『狩 人』


寒かったので、たぶん人恋しかったのだろう。
知らない猫と目があった時、反射的にこう考えていた。
《私の猫寄せの技術は、まだ通用するんだろうか》
猫を飼っていたのは子どもの頃の話で、猫そのものに触れることも、この頃はめったになくなっている。
猫を引き寄せるには、いくつか方法がある。大声を出したり、こちらからグイグイ近づいていくのは論外だ。そしらぬ風を装うほうがまだマシだ。今回は、「目があったら中指と親指をすりあわせて、じっと待つ」「狭い通り道をつくってやる(と、そこを通ろうとする)」を併用した。目をあわせておびき寄せながら、塀のそばにトン、と足をついて、猫一匹がギリギリ通れる幅にしてみたのだ。
「ナァ……」
猫が私のジーンズの裾にすり寄り、足のまわりをぐるりと一周した。
成功だ。
匂いつけに満足した猫が去って行くと、背後に人の気配を感じた。
振り向くと、しっとりとした美女が立っていた。
長い黒髪。豊かな白い頬。血のように赤い唇。細い脚を淡いいろのスラックスで優美に包んでいる。
「どうも」
ほんのり笑うと、銀縁眼鏡の彼女は私を追い越していった。脇を通り抜けて行く時、日だまりの猫のような匂いが、私の鼻をかすめた。
ものすごくタイプだったが、笑われたことにショックは受けなかった。自分のテクニックが今でも通用したことに満足すべきであって、見知らぬ人に笑われたぐらいでいちいち傷ついていては、猫などかまっていられない。
ジーンズの裾をはらって、親に頼まれた回覧板をポストに投げ込むと、家に戻った。日も高いのに朝食もまだだった。いくら日曜とはいえ、自堕落な女にもほどがある。


「お隣ね、お孫さんが来たみたいよ」
食事時、母からそう言われた時、私は生返事をしていた。隣は築八十年を越える木造平屋建てで、住んでいたおばあさんは先日、ついに老人ホームに入ってしまった。そのまま住むには古すぎるので、取り壊す前に親戚が掃除にでも来たのかと思っていると、母はこう続けた。
「しばらく住むんですって、さっき挨拶にきたのよ。高見さん、って女の人。若く見えるけど、あんたと同じぐらいの年齢らしいわよ」
「そうなの」
私はほとんど近所づきあいをしていない。幼なじみ達は皆、結婚して引っ越してしまい、町内の人間とは世代がずれている。四十年間ずっと独身なので、子ども関係のつきあいもない。そんなわけで、ぼんやり聞き流していると、
「なんかね、あんたと話をしたいとかいってたわ」
「私と? なんで?」
「ちょっとお訊きしたいことがありまして、って。ついでに、近所の案内でもしてあげたら」
「なんで私のこと知ってるの?」
「そういうことじゃないみたいよ」
「なんだろう?」
母が手土産にミカンを渡してくれたので、それをさげて隣へ行く。表札のところに《高見のどか》という名前が、テープのようなもので追加されていた。
「すみません、隣のモリトですが」
門扉についている呼び鈴を押すと、すぐに人が出てきた。私の顔を見るなり、
「あ、貴女が杜都さんだったんですね。先ほどは失礼しました。猫、お好きなんですね」
高見のどかとは、先刻の美女だった。
「ええ、まあ。私に何かご用とか」
美女はすっと頭を下げ、
「はい。どうぞお入りください」
刈り取られた枯れ草が庭の隅に積んである。彼女が手入れを始めたのだろう。引き戸をくぐると、広々とした清潔な玄関が私を迎えてくれた。ビニール袋を突き出しながら、
「ただのミカンですが。よろしかったら」
「お気遣いありがとうございます。杜都さんは、お茶ですか、コーヒー派ですか」
「おかまいなく。特に飲めないものはありませんが」
「じゃあ、お茶を入れます。楽になさっててください」
四角いちゃぶ台の前に座布団が敷かれ、ミカンは片づけられた。私は和室の畳の上で、遠慮なく胡座をくんだ。
昭和初期の建築らしい広い板張りの廊下は、よく磨き込まれている。柱の太い和室。ガラス戸のついた明るい縁側。大きな家ではないが、余裕のある、風通しのよい暖かな居住空間になっている。さすがに電話やトイレなどは新しくされているようで、これなら住めるな、と感心して見回していると、彼女が戻ってきてお茶を置いた。
「どうぞ。珍しいですか、こういう家?」
「いただきます。いや、懐かしいなと思って。ここ、昔のうちの間取りと同じなんですよ。ここ五軒ぐらいの並びは、もともと貸し家で、同じ人が建ててるんで。うちは二十年前に建て直したんですが、今でもたまに、夢に見ますよ」
「同じですか。祖父母が改装しているはずなんですが」
「土間とかお風呂は、昔どおりじゃないでしょうね」
「実は私、建築一般に興味がありまして。恥ずかしながら、スモールハウスの本も出してるんです。よかったら、お話をきかせていただけませんか」
渋い写真の表紙の本を出してくる。私は首をかしげた。
「お話があるというのは、それですか」
「それは、また別で」
美女は自分のノートパソコンを開いて、インターネットの受信状況を見せてくれた。
「これ、受信できるご近所のWi−Fiなんですが、ひとつ、暗号化されてない電波がありまして。杜都さんのお宅のものではないかと」
私は首を振った。
「うちのじゃないですね。大丈夫です」
「よかった。お母様にお訊きしたら、娘がネットしてるといわれまして、もしかして、ただ乗りしちゃったんじゃないかと心配で。一応、ADSLは開通してるんですが、電波をひろってしまったりするんで」
「ご心配なく。お茶、どうも、ごちそうさまでした」
「もうお帰りですか」
「いや、興味がないわけじゃないですが、私は建築に詳しいわけではないので、お役にたたないかと」
「昔のアルバムで、家やお宅の写っている写真があったら、お借りできませんか」
「写真をまともに整理しなくなって久しいので、お約束はできませんが、探しておきますよ」


押し入れに投げ込んでいた子ども時代のアルバムを引っ張り出し、次の休みに再び隣家を訪ねた。問われるままにこの街の歴史や地名の由来、近所の銭湯から軽食屋について話した。休みの日ごとに、そんなことを繰り返した。
「杜都さんて、本当にいろいろ、お詳しいんですね。お仕事、何をされてるんですか」
「いや、ただの……独身OL?」
その言葉があまりに自分に似合わなくて、思わず疑問形で答えてしまった。
「でも、恋人がいる」
「なんでそう思います?」
「満ち足りているように見えるので」
「いや、もうこのトシになると、恋愛とかもう、どうでもいいというか、なんというか」
「まだそんなトシでもないでしょう。じゃあ、昔は素敵な恋愛をされてた?」
私は思わず苦笑した。
「若い頃、物凄く好きだった人がいて、恋愛の一番いいところというのは味わったと思います。この人となら添い遂げたい、とまで思ったんですが、まあ、ねえ」
相手が女性だったことだけ伏せて、正直に答えると、
「なんでお別れしたんですか」
「私が金魚を飼えなかったから」
「金魚? 猫を飼ってたからですか?」
その瞬間、昔の彼女の面影が重なった。
娘が縁日で掬ってきた金魚が増えすぎたと、「杜都さん飼わない?」と訊かれた、あの日の顔が。
私は反射的に「無理」と断っていた。彼女は怪訝そうに、
「今でも猫、飼ってるんだっけ」
「いや、金魚って死ぬじゃない? 飼ったことあるけど、冬をこさせたことないし。もともと弱ってるところを、子どもが帰り道に置いてちゃって死なせたりするから、教育上よくないって、最近は縁日でも流行らないらしいね」
小さな死のイメージを振り払おうと、しどろもどろに答えたので、千歳は眉間に皺を刻んだ。
「わかった。飼えないのね」
「ごめん、その」
「いいよ」
問いの真意は理解していた。
離婚して、女手一つで娘を育てている母親にとって、実家にいるのに、金魚のように比較的手間のかからない生き物すら飼えないような女とはつきあえないし、将来も一緒に暮らせない、というのだ。
試されたのは悔しいが、事実なのでどうしようもない。
続けるのが難しいことは、最初からわかっていた。
私の安月給では実家を出ることが難しかった。子持ちの千歳も同じだ。彼女は美しかった。その気になれば男も女もいくらでも選べたろうに、私の思いを受けて何年もつきあってくれた。ありがたいと思わなければ。
《金魚も飼えないのに、誰かと住むとか無理だよね》
だが、のどかは真顔で私を見つめた。
「金魚がだめでも、猫だったら外でも飼えますよ。ここらへんは交通量も多くないし、散歩もいらない生き物だし、正直、放置してても、いいぐらいの」
「いや、もう、いいんですよ。そういうのは」
「じゃあ、私が、よくない、っていったら?」
「え」
間近に紅い唇が迫っていた。
拒んでもよかったはずだった。だが、拒む気は起こらず、私はそのまま、目を閉じた。


「なんで、私だったんです?」
甘い余韻に戸惑いながら、私は服を整えた。
「あなたみたいな美人なら、何歳になっても不自由しないでしょう。なんで、冴えないおばさんの私なんか」
「杜都さん、素敵ですよ」
「お世辞はいいですよ」
「いやでした?」
「高見さん、タイプなんで、別に嫌では」
「良かった」
安堵の表情が美しくて、つい見とれていると、
「私、グイグイ来られるの、好きじゃないんです。でも、杜都さんて、いつも自然体でしょう。だから猫も、安心して寄ってくるんですよ。私もあの時、引き寄せられちゃって」
一目惚れだった、と言いたいらしい。私は苦笑して、
「どっちが獲物かわかりませんね、それじゃ」
「狩人として有能なのは、杜都さんの方だと思いますよ」
ひなたの匂いをさせながら、そっとすり寄ってきて、
「恋愛の一番いいところ、私にも教えて下さいね」

(2015.12脱稿、【Text-Revolutions3】カタログ・テーマ「猫」用書き下ろし)

《創作少女小説のページ》へ戻る

copyright 2016.
Narihara Akira
http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/