『3rd Person』

1.

「リズ、よくきくんだ」
その金曜、町医者に呼びつけられた時は腹がたった。なんとなくだるくて、仕事のこと以外であまり出かけたくなかったからだ。
しかしこの初老の医者は、怖い顔をして言葉を継いだ。
「君は病気なんだ。血液検査の結果が届いてやっとはっきりした。君がこのふた月でうんと痩せたのも、微熱が続くのも、動悸がなかなかおさまらないのも、疲れやすくて詩も書けないのも、印刷の仕事でやたらミスをするのも、すべて病気のせいなんだ。暑さ負けなんかじゃ決してないんだよ」
手近にあった紙に図を書きつけながら医者は説明を始めた。
人間は体内の幾つかの歯車がかみ合って正常に動いているから健康な生活がで送れる。だが今、リズの中の歯車のひとつが異常な動きを示していて、それが他の器官にひどい負担をかけていると言うのだ。このままでは心臓さえ止めてしまう、それほど君は弱っている、と。
「この病気は、現代の医学では原因がわからないんだ。だから医者にできることは、歯車の動きをのろくすることだけなんだよ」
「そしたら直るんですか」
町医者の顔は真剣で、リズも思わず涙ぐんだ。医者は力強くうなずいて、
「直す方法は幾つかある。ひとつは、この歯車の速度をおとす薬を飲むこと。ひとつは、手術をして歯車そのものの歯を削り、回転数を落とさなくてもいいようにすること。ひとつは放射性物質を飲んで、歯車の大部分を焼いて回転数を落とすやり方だ。ただし、後の二つは危険だ。うまく行けば短時間で直るが、経験のある医者でも難しい手術だし、放射性物質は身体全体を蝕む恐れがある。従って君は、薬を飲み続けなければならない」
「でも、薬を飲んでれば直るんですね」
「ああ。ただし、薬を飲む方法はとても時間がかかる。二年、いや十年たっても直らない患者もいるんだ。覚悟をしてくれ。それから、激しい運動をしないように。できれば仕事も減らすんだ」
「そんな。じゃ、手術でもなんでもしますから」
「リズ、君はまだ三十だし結婚もしていない。だから大きな月の輪熊みたいな傷跡はつけられないし、これから子供を産む可能性のある身体を放射能で汚染したくないんだ。長くはかかるが害の少ない薬を飲んでくれ。とにかく安静がこの病気に一番いいんだ。疲れるまで作業を続けてはいけない。それから、この薬も最初の数週間は白血球を減らす。風邪で熱が百度も出たら、危険だから薬をやめてすぐにうちに電話しなさい。とんでいく。あと湿疹が出たり、喉をやられたりした時は……」
医者の説明は長く続いた。リズは思わずさえぎるように、
「仕事がまともにやれなくなるなら傷ぐらいなんでもないです、だからすぐ直る方法を」
医者は首を振った。
「君が一人で頑張っているのは知っている。働けなくなる不安もわかる。しかし、君の印刷所ならおじいさんの頃からのお客さんがいるだろう。君は腕もいい。今までの貯金もあるだろう。いっそ印刷所を閉めて、もっと静かな所へ引っ越してしばらく静養するのもいい。そのぐらい君の身体は弱っているんだ。だから」
「引っ越す」
その言葉はリズの顔を何故か明るくした。今までかかっていた暗い雲が一瞬晴れたようで、医者も勇気づけられた。
「そう、身体がつらいのはしばらくのことだ。薬がきいてくれば気持ちも落ち着く。田舎できれいな詩を書いて、また出版社へ送ればいい。時々載って掲載料も入るんだろう? すべてを悲劇に思うことはないんだ」
「わかりました」
リズはうっすら微笑さえ浮かべた。
「引っ越しの件はともかく、静かに暮らします」

とはいえ、帰路のエリザベス・ローズベルトの足取りは重かった。こんなに大変な宣告を受けるとは思ってもみなかったのだから無理もないのだが。
この夏なんだか身体が重くなり、太ったのかもしれないとわざわざ計ってみたらなんと冬より二十ポンド以上痩せていた。並の減り方ではない。もともと高い身長と力仕事のおかげで適正な範囲内だが体重は人よりあり、ダイエットをしようとも思っていなかった彼女である、驚いていつもの町医者に行った。医者はもっともらしく話をきき、幾つかの検査をした。ほとんどの検査に異常はなく、たぶん夏の暑さにやられたのだろうと医者は首を傾げた。大きな町へ持っていかないと出来ない血液検査の結果だけが遅れていたが、なんでもないだろうと言っていた。
実際、秋の風が吹き始めると彼女もある程度復調してきて、多少疲れやすい気はするが、以前のように稼業の印刷の仕事が出来るようになっていた。それまで毎日書いていた詩や散文は留守になりがちだったが、詩想があまり出ない時期というのもあり、気にするとかえって出来ないものなので、時間があると昔愛読した柔らかい本の類を静かに読み返したりしていた。
だから、このくたびれ方が、むしろ好ましい痩せ方が、そんなに深刻で時間のかかる病気などとは想像もしなかったのである。
医者が冗談まじりに、うつる病気ではないからセックスはしてもいい、愛する異性と触れ合うのはいつでもいいものだ、などと言ったのを思い出す。将来絶対に子供を産まなければ手術してもいいんでしょう、ならセックスなんてしなくていい、と思わず口走りかけたことも。元々リズは、妄想の中でさえだいぶ前から男を必要としなくなっていた。もともと割と淡泊な性質で、エネルギーが溢れすぎ暴走する十代の頃はまだそういうアクシデントもあったが、今はほとんど枯れているといって良かった。
そうよ、ちゃんと働けないなら、こんな身体なんて。
ああ。
これは神様の罰なのだろうか。
リズはほとんど無神論者に近かったが、良いことがあって感謝が溢れる時は神様にも礼ぐらい言った。酷い目に遭った時は見えない存在からの試練だと思い頑張った。
しかし、多くの面からいわゆるキリストの教えを裏切っている。例えば、愛してはならない者を愛しているとか。大きな秘密で大勢の人を欺いているとか。
だから罰を受けたと?
医者はこの病気の原因が現在の医学ではわからないと言った。そして誰でもかかりうるしこれをしたからかかるというものではないと。
秘め事に対する罰として、なんとふさわしい病だろう。
「馬鹿馬鹿しい」
リズは暗く傾きがちな物思いを振り払い、自分の家に入って作業場を点検した。中央に据えられた大きな印刷機を見つめる。あまり高級なものではない。そしてとても時代遅れだ。しかし彼女の祖父はこれで色鮮やかなポスターを刷った。幼年学校のアルバムも工場のパンフレットも月一回の地元新聞も肉屋のちらしも、頼まれればなんでも美しく刷り上げた。彼はいわゆる職人というやつだった。頑固で丁寧で手間を惜しまず、仕事に誇りを持っていた。リズは彼の脇でずっとそれを手伝ってきた。そして、祖父なき後、彼と同レベルとは言えないが、それなりに追いついてきた技術と良心的な価格を見て、継続の顧客でない依頼人も増えた。ここら一帯にある個人の印刷屋で、一番よく働くのがここの筈だった。
それなのに。
大好きなインクの匂い。うっかり指を切ってしまいがちな新しい紙の束。思った通りの色が定型の素朴なレイアウトを引き立てる。むらもなくズレも少ないそれを断裁する時の喜びといったらなかった。後々まで保存されるようなものではないかもしれないが、これはまぎれもなく庶民文化の一端をになうものだ。
リズは機械の掃除を始めた。いつもしているからたいして汚れてはいないのだが、今は特に急ぎの仕事もなく、これから来るものを断わってしまえば、長い間使わなくなるかもしれない。
彼女は感謝の気持ちをこめて相棒を磨いた。身体を動かしているうちに心も暖まってきて、ちょうどよくお腹がすいたところで夕食にした。そして湯をつかい、一番好きなパジャマをつけて毛布を一枚増やした暖かい寝床へもぐりこんだ。暗くした部屋の中、リモコンでTVをつけ、古い刑事物のシリーズなどしばらく見ていたが、そのうちプツンと消して目を閉じた。おやすみなさいを自分に言って。

おまえは人間の屑だ。
これからはまともに仕事が出来ない。誰の役にもたたないばかりか、自分の役にもたたない人間になったのだ。苦楽を共にする家族は既におらず、これからつくる気もない。幼友達の多くは遠くの町に行ってしまった。そして女で。世間から無力と思われる女、そして実際にそうなってしまったおまえ。これからは自分の口もあがなえないかもしれない。どうやって生きていく。どうやって?
リズは飛び起きた。
浅いまどろみの中で、いつの間にか涙を流していた。
泣いても仕方がないのに。
悩んで良くなる事態ではないのに。
でも。
どうしても悪いことにしか考えがむかない。
「駄目だわ」
ガウンをひっかけて台所へ行き、冷蔵庫を全力でひっかきまわしはじめた。夕方TVディナーで満たした筈のお腹になんでもいいから詰め込もうとした。チーズ。安くて甘い外国ワイン。熟したトマト。バジルはしおれる前に使ってしまおう。痩せているのだ、一食ぐらい余計に食べても構わないだろう。明日しなければならない頼まれ事もないのだ、夜遅く飲んでも構わない筈だ。フランスパンにナイフを入れてツナのサンドイッチ。ゆでた卵と馬鈴薯に塩とバタ。缶詰をあけてコーンポタージュの味見。ミルクを足してこしょうをふって。パスタをグラタンに? そんなひまない、今すぐ食べる。冷凍の海老。溶かして炒めてソースをかけて。そんなひまない、ツナ缶をもう一つあけてアスパラと一緒に。きのこは生で食べられない。玉葱ならスライスして水にさらせば。大好きな鳥の煮込みスープ。食べたい。他のものを食べてる間につくれば。駄目?
一週間かけて食べるほど沢山の品目を並べて食いついたが、半分程で力尽きた。片付ける気も起こらない。清潔なテーブルクロスをガウンの上から巻きつけて、タオルを枕に二つ並べた椅子の上に丸くなって寝た。どうしようもなく胃がむかむかしていたが、疲れの方が勝っていて、日が昇ってしばらくするまで目を覚まさなかった。

過剰な食欲というのは特に女性の場合、欲求不満の現れである、ということは素人でも知っている有名な生理学で、翌実の昼頃にはリズも自分が強い抱擁を望んでいるという事に気付いていた。
頬はあっというまに面白いほど濡れた。死んでしまった祖父の頭を撫でるような愛情をなくしてから、自分を親身にいたわってくれた人がいただろうか。いや、そういう家族の愛でさえ充分でない人もこの世には沢山いて、贅沢を言う気はないのだが、しかしこうして独りでうちのめされた気持ちでいると、どうしても慰めが欲しくなる。
あの人がぎゅうっと抱きしめてくれたら。
じっと瞳をのぞき込んで、私も独りでずっと寂しかった、と言ってくれたら。
心と身体で包んでくれたら。
馬鹿馬鹿しい。
リズは顔をぬぐった。ありえない事を想像するのにも限度がある。そんな空想でみじめになるよりは、子供向けの甘ったるいロマンスでも読んでひたった方がましだ。可哀相なヒロインにため息をついた方が。
それに本当は、私は小説の主人公よりも恐ろしいことをしでかしている。誰にも知られてはならない本当の秘密を持っている。小説として書いたら、そんなに物事がうまくいくかいと笑われそうなほどに出来すぎた秘密を。
ふと、リズは頭の中に一枚のポスターの図案が思い浮かんだ。過去二回刷った――一度目は祖父を手伝って二度目はそれを真似た――人捜しのポスターのものだった。
「そうか、無理をすれば死ぬんだ」
リズはぽん、と手を打った。
彼女の絶望は、あと半年で死ぬと言われなかった処にあった。人は誰でも死ぬが君はこれから長らく生きたまま死人のようでいろ、と言われたことにあった。とろとろと弱火で煮られる責め苦――無理をしなければ大丈夫だというのはそういうことだ。
しかし、無理をすれば死ぬのだ。無茶をすれば丈夫な人々よりも死にやすいのだ。
なら、死んでしまえばいい。
今の彼女が死んで、困る人は誰もいない。
友人も家族もないのだ。客はほとんど断わる筈だったのだ。ならば死んでしまえばいい。
でも、病気におびえて自殺したと思われるのも嫌だ。自殺のために教会に厭な顔をされるのもしゃくだ。
ならば世間を驚かしてやろう。私の本当の姿を知らせてやろう。どのみち葬式を出してもらえやしなかった事を。
そして彼女はわかってくれるだろう。
彼女を憎んでいたことを、そして愛していたことを。
リズは昨夜の食べ散らかしを適当に素早く口に放り込んでいった。図案の上に置く文字は決っていた。頭は凄い勢いで回転しはじめた。そう、あと必要なのは低俗さ、下品なので思わず見てしまうような、そういう悪い目立ち方をする流行遅れの配列、陳腐な血のしたたりのある構図だ。冗談めかした写真ながらも、そのポスターの人相書きが本当に殺人犯だと心の底に刷りこまれてしまうようなインパクト。
ぶちまけてしまおう、すべて醜いものを。むくんだ青ざめたこの顔を、全身に満ちる悪念を、そして堅く口唇を結んで封印していた犯罪を、誰もが憶えているがその真相をしらないあの二つの事件を。
今から始めて日暮れまでに間に合うだろうか。せめてある程度乾いてから貼りたい、いや、インクを吸う紙の方がにじんで毒々しさが出る、そして貼るのは真夜中がいい。月に照らされて、手配写真を号外のようにばらまいているのは実は正真正銘の犯人、人々は窓の外に影が踊っていてもそれが人殺しとは気付かず、最低の犯罪を犯した不気味な女だとも知らず。人相書きに指紋を残すのも面白い、本当は優秀な印刷屋としらしめるために、印刷前の原稿に薄く押しておくのもよい、うっかりつけたものでないことを知って、いったい何人の警官がそして素人探偵達が驚くか。馬鹿な犯人めと笑うものが笑われるというあまりにちっぽけなひっかけ。それが私にはふさわしい。私は軽蔑されるべきだ。その上私は他人をゆする企みさえ抱えていた。いやらしい卑しい目的のために。私は裁かれるだろう。森の奥まで行き、疲れはててそこに倒れ死ねたなら、私は神様に勝てるだろう。いや、それはすべてに対する勝利――この町の善意の知己、悪意ある者、そして愛してくれなかった人々に対する勝利だ。
彼女は手と口元をぬぐって作業場に向かった。てきぱきと服を着替え、髪を結わえ、そして新しい原版の準備を始めた。すべての計画は頭の中に出来上がっていた。リズはとても頭が良かった。最初の罪を犯した時から、そしてその後もずっと。

2.

《私は、貴女のことを考えないで眠った日はない。どんな一日を過ごしても、貴女の姿を思い浮かべてからでなければ、目を閉じることなんて出来なかった》

「嘘つき」
その日曜の朝おそく、書き物をしようと思って机に向かったアガサだったが、昔もらった手紙をつい取り出して、そんなことを小さく呟いた。夫が失踪するちょっと前、夫婦仲がだいぶこじれていて苦しかった頃、リズに手紙を書いたことがあった。長い間郵便局員をしてきた彼女は、その裏の事情を汚いところまで知りつくしていたが、時折発作的に感傷的な文章をしたためる子供時代からの癖が残っていた。だが結婚をしてから足の遠のいた友人に醜い愚痴をこぼすのも厭なので、《もし私のことを憶えていたら手紙をちょうだい》と軽く結んで送ってみた。出した時点で気持ちは軽くなるものだが、リズは律儀なところがあって、必ずすぐに返事をくれた。気休めやお説教のない返事を。時には見当違いであったりもするが、たいていは心の暖まるものであった。
しかし、その時来た返事には、幾つも幾つも熱っぽい言葉が連ねてあった。

《私は、この世にいる他の誰のことよりも貴女のことを考えるのに一番時間を費やしてきた。貴女の存在がなかったら、私は別の人間になってしまったと思う。貴女を抱きしめたい、貴女の腕に抱きしめられたい、貴女に必要とされたいとずっと思ってきた。他の誰か相手ではこの気持ちは満たされない。満たされたことはなかった。だから、貴女のことを忘れるのは無理です》

アガサはリズの気持ちを知らなかった訳ではない。時に眼差しで、時に染めた頬で、時に短い言葉のニュアンスで、リズは気持ちを伝えてきた。それは十代のうんと早い前半から始まって、アガサが結婚した後も続いた。
彼女はリズが嫌いではなかった。それどころか、年をとるごとに失いえない大切な友人になっていった。だが、彼女のそういう好意に応えるのははばかられた。いや、肌をあわせるのが厭なのではなかった。好きな者同士が寝るのはおかしなことではない。普段の相手がいようとも、いつもそれに縛られる必要はない。
では彼女が恐れていたのは何か。それは、リズが自分と寝たとたん、自分に恋人のレッテルを貼るのではないかということだった。世間にはよく軽んじられる女同士の関係だ、かえって強いくくりを欲しがるだろう。貴女は私のもの、なんて言われたら――考えるだけで鳥肌がたった。アガサは何でも他人に決めつけられる事が一番嫌いで、リズと続いてきたのは彼女がそれをしなかったからだ。自分の気持ちは伝えても、押しつけがましい要求はしない。私のことが嫌いなの、などと頭の悪い女のように騒いだりしない。八つ当りをしても考え深くじっと黙っていて、こちらの気持ちがおさまると静かに微笑んで責めない。決してずかずかと内面に踏み込んでこず、適切な距離をとって、こちらから話すのを待っていてくれる。誠実で信義の厚い人。そして私を好きで。
もし彼女を分類すれなら《特別》のところにいる。分類なんて失礼だと思うほど、特別の他に言いようがないほど大事だ。だからこそ軽々しく接したくなかった。考え無しの早急な行動はできるだけ慎しみたかった。
しかし、夫がこつぜんと失踪してからのここ三年、リズはすっかりよそよそしくなってしまった。家も近く、学校時代の思い出を語り合うだけでも一日潰せる間柄だというのに、何やかやと理由をつけて会ってくれない。誕生日のカードや贈り物は忘れず届くけれど、それだけだ。
「何が《貴女を忘れるのは無理です》よ」
こんな風に手紙を読み返さねばならないほどアガサは寂しかった。彼女は独りだった。もしもジェラルドが戻ってこなかったら再婚してくれと言い寄る男達などうっとおしいだけ、何の慰めにもならなかった。職場の同僚もくだらないゴシップをしゃべるしか能がなく、自分を高めようと努力しない。アガサはいろんな趣味の会や資格の勉強に打ち込んで、いつも何かを探していた。それは独りでいなくてすむ方法だったかもしれない。リズのような好意に出会いたかったのかもしれない。愛され大事に思われていることはやはり嬉しく、しかもそれはめったに出会えないものなのだ。
「エリザベス……」
ひとつため息をつくと手紙を引き出しへしまった。今日の休みは遠くのスーパーまで買い物に行くつもりだった。ドライフラワーに使う乾燥剤が切れていて、その他日常の品も細々と必要で、もっと早く車を出すべきだった。
だが、さあ出かけよう、と思った瞬間に電話が鳴った。
「はい、アガサ・ニコルソンです」
「よかった、君は家にいたんだな、間に合った。いいかい、これから外へ出ては駄目だからね」
町医者はほっとしたような声を出した。アガサの声がつりあがる。
「外出は駄目ってどういうことですか?」
「新聞記者や好奇心の塊の連中に襲われたいなら別だがね。十七年前、君の友達のデイルって娘が神かくしにあったろう。三年前、君の夫が失踪しただろう。どうやら二人の遺体らしいものが見つかったんだ」
さすがに重いボディ・ブロウ。アガサが言葉を失うと、医者はさらに強烈な一発を繰り出した。
「それで、二人を殺ったのはリズだというんだ。昨晩自白のポスターを町中に貼り出して、二人を埋めた場所を半分まで掘り返したところで倒れたらしい。今、うちの病院にいるが意識不明だ。時々うわごとで君の名を呼んでいる」
「冗談はやめてください」
「冗談なもんか」
その時、アガサの部屋の窓をガシャン、と破って何かが投げ込まれた。驚いてそばへ寄り、怪我をしないよう拾いあげると、それは大判の紙に石をつつんだものだった。これがくだんの自白ポスターらしい。余計なことをする野次馬が放り込んだのだろう。
少女と若い男の顔が画面を半分にわけていた。どちらにも赤いバッテンがついていて、周りの黒枠にちいさな金色のかぶと虫が数匹這っていた。その上には大きく《おたずね者》とあり、その下の方には以下の文章が濃い紫の活字で記されていた。

《望遠鏡で詩人と狂人の宿、風見鶏のこしかけで四十一度十三分北東微北大きな幹七番目の枝東側、しゃれこうべの左目から垂らす凧糸と硝子壜、木から五十フィート北へ。
そこにデイルとジェラルドが埋まっている。手にかけたのはローズベルトの娘、エリザベスその人。そして彼女もまた、アガサ・ニコルソンの呪いによって、三人目の犠牲者になるであろう。》

「呪い! 私が呪ってるっていうの?」
「アガサ、大丈夫か、アガサ!」
電話はまだ切れておらず、医者は大声をあげていた。ガラスの音が派手だったので、安否を確かめたいらしい。彼女は電話口に戻った。
「この下の文章は何の冗談なんでしょうね」
「ああ、ポスターが投げ込まれたんだね」
医者が電話の向こうで肩をすくめた。
「それはポーの『黄金虫』の暗号文のもじりらしい。実際はリズの方が先にみつかったんだが、実際町はずれのアパートにある大きな風見鶏の脇に座って望遠鏡で北東方面を見ると、目印の大木は見えるらしい。おもちゃのドクロが据えてあって、本当に五十フィートのところでリズは倒れてたそうだ。詩人と狂人の宿、というのは私もよくわからないが」
アガサは苦々しく、
「そのアパートに昔、自称化学者が住んでいたんです。実験らしいこともほとんどしないで、詩みたいなホラばかりふいていたので、私が《詩人と狂人の宿》と名付けたんです。それに展望がいいのと風見鶏が珍しかったので、子供の頃はよく屋根の上へ登らせてもらってました」
「なるほど、それで『黄金虫』なんか真似をしたのか」
医者は得心したようだがアガサはそれどころではない。
「でも、リズが二人を殺したなんて。本当に彼女がそんなことをすると思いますか?」
「そりゃあわからない。正当防衛ってのもある。それに検死がすむまで死因もわからないんだ。特に十七年前の少女の方は完全に白骨だからな。あまり損傷はないから毒かもしれん。君の夫だった男は、頭蓋骨が半分ふきとんでるんで、近くからピストルで撃たれたんじゃないかと思われてるが」
アガサは口元を押さえた。
気持ちが悪い。
あの男を撃ち殺したのが本当にリズだというなら、先に私が殺しておくんだった。そうまで彼女が思い詰めていたなら。
「ああ、すまない、気味の悪い話をしてすまなかった。とにかくリズは今晩が峠だと思う。彼女は病気なんだ。もともと弱っていたところへもってきて心臓に負担をかけすぎたんだ。すっかり身体も冷やしてるし、熱も高い。ああアガサ、もし見舞いに来る気があったら、夜にでもこっそりおいで」
「わかりました。行けるかどうかわかりませんが」
「無理してくることはない。本当に危篤になったらまた知らせるから……いいね?」
電話は切れた。
アガサはその場に立ち尽くした。
嘘だ。
リズが二人を殺した筈はない。最初、デイルが姿を消した時、私を一番心配してくれたのは誰だ。おじいちゃんと遠くの町まで人相書きを貼りに行ってくれたのは誰だ。ちゃんと捜索隊を出してください、と何度も警察へ行って頼んでくれた。ジェラルドが行方をくらました時も、やはり一人で人相書きを貼りに出かけてくれて、それから家に簡単な食事を届けにきてくれた。貴女より料理は下手だけど、一緒に食べてくれると嬉しい、と。つくる気も食べる気も起こらない時で、その思いやりは身に染みた。味の好みが違うので美味しいとは言いかねたが、リズから先に「ごめん、これ味が濃すぎるかも」と謝られて、「確かに濃いかも」と笑うことが出来た。本当はその時、リズは勘が狂っていたのだ。祖父をなくしてからあまり自分でつくらなくなっていたらしい。アガサは後でその事を知り、失礼を言ったわねと謝ったが、リズは「何のこと?」とかえってきょとんとしていた。
そう、彼女が二人を殺した訳がない。
それに、私の呪いって?
背後で再びガラスの割れる音がした。石つぶてである。どうやら嫌がらせの開始らしい。アガサは身を低くして壁際に寄り、カーテンを二重に引いた。そして再び電話が鳴って、受話器をとるとやけに押し殺した男の声で、
「おまえは人殺しだ、この薄汚い淫売女め……」
と始まったので、受話器を外したまま畳んだ毛布をかぶせた。
確かに今日は外へ出ない方が良さそうだ。あまり大きくない街である、卑怯者達もどうせ顔見知りだろう。正々堂々と胸を張って抗議することもチラ、と考えたが、それで矛先がリズのいる病院へまわってもよくない。じっとしていよう。ドライフラワーはもうどうでもいい。騒ぎがおさまるまで買い物へも行けそうにないが、今ある食糧であと二週間ぐらいは食いつなげないこともない。夕方誰かに届けてもらってもいい。届けてくれそうな人って誰がいたっけ。
エリザベス・ローズベルト。
アガサは立ち上がり、家のドアへ向かった。扉につけた郵便受けに何か放り込まれないとも限らない。一人になってから新聞は断わっているので(どうせ昼に職場で読める)、内側から封をしてしまおうと思った。郵便は局で受け取ればいいのだし。
郵便受けはまだ無事のようだった。汚いものや危険なものは入ってなさそうだ。が。
「……これは?」
一通、手紙が入っていた。
表に一言、アガサへ、と書き殴られている。
野次馬の嫌がらせではなかった、リズの文字だった。封を破くとタイプの文字が並んでいた。心乱れて書いたのか文章はやや破綻し、その文字も上下に踊っていた。

《親愛なる貴女へ

たぶん騒ぎが起きてしまうと思います。ごめんなさい。でももう私は死んでしまうから、最後に貴女を困らせることにしました。あの二人がどこに埋まっているかをみんなに知らせれば、どのみち貴女が好奇心の的になるから。そして、あの二人がどこで眠っているか、誰にも知らせないで死ぬのも嫌だったから。デイルとジェラルドを殺したのは私です。でも、二人を追いつめたのは本当は貴女なんです。追いつめられたのは二人が愚かしかったからだけれど。でも、貴女を好きで、好きだからこそどうにかしたくて、もがいた挙げ句のことだったのだと思います。
私だって考えたことは度々――例えば昼間を友人としてともに過ごせているなら、例えば夜、姉か妹のように屈託なく語り合えたら、貴女の像を目蓋の裏に結ばずに眠れるのかもしれない。貴女の仕事にプラスをもたらす仕事仲間であるとか、普段は空気のようでも傷ついた折には頼ってもらえる相手であれば、それに満足をおぼえて幸せでいられたかもしれないって。
でも、私は貴女にとって何者でもないから。
第三者――常に三人称で呼ばれる、単なる顔見知りだから。
自分の夢の中でさえ「愛しい貴女」と抱きよせてもらったことがないの。貴女がそういう人でないことを私は知りつくしているから。別に恨んでいる訳ではありません。ただただ甘やかしてもらいたいのなら、とっくの昔にそういう恋人を選んでいた筈だから。
反対に、貴女にとって何者でもないことは私にとって良いことだったと思う。貴女の三人目の犠牲者にならずにすんだから。私がもし貴女の恋人として選ばれていたとしたら――そう、デイルが友人として、ジェラルドが夫として選ばれたように――私はもっと早く破滅していたと思うから。たとえ友達でも家族でも別れる時はあるものだし。憎みあってしまうことも、傷つくことも、あるのだから。
それでも私がいたことが、生きていた時間が、貴女の役に少しでもたっていたら嬉しい、と思いつつ。

忠実なる貴女の友人/L》

「リズ」
裏口から外へ出れば目立たないだろうか。誰にも見つからずに病院まで行く方法は? いや、私の家から私が出るのだ、策をろうさない方がいい、車を呼んで前につけてもらえばいい、私に何かぶつけたい者があればぶつけられてやればいいのだ。本当に私はひどい女だ。ひどいんだ。
胸が潰れるようだ。
部屋へとって返し、受話器の毛布をはがしてタクシーを呼んだ。来てくれるという。短い距離でも大丈夫ですと。
彼女は一度電話を切って、それから再び受話器を外した。適当な鞄に必要と思われるものをつめ、外でクラクションが鳴るのを待った。
「今行くから、リズ」
車が止まる音がした。
彼女はドアを開け、姿勢も正しく大またで外へ歩み出した。顔は緊張でこわばっていたが、その瞳を見て石を投げる者はいなかった。そんな蛮勇を持つものは、一人として。

3.

足音をたてないためには裸足が一番いい。だがもう夜は冷える。全部を貼り終える前に足が動かなくなったらまずい。あの暗号を誰にも解いてもらえなかったら困る。だから、柔らかい布の室内ばきを二重に履いて紐で足にくくりつけた。どうしたら目立たないで貼りおおせるかは知っていた。夜中に祖父とサーカスのポスター貼りをしたことがある。そんなのは本当は印刷屋の仕事ではないのだが、祖父が依頼人とその希望を気に入っていて、翌朝一番に町のみんなが驚く貼り方をしたがった。そんな訳でリズは、夜中音をたてずに貼って朝誰もが見るには何処へどう貼ったらいいか学んでいたのだ。
医者からもらった薬は飲んでいた。まだ効いてこずだるさはとれないが、一時白血球を減らす作用があるというところが気にいって、言われたより多く飲んでいた。これでどこかに怪我をすれば、もしくは寒さで大風邪をひけば、病院にかつぎ込まれる頃には手遅れになるだろう。
糊の缶は重く、一人では一度に運べないので、何度か家に戻っては貼り続けた。刷り上がったポスターは必ずしもセンスのいいものとはいいかね、リズは改めて自分の不調を感じ、気持ちが沈んだ。本当に具合いの悪い時には、どんな芸術家も立派な仕事は出来ないだろうと自らに言いきかせ、途中で終われないその作業を無理矢理すすめた。
強烈な眠気がリズを襲っていた。神経は尖っているのだが疲労が重すぎるのだ。彼女は用意しておいたシャベルを肩にかつぎ、月の光の当たらない建物の陰を選んで歩いた。二人を埋めた場所へ向かって。

私は本当にアガサを好きだったろうか。
「あんた、アガサの事、好きよね」
「デイル」
その時、穴を掘っていた。『黄金虫』で海賊キッドが暗号の場所に宝箱を埋めたように、私は埋めたいものがあったのだ。そこへデイルが現れた。穴の縁から彼女は尋ねた。
「それ、本当の毒薬?」
「まあ、そう」
毒薬にこっていた頃だった。家には印刷に使う劇薬があったし、学校の実験室から少しずつくすねてもいた。祖父にもらった手刷りの機械で、しゃれこうべとぶっちがいの骨のいわゆる毒薬マークを刷り、洒落た開き壜につめて蜜蝋で封をし、そのラベルを貼った。そのほとんどはあまり害のない色水のようなものだったが。
私は毒薬づくりに飽きると、この宝物を埋める場所を決めた。いつも行っていたアパートの屋上にある風見鶏をヒントに、エドガー・アラン・ポーばりの暗号文をこしらえてそこに穴を掘った。一応みんな鍵のかかる木箱へ入れたが、長い年月の間にガラスが割れたりすると毒が染みでて地表を変えるかもしれない。だから深い穴を掘った。私の身丈ぐらいもあったろうか。それはかなりの難ではあったが、家に隠すにはすでに量が多すぎた。祖父は私が薬をいじっていることを知ったら物凄く怒るだろう。印刷もさせてもらえなくなるかもしれない。
「それ、飲んだら死ぬのね?」
デイルは重ねてきいた。私はうなずいた。
「死ぬ」
「じゃあ、どっちが死ぬか、勝負しない?」
「どっちが死ぬかって?」
私は穴から出てきた。デイルはバスケットを下げていた。中からコーヒーのカップを二つ、粉砂糖の壜と熱いコーヒーの入ったポットを取り出した。
「あんた、私に見えないようにしてどっちかのカップに毒を入れなさいよ。そしたら私、飲むから。あんたも一緒に飲むのよ。それで、もしあたしが死んだら、アガサはあんたにやるわ。確率は二分の一だから、悪くないでしょ」
「アガサはデイルのものなの?」
「まあね」
しかし、デイルの顔色はひどく悪かった。アガサに何か言われたのだろう。リズならそんなことしない、とかなんとか。そんな直接的な言い方ではなかったかもしれないが、おそらく似たようなことを言われてショックを受けたのだろう。たぶんデイルは、自分がアガサの一番だと思っていたのだ。事実、その頃二人はとても仲良くしていたから。
「わかった。やる」
実を言うと、こういうことには慣れていた。アガサは私についたんだから、などと言ってくる女の子は何人もいた。彼女には年の離れた兄がいて、そのせいか大人びていて、本も沢山読んでいて物知りだった。友達になれたら嬉しいと思える相手だった。だから、いきなりねじこまれても、またか、と思っただけだった。こういう輩は適当に相手をしてやればいい、と。
私は記憶で、一番安全だと思われる毒薬を選び出した。デイルに背を向けて、片方のカップへそれを垂らした。両方に砂糖を入れてかきまぜた。
私はTVで観たばかりの『白い家の少女』という映画を思いだしていた。天涯孤独になってしまった女の子が、大人に社会に染まらないように知恵を絞って暮らしている。彼女は最後まで戦い続け、家に入り込んで来た変質者を自分一人で毒殺する。そうでなければ自分が殺されてしまうから。彼女はコーヒーを煎れる。そして自分のカップに毒を入れ、砂糖をたっぷり入れる。彼女は甘いのが好きだったから。相手の変質者は最初、毒の入っていない方を選ぶが、考えなおして彼女のカップをとる。やけに甘いな、と言いながら飲む。当然彼女は毒の入ってない方をとり、砂糖をたっぷり入れてかきまぜる。一瞬、なんでそんなことをするんだろうと思ったが、彼女は本当に甘いのが飲みたかったのだとわかる。沢山入れた砂糖は毒の味を消すためだけではなかったのだ。おまえのはやけに甘いな、という言葉を裏付けるために砂糖を入れてみせたのではないだろう。その身振りはとにかく自然で、これはよくできた映画だと子供ながら感心した。
さて、デイルはどちらを選ぶだろう。もし私が毒入りを選んでも、ちょっとお腹をこわすぐらいの筈だ。だから、もしデイルが毒入りを飲んでしまったらショックだろうな。でも、危険なことを言い出したのは彼女の方だ。あえて逆らう必要もないだろう。
私が平然としているので、デイルは毒薬など入っていないと思ってしまったようだった。割とぱっと選んで、勢いよく飲んでしまった。私も飲んだ。コーヒーはデイルが煎れたものだったかもしれない。あまり美味しくなかった。デイルはカップを置くと泣きそうな顔になっていた。馬鹿にされたと思ったのかもしれない。
「なんでアガサはあんたなんかがいいのよ。あんたなんか本とか読んで陰気くさくてさ。一人でこんな毒薬ごっこなんてしてるくせに」
まあ、それは事実ではあるが。
「ねえ、アガサが私がいいってはっきり言った?」
「言わないけど……でも、あんた、八つの頃からずっと彼女といたんでしょ。しかもアガサは、他の誰の約束よりも、あんたのことを優先すんのよ」
「単におんなじクラスだっただけだよ。優先してくれるのは先約だけだと思う。そういうのがきちんと守れないのが厭なんだ、アガサは。私だけ特別な訳じゃない」
「本当に?」
「たぶんね」
アガサは時々発作的に意地悪をした。私がノロマでてきぱきと受け答えが出来ないのでイライラしたのかもしれない。ほかの友達とひそひそ話をしていたと思ったら、いきなり筆箱を隠されてしまったことがあった。その子は私が仲をとりもってあげた子だったので、とても厭な気がした。彼女は友達をすぐつくれたけど、敵も多かった。頭の悪い相手と妥協してつきあうぐらいなら正面きって悪口を言う方がまし、という人だった。だから彼女をよく思わない子の前では、なるべく良い所を話してあげた。どちらも気持ちよくなるように好意的に話して、互いが自然に近づくようにした。元々敵でも仲良くなってしまえば、それだけ彼女のためになると思った。彼女はちょっと不器用なだけなのだ、私も器用ではないけれど、少しでも補えればいいと思った。アガサが悪口を言うのは相手を少しでも良くしたいからなのだ。だから陰口は絶対に言わない。だからもし一緒に遊べるようになったら、その子もアガサも私も楽になる。そう考えて一生懸命にやった。でも実際は、新しい友達の方がアガサには魅力的に見えるらしく、時々一人取り残されてしまった。今日のように。
いっそ冷たくされた方が楽でもあった。近づいて意地悪をされるよりは、わからないままでも待っていた方がいい。彼女を嫌いになりたくなかった。
しかし私は、本当にアガサを好きだったろうか。
「でもあたし、アガサが本当に何考えてんのかわかんないのよ。怒っても訳を話してくれないし。でも、リズならわかるんでしょう?」
ははあ、なるほどわかった。アガサはへそを曲げているのだ。それでデイルにあたったのだ。リズならそんなお節介はしない、と叫んだのだ。
なに、私だってわかる訳じゃない。ただ、そういう時のアガサには、余計なことを言わない方がいいということを知っているだけなのだ。彼女が怒っていたら、どうしたの、××なの?と尋ねてはいけない。決めつけられるのが嫌いな人だから、余計なお世話だと一層怒らせてしまう。だから、じっと黙って見守るといいのだ、頭のいい大人の様に。アガサだって馬鹿じゃない、怒りがおさまって冷静になれば、自分から全部話してくれる。当りっぱなしじゃ恥ずかしいから。
でも、それを知らない人は、きっと絶望してしまう。彼女を好きであればあるほど、ショックは大きいだろう。アガサは人をよく試した。本当に自分にふさわしい相手かどうか、何度でも試した。私は偶然、何度かその試験に通ってきただけなのだ。おろおろしているうちに合格し、そのやり方を自然に学んだだけなのだ。
このコツを、私は他人に話したことはなかった。それに、普通の子は、そういう時どうして尋ねていけないのかわからないのだ。本当の友達なら何でも話してくれる、と堅く信じている。説明しなきゃならない義務なんてない筈なのに。本当の友達なら、待ってあげられる筈なのに。
「ね、デイル。アガサは繊細なんだよ。だから普通の子が怒らないような事でも許せないんだよ。でも悪い子じゃないからね。デイルのこと好きだと思うし」
そう言って慰めようとした瞬間、デイルは喉をかきむしりはじめた。胸を、喉を、そして全身を痙攣させてドサッと倒れた。そんな馬鹿な、と思った。毒入りを彼女がとったかどうかさえ自信がなかった。そして、そんなに急激に効く毒が混ざっている筈はなかった。
始めはデイルがお芝居をしているのだと思っていた。しかし、息も脈も止まっている。十分後、デイルはすごく冷たくなって、本当に死んでしまったのを知った。そして、彼女に飲ませたその壜の中身は、時々遊びに行っていた自称化学者の家から失敬したものだったのを思いだした。私は間違えたのだ。あの男がそんなに危険なものを扱っているとは思わなかった。子供の私だってかなりの毒物を持っていたのに、そういう想像が出来なかったのだ。
どうしよう。
怖い。
毒薬ごっこの話は信じてもらえるだろうか。普段デイルと仲がいい訳ではないのに、おままごとをしていたと考えてもらえるだろうか。もう十三なのに。それに私が化学者の家で盗みを働いたのもばれてしまう。アガサを取り合っていたと思われるかもしれない。アガサ。
そうか、アガサに迷惑がかかるかもしれないのだ。
私はデイルを穴の底に埋めた。毒薬の箱と一緒に。すぐに見つけ出されてしまうかもしれない、例えば優秀な警察犬を使ったら。落葉で隠したらどうだろう。もう秋だ、そして雪に閉じ込められる冬がすぐに来る。捜査は難しくなるだろう。
アガサにかかる迷惑は、一年でも遅い方がいい。
まかり間違えば自分が死んでいたことなど考えなかった。その場を繕うことしか頭に浮かばなかった。私は丁寧に穴を埋め、落葉でならして隠してしまった。
デイルの失踪はすぐにニュースになった。祖父はたずねびとのポスターを頼まれて刷った。私はすすんでそれを手伝い、町中に貼るのも手伝った。そして、警察に捜索隊を頼んだ。半分、デイルが見つかって欲しいと思っていた。大きな秘密を抱えて生きるのは苦しい。私はまだ子供だから、捕まっても死刑になることはないだろう。アガサのことは私が口を滑らせなければなんとかなるかもしれない。
しかし、誰もデイルを見つけなかった。
子供の行方不明は田舎ではよくあることだ。誰かにさらわれることもあるし、好奇心の家出もある。そして、探しにくい場所で死んでしまっていたら、もうどうしようもない。
警察犬も出されなかった。彼女が埋められた場所はそれほど山奥でなく、そして宅地に使われるほど便利な場所でもなく、そのせいか遺体は見つけられることがなかった。ずっと。

穴を掘るのは骨が折れた。地面はひどく固かった。雨や雪が染み込んでぎゅっと締めてしまったらしい。病気と疲労がリズの腕を、身体をいつもよりずっと重くしていた。足をかけ、体重をかけてシャベルを打ち込む。もっと疲れなければ。掘り出せないかもしれないけれど、少しでも掘っておきたい。そうすればあの暗号がわかってもらえなくとも、ここに二人が埋まっているのは知れるだろう。
でも、デイルはともかく、ジェラルドは本人が悪いのだ。どうしてあんな時に、あんな風にやってきたのか。間が悪いとしか言いようがなかった。ピストルを持ち出したので、人気のない場所で話す方がいいと思ったのかもしれない。その時リズは、ここに小さな木を植えようと思っていた。誰にも知られず眠っているデイルの墓標がわりにしようと。祖父が死んで、墓に花をそなえるようになってから、自分が殺してしまった少女に何かしてあげなければと強く思うようになっていたのだ。それで若い樫の木を買って、植えるための穴を掘っていた。
「よう。あんた、ロシアン・ルーレットって知ってるか」
ジェラルド・ニコルソンは酔っぱらっていた。
からんでくる酔っぱらいに対する時一番うまいやり方は、あまり逆らわないことだ。彼らはだいたい自分が丁寧に扱われないことが不満なので、適当に話をきいてやれば気がすんで、機嫌もすっかり良くなってしまったりする。十代の終わりから二十代にかけて、酒場帰りの男から、見当違いのプレゼントを幾度もらっただろう。隣町の福引の券とか、遊園地の切符とか、漫画映画の割引券とか。化粧っけがないのと、なんでも素直に相鎚をうってやるので、年より幼く思われてしまうらしい。
その時のジェラルドもまた、私を子供扱いしていたのかもしれない。こちらの返事もきかずに講釈を始めた。
「TVのロシアン・ルーレットだと、弾を一発しか込めねえだろう、あれじゃ駄目なんだよ。次に出るかどうか丸見えだろう。リヴォルバーの全部の弾倉をうめておかなきゃいけねえんだ、実弾を一つ、残りを空包にしておいてな。それからカラカラッとシリンダーを回す。でもって、交替に自分の頭に押しつけるのが正統派って訳だ。知ってたか?」
「そうらしいですね」
その年、DDという作家の『SONS』という難解な小説が売れて私も読んだが、その中に出て来る正式なロシアン・ルーレットの話が特に印象的で、ジェラルドはそれをそのまましゃべっていた。そして急に話題を変えた。
「な、おまえさんはどうして結婚しねえんだ。そろそろお年頃ってやつじゃねえのか。それとももう大年増で行き遅れってか」
「結婚に夢を持ってませんから。両親が夫婦生活に希望を持たせてくれなかったもので」
つい口調が尖る。嘘ではない。学校にあがるまでは親元で育ったが、その後祖父の家にずっと住んだのはそのせいなのだ。ジェラルドは口唇を歪めて酒臭い息を吐いた。
「なるほど、お育ちが悪くてって言い訳か。まあ、本当の理由はそうそう言えねえもんな。まして、俺にゃあな」
日が暮れかけていた。こんなところでこの男と二人きりなのはちょっと怖かった。しかもこの話題はエスカレートしていった。
「知ってんだぜ、俺が毎晩アガサをベッドん中で可愛がってると思うと、吐き気がすんだろ。俺が嫌いだろ。そうだよな、おまえさん、あの女を抱きてえんだろ、喜ばして楽しみたいんだろ」
私は思わずふふん、と笑った。
確かに夜、こいつがアガサとベッドを共にしていることを想像するのは気持ちが悪い。しかしあのアガサなのだ、何でも相手の言いなりになる訳がない。もしこの男が下司な気持ちで彼女を抱こうとするなら、きっぱりさせない筈だ。反対に、彼女が好きな相手と気持ち良く過ごしているのなら、それは私には喜ばしいことだ。結婚された時に辛くなかったといえば嘘になるが、私は何よりも彼女に幸せであってもらいたいのだ。だいたい何年アガサを好きだったと思うのだ、今になって一度や二度肌身を重ねることをそんなに有難がると思うのか。だいたい私は、おまえなんかよりずっと沢山アガサの秘密を知ってるんだ、セックスだけを羨ましがると本気で思っているのか。
するとジェラルドの瞳の色が変わった。
「やっぱりおまえらデキてやがんだな」
ああ、勘違いもいいところ! 私は笑いを抑えかねて、
「あら、別に寝てやしないけど?」
続きはさすがに飲み込んだ。本当に私との方がましかもしれないわよ、どうせあんたとも寝てないんでしょ、とは言わなかった。どうしてアガサがあんたみたいな馬鹿を選んだのかわかんない、もてた割に男を見る目がなかったのかもね、結婚が早すぎたのかもしれないわ、それとも男のほとんどってあんたみたいなクズなのかしら――などとは。よほど言ってやろうかとも思ったが、無駄を言って怒らせる必要もない。すでにこいつは負けているのだ。
「そうかい」
ジェラルドは瞳を光らせたまま、懐からリヴォルバーを取り出した。弾倉が六つの古めかしいものだった。
「ところであんた、度胸だめしをするつもりはねえか?」
「ふうん、ロシアン・ルーレットをするの? 行き遅れの女相手に御大層なことで。私なんかと命を賭けあっていいのかしら」
ジェラルドは銃口を私の左胸に押し当てた。
「なあ、本当はおまえを撃ち殺すことだって出来るんだぜ。だがな、それじゃあ俺は情けない男になっちまう。女に女房を盗られて、嫉妬にかられて撃ちましたってなことになる。そんじゃみんなの笑い者だ」
「それで、ここで決闘しろって訳」
彼は銃を指にかけてくるりと回し、弾倉の部分をざっと回転させてから私の掌の上に置いた。
「ああ。おまえさん俺が憎いだろ? 殺したいだろ? 半々の確率で殺せるんだぜ、興味ねえか」
「別に」
「なんだ、ぶるってんのか、意気地がねえってか?」
「いいえ」
安全装置を外し、私は無雑作にこめかみに銃をあてた。最初の確率は六分の一。ジェラルドの言葉を信じれば。不思議に死ぬ気はしなかった。命が惜しいと思う前に、私は引き金をひいていた。
古いものらしい、重い手ごたえ。
カチリ。
私はジェラルドに銃を返した。
「あなたの番よ」
彼は真っ青になっていた。弾丸が入っているのは本当なのだろう。私が馬鹿馬鹿しい、そんなことするもんですかと抵抗すると思っていたのだろう。甘い。アガサのことで私を侮辱して、そのままですむと思ったら大間違いだ。お返しに命をはるぐらいなんともない。彼女が聞いたらはなんて馬鹿な、と怒るだろうが。
「神様はどう思うかしら。アガサのためには、あなたみたいな臆病な卑怯者は死んだ方がいいって思うかもね。自分で頭を撃ちぬくのも素敵な懺悔の一種だし」
ジェラルドは面白いほどガタガタ震えていた。
「神様が自殺を許すもんか」
「あら、本当はキリスト教は自殺を禁止してないのよ。ギボンの『ローマ帝国興亡史』、読んだことないの? 殉教の恍惚にひかれてあんまり人が死ぬんで、ローマの為政者が禁止しただけなのよ。それが後世で広まっただけでね。だから、教会のかちんこちん共ならともかく、神様は自殺ぐらい大目に見てくれる筈よ。か弱い女を殺すことは許してないと思うけどね」
ジェラルドは黙ってしまった。
彼は敗北を自ら悟っていた。これ以上煽っても可哀相だと思い、私は優しい声を出した。
「あのね、やめてもいいのよ。別に私は傷つかなかったんだし。あなたみたいな人でもアガサの夫なんだもの、無理に死なせたい訳じゃない」
「いや」
ジェラルドはこめかみに銃をあてた。
「せめて一回はやらなきゃな。確かに卑怯だ」
「もういいから、やめなさいよ」
だが、もう彼は無雑作に引き金をひいていた。
轟音。
何故彼はためらわなかったのだろう。残り弾はあと五発、確率はまだ低いという安心感があったのだろうか。酔っぱらい過ぎていてちゃんとした判断が出来なかったのかもしれない。もともと酔ってなどいなければ、私に間違った嫉妬をぶつけることもなかったかもしれないが。
私は悲鳴をあげていた。いくらなんでも目の前で頭を半分ふっとばされては、誰だってビックリするだろう。
しかし、この叫びを聞いた人はどうやらいなかったらしい。銃声も気にしてくれなかったらしい。
一時間待ったが、誰もやってこないので、私は穴堀りの続きを始めた。大人の男をある程度の深さまで落とし込む溝をつくるのはかなり大変だったが、その作業が終わっても誰も来なかったので、私はジェラルドを埋め、その上に持ってきた木を植えた。彼が妻と不仲の噂はすでに散々流れている。家の中が面白くない男が、田舎町を見捨てていきなり消えるのはさしておかしなことではない。こんな愚かな男のために、アガサや私が詮索を受ける必要はあるまい。作業着には血がついてしまったので泥で汚した。家に帰るまでに見咎められたらそれまでのこと。勝手に自殺したので墓をつくってやったんだ、ぐらいの申し開きはしてやろう。どうしてそんなと問われたら、たぶんノイローゼか何かだろう、と言ってやろう。本当にそうだったかもしれないし。
私だってヤケになったこともある。短絡的になって、適当な相手と結婚してやろうかしら、と口にしたこともある。
あなたって人はたぶんしないだろう、とその時アガサは薄く笑った。
皮肉を言われた、と思った。もしくは、私に好かれているのに自信があるのかとも。もしかしてあれは、彼女自身の結婚生活の破綻が言わせたのかもしれない。
アガサ。
そして今日まで、ジェラルドの遺体はついに発見されることはなかった。露見を恐れて貴女にあまり近づくまいとしていたのは無駄だったかもしれない。彼は誰にも探してもらう価値のない男だったのかも。それはそれで可哀相だ。

リズはついにシャベルを放り出した。もう限界だと思う時はまだ限界じゃないという。本当に限界を越えると何も感じなくなるという。だからまだ掘れるのかもしれない。でも本当に掘り出す必要はないのだ。
ゴロリと横になる。室内ばきはとっくの昔に破れていて脱いだ方がましだったが、もう何もかも面倒だった。地べたにそのまま横になったのと、身体を動かすのを止めたのとで、急激に身体が冷えてきた。

本当に、どうして私はアガサが好きだったんだろう。彼女より親切だった友人もいたのだ。黙って見守ってくれるような男性もいなくはなかった。
振り向いてくれる人を振り向かせるのはそんなに難しいことではなくて、そのぐらいの芸当なら私にだってできた。特にすごく不美人でもなかった、そして目立つほど優秀すぎず、時々ドジを踏む愛敬も育てた。誉め言葉も素直に喜べるし、そういう意味では好かれる女だった筈だ。つきあってみて実はこだわる性格と知れても、同じタイプの友人はついてきた。アガサ以外の人の前では、私は普通の若い女で、それに不自由を感じたこともなかった。
じゃあ、アガサって何なんだろう。
私はアガサの何が好きだった?
本当は、じっと待ってるのは辛かった。好きだと言ったらすぐに応えて欲しかった。
でも。
それでも諦めることができなかった。側にいさせてくれるなら、都合のいい相手でもよかった。知らん顔をされるくらいなら罵られても見下されてもよかった。じわじわと悲しみに蝕まれても、不安に押しつぶされそうになっても、私にはアガサが必要だった。アガサは私の神様だから。いつまでも悪いようにはしておかないから。貴女からもらえる優しさ以上の慰めはなかった。
ごめんね、ポスターに呪ったなんて書いて。まるで貴女がひどいみたい。私の方がよっぽどひどいんだから。あの二人が悪いんだから。殺したことを隠しててごめんね、貴女も二人が消えたことに心を痛めていた筈よね、苦しいままでずっとほうっておいてごめんなさい。貴女は人間なのに。他人に優しくしようとしても、なかなか心が開けないほど繊細な人なのに。
アガサ。
私はもう死ぬけど、死ぬ前にもう一度だけ貴女に会えたら、ぎゅって抱きしめていい? 私なんてもう気味が悪いばっかりかもしれないけど、貴女の髪に触りたい。貴女の指を絡めとって強く締めつけたい。同情でいいからキスしてくれたら。
貴女にもう少し優しくできたらよかった。頼ってもらえるほど強い女でいたかったな。なんで涙が出るんだろう。疲れると自然に泣けてくるってアレかな。貴女のことを考えながら死ねるんだから幸せなのに。寒い。なんか汚らしい死体が出来上がりそう。睡眠薬かなんか用意しとけばよかったかもしれない。でももう遅い。寒い。アガサ。
……さようなら。

4.

額に冷たいものが押しあてられている。誰かが汗を拭いてくれているらしい。献身的な看護婦の手つきで。違和感が身体の下の方にあって、局部に管がつっこまれているのがわかる。排泄用だ。腕にも針が。これは点滴だ。どれだけ長い間眠っていたんだろう。そうか、死ねなかったんだ。早く発見されてしまったんだ。でもどうして? アガサが夜のうちに郵便受けを開けたのかしら、でもそしたらポスター貼りの間に捕まった筈だ。そうか、つまりあれだけでは死ねなかったのだ。私は失敗したのだ。
薄く目を開く。
汗を拭いてくれていたのは、アガサだった。
「今日は何曜? もうお昼? 仕事は?」
しゃがれ声で尋ねると、
「月曜日の午後二時。局は休んだ」
口調はぶっきら棒だったが、顔は怒っていない。
ごめん、と言いたかった。
勤めに行けなかったのは私のせいだ、私が貴女を巻き込んだから、噂の渦中へ突き落としたんだから。そうでしょう?
それにしても、アガサはいつからここに来ていたんだろう。見覚えがある、ここはいつもの町医者のベッドだ。彼が呼んだのだろう。私なんて見舞ってもらえる立場じゃないのに。
私の顔色を読んだのか、アガサは言葉を継いだ。
「そろそろ目を覚ますだろうから、ついててやってくれって。夜中ずっとうわ言で呼ばれてたから、あんまり眠れなかったのに」
それではずっと、こうやってついていてくれたのか。夜も側にいてくれたのか。もしかして、丸一日以上?
「エリザベス・ローズベルト」
額に暖かい口唇が押された。
「あんな風に呼ぶくらいなら、なんで……死ぬだなんて」
熱い呟き。その瞳には薄く涙がにじんで。
「アガサ」
「医者がね、こう言ってた。リズが本当に人殺しをしているにしてもしていないにしても、どのみち警察の取り調べを受ける。しかし彼女は病気だ。何よりもまず静養することが大事だ。こういう事件の後だ、この街で静かに暮らすのは難しいだろうから、しばらく遠くへ行った方がいい、って。だから、私が適当な場所を探すから、一緒に行こう。一緒に」
何を言われたのか、一瞬わからなかった。
「え……でも、そんな……出来ない」
重荷になりたくない。こんな迷惑をかけた上に、そんなことまでさせられない。そんなこと。
しかしアガサは譲らなかった。
「働きながら病人一人養うぐらいのことがこの私に出来ないとでも思うの? 一歩たりとも動けない病人でもなし、なんてことないじゃない」
「させられない、そんなこと。私も貯金ぐらいあるもの、貴女に負担をかけるなんて」
「私が言ってるのがそうでないってことぐらい、解らない?」
「アガサ」
「あ、でももし」
アガサはすうっと目を伏せた。
「……私が嫌いで、顔も見たくない、一緒に生活するなんてまっぴらだって言うなら、よすけど」
「違う」
私は管のついてない方の腕で、彼女の首筋を抱き寄せた。耳たぶにそっと口づけてから囁いた。
「怖いの。うっかり貴女の《何か》になってしまいたくないの。これ以上距離を縮めたら、全部壊れてしまいそうな気がして」
アガサはすっと顔を離した。瞳の色も強く、
「そしたらやり直せばいい。リズとなら私はやり直す。何度でも、何回でも、ずっと」
「そんなこと言っていいの?」
「じゃあ、期限をつけて……リズがやり直す気をなくすまで」
「アガサ」
真剣な顔のまま彼女は呟いた。
「ごめん。何にせよ、ずっと黙っているのは苦しいことよね。だから……私は、リズがつらいのは厭だから」
私は身体を起こし、片腕でアガサを抱きしめた。アガサの腕が抱きしめてくれた時、死んでもいい、と思い、それから一生懸命生きなければ、と思いなおした。
何故この人を好きだったかなんて、どうして考える必要があったんだろう。
わからない。
今は、もう。

(1997.11脱稿/初出・恋人と時限爆弾『3rd Person』1997.11)

《創作少女小説のページ》へ戻る

copyright 1998
Narihara Akira
http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/