『雪の女王』


玄関へ行くと、同級生の紫乃ちゃんが立っていた。なぜか泣いている。
「美咲ちゃん、ごめんね。約束もしてないのに急に来て。目を洗わせてほしいの。歩いてたら、目にゴミが入ったみたいで、痛くて。泣いてもとれなくて」
「いいよ。どうぞ」
洗面所で目を洗った紫乃ちゃんに、
「念のためにお医者さんに行こうね」
近所の目医者に連れていこうとすると、紫乃ちゃんは首をふった。
「だめだよ、お金ないから。もうそんな痛くないし、診察券とか、保険証とかもないし」
「後でいいよ。心配だったら、親からも先生に言うから」
紫乃ちゃんは顔色を変えた。
「それはだめ、絶対だめ」
「じゃあ、紫乃ちゃんがいつも行ってる目医者さんに行こう」
「かかりつけの目医者さんなんてないよ」
「じゃあ同じだよ。いこう。お金は私が貸すから」
今年に入って急に目が悪くなったので、目医者にはしょっちゅう行っていた。だけどふつうの十歳児は、あまり行かないらしい。
紫乃ちゃんの手をひっぱって、優しいおじいちゃん先生のところに連れていく。
「すみません、お友達が、うちで遊んでて、なんか目にゴミが入ったっていうんです。ちょっと診てもらえませんか」
「そうかい。美咲ちゃんの友達なら、今日は特別に診てあげよう」
先生が言うには、もうゴミは入っていないけれど、目に小さな傷ができているという。何日か目薬をさすように言われ、帰された。
気になるので、紫乃ちゃんを家まで送っていくことにした。
「ごめんね、美咲ちゃん。あのね、このこと、絶対に親に言わないで」
「それはいいけど、傷ができるほどのゴミなんて、どこで入ったの」
「悪意のかけらが降ってきたの」
「なにそれ。雪の女王?」
「そうかも」
それきり紫乃ちゃんは、しばらく口をとざした。
家に着くと、ようやく「待ってて」と言われた。すぐに借りたお金をもって出てくる。
「美咲ちゃん、ごめんね。美咲ちゃんのお家にも言わないでね」
「私は言わないけど、目医者がポロッと親に言っちゃうかもしれないから、誰にきかれても、うちで遊んでて目が痛くなったからってごまかしておく」
紫乃ちゃんは弱々しくうなずいて、家の中に戻っていった。


「さてと。このままにしてて、いいのかな?」
よくはない。いったい、親に知られたらまずいところってどこ? 紫乃ちゃんは大胆なところもあるけど、基本的にはいい子だ。すすんで危険な場所に行くなんて、考えにくい。
そもそも、そんなところ、この近所にあったっけ。ちょっとぶらぶら、してみようか。


家に戻ると、庭の奥の工房へ行った。父はだいたい、昼はここで作業している。
「お父さん。夢の湯、工事してるみたいだけど、あそこ、なくなっちゃうの」
父は町内会の副会長もやっているので、そういうことには詳しい。
「ああ。ボイラーの調子がよくないから、いったん閉めると言ってたよ。ただ、もう一度やるかどうかはわからない。あそこは小さい銭湯で、元々おばあさん一人でやってたからね。跡継ぎのあても、ないんじゃないかな」
なるほど。危険かわからないけど、あそこの銭湯、工事してたな、と思って行くと、煙突の掃除をしているところで、おばあさんが一人、それを見守っていた。
「すみません。さっき、ここに、紫乃ちゃんがきませんでしたか」
「何の話。トラブルはごめんよ」
おばあさんはひどくいやな顔をして、すぐにそっぽを向いてしまった。
極端な反応だ。
つまり、紫乃ちゃんはここにきて、このおばあさんと掃除を見てた。その時、ゴミのかけらか、錆が降ってきて、目に入った。それはただのゴミじゃない――アンデルセンの『雪の女王』にでてくる、心のゆがみを拡大する悪魔の鏡、その破片のような、悪意のかけら。
紫乃ちゃんはなんで夢の湯に来たんだろう。家から五分もかからないところに、別の銭湯があるから、湯冷めしちゃうようなところに来る必要はないのに。
私が考え込んでしまったので、父はけげんそうに、
「どうしたんだい? 夢の湯で気になることでも?」
「ううん。ところでお父さん、それ、何の仕事?」
父は発明家だ。会社員でもあるので、でかけることもあるが、だいたいは家で何かつくっている。会社の仕事以外も、頼まれればやる。
「頼まれ物のサンプルでね。でも、先方から、かわいらしすぎるって返されてきてね。どうしたらよくなるか、考えてたんだ」
「そうなの? きれいなのに」
「なら美咲にあげようか。美咲にしか使えないようにもできるよ」
「わあ嬉しい! ありがとう」


眼鏡の調節をしに、おじいちゃん先生のところへ行った。先生は視力検査をした後、
「美咲ちゃん、暗い部屋で本を読んだりしてないね? ちょっと近視が進んでる」
「関係ないですよ。紫乃ちゃんだっていっぱい本を読んでるけど、目が悪くなったりしてないし」
「こないだのお嬢さんか。あの子はおばあちゃんによく似ているねえ」
「紫乃ちゃんのおばあさんを知ってるんですか」
「うん、まあ……そういうことか。夢の湯に来たんだね。それで厭な目にあったか」
「どういうこと?」
「あの子のおじいちゃんが昔、夢の湯のおばあちゃんともめたんだよ」
「もめた?」
紫乃ちゃんのおじいちゃんは紫乃ちゃんの家の近くに住んでる。紫乃ちゃんはおじいちゃんが大好きで、よく遊びに行ってるので、私も会わせてもらったことがある。なかなかハンサムで、優しい人だ。孫が可愛くて仕方がないみたいで、紫乃ちゃんが新しい本を持ってたら、お小遣いをもらったんだとすぐわかる。
「いやな噂をきいて、確かめにきたんだねえ。夢の湯のおばあさんは、あそこをたたんで、遠い親戚に身を寄せるといってたから、もう気にしなくていいのになあ」
「あのおじいちゃんが、どうして人とけんかなんて」
「大人の男と女には、いろいろとあるんだよ。まだ眼鏡を変える必要はないけど、進み具合が気になるから、また来月おいで」


なんか変。
おじいちゃん先生は、紫乃ちゃんのおじいちゃんが、夢の湯のおばあちゃんと、痴話げんかしたみたいな言い方をしたけど、紫乃ちゃんのおばあちゃんは、病気で早く亡くなってる。だから別に、誰とつきあったっていいじゃない? それとも、おばあちゃんが生きてた頃の話? でも、もしおじいちゃんが、夢の湯のおばあちゃんと浮気してたなら、紫乃ちゃんは確かめようとしないと思う。そういう話は信じたくないタイプだ。
だとしたら?


「今日、学校が終わったら、紫乃ちゃんの家に行ってもいい?」
「いいけど」
そう言いながら、紫乃ちゃんは視線をそらした。何日かずっとこんな感じだ。
「今日、お父さんとお母さんは? いつも通り遅い感じ? 二人っきりで話ができる?」
ハッとした顔の紫乃ちゃんに、
「見せたい物があるんだ。家に帰ってから行くから、ちょっと待っててね」


「美咲ちゃん、その大きな荷物、なに?」
ドアをあけた紫乃ちゃんは、私がしょったリュックをみて、首をかしげた。
「お父さんの作品。もらったの。ねえ、中に入れて」
「うん」
紫乃ちゃんは、私を台所へ連れて行った。紅茶が出る。クッキーが出る。
「このお茶おいしいね」
「ありがとう。見せたい物ってお父さんの発明品だったの」
「発明品ってほどじゃないんだけどね。何に見える?」
私が取り出した物をみて、紫乃ちゃんは首をかしげた。
「ブックエンド? ずいぶん大きいけど、でも可愛いモザイク」
「可愛いでしょう。実はね、これ、ブックエンドに見えるタイムカプセルなの」
「タイムカプセル?」
「タイムカプセルって、土に埋めるのが多いじゃない? でも、土に埋めちゃうと、時間がたつと中身がぬれちゃったり、腐っちゃったり、見つからなくなっちゃったりするのね。本当に大切なものなら、家の中に置いておいた方がよくないかなって」
「ふうん。金庫みたいな感じなのね」
「鍵以外に、お父さんに指紋認証の設定をしてもらって、私にしか開けられないようにしてもらったの。それでね」
私はぐっと紫乃ちゃんに顔を近づけた。
「紫乃ちゃんの秘密を、私にちょうだい」
紫乃ちゃんは固まってしまった。
「私には、秘密、なんて」
「うん。亡くなったおばあちゃんの秘密だよね」
「美咲ちゃん、それ、どうして」
「おじいちゃん先生にきいたの。紫乃ちゃんのおじいさんが、夢の湯のおばあさんと喧嘩したことがあるって。男と女にはいろいろあるって。でも、なんか変だなと思って。それで、夢の湯のおばあさんの話を、他の人にもきいてみたんだけど、紫乃ちゃんのおばあちゃんと同じ女子校に通ってたんだってね。それですごく仲良しだったって。そこまではよくある話だけど、結婚した後も、すごくすごく仲良しだったらしいよね。おじいちゃんに、内緒で。だから、おじいちゃんが怒った」
「……うん」
紫乃ちゃんは、自分の部屋に行って、ノートと古ぼけた封筒をもってきた。
「おばあちゃんのもの、ほとんど残ってないんだけど、こないだ、屋根裏にある本を読もうと思って掃除してたら、おばあちゃんの日記と、書きかけのラブレターが出てきたの。本当に好きなのはユメさんって書いてある。誰にもいえなくて、部屋に隠してた。こんなこと知ったら、おじいちゃん、ショックだろうなと思って。おばあちゃんのこと、ほとんど覚えてないけど、おじいちゃんが私のこと可愛がってくれるの、おばあちゃんに似てるからだって、親も言ってた。だから、信じたくなくて、夢の湯に行ってみたの。そしたら、解体工事してて。おばあさんがそれを見てて。それで、ユメさん?って話しかけたら、ユキノさん?って言われたの」
紫乃ちゃんはうつむいた。
「その時、ああ、ほんとなんだってわかったの。夢の湯のおばあさんは、今でもおばあちゃんが好きなんだって。それでつい、「おじいちゃんがかわいそう」って言っちゃって」
声が震えている。
「夢の湯のおばあさん、すごく怖い顔になった。それから「紫乃ちゃんか。ユキノさんの孫だね」って言った。「じゃあ、私はかわいそうじゃないの? ただ会いたかっただけなのに、二度と会うなって怒られて、本当に会えなくなった。ユキノさんもかわいそうだよ。あんなに早く亡くなっちゃうなんて思わなかった。本当に苦労したんだ。私ならそんな目に遭わせなかったよ」って。私、お母さんが「おばあちゃんが亡くなってから、おじいちゃんはずいぶん後悔したみたいよ。もっと優しくすればよかったって。だから毎月のお墓参りをかかさないのね」って言ってたのを思い出して……なんにもいえなくなって、空を見あげた。そしたら、急に目が痛くなって。がまんできなくなって、美咲ちゃんの家に……」
泣き出しそうになった紫乃ちゃんの肩を、ポンと叩いた。
「その日記と手紙、あずかるよ。このタイムカプセル、私しか開けられないから」
「そんなの悪いよ」
「でも、おばあちゃんの思い出を、捨てちゃったり燃しちゃったりとかはしたくないんでしょ。そのつもりだったら、紫乃ちゃんの性格だったら、とっくに処分してるはず」
「でも」
「じゃあ、こうしない? タイムカプセルの鍵の方は紫乃ちゃんに渡す。指紋認証は私のままにしとく。二人そろわないと開かないようにすれば、安心じゃない? 二人そろえばいつでも開けられるから、また見たかったら開けるし。開けなくていいなら、私、ずーっとしまっておく。何年でも、何十年でも」
「私たち、それまでずっと、お友達でいられる?」
「もちろん!」
「じゃあ、これ」
渡されたものをタイムカプセルにしまって、鍵を紫乃ちゃんに渡す。
「もし紫乃ちゃんが、友達をやめたくなったら言って。これは返すから」
「そんな日、来ないよ。私、美咲ちゃんだから、ぜんぶ話したし、渡したんだよ」
私は右手の小指を差し出した。
「信じてくれてありがとう。あのね、私はユメさんと違うから。紫乃ちゃん以外の誰から言われても、紫乃ちゃんと会うのをやめたりしない。絶対。約束する」
「指切りなんて子どもっぽいことしなくても、信じてるから大丈夫だよ」
そう言いながらも、紫乃ちゃんは指をからめてくれた。
「じゃあ、約束ね」


そう、あの夢の湯のおばあさんだって、こんな日がたぶん、あったはずなのに――。


(2021.11脱稿)




《折り本バージョンはこちら。BOOTHでダウンロードできます》





《創作少女小説のページ》へ

copyright 2021
Narihara Akira
http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/