しそうな声だ。本当に大丈夫だろうか。
「たいした事はないね。お薬、三日分出しておきましょう」
「ありがとうございました」
彼女が診察室を出てきた。服の乱れは直されているが、他人に触れられたせいで頬の赤みが増している。妙な想像がわきかけて、私は慌てて打ち消した。回されてきたカルテを再チェックしながら表情をとりつくろい、平静を装って薬の説明をする。
「これが毎食後二錠で一日三回、こちらが朝晩一錠ずつで一日二回です」
しかし彼女は、急に眉をひそめ、声を低めた。
「あの、直子先生、ずっとここに勤めてらっしゃるんですか」
「そうよ。あとね、隅田さん」
私も声を低めた。
「私はもう先生じゃないから、そういう呼び方しないでね。医者でもないし、看護婦でさえない、ただの受付事務員なんだから」
「でも、直子さんじゃ慣れ慣れしいです。いまさら岬さんて呼ぶのもおかしな感じ」
「直子さんで構わないわ。隅田さんはもう、生徒でも子供でもないんだから」
「はい。……直子さん」
少しくすぐったそうな顔をして、私を呼ぶ。
「なに?」
「全然変わってなくて、嬉しいです。また来ます」
「あんまりしょっちゅう来る所じゃないのよ」
「え、病気でないと来ちゃ駄目ですか?」
コラ、と目で叱ると、悪戯っぽい笑みを浮かべて、
「お仕事の邪魔はしません。だから、ね?」
と呟いて帰って言った。
その言葉通り、彼女はそれから何度か、診療時間外を狙って訪ねてきた。何かしら小さい差し入れをもってきては、少しだけ話をしていく。その好意はおしつけがましくない程度にとどめられていたが、かえって私の心を波立たせた。そう、私は美しく育った少女に淡い恋を感じはじめていたのだ。
「やだわ、彼女は教え子だっていうのに」
しかしそれは悪い気持ちではなかった。久しぶりにのぞく心の晴れ間だった。部屋で一人、彼女が持ってきた小さな蘭の鉢に水をやりながら、私はこのささやかな幸せに浸った。
「そうよ、別にこのくらいの感情なら、持っててもいいはずだわ。ただ、気持ちだけなら」
それにしても、明るい気分になったのは何年ぶりのことだろう。
「二年? それとも三、四年ぶりかしら」
はっきり言えるのは、二年前は全てが最悪だったということだ。公立中学校で英語教師をやっていた最後の年には何一ついいことがなく、精神的にも肉体的にもボロボロだった。赴任先の学校は荒れに荒れていて、沈みかけた舟から逃げ出す鼠のように、何人もの教師が去っていった。そして私も学校をやめたのだった。
いや、生徒とのトラブルはまだいい。十代の子供が暴れるのは当り前の事だ、もう少し我慢できたろうと思う。しかし、それに加えて同僚の嫌がらせがあったのだ。言い寄ってきた男性教師を拒絶したのだが、そのやり方がまずかったらしい。すっかりこじれて、夜、職員室で二人きりになった時、いきなり刺されたのだ。その事件が明るみに出た時、当時つきあっていた女性とも別れる羽目になった。下らない噂や騒動に彼女も巻き込まれてしまったからだ。
すっかりまいってしまった私は、年度途中で休職届を出した。しばらく学校を休み、その間に病院事務員の資格をとって引越しをし、家族との連絡も絶って一人暮しを始めた。
慣れないうちは、何かと寂しかった。
しかし、病院というのも面白い場所だ。いろんな人間が訪ねてくる。ここは内科が専門だが、田舎の個人病院らしく、怪我をした人間が応急処置を求めて飛び込んでくる時もある。様々な問題を抱えてやってくるお年寄りと悩みを語り合うのは嫌いではない。子供も沢山やってくる。元気になって帰っていく子供を見るのは楽しい。誰かの役に立てるのは、やはり嬉しいものだ。
そんな風にして生活が落ち着いてくると、昔を振り返る余裕も出て来た。最後は地獄のようだったし、良い教師だったと胸をはって言うことはできないが、教師時代もいいことがあった、と思えるようになった。
私を信じて吸いついてくる子供達の視線。慕ってなついてくる仕草。教師の努力を理解し、思う以上の成果で応えてくれるけなげさ。時々、女生徒からラブレターめいたものをもらうのも楽しかった。一時の熱情や錯覚だとは思っても、あどけない少女から《先生の顔を見ているとそれだけで幸せなので、自然にニコニコしてしまいます》などと書いてよこされれば悪い気はしない。ましてタイプの少女であれば。
もちろん、実際何かをしたことはない。しかし、想像くらいはする。みずみずしい白い肌を自分の身体の下に敷き、乳首を舌で転がして、《先生》とうめかせてみたい、とふらちなことを考える時ぐらいはある。
そして、隅田久美は、そういう意味でも私の好みだった。最初は当然人柄にひかれた。表向きは明るく行動力もあるが、実は内気で繊細、魂の底を誰にもみせない秘密めいた所があり、その感情の深さに魅せられた。重たい思春期の身体に戸惑いつつ、なんでもないふりをして我が道を選ぶ姿はけなげだった。彼女を新しい進路に送り出す事ができたのは、私の誇りのひとつに数えていい。
だから、彼女から最後にもらった手紙も、私の中ではプラスのカウントをされている。
「先生に教わった言葉の中で、一番好きなものはこれです――《May I touch you with my eye?》」
目でなら、まなざしでなら、あなたに触れてもいいですか――まどみちおの『ことり』という詩の英訳を扱った時のものだ。
彼女がそれを憶えていた事が嬉しかった。そして、こうも思った。触れるのは別に目でなくてもいいのに、と。
しかしそれが、私の妄想でなくなる日がやってきたのである。
病院に私あての手紙が来た。中にはこう記されていた。
「お仕事、カレンダー通りにお休みだってききました。もし良かったら、次の日曜、一日つきあって下さいませんか。寮を出てから日が浅くて、あまり近所を知らないので、色々教えていただけると嬉しいです」
差出人は隅田久美だった。私の心は揺れた。これはいわばデートの誘いだ。本人はどう考えているか知らないが、私にとっては間違いなくそうだ。さもしい下心を見抜かれないことを祈りつつ、私は彼女と待ち合わせ、一緒に出かけることにした。
昼間のデートは実にたわいのないものだった。このお店が便利とか、ここは美味しいとか、この公園は落ち着けるとか、先住者として生活情報を提供しただけだ。外は寒いだけだというのに、小さい子供よろしくほっつき歩いた。彼女も大学の事など、あたりさわりのない話をするだけだった。
しかし、日が暮れかけると、彼女の様子が変わってきた。もじもじとして帰りたがらない。
「直子さん」
「なに?」
「そこ、神社ですよね。お参りしていきませんか?」
「そうね」
どこにでもある小さな神社に、私達は並んで入った。手を清め、参道を歩き、柏手をうって手をあわせて隣の少女の幸せを願った。その後私はおみくじをひき、彼女は一つお守りを買った。
「直子さん、おみくじどうでした?」
吉だった。万事よし、というのは気休めでも嬉しい。
「よかったわ。吉よ。隅田さんはお守りを買ったの?」
彼女は少しうつむいて、
「ええ。記念ですから。ここって何の神様なのかわからないんですけど」
「こういう所だからよろずの神様よ。一番は学問で、次が家内安全とか」
「私が買ったのは、恋愛成就のお守りです」
「そう」
年頃の彼女はどんな恋を願うのだろう、と微笑みかけて、私は相手の視線の強さに気付いた。
「どうしたの?」
「目でなら……目でなら、触れてもいいですよね」
彼女の声はかすれていた。その時、薄暗い境内に人はいなかった。私の声もうわずった。
「隅田さん……私は……」
「久美って呼んで下さい。もう一度逢えるなんて、こうして過ごせるなんて、夢にも思ってなかったんです。だから、目で触れるのくらい、構わないですよね」
触れられるどころの話ではない。真剣な瞳に射すくめられて、はぐらかすことさえできなかった。
私は、思いきって彼女の腰を抱き寄せた。
「視線だけだって、本当は大変なことなのよ。手で触れるよりもっと恥ずかしいんだから」
「直子……さん」
彼女は強く私に身体を押し付けてきた。それ以上の言葉が出なかったらしい。私達はもつれるように歩きだし、そのまま私のアパートへ転がり込んだ。
十八歳の身体は、成熟寸前の姿であることが美しかった。緊張でぎこちない愛撫が嬉しかった。もちろん、彼女が二十八だったとしても、成熟しきった姿であったとしても、行為が手慣れたものであったとしても、喜びは変わらなかったと思う。私達は、手で、声で、口唇で全身触れ合った。何もかもが甘く、心地よかった。
ろくに眠れもしないうちに朝がきて、私達は慌てて月曜日の仕度をした。私には仕事が、彼女には絶対外せない講義がある。バタバタしながら別れたが、悪い雰囲気はなかった。次の約束をしなくても何の不安もなかった。

しかしその後、彼女からの連絡はぷつりと途絶えてしまった。病院も訪ねてこなくなった。
「あんなことの後だから、逢うのが恥ずかしいのかしら……それとも?」
もしくはこちらの一人相撲だったのかもしれない。向こうはあの晩、幻滅を感じていた可能性もある。好奇心が先にたってしてはみたものの、目が醒めてみればこんなものか、という展開もありがちなことだ。
「嫌われてないなら、それだけでいいんだけど」
もし彼女の気があれですんだというなら、一度きりで良かったと思った。彼女が逢いたくないのなら、こちらから無理に呼び出したくはない。みっともないところは見せたくない。しょせん教師は教師だ。教え子には目上と遠ざけられるか、失望して見下されるかのどちらかで、恋人として対等に見てもらうのは難しい。万一恋愛が成立したとしても、それは若い日の一ページとして、いつか淡く忘れられていく事の方が多いだろう。
そう、それでもいい。私はそれで構わない。
ただ、良い関係だけは残しておきたかった。私が願うのは、いつも彼女の幸せだということだけは知らせておきたかった。
だからカードを送ってみた。気持ちだけは伝わるように願った。季節柄チョコレートも考えたが、それでは意味がありすぎる。このくらいがちょうどよいと思った。
そして、その考え自体は間違っていなかった。

隅田久美の誕生日の翌日。
病院の昼休みを待ちかねたように、彼女はやってきた。私を中庭に呼び出し、黙ってこちらをにらみつける。
「どうしたの? 何を怒ってるの?」
「直子さん、英語の先生なのに文法間違ってます」
彼女はカードを突き返してきた。私は眉をひそめた。
「間違ってる? 文法が?」
彼女は本当に悔しそうな声で、
「だってこれ、《YOU》じゃなくて《WE》です。私はあなたの幸せを願う、じゃないでしょう?」
I HOPE WE WILL BE HAPPY.――私は、私達の幸せを願う?
「間違っても、あなたの幸せだけが私の幸せ、なんて寂しい事言わないで下さい。そんなの厭です!」
その瞬間、私はようやく彼女の気持ちを理解した。
この子は本当に私を好きなのだ。そして、彼女の望みは、自分だけでなくて私も幸せであることなのだ。互いに幸せで、二人でも幸せでなければ、厭なのだ。
彼女の瞳が熱と涙で潤みはじめた。
「それとも意地悪なんですか? 勝手に一人で幸せになりなさい、私は関係ないって言う意味なんですか? それは、直子さんは大人だし、学校の頃も憧れてる子沢山いたから、こういうあしらい慣れてるかもしれませんけど、私は初めてだったし、本気だったのに……だから、二度目が怖くて……逢いにくるのも、怖くて……それなのに、こんな……」
そうか。
私は相手の幸せを願うなどと言っておきながら、本当は願っていなかったのだ。自分が傷つきたくないばかりに、次の一歩を踏み出さなかっただけなのだ。
「そうね。私が間違ってたわ」
私は胸ポケットにさしていたボールペンを取り出すと、彼女のカードの上に《私達》の意味のWEを強く書いた。
「ちょっと遅れたけど、お誕生日おめでとう」
「直子さん」
「良かったら、今日の夜にでもお祝いさせて。一緒に幸せを願いましょうよ」
その時の彼女の表情を説明するまでもないだろう。そしておそらく私の顔も、同じ願いで輝いていたはずだ。
私達が、いつまでも幸せでいられますように、と。

(初出・テラ出版「アニース」vol.4/97年春号)

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copyright 1998
Narihara Akira
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