『小説家のための手引き書』


 説教病

 自分の小説が雑誌に載るようになった頃、大学のサークルの同窓会に行った。
 隣に座った先輩から、声をかけられる。
「今はなんの仕事してるの」
「働いていません」
「それはだめだよ。筆一本じゃ食えないよ。最初は働きながらじゃないと」
 私は返事をしない。
 目の前の男が阿呆だと思っているからだ。

 働いていないのは、短編が商業誌に載ったからではない。大きな病気を立て続けにしたので、休職していた。心身ともに頑強でない自分に、朝六時から夜の二十二時まで職場にいるような仕事がつとまるわけもなかった。人の命に対して責任のとれる人間はいないのに、自分のミス一つで子どもが死ぬと気づけば、もう続けられなかった。
 いや、ありきたりな説教ではある。編集者にも同じことを言われる。筆一本で食えないのは、原稿料を渡している方も承知しているだろうが、こっちこそよくわかっている。一本で数日分のバイト代に満たない。
 とはいえ目の前の女が返事をしない理由について、ろくな想像もできない男に、創作論をぶたれたとしても、響くものは何もない。自分が作家や評論家と錯覚して、たわごとを吐くのは説教病だ。私は精神科の医者ではない、相手をする理由がない。
 黙っているといずれ説教は終わる。私は話のあう先輩の隣席へいって、最近面白かったドラマや本の話をする。それはとても楽しかった。

 私の病気は長く続いたが、一番重かった恋わずらいが治ると、急速に快方へ向かった。そのうちの一つは再発したが、この時ほどひどいことはなかった。よく原稿を書いたり、頒布会に行っていたものだと思う。それは病人と思われないわけだ。


 自分の本

 私には単著がない。商業出版は、雑誌掲載やアンソロジー収録作品しかない。なのに翻訳された作品があって、海外でも読まれている。電子書籍化もされているので、何千人、何万人の読者がいるはずだが、実数は想像もつかない。
 本屋で自分の作品が掲載された本を見かける。「あるな」と思う。特に感慨はない。
 図書館で自分の作品が掲載された本を見る。「載っているな」と思う。単行本はサイトの情報が古いなと思う。ただ、この作品は百人から百通りの感想をもらった。それはとても嬉しい。昔の本だが今でも感想をもらうことがある。ありがたいと思う。が、それ以上の感情はわかない。

 筆一本で食べていないのだから、自分は小説家ではない。
 もちろん筆一本で食べていない小説家もいるが、普通は「自分の作品が世に出ている。嬉しい」と思うものらしい。しかし今までの流れからして、もし私に単著が出たとしても「あるな」と思うだけな気がする。「嬉しい」という気持ちがあったら、私は小説家になれたのかもしれない。世の中に出ていけるかいけないかは、欲があるかないかだ。あっても出ていけない人はたくさんいる。努力である程度まではいけるが、ジャンル違いというものもある。本当に素晴らしい才能があっても、世に出られない人がいる。タイミングがあわないということもあるのだろう。

 そもそも私が投稿を始めたのは、ある本に感銘を受けたからだ。
 女は自分で女の文化をつくらねばならない。女の作品を増やさねばならない。裾野が広がらないと、女と女の文化は豊かにならない。女の声は消されてしまう。
 そういう概念を、私は二十代半ばまで知らなかった。そういう作品を読んでも、ピンときていなかったというのが正しいかもしれない。私もその裾野に加わろうと思った。小説なら十代の頃から書いていた。それが役に立つのなら、と思った。出たいジャンルではニーズのないものばかり書いていたが、同人誌の頒布会に出ればそこそこ売れた。それで私は投稿を始め、編集者から声がかかった。何本か短い物を書いた。
 それを見ていた大学の先輩が、自分の企画した商業アンソロジーに、新人枠として招いてくれた。文庫化もされた。アンソロジーを読んだ高名な書評家が「これは、あのナリハラさんですか?」と先輩に問うてくれたらしい。私のデビュー作を読んでくれていたのだ。インターネットで検索をかけてみると、私の正確な情報を知っている人がたくさんいた。商業誌に掲載されるというのは、そういうことなのだ。

 ありがたいことだとは思っている。
 ただ、それ以上の感情がわかない。


 保護者

 何人か幼なじみがいる。今も連絡をとっている相手もいる。
 ただ、私が幼なじみとしていつも書くのは、私の《保護者》だ。

 郊外の家に生まれ育った。高校までは公立にいけたが、大学受験に失敗した。浪人せずにすんだのは、祖父が学費を出してくれたからだ。二親はそろっていた。親として必要なことはしてくれたと思うし、その恩恵はじゅうぶん受けた。だが、彼らは保護者ではなかった。祖父が亡くなって気づいた。祖父が防波堤になって守ってくれていたから、私は生き延びてこられたのだと。

 学校で面倒をみてくれたのは幼なじみだった。つまり、彼女が《保護者》だった。
 最初はただの友達だった。しかしある日、彼女が告白したことが、私の性癖ど真ん中に突き刺さった。その時から彼女の存在は、別の意味をもった。保護者をこえて神になった。神なのでいうことはすべてきいた。多大な影響を受けた。
 私は自分の卑しさを知っていた。立場もわきまえているつもりだった。
 彼女はなぜか、そんな私に一目置いた。学校が変わっても、就職しても、何かと機会をつくってはつきあい続けてくれた。彼女にとって便利な相手でもかまわなかった。私だって彼女を利用していた。この人が必要としてくれるなら、命が尽きるまでつきあおうと思っていた。
 大人になると思わぬ世界が広がる。新しい友人と遊んでいる私から、彼女の心は離れた。自分とつきあう必要はない、と告げられた。
 必要とされないのであれば、たとえ相手が神であろうと関係はない。
 それっきり縁を切った。
 一度も会っていないし、何の連絡もとっていない。

 彼女は小説を書いていた。長い小説が多いようだった。
 ほとんど見せてはくれなかったが、合同誌をやっている時に声をかけたら、「昔の作品でも良ければ」と寄稿してくれた。伴侶を失った孤独な魔神が、うんざりする現世から隠遁しようとする物語だった。こんなに索漠とした世界が彼女の中に広がっていたのかと思った。こんな心の閉ざし方は、私には書けない。
 幼なじみものを書く時、彼女の残した言葉や小説の台詞を使わせてもらうことがある。私自身からはどうやってもでてこないものだからだ。心の中を推し量ることはできないから、そうやって輪郭をなぞるしか、方法はなかった。

 何十年も交流があっても、神様のことはわからなかった。
 なぜなら神様は神様だからだ。


 あとがき

『たまに料理しようと思ったらこれだよ』という小説を書いた時、オカワダアキナさんが「鳴原さんの書いた『掃除婦のための手引き書』が読んでみたいです」というお褒めの言葉をくださった。大変ありがたいけれども、私はルシア・ベルリンにはなれない。
『たまに〜』は短い時間でざっくり書いた話なので、それっぽいラフな打ち明け話っぽいものなら書けるだろうか、とも思った。しかし私が本当のことを書くと、大概は妄想と笑われ、純然たるフィクションを書くと本当のことかと哀れまれる。そんな人間の書いたものが、本当に打ち明け話になるだろうか。
納谷みらいは変な女だ。だがモテるだろう、とオカワダさんは書いていた。そんな描写があったっけかと思った。クィアなのは間違いないが、好きでもない相手に言い寄られても、モテたとカウントするのだろうか。彼女のどこに魅力があるのか、自分ではよくわからない。本当にひどい作者だ。もう少し計算して書くべきではないのか。

 コピー本交換会の話をきいた時「小説家のための手引き書」というタイトルが浮かんだ。手引き書でもなんでもないが、二十代から三十代にかけての思い出を簡単に脚色してみた。
 面白いかどうかはわからないが、読んだ方のご迷惑にならなければ幸甚である。




(2024.2 オカワダアキナ様主催「コピー本交換会」用書き下ろし)


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Narihara Akira
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