『るすばんこまち』

0.Kuo Mayako

久遠真夜子は、いわゆる《変わり者》である。
片足を現実に、もう片足を非現実にかけて立っているような人間で、みていて危なかしい事この上ない。ある日ひらりと、向こうの宇宙へ飛び込んでいったきりになっているかと思うと、そのままふらりと、思いも寄らないときにこっちの世界に帰ってきて、とんでもないことを何気なく口走るので、知らない人間は肝をつぶす。まるで子どものままのようなところがあって、知らない人間にも平気でなつくような無防備な真似をするし、無機質と本気で会話しているようなこともある。
別に気狂いの類ではない、危険な種類の人間ではない。たぶん文学少女のタイプのひとつと見ればよいのだろうが、男の子のような風貌、余るような長身、人目を気にしない外見とあいまって、性も生もするりと脱ぎ捨て、時間も軽く飛び越えて、自分の世界に超然と暮らしているように見える。本人はそれなりに周りにあわせようと苦労しているらしいが、こちらはどうして、なかなかついていけない。
それでも彼女、根は真面目で、いろいろな本をよく読み、世間のいろいろな問題に真剣にとりくんでいるので、彼女と話すのは嫌いではない。あきれるときもあるが、刺激を受けることもある。結構興味深い話もしてくれる。大学で知り合ったのだが、卒業して別々の院に進んでも、友達づきあいを続けている。
さて先日、借りた本を返しにいった。家族は留守で、彼女は一人、ジュース一杯で何時間ももてなしてくれた。新築したての家は快適で、彼女の話は面白かった。
春の陽が傾きだすと、とうとう私はいとまごいをした。
「それじゃそろそろ」
「駅まで送る。ちょっと待ってて」
靴をさがす彼女を待って、家の前の飛石にたたずんでいると、彼女はけんけんをしながら出てきて、ドアの鍵を閉めた。そして、ひときわ大きい声で、
「いってきまあす」
私の方を向いて、
「車のエンジンかけるから、もうちょっと待ってて」
といって、ぱたぱたと駆けていった。
車が走りだしてから、私はなんとはなしに尋ねた。
「ご家族の方、誰もいらっしゃらなかったんだよね」
「え?」
彼女は、運転中なのをふと忘れて、ぎょっと振り向く。慌てて手をふった。
「なんでもないの」
さっき彼女は、確か、いってきます、と言った。留守の家に挨拶をしたのだ。実は誰かいたのかな、とへんな気がして口をついた言葉だった。たいした問題じゃない。こういう些細な問題が好きなのは彼女の方だ。彼女は実に些末な日常に気をとられて、何日も何ヵ月も考え込んでいることがある。時には何年か前の出来事を、さっきのことにように語りだす。……影響を受けているのだろうか。ひきずられるといけないので、さらりと軽くとぼけてみせた。すると彼女はにやりと笑って、
「佐伯さん。さっきのはね、るすばんこまちに言ったんだ」
「るすばんこまち」
ざしきわらしの類だろうか。
「話してなかったっけ。あっちの家でいってきます、こっちの家でただいま、っていう不思議な女の子のはなしだよ。……たしか日記につけてあるから、こんど探して送るよ。話すと長くなる」
「ああ。そうなの」
彼女は、その性格から時々、突拍子もない行動をとる。いくつもきかされたささやかな奇譚の類があるが、るすばんこまち、というのも、どうやらそのひとつらしい。
「るすばんこまちはね、お涙頂戴のメロドラマ、かつ平凡な日常の裏に潜む、背筋の冷たくなるようなミステリーだ。乞う御期待」
変に透明な表情になると、彼女はそれきり口をつぐんだ。
二週間後、原稿用紙の束が届いた。小説仕立てにしたよ、と一言添えてあった。一般のひとが期待する物語じゃないかもしれないけど、フィクションではないので御勘弁、とも書いてあった。
以下は、その物語である。

1.きのう

二十歳を過ぎた頃、ぽっかりと空洞の胸の中に、白いもやのようなものがいっぱい詰まっていた。それは形を持たない衝動だった。
十代後半の頃はまだましだった。胸のもやは暗いものだったが、それなりの形をとることが出来た。例えば親に対する反抗。学校に対する意見。既成社会に対する疑問。差別に対する抵抗。憤ることも絶望もお手のもので、表現の仕方がわからなくても、それを恥じることも知らない。やみくもな情念はいきおいあまって、家を飛び出すこともしばしばだった。いや、家出というのとは違う。夜家を抜け出して誰もいない街をほっつき歩く、まだ暗いうちに海まで自転車でとばす、夜の貨物線路をときどき耳を澄ませながらたどり歩く、どうしようもなくなった時には、『坊っちゃん』よろしく窓から飛び降りたりもした。
しかし二十歳を越えてしまうと、衝動は力を失った。のんびりした学生生活の中で、自分を押え込むものはなにもない。勉強は面白くなったが、反発する対象を持てず、幻を信じる無知も失い、ぽかんとひとつ抜けた感じだった。感情は澄んできたが、生きている実感に欠ける。長い休みに入ったりすると、出かけるのもおっくうになって、ひとり部屋で寝ころがって、天井を眺める毎日。
これは神経を駄目にする。終日自分を相手に意識を淀ませ、心の糸を探っていくと、浮かんでくる想念はとぎすまされていくが、精神がだんだん過敏になり、ささいな事にも耐えがたくなる。ある日父親がペンキを塗りかえるといって古い屋根に上った時、屋根のきしむかすかな音を聞いて飛び上がった。背中を踏みつけにされたような痛みを感じて、頭を抱えて部屋をころがりでた。完全なる神経過敏。閉じ込められたノイローゼ患者のようだった。
どうしたらいいのだろう、と考えざるを得なかった。これはたしかに病気に近い。順調な成長に失敗したのだ。自分の身体が、自分のものでないような気がして、どうにも不自由でたまらない。
なんども過去を振り返り、自分なりの治療法を懸命に模索した。今のやりかたがいけないのなら、過去から戻ってやりなおせないか。今の苦しみは幼子の頃の苦しみとは違う。私はいつまで普通の人間らしかったろうか。そこからたどればなんとかできないか。普通の社会にもどらなきゃ。だが、果して精神を白紙に戻して大丈夫だろうか。遅すぎはしないか。手遅れではないのか。
あちこちへ救いの手をもとめた。だが救いはこない。あたりまえだ。閉じ込めたのは他人ではない。自分からこの孤独の城に閉じ込もったのだから。だいたい私に存在意義というようなものはあるのだろうか。私を必要とするものはあるのだろうか。それがあれば、私はどこへでもいこう。なんでもしよう。無駄に時を過ごすのはやめよう。
そんなとりとめのない物思いの中、長い春休みのまだ始まったばかりのある日、私はある事件にでくわした。
その日、相も変わらず部屋で寝ころんでいたその夕暮れ、私は一つの案にたどり着いた。ただここで考え込んで空想に遊んでいても、それだけじゃ現実へ、普通の社会へ戻る手だてにならない。それより行動だ。とにもかくにも人交わりをしなけりゃはじまるまい。実際に物に触れて見なければ、現実感なんぞもどってくるわけがない。でかけよう。さあ、でかけるんだ。でも何処へ?
公園、はどうだろう。
公園には人がいる。自分の利害関係のない人間がいる。生き物がいる。緑がある。自分を傷つけることなく、いろんなものに触れることができる。手始めにはうってつけだ。最近行ったこともないし、子ども達が遊んでいるのを見てみたい。専門の英米文学の関係で、子どもの本を読んでいるが、本当の子ども達にはとんと御無沙汰である。果して今時の忙しい彼等は、公園でちゃんと遊んでいるのか?
またイメージばかりが先行する。要はこの手がこの肌が、正しい質量を覚えているか否かなのだ。この瞳でしっかり確かめるんだ。
よしいこう。
読みさしの探偵小説を伏せて立ち上がる。時計は五時をさしていて、階下で妹がピアノの練習をしていた。通りすがりに声をかける。
「公園に行って、ブランコに乗ろうよ」
彼女は変な顔をして、
「突然なにいってんの? 私いかないよ」
いけない、彼女は一般人だ。仲のよい可愛い妹ではあるが、姉の奇矯な衝動にはつきあいきれまい。ま、高校生は忙しいのだ、つきあわせては悪い。
「いいよ。ひとりでいってくる」
言い捨てて自転車を出した。白のハイネックにオリーブ色のジャケツ、洗いざらしのGパン、という粗末ななりでそのまま出かける。
さて、どの公園に行こう。
裏道にぽっかり開いた小さい空き地。神社の森の赤土広場。遊具の多い大池公園。プールのついてる動物広場。……うん、一番近い所へいこう。住宅街の中、大木が茂り、長い滑り台があって、あとは鉄棒、砂場、ブランコ、ベンチ。砂場の真ん中にあった、不条理芸術の彫刻みたいな遊具。よくその影に身を潜めたものだ。駄菓子を食べ散らかし、摘んできた花を飾り。その脇で砂を盛っては崩した。足をかけて滑り降りた。ひいやりざらざら、ひんやりざあ。
視覚触覚聴覚が、幻覚のようによみがえる。だんだん嬉しくなってくる。あの景色は果して記憶と同じだろうか? 違っていればもっといい。
無心に自転車を走らせた。

公園だあ。
ジグソウパズルにあるような
綺麗な夕べの空のいろ
もうすぐゆうげが香るだろ。

ブランコは空いていた。腰かけた。漕ぎだした。
苦しい。だるい。
腰かけ板が低すぎて、足が地面をこする。足を折ってこらえるのは辛い。それに長く揺らし続けていると、三半器官が酔っぱらってくる。じんじんとめまいがしてくる。地球がよろよろと廻りだす。
漕ぐのをやめて、少し休む。公園を眺める。その風景を。その人々を。
ただ行き過ぎていく老若男女。……半ズボンの男の子が走る。じゃれあう十代初期の少女達。散歩するおじさん。買物帰りの母子連れ。おもちゃ屋の帰りか、いらなくなった模型の空き箱を捨てて去っていく少年。縄跳びをする父子。そして、ちゃんと滑り台に遊び、鬼ごっこをしている小学生達。……犬を散歩させる人が一番多い。アスファルトの道では足を痛める、公園に来る他運動のしようがないんだろう。ルーティーンにひきまわされて、犬もかわいそうに。
ただぼんやりと眺めていても、彼らは結構面白い。
公園の外はまた別の社会の構図だ。裏道でもひっきりなしに車が通り、自転車もめまぐるしく走り抜ける。たあいのないおしゃべり娘達。大声ではしゃぐ子ども達。
私のすぐ後ろの生け垣の向こうでは、さっきから二人のおばさんが、息子の受験について延々としゃべり続けている。自分の家の玄関先で油を売るのは全く勝手だが、聞きあきたようなエピソードはもう沢山だ。こちらに聞こえないとでも思っているような、なんともカンにさわるしゃべり方だ。しかしここには柵がある。あちらはあちらの世界である。逃げ出すことはないのだ。気にしなければいいのだ。
ううんと空咳をして、背筋をのばし、夕陽をみつめる。
すべすべと広く高い天蓋のいろ。うすあお、うすばらいろ、こいきんいろ。ざわめく木々のシルエット。あちこちに残る陽のかおり、暗色の粒子が沈んでくる空気。……暗色の粒子というのは、いとまごいをする夕べの袖から振り落とされるもので、これがすっかり沈んでしまうと、空気は再び澄んで、空の本当の闇色が、あたりすべてを支配してしまうのだ。
またブランコをゆらす。

何処を見回しても
若者の姿はない
ここに私だけだ
普通の青年達は
普段と変わらない暮しを
送っているんだ
働いてるんだ、遊んでいるんだ
こんなところに居ないんだ
でも
同じ心があるはずだ
夢みたものがいるはずだ
黄昏の彼方のユートピア、
青年だけのパラダイスを
そんな仲間がいるはずだ

おいてきぼりに、されたのか?

大分暗くなってきたので、小学生達が散っていった。大分寒くなってきたので、大人達も消えていった。
私はブランコを漕ぐのをやめた。
公園の灯がぼうっとあつく燃えだしている。ひとつ。あっちのもか、ふたつ。これはまだかな、みっつめ。
誰もいない。
薄紺色の色。影ばかりがのさばってくる。
帰ろうか。
何も心をひかない。
そうだ。滑り台を一回滑ってから帰ろう。
白い石を固めた長い滑り台。象の鼻を型どって、コンクリの小山の上にある。これを滑ると、勢いがつきすぎて、よく砂場に放り出されたっけ。よく滑るから、みんな競って土足で駆けあがったりしたっけ。
誰もいないな。
小山の裏側にある階段を登って、てっぺんに立つ。公園が半分がた見おろせる。結構高いもんだ。ふうん。いや、背が低い頃は、この視界はもっと狭かったのだ。
しゃがむ。ほら。そら行け!
あっ、と思った。加速度のつきかたが違う。しまった、当時の二倍の体重があるんだ。落下方程式を持ち出すまでもない。驚く程はやい。おちる。ジェットコースターのように墜ちる。いや、機械まかせでなく、ただ自分の重みでおちてゆくのが、こわい! ……
こわかった。
息をつくと、足元の花をとって髪にさしてみる。
滑稽だ。
花を置くと、Gパンの腰をはたいて立ちあがった。
陽は落ちた。帰ろうか。
それとも、もう一つ別のブランコに乗ってみようか。箱型で、向かい合って座るブランコ。……だって今、帰っていいのか?確かに実感は少しずつ戻ってきた。しかし、心は真っ白のままだ。
どうする?

その時、はっと身構えてしまった。
少女が私を見ていたのだ。誰もいないのと思ったのに。フードのついた、黄色いワンピースの女の子。小学校中学年といったところか。丸顔で、つぶらな瞳。ふっくらとつぼめた口唇。天然らしいカーリーが、頬に柔らかく乱れて、なかなか愛らしい。いったい今まで、どこにいたんだろう。皆すっかり帰った、と思ったのに。まさにいきなり現れ、そこに立っていたのだ。
私は、その子と少し距離をおいて歩きだした。そして、籠のブランコのところまで行き、腰かけた。継ぎ板を足で押して、ゆらし始める。
少女は自然に駆けて来、そして私を見上げた。
「なに、してたの」
私はブランコをとめた。
「あてて、ごらん」
自然に口を衝いてでた。説明しようにも、できないからだ。自分でも何をしていたのかわからないんだから。
少女はちょっと口唇をとがらせて、
「あてるの? ちょっと、むずかしそうだけど……」
と言って継ぎ板を登り、私の向いに腰かけた。
再び僅かにゆらし始める。ゆらしながら、考える。――この子はいったい何者なんだ、現実の存在なのか。……黄昏の国の使者だろうか。私を連れにきた、案内役の天使かもしれない。背中に翼の形をした骨(肩胛骨)を携えて? いや、私を連れていけない訳を、教えに来てくれたのかもしれない。さもなくば、何故ここにいきなり現れ、こうして手を差し伸べる?
彼女は、そんな私の様子など、まるでお構いなしである。いかにも子供らしい、生気にあふれた顔をして、口調も悪戯っぽく、
「誰かを待ってたんじゃ、ないよね。それから、文無しでしょ」
確かに人にあう格好はしてない。お金も持ち歩いていない。が、
「どうしてそう思うの?」
少女は決めつけるように、
「だって、変だもん。ただまわりを、ぼおっと見てるだけなんだもん。キョロキョロと見まわしたりしないし、なにか考えこんでるわけでもなさそうだし。それなのに、この寒いのに、あたたかいのみものひとつ持たないで、ずっとすわってて。だいたい、人を待ってるんなら、どこかのお店にはいってればいいわけでしょ」
理路整然とやっつけてくる。ちょっと面白くなってきて、こっちもニヤっと笑い、
「じゃあ、何してた、と思う?」
「ううんと」
少女は口唇を噛んで少し考え込み、またパッと笑った。
「ねえ、おにいちゃんの名前、なんていうの」
はっはは。おにいちゃんだって。また間違えられちゃった。私の声って、そんなに低音かな。今日は着ぶくれてるからかな。
「おねえちゃんはね、くおまやこ、っていう名前だけど、それがどうかしたの」
「おねえちゃん……」
と、少女は言いさして、まじまじと私の顔を見る。いやだなあ、信じられないなんて言わないでくれよ。とりたてて女らしくしてる訳じゃないが、男らしい訳でもない。むしろそれなら、まだましかも知れないが。
が、少女は納得した顔になった。ほっとしてると、うん、とうなずいてまた笑った。
「自分の名前、おぼえてるのね。じゃ、きおくそうしつでもないんだ。……なんだ、昔のきおくが取りもどせなくて、一生けんめい思いだそうとしてるのか、と思ったのに」
驚いた。この子、ふざけてるのかな、それとも半分本気なのかな。
「そんな風に、見えた?」
「見えなくも、なかった」
そりゃ凄い。ある意味で当たっているけれど、ある意味ではまるで反対だ。むしろ感覚が白紙であれば、今の苦しみはない。やりなおすことが、簡単にできるんだから。正しく成長することが、可能になる。だが、今の私には、見知らぬ街角も冒険ではない。むしろ既視感に悩まされ、とめどない妄想になじんでいく。だがもっと恐ろしいのは、ごく身近な場所だ。移り変わり、原形をとどめないふるさと……。
「わかった」
と少女はいきなり叫んだ。
「おねえちゃんの正体は、宇宙人でしょ。地球をしんりゃくしに来たのね」
この子はどうやらTVの見すぎだ。
「どうして、そう思うの」
「自分の星がだめになっちゃったから、移住しにきたんでしょ。で、この星が、どんな星かわからないから、目立たないかっこして、スパイしてるんでしょ。でもだめよ。そういう計画は、じゃまされて失敗するに決まってるんだから。仲間を呼びよせることなんて、絶対できっこないのよ」
とニコニコしながら少女は言う。
驚いた、この子、完全に虚構に住んでいるらしい。これは本気だ。いや、そうみせかけて、実は私をからかっているのかもしれない。とにかくうまい答えをみつけなけりゃならない。だが、なかなか良い言葉がでてこないので、
「残念だけど、私は地球を侵略しにきたわけじゃないの。異星人みたいなものだけど。そうね、かぐや姫みたいなものかもしれない」
と思いつくままに言った。
「かぐや姫? 月からおむかえがくるの?」
と目を見張って問い返す少女。私は遠くに視線を投げ、
「お月さまじゃなくて、お日さまの方から迎えがくるんじゃないか、と思ってたんだけどね。こなかったの。こっちから探しに来たんだけど、どうやら見当違いのところに来ちゃったみたい。それとも、あなたがその、お迎えなのかな?」
と、頬に手をあてて、もっともらしく首を傾げてみせる。少女は少し薄気味悪くなったのか、敬遠するように眉を寄せ、
「太陽にも、月にも、人は住んでないよ」
私は薄く笑って、切れ切れに呟いた。
「そうね。知ってる。でもね、探してた。待ってた、誰かを。自分の仲間を探してたのかもしれない。たとえばそれは、あなたかも知れない。そう思った……」
「なかま……?」
ぐっと疑わしげな目付になる彼女。私は口唇をすっとひいて、笑った。
「たとえ別の星の人間でも、同じ心を持ってるはずだ、ってこと」
「どういう意味?」
少女は素直にたずねてきた。嬉しくなったが、続けようがない。こんなところで、ひとりぽつんと取り残されて、何かを感じている、てなことが言いたかったのだが、うまくやさしく表現できない。急に分別が頭をもたげて、
「なんだろね。……さあ、もう大分暗くなってきたから、早く帰ろうね。お家はどこなの? 近いの? 何できたの? お友達はどうしたの?」
言ったとたん、少女は顔を背けた。恐ろしい表情をしている。いけない。この子はこの子なりに、会話を楽しんでいたのだ。それを、つまらない言葉でごまかしたので、機嫌を損ねたらしい。困ったな、どうしよう、私はあなたの事を傷つけようとしたんじゃないんだよ、秘密に踏み込もうとしたんじゃないんだよ。どうやって伝えたらいいだろう。
じれながら黙っていると、突然少女は立ち上がり、
「おねえちゃん、変」
と一声漏らしてブランコをとびおり、そのままばたばたと駆けていった。
消えてしまった。
やれやれ。
まともなことを言ったのに、かえって変だと言われてしまった。
私は重い腰をあげ、ブランコから降りた。
三つの灯火が、かあっと白熱している。肺が、暗色の空気をたっぷりと吸って重い。少し伸びをすると、ジャケツのポケットに手を突っ込んで、自転車のところまでぶらぶら歩く。
気が付くと、ちょうど立ち話をしていたおばさんたちが、ようやく挨拶を交わして、別れていった。時計をみると、一時間ほど公園にいたようだ。とすると、あのおばさんたちは、一時間以上、あそこに立ってべちゃべちゃしゃべってた計算になる。
これが、別世界だ。
頭をからっぽにして、家に帰る。
自転車をテラスに置くと、庭続きの妹の部屋に、顔をつっこんだ。
「ただいま」
妹は、アール・ヌーヴォーの画集から顔をあげ、私の顔を見ると、うんと眉をひそめた。
「何でそんな顔するの」
ときくと、
「顔色が、すごく悪いよ。気持ち悪い。なんかまるで、奥さんに捨てられた失業者か、もと詩人のボケ老人てかんじ」
とこたえた。
苦笑いして、扉を閉めた。

2.きょう

頭が金属めくシィンとした音を
たてているけど
理性だけは保ちたいと思う
鏡をのぞくと
蒼ざめた顔のあどけなさ
自由なこころの底が
人形の仕草に似て生気のない振舞いに
あらわれる
気を許せば、つけこんでくる病魔
頭の中の水が、微温に沸いている
(気圧があがったのだ)
ずるずると脳みそが溺れてゆく
煮詰まるのはいつだろう?
背中が寒い、と痛みを囁きだす
横たわると、内臓が身の奥へ沈んでいく
(引力が増したのだ)

地球が廻っている
目も眩む物凄い速さで――

そんな状態で、自室の天井を見上げていた。
昨日出かけた頃、実はなんとなくだるかったのだ。風邪のひきはなだったのだが、それに気付かず、ぼやけた頭で公園なんぞに出かけ、春寒にあたったりしたから、このザマだ。
今日は日曜、医者は休みだ。さらに運悪く、常備薬の錠が、今朝きれた。が、てんできかず、熱がでてきた。喉に絶えず、生暖かなたんがからむ。咳でせきとめ、うがいにたっては寝る。やりきれない。ごろごろと寝ころんでいるのは毎日のことだが、耳鳴りに満たされた静けさのなかで横たわって苦しむのは、また別だ。優雅な遊民の太平楽な不満と一線を画する。これが現実というものだ。本を開いても、ちっとも頭に入らない。オーディオに逃げれば頭痛がひどくなる。
もちっと健康的なことを考えよう。……いっそのこと、外で体操でもしてみようか。すっきりするかもしれない。鼻詰まりなんて、起き出せば、結構通じるものだし、たいした風邪ではない。うっとおしい症状にとらわれないのが、今は一番いいような気がする。まあ、夕食の買い物にでた母さんが、風邪薬を買ってきてくれるまでの辛抱だ。出かけた妹が戻ってくるにも、まだ間があるし、ちと動き回ってみるか。
よっと起き出し、簡単に戸締りをすると、昨日と同じ格好で、外に出た。
少し走ってみようかな。でもだるいな。
と思いながら門をくぐった時、隣のアパートで「行ってきます」と叫ぶ声がきこえ、カンカンカンと階段を駆け降りてくる音が響いた。
はちあわせ。
「あ、昨日の」
あの子だ。今日も同じ黄色いワンピースを着ている。
「おねえちゃん、このとなりに住んでたの」
こっちこそ知らなかった。もっとも、隣近所のだれそれさん、なんて言われても、ちっとも顔が浮かばない。名前だってよく知らない。せんさくする気も起こらない。部屋の窓からは、いろいろな窓が見える。ひとの生活をのぞき込むこともできるが、みようと思ったことはない。昔の友達は皆引っ越したし、それ以外のご近所なんてのは影法師より実感が薄い。アパートは特に、人の出入りが激しいし、ましてや子供なんてのはだいぶ外観が変わる。生活時間もまるでずれてるし、お互いに知ったこっちゃないの世界だ。
「そうだよ。知らなかった?」
「うん。おねえちゃんも私を知らなかったでしょ」
にっこり笑う。昨日の帰りがけのこと、もう気にしてないらしい。よかった。子供は鋭いから、私の病んだ実体をけどられて、嫌われたんじゃないかと思ってた。それでもこの子、ずいぶん敏感そうだから、言葉に気をつけなきゃ。あたりさわりなく話そう。
「でかけるの。……また、公園にいくの?」
「ううん。もっと遠く」
へえ、行動半径広いんだな、この子。もう暗くなるのに。
「で、歩いてくの? 大変だね」
「ううん。バスで」
バスで? 塾かな。それともおけいこ事? それにしちゃ何も持ってない。変なの。何だろう?
「じゃあ、行く先は、ずいぶん遠いのね」
「うん。駅のむこう」
駅の向こう? そりゃ遠い。特に、私の肩に届きそうにもない子にとっちゃ、かなり遠く感じる筈だ。バスで行くにしたって、駅の反対側じゃ、乗継ぎをしなけりゃならないんだ。けっこうかかる。
「なら、自転車で行けばいいのに。乗れない?」
「乗れるけど、今ない」
なるほど。
「じゃ、貸してあげる。どこでもいいから、でかけたいんだ。一緒に行っていいかな」
「いっしょに?」
少女はぐっと警戒した。無理もない。妙な申し出だ。しかし私は、行く先はどうでもいいのだ。この風変りな子と、少し話がしたいだけなんだ。なんて言やいいんだろ。どうしたらわかってもらえるかな。子供同士なら話は簡単なんだけど。ええと、子供の頃は、どんな風に話してたっけ?
頭がうまく回転せず、変なことを口走った。
「大丈夫。自転車で子供をさらう大人なんていないよ」
すると不思議に、少女の顔はうちとけた。
「そうね。じゃ借りる」
テラスに案内して、ちょっと考える。妹の自転車がきれいだから、これを借りることにする。サドルを下げれば、この子にも乗れるだろう。
「ちょっと待ってて」
物置きから、小さなスパナを持ってくる。サドルのねじを緩めて、一番低い所まで押し下げる。……あれ。ねじを締めようとすると、サドルがまがっちゃうな。右を向いたり左を向いたり。上向いちゃった。むつかしいな。今度は下すぎた。
「かして」
と少女が言った。
スパナを渡すと、適当にサドルを押さえつけて、左右のナットを交互に器用に締めてゆく。うまいもんだ。最後にタンタン、と手で叩いて、固定できたのを確かめると、きちんとこちらに柄を向けて、スパナを返した。お見事。
「どうも。で、足はとどく?」
「とどく」
と腰かけて彼女、爪先でテラスのコンクリを蹴る。
「じゃあ、行こ」
私は自分の自転車をおし、少女は妹の自転車をおし、庭をまわって門外へでる。
「先に行ってね。私は道を知らないから」
と声をかけると、少女は黙って、先に走りだした。慣れない自転車の割には、危なげなくよく走っている。普段から大人のものに、乗りつけているようだ。
薄ほこりをかぶった、典型的地方都市の町並みが流れていく。なんでも取り揃った、だがなにかが欠けた、なんとなくあかぬけない風景が。
「ねえ」
後ろから声をかけてみた。
「名前、なんていうの」
風で声が後ろにとばされる。苦しい。頭のぼんやりが、ますます増してくる。
「さら!」
返事がとんでくる。ふうん。いい名前だ。昨今の子供らしい、適当にきらきらしい名前だ。どんな字をあてるんだろう。まっさらのさら?
「さらちゃん、ねえ、名字はなんていうの」
返事はない。聞こえないのか。
彼女は黙って走っていく。私は黙ってついていく。海岸行きの道を少し逆行して、車ばかりの国道へ曲がる。バス通りの一つを忠実になぞっているようだ。中心街の裏までくると、信号待ちでやっと並んだ。
中心街の裏までくると、信号待ちでやっと止まってくれた。
「さらちゃん、待ってよ」
その時、黄色の小さな影が、さらちゃんに襲いかかった。
「きゃっ」
さらちゃんの肩に止まったのは、手に乗るほどの小さなセキセイインコだった。
「ごめんなさい」
ちいさい女の子の声がした。六つぐらいだろうか、そこの角は古ぼけた植木屋で、店の前に座っていた子が、店先につるしてあった鳥かごを、誤って開けてしまったらしい。
「るう! おいで」
黄色い鳥は、さらちゃんが気に入ったのか、肩に伸ばした彼女の手に止まり、指に止まった。生き物のぬくみと、くいこむ爪のむずがゆさに、さらちゃんはみじろいだ。すると、黄色い鳥はささやいた。
「お嬢さん、可愛いね」
年のいった男の声だった。さらちゃんはびっくりして手を振った。すると、鳥は自転車の籠に止まって囁きつづけた。
「可愛いね」
「るう、だめだよ」
植木屋の女の子は、鳥の胸の前に指を差し出すと、黄色い鳥を捕まえた。
私は黄色い鳥の言葉と少女の手際に感心して、
「よくなついているのね。それに、とっても言葉が上手ね」
「うん。よくここにすわってると、ことばをかけてくれるおじさんがいるの。それで、るうはことばをおぼえたの。しんせつなおじさんで、よくものをくれたり、あそんであげるっていってくれたりするんだけど、いっしょにあそんでいられないの。おみせのばんをしてなきゃいけないから。おじいさんは、みみがとおくて、おきゃくさんがきたときわからないときがあるから」
ひとなつこくて、よくしつけられた子のようだ。こんな打ち捨てられたようなお店を守っているのだ。誰でも頭を撫でて声をかけてやりたくなるだろう。自然に手が出て、頭を撫でてやる。
「お嬢ちゃんも、お話するのが上手ね」
「ありがとう。でも、そんなことないよ。……ねえ、おねえちゃん、おどろかせてごめんね」
鳥を籠に納めながら、さらちゃんにすがるような目をむける。さらちゃんは首を振る。
「だいじょうぶ。ちょっとおどろいただけ」
「ごめんね。でも、るうは、ほんとうにきにいったひとにしか、しゃべらないの。おねえちゃんがほんとうにかわいくなかったら、なんにもいわないのよ。ねえ、だから、きにしないでね」
「うん。わかった。じゃあね」
さらちゃんは自転車をスタートさせた。私は慌てて後を追った。
さらちゃんはしばらく走って、急に振り向いて言った。
「あの子えらいね」
「そうだね」
相づちをうってやるとニコニコして、
「それに、かわいい子だったね」
こっちもつられてニコニコして、
「かわいいって言ってくれたね」
「そうだね」
それからさらちゃんはまた黙ってしまったが、表情はずうっと明るくなった。
駅の脇の地下道をくぐって、線路を越す。日が傾きつつある。風が、熱っぽい身体を気持ちよく洗ってくれる。……このままだと、結局海の方にいくようになるのかな。団地だの公園だのが続く住宅街に入るが、海にどんどん近づいていき、少しづつあたりは寂しくなってくる。このままだと海岸にいきついちゃうぞ。どうするのかな。聞いてみようか。
「ね、さらちゃん、どこまで行くの?」
すると彼女、いきなりブレーキをかけた。
「ここよ」
地味なアパートメントの前だった。彼女は慣れた様子で自転車を脇道に寄せ、鍵をガチャガチャとひっこぬいて、ワンピースのポケットに納めた。私も同じくして、アパートを見上げる。彼女はそのアパートの階段をカンカンと登っていく。私も後を追う。
ある一室の前で、彼女は立ち止まった。そしてポケットから、紺のリボンを結んだドアの鍵を取り出す。そして鍵穴にあててまわしながら、
「ただいまあ」
と、大声で言った。それからドアを開けて、部屋の中にさっさと入っていく。私は慌てて、
「さらちゃん、さらちゃん」
と呼び止める。だが彼女は、
「なあに? どうぞあがってください」
と澄ましてこたえてくれる。
ちょっと待った。さっきこの子、うちの隣のアパートから、「行ってきます」って言って、でてきたのよ。それで、なんでここで、「ただいま」がでてくるの? なんだい、この子は、家が二つも三つもあるのかい? それとも、この子は、必殺留守番アルバイターかなにかなのかい?
「さらちゃんてば。ここは、誰の家?」
「私の家よ。さ、どうぞあがって」
といいながら彼女はドアをしめ、私を家の中に引き入れた。
空気が湿気て、淀んでいる。何日も人がいなかったようなほこりっぽさと、微かな腐臭が鼻をうつ。さらちゃんはなんともないような顔をして、郵便受けにあった手紙と広告の束を引き抜くと、部屋の端までつかつかと踏み込んでいって、エアコンのスイッチを入れた。ぶうんと低いうなりが始まるやいなや、さらちゃんはカラフルなダイレクトメールも、カラフルでない封筒も、いかにもうざったいとでもいうように、いっしょくたにして細かく引き裂き、さっぱりとごみ箱へ捨ててしまった。満足そうにうなずいて、小さな手をぱんぱんとはたく。
部屋の中をあらためて見回す。小ぎれいに片付いた畳敷きで、ひとおおりのものがそろった普通の和室だ。低い木の机、タンス、押入れ、本棚、テレビ、ステレオ、ビデオ、ファミコンらしい一式もある。だが良くみると、神経と手入れの行き届いた独特な部屋だ。沢山のものが、一部屋にみんな納まっているのに、不思議と狭い感じがしない。本棚の中身も、難しげな理系の専門書と、子供向けの派手な大型本がアンバランスに雑居しているのに、見苦しくないのだ。奥の部屋は襖のたてきり、きっと寝室なのだろう、あと半分ばかり小さな流しがついているのが見える。
私がぼんやりとたちつくしている間に、さらちゃんはさっさと次の行動にうつっていた。ワンピースの左ポケットからカセットテープを取り出して、ステレオの下のデッキに押し込めた。そして、レコードラックを開けると、映画音楽集などと題されたLPを素早く引き抜くと、ターンテーブルにのせ、針をおとす。しみじみと『禁じられた遊び』がかかると、彼女はそれを録音しはじめた。
おやおやと見守っていると、今度はビデオデッキの方に行って、その前に膝をつくと、パチパチと音をたてて操作を始める。ビデオテープの巻き戻る引き絞るようなうなり。……このノイズ、気になるな。レコードの録音に影響しないかしら。彼女はしかし、なにも気にする様子はなく、テレビの脇においてあった番組案内を取り上げると、パラパラとページをめくって、何事かを確認すると、ようやく振り返った。
「すわって待ってて。お茶いれるね」
と言い捨てて、小卓をだして部屋の真ん中に置く。次の瞬間には台所に立っていて、換気扇をつけ、流しの下からやかんを出して、ざっと洗って火にかける。サイドボードの扉をひいて、菓子の類をごそごそと探している。ぴったりと身についたその様子からして、ここが彼女の家というのは間違いないようだ。
私はだいぶんだるくなっていて、言われたとおりにのろのろと座り込み、膝を崩して少しほうけた。それから、彼女の背中に、少し質問を投げかけてみた。
「ねえ、お父さん、お母さんは?」
彼女は振り返らずに、
「お父さんはおしごと。お母さんは、一年の時死んじゃった」
なるほど。それで、いかにも隙のない、家政にたけた身のこなしがうなずける。醒めたような情緒ぶりも、そこらに事情があるのだろう。それでは気になる次の質問。
「じゃ、向こうの家はいったい何?」
彼女は首だけこっちへひねって、少々いぶかしげに、
「向こうの家?」
と、聞き返してきた。ようしと勢いこんで、
「だってあなた、うちの隣のアパートからでてきたじゃない」
と訴えると、彼女はああ、と顔を笑み崩して、
「あれは、おじさんの家なの。お父さん、三、四日、仕事がいそがしくて家にかえってこれないっていうから、おじさんちに行ったの。おじさん独身で、わりと不便してるから、私が行くと、ちょうどいいのよね。ところが、今日は、おじさんも遅くなるって、仕事先から電話かけてきてね。それで、自分の家の様子、見にきたの。それだけの話」
ああ、なるほど……とうなずきかけて、私はぼやけた頭を振った。違う違う。私が訴えたいことはそうじゃない。
「それでも変じゃない。だってあなた、うちの隣から出てきたとき、《行ってきます》って言ってでてきたでしょ。独り身の叔父さんが、帰りが遅くなるっていって電話してきたってことは、まだ帰ってきてないってことでしょ? つまり、家には誰もいないってことじゃない。それで何で……?」
笑い声があがった。ちょうどやかんに湯気がたち、彼女はコンロのスイッチを戻し、換気扇のひもを引く。出したカップをお湯でさっと洗って、ティーバッグを落とす。それからタオルにもお湯をかけ、水をかけして絞り、やかんをコンロの上に置きなおし、テキパキと一切を片付けてから、こちらに戻ってくる。
「おねえちゃん、あれきいてたの」
絞ったタオルで小卓を吹くと、あきれたような顔で言う。私の方は大人げなくも切りかえす。
「聞いたわよ。だから不思議に思ったんじゃない」
彼女は台所にとってかえしながら、
「じゃ、《ただいま》は?」
あ、そうか。彼女、この言葉も誰もいない家に対して言ったんだ。あれ。よくわからなくなってきた。
彼女はティーバッグをごみばけつに捨て、手を洗いなおすと、お茶一式をのせて戻ってきた。
「うん。まあ、きいててもらわなきゃ、こまるんだけどね」
小卓の上にお茶だの砂糖だのチップスだのを並べて、全部の支度が終わると、彼女も座った。真面目な顔で、
「あれはるすばんのこころえでね。家を開ける時は、家がからっぽだってことをあたりにあからさまにしちゃだめなの。不用心でしょ。だから、でかける時には、だれもいなくても、《行ってきます》って言わなきゃだめなの。帰ってきた時もおんなじで、《ただいま》って言わなきゃいけないの。わかった?」
ともっともらしく言いおえて、彼女は自分の茶を飲んだ。
なるほどね。つまり彼女は留守番の大ベテランな訳だ。なおかつ、それを巧みにさぼって出かける手段までも。まあ、大変だこと。BGMのギターが暖かく物悲しい。私は砂糖を紅茶にまぜながら、
「むつかしい、おうちなのね」
と感心して嘆息すると、彼女はとんでもない、と首をふり、
「お父さんと私だけだもの。単純なうちよ」
私は苦笑いしてお茶をいただきなから、
「だって、ここ何日もお父さん、仕事から帰ってきてないんでしょ。それで、おじさんちに行ってるんでしょ。しかも、そのおじさんも、仕事で帰ってこないなんて、ずいぶん大変じゃない。いったい何のお仕事してるの?」
まだ小さい子を何日も独りでほったらかしているというのは、企業戦士と言うにもほどがある。ひどい父親だ、とつい非難めいた口調になってしまったが、彼女はさして気にしない様子で、
「うん、お父さんは、電気屋さんなの。機械をつくるひとでね、えらいから、責任があってね、とまりこみのお仕事とか、よくあるの。みんなで考えたり、話あったりする時間がひつようなんだって。でね、おじさんはね、役者さんなの。今日は、急に撮影が入ったの。ねえ、おねえちゃん、名前知ってる?」
と言って、あまり聞いた事のない俳優の名前を告げた。
曖昧に返事を濁すと、彼女はそれと察したらしく、ビデオのほうに向きなおり、テレビをつけ、とっくに巻き戻っているテープを、早送りして見だした。
「ほら、これ」
ふと、あるアップがスティルした。
がっしりとした身体に、肩あても仰々しい黒い甲Dをつけた男が、片頬をひとすじひきつらせて、ニィッと笑っている。鰐のように肌が荒れ、垂らした黒髪の下で鋭い瞳をキラリとひからせて、どうやら、子供番組の悪役らしい。結構迫力がある。
「こんなのばっかりやってるから、およめさん、こないのよね」
といいながら、彼女は画面に笑みかける。そして静止画面を解除して、叔父さんにしゃべらせる。あばれさせる。
「けっこう、いい声してるでしょ。こわい顔してるけど、本当はとてもやさしいのよ。特に女のひとや子供には」
独特の錆びた渋い声で、陳腐な台詞を生真面目に吐き続ける彼。それを、理解ある暖かな表情で見守るめいっ子。……いや、その顔は、理解ある、などどいう生意気なものでなく、すべての遊び事を超越した人間が、馬鹿馬鹿しいことも下らないことも、突き放してさらりと楽しんでいるといった、本当に大人びた様子だった。
「そうね。……悪役をやってて、本当に悪いことをする人なんて、そうそういないもんね。やさしいひとは多いでしょうね」
と、私はうなずいた。むしろ、好かれ役をやる役者の方が、悪い事をして捕まるのをよく聞く。ストレスがたまる反動なのか、マスコミの捏造なのか知らないけど。で、悪役の人は、その反対なんだろうな。本当の犯罪なんて、乱暴でつまらなくて、まるでやる気がしないんじゃないかな。
彼女はじっと画面を見つめたまま、上の空風に、
「そう。とんでもないよ、悪いことなんて……」
と答えた。
ふと、私は、妙な匂いを感じた。溶剤の匂いだ。あたりを慌てて見回した。すると、低い机の下に、接着剤がこぼれているのを見つけた。
「さらちゃん」
「え、なに?」
さらちゃんは何気なく振り向いた。
「ねえ、接着剤がこぼれてたよ」
「あ、ほんとだ。なんでだろ」
私は自分の経験を思いだし、チューブの蓋をきっちり締めなおしながら、
「部屋しめきりにしてたから、夕方日が差す陽の時間に、部屋全体が熱くなっちゃって、蓋がゆるんだんじゃないかな。そういうことってあるよ」
とつけくわえると、へえ、と感心した顔になって、
「そんなことがあるんだ。気をつけなくちゃね。ぜんぜん、気がつかなかった」
え。
私は風邪で鼻が完全に馬鹿になってるんだから、気が付くのが遅れたんだけど、さらちゃんはどうして気がつかなかったんだろう。この子鼻が悪いのかな。
一瞬言葉を失って、相手の顔をつくづく眺めた。
その時、バチンと音がして、二人でギョッと振り向いた。カセットテープが片面終わって、デッキの録音スイッチが、はねあがった音だった。レコードの方はとり澄まして、相変わらず甘ったるいギターの旋律を流し続けている。バタフェジェスカの『乙女の祈り』だ。
彼女はビデオを止め、また巻き戻しをかけると立ち上がり、録音を終えた音楽テープを取り出し、ケースに入れ、カセットラックの中に納める。そして、くるりとこちらを振り向くと、
「おじさん家に、帰んなきゃ」
と、いきなり呟く。私もつられて腰を浮かせて、
「どうしたの?」
「でてきた時、すいはんきのスイッチを入れてきたの、思いだしたの。もう、ごはん、できてる。帰らなくちゃ」
そう言って彼女は、素早く小卓の上の片付けを始めた。カップは洗って、お湯をかけてしまい、残りものは乾燥剤の袋と一緒にして、いちいち細かく元に戻し、ビデオカセットを入れ換えて、タイマーをセットし、残りの電気関係を全部オフにして、全ての片付けを終えると、
「おねえちゃん、帰ろ」
と、息も切らさずに言った。見事なスピードだった。当り前と言えば、当り前なのかもしれないが。いつもいつもこうやって、家の中の事を、小さい彼女が片っ端からやっつけてしまうのだろう。感心して見ていたが、声をかけられたので、よっ、と重い腰をあげた。
お。ぐらっときた。めまいがして、思わずふらついた。どうも頭が働かない、手伝いをしようにもなんともかったるいな、と思っていたが、身体もだいぶまいっている。本当に、早く帰ったほうがいいや。
「うん。帰ろ」
彼女は部屋内の鍵を全部確かめ、先に私を出して、自分も部屋から出ると、鍵をそっとかけながら、
「行ってきます」
と、大きな声で言う。
私は首を傾げた。これって効果があるのかしら。アパートって、人の気配がないのって、お隣りとかにわかっちゃうんじゃないのかな。ふらっと来た人にも。新聞とってないみたいだから、留守にしてもわかりにくいかもしれないけど、この台詞は果して、どのくらい効果があるのかしら。……いや、本人も、期待はしてないのかもしれない。少しでも気安めがあったほうがいいと思って、やっていることなのかもしれない。女の子ひとりじゃ物騒だし……などとぼんやり考えこんでいると、彼女はさっさと階段を降りていく。よろめきながらついて降りて、なんとか自転車までたどりつく。
「あれが、あたしの」
と、彼女が指さしたのは、脇道の少し奥に止めてある、少し錆のふいた小さい自転車。ああ、とうなずくと、彼女は妹の、重い自転車をひきはじめた。私も自分の自転車を表道までひいていく。
そして、元来た道を引き返し始めた。並んで、走りだす。
重い身体が、ペダルを踏むことで軽がると運ばれていくのは、楽々としたよい気持ちだった。景色が流れていく。整備された広い海岸通りを、駅裏まで行く。松林、小ぎれいなマンション、がらんとしたガソリンスタンド、古い店屋、小さな会社、工場、中層ビルディング。
思考が、頭の中で、とぷんとぷんと音をたてて揺れだす。言葉が正しい回路を経ずに、ランダムに口をついてでる。
「さらちゃんは、ジリツしてるんだねえ。大人なんだね」
「え」
彼女もぼんやりしていたらしく、はっとして、けげんそうに聞き返した。私は、力無い笑みを浮かべて続けた。
「だって、誰も待っててくれなくて、誰も待ってなくて、それなのに、しっかりやってるんだもの」
彼女はなあんだ、と飲み込んだ顔になって、
「だって、しかたないもの。お父さんも、たいへんなのよ。時間さえあれば、機械いじりとか、できるだけいっしょにやってくれたりするのよ。ただ、いそがしすぎるだけなの。もともと、自分のめんどうみるのだけで、せいいっぱいのひとだから」
こんな台詞を、明るい顔でしゃべる。なんてこった。誰からこんな言葉遣いを教わるのだろう。もしや、当の父親じゃあるまいな。うん、この子の親なんだから、仕事中毒患者で、生活に目の行き届かないところが多くても、できうる限りのところに、細心の注意を払うのではないかしら。辛い家族だ。それでも、当人達は、それでやっていかなければならないのだ。
「それでさらちゃんは、ひとりで遊ぶことに、慣れてるんだね」
「え」
またぞろけげんな顔をする。
「だって、昨日、そうだったじゃない?」
「昨日……」
彼女は一瞬答えにつまり、顔色を少し曇らせて、
「私、ともだち、けっこういるよ。すぐに、だれにでも、話しかけられるし、どこでもあそびにいくし、……きのうは、おじさん家の方の家の子達だったから、いっしょに帰らなかっただけ」
私はあれえ、と首を傾げて、
「うそだあ。私、昨日はずっと公園にいたのよ。でも、さらちゃんが、誰かと遊んでるとこなんて、見なかったよ」
彼女は実にきまりわるげな顔になって、
「うん……おととい、雨がふって、外に出られなかったから、おともだち、つくりそびれちゃったんだ。きのうは、ちょっとぐあいわるかったし」
あ、いけない。なんだか追いつめちゃいそうだ。寂しい子なのに。
「変な事言って、ごめんね。……でも、これから、お友達いくらでもつくれるわよ。さらちゃんは、誰とでも、すぐ仲良しになれるよ」
すると彼女は不意ににっこりとして、
「おねえちゃんも、そうね」
「え」
びっくりした。この子は何を言うつもりだ?
「何がそうなの? お友達のこと? そういう風に、見える?」
「見えないけど、でも、やさしいから。見えないほうが、やさしいこと、多いもの。ほんのちょっとのことが、やさしいことなんだもの」
さらちゃんは、随分と難しい事を言い出した。しかし、できそこないのノイローゼ患者みたいな私が、やさしいって? どういうつもりなんだろう。
「だって、さっき、るうちゃんのかいぬし、なでてあげたもの」
ああ。そんな事か。
「あれは挨拶がわり。私は別に、優しくなんてないよ」
「そんなことない。おねえちゃん、あの子を本気でほめてあげてた。あの子、すごくうれしそうだった」
本当かな?
「そうかな。ああいうこと慣れてないから、なんかぎこちなかったでしょ」
さらちゃんは大きく首を振って、
「ぎこちなくても、いいの。あの子、だれかに相手してほしかったんだよ。そういう顔、してた。鳥も、わざととばしたのかもしれないよ。それを、ちゃんと相手してあげたんだもん。だから、よかったと思う」
「そうかなあ」
「家族だって、いちいち相手してあげられないことも多いんだから。どんなしゃべり方でも、どんなやり方でも、かまってもらえたら、うれしいよ」
「そう……?」
「うん」
さらちゃんは、それぎり黙ってしまった。なんだかきまりが悪くなって、私の方から、また話しかけた。
「ねえ、もうちょっと近道しよ。まかせて。抜け道はよく知ってるんだ」
「うん」
彼女は素直にうなずいて、自転車のスピードを落とす。私は先にでて、彼女を先導した。さっきの半分位の時間で、家にたどりついた。
さらちゃんはテラスまで、静かに自転車をひいていき、
「ありがとう」
と、少しはにかんだような顔をして呟くと、そっと出ていった。
「叔父さんに、よろしくね」
と、私は彼女の背に言った。
ほっとして、玄関をあけた。
ぶったおれた。
「どこに行ってたの? そんな身体で、出歩いちゃだめじゃないの」
母親の声が降ってきた。抱え起こされて、姿見に映った自分の顔をみた。なんとも気持ちの悪い土気色で、見ているだけで、さらに熱の上がりそうな顔だった。よく我慢していたものだ。自分の部屋に運び込まれて、熱を計る。妹が氷枕を用意してくれる。アイスキューブのぶつかる鈍い音と、ごつごつした冷たい感触を味わいながら、体温計を見てみると、三十九度を越えていた。これは、いったん寝込んだら、すぐには起きられない体温だ。これはまいった、驚いた。
母親は、遠くの医者に電話をし、往診に来てくれることを確認すると、病人食をなににするかと思案しながら、階下に降りていってしまった。妹は額にのせるタオルをもてきてくれて、二言三言いたわりの言葉をかけてくれた。曖昧にうなずきながら、熱に浮かされて、奇妙な夢に落ちていった。
頭の中でいろいろな事がぐるぐる回る。奇妙で器用な女の子のことが、ぐるぐる回る中に浮かぶ。虚構に住む現実の少女。……まともなことをいわれかけると、変だと断じて逃げ出す少女。……不可思議な行動ばかりとるくせに、まともすぎる生活を営んでいる少女。……クールで割り切れているようでいて、肉親の情にあつい少女。……強がっているくせに、はにかみやで……あの子はいったい何者なんだろう。……それに、なにかひっかかっていることが……
あ、そうだ。一昨日は雨じゃなかったんだっけ。曇ってはいたけど、あの日は父親が、屋根のペンキ塗りをした日だ。なんでさらちゃんは、雨が降ったなどと言ったのだろう。なにか勘違いしたのだろうか。隣の窓から、わが家の屋根を見て、ペンキで濡れているのをみて、雨が降ったと思ったのかな。でも、随分きつい溶剤の匂いがしたし、よく空を見上げれば、雨降りでないことはわかった筈だ。……まさか。
これは妄想だ。熱に浮かされて、何もないところに幻をみるような状態になっているんだ。でも。まさか。……
あの日、さらちゃんの心には、雨が降っていたかもしれない。

目覚めると、もう真夜中をまわっていた。
医者のくれた解熱剤と注射が効いて、だいぶすっきりしていた。なんとか起きられそうだ。
私はそっと起き出して、階下に降りると、懐中電灯の光で電話帳を開いた。そして、目的の番号を調べ始めた。表札は見てきた。名字と住所がわかれば、なんとか番号はわかる。これだ。ダイヤルを回した。
これは妄想だ。しかし、確かめたい。いや、現実を知りたい。
相手がでると、低い声で話し始めた。
「もしもし。××さんのお宅ですか。私、久遠と申します。……はい、今日一日、さらちゃんと遊ばせていただきました者です。実は、ちょっとお話が……ええ、さらちゃんは、もう眠ってらっしゃると思います。どうぞ起こさないであげてください。今日はゆっくり休ませて、明日病院につれていってあげたほうが、いいと思いますし。ええ、検査かなにか受けさせた方が、いいと思います。え、なんのことかわからない? ……というのはですね、話すと長くなるんですが、そうですね、まず、お宅のごみ箱のなかをひっかきまわしてみてくれませんか。たぶんこなごなになってると思うんですが、妙な手紙がはいっていませんか? はい。ありました? あ、あまり声をあらげないでください、さらちゃんが起きてしまいますから。ええ、お宅のさらちゃんは、あなたが出張している間に、誘拐されていたんです」

3.それから

私は続けた。
「狂言誘拐だったんですけどね……あなたの弟さんは、あなたがあんまり娘をほったらかしにしているのに業を煮やして、普段やっているお芝居を、現実に実行した。娘さんを自宅に閉じ込め、もっともらしく、脅迫状だの、脅迫テープだのをつくって、あなたの家に送りつけたんです。ところが、あなたは、またしても家を開けていた。彼は引っ込みがつかなくなった。仕方なく、彼女を麻酔で眠らせたまま、仕事の依頼に飛び出した。ああいう仕事はいきなり入ってくることが多いそうですから、まだ若い、悪役しかできないような人では、すぐにことわりきれなかったんでしょう。ところが、娘さんは、目を覚ましてしまった。そして、事態をうすうす察してしまった。なんてひどい状況だろう、と。……叔父さんは自分のために過ちを犯すし、肝心の父親は何も気付いていない。誘拐されたはずの自分は、自由同然だ。そこで、彼女は考えました。何もなかったことにしてしまおうと、家に帰って、証拠になるような紙類やテープの類を、私の目の前で始末したんです」
次の日、さらちゃんのお父さんは、我が家にやってきた。慌てて着替えて部屋にとおすと、真面目そうなお父さんは、私の前にきちんと正座し、首を垂れて、私の話を聞いた。
「三日目にはあなたが帰ってくる。それまでにけりをつけてしまえばよかったので、一日目はじっとしていたと思います。麻酔も、随分きつかったのかもしれない。向いの家のペンキに濡れた屋根を、雨降りと勘違いしたくらいですから。二日目になると、行動的な彼女のことですから、じっとしていられなくなってきて、夕方、こっそり遊びにでた。しかし、誘拐されている最中ですから、派手には遊べない。ひとりでこっそり遊んでいたのでしょう。それを、私に見つかった。たぶん、おじさんは学校に病欠の届けを出しているでしょうし、誰に見られるのもあまり得策でない。それで私をけむにまいて、さっさと逃げてしまった。ところが運悪く、三日目に外にでると、再び私に見つかった。毒をくらわば、の心境で、私の目の節穴を祈りつつ、さらちゃんは自分の計画を遂行した。そして、見事、やり遂げたんです。あなたが脅迫状の残骸を見つけなければ、この犯罪は闇に葬りさられていた」
「すみません、そのとおりだったんです。私の至らぬばかりに、久遠さんにもご迷惑をおかけしまして」
お父さんは頭を垂れたまま、真摯に詫びの言葉を述べた。私は慌てて手を振って、
「私は別に、何のお役にもたちませんでしたから。それより、さらちゃんの具合いはどうですか。麻酔で、神経をやられてませんでしたか? 少しおかしくなっていたようなので」
その点は大丈夫だった、とお父さんはいった。
「よかった。じゃあ後は、みなさんでよく話しあってくださいね」
お父さんは、深々と頭を下げて、
「どうも、ありがとうございました。娘の面倒をみていただいた挙げ句、そこまで心配して下さって……これからよく話し合ってみます。娘に、なんでも自分で始末せず、少し甘えることを教えてやろうと思います。とにかく大事に至らなくて、助かりました」
と、私のような小娘に、丁寧な礼の言葉を言った。私はすっかり恐縮して、
「いえ、こちらこそ、どうも……さらちゃんにお伝え下さい、相手をしてくれて、ありがとう、と。私のような者を、救いの手に選んでくれて、ありがとう、と」
お父さんは少しけげんな顔をしていたが、繰り返し礼を言って、帰っていった。
すぐ後、隣のアパートで引っ越しがあった。
私はそれから、よくテレビを見るようになった。興味深い役者が、一人増えたので、退屈しなくなった。
でも、あの不思議な女の子には、一度もあっていない。

あの日から思う。私のような得体の知れない者でも、生きている意味があるのかもしれない、と。沢山のひとびとが生きているこの社会、その狭間に落ち込んだなにかがある。それを私は見出し、助けることができるかもしれない、と思い、そのことを支えに、今でもぼんやりと夢を見ながら過ごしている。それでは、いけないだろうか。
事実というものは果して、小説より奇なりだから。……

(1987.5脱稿/初出・青山ミステリクラブ『A.M.MONTHLY;No.110』1987.5)

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copyright 1998
Narihara Akira
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