『柴田よしき考〜新しい女・生身の女〜』

1.おことわり

以下のエッセイでは、柴田よしき作品のプロットや犯人等に積極的に触れていきます。これから推理小説として柴田よしきの創作を読むご予定の方は、作品を目を通してから以下の文章をお読み下さい。また、これを書いている時点で、筆者は柴田作品を読破しておりません(特に去年後半から今年にかけての作品、短編はいまだ未読多数)。論というよりも、現時点での筆者個人の考えを深めるとりかかりとして書くもので、むしろ断想に近いものです。その旨、ご了承いただけますと幸いです。

2.とりあえず押さえるべきは『RIKO』シリーズ――新しい女、生身の女

柴田よしきのデビュー作である『RIKO−女神の永遠−』。もしあなたが、柴田よしきに興味をもち、数多い彼女の著作の中からどれかを読もうと思うなら、真っ先にこのシリーズを選ぶべきであり、『女神の永遠』から始まるこの連作を生理的にまったく受けつけない人は、彼女から去るべきであろう。柴田よしきの柴田よしきらしさ、面白さは、この三冊に凝縮されているといっても過言でない。
主人公は優秀でタフな女性警察官。追いかける事件は凄惨でハード。ヒロインの周囲の人間関係も錯綜。しかし、ストーリーの底に流れるのは、弱者への慈しみ、そしてまったく打算のない愛情とその一番純粋な形――。
主人公、村上緑子(リコ)はレズビアンである。男の恋人もいるし男性上司と肉体的なトラブルがあったりもするが、彼女が身も心も捧げているのはたった一人の女性である。彼女は子供を産むし、身体の関係のあった男の中で一番善良な相手と同棲もする。しかし彼女は男性を心から許すことはないし、最愛の女性のためなら自分の命などなげうっても構わない覚悟で生きる。炎のヒロインだ。彼女は男でないものの味方である。女性だけではない、一般男性からさげすまれがちな性的少数者(ゲイやレズビアンやトランスセクシュアル等)の側に必ず立つ。そのポリシーの一徹さはすがすがしい。
しかし、それだけでは単なる女性闘士だ。あまたの女性作家がそういった戦うヒロインを描いてきた。そんなのは今更珍しくもない、と思われるかもしれない。
だが、村上緑子の面白さは、その今までの推理小説の半歩先にあるのだ。

村上緑子は男と寝る。中にはひどい男もいるが、彼女に言い寄ってくる男のほとんどは、世間一般の物差しではかれば《いい》男だ。彼らは仕事ができる。頭のいい女を煙たがったりしない。尊敬の念も持って接してくるし、必要な時には助力もしてくれる。ベッドの中でもそれ相応なのだろう。しかし彼女は、一番好きな女とちゃんと寝ている。ごく自然に身も心も愛しあう。そして、その女にひどい目にあわされ、殺されかけたとしても、もし彼女がそうしたいのなら一緒に死にたいとまで願い、実際死にかけることになる。
こんなヒロインが、未だかつていただろうか。
この新しいヒロイン像が意味するものは、いったい何か。
ここで緑子を《性的に奔放なヒロイン》という一言でくくってしまうと、『RIKO』シリーズの本当の面白味は消えうせてしまう(それに緑子には、手あたり次第に誰とでも寝るような奔放さや性欲はない)。
筆者は、注目すべきは彼女の異性と同性に対する態度ではなく、そこに付随する条件だと考える。緑子は《いい》男でも惚れない、しかし女なら《犯罪者でも》愛する、というところにだ。ここに緑子のレズビアン性の特徴がある。ここで緑子をバイセクシュアルと定義しないのは、彼女が新しいレズビアン像を象徴すると思うからである。
一般的に、男嫌いとレズビアンは混同されている。もちろん男嫌いなレズビアンもいる訳だが、それよりも、男嫌いでレズビアンでない女性の方が、数としては圧倒的に多いはずだ。悪い男に騙されたり、周囲が馬鹿な男ばかりだったりしたために、だから男なんて嫌なんだ、と結論を出した女性は沢山いるだろう。だが、だからといって、彼女達がみんな恋人に女性を選ぶ訳ではない(女友達と一緒の方が楽しいや、という発想にはいたるとしても)。
緑子は、そういう《男嫌いの異性愛女性》達の全く反対を生きている。つまり、男が嫌いでないレズビアンを――周囲にいるのはいい男ばかりで、はっきり言ってモテモテだ。しかも本人、悪い気はしていなくて(そりゃそうだ)、同情で寝てやったりもする。だが、夫に選ぼうなどとは思わず、真の恋人には女性を選びとる。その恋人が殺人犯で、罪を重ね続けていると知っても、それでもいい、殺されてもいい、と思うぐらい惚れきっている。そして、その恋人が死んだ後も、いつまでもずっと想い続けている。
これを《男嫌いでないレズビアン》と呼ばずして、なんと呼ぼう。
もちろん、現実の世界で、積極的に男性と関わるレズビアンは沢山いるだろう。
しかし、小説の中ではかなり珍しく、特に、推理小説の中では新しい。

推理小説のお約束に、《女を疑え》という考え方がある。犯罪の陰に女あり、という言葉に象徴されるように(筆者は必ずしもそうだとは思わないが、怪しい奴の女性関係を探って事件の糸口がほどける事もあるのかもしれない)、長編シリーズの推理小説の探偵役が男性の場合、彼に新しく近づいてきた女性が犯人であるケースが多いのだ。二人はいいムードになり良きパートナーになるが、クライマックスで「貴女を信じていたのに……残念だ」という展開になる訳だ。事件は解決するが、主人公の心には寂寥が残る。これは話に余韻をもたせる王道の手法で、大昔から繰り返し使われてきている。
この手法、探偵役が女性の場合、犯人を男に置きかえることで簡単に再利用できる(たとえば二作目以降のV・I・ウォーショースキーに近づいてくる一番イイ男は、必ずといっていいほど事件の黒幕である。なんだかなあ。デビュー作はハードだったけど、それなりに意義があったと思うよ、サラ・パレツキー)。
しかし、柴田よしきの推理小説の場合(つまり緑子に限らない/ヒロインがレズビアンでないケースも多い)、女主人公が女性にシンパシーを感じている時、その女性が犯人である率が一番高い。
このパターンは、かなり珍しい。
ヒロインが女性といいムードになることが多い柴田作品の中では、自然な流れといえるが、これはおそらく、レズビアンを扱った推理小説の中でも珍しいパターンと思われる。

性的少数者(ゲイやレズビアンなどセクシャルマイノリティ)を文学の中で偏見なく描くのは難しい。それをできる限りとりのぞき、きっちり誠実に描いたとしても「なんだ変態の話じゃないか」「もう耽美小説は古い」等と低く見られることも多いだろう。さらに純文学であれば、性的指向がメインの小説を提出した場合、イロモノと思われ売れないと判断した出版社が、発売を見送るケースも多いだろう。
しかし、推理小説というジャンルでなら、性的少数者は比較的描きやすい。推理小説には固定の読者層があり、また扱う題材が殺人など派手なものであるため、多少イロモノに思われてもデメリットは少ないのだ。むしろそこが特色となって、売れる時もある。そのジャンル特性をいかして、実際の性的少数者が、世間の差別や偏見と戦うゲイやレズビアンを主人公にすえて小説を書くことがままある。そういう中から、いわゆる《政治的に正しい》レズビアン探偵達が産まれてきた。つまり、私は女性を愛する女だけれども、何の非もなく生きている、人に恥じることなどしていない、というヒロイン達である。
それはそれで大変面白い。いままでは、変態=その恋愛が動機で犯罪を起こす者、というタイプの小説が幅をきかせすぎていた。しかしそれは現実的ではない。だいたい、変態と変質者は別物である。変態は基本的に犯罪者ではないが、変質者はすなわち犯罪者である。性的少数者でなおかつ犯罪者である人間が、そうでない変質者より数が多いとは思われない。ゆえに、変態で何が悪いの、性的少数者だから何が悪いの、私は誰にも迷惑をかけてないわ、私はむしろ犯罪をなくしたい人間なのよ、といった主張をもつ小説が出てきたのは全く自然な流れだろう。
ただ、人間は、常に正しい理性を働かせていられる生き物ではない。また、殺人の動機として痴情のもつれが多いことは、犯罪学の統計をみずとも容易に想像のつくことで、それが異性の間だけと限定されるのも妙な話だ。
その流れを考えて柴田よしきの小説に戻ると、彼女が何を描きたいのかわかる。
つまり。
《愛は、相手がいい条件の人間だから、相手の性格がいいから発生するのではない。社会的に認められている相手だから愛するのではない。愛は理屈ではない。たとえ愛する人は罪を犯していても、私はあの人の魂を愛している。他人は私を指さすかもしれない。が、それでも私は誇りを失わず、あの人を愛し続けるのだ》
これは別に目新しい主張ではない。
むしろ、愛の定義としては古めかしいかもしれない(特に女性の愛の定義としては)。
だが、これでもかこれでもかと降りかかる困難をくぐり抜けてボロボロになったヒロインが、それでも手近な安息を求めず、力で犯されても心犯されずに生き抜いていくストーリーの中で読まされれば、その主張は熱を帯びる。いやでも読者の胸に飛び込んでくる。
そういう意味で、緑子は《新しい女》だ。

実は、《緑子》という名前には、一つ秘密が隠されている。字面が硬く、女々しくなく、実にキャリアウーマンらしい名前といえるが、実は《緑子》というのは、中井英夫の未完の長編『蒼白者の行進』に出て来る少女の名前だ(この作中ではミドリコであるが)。通俗な世間の恋愛を嫌う少年が、夢の中で長年思い描いてきた理想の少女が《緑子》で、つまり現実には存在しないのだが、ある日その緑子が、実体をともなって少年の前に現れる。それは夢まぼろしではない。生身で、しかも人が考えうる存在の中で最高の女性が《緑子》なのだ。
柴田よしきが、デビュー作のヒロインにこの名を選んだのは、この原典の意味を込めての事に違いない、と筆者は推測する。柴田作品の中には中井英夫へのオマージュが数多くちりばめられており、例えば警察官はいらだって指で軽打(タペ)するし、女性に捧げられる薔薇の花は、花言葉が《嫉妬》の黄色い薔薇である(しかもこれは、『紫のアリス』『炎都』の二作品で使われて、それぞれに場を演出している)。中井英夫の『虚無への供物』や『幻想博物館』を何度も読んだ読者であれば、柴田よしきの行間で微笑むことができるはずだ。
ともあれ。
生身で、しかも人が考えうる存在の中で最高の女性が、《緑子》だというのは面白い。
ただ清らかでも淫乱でもない、等身大のキャリアウーマンが。

ちなみに『RIKO』は横溝正史賞をとっているのだが、その選評の中で、「婚約者の男性を殺した犯人と心中したい、と思うヒロインの心理の展開には無理がある」式のものがあって、筆者は思わずふきだしてしまった。どこをどう読んだらそう読めるんだろうと思いつつ、まあそういう昔風な読み方をする人は今後も現れるだろうとも思う。だが例えば、このコメントは例えば昔からよくあるこんな選評――「主人公の恋愛に重点がおかれすぎていて、推理小説としての面白味が薄くなってしまっている」であったなら、筆者も軽くうなずいたかもしれない。出版社としてはこの作品に《新しい性愛小説》云々、という煽り文句をつけて売っているので、ちゃんとわかって出版しているのだと思うが。
もし、新しい小説なんていらない、男臭い男性と結ばれて家庭を持つことがハッピーエンドと信じる女性読者は、柴田よしきは読まない方がいいだろう。何が現実で何が本当の幸せか、改めて考えてみたいなどと夢にも思わない読者は。
柴田よしき本人は、子供二人と専業主夫を含む一家四人を、自分の筆一本で食べさせていると豪語する女傑である。自分の夫は世間で言う男らしさとは正反対の人間だが、自分にとっては誠実で頼れる人で、そういう意味では最高に男らしい夫だと。
そういう幸せも、あるのだ。

3.『RIKO』以外の作品考−−そのリアリティ

柴田よしきは、勉強家でありチャレンジャーである。常に新しいジャンルを開拓し、そのための綿密な調査も忘れない。そうしてうみだされる作品群は、斬新かつオーソドクスで、プロの手がたさといったものを感じさせる。一作ごとに筆も伸びやかになり、その勤勉さと立派な成果には頭が下がる。
特に徳間ノベルスの書き下ろし『炎都』『渦都』『遥都』のシリーズは、新鮮かつ緻密なファンタジーとして評価すべきだろう。京都を舞台に妖怪物を描くのは誰でも容易に思いつくが、それを日本民族のルーツを南洋のポリネシア系民族とする説と結びつけ、なおかつ現実からかけはなれず、むしろ日常に近すぎるほどの延長の上に描ける作家は、今の日本に他には存在しないだろう。題材は壮大で荒唐無稽だし、社会風刺に満ち満ちているという意味で名作SFの域に達しているのだが、読み終えて心に残るのは平凡な人間の平凡な生活の力強さである。健康的なエンタティメントとしておすすめできるシリーズだ。
細かいことになるが、私が一番感心したのは第三作目『遥都』の中で、SF的な演出のために、ヒロインが閉じ込められる場所に潜水艦を設定したことだった。彼女はそこから宇宙へ意識を飛ばす。これは三つの意味でうまい。
一つ。宇宙空間や他の惑星に着陸した時を想定して、宇宙飛行士は海の底や砂漠で訓練を行う。深海と宇宙は、ともに厳しい環境としてのイメージが近いのである。つまり、イメージの重ね方として上手い。
二つ。日本は海に囲まれた国であり、造船技術に優れていたこともあって、水中で人間が生活する研究では、かつて世界と肩を並べていた。そういう現実を踏まえてSFするのは賢い。宇宙からの侵略者と戦うために、種子島宇宙センターや怪しげな中央の国家機関などを登場させたら、話は突然おとぎ話めいてしまう。地に足のついた小説としては、未来の水中生活を想定した某企業の過去の実験場と、そこへいくための潜水艦、ぐらいのスケールがぴったりだ。
三つめ。作者は作品のリアリティを深めるため、この部分に更に風刺を盛り込んでいる。海底生活実験場は今は放棄されているが、ヒロインと共に閉じ込められた青年が「日本人も将来、海底で暮らすことになるかも」と水を向けると、「バブルの崩壊で土地が余ってて、地上でも人が住まない土地がゴロゴロしてるのに、わざわざ難ばかりある水中生活をしたがる酔狂な人間がいる訳ないでしょ」とヒロインに一喝されるのである。全くもってごもっとも。実際日本のハビタット(水中生活用プラント)研究は、三十年ほど前に頓挫している(筆者は以前、潜水艦の出てくる小説を書くためにボイル・シャルルの法則までおさらいしたので偶然知っているのだが……)。
以上の三点は、知識がなければ気付かないことかもしれない。そして作者の意図とも反しているかもしれない。しかし、知識がなくても当該部分は面白いし、ごく自然である。それはエンタティメントの必須条件とでもいうべき要素ではないだろうか。知っていても楽しい、知らなくても楽しい、ということは。

柴田作品は、扱う題材は非日常でも、その筆が描き出すのは日常、というケースが多い。たとえば『柚木野山荘の惨劇』は、『我輩は猫である』も真っ青の猫の一人称小説である。読み始めは少し違和感があるが、引き込まれて読まされてしまう。動物の視点から描かれた推理小説は別に新しいものではないが(例えば有名どころで三毛猫ホームズや迷犬ルパンなど)、そのほとんどはユーモア小説であり、猫や犬はあくまで動物である。しかし、彼女の描く猫は、猫がワープロを打ちファクスを出し殺人すら行う。そんな馬鹿な、と読者は笑い出さなければいけないはずだが、彼女の小説の日常性の描写のうまさに笑えなくなる。それはギャグでもなく怪談でもなく、ありうべき明日の世界なのだ。

柴田作品には、舞台が日常で主人公も普通の人、というパターンもある。たとえば青春小説である『少女達がいた街』。カテゴリーとしては推理小説に入れるべきなのだろうが、七○年代の渋谷の風俗を、中井英夫も栗本薫も到達できなかった筆致で描ききっている。前半部分の青春小説ぶりは、少女小説の教科書と呼びたいほどオーソドクスで、なおかつおや、と目をみはらせる新味がある。
パッションの爆発、情熱の勢いという意味での青春であれば、今でも栗本薫の方が柴田よしきより上といえるが、少女の心のひだを描いた恋愛物という意味でいえば、今は柴田よしきが上に位置するといえるだろう。先人が書き残したものを彼女は拾って描き尽くした。今後、風俗小説、時事ネタを扱う小説を書く者は、柴田よしきのこれを越えねばならないだろう。そしてそれは、なまなかで出来ることではない。少女時代の友愛、少女同士の恋愛が巧みに描かれていて、《緑子》シリーズがハードすぎて読めないと思う方は、このあたりの作品から入るのも一つの手であろう。
もう一つ、『紫のアリス』も青春小説としてとりあげておきたい。主人公の年齢を考えると、後半からが青春小説と呼ぶべきかもしれないが、前半から青春小説の匂いがある。これも、先人達から受け継いできた小説のノウハウを活かしきった傑作である。
この青春小説系の作品群には、もう一つの面白みがある。ヒロイン達は日常を生きる普通の女性でありながら、心理的な側面では、ファンタジーの主人公達よりはるかに非日常を生きている。どんどん現実から離れていき、あげく自暴自棄に陥る。そういう意味では、一番リアリティという言葉から離れた、むしろ少女マンガのヒロイン達だ。
おそらくこれは柴田よしきのバランス感覚であり、非日常では健康な心理を、日常ではむしろ病んだ心理を描こうと心がけていると思われる。えてして人間は、非常時にはいつもより健全な生き方をするものだから、当たり前といえば当たり前かもしれないのだが。
柴田よしきのリアリティという意味でもう一つ注目すべきは、実在の固有名詞をどんどん自作に取り入れているところだろう。「松たか子」や「真田広之」など、柴田よしきは古びてしまいそうな人名その他をどんどん自作に折り込んでいく。そしてそれが、むしろ作品のフィクション感を強めている(中井英夫の幻想小説の手法である)。固有名詞を利用する作家が他にいない訳ではない。たとえば吉岡平のように、発売と同時に読み捨てられることを前提に、あえて時事ネタをギャグとして折り込んで本を出す作家はいるのだ。しかし、柴田作品はそれとは一線を画している。時事ネタが骨子の小説ではないからだ。
彼女はおそらく確信犯なのだろう。自分の作品が後世まで読み継がれることを想定し、現代の風俗をそのまま残すために書き込んでいるのだ。例えば江戸川乱歩が描いた東京のはらっぱは今はどこにも存在しないが、乱歩の愛読者の中の心の中には、そのはらっぱが息づいている。それと同じで、柴田作品を読む次の世代の読者は、真田広之がアクションスターであり、刑事物の映画などに出ていたという注をつけられた版で読み、なるほど、と感心するのだ……おそらく。それはなんと愉快な想像だろう。なんという自信と挑戦だろう。

わかりやすく面白く、それでいて非現実と現実を軽やかにとびこえる、一筋縄でいかないしたたかな作家――それが柴田よしきである。今あげた作品に軽く目を通していただければ、賢明な読者は同意して下さるだろう。いや、私は肩の力の抜ける本が読みたいから、と思う読者は、別の作家を選ばれるがいい。そしてまた、柴田作品に戻ってこられるとよかろう。そのレベルの高さ、その贅沢さに気付き、目をみはるはずだ。

4.柴田作品への不満

柴田よしきは成長株である。デビューしてからまだ数年だというのに、その著作の数は読者が追いかけるのがすでに大変なほどだ。今後もまだまだ伸びるはずで、作家としての彼女に文句をつけるのは時期的に早すぎるというべきだろう。しかし、素晴らしいと誉めてばかりでも芸がないので、以下、筆者が現時点で気になる点を挙げておこうと思う。
その一。
女性が主人公でないと、作品の魅力が半減する。
彼女の扱う題材は女性をめぐるものが多く、特にタフなヒロインは読んでいて実に頼もしい存在であり、また新鮮な魅力があって楽しい(ヒロインが身体の関係をもつ男がほとんどの場合複数で、彼女が選ぶのは必ず一番頼りないタイプであるのがワンパターンといえなくもないのだが、それは柴田よしきの個性と深く結び付いているので可としよう)。
しかし、同じような題材を扱ってその主人公が男性になると、彼女の小説はとたんに生気を失ってしまう。『フォー・ディア・ライフ』は、新宿のど真ん中で出稼ぎ外国人女性のための保育園を営む男性が主人公の物語で、話も作品の主張もいつもと同じように面白いが、主人公がどうにも上っ面で、主人公が女だったら、ここの場面がもっと良くなるのに、と歯がみする箇所が沢山ある。おそらく、こういう設定では女性が奮戦するのが通常なので、それの裏を返してみたのだろう。育児や保育は女のみの仕事ではない、心ある男性なら、利が薄くてもどんなに辛くても頑張ってくれるはず、という主張を盛り込むための男性園長なのだろう。だが、主人公と女性の登場人物達との関わりが薄っぺらなため、失敗作でないのに後味がいま一つ、という妙な作品になってしまっているのだ。これは惜しい。
ただチャレンジャーな作者のことだ、今後、男性を主人公にしても魅力的な長編を書いてくれるかもしれない。それまで読者は、魅力的なヒロインの方を堪能していればいい訳で。
その二。
たまには失敗作もある。
私が読んだ中で、『Miss You』は柴田作品中最悪の作だった。失敗作と呼んでも過言でないだろう。ヒロインは出版社に勤めるキャリアウーマン。つきあっていた青年とヒロインがそろそろ結婚しようかという時に身近で殺人事件が起こり、自分も身に覚えのない淫らな濡れ衣を着せられて……という話だ。作者自身が以前出版社勤めだったためか、それとも締切が迫っていたためか、筆のスピードが早く、読む方も一気に読まされる。
しかし、この作にはいつもの緻密さはなく、読み終えた後に残るのは不快感である。ゲイやレズビアンの描き方もステレオタイプ、いやむしろ蔑みの気持ちさえ感じられる。特に、主人公の結婚を妨害するため淫らな濡れ衣を着せるレズビアンのやり口は最低だ。
惚れた女が男と結婚してしまうのは辛い、と思うレズビアンの心は自然だし、邪魔したいと思う気持ちもわからなくはない。だが、だからといって見ず知らずの女優を整形させ、惚れた女そっくりの顔にして、それでアダルトビデオを製作して婚約者の男に送りつけ、その結婚を思いとどまらせるような、そんな酷いやり方があっていいのか……こんなに念入りで不気味な嫌がらせをされるぐらいだったら、むしろ結婚式で刃物を振り回された方がまだマシかもしれないと思うほどだ。
そんなとっぴで陰湿なことをする女は絶対この世に存在しない、とは筆者は言わない。悲しいことだが、現実でもある話かもしれない。しかしそれは、旧い推理小説が繰り返してきた過ち、《変態イコール変質者》のパターンの一番安易な形である。作者はここを軽く書いてひとひねりも入れているのだが、だからといって事実は変わらず不快感は減らず、むしろいきあたりばったりにレズビアンを犯人にしたように読めてしまい、意外性という意味でも出来が悪い。
《緑子》シリーズ第二昨目で、性転換して女性になった依頼人をかばいぬき、最後まで死なせずハッピーエンドを迎えさせたと同じ作家が(ほとんどの作家は変態の依頼人なんぞさっさと殺して、その痛みを主人公の発憤や事件解決の動機に使うだろう)、こんな小説をうっかり書いてしまうのだろうかと思うと、目の前が暗くなる。最後にヒロインが婚約者とやり直そうとする気持ちも、唐突でこなれておらず理解しにくい。このヒロインは、柴田よしき作品の中の主人公中、一番魅力のない、一番矛盾した主人公だろう。最初から弱々しい女性ならともかく、前半は仕事が出来てやる気もあり、自分の性にポリシーを持つ女性なのに、後半で力なく安易に状況に流されてしまうのだ。まさかこんな女を柴田作品の中で読む羽目になろうとは、という感じで、これは彼女の、数少ない駄作であろう。
その三。
長編の題名に魅力がない。
『女神の永遠』『ラスト・レース』『柚木野山荘の惨劇』『渦都』『RED RAIN』……こんな題名の長編が本屋の本棚に並んでいたら、あなたは買うだろうか。いや、それより前に、こんな野暮ったい題の本に手を伸ばすだろうか? 内容の想像がつくだろうか。
柴田よしきの作品は、粒が揃った良質のエンタティメントで、ほとんどの作品は読んで損のないものだと思うが、その題名は「何故?」と首をひねるほど魅力がない。デビュー以来、この一点だけはまったく進歩していない。なぜ彼女は、もっと冴えた、もっと人目をひく、もっと作品にぴったりした、もっと意味ありげな、もっとカッコイイ題名をつけないのだろうか。これは最大の謎である。作家の意図は大事にされるべきだが、題名に関してだけは、周囲が強力にアドバイスすべきだろう。批評に謙虚に耳を傾ける姿勢のある作者なだけに、この件に関してはぜひ担当者や近くにいる人が助力してほしいと思う。作品の題名は作品の顔、作品の命である。毎回毎回こんな顔をつけられては、せっかくの作品が埋もれてしまう。これだけは本当に惜しい。
その四。
謎の行あけ。
柴田作品には、文中に謎の一行あけが時々存在する。時間が経過した訳でも場面転換した訳でもなく、何かの余韻を出す場面でもないのに、会話の途中で唐突に一行あくことがある。文章のことで個性といえなくもないし、デビュー当時に比べれば激減しているので、気にすることはない欠点かもしれない。
しかしなまじ文章が読みやすい作家なだけに、いきなりの行あけにはギョッとしてしまう。行あけをもっと活かすか無くすかどちらかにしてもらえないか、というのが一読者としての要望である。
その五。
出てくるメシが美味そうでない。
柴田作品にはたびたび食事の風景が登場する。作者本人がグルメなのだろうと想像されるが、その描写が単純で、作品に風味を添えていない。せっかく美味しいものを出してくるのであれば、それが生きてくる書き方をして欲しい。筆の遊びという意味でもつたなく、この点に関しては更に先人に学んでいって欲しいと思う。
あえて文句をつけるとすれば、これぐらいだろうか。

5.最後に

柴田よしきは、おそらく今、日本で一番売れているフェミニズム作家であろう。
この、《売れている》という事実には、大きな意義がある。
家族全員を食べさせる筆力、次々と佳作を生みながら新境地を目指すバイタリティだけでも凄いといえる。もちろん肝っ玉母さんは昔からいたし、どこの国にもいる。作家としてバリバリ働き、家族を食わせた女性も昔からいたし、どこの国にもいるだろう。
しかし、性的少数者や虐げられた女性を主題材にし、生身の女を主人公にすえて、頑固に細部までフェミニズムを提唱しながら稼いでいる女性作家はほとんどいないはずだ。それは、昔から今にいたるまで、全くもうからないテーマであるからだ。柴田よしきはあえてそれを選び、なおかつ売れているのである。
果たして他に、そんな作家がいるだろうか。
日本に限らない、世界中を探しても、ほとんどといっていいほどいないはずだ。
そういう意味で、柴田よしきは、その作品の中にでてくるヒロインよりも新しい女、生身で理想を体現した作家といえる。
その時代にいあわせることができたことを、筆者は幸せに思う。
今後の彼女の活躍に、熱い期待を込めて、ここで筆をおくことにする。

【追記】

もしあなたがセクハラに悩む女性なら、ヤオイを書く女性なら、新しい耽美小説を欲する女性なら、柴田よしきは面白いし勉強になると思う。
もしあなたが、女性には友情なんて存在しないと思う女嫌いの男性なら、柴田よしきを読むといい。きっとあなたは、筆者とは違う意味で楽しめると思うからだ。
もしあなたが、柴田よしきの魅力を知る人であり、筆者と違う観点を持つ人であれば、ぜひ筆者にご教唆願いたい。彼女の行く先を、今後も飽きずに追ってみたいと思っているからだ。

(2000.4脱稿/初出・恋人と時限爆弾『柴田よしき考〜新しい女・生身の女』2000.5発行)

【追加補記】

柴田よしきさんご本人からのメールによれば、「緑子」の由来は別の処から来ているとのこと。残念!(2000.6)

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copyright 2000
Narihara Akira
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