『郷土資料を調べる』


『美少年興信所 ルツの夢』を書いた時の調べ物の話をする。
単行本に収録した時に書いたことと重複するかもしれないが、自分の調べたことが誰かの役にたつかもしれないので、ここで別にまとめておこうと思う。
郷土のことをどう調べたらいいのか? 公共機関をどう利用するか? どのように調べたか? ということだ。

子どもの頃、平塚市郷土史事典という本が家にあった。個人がまとめたものだったらしく、平塚の地名の由来など古い言い伝えのまま記されていたが、面白かったので通してぜんぶ読んでしまった。なので昔の遊郭がどこにあったかなども、十代前半で知っていた。
二親とも歴史が好きで、特に母親は歴女で、間違ったことを言うとすかさず訂正された。ただ、私はそこまで歴史が好きなわけでもないので、郷土史の知識はそこでとまっていた。

私の住んでいる平塚に「入部」という町名がある。「いりぶ」と読む。その町名を今の職場に入るまで知らなかった。なにしろ「入部」というところには誰も住んでいないのだ。知人もいない場所の地名など、興味がなければ知るわけがない。ただ、どうして住んでいないのかは誰も教えてくれなかった。「地主さんが手放さないんじゃないの」という人もいたが、「入部」のことはしばらく忘れていた。

図書館に行ったら、『新編相模国風土記稿』があった。相模国、つまり神奈川県のことについて、江戸時代、幕府によってまとめられたものだ。どのような行政区があったか、江戸からどれぐらいの距離か、そして住んでいる人の数と家の数が記されている。
当然平塚も含まれているので、パラパラとめくってみた。
入部を見てみる。
まて。
やはり人が住んでないと書いてある。
江戸時代からということは、地主が手放さないからでは無人なのではないだろう。
なんらか理由があるはずだ。

博物館に電話して質問した。
「入部には昔から人が住んでいないということなのですが、どうしてなのでしょう? 一般市民で学者とかではないので、なぜかがわかればいいのですが」
直球である。わかりません、と言われるかと思ったら、
「わかりそうな者が二人いますので、折り返しご連絡します」
というわけでわかりそうな人に教えてもらったが、そもそも入部というのは、他の村の人など入って耕作する耕作地をいうらしい。
「正式には長持入部という名前で、それを省略して入部と呼んでいますが、長持でなく、出縄あたりの人が耕作のために入っていたのでしょう」という。
「どうして人が住んでいないのでしょう」
「花水川が頻繁に氾濫するので、低地で人が住むのに適さなかったということでしょう」
「花水川の脇には寺田縄などもありますが、けっこう人が住んでいますが?」
「寺田縄あたりは自然堤防なので」
「なるほど」
自然堤防というのは、その名の通り、人間がつくったものではなく、川の流れによって堆積した土によってつくられた堤防だ。つまり川が越えられない高さになっているので人が住める。子ども向けの郷土資料を見てみると、昔の花水川は数年に一度は大氾濫をしており、ひどい時は毎年氾濫したらしい。
戦後に堅固な堤防が築かれたので、大雨が降っても、その堤防を越えることはほぼなくなった。私の半世紀分の記憶でも、その堤防をこえたのは一度しかない。川から数キロ離れたうちの近くまで水がきて、道路は冠水し、近所の家は浸水し、畳が上がってしまった。あれを頻繁にやられたら、それは住む人はいなくなるだろう。ナイル川のように、大河でも定期的にゆっくり水量が増し、高台に引っ越す猶予があったならともかくもだ。
ちなみに地主が誰かは、ブルーマップという地図で調べられると教わった。博物館にも備え付けられているので、地番はそこで調べられる。それを元に問い合わせると、誰がもっている土地か(登記者が誰か)わかることになっている。法務局に電話しても、地番確認は可能らしいが、この時はかけなかった。戦後の農地改革のせいか、入部も細かく地番が分けられていた。いくつかピックアップして調べてみるべきだったかもしれない(「ルツの夢」の作中のように本当に相続するならばだ)。

図書館の郷土資料の棚にいき、江戸時代の平塚市の田畑は誰のもちものだったのか調べてみた。
変遷はあるが、この時代は、徳川家の旗本が持っている土地が多い。
平塚は、中原街道の終点であり、家康の鷹狩りの御殿もあった。それで御殿という町名が残っている。中原上宿・中原下宿というバス停名、町名も残っている。平塚は東海道の宿場町でもあるが、江戸から直接南下できる中原街道は、急ぎの際は重宝だったようだ。
ちなみに入部は、春日局によって「救い米」の地域に指定されており、近隣地域の飢饉の時は、ここでつくられた米が配布されたそうだ。それだけ米がとれたのだろう。まあそんなにしょっちゅう川が氾濫していたのなら、痩せた土地ではなかったのだろうし。

イメージが固まってきたところで、私は入部にいってみた。
グーグルマップで見て、ストリートビューで確認しても、家は一軒もない。ただ田んぼがあるだけだ。
現地に行くと、ほんとうに人家はなかった。看板やゴミの集積場が片隅にあるきりで、あとはぜんぶ田んぼである。夏だったので、田んぼは稲穂が育ちつつあり、静かに流れる水の音しかしない。涼しい風が吹いている。遠くで農作業している人が見える。たまに遠くを車が走っていく。小高い場所に囲まれた低地だから、今でも花水川が氾濫して堤防を越えたら、ここは泥の底に沈むだろう。実感した。

「ルツの夢」を書いて、一番楽しかったのはこの調査作業だった。
私はフィールドワークが苦手で、大概は資料にあたって書いてしまうが、現地で風に吹かれた時、金持ちが何人もここに立っていたら違和感がすごいな、ということが体感できた。ここにふさわしいのはボンネットをかぶり作業着を着たひとである。
これを書けばいいのだと。

  美少年興信所の三冊目は、聖書をベースにしており、何が一番つらかったかというと、私に聖書の読解力がないことだった。プロテスタントの大学を出ているので聖書は持っていたが、読んでも意味がわからない。授業や牧師の話をきいても、むしろ矛盾や腹の立つことばかりきかされるので、題材探しもかねていろんな解説書を読んだ。それについては三冊目の本に豆知識として詰め込んであるが。
私は伝説の編集者に「聖書を読んでみたけれども面白くなかった」と言われ、「そりゃそうですよ、なんの素養も解説もなしに、いきなり古事記や日本書紀を読んでわかりますか?」と答えた。きょとんとされたが自分の国の古典すら読みこなせないのに、他の国で成立し、さらにいろんな言語に翻訳されて元の姿を失っているものを読んで、いきなり「ぜんぶわかる!」という人がいるわけがない。そりゃ面白くないに決まっている。
「ルツの夢」はミレーの落ち穂拾いの元ネタにもなっているエピソード、ルツとナオミについて書いたものだが、とにかく入部のことがわかるのが楽しくて、書いているときよりも調べ物をしている時の方が楽しかったというのはまれな体験だった。ここで学者ならもう一掘り二堀りするのだろうが、この時私が書きたかったのは時代小説ではないので、ここで止めておいた。

ただ、機会があったら、調べ方がわかったので、また何か調べてみるかもしれない。
東海道線より南は埋め立て地、つまりほとんど海だったところなので、歴史のないイメージ地名が多い。
また、山の中を切り開いて人が住めるようになったところも(新幹線からマッチ箱のような家々が見えると有名なところだ)、販売しやすいようイメージ地名がつけられている。
しかしそれ以外のところはなんらか由来があるはずなので(町名に残らなくてもバス停の名に残っていたりする)、面白そうなものがあったらまたなにか書いてみたいと思っていたりもする。

書けたらの話だが。




(2024.4 書き下ろし)


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