『堕 天』


「われはぬしを心から信じておった。だが、信じられぬのであれば、ぬしには何も話さぬ。二度と話さぬ」
吉継に絶交宣言をつきつけられた瞬間、三成は生きる屍同然となった。
精神は肉体を支配する。寝ることも食べることもまともにできない。動けなくなった。
《これは罰だ。天罰だ》
自業自得だ、と三成は思った。
業病の見立てを打ち明けられ、しばらく二人だけの秘密にすることを約束したのに、大事をとって養生中の吉継を弱き者扱いにし、使いに出かけるのを止めようとし、あげくの果てに、秘するべき病のことまで、人前で口走りそうになってしまった。
自分がどれだけ吉継を傷つけたか、理解していた。
誰にでも愛想はいいものの、実は三成よりも、よほど誇り高い男だ。
それゆえに、己の力を自由に発揮できるだろう豊臣へやってきたのだ。
誰よりもその心をわかっているのは、自分のはずだったのに。
《いや、ゆるされなくて当然だ。私は刑部が思っているような、清い心の持ち主ではないのだから》
三成が物も口にできなくなったのは、自分の醜さに吐き気がするからだった。
なぜなら三成は、吉継の不幸を、心の底でひそかに喜んだからだ。
「佐吉」「紀之介」と呼び合った頃から寄り添ってきた唯一無二の友が、こんなに深く苦しんでいるというのに。

それまでの二人は、何があっても、常に共にあった。
公私ともに、苦しみも喜びもわかちあってきた。
色恋はいずれ飽きるものと人はいうが、三成は吉継に飽きることなどなかった。その肌に馴染めば馴染むほど快美を感じ、他の人間としてこれ以上の絶頂を味わえるなどとは、到底信じられなくなった。人が水を飲まねば渇いて死ぬように、空気がなければ息ができず死ぬように、大谷吉継という男がいなければ、自分は生きていられまいと三成は思っている。それほど必要不可欠な相手だった。
ゆえに、吉継の口から、不治の病を告げられた夜、三成は眠れなかった。
《私が刑部を失う?》
吉継が病のことを三成だけに教えたのは、別れを覚悟しておけ、という意味なのだろう。
正直なところ、秘密を打ち明けられたのは嬉しかった。
それだけ信じてもらえているということなのだから。
だが、どう覚悟せよというのか。
吉継が死ぬなど、あってはならないことだ。
泣き出したいような気持ちに、全身が熱くほてり、たまらない。
だが、その心の底に、なにやら昏く淀むものがある。
《刑部がやっと、私のいるところまで、降りてきてくれた》
大谷刑部吉継は、どこにも欠落のない男である。
側仕えの身として、武将としての腕前は申し分ない。
智将として敬意を払われているが、カタブツでもない。
うまい飯をうまいと食べ、よく眠り、見目良い者に袖をひかれれば応じる。
若い生をじゅうぶん以上に謳歌している。
だが。
不治の病をえた今、吉継は大きな欠落を抱えてしまった。
《私の刑部》
秀吉様の左腕、と自称するほど剣術が上達しても、三成はいまだ、吉継にはかなわないと思っている。単に腕前だけの問題ではない、武将として、智将として、あらゆる意味で常に三成に先んじていた。また、三成は、吉継が他の誰と寝ようと、とめることができないでいた。多くの者に求められるだけの魅力があることも、応じる余力のあることも、三成が一番よくわかっていたからだ。
しかし、病によって、吉継の戦闘能力は落ちるだろう。頻繁に袖をひかれることもなくなるだろう。
そうなれば。
《私だけの刑部に、なってくれるかもしれない》
なんという汚らしい願いか。
幸せを願っているはずなのに、その欠落を喜ぶとは。
ただ、ふわふわと狂熱にうかされる自分を、どうしてもとめられなかった。
愛しい者を、己の欲で地べたへ引きずりおろしたい、などと――。

*      *      *

その日、豊臣に、新たな仕官希望者がやって来た。
小姓の石田佐吉が御前に呼ばれた。
「秀吉様、参りました」
「佐吉が決めよ」
その者が豊臣の軍にむいているか、おまえが面接して判断せよ、と秀吉がいう。
年齢的にも近い相手の方が素がでるだろうから、それに期待するというのだ。
佐吉は人づきあいがよくないと思われているが、観察眼は鋭い。そのことを秀吉はよく知っている。
「承りました」
頭をさげ、佐吉はすみやかに主君の命に従うべく、その場をひいた。

大谷紀之介、と少年は名乗った。
佐吉も簡単に「石田佐吉と申す。秀吉様のお側に仕えている者だ」と挨拶した。
年は佐吉よりひとつ上だという。
なりは質素だが、容貌は品よく、身ごなしにも隙らしい隙がない。
だが、佐吉の方がわずかにでも先輩にあたるわけで、重々しく様子をつくろい、志願の動機をきいてみる。
紀之介は黒目がちの瞳を、佐吉の白い頬にじっとあてると、
「豊臣はその名のとおり、このひのもとを豊かな国にしようという志をもって動いているとお聞きしたゆえ、お役にたてればと馳せ参じた」
正しい答だ。佐吉はさらりと懐紙に筆を走らせながら、
「そこもとは、そのために何ができる」
「学問は寺でひととおり修めた、算術にも明るい。槍働きもできるゆえ」
なんでもできるというわけだ。
「腕前については別の者に試させるが、よいか」
「無論かまわぬ。ただ、別にひとつ、願い事がしたい」
「なんだ」
「母の東は寡婦だ、共に雇うていただきたい。武将の妻として不足なく、奥向きのことも心得ており、気だてよく、なによりよう働く。必ずや秀吉様のお役にたつであろう」
佐吉はフン、と鼻をならした。
「親孝行なことだ」
石田家次男坊の佐吉は、実母とそりがあわなかったため、土豪の家にうまれながらも、幼少時から寺にあずけられ、寺小姓となって学問に励む日々を送った。
つまり、母親べったりらしい紀之介を、少し軽く見たのだった。
それゆえ、こう言い添えてみた。
「もし秀吉様の御目にかなって、首尾良く側に仕えることになれても、母御と一緒にいることはできなくなるが、それでもよいか。奥向きの母御と、槍働きの紀之介殿とは、別の場所で秀吉様に仕えることになろう」
紀之介は大きくうなずいた。
「かまわぬ。秀吉様は清廉な方とおききしておる。そのような方にお預けした方が、むしろ安心よ」
母は独り身だが、秀吉は立派な君主として有名だから、淫らなことをされる心配などしていない、それどころか好ましいというのだ。
「ほう」
佐吉は紀之介が気に入った。
その声音も笑顔も澄んでおり、空言とも思えない。
「ならば私とともに、豊臣の理想をになう一人となれようぞ」
秀吉様を信じて、大事な母を預けてもよい、自分も共によく勤めるというなら、理想的な小姓になれるではないか。
紀之介の笑みが明るくなった。
「佐吉殿は、秀吉様の信が厚いのだな。よろしくお伝えくだされ」
佐吉も嬉しげにうなずいて、
「ああ、よく伝える」

紀之介は秀吉の小姓になると、すぐに頭角をあらわした。
武将の息子らしく剣術に優れ、朋輩たちの中で一番の腕と評されるようになった。
実力主義の豊臣軍では、少しばかり先に入ったからといって、先輩風をふかすことなどできない。
佐吉は学識の深さに自信があったが、紀之介の知識はひろやかさでそれに勝っていた。
二人は同室をあてがわれて急速に親しくなり、むしろ佐吉が知らぬこと、苦手なことなどは、紀之介が教えるようになってゆく。
たとえば剣術などでは、年長の紀之介の方が背が高いため、佐吉がやや不利だ。
二人で稽古をすると、最後には息を切らした佐吉が、竹刀を取り落とすはめになる。
「どう、鍛えれば、よいのだ……」
へたりこみ、悔しげに呟く佐吉の傍らに、紀之介は腰を降ろした。
「佐吉、ぬしは鍛錬が足りぬのではない」
「ではなぜ紀之介に勝てない。年の差のせいだというのか」
「いや、すぐにわれなど抜いてゆくであろ。ぬしはなァ、飯が足りておらぬのよ」
「まさか! ここへ来て飢えたことなどない」
「そうではない。確かにぬしは、食わずともよく動く。手数も多い。その素早さこそが、ぬしの強みになろ。しかし、若いうちに飯を食っておかねば鍛わらぬ、強い力が出るようにならぬのよ。腹ごしらえがまともにできねば、すぐに力尽きてしまうであろ。そんな兵は、いくさばで役にたたぬ」
紀之介の理屈はわかるのだが、佐吉の少食は元々で、それでも動けるというのは一種のほめ言葉でもあるわけだが、喉をとおらないものは仕方がない。
佐吉はそっぽを向いて、
「本当に私に強みがあるのなら、そこを鍛えればよいのだから、それでよい。紀之介も無理に、私の稽古につきあわなくてよい」
紀之介は苦笑しながら、
「われは好きで、ぬしとつきおうておるのよ」
「酔狂な。鍛錬は己より力ある者とせねば、強くなれないだろう」
「われはまだ、豊臣に馴染めておらぬゆえ、つきおうてくれる者などおらぬよ」
「嘘を吐くな。紀之介となら誰でも稽古したがるだろう。それにこの間も、どこぞで袖をひかれていたではないか」
「やれ、朴念仁の佐吉に、そんなところまで見られていたとは」
佐吉は両手で顔を覆った。
「だいたい私は嫌われ者だ。つきあっても、いいことなど何もないぞ」
「ぬしはなァ、ぬしが思うておるより、皆に好かれておるよ」
「そんなわけがあるか」
「少なくとも、われは好きよ。われが豊臣にいられるは、ぬしがたいそう、よく口添えしてくれたからであろ」
「それは」
佐吉はチラリと紀之介の表情をうかがうと、
「貴様が秀吉様の役にたつ男だと思ったからだ。他意はない」
「ぬしは私心がないゆえなァ。すがすがしい、実によき男よ」
「知らん」
佐吉は顔から掌をはずした。だが、すぐそっぽを向いて、
「私のことなどどうでもいい。私は、秀吉様の理想のために生きているのだ」
「豊臣の理想か」
「秀吉様は、このひのもとを救おうとなさっている。戦乱をおさめ、飢えをなくし、皆を富ませ、たいらかな国を目指しておられるのだ。群雄割拠などと、卑俗な武将どもの私利私欲を美化していては、万民の幸福などありえない」
豊臣が進めているのは、諸外国の侵略をはねのけられるだけの、訓練された兵力の維持だ。そのために兵農分離を試みている。天下統一を目指しているのは、各国の流通経路を強化するためだ。もし飢饉が発生しても、貨幣経済が浸透し、物資を運ぶ道が整備されていれば、他地域の収益や食料で、飢えた者をすみやかに救うことが可能になる。
《秀吉様こそ、ほんとうに私欲のない方だ》
最底辺からその身ひとつで成り上がってきた男でありながら、野心でギラついておらず、情が深く、真実ひのもとの現状を憂いている。間近で見ている三成は、日々、主君を尊敬する心を深め、己もそうありたいと願っている。
紀之介は佐吉のかたわらに腰を下ろした。
「われも、豊臣の理想を美しく感ずる。それは佐吉と同じよ」
「そうか」
「ただ、万人が納得する幸福というのは、なかなかに難しいことよの」
紀之介は、佐吉の横顔を見つめながら、
「佐吉。自分の身におきかえて考えてみよ」
「なにをだ」
「ひのもとが、たいそう住みようなったとしよう。だが、それでもわれが、ぬしの目の前で泣いておったら、ぬしは幸せか」
佐吉は眉を寄せた。
「紀之介が泣いているのに、いい心持ちでいられるわけがないだろう」
「われも同じよ。ぬしが苦しんでおったら、他のひのもとすべての者が幸せであろうとも、われはなれぬ。人というのは、そういうものよ。それを忘れてしもうては、豊臣の理想もひろまらぬゆえなァ」
佐吉はふっと頬を染めて、
「紀之介は、私が泣くのが嫌か」
「嫌にきまっておろ。可愛い佐吉を泣かせる者を、ゆるしてはおかぬ」
佐吉はさらに赤くなって、
「私は泣かされたりしない。紀之介よりも強くなる」
「そうむきにならずともよい。先もゆうたが、太刀筋はよいのだから、いずれわれなど追い抜いてゆくであろ」
「いずれとはいつだ」
「いずれよ」
「紀之介」
佐吉は立ち上がった。
「それまで私を待っていてくれるか」
「待つ? 何をよ?」
「貴様と寝たい」
紀之介は目を瞬かせ、一瞬言葉を失った。だが、すぐ穏やかな笑みを取り戻し、
「いきなり何をいいだすやら。そんな戯れ言、ぬしらしゅうもない」
腰のあたりを払って立ち上がる。
「私は本気だ。出会った日から、好きだった」
「さようか」
「一本とれるようになったら、紀之介を抱きたい」
紀之介はため息をついた。
「やれ、われより強くなれば、無理強いできるということか」
「そうではない! 紀之介を守れるだけの力がついたら、紀之介においついたなら、私と契りを結んで欲しいといっているのだ」
紀之介は、サラリと佐吉の頭を撫でた。
「われはぬしが好きよ。ぬしといるのが楽しい。それだけでは満足できぬか」
「紀之介」
「われは知っておる。ぬしはほんに、優しき子よ。困っている者があれば、迷わず助ける。父を失い、行き場をなくして母と途方に暮れていたわれを救ってくれたのは、他の誰でもない、ぬしであった」
「さっきもいったろう、私は豊臣のために」
紀之介は首をふった。
「寺小姓であったぬしが豊臣に望まれたのは、有名な話よな。喉が渇いてたまらぬという見知らぬ男に、ぬるくわかした湯でいれた茶をもっていったからよの」
「それは」
「湯を少しずつ熱くして、男の渇きをとめつつ、最後にうまい茶を少しいれて出すとは、寺小姓がうまくやった、秀吉様と知っていたのだろう、などと噂する者があるの。だがそれは、半分しか佐吉をわかっておらぬ」
「どういう意味だ」
「喉が渇いておるというなら、冷たい清水を運んでもよかったはずであろ。だが、別の土地からきた者であれは、生水にあたるかもしれぬ。茶であれば一度はわかす、多少ぬるかろうと心配はない、と考えたのであろ? ぬしはな、うまくやろうなどと、己の利など考えておらなんだはずよ。真心からでた心づくしであったゆえに、豊臣に呼ばれたのよ。言葉の足らぬところも多少あるやもしれぬが、ぬしは常にひとの幸を望んでおる。その澄んだ瞳は心のあらわれ、立身出世のために主君に媚びる者とは、あきらかに違うておる」
「かいかぶるな」
すると紀之介は、佐吉にすっと背を向けた。
「ぬしは清い。われとは違う。ここに来る前に、ぬしがたいそう穢らわしいと思うような目に、幾度もおうておる。焦がれてもらえるほど、立派なものではないのよ」
一瞬、空を見上げると、先に立って歩き出した。
「佐吉。疲れておろうが、喉を通らぬなどといわず、夕餉は残さず食いやれ」
その背に漂う暗い影に、佐吉は身震いした。
紀之介のつよさの理由が、なぜ今の自分が敵わないのか、解ったからだ。
くぐった修羅場の、数の差だ。

その夜も二人は、布団を並べて横になった。
紀之介はいつも通り、静かな寝息をたてはじめた。
佐吉も最初は目を閉じていたが、ふと目を開け、薄闇の中で、紀之介の寝顔を見守った。
抱きたい、と決死の思いで告白したのに、まともに受け取ってもらえなかった。
しかも、安心しきったこの様子――今の佐吉では、紀之介を無理矢理どうこうすることはできないのだから、当たり前かもしれないが。だいたい、紀之介にとってはすでに、誰かと肌身を重ねることなど、さしたる重大事ではないのだ。
しかし、佐吉は違う。
紀之介を抱きたいという思いは、佐吉に芽生えた、はじめての人間らしい欲だった。
佐吉は、食べることにも眠ることにも執着のない、子どもらしくない子どもだ。
味の善し悪しはわかるくせに、あまり食べたいと思わない。朝晩の膳が片付かぬと、用意してくれた者に迷惑がかかるから食うのである。普通なら眠くて仕方のない年頃のはずなのに、遅くまで起きていると灯火が無駄になるから横になるだけだ。
私心がないというより、生への執着がない。生き物として大切な何かが欠落している。
秀吉が死ねといえば、佐吉は死ねるだろう。だがそれは忠義心からではない。それが己のつとめとあれば、命などどうでもよいと思っているからだ。
むろん、秀吉はそんな命令をくだしたりしない、佐吉も自ら死のうとは思わない。
秀吉は、佐吉が憧れるに値する輝ける理想であり、佐吉にとってこの世に完璧な親というものがあるとするなら、それが秀吉だった。
そして紀之介は、佐吉にとっては実の兄より慕わしい、大切な朋輩だった。
その二人が自分を認め、大事にしてくれているからこそ、佐吉の中にある欠落がうまる。呼吸ができる。まっすぐに立っていられる。共にあるだけで、身も心も満ちる。
だから紀之介が、自分を可愛く思ってくれているのなら。
われの佐吉を泣かせる者はゆるさぬ、といってくれるなら。
この思いを、受けて欲しい。
《私だって、紀之介を泣かせる者など、ゆるしはしない》
傍からみれば、それは希なる美しき友情だが、佐吉本人は、その感情のほの暗さを知っている。
独占欲だ。
紀之介を泣かせてよいのは、私だけだ。
紀之介のすべてを己のものにしたい。
あられもなく乱れる紀之介が見たい。淫らに狂わせたい。紀之介が私を求めてねだり、他のことなど考えられないようにしてしまいたい。
あきらかすぎる欲望である。
むろん最初は、紀之介をそのような目で見てはいなかった。
自覚したのは、あの日から――。

「なんなんだ、これは」
翌朝使うつもりの袴を出して、腰板のあたりが裂けているのに気づいた佐吉は、思わず声を出してしまった。誰かの嫌がらせか、それとも熱心な稽古で布が弱っていたのに気づかなかった、己の手入れの悪さのせいか。急ぎ繕わねばと思った時、紀之介が佐吉にのんびりと声をかけた。
「佐吉、この馬乗袴な、われには丈がいまひとつ足りぬのよ。さほど着古してもおらぬし、よければぬしの稽古着にでも、使うてくれぬか」
紀之介の心遣いがありがたく、佐吉は「すまぬ」とそれを受け取った。
「試しにつけてみずともよいか? ぬしは細身ゆえ、それでも余るやもしれぬ」
「そうだな」
丁寧に畳まれていた袴は、清潔そのものだった。なんの匂いもしない。
なのに、それを身につけたとたん、佐吉は身体の芯が熱くなるのを感じた。
《これが、紀之介を包んでいた袴……》
わきあがる何かを堪えるのが精一杯で、佐吉は言葉を濁すと、紀之介を残して、いそいで厠へ逃げこんだ。
《私は、紀之介を……いや、会った日から好ましく思ってはいたが、こんな……》
もらった袴を急ぎ脱いで汚さぬようにし、手淫で鎮めようとしたが、脳裏に紀之介の笑顔が眩しく思い浮かび、一度抜いても熱がひいてくれない。
柔らかそうな口唇を吸いたい、抱きしめたい、めちゃくちゃにしてしまいたい。
《いや、紀之介が、私のような子どもなど、自分より弱く情けない者など、相手にするわけがない。今の紀之介なら、どんな相手でも、思いのままに選べるのだ》
そう思うとひどく悲しくなり、ようやく腰が落ち着いたが、ふと気づいた。
《なぜ、最初から諦めなければならない? 私が紀之介につりあうようになればよいのだ。いくら紀之介が年長だからといっても、永遠に追いつけないことなど、ないはずだ》
それから佐吉はずっと考えていた。
自分が紀之介に追いつける日がきたら、この思いを告げよう。
抱きたいと伝えよう。
私はきっと、紀之介と結ばれるためにうまれてきたのだと。

だが結局、思っていたより早く、抱きたいと告げてしまった。
佐吉は身を起こし、眠る紀之介にそっと顔を近づけた。
「もう告げてしまったからには、諦めはしない。紀之介が、私にすべてゆるしてくれるまで、口説き続けるからな」
色気のない宣言を、吐息だけで囁くと、佐吉は己の布団に行儀良く戻った。
寝込みを襲うようなことはしたくない。
何度も理不尽な目に遭ったといっていた。そんな汚れた連中と一緒にされたくはない。
身も心を結ばれるためには、正攻法でゆくしか、ないのだと。

そして、ついに肌身を重ねることをゆるされた日、これが永遠に続くようにと願い――。

*      *      *

「すまぬ、三成。われはぬしを試してしもうた」
その夜、枕元に友の姿を見出して、三成は驚いた。
思わずすがりついていた。
すまぬことなど、何ひとつない。試された、などと怒ってもいない。
吉継が怒りをほどいてくれるなら、それでいい。
「刑部が生涯、私から離れないと、約束してくれなければ」
「あいわかった。われの命の続く限り、ぬしと一緒にいてやろ」
淀みに淀んでいた三成の心は、その言葉で浄化された。
久しぶりに味わう吉継の肌が、三成を癒した。
重ねる肌の熱さから、吉継も三成を強く求めているのが伝わってきて、三成は幸せでたまらなかった。
吉継と共にあることで、少しでもまともでいられるのだと、あらためてわかった。二度と離れられない、いや、離さない。こうしてずっと睦みあっていたい。時のゆるす限り。
そう願いながら何度も溶けあって、三成は深い満足感にひたった。
だが、情熱が落ち着き、吉継が目を閉じてしまうと、三成の中に再び、昏いものがたちあがってくる。
《なぜ、私は刑部の幸せを願えなかったのだ》
己の胸に身を伏せている吉継が、愛しくてたまらないというのに。
「……三成」
低く呼ばれて、三成はドキリとした。
「どうした、刑部」
「眠れぬのかと思うてな」
「私はいい。刑部こそ、漆黒では身を休めていろ」
「ぬしが起きておっては、落ち着いて眠られぬ」
「そうか、すまない」
三成は吉継の背を撫でた。
「私はいつも、自分のことしか考えていないな……汚らしい欲で、刑部をむさぼって、それでもまだ、欲しいと思っている」
吉継は笑った。
「汚らしくなどない。好きというのは、そういうものよ」
「刑部?」
「ぬしの肌をわれしか知らぬと思うと、嬉しゅうてたまらぬ。誰にも渡しとうないと思うのよ。ほんに、勝手なものよの」
三成は天啓にうたれたかのように震えた。
そう、自分は吉継の不幸を望んていたわけではなかった。
ただ、自分だけのものでいてほしい、と願っていただけだ。
「私をゆるしてくれるのか」
「ぬしが汚らしいというなら、われの方がよほどよ。病に身を冒されても、ぬしが欲しいと思う心を、とめられぬ」
三成は喜びに息がとまるかと思った。
身体中に力が満ち、疲れも飢えも忘れてしまった。
「今でも私を、可愛い佐吉と思ってくれるのか」
「ぬしはもう立派な大人よ。われの大事な三成よ。かわらぬのは、泣かせとうない、ことだけよ」
三成は吉継を抱きしめながら、かすれた声で囁いた。
「私は、刑部を泣かせたい、と思っているかもしれないぞ」
「ぬしにならヨイ。いや、むしろ、われは……」
吉継は呟きを三成の胸に埋め、肌を吸う。
「ああ。夜明けまで、まだ間があるな、刑部」
そして闇の中、二人はふたたび、その影をひとつにして――。

(2012.2脱稿)

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Written by Narihara Akira
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