「なんだい」と言って、私はチラ、と相棒を見上げた。
「今のは本当に呼び鈴が鳴ったのかい? いったい誰だい、
今夜みたいな晩に訪ねてくるのは。
君の友達にも物好きがいるらしいね」
「僕の友人といえば、君一人だよ」と彼は答えた。
「僕は来客を好まない」

『五つのオレンジの種』 Sir Arthur Conan Doyle


『王様のシャツ』

1.

「Aさん、その髪どうしたんですか!」
その夕方、《J》を訪ねた君子は、バーテンダーの変貌ぶりに思わず声を上げた。グラスを磨く姿も黒いチョッキもいつも通りだが、ウエスト近くまで伸ばしていた長い薄茶の髪を、肩に届くくらい短く、きっちり切り揃えてしまっているのだ。
「あ、キミさん、いらっしゃい」
Aはいつもの微苦笑で答え、タンブラーに水を注ぐと奥の席へ君子を招いた。彼女は目を丸くしたまま尋ねた。
「なんでいきなり、そんなに短くしちゃったんですか?」
「ただの気分転換だよ。この長さだとおかしいかな」
おかしいことは少しもない。Aは完全な女顔で、どんな髪の長さでも美人モデルにしか見えないのだから。少しでも女らしさを減らしたいと思ったら、モヒカンにでもするしかないという完璧な美貌の持ち主なのだ。
しかし、これはどういう心境の変化だろう。外はもう十二月、髪を切るには適切な時期ではない。姉の宵子も長髪だが、今更彼と区別をつけなければならないほど似てはいない。あの火にあっても切らなかった髪をどうして−−と言葉に詰まった君子がその場に立ち尽くしていると、彼はやれやれと肩をすくめて、
「じゃあ、もう一回、なんで切ったかきいて」
「なんで切ったんですか?」
「ハサミで」
古典ジョークを真顔で言う。今度は君子が肩をすくめた。
「そうね、プライバシーでした。それにどうせ、いつもみたいに、本当の理由は教えてくれないんでしょう」
Aはかなりのおしゃべりだが、自分の事となると、途端に口が重くなる。どんな女性が好きかというような軽い質問でさえ、《美人。美人なら僕みたいな顔でもいい》などとはぐらかす。思い出話をしてくれる時もあるが、本当かどうかはいつも怪しい。裏で情報屋などといううさん臭い仕事をしている上に、他人を煙にまくのが得意中の得意という男である、それ以上何か尋ねても、すべて無駄に違いない。
「だって別に、深い理由なんてないんだよ。さあ、お席へどうぞ」
やはりさらりと流されてしまった。君子も無邪気を装って、
「はあい。今日の夕食はボンゴレがいいです」
「かしこまりました」
Aがカウンターの中に戻って料理を始めると、君子は鞄から読みさしの文庫本を取り出して読み始めた。
ここは、落ち着く。
大学の帰り、特にすることもないが、誰も待っていない下宿に帰るのはいかにも寂しいと思う時、この店に来る。もっと夜遅い時間になると、酒を飲む男達が入ってきて違う雰囲気になってしまうのだが、夕暮れ時の《J》は、レストランとも喫茶店とも違う洒落た場所だ。特に豪華な内装でもない、ごくありふれたものがあるだけなのに、安っぽい感じが少しもしない。店の隅々まで掃除が行き届き、磨きあげられているせいかもしれない。少々薄暗いのが難点だが、席で本を読んでいても勉強をしていても咎められることはない。いつも静かなので、どんな作業もはかどる程だ。今は特に中途半端な時間なので、他の客もいない。暖房もききすぎる程でない。君子はいつしか読書に熱中していた。Aが脇にきて囁くまで、自分がどこにいるかも忘れるほどに。
「ボンゴレ、お待たせしました」
「え、あ」
君子は一瞬応答に詰まった。本の世界にいたのもあるが、Aの優雅な折り屈みについ見とれてしまったのだ。こういう時の彼は言葉遣いも丁寧だし、一流レストランのボーイよろしく、うやうやしく皿をサーヴする。
「御注文は以上でよろしいですか」
そう尋ねられた時、ふと君子はあることを思い付いた。
「じゃ、追加してもいいですか?」
「何になさいますか」
Aが軽く首を傾けると、君子はすうっと声を低くした。
「……他のお客さんがくるまで、こっそり歌」
「あ」
Aが素顔に戻った。
彼は歌うのが好きだ。機嫌がいい時は鼻歌が出るタイプだ。君子の前でも歌ってくれたことがある。結構上手い。姉の宵子や他の客がいる時には歌わないが、君子しか店にいない時には、楽しそうに短いフレーズを繰り返している。彼女の前では、Aはかなりくつろぐらしい。一度裏の仕事を頼んだことがあるのだが、それ以降友達扱いをしてくれているようで、《J》はラジオや音楽をあまりかけないし、今は誰もいないのだから、Aのアカペラも御馳走としてつけ加えてもらってもいいような気がする。
だが、Aはすぐに首を振った。
「ごめん。今日はちょっとそういう気分になれない。出来ればパスしたいんだけど、駄目かな」
そういう彼の頬には薄い翳がさしていた。君子は慌てて手を振って、
「言ってみただけ。別にいいんです」
「うん。また今度ね。……ごゆっくりどうぞ」
Aは軽く頭を下げると、銀盆を抱えてカウンターの中へ戻り、再び黙々とグラスを磨き始めた。
なんだろう。
やはり今日の彼はおかしい。歌を歌わないのはともかく、全体的に沈んでいる。表情もぎこちない処がある。男が髪を切る心境がどういうものか女の君子にはよくわからないが、やはり何かあったのではないだろうか。
とりあえず食事にする。できあいを暖め直しただけでない皿は、美味しくてすぐに空になる。大事なところは姉の宵子が作っているのだろうが、Aの仕上げの腕も悪くない。
しかし、彼が君子の皿を下げにくる前に、もう一人、店に客が入ってきた。
「いらっしゃいませ。……あ」
そう言って顔を上げたAは、いきなり身体を凍りつかせた。猫が敵の前で毛を逆立てるように、全神経を尖らせている。
「見つけたわ、A」
入って来てそう呟いたのは、長い黒コートに身を包んだ若い女だった。
豊かな巻毛を背に垂らし、靴も鞄も沈んだ黒で揃えている。スタイルこそありがちなものだが、その存在感は圧倒的だ。小さな瞳に強い光をたたえ、巫女めく笑みを浮かべてAを見つめる。年は君子とさして変わらないだろうが、どんな老婆よりも訳知り風だ。
Aはグラスを静かに置くと、じっと相手を見つめ返した。
「どうやら見つかったみたいだね。それで、今度は僕が鬼になる番って訳か」
黒衣の女は臆することなく、Aの前のストールにすいと腰掛け、
「貴方と鬼ごっこするつもりはないわ。ただ、知らせに来ないといけないだろうと思って。王様のシャツは、まだ狙われてるって」
謎めいた言葉を吐く。Aは少しだけ瞳を細め、
「サイコさんがここに来たんだから、それはきっとそうなんだろうね。僕はやっぱり逃げきれなかったって事か」
「そうよ。私に見つけられるくらいなんだから」
「それはそうだね」
Aはようやく表情を緩めると、後ろの冷蔵庫から黒ビールとスパークリングワインを取り出し、冷やしてあった丈の高いグラスに同じだけ注いだ。
「サイコさん、ブラック・ヴェルベットをいつか飲んでみたいって言ってたよね。再会記念に一杯奢るよ。確かもう、未成年じゃなかった筈だし」
暗い底光を放つカクテルを相手の前に置いた。彼女の表情もぐっと和らいで、
「良かった。A、私のこと、まだ好きでいてくれるのね」
そう言ってグラスを手に取った。
「サイコさんを嫌ったことはないよ」
だが、そう言いながらもAの声はまだ硬い。ひたすらに新しいグラスを磨きだした。黒衣の女は飲み物に口をつけ、ふと、Aのおかっぱ頭を訝しげに見つめた。
「ねえ、もしかして、その髪……」
そう口にしかけた時、店のドアが開いた。
「Aちゃん、いるかい」
三人組の中年男が顔をのぞかせた。ケンさん、テツさん、ヤスさんだ。Aと宵子の親衛隊のつもりでいる常連である。今日はいささか早い御入来だ。
黒衣の女は、空にしたグラスを置いて立ち上がった。
「いい? 今日はもう帰るけど、忘れないで。……貴方の友達って言ったら、私一人よ」
鋭く言い捨てて、店を出ていった。
《貴方の友人は一人きり――そして、それは私》。
三人組は、気味悪そうに顔を見合わせた。
「なんだあ、ありゃ」
「Aちゃんの前の女かい」
「おっかねえ事を言うな、どういうつもりなんだ」
Aは慎ましく目を伏せていたが、皆の視線に問いつめられるとおどけた笑みを浮かべ、
「シャーロック・ホームズだよ。『五つのオレンジの種』って話に出て来る台詞でね、ホームズがワトスンに向かって、《僕の友達と言えば、君一人だよ》って甘い台詞を囁く有名な場面があるんだ。彼女はそれの真似をしただけさ」
などとごまかす。ヤスさんが首を傾げた。
「さっきの女の子が言ったのは逆だろ? もっととんでもない台詞だろ?」
Aは曖昧に口唇を歪め、
「だからさ、言い間違えたんだよ。逆を言っちゃうのはよくある事でしょう」
それだけ呟いて三人を席につかせた。彼らは納得いかないがしかたないという表情で座り、それぞれ注文をした。
君子も納得がいかなかった。席を立つこともできず、ずっと二人を見ていたが、あれはどうしたって尋常な雰囲気ではなかった。
「今日は宵子さんはまだかい?」
テツさんがそうきくと、Aはあれ、と時計を見上げた。
「うん。とっくに仕入れから戻っていい時間なんだけどね」
「はは、それを知ってるから来てるんだ」
ケンさんがニヤニヤ笑って他の二人を見る。三人が互いに目配せして、場の雰囲気が和んだ。
そこで君子は勘定書きを手にして立ち上がった。彼らが来たということは日がすっかり暮れているのだ。もう帰ろうと、Aに声をかけよう、とした瞬間、店の奥の電話が鳴った。
彼は軽く眉をあげて電話に歩み寄った。クロスで手を拭いて受話器を取る。
「はい、《J》です。Aは僕ですが……えっ」
彼の手が受話器を硬く握りしめた。
「はい。すぐにうかがいます……何か必要なものありますか。はい、はい……面会はできますね? はい。じゃ」
Aは受話器を置くと、青ざめた顔で店内を見渡した。
「ごめん。みんな来たばかりなのになんなんだけど、お店、閉めてもいいかな」
三人組が同時に叫んだ。
「どうした、Aちゃん」
「今の電話はなんだ」
「宵子さんか」
Aはうなずいた。その声は掠れていた。
「姉さんがはねられた……命に関わる程じゃないらしいけど、足を怪我してるって、今、病院から」
三人組は飛び上がった。
「何してるんだ、店なんか閉めちまえ」
「早く行ってやんなきゃ」
「俺達も行くよ。何かさせてくれ」
Aは目を閉じた。眉根を寄せて少し考えていたが、ひとつため息をつくと目を開いた。
「一緒に行ってもらった方がいいかもしれない。仕度をするから、少し待ってて下さい」
きっぱりと背を伸ばし、スルリと裏のドアに消えた。
三人組が自分の前を片付け始めると、君子は後ろから声をかけた。
「あの……」
「え?」
君子は、心をこめて三人を見つめた。
「私も、一緒に行ってもいいでしょうか」
「お嬢さんはAちゃんの友達かい?」
「ええ」
もし、さっきの女が言ったことが事実でないなら、私も友達の筈だ。
君子の気持ちは通じたらしい。三人はうなずいた。
「じゃあ行こう。心配だろう」
「Aちゃんも邪魔にはしないさ」
「男の俺達だけじゃ、気がつかないこともあるかもしれないしな」
十五分後、総勢五人の人間が《J》を後にし、近くの総合病院に徒歩で向かった。
誰も何もしゃべらなかった。Aの様子は、姉の危機を心配する弟としてはごく普通に思われた。三人組は彼を気遣って、余計な事は言わず、ただ彼を守るように囲んで歩き続けた。
その後ろを歩きながら、君子は背中を緊張で硬くしていた。
店を出るとき、Aが《やられた畜生》と呟いたのを、彼女は聞き逃さなかった。
そう。
おそらく、宵子がはねられたのは単なる事故ではないのだ。
少なくとも、Aはそう思っている。
彼は狙われているのだ。そして、姉の宵子も狙われているのだ。もしかしたら今この瞬間、Aの動きを見張っている奴がいるかもしれない。
コートの前をあわせながら、君子は黙って歩き続けた。
先の黒衣の女の台詞が頭の中をこだまする。
《王様のシャツは、狙われている》。

2.

五人はとりあえず宵子を見舞い、命に別状のないことを自分達の目で確認した。ベッドに寝ていた宵子は、大勢がいきなり押し掛けてきたので、驚いて身を起こした。
「たいしたことないんです。麻酔も足だけですみましたし。A、あんたが大げさに言ったんでしょう」
叱られてAはうなだれた。三人組がすぐにとりなす。
「でも、麻酔がきいてるたって、まだ痛いだろう」
「それに、ギプスを填めた足じゃあ、店に出られないだろ。俺達だって大問題だ」
「まだ、細かい検査も終わってないんだろう、大事をとらなきゃいけないよ」
宵子は線の強い頬を愛想良く緩めた。
「大丈夫ですよ。脳波の検査も明日でいいでしょうって言われたくらいですから。皆さんにこんなに御心配かけて、本当にすみません」
一応安堵した五人は、病室の外に出た。
するとそこに、皆が見覚えのある若い男がコートのポケットに手をつっこんで立っていた。Aが一歩、よろめくように男の方へ踏み出した。
「杉さん……どうして」
「病院から引き逃げの通報があって、被害者が宵子さんだときいたから、俺が来ただけだ」
H署の杉隆一はAの友人の一人だ。彼は五人を見ると軽く腕組みし、薄赤い大きな瞳をギョロつかせて呟いた。
「A。宵子さんの身体には障るかもしれないが、できるだけ早く正式な事情聴取をして、事件として認知させなきゃ駄目だ」
Aの頬は再び凍りついた。
「ってことは、ただの交通事故じゃないんだね」
「ああ。ただはねられただけなら、相手の車をさがせばいい。たとえそれが盗難車で持ち主が違っても、犯人が捕まらなくても、宵子さんの今後にさしたる危険はないだろう。普通の引き逃げならな。だが、普通の乗用車で歩道につっこんできて、数百メートルを走って人をはねた後、引き返してきてもう一度念入りにひこうとする奴は、絶対に危険だ」
「姉さんがそう言ったのかい」
「ああ。目撃者もいる」
君子はゴク、と喉を鳴らした。やはり宵子さんは狙われているのだ。
杉は腕組みをしたまま、重々しくうなずいた。
「普通なら死んでいたかもしれない。が、怪我が足の骨折だけだったのと、脇にあった民家の門が偶然開いていて、とっさに中庭に転がりこんで、それでなんとか助かったらしい。まあ、今回は大事に至らなくてよかった。不幸中の幸いだ」
「そうらしいね」
Aの瞳に炎が燃えていた。できるだけ抑えようとしていたが、声には怒りが満ちていた。
三人組も怒りだした。口々に、
「畜生、宵子さんを車でのそうなんて太え奴だ」
「誰なんだ、宵子さんを狙った奴は」
「許せん、俺達で叩き殺してやる」
ドスのきいた声でうなって、拳を強く握りしめる。君子も同じ気持ちだったが、それより先に、例の疑いをうっかり口にしてしまった。
「Aさん。狙われてるのはAさんの方じゃないんですか」
「キミさん」
Aが驚いたように振り返った。他の人間も君子を見つめた。彼女は思わず身をすくめ、
「ごめんなさい。でも、もしかしてその髪、暴漢に切られたんじゃないかと思って……Aさんが先に襲われて、それから宵子さんが襲われたんじゃないかって思っちゃって……」
そのままうつむいてしまった。根拠のない憶測ではないが、Aがかたく口唇を引き結んで返事をしないので、いたたまれなくなってしまったのだ。
「Aちゃん」
「ロビーへ行くか?」
「店に戻ろうか」
「無理に話さなくってもいいんだぞ」
皆がおそるおそる声をかけると、Aは首を振った。
「ううん。立ち話で悪いけど、ここで話す。もしかしたら、みんなにも危害が及ぶ事かもしれないから……実は、キミさんの言うとおりなんだ」
皆一様に言葉を飲む。Aは遥か彼方をじっとにらんで、
「今日の午前中、ゲーセンにいた時に、いつの間にか後ろ髪を切られてたんだ。しかたないから、すぐに床屋へ行った。でも、ただ髪を切られただけだから、もしかしてただの悪戯かもしれない、あいつじゃないかもしれないって思ってた。でも、姉さんも狙われた。間違いない、これはあいつの宣戦布告なんだ」
「A、犯人を知ってるのか」
杉の表情が動く。Aは瞳が潤むほど大きく見開いて、
「うん。犯人の名前はスナバノ・ジョウ――砂場遊びの砂場にないしの乃を足してお城をつけて、《砂場乃城》だ。東京出身、二十五歳。身長百七十五センチ、体重六十キロオーバー。顔は面長、細い鼻、切長の瞳、薄い口唇。母親と二人で暮らしてた筈なんだけど、たぶん今はこの近所に一人で潜伏してるんだと思う」
三人がどよめく。
「そこまでわかってるのか」
「なんでそいつはAちゃんを」
「宵子さんまで襲うなんてどういう訳だ」
Aは瞬きもせずに、
「ストーカーって言葉、きいたことあるでしょう。意味もなく特定の個人を執拗につけねらう変質者の類さ。僕は、二年前からその男につきまとわれてるんだ。とにかく陰湿な男でね、実を言うと、春にこの街に流れて来たのも、僕の周りにいた人達があいつにしつこく嫌がらせされてどうしようもなくなったから、しかたなくここまで逃げてきたんだ」
ぐるりと皆を見渡して、
「みんな、これから身辺をよく警戒して欲しいんだ。特に家族のある人は、家族の安全にも注意した方がいい。たぶんうかつに尻尾は掴ませやしないと思うけど、砂場乃らしい男を見かけたら、絶対に一人になっちゃいけないよ。何か取られるくらいじゃすまないかもしれないんだから。警察の手の届かない部分は沢山あるからね。まず杉さんだけじゃ僕ら全員は守りきれないし、いや、杉さん個人が危険な目に遭う可能性も高いんだ」
「信じられん」
杉がうめくと、Aは首を振った。切られた髪が軽くなびく。
「信じられなくても、できる用心は全部してもらいたいんだ。僕のせいでみんなに迷惑がかかるのは申し訳ないし、こんなこと白状したくはなかったんだけど、言わないでいて友達が危険な目に遭うなんて我慢できないから。だって現に、姉さんは……」
再び声が怒りに沈む。テツさんがなだめるように、
「そのこと、病院に知らせておいた方がよくはないか。宵子さん、今は自由に動けないんだぞ」
Aは力をこめてうなずいた。
「うん。さすがに命までは狙ってこないと思うけど、面会人のふりをして入ってくる可能性があるから、面会謝絶にしてもらおうと思う。それだけじゃない、できれば、杉さんの知り合いの三人ぐらいで、交替で病室を見張っててもらいたいんだけど。特別扱いはむずかしいかもしれないけど、犯人逮捕のためですって説得できないかな?」
杉も力強くうなずいた。
「事が事だ、なんとかしてみよう。砂場乃の人相はどれぐらい詳しく言える?」
「モンタージュが完璧に出来るくらいさ」
Aの瞳の炎が暗くゆらめく。控えていた三人組がそこで声をあげた。
「俺達にも教えてくれ。交替で来るよ」
「顔を知ってる者同士が固まってた方がいいだろう」
「どうせ《J》は開けられないんだろう、夕方は閑なんだから協力させてくれ」
Aは薄く微笑んで、
「ありがとう。でも、今晩は、僕がここに残って泊まるから、できたら明日から」
三人はすかさず抗議した。
「Aちゃんをここに一人で残せっていうのか」
「それこそ向こうの思う壷じゃないのか」
「Aちゃんだけに徹夜なんかさせられるかい。Aちゃんだって被害者なんだろ、今日は休まなけりゃ」
杉も渋い顔でうなずいた。
「とりあえず署に連絡して、すぐに若い奴を見張りに立たせることにしよう。その後、Aは俺が送って行こう。そっちの若いお嬢さんもだ」
「えっ」
君子がはっと顔を上げると、杉は眉をしかめたまま、
「ストーカーというのは対象本人だけでなく、周囲に迷惑をかけるんだろう? 若い女の子を一人で帰して何があったんじゃ、Aの忠告の意味がなくなる」
「そうですね。わかりました」
君子がうなずくと、それで話がまとまった。杉が上司に話をし、H署から若い警官が呼ばれて見張りにつくと、彼らはとりあえず病院を離れた。二つのグループに別れると、周囲を警戒しながら帰宅した。
杉とAと君子のグループは、まず君子のアパートへ向かった。男二人は火をかけられそうなゴミの類などないかどうか外回りをチェック、君子は部屋の中を点検し、玄関口に戻ってきた。
「特に変わってる所はないから、大丈夫だと思います」
扉周辺を調べていたAは、口元に手をあてて、
「うん。今日の事だし、キミさんが狙われるとは限らないし、盗聴器なんかはまだ仕掛けられてないと思うんだ。でも、戸締りは完全にしてね」
「はい」
「じゃあ、おやすみなさい」
そう言ってAがそこを離れ、階段下にいる杉のところへ降りてゆこうとすると、君子は急に彼の袖をひいた。
「Aさん」
引きとめられて、首を傾げるA。
「何? 一人になるのが怖い?」
「いいえ。ただ教えて欲しいだけです。砂場乃っていうその男、ストーカーなんかじゃないんでしょう」
君子はじっとAをにらむ。彼は困ったような顔をして、
「どうして?」
「ストーカーっていうのは、対象を追いかけるために相手の情報をうんと集める人達でしょう? それなのに、狙われてるAさんの方が、逆に相手の事を知ってるなんておかしいです」
Aの表情が一瞬崩れて、泣き顔のようになった。
「そんなこと、よく知ってるね」
君子は真顔で、
「だって、ストーカーは怖いもの。一人暮らしの女子学生で、頼れる身内や知り合いが近所にいない人間は、自分につきまとう男なんて脅威でしかないんだから、自己防衛の知識も自然に身につけるものなんですよ」
「そうだね」
Aは首を垂れた。短い髪がサラ、と流れて頬を覆う。
「でもね、あいつがストーカーであろうとなかろうと、僕や姉さんが狙われてることも、もしかして周囲に迷惑をかけることは変わらない。それに僕は情報屋だもの。情報戦で負ける訳にはいかないし、大切な人が狙われてるのに、黙って手をこまねいてる訳にいかないからね。だから、あいつのことをできるだけ調べたんだ」
「Aさん」
Aは髪をかきあげた。いつもの微笑が戻っている。
「あいつを許すつもりはない。でも、あいつを罰して解決する問題じゃないんだ。だから今は、準備の時間が欲しい。だから、悪いけど、キミさんもそれまでつきあって欲しい」
「どうやって?」
「今はまだ、言えない。……ごめんね」
Aは名残り惜しそうに扉を閉めた。杉がアパートの階段を上がってきたらしい。二人が会話しながら去ってゆく声が聞こえた。
「お嬢さんは大丈夫そうか?」
「たぶんね。あ、杉さん、わざわざモンタージュをつくらなくても、家にあいつの写真があるかもしれないんだ。それコピーして、もう一度病院に戻りたいんだ。それでもいい?」
「俺ももうしばらくAと一緒に居た方がいいらしいから、そうしよう」
「ありがとう。恩にきる」
「なに、これも仕事だ。犯罪事件なんだからな」
「うん。よろしくね……」
君子はドアから離れると、力が抜けたように畳に座り込んでしまった。
しかし、全身は奇妙な興奮に包まれていた。
Aが狙われている。
そして私も狙われている。
王様のシャツをAが持っているという、ただそれだけのために。
「面白いじゃない。少しくらい危険だって構やしないわ。私だって、変な女や変質者になんか負けたりしない」
そう呟いて、寝仕度にかかった。
それを遠くできいていた男は、静かな笑みを秘かにこぼしていた。
「それでいい。それが俺の望むところだ」
熱い炎を瞳の奥に灯して、翌日の計画を練り始めた。

3.

《J》はもう、あれから三日しまっている。表のドアの、《都合によりしばらくの間休業します》の貼紙も痛々しい。君子は学校の帰り、いつもその貼紙を確認し、裏口に回ってドアを叩いて見る。
返事はない。
「Aさん、やっぱり病院なのね」
それを確認すると、君子は籠花を持って病院を訪ねた。切り花は病人に面倒なものだし、鉢植えを持ち込むほど入院期間が長くなりそうでもない。幸い、足の怪我以外に異常は見られなかったので、十日もすれば退院できて、松葉杖で生活できるようになるだろうというのが現在の見通しだ。
ロビーに入ると、そこに居た三人の中年男が鋭い視線を向けてきた。ケンさんヤスさんテツさんである。病院に入って来る人間を、彼らなりにチェックしていたらしい。
「あ、お嬢さんは、こないだの」
「キミコさんだっけ」
「元気かい」
覚えてくれたらしい。君子は笑顔をつくって挨拶した。
「こんにちわ」
だが、皆さんはお元気ですか、と先が続けられない。笑みも強張ってしまっているので、三人組はああ、と顔を見合わせてうなずいた。
よく見ると彼らもやつれている。神経をやられている顔だ。
見えない敵と戦うのはつらいものだ。自分の周辺に悪意の霧が撒かれていると考えるのは、あまり愉快なことではない。物影から暗い視線に常に追われ、狙われていると思えば、大の男でも消耗する。
テツさんが最初に口を開いた。
「キミコさんも怖いだろう」
「大丈夫です」
嘘だった。三日前の晩の勇ましい決意は、今では虚勢でしかなかった。自分の背後で、知らない男がいきなり何か呟いて消えたりする。郵便受けが水浸しになっていたり、身近な小物がふとなくなって、おかしいなと思っていると、目茶苦茶に壊された姿で現れたりする。ある意味子供の悪戯のレベルだが、それがかえって怖い。これらを警察に訴えて、保護してくれと言っても無理だろう。Aの予言は本当だったのだ。これは確かに、杉一人ではかばいきれない。
「信じられない……怖い」
変質者に一度でもつけられたことがある人間なら、この恐怖がどんなものかよくわかるだろう。はっきりとした理由があって、憎まれたり恨まれたりするのとは違う。その視線はただ不気味で、その行為は悪戯とさして違わなくとも、狙われた心臓への負担は比類ない。しかも一人の人間が、執拗に複数のターゲットを狙うという周到さなのだ、恐れずにはいられない。
ケンさんが苦笑いして、その場をなごませようとした。
「なに、たいしたことはされてないんだしな。誰かが怪我した訳じゃないし」
彼は一昨日、自分の店のウィンドウを空気銃で撃たれていた。彼には小学生の子供がいる。心配なので母親が車で学校まで送り迎えするようにしているが、不安はつきない。
テツさん、ヤスさんも似たような被害を受けていた。三人は互いに被害を知らせあったが、余計な心配をかけるのが厭で、Aには話をしなかった。君子にもするつもりはなかったが、ケンさんはつい口を滑らせてしまったのである。
君子の身体は怒りで震えだした。
「許せない……どうしてそんな……許せない」
テツさんが慌てて声をかけた。
「キミコさん、落ち着くんだ。相手につけこまれたりすると厄介だろう」
ヤスさんも表情を柔らげて、
「ああ。なに、どうせ生きてりゃ、なんかしらあるんだ。この世で起こる全ての悪い事を一人の人間のせいにしちまえるなら、かえって気楽なくらいだ」
と軽口を叩いた。
「でも」
君子は拳を握りしめた。確かに災厄は誰の上にも等しく降る。それは、すべて一人の罪人のせいではない。しかし、原因が解っているのだ。それを正して、これ以上余計な不幸を招かないようにすることは、必要なことではないのか。
ケンさんが、無理に声のトーンを明るくした。
「Aちゃん今、病室にいるんだ。お嬢さんが逢いにいくと、きっと喜ぶよ。それは見舞いの花なんだろ?」
「そうですね。……行ってきます」
君子は軽く頭を下げてその場を離れ、宵子のいる病室に向かった。
扉の前には、武装した警官が二人立っていた。
「あの、Aさんは中にいますか? お見舞いを渡したいんですけど」
「中にいますよ。でも、お嬢さんを病室に入れる訳にはいきません」
やや背の高い方の警官が真面目に答えた。警備の責任上、仕方のないことなのだろう。するともう一人の若い警官が、
「出てきてもらうことはできますよ。お嬢さんがAさんだけ呼べばいいんです。お見舞いも外で受け渡しすれば」
と優しく答えた。
なるほど抜け道はあるものだ、と思いつつ、その程度の警備体勢で大丈夫なのだろうか、と君子は首を傾げた。医者や看護婦も出入りしなければならないのだし、いちいちチェックしきれないということなのだろうか。
すると中からドアが開いた。外の声をきいて不審に思ったらしい、Aがひょい、と顔を出した。
「あ、キミさん、来てくれたの」
「これ、宵子さんにと思って」
「ありがとう。じゃ、ちょっと置いてくるから待ってて」
Aは宵子の手から籠花を受け取ると、素早く病室内に消えた。どうしよう、邪魔かしらと思いながら待っていると、Aはすぐに戻ってきた。
「ごめんね、待たせて。ロビーへ行ってコーヒーでも飲む?」
Aの顔も、だいぶやつれてしまっていた。短く切った髪が、尖り始めた顎をさらに際だたせている。犯人はこの顔を求めているのだと思うと、君子の怒りが再び首をもたげた。
「どこか人目のない場所に行きたいんですけど、いいですか」
Aは軽く首を振った。
「それはかえって危険だと思うから、話ならロビーで」
君子も首を振った。
「でも私、どうしてもききたいことがあるんです。あの、黒い服のサイコさんってひとのこと。だから……」
Aの顔が一瞬、泣き顔のように歪んだ。悲しそうに目を伏せて、
「心配かけてごめんね、キミさん。でも、それだけは話せない。だって約束してるんだ」
「約束?」
「うん……あ」
Aがはっと顔を上げた。君子が振り向くと、いつの間にかそこに、噂の主が立っていた。
「サイコさん」
Aが茫然と呟くと、黒衣の女は見舞い客らしいいたわり深い声を出した。
「宵子さんのこと、新聞で見たの。来ない方がいいとも思ったけど、警戒してもどうせ同じことだろうと思って」
「あなた……サイコさん」
君子も小さく呟く。女はそれを聞きとがめ、
「誰、この人?」
Aはさりげなく君子をかばうようにして前に出、
「お見舞いに来てくれたんだ。僕の友達でヒトミ・キミコさん。氷が富むと書いて氷富、キミコは君子は危うきに近寄らずの君子」
「ふうん。友達ね」
君子の全身を上から下までジロジロと見つめ、自分の敵ではないと踏んだらしく、
「フタナ・サイコ。双子の魚に色彩の子供で双魚彩子。普通ならアヤコって読むんでしょうけど、サイコなの」
威丈高に言い放ってAへ向き直る。
「私も宵子さんを見舞っていいのかしら」
Aは肩をすくめて、
「悪いけど、病室には誰も入れないようにしてるんだ。みんな戸口で帰ってもらってる」
「そう。あいつを警戒してるのね。それじゃしかたないわ」
黒衣の女――彩子は踵を返そうとして、ふと君子に再び目をとめた。
「この子も戸口で帰る組なら、一緒に出ましょうか」
なんて言い草を、と君子が前に出ようとするのを、Aはさらに押しとめて、
「余計なトラブルを起こさないで欲しいんだ」
彩子は艶然と微笑んで、
「大丈夫。あの人、Aの知り合いだって、私と一緒にいる間は襲ってきやしないわ。かえって安全だと思うけど」
「そうだね」
Aは小さくため息をついた。
「じゃあ、頼むよ。……キミさん、くれぐれも気をつけてね」
「Aさんも」
君子は渋々、彩子の後ろについて歩きだした。
彩子は病院を表から出ず、急患用の通用口を出ていく。彼女なりに用心しているらしい。
表通りに出ると、彩子がやっと振り向いた。
「家はどっち? それともどこかでお茶にする? あまりここらへんのことよく知らないけど、ここにくる途中で何件か見かけたし」
「フタナ……さん」
彩子は遠慮会釈なく、
「サイコでいいわよ。とにかく、あなたの家でお茶をご馳走になるのは避けたいのよ、盗聴機が仕掛けられてない保証なんてないでしょう? 私は探知機なんて持ってないし」
澄ました顔で続けるので、ついに君子の堪忍袋の尾が切れた。ほとんど怒鳴るように、
「サイコさん、Aさん達が危険なのって、あなたのせいなんでしょう。全部とばっちりなんでしょう。砂場乃って人は、Aさんとサイコさんの仲を疑って、それで嫌がらせをしてきてるんじゃないんですか? 本当は二人の間に何にもないのに」
その剣幕に驚いたのか、ようやく彩子は見下すような視線をやめた。声も低く小さくして、
「それ、Aがそう言ったの?」
君子も少しだけ声のトーンをさげた。つけられていなくとも、あの声の大きさでは皆がこちらを見るし、話の内容も筒抜けだ。
「……Aさんは何も言いません。でも、この間お店に来た時、王様のシャツが狙われてるって言ったじゃないですか」
「あなた、あの時きいてたの」
彩子の声はさらに低くなった。
「ってことは、あなたも王様のシャツの話を知ってる訳ね」
「一番幸せな人のシャツの話でしょう。よくは知らないですけど、外国の童話かなにかで」
王様のシャツという題名が正式かどうかは知らないが、おそらくはあの話のことだろう。
――ある所に王様がいて、とても重い病気にかかった。王様は金持ちで、思いどおりにならなかったものは何もないが、病気ばかりはいかんともしがたい。いろんな医者がやってきて王様を診たが、誰も彼を直せず、最後の医者がこう宣言した。王様の病気は、国で一番幸せな人間が着ているシャツを着れば直ります、と。
そこで臣下は手をつくして、様々な家を訪ね回った。しかし、どんな金持ちも、どんな学者も、幸せな暮しなどしていなかった。人生は憂える事が多く、彼らの生活には嘆きが多かったのだ。疲れはてた臣下達はある日、ある窓の下でこんな呟きを耳にした。
《今日の仕事はちゃんと終わった。夕べの食事もいただいた。家族も揃って全員無事だ。思い煩うことはない。この世で一番幸せなのは、きっと私に違いない》
喜んだ臣下達は、その男の家に入った。王様の病気の事情を話し、男が本当に幸せか尋ね、おまえのシャツが欲しいのだが、ともちかけた。
男は驚いたが、慎ましくこう返答した。
《私が幸せなのは本当ですし、できれば王様のお役にたちたいとも思いますが、残念ながら、シャツを差し上げることはできません》
何故ならその男はひどく貧しくて、自分のシャツを一枚も持っていなかったからだ。――
他の人間が見たらあまり幸せでない状態でも、本人自身が幸せだと思えるのなら、それは幸せなことなのだという教訓を持った話だ。
君子はひるむ彩子の前で先を続けた。
「私の考えている話でいいなら、砂場乃って人は嫉妬の病を得た王様で、Aさんが貧しい男なんでしょう。そしたら全部、辻褄があうんです」
彩子はついに、君子から視線をそらした。
「……あなた、私を悪者にしたいのね」
「サイコさんも被害者だって言いたいんですか?」
「被害者とは言わないわ。でも」
彩子はたまゆら言い淀んだが、視線を戻すと思いきったようにこう言った。
「Aには私が必要なの」
「どういう意味ですか」
「だって、私とAは友達なんだもの」
彩子の物言いは我が儘にしか聞こえなかった。君子の怒りは更に煽られ、
「私だってAさんの友達だわ。迷惑をかけたこともあるけど、でもAさんの友達よ。わざわざ迷惑かけたくてかけた訳じゃないし、かけて平然となんかしてられない」
しかし、彩子の頬はすっかり強張っていた。どうやら彼女も平然としているのでなく、無理に突っ張っているだけのようだ。
「キミコさん」
「なんですか」
「あなた、胸が潰れるくらい苦しい恋をした事がある?」
「それが?」
話をそらされていると思う君子はつっけんどんだが、彩子の声はすっかり沈み、哀れっぽいものに変わっていた。
「それなら、あなたには、Aの気持ちがわからない」
「Aさんの気持ちがわかるなんておこがましいこと言いませんけど、あなたならわかるって言うんですか」
「だって、お互いが一番苦しい時、一緒にいたのは私だもの」
「それじゃ」
君子はそこで畳みかけた。
「サイコさん、もしかして、Aさんが好きなんですか」
彩子は急に、世にも悲しそうな、うらめしそうな顔で君子を見つめた。
力関係の完全な逆転。
図星か、と君子がひきかけた瞬間、彩子は薄く微笑んだ。
「そうね。そうだったら、ずっと楽なのにね。……でも、そうじゃないのよ」
それは大人の微笑だった。君子がうっかり言葉を失うと、彩子はしみじみと呟いた。
「苦しい恋をしてる時に一番必要なのは、親身な友達。秘密を打ち明けても大丈夫な人。Aはだから、友達なの。そういう友達は時々、家族や恋人よりも大事なものなのよ」
「サイコ……さん」
彩子は目の縁を軽くぬぐい、君子に背を向けた。
「ごめんなさい、ここでお別れしましょう。これ以上はあなたに話せない」
片頬だけを振り向けて、
「あなたも充分気をつけてね。あの人は本当におかしいの。Aを傷つけるためなら、何をするかわからない。あなたを利用する可能性は充分あるわ。だから本当に用心してね」
なんだ、いいひとなんじゃないの、こっちの心配をしてくれるなんて、と君子が思った瞬間、彩子は再び呟いた。
「だってAを、これ以上傷つけさせたくないもの」
あ、そういうこと、と君子が思う間もなく、彩子は足早に歩き出した。黒いコートの裾を翻しながら、十二月の寒空の下に消えていった。
「世の中って、ほんとに、いろんなひとがいるのね」
緊張も毒気も抜かれてしまい、君子はぼんやりと呟いた。自分が狙われていることなどどうでもよくなってしまって、Aの秘密というのはなんだろう、などと考えてしまった。
「きいたって、どうせ教えてくれないだろうけど」
自分で調べてみようかしら、などとも思う。巻き込まれているのだし、知る権利はあるだろうと思うから。
「まあいいわ、ぼちぼちやってみよう」
大きくひとつ伸びをして、家路についた。

4.

Aと双魚彩子の出会いは、二年前の冬に遡る。
宵子はまだ自分の店を持っていなかったが、知り合いの酒場の厨房をまかされて、料理などひととおりをこなしていた。Aは、同じ店で裏の掃除などやっていたが、なにしろ顔がいいので時々ボーイ役に駆り出されていた。Kというその店は、小さいが居心地の良い処で、身体があまり丈夫でないAも、なんとか勤めることができていた。
ある晩、Aは質のよくない学生客の相手をしていた。男女混合で十人近いその客の中に、酔いのせいか、ひどいヒステリーを起こしている少女がいた。誰彼かまわずからむので、だんだん周囲は冷淡なあしらいをしはじめた。相手にされなくなった少女はさらに怒りを増し、ついには店をプイ、と飛び出して行ってしまった。
「おい、サイコが出てっちゃったぞ。いいのか?」
「いいじゃないか。少し頭を冷やせばいいんだ。いつものことなんだから放っておけよ。やってられるか」
「心配しなくても、そのうち戻ってくるわよ。子供じゃないんだし」
Aはそれを聞き流しながら、どういう事情か知らないが、随分無責任な友達だと思った。確かに十八の少女は、何も知らない子供ではない。もしかすると、ここにいるどの連中よりも精神的に大人かもしれない。だが、だからといって、寒い冬の夜、ひとりぽっちで外で泣かせていてもいいのだろうか。彼女は君達の仲間じゃないのか、と。
とにかく、余計なトラブルは店にとっても好ましくあるまい。様子を見るだけでもした方がいいのではあるまいか、とAは姉に目配せした。
「姉さん。手があいたら、ちょっと外へ行ってもいいかな」
宵子はうなずいた。
「そうね。さりげなく様子を見て、落ち着かせて連れてきても、たいしたバチはあたらないと思うわ」
Aの心配を察してくれたらしい。店主も目配せでOKをくれたので、手を拭いてそっと外へ出た。
「お客さん……」
少女は店の脇にある駐車場でうずくまり、声を殺して肩を震わせていたが、声をかけられたとたんに振り返り、Aの顔を濡れた瞳でまじまじと見つめた。
「A?」
驚いた。どうしてこの子は自分の名を知っているのだ。
Aがギョッとしたのを見て、涙顔の少女は少しだけ笑った。
「有名なのよ、あなた。KにはAっていう美人のボーイがいるって。本当に女みたいな顔してるんだぜって。噂どおりだから、すぐにわかったわ」
目元をぬぐいながら、
「それにしても、誰も迎えに来ないのね。赤の他人のあなたが、心配してきてくれるのに……しかたないけど」
そう言いながら、再び喉をつまらせた。
「いいのよ。誰も心配なんかしてくれないのよ。そう、あの人だって、本当の事を知ったら……」
顔を覆って泣きだしてしまう。
泣くという行為は大変に体力を使うものだ。いつかは疲れてやめるしかなくなる。だから、放っておいて落ち着くのを待つのが一番いい対処法なのだが、目の前で弱っていくものをそのままにしておくのは面白くない。Aは自分が羽織っていたジャケットを脱ぎ、彼女の傍らにしゃがんで着せかけた。
「どうしてあの人はうんと遠いところにいるの? いつもは近いところにいてくれるのに、どうして今はいないんだろう」
少女はAの上着の下で、自分の殻に閉じ込もっていた。
「どうしたらいいの? どうして私はひとりで悩まなくちゃいけないの?」
そこでAには、なんとなく少女の内幕が見えてきた。つまり、表だって誰にも相談できない事を抱えているので、周囲に八つ当りをしているらしい。しかしちゃんと相談されなければ、友人達とてわかりようがないし、理不尽な怒りをぶつけられれば、不快に思って距離を置く。孤独になれば焦りが増し、八つ当りはさらに酷くなる。断ち切りにくい悪循環だ。
Aはなだめるように少女の肩を叩いた。
「サイコさんは、辛い恋をしてるんだね」
その瞬間、少女は身を硬くした。図星なのか、とAが手をひきかけた瞬間、少女が低い声で返事をした。
「今の気持ちが、恋なのか、恋でないのか、わからないのよ。だから辛いの」
その時Aは、なんだ、この子はまともに話をできるじゃないか、と安心した。尖った気持ちが、ほんのちょっと甘やかされただけで和らぐ時がある。自分はゆきずりの人間だが、まともな話の出来る相手なら、ちょっとの間甘やかし役を引き受けてもいいやと思った。
「サイコさんが、自分の気持ちが恋であって欲しいと思うなら、それは恋だよ。他の誰かに認められなきゃ、恋じゃないのかい?」
「他の人間も認める恋って、どんな恋? 自分でも恋だって信じられる状態って、どんな時?」
彼女の涙がひいてきた。Aはしめた、と先を続ける。
「じゃあ、サイコさんの気持ちに、物差しでもあててみる?」
「物差しなんてあるの?」
「あるよ。イエス・ノーで答えてね。とりあえず、三つの恋の黄金律をためすから。誰でもこれをクリアしてたら、それは恋してるって奴を」
Aは最近読んだ心理学の本の数ページを脳裏に浮かべつつ、優しい声で彩子に語りかけた。
「その一。相手に独占欲を感じる? 他の誰よりも強く感じる? 自分の独占欲が満たされない時、相手が幸せでも嫉妬に焼かれる?」
「……イエス」
女の子はこういう問が好きなものだ。見事にのってきたので、Aは先を続ける。
「OK。その二。相手を傷つけようとする奴がいたら絶対に許さない? 相手に危険が迫っていら、すぐに飛んでいって助ける?」
「イエス――当り前じゃないの」
彩子の瞳に迷いはなかった。Aはうなずいて、
「そのとおりだね。じゃ、その三。万が一、あなたと相手の絆を壊そうとする奴がいたら、絶対に許せない? あんたは恋に恋してるだけよ、なんて言われたら、その相手をぶち殺そうと思う?」
「イエス。殺してやるわ、そんな奴――あ」
彩子は両手で顔を覆った。
「じゃあ、本当にこれが恋なの? こんな理不尽で、辛いだけの気持ちがやっぱり恋なの?」
「うん。普通それは恋だよ。どんなに苦しくても、自分でそうだと認めたくなくても、恋だろうね」
「でも、恋だと困るのよ」
彩子は掌の下でうめくように、
「だって、触れたいんだもの。抱きしめたいんだもの。いいえ、そんなキレイゴトじゃない、あのひとと寝たいのよ。あんなに何度も、繰り返し夢に見て……私、不潔なんだわ」
Aはとぼけた声で答える。
「不潔じゃないよ。だって夢なんでしょう? それに、嫌いな人が相手だったら厭かもしれないけど、そんなに好きな人なら見る方が当り前じゃないの? 夢どころか、実際にしてもおかしいことじゃないんだから」
彩子の声は尖った。
「あなたにはわからないわよ。そんな小綺麗な顔して、女にモテるばっかりの男に、私の気持ちなんて」
彩子もかなりの美女だし、Aは見かけほどモテはしない。しかしそんな理不尽でなじられても、彼はとほんとした瞳をして答えた。
「わかるなんて言ってないよ。ただ、君も辛いんだろうけど、僕も辛い恋をしてるから。それだけさ」
「辛い、恋?」
彩子が手の隙き間から片目を出した。Aはうなずいて、
「うん。ふられてなくても、結ばれない時もあるでしょう。嫌われてないのに、何の約束もできない時があるでしょ。どれだけそばにいても、想いがかなわない時がある。……だって、僕の好きなのは、自分の姉さんなんだから」
「お姉……さん?」
「うん」
Aは平気そうな顔で答えたが、彼がこの告白を誰かにするのは実は初めてのことだった。自分の恋を問われてなんとなく話すことはあっても、相手が誰かは絶対に教えなかった。彩子に話す気になったのは、むしろ赤の他人だからと言える。とりあえず、家族や友人には打ち明けにくい種類の話だ。
「ちょっとこみいった事情があってね、僕、小さい頃からおばあちゃんの家に預けられてたんだ。だから、親のいることは知ってたんだけど、十三になるまで、姉さんがいることは知らなかった。でも、母さんの葬式には僕も出られてね、そこに姉さんが来てて、それでやっと逢えたんだ。姉さんはもう十八になってて、すごく綺麗だった」
目蓋の裏に、当時の宵子の姿が思い出される。五つも年の離れた姉は、Aにとっては大人にしか見えなかった。自分によく似た喪服の女性――もし黙ってひきあわされたなら、死んだ筈の母と思ったかもしれない。しかし宵子は自ら名乗った。
《今までずっと来られなくて、ごめんなさい。姉だなんて、本当に名前ばっかり》
その言葉より優れたお悔やみもいたわりもなかった。二人は葬式の後、ひそかに会場を抜け出して、喪服姿のままいつまでも河べりを歩いた。ほとんど言葉は交わさなかったが、Aはそれがどんなに嬉しかったか知れなかった。祖母は裕福だったし、それは彼を可愛がってくれて何の不足もなかったが、姉はまた別の存在として、Aの胸に強く刻まれた。
「それから時々、姉さんは父さんの目を盗んで逢いにきてくれた。それが凄く嬉しかった。僕が十八になった年におばあちゃんがなくなって、姉さんが僕と一緒に住もうって迎えに来てくれた時は、死ぬ程嬉しかった。Aだけが私の本当の家族だって言ってくれたんだもの。……でも、僕はもうその時には、姉さんを姉さんとして見られなくなってた。生涯にただ一人の女性を選ばなけきゃいけないなら、将来を誓う相手はこの人以外のひとなんて考えられないって。はは、馬鹿だよね」
Aが苦笑すると、彩子は首を振った。
「ありがとう。でも、これでうんと悩む羽目になっちゃったんだよ。これが恋でなければどんなにいいだろうって。さんざん考えたよ、これはただのシスコンなんだって何度も自分に言い聞かせてさ。逢えない時間が長かったから姉さんに幻想を抱いてるだけなんだ、姉さんに触れたいと思うのは単なる性欲なんだって。でも、考えれば考える程、深みにはまるんだ。気持ちをそらそうと思って可愛い女の子をさがしたり、カッコイイ女の人とつきあおうとしてみたって、結局、その上に姉さんの面影重ねるだけになっちゃう。好きでもない女の子に好かれても困るだけだしさ。で、そういうつきあいが終わった時には、姉さんへの想いがなおさら深くなってるだけなんだから――やっぱり馬鹿だよ」
「A」
彩子は切ない瞳をしてAを見上げた。
「お姉さん、その事知ってるの?」
「あはは」
Aの口唇は奇妙にねじれた。
「知ってるよ。だって、隠しても態度に出ちゃうんだもの。だから、結局言っちゃった」
「それで……」
「うん。そういう相手としては見られないって。Aは大事な弟なの、私は弟をなくしたくないって」
Aは震える口元を押さえた。
「当たり前だよね。僕は弟なんだからさ。たとえ弟でなくたって、ガキで頼りなくてどうしようもない男なんだから。身体も丈夫じゃないし、自分で沢山金稼げる訳でもないし、むしろ養われる立場なんだから。何の役にもたたないんだ、家族でもなけりゃ、足元にも寄れないよ。だから、いつか私よりいいひとを見つけてねって言われたって、一言も言い返せないんだ」
上気した頬を手の甲でこすりながら、
「でも、嫌われてないだけいいやって思った。だって、姉としての姉さんをなくした訳じゃないから。側にはいられるんだから。それに今は、姉さんが誰も選んでないんだから、側にいて好きでいるくらい、いいじゃないか。姉さんがそれを許してくれてるならさ」
「A」
彩子は彼の肩に手を触れた。いたわる側といたわられる側が逆転しはじめていた。
「……どうしても、その恋があきらめられないのね」
「どうして、じゃないんだ。理屈じゃ片がつかないんだよ。貴方が大事なの、と言われた瞬間に、身体中が沸騰する。全細胞に通ってる水がアルコールになったみたいに酔っぱらって、何にも考えられなくなる。自分の意志でねじふせられるような気持ちなら、これが恋かどうかなんて悩んだりしない。……そうじゃないの?」
「そのとおりよ」
彩子はうなずいた。
「A。私も同じなの。私も血のつながった兄が好きなの。でも、そのことを知ってるのは、私だけなの」
「サイコさん、だけ?」
「そう」
彩子は地面の上に指で図を書くようにして話しはじめた。
「私の父親にあたる人――砂場乃っていうんだけど、そのひとが私の母親と浮気をしたのよ。母さんは、子供が出来たことを砂場乃に全然言わないで別れて、女手ひとつで私を育ててね。短大にまで入れてくれて――その事は感謝してるけど、結局過労で病気になって、一カ月前に死んだの」
「大変だったんだね。一人でお葬式を出したなんて」
彩子は小さく首を振った。
「大変だったのは、お葬式よりその前よ。もう駄目らしいって時に病院に呼ばれて、おまえには母親の違う兄がいるって知らされたの。砂場乃さんに認知してもらっていたら間違いも起こらないだろうけど、あの人ももう四年前に死んでるからねえって。私、どんなに驚いたか――自分の今のBFが、まさにその兄さんだなんて。安っぽいドラマでだって、そうあることじゃないのに」
Aは軽くうなずいた。彼はだが、それが本当はそんなに珍しいことでないのを知っていた。自分の生い立ちもあって、他人の出生の事情についてもいろいろ調べてみたが、本人同士が知らない兄妹は、今の世にもかなりいるのだ。戸籍上でのトラブルも存在して、当人と法律家を悩ませている。また、二人が恋人同士になることも不自然なことではない。親の好みは往々にして子に引き継がれるからだ。親に恋人を紹介するのを、ギリギリまで遅らせる若者は多い。そして、この種の悲劇は何度も発生するのだ。
「それで、秘密を知ってるのは自分だけってことになったんだね」
「ええ、そう」
彩子の眉に苦悩の翳が落ちた。
「苦しかった。どうして早くに教えてくれなかったのって、親を恨んだわ。でも、問題はそこにあるんじゃないの。知ってしまっても、私、まだ、兄が好きなの。兄としてじゃなくて、恋人としてしか見られないの」
「ああ。……それじゃなおさら、本当は半分血のつながったお兄さんだなんて言えないね」
確かに、急に気持ちは切り替えられないだろう。簡単に切り替えられるくらいなら、彼女もこんなに荒れはしないだろう。彩子は自分の内臓を吐き出しそうな顔で続ける。
「ううん、言えないだけじゃないの、もう逢うだけでも苦しいのよ。理由をつけて逢うのを断わるのも辛いの。何もかもが怖いのよ」
「でも、想いからは逃げられない、か。……じゃ、処方箋は二つだね」
「え?」
Aは親身な笑みを浮かべて、彩子にやさしく語りかけた。
「月夜の風邪にかかっちゃって、どうしようもなくなった時には、取る手段は二つっきりないよ」
「二つ?」
「そう。一つは、何もしないんだ。病人が静かに休むのと同じで、何もしないで病状がおさまるのを待つ。相手とも接触しない。病気がうつったり、重くなったりすると困るから」
彩子は目を瞬かせた。
「逃げるの?」
「逃げる訳じゃないよ。だって、耐えられないんでしょう。何かしたくても怖くて動けないんでしょう? そしたら、少し休んで、時が病気をやわらげてくれるのを待つしかないと思うんだ。そのうち体力がついてきて、いろんなことを落ち着いて考えられるようになるかもしれないし」
「じゃあ、二つめは?」
「いい友達をつくるんだね。いい友達って、どんなノロケでもどんな愚痴でも、つまんない忠告なんかしないで、黙って聞いてくれるような相手だよ。余計なお節介も焼かないかわりに、根気よく最後まで耳を傾けてくれる友達。それで、絶対に秘密は守ってくれるひと。そしたら、今よりずっと楽になるよ」
「そんなひといないわよ、そんな都合のいい相手……」
そう言いかけて彩子は青ざめた。本当に周囲にそういう知り合いがいないからだ。親友が欲しいなどとあえて思ったこともないが、実際打ち明け話をできる相手がいないではないか、と。
しかしAは暖かく微笑んで、
「そりゃ、そんなに沢山はいないよ。でも、人間ちゃんと生きてたら、そういう友達もどこかで見つけられるんだよ。同じ苦しみを感じてるひととか、必ずいるよ。……あ、でも、サイコさんは、僕よりずっと辛いからな」
とりあえず、話くらいならいつでも聞いてあげられるよ、と彼女の背中にそっと触れた。
彩子の顔がぱっと明るんだ。
そうか。
本当に、ここにいるのか。
私の話を、ちゃんときいてくれるひとが。
彼女は着せかけられた上着の襟を掴んだ。それが今は、なんと暖かく思われるか。
「でも、Aだって辛いでしょう? 側にいられるだけなんて、生殺しじゃない」
「ううん。僕は辛くないよ。だって、姉さんといられるんだもの。嫌われてる訳じゃないもの。生殺しどころか、差し引きのバランスを考えたら、王様のシャツを着てるようなものさ」
「王様のシャツ?」
Aは簡単に、彼女に王様のシャツの話をしてやった。トルストイの童話の貧者の話を。だから僕は、本当に幸せなんだよ、と。だって、好きな人に大切な人間として選ばれていて、ずっと側にいられるんだから、と。
彼女はなるほど、と納得した。
「A」
「何?」
「あなたの王様のシャツ、時々借りにきてもいいかしら」
「僕に、サイコさんの友達の資格があるならね。秘密を守れるって信じてもらえるならね」
彩子は立ち上がって、Aにジャケットを返した。
「もちろんよ。それに私もあなたの話をきくわ。お互い様にしましょうよ。二人の間の事は、絶対に秘密。私もAの事を誰にもしゃべったりしないわ」
「ありがとう。じゃ、もうひとつ、とっときのおまじないを教えるね」
Aも立ち上がり、よくのびるいい声で、ゆっくりしたテンポの歌を歌いだした。

"people…
who need people…
are the luckiest people
in the world…"

「バーブラ・ストライザンドの『PEOPLE』って歌。サイコさん、意味、わかる?」
「ええと……他人を必要とする人は、世界中で一番幸せな人達ってこと?」
Aはニッコリとして、
「うん。だって、他人なんかいらないってわざわざ言わないといけない生き方って、あんまり幸せじゃないもん。このひとがどうしても必要だ、って思える相手がいるひとの方が、絶対に幸せだよ」
「そうね。その方が幸せよね」
「でしょ?」
彩子がすっかり落ち着いたので、Aは先に店に戻った。彩子は顔を整えて、しばらくしてから店に戻った。もう誰彼構わずからむようなことはすっかりやめて、友人達に必要な謝罪をすませると、不思議な微笑を浮かべて帰っていった。

それから二人は友人になった。彩子はたびたびKの店を訪ねてきて、Aの仕事前や仕事のない時を狙って、自分の恋の話をしにきた。人にきかれたくない話の時は特に、誰もこない店の裏口に並んで座った。
「この恋がどうしてもあきらめられなかったら、駈け落ちでもしちゃった方がいいのかしら。子供の事が心配なら、つくらないって手もあるし。しらをきりとおせる自信があれば、なんとかなるのかしら」
Aはその都度ふむ、とうなずいて、
「押し通せるならそれでもいいよね。でも、駈け落ちはあんまり勧めたくないような気もするけど」
どうでもいいような返事をする。彩子は小さな瞳を大きく丸くして、
「あら、柄にもなくお説教?」
「っていうかさ、人が結婚しようと時、どうして周囲や血族に承諾をもらいたがるか知ってる? 愛し合ってるのは二人だけで、親戚のことなんか全然関係ない筈なのにさ」
彩子は首を傾げて、
「それは、嫁姑の問題とか……他人にとられないように、これは自分のものだって宣言するため?」
Aは例のとぼけた声で、
「それだけじゃないよ。人間って、親しい友達や家族から離れると、それ以外の絆も弱くなっちゃうんだよ。恋人以外の人間からも見えないエネルギーを沢山もらってるから、それがなくなると、本人達同士の力も弱まるんだ。だから、いつまでも恋人と幸せでいたかったら、逆にそれ以外の人も大切にしないと、辛いんだよ」
「そうね、他の人間関係が良好なら、悩みの相談にものってくれるひともいるかもしれないし……そうよね、Aのとこまで、わざわざこなくても」
彩子は皮肉っぽく笑った。
「そうよね、どうして駈け落ちするんだってきかれたら困るし。向こうのお母さんに永遠に隠し通すのも難しいわ。私が知らなかったなら、それができたかもしれないけど」
「そうだね。……とにかく、結論を出すのはサイコさんなんだから、ゆっくり考えなよ。真剣なら真剣なほど、焦らない方がいいよ」
Aが軽口めかして言うと、彩子は眉を開いた。
「そうね。こうしてAと話してたら、考えもまとまるかもしれないわ。Aとは話しやすいし」
「そう? 親しい女の子とかは?」
「駄目駄目。例えば、それとなく女の友達に話をしてみるでしょ? そうすると、《実の兄との恋愛? 男の兄弟のいない人の幻想じゃないの》とか、《それってブラコン? 子供じゃあるまいし、本気じゃないでしょ》とか、《なんかドラマティックでワクワクするねー。でも物凄く嘘っぽいけど》とか、《信じらんないー。そんな女この世にいる訳?》とか、とにかく誰も真面目にきいてくれないのよ。そりゃ、自分がそういう立場になったことがなければわからないかもしれないけど、別にノロケてる訳でもないのに、そんなこと言われるなんて……自分に関係ない話だからって、全然とりあってくれないなんて」
彩子の顔が再び曇る。Aは、背中を丸めて静かに笑った。
「それはね、目の前にいるサイコさんが、そういう恋をしてるって想像力がないんだよ。そんな事言われたらうんと傷つくほど本気なんだって事、知らないだけなんだよ。でも、もし本当の友達だったら、きちんと話をしたらわかってくれると思うし、すぐにはわからなくても、いつかは理解しようとしてくれるよ。だから、全然聴く耳もたない、わかってくれようともしないような連中は、きれいさっぱりこっちから捨てちゃえばいい。つきあってやる必要なんかないよ。新しい友達なんていくらでもできるし、仲間って、必ずどこかにいるものだよ」
「A」
彩子が顔をあげた。
「そしたら、私の友達って、Aだけかも」
「そういう寂しいことは言わない方がいいよ。私にはあなただけ、なんてさ。恋人を口説く時ならともかく、僕は友達なんだからさ」
「じゃあ、逆ならいいの?」
「あなたの友達は私だけって? そうだね、そうかもしれないな。僕の恋の話をして、最初から最後まで一度も変な顔しなかったの、サイコさんだけだからな」
二人は微笑みあった。
彼らの関係は、それ以上のものには決してならなかった。だが、世間が男と女が仲睦まじくしているのを見れば邪推もする。そして、それを怪しみ、ねじけた受けとり方をしたのは、世間一般だけではなかった……。

「A、どうしたの、その怪我」
「なんでもないよ、転んだだけさ」
二人が知り合ってから二ヶ月もしないうちに、Aの顔や手に目立って傷が増えてきた。エプロンの下のシャツも、よく見ると丁寧に繕ってある。誰かに刃物か何かで切られているのだ。彩子はごまかされなかった。
「誰がAにこんな事を?」
「知らない。わかんないよ」
Aはしばらくとぼけきったが、脅迫状めいたものが店に貼られたりしたので、犯人はすぐにわかってしまった。彩子の兄、砂場乃城である。彼は自分と逢わなくなった彩子の行動をいぶかしみ、Aと親しくする彼女を見て自分が捨てられたと思い、嫉妬の炎を燃やしたのである。
男らしくない、と言うなかれ。何故なら彩子は城から遠ざかっていたし、その理由も説明できずにいた。心変わりと思われても無理はなかった。その点では女々しくはない。そのやり口が陰湿だ、とは言えるだろうが、女はあまり相手の男を待ち伏せて殴ったりはしないものだ。暴力的という意味では、城はとても男らしいと言えるだろう。
そんな事が重なったので、Aと宵子はその店をやめざるを得なかった。迷惑がかかるからだ。他の知り合いにも危害が及び始めたので、引っ越す事も決めた。
別れる前に、Aはもう一度だけ彩子にあった。彼女といる時は、城も攻撃をかけてこなかったからだ。
「ごめんね。サイコさんの話、もう、聞いてあげられないかもしれない」
「いいの。私も心を決めたから」
その頃には彩子は、元恋人だった兄を憎むようになっていた。可愛さ余って憎さ百倍という言葉があるが、かつて親しい絆を結んだ相手におぼえる憎しみは、愛を感じていたぶんかえって深くなる。家族や恋人の過ちは、他人のそれより許しがたい時がある。彼女の気持ちはすっかり醒めて、別のものに変わっていた。
「もう、逢うこともないわね」
「うん。そうだね」
Aの気持ちも少し変わっていた。誤解とはいえ、どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか、と思う。誰彼構わず同情すればいいというものではない、ということを彼は学んだ。姉の宵子は《こういうのは天災だと思った方がいいわ。誰の上にでも突然降ってくるものなんだから、あんまり気にしないのよ》と何度も慰めてくれたが、A本人は、その姉までが襲われかけたことがかなりのショックで、このトラブルから一刻も早く逃げだしたかった。
「私達、ちゃんと友達だったかしら」
「たぶん、そうだろうね」
「良かった……じゃあ、さようなら」
恋の終わりを暗示でもするように、彩子は黒づくめの姿で彼に手を振った。彼女も自分のアパートを引き払って、別の土地へ移った。
しかし、この災難はそれで終わらなかった。A達が別の店に勤め始めると、その店でも何かが起こる。それは半年に一度のペースで繰り返され、彼らは何度も住む場所を変えた。どうして、砂場乃がいつまでも追ってくるのかはわからない。だが、彼は確実にAをつけまわし、執念深く狙ってきた。Aもできるだけの自衛をしたが、油断している頃にやられるので、本当に始末が悪かった。
そして、自分達で店を開き、《J》もやっと軌道に乗ってきたという時になって、再び一番、効果的なやり方で襲ってきたのである。
今回が今までと違うのは、彩子が再び現れた事にある。時間の経過にともなって、気持ちも変わっているようだ。
Aはそれを、できるだけうまく使うつもりでいた。
「これで決着がつかなかったら、悪いけど死んでもらうしかないや。姉さんをひき殺そうとするなんて、僕に百回殺されても文句が言えないんだからね。おまえなんかに、絶対に僕のシャツはやらないよ」
彼の計画の機はほぼ熟していた。自室に籠り、一人静かに呟きながら、凶悪犯も恐れるような薄笑いを浮かべた。
「まあ、相手が僕で良かったと思うんだね。うんと手加減されるんだから」
そして彼は、今回巻き込まれた者全員に電話をかけた。
「よかったら、明日の夜7時に、《J》に来てもらえるかな。協力してほしいことがあるんだ。大事な話があるんだよ」
誰も嫌とは言わなかった。
Aは受話器を置き、部屋の明かりを消して、冷たい布団に入った。
そして、心の中で呟いた。
《城、今のもちゃんと盗聴しとけよ》と。

5.

「Aちゃん、いるかい?」
「いらっしゃい。ごめんね、わざわざ呼び出したりして」
「いいよ。どうせ例の話なんだろ?」
「うん」
三人組は連れだって《J》にやってきた。Aがすぐに出たので、ほっとしたように店の中に入ってきた。
杉は君子と先に来ており、中央にある丸テーブルについて、熱いコーヒーで掌を暖めていた。Aは手早く新しいコップを出して、
「今日はお酒なしでいい?」
「ああ。酔っぱらっちゃ、ちゃんと話が出来ないだろ」
「そんなことより、もっと気にしなきゃならないことがあるだろう」
「店の中があったかいから、いらないよ」
三人がそれぞれ首を振ったので、Aは三人にコーヒーを出した。そして、空いている椅子を引いて座ると、ぐるりと五人を見渡して、しかつめらしくこう言った。
「今日、ここに集まってもらったのは他でもない、皆に、ストーカー・砂場乃城に対する対策を考えてもらうためである」
あまりに芝居がかっているので、思わず皆吹き出した。笑い事ではないのだが、もったいぶったAの仕草は場の緊張をほぐした。
「Aちゃん、なんか考えがあるようなことを言ってたじゃないか」
ケンさんが口を切ると、他も口々に、
「わざわざ集めてそれかい」
「案ぐらいあるんだろう」
「隠してないで教えてくれよ」
と言い出した。Aはふふ、と微笑んで、
「じゃあみんな、思いつく対策を言ってよ。消去法で答えるから」
周りは怪訝な顔をした。
「ああじゃない、こうじゃないってか?」
「そんなで大丈夫か?」
「三人寄れば、なんとやらか」
とけきらない表情ながらも、それぞれ首をひねりだした。
ふと、ヤスさんがおもむろに呟いた。
「とっつかまえて、ぶん殴る――一番簡単だ」
Aは首を振った。
「それですむなら、杉さんに頼んでおしまいさ。だいたい、現行犯で捕まえる事が難しいんだから。だいたい何処に住んでるかもはっきりわかんないのに」
こういう話の苦手そうなテツさんが、うむ、とうつむいて、
「なら、果たし状でも出して、皆の前で堂々と決闘するとか」
「いいけど、それを、僕が?」
Aが驚いたようにわざと目を丸くすると、全員失笑した。この華奢な青年に、決闘という大時代な言葉はあまりにも似合わない。すると、ケンさんが拳を突き出して、
「護身術を学ぶのは悪くないさ。攻撃は最大の防御なりって言葉もあるし、一撃必中、ヒット・アンド・アウェイを学べば、Aちゃんでもなんとかなるだろ。相手の顎をかすめるように一発殴って逃げる。もしくは、殴るとみせかけて相手の足を踏んで、その後いきなり突き飛ばすか――女でもできるようなやり方が、いくらでもある」
Aは苦笑いして、
「無理だよ。向こうの方がデカくて重いんだから、そんな正攻法じゃ勝てないよ。それに、勇ましいだけで勝てるような相手じゃないのは、みんなが一番知ってるでしょ? 護身術だけで守りきれない部分もあるんだよ」
杉がうなずいた。
「そうだな。身体でわかる相手じゃなさそうだ。頭でわからせるしか、ないんだろうな」
とたんに抗議の声があがった。
「説得ってか?」
「生ぬるいぞ」
「どうやるんだ」
Aは手をあげて皆を制した。
「生ぬるい、どうやるんだって言われても、下手なことはできないよ。今の砂場乃の最大の犯罪はひき逃げで、後は本当にささやかな嫌がらせだ。もしあいつにいい弁護士がついて、殺意が立証できなかったりした日には、すぐに刑務所を出てきて、みんなに復讐しにくるよ。そうならないためにも、頭である程度わかってもらわないといけないと思うんだ」
テツさんがため息をついた。
「で、話し合いか」
だが、これだけの事が起こっているのに、他に打つ手はないのだろうか。こういう事件の対応は、いざとなると、いい手を意外に思いつかないようだ。
するとヤスさんが口を挟んだ。
「しかし、そいつが聞く耳持ってるか? だいたいそういう奴は、おまえが悪いって言ったって、反省なんかしねえだろ。まして、今まで標的だったAちゃんの言葉を、素直にきくもんかな?」
そう言って首をひねると、ケンさんもうむとうなって、
「洗脳するくらい強烈なことしないと駄目だろ。表向きだけ反省させてもかえって良くないや。恨みの気持ちがかえって後で強くなってな……」
などと脅かすようなことを言う。
腕組みをして考え込んでいた杉が、そこで顔を上げた。
「それよりもA、相手の居場所がわからないのに、話し合いが出来るのか?」
Aはうなずいた。
「それこそ呼び出してやる。呼び出す手段ぐらいならあるんだ。僕も情報屋の端くれなんだ、方法はあるよ」
君子があ、と口元を押さえた。
Aが情報屋などと名乗って、昼間この近辺をふらふらしているのは、彼の自衛手段のひとつだったのか、とふと思い至ったのだ。新しい店や姉を襲うような輩がいないかどうか、それとなく情報を集めていたのなら辻褄があう。
君子の考えはほぼあたっていた。Aが姉の仕事をフルタイムで手伝いはじめたのは、もう平気だろうと踏んでいたというところがあった。
しかし、事ここに至っては、いっそ対決するしかない。
「安全に話し合う方法はある。そういう状況をつくれればね」
自分の考えで頭が一杯になっていた君子は、そこで思わず口を挟んだ。
「砂場乃を呼び出すのはいいですけど、私達はどうすればいいんですか? 私達はお手伝いが必要だから呼ばれたんじゃないんですか?」
「あ……うん。そう」
Aは白い封筒を幾つも取り出した。
「御明察の通り、僕の案が一応ここにある。集まってもらったのは、本当はこれを渡すためなんだ。みんなに迷惑かけてて悪いけど、これが最後だから頼みをきいてほしいんだ」
表書きを確認し、皆にそれぞれ封筒を渡す。封筒には彼らの名前が鉛筆で記されている。二重になっていて中が透けてみえないが、何か紙が入っているようだ。
「今日、家に帰って、誰も居ないところでこれを読んでほしい。そして、明日一日、黙ってその指示に従ってほしい。手紙にしたのは、盗聴その他をふせぐためだから、これについては誰にも話をしないでね。読んだらすぐ燃やして、誰にも見られないようにして。電話もしちゃ駄目だよ。全部書いてあるとおりにして、それ以外はいつもどおりに生活して」
彼らは顔を見合わせた。
「それで大丈夫なのかい?」
「Aちゃんはどうするんだ」
「指示どおりにできなかったらどうするんだ」
Aは静かに微笑んだ。
「やってみるだけさ。失敗したらその時はその時。心配しないで僕にまかせてよ」
いつになく強気に言いきる。
皆はとりあえず納得し、それぞれ封筒を懐にして店を去っていった。
杉が君子を連れて出ようとすると、君子が首をふった。
「Aさんにひとつだけききたいことがあるんです。少しだけ二人にしてください」
「わかった。待っていよう」
杉が店の外へ出、扉を背にあたりをうかがい始めると、君子は再びAとテーブルについた。
「僕にききたいことって何?」
君子は彼の瞳をじっと見つめ、重々しい声できりだした。
「Aさんの王様のシャツって、好きなひとって……本当は誰なんですか?」
「ごめん。それは言えない」
Aはため息をついた。これ以上君子に迷惑はかけられない。薄々は悟られてしまっていようと、最後までしらばくれていればごまかしようもある。個人の秘密はやたらに打ち明けるべきでない。
すると君子は話題を変えた。
「Aさんは『緋文字』って小説を知ってますか」
彼は眉間のあたりをおさえて、
「えーと確か、ナサニエル・ホーソーンが書いた姦通の小説だよね。十九世紀半ばのアメリカ文学」
君子はうなずいて、
「ええ。その中に、Aって文字が出て来るんです。昔、姦通の罪を犯した人が、adultery――不義密通の頭文字のAを、胸に見せしめにつけさせられたんですって。でも、ヘスター・プリンは――その話のヒロインはさらし者にされても、ちゃんと真面目に生き抜いてきたんです」
「で、僕がそのヘスターさんじゃないかって言いたいの?」
「はい」
「なるほど」
Aは、君子の勘違いを笑わなかった。むしろ優しいくらいの声で、
「あのね、『緋文字』は文学史の知識として知ってるだけで、実物は翻訳も読んだことないんだ。それに僕は姦通はしてない」
ふと遠くを見るような眼差しで、
「それに、Aって名前は僕の母親がつけたんだ。恋というのは月夜の風邪で、その子供は、単なる月の翳みたいなものなんだって。そういう意味でつけたんだって。……でも、僕はAなんだ。影だなんて、絶対他の誰にも呼ばせないよ」
口調は穏やかだが、そこには普段みせない激情が秘められていた。君子が言葉をなくしていると、Aはすぐに申し訳なさそうな微笑みを浮かべ、
「ごめん。教えてあげられるのは、砂場乃を裁くのは僕じゃないってことだけなんだ。だって僕じゃ裁けないんだよ。立場が似すぎてるんだもの」
「似てる?」
「これ以上は言えない。今は封筒の指示に従ってよ。いつか話せると思うから、それまで待っててほしいんだ」
「わかりました」
君子は立ち上がった。どう押しても話してはくれないらしい。ここは一旦ひくしかない。
「今日は帰ります。いつか話してくださいね」
「うん。いつかね」
君子はその言葉を信じて、杉と自分の家に戻った。
道すがら、二人は何もしゃべらなかった。つけられていたら厭だし、お互い別々の事を考えていたからだ。別れの挨拶まで簡単にすませた。
「それじゃ、充分気をつけて」
「ありがとうございます」
君子は一人になると、鞄から封筒を取り出した。
この指令書には、果して何が書いてあるのだろう。
Aは以前、時間さえあればなんとかなる、と言った。これは情報戦だ、とも。
今日のAは、わざとあんな集まりを開いた筈だ。きかれているのを承知で、とぼけたことを言った筈だ。彼に限って、相手の住所も知らないなんてありえない。Aの作戦はおそらく《相手を騙す》ということ――この手紙にはだから、Aの真意が記されている筈だ。文章であれば、少なくとも盗聴はされない。読んだ後で燃せば、作戦は洩れない。それがどういう種類の指示であっても。
君子ははさみを持ち出して、封の上を切った。
中身は二枚の白い便箋だった。
そして、文章は一文字たりとも記されていなかった。
君子は呟いた。
「やっぱり」
おそらく、全員白紙が入っていたのだな、と君子は思った。これの真意は《なにもしないでくれ》ということ――彼の仕掛けは終了したのだ。これが最後のはったりだったのだ。
私に迷惑をかけてもいいのに、とは言えなかった。私達は砂場乃にマークされている。動けばかえってAの迷惑になったろう。彼がしきりに私達に謝るのはおそらく、《おとりにしてごめん》ということなのだろう。
しかし、Aは一人で何をしたのだろう。
どうやって砂場乃を退治するつもりなのだろう。
「あ」
ふと、君子の頭の中で閃くものがあった。
《そんなに砂場乃がAのシャツがうらやましいなら、いっそ彼にも着せてやればいいんじゃないの?》
でも、そんなことができる?
他人を人工的に幸せにするなんて。
人が嬉しいと思うこと、楽しいと思うことは、個人によっておそろしく違う。タイミングの問題もある。辛い時に他人に親切にされるのは嬉しいが、怒っている時や忙しい時には親切もお節介に感じる。
「幸せって何なんだろう。私が幸せな時って、どんな時だったかな……」
そんなことを呟きながら、封筒を流しへ持っていって手紙を焼いた。
あぶりだしになっている訳ではなく、便箋はそのまま燃えた。もしあぶりだしになっていたら、たぶん以下のような文字が書かれていただろう。

《ごめんね、みんな。本当の事言えなくて。
砂場乃はいわゆるストーカーじゃない。
だから、一番いい対処法は、適当に構ってやることなんだ。ありふれたやり方だけど、本人の気がすむようにしてやることなんだ。でも、ここまで行き違いがある訳だから、そう簡単にはいかない。それに、僕だけが被害にあったならともかく、他のひとも巻き込んでる立派な犯罪者だ。
だから、裁かれる前に、僕も一矢むくいたいんだ。
ごめんね、みんな。おとりに使ったりして。》

何故ならば、店に一人残ったAは、心の中で繰り返しそう呟いていたからだ。遅くまでむやみにそこで煙草をふかしていたが、気持ちがようやく静まると、灰皿を片付けて自分の部屋に戻った。
《やれるだけのことはやった。失敗したらその時はその時だ。僕には他に方法がなかったんだ――》
そう呟いて、冷たい布団の中にもぐりこんだ。

6.

「親父、貴様殺してやる!」
自分の怒鳴り声で目が醒めた。
「ああ、夢か」
覚醒と共に、夢の内容は急激に失われてゆく。今の台詞からしていい夢でなかったことは確かだが、何故あんなことを叫んだかは、すでに曖昧になっていた。アパートの他の住人に聞かれていなければいいがと思いつつ、砂場野は身を起こした。
「そういえば最近、夢を見るような眠り方をしてなかったな。そんな余裕もなかった」
電気ストーヴのスイッチを入れたが、すぐに着火しないので空気が暖まらない。彼は再び布団に戻った。
暖かい。
今日の布団は妙に柔らかかった。まるで昼間陽にあてて、布団叩きでよく叩いて空気を入れ、風が冷たくなる前にちゃんと取り込んだもののような弾力がある。そのぬくもりの心地良さと懐かしさ。いつまでも横になっていたい気がする。しみじみと朝寝を味わっていたくなる。二度と抜け出せないような気さえする。
「疲れてるのか……こんなことを考えるなんて」
昨晩、Aの店から帰る五人を、ついにつけきれなかった。いっぺんに五人を相手にするのは難しい。盗聴も同時には不可能だった。
なに、昨夜のAの召集ははったりだろう。いかにも何かあるように思わせて、気をそらせようとしたのだ。こちらの居場所ぐらいはつきとめているかもしれないが、それで何が出来るというのだ。嫌がらせのキャリアはこちらが上だ、あんな薄っぺらい正義漢にやられてたまるか。
「ふ。それにしても、馬鹿な事をやってる」
砂場乃は、Aを追いかけるために定職についていなかった。彩子に捨てられた後、彼の生活はすっかり荒れてしまい、最初の会社をクビになってしまったのだ。
理系の彼には、新しいまともな就職口もあった筈なのだが、あえてそれを選ばなかった。それからの彼は、夜もできるアルバイトを転々とした。コンビニやファミレスの深夜勤、夜だけの警備員、夜だけ出ればいい小さな酒場。昼間はAの後をつけ、情報を集め、ありとあらゆる嫌がらせを考えては、周囲からじわりと攻撃する。
「馬鹿とわかってやってるんだ、今更だ」
砂場乃は寝返りをうった。
ある意味これは、充実している日々でもあるとも言える。人殺しになってもいい、と思うほど誰かを憎めるというのは激しい情熱だ。いつまでも執着し、どこまでも追いつめてゆくこと――それはある意味恋に似ている。もちろん、砂場乃がAのことを考える時の気持ちは恋ではない。だが、吐き気がするぐらい嫌いなのに、Aの事を考えずにはいられない。頭から離れないのだ。
「いや、殺したっていいんだ」
気持ちがさっぱりするなら、自分の手をもっと汚しても構わない。Aを血まみれにするのは難しくあるまい。
だが、あいつを死なせて楽にするのはつまらない。
もっと苦しめてやらなければ気がすまない。真綿で首を絞めるようにして、いっそ自殺したくなるぐらい辛い思いをさせてやるんだ。
直接的な暴力は、Aには二度とふるわない。俺は本当は暴力が嫌いなんだ。俺は親父とは違うんだ。
「親父とは、違う……」
そういえば、昔は親父を殺してやりたいと思ってた。あいつはいつも母さんを泣かせていた。酔って俺を殴るだけならいい、だが、母さんを苦しめるのだけは許せなかった。どうして別れないんだ、といつも思っていた。いや、口に出して言ったこともある、俺のことを考えて別れないというんなら、それは違う、と。しかし、母さんはそうじゃない、と答えた。ただ我慢している訳じゃないのよ、私は城のお父さんを愛しているの、いつかあの人も変わる日がくるわ、優しくなる日がくるわ、と。
だが、実際の父は、その前に癌で死んだ。自分の身体がボロボロになって動けなくなるまで、妻と息子を殴った。体格はすでに息子の方がよかったが、気迫で殴りつけるのだ。
「そんなことはどうでもいいんだ。どうでもいい」
砂場乃はやっと布団から這い出た。上着を羽織ると窓を開ける。
「ああ、咲いたのか……やっと」
ベランダに置かれたプランターに、三十センチ程の高さのひまわりが数本育っている。その、最初の花が咲いていた。
冬の、ひまわり。
夏のものとは比べものにならないぐらいひよわな姿だが、自然界のひまわりは、この冬の花が落とした種で夏を迎える。本当の意味でしぶとく強いのは冬のものの方なのだ。
「もう少し暖かくなったら、水をやるからな」
このプランターは、砂場乃の前の住人が置いていったもので、彼が種を蒔いた訳ではない。だが、芽を出しているのに気付き、水をやっていたのは彼だ。霜柱が溶けて、水をやっても根が凍らない頃合いをみはからって世話をしていた。こうしてけなげに咲いているのを見ると、やはり嬉しいものだ。丁寧に面倒をみてやれば、残りの二、三本も咲くだろう。
花をひととおり見、窓を閉めて部屋に戻ると、そこで玄関の呼び鈴が鳴った。
「砂場乃さん。宅急便です」
「はい」
寝巻のままで荷物を受け取る。
「誰なんだ? 誕生日はとっくに過ぎたしお歳暮には遅い」
差出人を見てみると、とある大手のコンビニだった。以前、どこかの店でいいかげんに書いたアンケートの懸賞があたったらしい。賞品は、最近再び流行だりしているポータブルのレコードプレイヤーで、アナログを持っていない人間のためなのか、六、七十年代ポップスのレコードがついていた。面白がってかけてみると、意外なほど豊かな音が流れだす。トラック数こそ少ないが、当時にはそれを補う余情があった。シャープなCDの音に慣れた耳には、針がひろう埃のノイズまで新鮮に聴こえる。
「俺が子供の頃は、みんなこんなもんだったんだよな」
初めて自分でレコードをかけた日はいつだったろう。盤に針を落とすのは緊張する作業だ。そっと落とさないと傷をつけてしまい、針とびの原因になるからだ。小さい頃は、盤をちゃんとデッキにかけるのさえ難しく思えた。LPは重い上に穴の位置が見えにくくて……そういえば、ビニール製の小さなレコードもうちにあったな。ソノシートとかいって、赤とか緑とか青とか、子供向けの鮮やかな色合いのペラペラなレコードに、童謡やら唱歌やらが入ってて、母さんと一緒に歌ったりしたっけ。今の子供はあんなものは知らないんだろうな。いや、当時ももう古くなりかかってたか。
思いを巡らせていたその時、再びドアのベルが鳴った。
「どなたですか」
「城……いるのね」
「母さん!」
「近くまで来たから寄ったのよ。入ってもいいかい?」
砂場乃は緊張した。母に下宿の住所は教えてあったが、ここに訪ねてくるのは初めてである。
だが、今の生活を見られたくはなかった。見ただけでは何をしているかは知られないだろうが、顔や肌や仕草に、生活の荒れや精神のひずみが出ているかもしれない。実際ここに住み始めてから、鏡をのぞくのが厭になっていた。
彼は急いで服を着替えながら叫んだ。
「凄くちらかってるんだ、どこか近くの店にでも……」
「ちらかってるのなんて気にしないよ。荷物も持ってるし、外は寒いんだ。いれておくれ」
ことさら皺枯れた声で答える。砂場乃はあきらめてドアを開けた。
母はすう、と入ってきて、部屋の中を見回した。
「片付いているじゃないの。そうね、城は昔から整理整頓が自分で出来る子だったものねえ」
「でも、まだ布団も片付けてないんだよ。とりあえず台所で待っててよ」
「それじゃあ朝御飯もまだだね、何かつくらせてもらうよ」
母親はお勝手をのぞいた。手に持った荷物は食材のようだ。割烹着を取り出して仕度を始める。
「母さんはお客なんだから、まず座ってさ」
「ああ、私の御飯じゃ食べられないかい」
「そうじゃなくて……わかったよ」
これ以上言い争っても無駄らしい。あきらめた砂場乃は、後をまかせて寝室の片付けを始めた。
それが終わると、台所へ戻って母の仕度を待つ。
「もうすぐ出来るから待ってなさいよ」
「うん」
出来たおかずから順に小さいテーブルにのっていく。最後は味噌汁とお粥だった。
「さ、これでいい」
「ありがたくいただきます……あ」
朝から粥か、と思いながら一匙口に入れて、思わず涙ぐみそうになった。
焼いた鯛をほぐしたのと三つ葉の入ったその粥は、彼が病気の時にいつも母がつくってくれたものだ。すぐに元気が出るように、と特製の出し汁で上品な薄味に仕上げてあり、どんなに具合いの悪い時でも食べられた。優しい言葉と共に出される椀に満ちているのは、ただの食べ物ではなかった。うつむいて椀を置く。
「やっぱり、母さんの御飯は美味しいんだな」
「まあ、一人だと偏るし、いろんなものが食べられないからね。そう思うんだよ」
母親も嬉しそうに箸を動かす。
「私もおまえが出ていってからは寂しくてね。御飯が美味しくないんだよ。誰か差し向いで食事をとってくれるひとがいるといないのでは、随分と違うもんなんだよ」
「そう……」
と返事をしかけて、砂場乃の手が止まった。今の言葉には、ありふれた会話以上の含みがあるように思われた。
おかしい。
朝からわざわざ訪ねて来たのは、まさか。
「母さん、再婚でもするのかい?」
母親は吹き出した。
「そうじゃないよ。ただ、おまえに戻ってきて欲しいと思ってるだけだよ。一人で暮らすのは不用心だし。城の仕事の都合があるなら、私がこっちへ越してきてもいいんだよ」
顔は笑っているが、声は真剣だ。砂場乃の心はグラついた。母さんがそんなに寂しい思いをしているなら、しばらく家に戻ろうか、と。Aへの復讐はいつでもできる、間を置いた方が効果的かもしれない、などと考えていると、母親が言葉を継いだ。
「……それに、実はおまえにあわせたいひとがいるんだよ」
「見合いかい? 俺にはまだ早いよ」
砂場乃はうつむいて粥をすすった。そんな気持ちには到底なれない。第一、今の俺に結婚が出来ると思うか。恨みと犯罪に生き、定職もないこの自分が。
「見合いじゃないよ。でも、紹介しておきたいんだよ」
母親はいきなり、冷蔵庫の方を向いて声を上げた。
「そんなところで立ちっぱなしにさせておいてごめんなさいね。出てらっしゃいな」
砂場乃が片付けをしている間に入り込んだらしい。冷蔵庫の影から、小柄な女がそっと出てきた。
「お久しぶりです」
砂場乃は全身を硬直させた。
「彩子……」
黒いワンピースに身を包んだ彼女を信じられないように見つめ、次の瞬間勢いよく立ち上がった。
「母さんは彩子が何だかわかってるのか。わかってて連れてきたのか!」
しかし、怒鳴り声にも母は少しも動じなかった。
「ええ。その様子だと、城も彩子さんが誰だかわかってるようね」
「わかってるさ。親父が他でつくった娘――腹違いの妹だ!」
「……兄さん、知ってたの」
彩子がその場に立ち尽くしたまま呟く。砂場乃はギロリと妹をにらみ、
「あたりまえだ。おかしいと思ったんだ。急に俺を避けるようになるなんて。別の男とつきあってるようでもないのに、いきなり連絡してこなくなったんだ、疑うに決ってるだろう。だから、おまえの母親の知りあいを片端から訪ねまわったんだ。世間てのは好奇心の塊だ、おまえの父親が誰かを探り当ててる赤の他人が、何人も何人もいたんだよ。だから、どうしておまえが俺の前から消えたのかも、ちゃんと後でわかったんだ。おまえがどれだけ苦しんだかもな」
「それじゃ、どうして今でも、Aに嫌がらせなんか……」
彩子の声は消えそうな程に小さかった。砂場乃の声は更に大きくなった。
「俺はあいつが嫌いなんだよ。だからするんだ。おまえとは全く関係ないんだ。あいつは卑怯者で臆病者なんだ、しかもそれを自分で知ってて、すっかり開き直ってるんだ。だいたい今だってな」
彼は寝室にとって返し、さっき配達されたばかりのレコードプレーヤーを持って戻ってきた。裏返して、スピーカーらしき所へ怒鳴る。
「わかってるんだ。これで盗聴してるんだろう。朝からどうもおかしいと思ってたんだ、こんな猿芝居をうちやがって。どこにいるんだ、すぐに出てこい!」
するといきなり、ドアの向こうから大きな声がした。
「盗聴機はそこじゃないよ。昨日、砂場乃さんのお母さんにとりつけてもらったんだ。管理人さんに言ってドアを開けてもらってね。昨日の夢見はどうだった? お母さんに干してもらった布団の寝心地は。暖かい布団は幸せの第一歩だって、どこかの漫画家も言ってたけど……」
「貴様!」
砂場乃がとびついてドアを開けると、彼の手をかいくぐったAが、するりと部屋の中に入ってきた。
「ああ、やっと入れてくれるんだね。寒空の下で待つのは、ちょっと辛かったよ」
コートとマフラーで武装したAは、手袋も外さずに食卓につく。
「お邪魔します」
平然と言い放って、ニコリと女二人に笑いかける。
砂場乃は今すぐ彼を殴り倒したかったが、母と妹の前なのでかろうじて踏みとどまり、低くドスをきかせた声で、
「なにしにきたんだ、なんのつもりだ。俺はおまえの話なんかきかない、それはわかってるだろう」
Aはコクンとうなずいた。
「うん。僕も自分の話をするつもりはないよ。どうせきいてくれないんだから、話してもしょうがないもん」
「じゃあ、いったい」
「彩子さんが砂場乃さんにききたいことがあるって言うから、立会いに来たんだ。だって友達なんだもん。ね?」
目配せをして頬杖をつく。うなずいた彩子はそろりと移動し、Aの脇に立った。
砂場乃は、ただにらむことしかできない。
「母さんと彩子を盾にとったか。まあいい。彩子の話はきいてやる」
「兄さん」
彩子は一瞬兄を見つめ、そして目を伏せてこう言った。
「……兄さんは、まだ私が好き?」
砂場乃も視線を背けた。
「妹としてはな。もう、妹としか見られない。おまえだってそうだろう、兄としか思わないだろう」
彩子はうなずかなかった。頬を押さえてうつむいたまま、
「私は、兄さんを兄さんだと思うのにはうんと時間がかかったわ。すぐには気持ちが醒めなかった。兄さんのことをどう考えていいのか、なかなかまとまらなかったわ。だから……だから、今まで戻ってくる訳にはいかなかったの。ごめんなさい」
「それは……」
砂場乃の表情が崩れた。恋人同士だった頃の記憶が蘇ったのか、頬に血をのぼらせた。今でも好きだと言ってしまいそうなのか、硬く口唇を噛みしめる。
彩子は低い声で続けた。
「兄さんは、Aが私の恋人でないとわかってたのに、どうしてずっとつきまとったの? 嫌がらせをしてきたの」
「俺は、おまえをなくすのが怖かったんだ。妹でもなんでも、おまえと離れたくなかったんだ。それをあいつが……」
砂場乃はついに背を向けてしまった。声も少し震えてきた。
「人間は、不安だと一人ではいられないものだ。苦しい時は仲間同士結束を固めるものだ。もし、おまえが悩みを打ち明ける相手を見つけられなかったら、結局最後は俺のところにきただろう。妹だってことはいつまでも隠しとおせないんだ、俺を好きなら、逆に必ず話してくれる筈だと信じてたんだ。それなのに、おまえは他にはけ口をみつけた。Aとかいう妙な男をな」
だんだん声に怒りが戻ってくる。
「そいつがおまえの不安をごまかさなかったら、俺達は離れずにすんだ筈だ。とことんまで話をすることもできた筈だ。余計なことをされたんだ、そいつを憎んで何が悪い」
「兄さん」
砂場乃がふり返った。瞳が興奮でギラついている。
「だいたい、こんな奴に頼るのが間違いなんだ。こいつは誰にでも親切にする、ただのお節介野郎なんだぞ。しかもいまだに懲りないで、若い女にいい顔をして回ってるんだ。好きな女がいるくせに、他の女にいやらしい色目を使うんだぞ」
「兄さん、そうじゃないわ」
しかし、砂場乃はついにAの襟元に手を伸ばし、そのマフラーを掴んだ。
「俺はな、おまえが誰を好きか知ってるんだぞ。おまえなんか、人の面倒を見る資格のない甘ちゃんだ。好きだと相手に迫ったこともない、とことん腹をわって話したこともないくせに、何が恋の相談にのるだ、ふざけるな!」
Aは慌てず首を回した。マフラーがほどけ、彼はすぐに自由になった。平然と相手を見つめ返しながら、
「よく御存知で、と言いたいところだけど、こうして僕に話しかけたってことは、僕の話をそろそろきくつもりになったの? それとも、僕の言葉はまだ無駄話?」
「貴様は……」
砂場乃がさらに迫るのを、すい、とよけて立ち上がる。
「まず最初に言っておくけど、僕は別に、誰の恋の相談にものってないよ。話をきいたりすることはあったけど、ああしろこうしろなんて偉そうなことは言わない。言えないもん。それを罵られても困るよ」
薄い微笑を浮かべて、更に砂場乃の手をよける。
「僕の悪口ならいくらでも言うといいよ。確かに僕は、卑怯だし臆病だし、何もできない甘ちゃんだ。誰にでもいい顔するし、懲りたと思ってもまたお節介を焼く。事実だからしかたがない。でも、僕の恋の悪口は言わせないよ。君の恋とは違うんだから」
少しずつ下がりはするものの、視線だけは強く譲らない。
「僕はただ、好きなひとを涙でつなぎとめるのが厭なんだ。互いにありのままでいるのは賛成だけど、膿のどん底までさらって傷つけあうような恋はしたくない。好きだって気持ちだけで、相手をとことんまで追いつめる権利はないと思うからね。自分に打ち明けられない事があるからって、相手を不実だと思ったり責めたりしない。例えば、彩子さんの逃亡は彼女なりの思いやりだったでしょう。僕なら責めない。苦しいけど、責めないよ。でも、君は責めてる。うんと卑怯なやり方で、遠まわしの方法で」
「俺は……俺だって責めるつもりは……責めてなんか……」
砂場乃の声が急に弱くなった。彩子を振り返り、助けてくれとでも言うようにじっと見つめた。
彩子の瞳は悲しみに曇っていた。
砂場乃の声はかすれた。
「もしかして、責めてたのか。こいつをずっと追い回すことで……彩子」
彩子は静かに首を振った。
「いいの。責めても……今なら」
「すまない。そんなつもりじゃ、なかった」
砂場乃はその場に膝をついた。床に額をつけ、彩子に向けて何度も謝った。
「悪かった。そんなつもりじゃなかったんだ。自首する。全部償う。許してくれ。すまなかった」
その時ノックの音が響き、男の声が続いた。
「そうだな、自首してくれるとありがたい。逮捕状は無駄になるがな」
Aがすぐにドアを開けた。
「ごめん杉さん、待たせたね」
杉が若い警官を引き連れて入ってきた。
「いいさ。暴れる犯人を取り押さえるよりは、手間がかからなくていいからな」
「逮捕状だって」
驚いた砂場乃が立ち上がると、杉はその手を掴んだ。
「頼むから、手錠をかけさせるような真似をするなよ。自首するんだろう。なに、とりあえずの罪状は引き逃げだけだ、うまくすれば交通刑務所だけですむ」
砂場乃はしまった、とうめいた。引き逃げはやはりやりすぎたのだ。車は盗んだものだし、証拠もうまく消したつもりでいたが、逮捕状が出たということは、どこかで足がついたらしい。
杉は砂場乃の手を引きながら、
「Aを恨むなよ。引き逃げの逮捕状が今日出るかどうか確認はしてきたが、Aのせいでおまえは捕まるんじゃない。警察もやる時はやるというだけの事だ」
とおしかぶせる。Aは知らん顔をしている。彩子が兄に駆け寄った。
「兄さん、騙しうちみたいにしてごめんなさい。私もこんなことがしたかったんじゃないのよ」
砂場乃は低く笑った。
「やはり俺が嫌いになったんだな。こんな俺だ、憎まれても当り前だが」
彩子は首を振った。
「違うわ。私は兄さんが好きよ。嫌いじゃないのよ」
「俺のどこが好きだというんだ」
彩子は兄の片手に触れ、兄の瞳をじっと見つめた。
「私が兄さんを憎む理由はないのよ。それは、一時はひどいと思ったこともあったわ。でも、砂場乃城ってひとは、私には少しも危害を加えなかったのよ。私の前では惨いことはしなかった。私がどうして離れたのかも知ってたし、辛かったのも察してくれた。黙って消えたのに恨みもせず、さっきも迷わず妹だと言ってくれた。恋人としても兄としても、私にとっては素晴らしいひとだった。他の人は兄さんを許せないかもしれないし、兄さんのしたことはいけないと思うけど、お母様と一緒に待っていることぐらいは、できるわ」
言われた砂場乃は、はっと母を振り返った。
「母さん」
彩子と母は本来はなさぬ仲の筈だ。彩子本人には非はないが、一緒に待つなどということができるのか。
しまった。
そこまで話がいっていたのか。
さっき、一人で食事をとるのが寂しい云々などと言い出したのは、そういう伏線だったのか。
案の定、母親はうなずいた。
「私は彩子さんと待っているよ。このひとも、私の大事な家族なんだ。二人で待っているからね、全部きれいにして戻っておいで」
砂場乃は薄く笑った。しかし、その笑みには、先ほどまでの歪みはなかった。むしろ爽やかに澄んでいた。
「わかったよ。時々はあいにきてくれ。一人じゃ寂しいのは俺も同じだ」
母と妹がうなずくと、警官達に連れられて出ていった。
ドアが閉まると、Aは大きくため息をついた。
「……はあ」
自分のマフラーを拾いあげる。砂場乃がさっき、彩子とのやりとりの最中に落としたのだ。軽く埃を払って巻きなおす。
「すぐにほどける巻き方しといてよかったな。あんなとこで首絞められちゃかなわないもん」
「A」
「Aさん」
二人がAに声をかけようとすると、彼はぴょんと頭を下げた。
「どうもお邪魔しました。辛いことさせてすみません。御協力、本当にありがとうございました」
「こちらこそ、ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
母親が謝ると、Aは急いで手を振った。
「悪いのはお母さんじゃないんだから謝らないで下さい。それじゃ失礼します。サイコさんも、頑張ってね」
彩子はほんの少しだけ微笑んだ。
「ええ。またあいましょう」
「うん。今度は普通の友達としてね。じゃ」
Aはトン、と外へ出た。
砂場乃が、杉が用意したパトカーに乗り込んで去ってゆく。角を曲がる所まで見届けると、近くの電話ボックスに入って電話をかけはじめた。
「作戦終了したよ。指示通りにしてくれてありがとう。砂場乃は無事につかまりました」
それだけ一方的に言うと、次の電話をかける。例の四人にかけおえるのに、一分強しかかからなかった。
「はい、おしまい」
ボックスから出ると、明るく晴れた冬空を見上げて、Aはぼそりと呟いた。
「これでなんとか、あいつにも王様のシャツが着せられたんだといいけどな。それにしても、情報屋のくせに、砂場乃母さんに連絡とるのを他人まかせにしちゃったのは辛かったなあ……今回はまあ、しかたなかったけど」
出てきたあくびを噛み殺す。
「疲れた。今日は一日寝てよう。せっかくのいいお天気だし」
手袋の手をコートのポケットへつっこむと、おそろしい寒がりのように背中を丸めて歩き出した。
外で待っていて辛かったのは、本当だったらしい。

7.

砂場乃の逮捕の日の夕方、ひとねむりしてさっぱりとしたAは、宵子の病院を訪ねた。
眠ったせいで顔色もよくなったし、気持ちもすっかり落ち着いていた。事件も片付いたのだ、姉にあわせる顔はできるだけ良いものでありたい。洗面所の鏡で最終確認をすませると、病室に向かう。
外には、杉の頼んだ警備の二人がまだ立っていた。杉の好意で、砂場乃の取調べがひととおり終わるか、退院するまでは警戒をとかない、ということになっているのだった。
Aは二人に通してもらい、中へ入った。
宵子はベッドに入っていたが、怪我はほとんど直っていた。松葉杖があれば歩けるし、遠からずそれもとれる筈だった。しかし、事態が事態なだけに、杉の配慮で個室に閉じ込められている。リハビリも部屋の中でしかできない。籠の鳥の宵子は、Aの訪問をいつも喜んだ。
「今日は遅かったのね」
「うん。昨日あんまり寝てなくてさ、昼間から寝ちゃったんだよ。ごめんね」
Aは上着を脱いで、姉のベッドに寄った。
「あのね、今日、砂場乃がつかまったんだ。皆にも、安心していいよって知らせて来た。もう、二度とあいつに襲われることはないと思う。もし、刑期が終わって警察から出てきても大丈夫。本人、一応全部納得してから捕まったみたいだからさ」
「それはなによりだわ。……お疲れ様、A」
宵子は上半身を起こし、いたわるような笑みをこちらに向けた。
胸が、つまる。
僕が姉さんを辛い目に遭わせたのに、と。
砂場乃の前できった見栄が思い出される。
おまえは卑怯だ、という相手の罵りも。
そう、僕は卑怯できれいごとを並べる臆病者だ。姉さん以外の人間が相手なら、きれいごとなんていくらでも言える奴なんだ。
いや、姉さん相手でもきれいごとが言える。けど、言いたくないんだ。
違う。言えないんだ。
本当に大事な相手の前だとうまく動けないなどというが、理屈以前に理性が働かなくなるからだ。
でも、言っちゃ駄目だ。駄目なんだ。
「A?」
黙ってしまった彼を、宵子が怪訝そうに見つめる。
Aは返事をしたかった。
しかし、今口を開くと、とんでもないことを口走ってしまう気がして、何も言えないのだった。
《触れたい》。
夜、同じ屋根の下にいなかっただけで、どれだけ寂しかったかしれない。ほんの少しでいい、今だけ甘えさせてほしい、と。
だが、まだよく動けない姉に何かしようとするのは、ひどく卑怯なことに思えた。
でも、触れたい。
そう、ただ黙って抱きしめるだけなら。
口唇より先に身体が動いた。彼は、姉の上半身にすがりつくように腕を回した。
「A……」
宵子の口から、ため息ににたものが洩れた。
しかし、Aの方はどうしても言葉が出ない。何と言っていいのかわからない。腕に力を込めることしかできない。
宵子は黙ってAにされるままになっていた。仕方がなさそうな素振りも、我慢してやってるんだという緊張もない。
心臓が、高鳴る。
実を言うと、一緒に暮らしたこの六年の間でさえ、この姉に触れたことがない。わざとでなく軽くぶつかるようなことはあっても、親愛の気持ちをこめて肩を寄せることすら、いや、手すら握ったことがなかった。宵子はだらしないことをなによりも嫌うので、不必要な肌の露出は絶対にしないし、洗濯物の扱いや風呂場の使い方にも充分注意を払い、そういう意味でAの心を乱したことはなかった。
それどころか、プライバシーもごくごく秘密で、友人関係さえ弟に洩らしたことがない。Aも別に知りたくはなかった。ある日突然、《今日からこの人があなたの兄さんよ》と見知らぬ男を紹介されても、弱々しく笑って受け入れるしかないのだから。
それは完全にあきらめているからではない。Aはいつも宵子に触れたいと思っていた。自分だけのひとであって欲しい、と願っていた。
だが、時に横顔に見とれているだけで叱られるのだ。視線だけでも遠ざけられるとしたら、惚れ抜いている分、かえって手はだせなくなる。
だから、こんな風に抱きしめるのは初めてなのだ。
しかし、宵子は言葉を継がない。
突き放す台詞も、仕草もない。
「どうして……」
何も言わないの、嫌がらないの、という言葉が続けられない。きけないのだ。男として警戒されていないのなら、そういう対象として考えられていないのなら、これは自然な抱擁に過ぎない。厄介な事件がやっと片付いたのだ、感極まって抱きついたからといって、いきなりは邪慳にすまい。
それにしても、宵子は一向にこちらの腕をふりほどこうとしない。静かに身をもたせかけて、そのまま動かない。ぬくもりと重みだけが伝わってくる。
「姉さん」
津波のように押し寄せてくる感情に、Aの声はかすれた。このままでは理性の鎖がちぎれてしまう。身体が頭の命令をきかなくなる。
「姉さん、このままだと僕、うっかりいい気になっちゃうからさ……あの……」
「A」
宵子の頬がAの頬に押しつけられた。ごく小さな囁き声が、彼の耳に滑り込む。
「本当に二人きりの時は……宵子って呼んでいいのよ」
Aは姉から首を離した。
相手の瞳を見つめ、今の言葉が聞きまちがいでないとわかると、彼女をそっとベットの上に押し伏せた。
薄茶の髪がサラ、と宵子の頬に垂れかかる。
「この髪の長さ、キスするのにはちょっと邪魔だね」
今は誰も見ていない。誰も聞いていない。
この口吻を、誰も知らない……。

8.

「Aさん、その髪どうしたんですか!」
暮れもおしつまったその夕方《J》を訪ねた君子は、バーテンダーの変貌ぶりに思わず声を上げた。グラスを磨く姿も黒いチョッキもかつてのままだが、肩に届くくらいに切り揃えていた薄茶の髪を、更に短くしてしまっているのだ。前の方こそ頬を隠す長さだが、後ろもボーイッシュな少女のように少なめにそぎ落としてしまっている。
「あ、キミさん、いらっしゃい」
Aは嬉しそうな笑顔で彼女を迎え、タンブラーに水を注ぐと奥の席に君子を招いた。彼女は目を丸くしたまま、
「なんで、もっと短くしちゃったんですか」
「ただの気分転換だよ。この長さだとおかしいかな」
おかしいことはない。Aの顔は完全な美人顔なので、どんな髪の長さもよく似合う。五分刈りだろうが完全に剃ってしまおうが、それなりに美しいに決まっている。
しかし、これはどうした心境の変化だろう。確かに前よりはさっぱりしたが、今年も残す所あと一日、誰も彼もが忙しい時期に、切ったばかりの髪を再びカットするとは。砂場乃の逮捕からも間があいている、宵子の退院からも数日がたっている、事件の関係ではあるまい。まさか、正月の晴れ着にでもあわせるつもりなのか。君子が首を傾げていると、Aはなおさらニコニコして、
「じゃあね、もう一回、なんで切ったかきいて」
「なんで切ったんですか?」
「カミソリで」
古典ジョークを真顔で言う。君子はあきれておうむ返しに、
「本当にカミソリで切ったんですか?」
「うん。削いだから切り口がキラキラ」
確かに、照明があたると髪の先がひかって、薄茶の海の上で小さな星が輝くようだ。剃刀で削いだのは本当らしい。
ふいに君子はあ、と何かに気付いたように口元を押さえた。
「何か特別、いいことでもあったんですか」
「え?」
君子はにっこりと微笑んだ。
「だって、願をかけてる人が、願いがかなうと切るっていうのがあるじゃないですか」
「別にそんなんじゃないよ。願なんかかけてないもん」
「ふうん。それならそれでもいいですけど」
実は彼女は察していた。
宵子とAが、姉と弟以上に仲良くなったのだ、ということを。

★ ★ ★

病室の前の二人の警官はまだ警備中だった。見覚えのある親切な二人だ。
「あの、さっき砂場乃は捕まったんらしいんですけど……」
Aの電話を受けた君子は、そのあとすぐに病院にとんできたのだった。もう自由に動いても迷惑はかからないと思った瞬間、君子の脳裏に真っ先に浮かんだのは宵子のことだった。今なら面会時間中だ、Aより先に彼女にあえるかもしれない。そう考えた瞬間に家を飛び出していたのだ。
しかし、警官達の妨害にでくわしたのは計算外だった。君子は内心舌打ちしながら、
「連絡、こちらにはきてないんでしょうか」
背の高い方が先に答えた。
「捕まったのは知っています。しかしまだ取調べ中ですし、誰か他人を頼む可能性があるというので、警戒はしばらくとけません」
杉の命令らしい。用心深くていいけれど、余計なことをしてくれる、と君子は思った。しかしそれは表情に出さず、上目づかいでおそるおそる、
「では、宵子さんと二人で話をするのは、駄目ですか?」
いかにも控え目に尋ねる。すると、若く見える方の警官がニコリと笑って、
「氷富さんは身元が確認できていますから、構いませんよ。本人もお元気だし、一人部屋で退屈していますから、どうぞお入りください」
「いいんですか」
「あまり長くならなければ」
「よかった。ありがとうございます」
君子はピョコンと子供っぽく頭をさげ、いかにも無害そうな笑みを浮かべて病室に入った。
「こんにちは。宵子さん、起きてらっしゃいます?」
「あ……氷富さん」
宵子は上半身を起こしていて、ラジオをつけて雑誌を広げていた。すぐにそれを閉じ、ラジオも消し、
「御迷惑おかけしてて、本当にすみません」
目も伏せがちにいきなり謝る。宵子は慌てて手を振って、
「いいんです。砂場乃はさっき捕まったんです。Aさんは無事ですし、私も大丈夫ですから」
「そうですか」
ふと窓辺の花に目をやって、
「それにしてもすみませんでした。お見舞いもいただいてしまって……ありがとうございます」
「たいしたことじゃないですから。下心もありましたし」
「下心?」
宵子が首を傾げると、君子はベッドの傍らに寄り、ずっと二人の間合いをつめた。
「宵子さん、ひとつだけききたいことがあるんですけど、いいですか」
「なんでしょう」
「Aさんの好きなひとって、宵子さんなんですよね」
宵子は少しも表情を変えなかった。
しかし、返事もしなかった。
君子の方も、ちゃんと答えてもらえるとは思っていなかった。それをきく権利が自分にあるだろうか、どうしてそんなことを知りたいの、あなたがAを好きなの、と尋ねられたらどう答えたらいいのだろう、などとも考えた。だが、ここまで関わってしまったからには本当の事が知りたい。単なる好奇心なので、ズバリきけたというのもある。
「……あの、宵子さん?」
宵子はおし黙ったままである。
逆に言うと、笑ってごまかしてもらってもよかった。事が事だ。プライバシーとしても恋愛としても、他人に洩らすことではない。
しかし、宵子は急に真面目な顔になると、反対にこう尋ね返した。
「A、氷富さんに何か言いました?」
君子は首を振った。
「いえ。Aさんは何も……」
だが、Aがこの世で一番大事にしているのは、どうみても宵子である。彼女の前では様子が違う。また、理想の女性の話をしていても、具体的な存在は語られたことがない。自分の恋は姦通ではないと言いきったし、不倫等で相手の名を出せないのでもなさそうだ。それに、美しい姉との恋愛関係に悩む弟の話は、そんなに珍しいものではない。
また、Aは砂場乃が裁けないと言った。彩子は自分が好きなのはAではないが、苦しい恋をしていると言った。砂場乃を憎むような言葉を吐きながら、憎みきれない様子だった。もし二人が兄妹の恋愛をしているのなら、彩子の苦しみもわかる気がするし、Aがそれをことさら秘密にするのも、裁く権利がないと言うのも自然に思われる。
以上の事を考えあわせると、Aが想う相手というのは宵子を置いてはないように思える。しかし、それがドロドロしたインセストである、というのも君子には信じられないのだった。Aの屈託は、どこか他にあるような気がするのだ。
宵子は肩にかけていたカーディガンの襟元を押え、独り言のように呟いた。
「そう、Aが自分の事を話したがる訳がないんだわ。滅多に話すことはしないんだから。いつも与太話やらホラ話ばかりしてるから、信じてもらえないのよ。本当の事を言っても、そんなドラマがそうそう世の中に転がってる訳ないだろう、って言われるのよ」
そこまで言って顔を上げた。半分笑ったような、半分悲しいような表情で君子を見、
「Aは私を好きだと思います。姉としてでなく、一人の女として見ていると思います。でも、それはしかたないんです。私達は一緒に育ってないし、戸籍の上では姉弟でも、血のつながりはないんです。初めて会った時、Aはもう十三になってたし、一緒に暮すようになってからもまだ六年――だから、そういう対象として見られたとしても、私はAを責めることができないんです」
君子はあ、と小さい声をあげた。
血がつながっていない――その言葉は彼女の胸にしっくりと落ちて、全ての謎をさっぱり解きあかした気がした。
Aと宵子はよく似ている。しかし、男と女の差がある。たとえば他人のそら似というものと比べたら、たいして似てはいないと言える。まして、二人とも美しい顔立ちをしているのだ、美人というのは相似るものだ。
新たな事実に夢中になり、君子は急いで言葉を継いだ。
「それはつまり、お互いに別々の家から引き取られた養子かなにかなんですね」
養子同士の結婚は不可能ではないらしいが、複雑であることには間違いない。まして宵子の方が、Aを弟としてしか見ていないのであれば、彼はとても悩むだろう。五つも年の差がある、姉を養えるような体力もない。どう考えても、力関係は宵子の方が圧倒的に強い。
そうだとすれば、Aの言葉のねじれは理解できる。
すると宵子は苦笑した。
「そうだといいんですけど、違うんです。だって、それなら誰に言ってもすんなり信じてもらえるでしょう。でも、私達の親は少し変わった人達で……それで随分ややこしいことになって」
少々話がこみいるので、と、宵子は枕元のメモ用紙をとり、サラ、とペンを走らせた。


  ×男
    |−−A(実母及び私の父の籍)
  ×女
    ‖
    ‖(籍は入っているが二人の間の子供はない)
    ‖
    男
    |−−私(実父及びAの母の籍)
    女

それは不思議な系図だった。双方が浮気をしていて、それぞれ隠し子がいたということなのだろうか。
「これって……お互いに別の人と家庭を築いてたのに、籍だけ入ってたってことですか?」
君子が眉を寄せると、宵子は軽くうなずいた。
「簡単に言えば、そういうことになります」
そういう訳で、簡単でない話は以下だった。
宵子の父親とAの母親は結婚し、籍もいれていた。そこまでは、世間的にも道徳的にも何の問題もない。二人は顔立ちも性格も趣味も考え方もよく似た夫婦であり、結婚当時はそれは深く愛し合っていた。
しかし、似すぎているというのは時によくない。良い点が重なってプラスになればよいが、欠点も全く同じであれば、互いに救いようがない。ただでさえ、長年連れ添うものはいつしか似てくるという。同じような気持ちにもなるという。そして、今までは愛し合っていた二人であっても、ある日突然同じ部分が鼻についたらどうなるか――しかも、その憎み方まで同じだったら、いったいどういうことが起きるか。
「二人はある日、少し遠方まで旅行に出たんです。そこで偶然、大きな飛行機事故に遭ったんです。故障して海の上に墜落して、死人も沢山出た事故で――でも、二人は二人とも軽い怪我で助かりました。そして、その時も同じ事を考えたんです。別々に行方不明になったんです」
「別々に?」
大事故をきっかけに失踪をたくらむ者は確かにいる。しかし、夫婦揃って同じことをしたというのか。
宵子は薄く笑った。
「たぶん、その時の二人は、憎みあっていた訳でもないし、離婚したかった訳でもなかったんだろうと思うんです。ただ、少しだけ行方不明になりたかったんです。鏡の自分から離れたかったんだと思います。それで、ばらばらに暮し始めた」
親族は行方不明の二人を探した。しかし、二人は二人ともうまく逃げていたし、飛行機事故では遺体が発見されないこともままある。
知人達の前に先に姿を現したのは、宵子の父の方だった。事故から三年後のことである。
「失踪宣告というのがあるでしょう。消息をたって七年したら、その人は死んだとみなせる制度が。配偶者や親族が、消えた人と縁を切るために年数をきって申し立てるあれです。それが、大きな事故なんかの時は、一年とか三年とか、ちょっと期限が短くなるらしいんです。それが執行されると無籍の人間になってしまう――それに気づいて、父は姿を現したんです。その時、私の母は臨月でしたし」
君子はうわ、と口元を押さえた。
つまり宵子の父親は、失踪の間に宵子の母と知り合って、子供をつくっていた。出生届を出すには、いくらなんでも無籍の人間ではまずいだろう、と考えたらしい。彼なりにここでけじめをつけておこうと思ったのだろう。
「ところが、Aのお母さんも、その頃姿を現したんです。彼女も失踪宣告が常より短くなるかもしれないことを知っていたんでしょうね。普通だったらそこで離婚、全部丸くおさまった筈なんです」
だがそこで、Aの母親が宵子の父親と別れるのは厭だと言い出したのである。三年間失踪していたのはお互い様だが、私は他に男をつくっていた訳でもなんでもない、夫が新しい家庭を築こうと、書類の上では別れない、と。勝手に離婚届を出されないよう周到な準備をし、深く静かに争った。
二人が離婚しないので、宵子は戸籍の上だけの、血のつながらない母を持つことになった。民法では、結婚している間に生まれた子供は、どんな子もその夫妻の子供だからだ。たとえ父が別人である、とはっきりわかっていてもだ。
そのうち、Aの母親にも恋人が出来、二人の間に子供ができた。今度こそ離婚はスムーズに行く、と思われたが、Aの母親はまだ意地になっており、話はすぐに終わらなかった。
結局離婚が成立したのは、Aが産まれて数年してからのことだった。Aの実の父親はあまり身体の丈夫な人でなく、ついに倒れて入院してしまい、それの面倒を見ることを決めたからだった。
「そんな事情もあって、Aは物心つかない頃から、Aのお母さんのお母さんの家で育ってました。お父さんが働けないので、お母さんが働くしかなかったし、病人と子供を同時には育てられないから、とおばあちゃんの所へあずけたんです」
「Aさん、大変だったんですね。宵子さんも」
君子がしみじみとうなずくと、宵子は首を振った。
「子供の頃はそうでもなかったと思います。Aはお葬式まで御両親の事を知らなかったみたいですけど、その分はおばあちゃんがうんと可愛がってくれてたようですし、貧乏をして辛いってこともなかったみたいで……。私も別に、親が事実婚であるってことだけですから、辛い目には遭いませんでした。離婚騒動の事は、小さい頃はよく知らなかったんです。中学を出るまでは両親が結婚してないことさえ、はっきりわかってなかったぐらいで。だから、大変だったってことはないんです」
「でも……」
「私は別に不幸せだった事はないんです。親も怨んでいません。Aの御両親ももうなくなってるし……ひとつだけ不思議だったのは、どうして二人が書類の上の事にこだわったんだろう、互いに別の家庭があるのに、そんなに意地をはるのは、やっぱり愛が少しでも残っていたのかしらってことでした。それだけが今でもわからない」
君子が返事に困っていると、宵子はメモ用紙を裏返した。鉛筆で三日月のような柄を記しながら、
「面白い話がひとつあるんです。私が母に――血のつながった育ての母に、私の名前はどうして《宵子》なの、どうしてショウコって読むの、と尋ねたことがあるんです。そしたら、こう答えたんです――おまえの名はお父さんがつけたの。恋というのは月夜の風邪だから、その結果できたものは夜の子供だって。ヨイ子と読ませないのは、恋の証拠だからだって言うんです。十かそこらの子供にきかせるようなことじゃないでしょう。でも、後で父に尋ねたら、もっとふざけた事を言ったんです。おまえはジョーカーだったんだって。とんでもない場面で出て来るババの札だからショウコなんだって。おまえがいなかったら、俺の人生が変わっていたかもしれない、おまえの母さんとも暮らしてなかったかもしれないって」
ということは、その時点ではまだ、宵子の父はAの母に心残りがあったのだろうか。
それにしても酷い言い方だ、と君子が眉をひそめると、宵子は紙に《JOKER》と記してRを消した。つまりは《JOKE》だ。こんな仕草はAに似ている。似すぎていると言えるほど。
「子供心にもショックでしたけど、時々ブラックな冗談を言う人だから、それもそうなんだろうと思ってました。Aに、自分の名前の由来をきくまでは」
「Aさんの由来?」
「エイって名前は、Aのお母さんがつけたんだそうです。恋は月夜の風邪で、子供はその翳って意味なんですって。でも、カゲって響きはよくないし、エイというのは気合いの入った音だし、切り札のエースみたいでかっこいいって。おばあさんからそうきいたって言ってました――ね、似たもの夫婦でしょう? 子供ができたらそんな名をつけようって相談していたのかもしれませんけど、それにしても変な人達」
宵子は妙に寂しそうな顔で笑った。
君子は、鏡に互いをうつしあう男女の姿を思い浮かべた。宵子とAのようによく似た二人、そして、愛しあいながら互いの醜さの細部まで照らしあう二人。
しかし、こんなことが本当にあるのだろうか。
途方もない、と君子は思った。
Aが生い立ちを語りたがらないのも無理はない。また、宵子との恋に悩むのもよくわかる。血がつながっていないというのに、このままでは姉弟として結婚も出来ない。この種の法的問題はクリアが難しいときいている。まして親の騒動を知れば知るほど、恋愛に対して臆病になる筈だ。そんなことを繰り返したくない、ややこしいことや面倒はごめんと考えるだろう。宵子の親もあまりいい顔はしないだろう。
しかし、それでもAは――。
「宵子さん。もうひとつだけきいてもいいですか?」
「はい?」
「Aさんを好きですか」
言ってからしまった、と君子は思った。姉としてはAを好きに決まっている。案の定、答える宵子の微笑は穏やかなものだった。
「ええ。初めてあった日から、Aのことを忘れたことはないんです。Aが私を好きでいてくれるのが、どんなに嬉しかったかわからない――一緒に暮らしましょうと言った時、本当にいいのって瞳を輝かせた顔をみて、どんなに可愛く思ったか。血のつながった家族以上に家族に思えて、弟を与えてくださってありがとう、とAの両親に感謝したほどでした」
君子はため息をついた。
「でも、弟としか思えない――」
「いいえ」
「えっ」
宵子の頬に、急に紅い色がさした。
「弟としか思えないって訳じゃないんです。あの子の気持ちにこたえてあげたい、と何度思ったかわからない」
「なら、どうして」
宵子はうつむいた。
「Aはまだ二十五にもなってないんです。本当の大人になるのは、これから。だから、縛りたくないんです。可能性をつみたくない。今は目の前にずっと私がいて、他の女の子に目が向かないかもしれないけど、でも、いつかきっと、若くて可愛い似合いの子を連れてきて……その時に、弟なら、家族なら、あの子をなくさなくてすむんです。だから……」
「宵子さん」
君子は思わず、祈るように目を閉じた。
この人は……この人も、彼を――。
「宵子さん。Aさんは王様のシャツを着てるんですって」
「王様のシャツ?」
「世の中で一番幸せなひとのシャツのことです。Aさんがどうしてそんな事が思えるのか、他人に妬まれるほど幸せだって言いきれるのか、ずっと不思議だったんです。でも、今わかりました。宵子さんがいてくれるから、なんです。宵子さんが、Aさんを好きでいるからなんです」
「でもそれは」
宵子が言いかけるのをさえぎって、
「もし、Aさんが宵子さんの弟でなくなる日がきたとしても、Aさんをなくす日は来ないと思うんです。一番大切だってことが変わらないなら。恋でなくなる日も来るかもしれませんけど、でも、それでも一番大事だってことだけ確かだったら、絆はなくならないと思うんです。だから……そういう永遠では駄目なんでしょうか。永遠に、恋人か弟かのどちらかでいてくれなければ、駄目ですか」
宵子の顔が歪んだ。
彼女の手の中でメモ用紙が握り潰され、その瞳に光るものが浮かんだ。君子は慌てて言葉を継いだ。
「お節介な事言ってごめんなさい、Aさんの気持ちも宵子さんの事情もよく知らないのに勝手なこと言って……私ったら図々しい」
そう言って両頬を押さえた。なんという差し出口だろう、子供に何がわかる、と叱られてもしかたがないと思った。
しかし宵子は、溢れそうになる涙を懸命にこらえながら、
「氷富さん……ありがとう」
と微笑んだ。
「ありがとう。Aも私も、本当に恵まれてるのね。こうして心配してくれる人が沢山いて……幸せなんだわ」
「宵子さん」
「ありがとうございます」
それからしばらく、宵子の言葉は言葉にならなかった。彼女が落ち着くまで、君子は黙って側にいた。
それが、友人としての当然のつとめに思われたからだ。

★ ★ ★

君子のオーダーをつくりながら、Aはカウンター越しに話しかけてきた。
「キミさん、年越しはどうするの? 御両親の所に帰るの?」
「今年は戻らないです。年明けにすぐ試験があるし、成人式もやらない予定ですし。親は姉さんが里帰りして面倒みてくれるからいいかなって」
「じゃあ、下宿で一人? 寂しいね」
「寂しくもないですけど……あ」
君子はポン、と手を叩いた。いいことを思い付いたらしい。
「宵子さんの松葉杖、もうすぐとれるんでしょう? 退院のお祝いもかねてパーティしましょうよ。大晦日のお昼からお店を貸切りにして」
「キミさんが?」
「私だけじゃそれこそ寂しいでしょう? Aさんのお友達をみんな呼んで、みんなに手伝ってもらって、みんなでお祝いしましょうよ」
「でも、年末でみんな忙しい時期だし、迷惑かけるのは……」
「事件に巻き込んだお詫び、みんなに言ってないんじゃないですか? 友達にはいい方の迷惑をかけなくちゃ」
「それはそうだけど……姉さんに相談しないと」
Aはあまり乗り気でないらしい。皿を出すふりをして君子に背を向けてしまった。
しかし、そこに宵子が戻ってきた。
「あ、氷富さん」
肩で店のドアを押し、杖を持ちかえて入って来る。
「いらっしゃいませ。この間はお世話になりました」
君子はしめた、と立ち上がった。宵子を先導するようにして、ストールに座らせる。
「宵子さん、いきなりで申し訳ないんですけど、明日《J》で忘年会をしたいんです。何か予約入ってますか?」
宵子はチラ、とカウンターの隅のカレンダーを見つつ、
「いろいろあってずっとお店を閉めてたでしょう。だから、予約も何も入ってないんです。それに、氷富さんに頼まれたら厭とは言えませんし」
「良かった。じゃあ、みんなに連絡しますね。今回の関係者には出てもらわないと」
君子がはしゃぐとAが呆れた声を出した。
「するのはいいけど、キミさん、みんなの電話番号知ってるの?」
「あ、そうでした。教えてください。Aさんは当然知ってるんでしょう」
「うーん」
Aは姉をチラ、と見たが、助けてもらえそうにないので渋々と、
「じゃあ、一回だけしか言わないからこの場で憶えて。杉さんはね……」
「意地悪!」
君子は慌てて筆記用具を取り出した。コースターに書き取りながら、笑みがこぼれてくるのをとめられない。
《僕の友達といえば君一人だけ、貴方以外には誰もいない》なんて、Aには絶対いわせてやらない。意地でも言わせてやらない。こんなに立派な友達がここにいるんですからね、と。
宵子が、杖を抱えて立ち上がった。
「店の方にも新しいカレンダーをかけておかないと駄目ね」
Aの手が止まった。
「あ、ごめん、うっかりしてた。すぐにかけるよ」
「私がかけるわよ。メモするのは私なんだから」
「でもさ、今は僕が……」
「充分動けるわ。それより早く、氷富さんのオーダー出して」
「わかった。じゃあ、姉さんがカレンダーかけてね」
そんな二人のやりとりを眺めながら、君子は微笑んだ。
もうすぐ新しい年があける。新しい何かが始まる。
いや、たぶんもう始まっている。
誰かを必要とする人間が、この世で一番幸せならば。

(1996.12脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第21号』1996.12/恋人と時限爆弾『彼の名はA』1997.5)

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