『私の欠片』
頭の中で声がする。
「いい小説が本当に書きたい?」
ほぼ毎日、いや、ひどければ一日に何度も声がする。
それに対する脳内の回答は通常、「書きたい」なのだが、「何もかもどうでもいい」の時もある。朝っぱらから疲れがピークの時である。思考を放棄している。
しかしそもそも、頭の中でこういう声がすること自体が病気ではないのか。というか、まごうかたなく病である。
いい小説が何かという定義については、ここでは自らに問わない。人に問われた時、若い頃は「読んだ人が、やられた!と言う小説」だと答えていたが、今は「読んだ人がなんらかお土産をもってかえれる小説」と言っている。だが実際に書いている時、意識している余裕はない。スタート地点を決め、登場人物を揃え、目的地はあちらと決めれば、あとは野となれ山となれである。頭の中で登場人物がしゃべり出せば、必ずゴールできる。没入さえできれば、キャラクターをコントロールする必要さえない。
そもそも、なぜ小説を書いているのかという話だが。
若い頃「書かないと息ができないから」と正直に答えたところ、「そういうのは偉い先生のいうことだ」と叱られたことがあり、「何を言ってるんだろうな、この人は」と思った。おそらく彼は「ターゲットを絞ってきちんと売り込め」と言いたかったのだろうが、私は出たいジャンルと書ける物に乖離がある。そんなことを言われても、どうしようもできない。
とにかく、一ヶ月なにも書かないでいると、精神に曇りが出る。私にとって小説を書くという行為は、不条理な現実というものに対峙する時、その輪郭をはっきりさせることだ。つまり、書かないでいると、輪郭はぼやけてくる。なんらかの問いをたてて、それに対する答えを出さない限り、私の精神は混沌に沈んでいく。「いい小説が本当に書きたい?」に対して「書いてるよ」でないと、心の清明さが保たれない。
昨年の終わり頃、パソコンの調子が悪くなった。代替機を用意してあったので、インターネットは問題なかったが、代替機も徐々に調子が悪くなってきた。そもそも私も調子が悪かった。二〇二〇年のパンデミック以降、かからないよう用心しながら暮らしてきたが、無症状でも後遺症がでる病気である。二ヶ月ぐらい何もできなくなる時期が、二度ほどあった。恐ろしいほど頭が悪くなる。仕事でありえないミスを連発する。たとえば、見たはずなのに数字を一桁間違えている。書いたはずの自分の名前が抜けている。普段なら正確にできる報告の手順が飛ぶ。疲れが抜けず、ずっとだるいままだ。
毎日鼻うがいをするようになったら、だるさが軽減してきたので、後遺症に間違いないと思うのだが、職場が繁忙期になると寝不足になり、鼻うがいでも追いつかない。こうなると「これを書く」と思って用意をしても書きだせない。親の介護をしながらでも書けるかもしれないと、数年前からポメラを導入したが、充電ケーブルをだめにしてしまった。以前のモデルなので、もう純正ケーブルを取り寄せることはできず、仕方がないので汎用のケーブルを取り寄せて充電している。ポメラで書くのも億劫となると、PCに戻るしかないが、代替機もネットにつながらなくなった。あきらめて、年が明けると新しいPCを買った。新しいワープロソフトも買った。読み上げツールの声は、五年前のバージョンの方が好みだったが、素材さえそろえば、デザインソフトもちの家族や知人のデザイナーに頼ることなく、同人誌の表紙まで作成できるところまでたどり着けた。つまり、環境は整った。「具合が悪い」と記していた作家だ。その昔、角川事務所が作品映画化の許諾をもらいに家に行くと、本人が出てきてびっくりしたというエピソードすらある(とっくに死んでいると思われていた)。けれど彼は、結局八十近くまで生きた。
とはいえ自分をそれになぞらえるつもりはない。彼ほど長生きできそうにない。数年前に大きな病気をして、残された年数が多くないことに気づいた。ぼんやり年をとってきてしまったが、定年まで指を折って数えられるようになっている。が、そこまで生きているかもわからない。若い頃からの友人の何人かは「なりはらさんが今もずっと書き続けているのは素晴らしい、いつでも応援している」と言ってくれるが、そんなにいいものではない。書けていないわけだし。というかこれ以上体力を削ってまで書く意味があるのか? 書きたいネタは残っているのか?
シリーズ物を書く時、テーマがあった。弱い者が理不尽な目に遭い、救えなかった悔いを動機として捜査が始まるミステリ漫画をいくつも読んでいるうち、「どうしてこの女の子は殺されなければいけないんだ? 助けを求めていたのに。作品の動機付けとしては明快でも、もううんざりだ。そもそも法律で救うことができなくても、私たち無力な個人であっても、最悪の事態を切り抜ける知恵や方法があるんじゃないか?」という気持ちがわいてきた。救われるべきものが少しでもマシな状態になる手はないのか――それが『彼の名はA』という連作になり、同じテーマは『美少年興信所』シリーズにも受け継がれている。
これは私の大きな執筆動機となったが、単発の作品はそうではない。若い頃からのネタ帳がある。なにか急に書くことが発生すると、そこへ戻ってみる。うっかり同じネタを何度も書いてしまうことがあるのはそのせいで、使ったら使ったとメモしておけ、という話なのだが、最初の意図と違った形になることもあって、消すことができない。そこで長く熟成されたものは、ひとつきっかけを与えられれば、商業アンソロジーに掲載されたり、プロに翻訳されて海外で読まれたりすることもある。なので、何か気になることがあればネタ帳に追加していく。「そうだ、まだあれを書いてなかった」と思い出して書く。それは私の中にある何かの欠片で、それがきっかけを与えられて結晶化する。それが読まれる段階に至って、私の中にある何かが解放される。
フィクションはフィクションであって作者となんの関係もない、と言う人がいる。しかし私の場合、純然たる創作部分は大概において現実と思われ、実際に我が身におきたことは私の都合のいい妄想と判断されることが多い。いや、どんな作家でも作品と作者が完全に乖離することはないはずだ。何が作品に混入するかわからないが、例えば生い立ち、家族、通った学校、趣味嗜好、世界観人生観、そのすべてから逃れて創作することはできない。私は意図的に自分の要素を入れ込む時もあるが、そうしなくてもどうせ私の作品になってしまう。それは時間のない時でもある時でも同じだ。どこかに私の欠片が含まれている。
書かなくても大丈夫な身体になったのなら、自分はもう小説を書かなくてもいいのか、と思い始めていた春先、知人から原稿依頼が来た。二次創作で数百字程度の小説、キャラクターの関係性を描きつつも、性的な要素や死亡ネタはなしで、という依頼で、「試しにひとつ書いてみますが、駄目だったら教えてください」と返事しておいた。不治の病の人を扱って、死にネタを封じられるのは厳しい。そもそも彼が病人だから好きなので(『水晶の舟』を読んだ方はご存じかと思うが、私は重度の死にかけフェチで、死人や難病物には何の興味もないが、病の人が己の運命に陶酔することなく、恐ろしいほどのエネルギーを発して生きる姿に強くひかれる)、そこを除外して書くことは可能なのか? しかも字数制限が厳しい。短くまとまるネタはあるだろうか、と思いながら書き始めた。
初稿ができあがった。短いから書き始めればすぐだ。依頼者に送ってみた。OKが出た。あとは締め切りまでに、すこし手直しをすればすみそうだ。
その途端、ぼやけた世界は輪郭を取り戻した。ネタ状態で数ヶ月とまっていた、新刊用の書き下ろしに着手できた。集めた資料を読み上げて細部を詰め、入稿予定日の前に書き上げた。吉野朔実なら「私の中に風が通る。これが私」というところだ(いま『少年は荒野をめざす』が本棚から引っ張り出せないので、違っていたら申し訳ない)。
つまり。
書かなくていい身体になっていたわけではなかった。
目の前の世界がぼやけすぎていて、何も見えなくなっていただけだった。
ただ、私の中に何かの欠片が残っている限り、まだ、書き続けていられるのだ。
(2025.5脱稿、ペーパーウェル14:テーマ「欠片」参加作品)
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Narihara Akira
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