『醒めぬ酔いに任せてゆくは』
「さぁ、あんたも一つ」
酔っ払いが差し出したのは何の変哲も無い酒瓶である筈なのに、そこから漂うのは、かつて愛した人が纏っていた香のそれであった。
四百年前の記憶が、一気に押し寄せる。
《刑部……!》
三成は思わず、その名を飲み込んだ。
普通なら断るところを、つい口をつけてしまったのは、そのせいだ。
ほんのりと白檀、そして他に二、三の香を案配した、吉継ごのみの香り。
病の肌を清め、血のにおいをごまかすための。
「いい飲みっぷりだねえ」
三成は首をふった。あの頃も今も、酒は強くない。
吉継によく、あきれられたものだ。
《刑部は何処で、どうしているだろう》
もし、同時に生まれ変わっていたとしても、現代ではあの業病にはかかっているまい。今や軽ければ数日で治る病だ。深刻な病状でも結核の薬の一種でほぼ治るようになって、もう数十年がたつときいている。
息災ならば、相変わらずの優れた才覚で、悠々と暮らしているのだろうと思う。
どうせ、男からも女からも、困るほどモテているに違いない。
それほど美しい若者だった――透けるほどに白い肌、黒々とした大きな瞳、血のように紅いくちびる。見とれない方がおかしい。あの美貌が病み崩れていくのを見るのは、顔などついていればいいと思う三成でさえ辛く、本人の絶望はとてつもなく深かったろう。
《むしろ、私はなぜ、前世の記憶などもっているのか》
再会は絶望的だ。
吉継は自尊心は人一倍強いが、目立つのも嫌うため、その気がなければ派手な仕事は選ぶまい。こちらから見つけるのは不可能で、彼自身に前世の記憶がなければ、探してくれもしないだろう。
《記憶があったとしても、二度と私を選んではくれまい》
育つにつれ、かつての朋友、いや友人どころか恋人以上であった吉継のことを少しずつ思い出してきた。
その記憶は、抑えきれない熱情である共に、激しい後悔に満ちていた。
あんなにも優しく、時に厳しく、常に自分を支えてくれた相手に、いったい何をしてきた? 病を押して豊臣の中枢として立ち働いていた吉継に、余計な世話を焼かせるばかり
で……直情型で荒っぽく、気むずかしい同僚の面倒を見る義理は、本当はなかったはずだ。思いやりも配慮もない痩せっぽちの男に抱かれて、楽しいことが少しでもあったろうか。
いつか、吉継と飲んでいた時に、ふとこんな話をしたことがある。
「私はあまり、生まれ変わりというものを信じていない。たとえそれがあるとしても、前の世を覚えていないだろうし、周りにいる者も違うだろう。それに意味はあるのか?」
「それはそうよ。だが、この身が朽ちて、平安な世に生まれたと思ったら、そこにも居そうなのよな、ぬしは」
「いてはいけないか」
吉継は薄笑って、
「まあその時は、われなどやめておけ」
「なぜだ」
「今生はもう仕方がないが、ぬし、われの本性がわかっておらぬゆえ」
「わかっている。貴様以上に信の置けるものなどいない」
「だから、それよ。太閤以外に信じてよい者などおらぬわ」
「半兵衛様も貴様もだ」
「まあ、賢人は、今更太閤を裏切らぬであろうがな」
「だろう? 貴様だって秀吉様を裏切ることはあるまい。ならば私が貴様を信じない理由は、どこにある」
「だから、ぬしは……まあよいわ。われの身は豊臣のもの、左腕のぬしも、好きに使えばよい」
「そうではない、刑部はわかっていない、私がどれだけ貴様のことだけを……」
吉継は三成の口を、包帯の指先で押さえて黙らせた。
「わかっておる。だがな、普通はとっくに尽きておるものよ、それだけの熱はな」
あの頃のむやみな熱情は、少しでも吉継の心をあたためていたろうか。
包むこむような優しさが、自分に備わっていたらよかったのに。
吉継を愛しきった自信がない。
わかってはいた、吉継に値する男ではなかった己のことは――。
「こっちは燗をつけたやつだ。試してみな」
物思いに沈んでいた三成に、新たな酒器が差し出された。
「これは?」
その器には側面に小さく馬の絵が描かれ、四つ葉の形の穴が空いていた。
口につけると、酒はじゅうぶん熱いのに、手には熱さを感じない。
「二重になっているのか」
酒の味より、構造に気を取られた。サイズの違う器をつくって、焼く時にうまく重ねて隙間をつくっているのだろう。間にある空気のせいで、熱を伝えないのだ。熱い飲み物を入れても、手を火傷しない工夫である。皮膚感覚を失いかけた病人にも都合がいいな、と感心したが、外側の器に穴があるのが気になった。洗った後に乾かすのが面倒だ、病人の刑部に濡れた不衛生な器を渡せないなと思った。
「穴のあいていない器はないのか」
「湯呑みならありますよ」
店の主人がもっと大ぶりの器を出してきた。そこには墨絵で蝶が描いてあった。手にしてみると、二重なので見た目よりは重いし、入る量も少なくなるが、口があたるところはうまく薄くしてあって、薄茶には良さそうだと思った。だが、熱いのがわからないと、舌を火傷する可能性もあるかもしれない。三成は首を傾げて、
「これはいくらするものだ」
「知り合いの試作品なんで、ちょっと値段は……まあ、お会計の時に、ご相談で」
「そうか」
買ったところで吉継に渡せるわけもない、しかしそれでも、この酒の香りと、そしてこの蝶の絵……三成はむやみに酒を煽った。
逢はむ日をその日と知らず常闇に、いづれの日まで吾恋ひ居らむ――中臣朝臣宅守の恋の歌、万葉集の一種が、三成の脳裏に浮かぶ。あの頃は、いつ逢えるか、と苦しむほど長く離れていたことなどなかった。私は必ず刑部と共にある、どちらが先に欠けることなど、あってはならないと、ただひたすらに念じていたからだ……。
「お客さん、大丈夫ですか、お客さん? 飲み過ぎじゃ」
「大丈夫だ。明日は休みだ。ここからなら、歩いてでも帰れる……」
と答えた次の瞬間、目の前がすうっと暗くなった。
* * *
「やれ、ぬしはほんに、せわしない」
「……刑部?」
「普請がすんだと文を出したとたん、飛んで来るとは……いや待て、ぬし、まだ読んでおらぬな?」
気づくとそこは、在りし日の佐和山城だった。
吉継は、普請を終えたばかりらしい、新しい木の匂いのする居室で、火鉢にあたっていた。すでに陽は傾きかけていたが、灯明はついておらず、包帯越しの表情はよく読めない。自分も当時の装束になっていた。
ただ、手には蝶の湯呑みを持っていた。
「これを、刑部に」
「ん?」
考えるより先に身体が動いて、吉継に湯呑みを渡してしまった。
受け取った吉継は、不思議そうにひねり回していたが、
「ふむ、からくりものか。ぬしは案外、こういうものが好きよな」
二重になっていることをすぐに看破してしまった。
三成は背筋が冷たくなった。
もしかして、病持ちにはふさわしい器よな、とひがませてしまわないか。
中身をさまさない工夫だと、すぐに言い添えればよかったと思いながら、吉継の次の言葉を待っていると、
「佐和山に、こうしてわれの居所も備えてもらったゆえ、この室に置くか。薄茶であれば、これでもよかろ。どうせぬしは、酒より茶よな」
「使ってくれるのか」
「この、墨ひといろの蝶の柄がよい」
「そうか」
三成が安堵していると、吉継は不思議そうな顔をして、
「ぬし、どうかしたか?」
「なにがだ」
「どうも、様子がいつもと……すこうし酔うておるか?」
「そうか?」
「いや、まあよい。ところで、ここへ来たということは、もう大坂の普請もすんでおるということよな?」
言われて三成はハッとした。
つまり今は、半兵衛に命じられて、豊臣覇城と佐和山を同時に改築していた頃なのだ。吉継に佐和山を頼み、自分は大坂で精を出していた。ほぼ同時に仕上がったはずだから、ここはうなずいておけばいい。
「ああ。誰がいつ来ようが、完璧に守れる」
吉継はうなずき、湯呑みを文机に置いた。
「それは賢人も、さぞや喜ぶであろ。だが、まあ、そろそろ日も暮れる。今宵はこちらに泊まるのであろうな?」
「え」
返事の遅れた三成を、吉継は目を細めて見つめ、
「心づくしはありがたいが、まさか、これだけ渡しに来た、というのではあるまい?」
その瞬間、三成の全身の血が沸き立った。
刑部は、私が来るのを待ってくれていた――抱かれたい、と言っている――私は刑部に許されているのだ、その肌を隅々まで慈しんでよい、と――!
「いいのか、刑部」
「先ほど新たな湯屋も試してきたしな。布団もおろしたてゆえ、大層やわらかい」
吉継は笑った。赤い舌がチラリとのぞく。
これは夢か。ほんとうなのか。
いや、そんなことはどうでもいい。
夢幻だろうとなんだろうと、刑部を抱きたい。
すべてをむさぼり尽くしたい。
「欲しい」
次の瞬間、抱きすくめ、くちびるを吸い上げた。
甘いくちびる。
甘い香り。
羽織り物の下にある、引き締まった身体。
三成の背中に回された腕は、迷いなく彼を引き寄せていた。
「われもよ。ぬしの、ぬしのすべてを、われに……!」
* * *
三成は心地よい眠りから覚めた。
乾ききっていた魂はすべて満たされ、全身、潤っていた。
ただ、うっすらと酒の匂いが残っている気がして、慌てて身を起こした。
「刑部?」
そこは知らない部屋だった。
しかし、滑らかに引き締まった背中を見せて眠っているのは、よく知っている男だった。
「どちらが夢だ、これは?」
ベッドの脇にあるテーブルに、蝶の柄の湯呑みが置かれていた。
気怠げに身を起こした男は、三成を見て、薄く笑った。
「相も変わらず、加減をしらぬ男よな。もうしばらくは、起きられぬわ」
「私は……酔いにまかせて、貴様を?」
「どちらかといえば、こちらが持ち帰った方ゆえ、気にせずともよい」
つまり、酔いつぶれる寸前に吉継に保護されて、彼の部屋に泊まって、肌を重ねたと言うことだ。
「私が……私は……どうして……刑部……」
三成がうまく言葉を継げずにいると、
「歌にもあるであろ。命あらば逢ふこともあらむ、わが故にはだな思ひそ命だに経ば、とな」
宅守の歌に対する狹野茅上娘子の返歌で、生きてさえいれば、いつかまた逢えるから苦しまないで、という歌だ。
「いてもいいのか。これからも、貴様の隣に」
「今さらな。そう思わねば、拾ってこぬわ」
吉継は、三成のくちびるに指をあてた。
「ただな、二人きりの時はよいが、人前で刑部と呼ぶのはやめよ」
「ああ」
「ぬしは今は何をやっておるのよ」
「会計士だ」
「まこと、ぬしらしき仕事よな」
「貴様は何を」
「本業は、あまり人に言えぬアレでな。陶芸は、あくまで趣味よ」
「あの湯呑みは刑部がつくったのか」
つまりあの、不思議な香や蝶の柄は――。
三成が目を丸くしていると、吉継はあくびをした。
「ぬし、腹が減っておるなら、用意はあるゆえ、好きな物を出して食え。われはもう少し、朝寝を楽しむとしよ。眠くてかなわぬ」
再び横になってしまった。
三成も、その隣へもう一度身を横たえた。
もしかして私は佐和山に、あの二重の器を持っていったのか。
それを思い出して、刑部は今生で同じ物を?
どこまでが夢で、どこまでが本当なのか?
《そんなことはどうでもいい》
「ぬしの肌、ほんに熱い……」
低く呟く吉継を抱き寄せて、自分の胸の上で休ませながら、三成は吉継の体温を感じる幸福に酔っていた。
これは共にある限り、けっして冷めない熱。
それさえ本物であれば、あとは、もう、どうでも――。
(2018.4脱稿:白許芒谷様にいただいたお題と冒頭の一文より)
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Written by Narihara Akira
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