『今は誰も愛していない』

見舞いにやってきた御剣怜侍がその手に提げていたのは、白一色の千羽鶴だった。
成歩堂に背を向けたまま窓にさげ、いつものようにむっつり呟く。
「風邪がぶり返した、というから来た」
かなり狂いのある折り鶴のつらなりに、成歩堂は思わず微笑みを浮かべた。配色の仕方もよくわからないので、とりあえず白い紙を切ってこしらえてみたのだろう。大きさもまちまちだ。
「これ、ぜんぶキミが折ったんだ」
「む」
なぜか言葉につまっている御剣をよそに、成歩堂は千羽鶴に手を伸ばした。
「気をつかわなくていいのに。寝てればすぐに治るよ、風邪ぐらい。……それにしても、途中から随分うまくなってるなあ」
「いや、そこは私ではない。狩魔冥が……糸を通してくれたのも彼女で」
「彼女が手伝ってくれたんだ、なるほどね」
「意味ありげな目つきをするな」
「してないよ。ところで折り方は誰が教えたんだい」
「私にキマっているだろう」
目に浮かぶようだ、【カンペキ】が口癖のあの娘が、それこそ定規でもひいたような鶴を折って、御剣に冷笑を向ける姿が。
「弟子はいとも簡単に師匠をこえる、か」
「皮肉を言うな。それともそれは自慢か?」
一瞬何を言われたかわからなかったが、成歩堂はすぐに気付いた。自分と千尋のことを言っているのだと。
「それこそ、皮肉だよ」
首をすくめて、成歩堂はカーディガンを羽織った。
「少しも越えてなんかないさ。でも、だからどうってことはない。僕は僕のやり方で、自分の仕事をするだけだ。キミだってそうだろう」
「いや、私はまだ……修練が足りんから……」
口ごもる御剣に、成歩堂は椅子を顎で示す。
「僕のかわりに弁護士席に立ってみて、どうだった?」
御剣は素直に友のかたわらに腰を降ろしながら、
「攻めの気持ちを初めて味わったな。検事は法の番人だ、証拠が揃った後は守りに入るしかない。国によって司法制度はだいぶ違うが、公務員はやはり公務員、どうにも自由がきかんものだ」
くしゃみが出かかる口元を押さえて、成歩堂は含み笑いをもらす。
「キミは真面目だからな。黒い噂なんて、いったい誰が囁いてたんだか」
「キサマは不真面目だとでもいうのか」
「それはまあ、おいといてさ。弁護士姿も見てみたかったけど、どっちかっていうとやっぱり今のキミには検事の方がむいてると思う。そうだ、狩魔冥にもお礼を言わなきゃいけなかったね。もう、アメリカに帰っちゃったのかな」
「明日戻るといっていた。仕事が待っているからな。司法取引にかけては、彼女の右に出る者はいないと言われているのだ」
「ひっぱりだこってわけだ。でもそれってあんまり、誉め言葉じゃないような気がするけど」
「そんなことはない。より重大な犯罪を裁くためには小さなことに目をつぶる、それも一つの完璧主義だ」
「そうだね。それに、一年前よりずっと物柔らかくなってたし」
「そうか?」
「いろいろ配慮してくれたよ。そんな義理もないのにさ。キミの電話一本でとんでくるんだから、キミに対して優しいのは当たり前の話だけど」
「それは違う、私と冥とは……」
成歩堂はついに吹き出した。
「法廷で【君は最高のパートナーだ】って、彼女に言ったんだろう」
「誰がそれを」
「証拠に関する質問には、一切答えられない」
「それは私の台詞だ」
「照れなくてもいいじゃないか。悪くない取り合わせだと思うけどな」
「向こうはそうは思っていない。日本にだって、誰に会いに来たのかわかったものではないのだ」
成歩堂は肩をすくめた。
「誰に焼き餅やいてるかしらないけど、つまり、君の方はそういう気持ちってことだ」
「いちいちまぜっかえすな」
「違うのか?」
ふいに御剣の表情が昏くなった。声もぐっと低くなって、
「ならば成歩堂龍一の心には、いったい誰が住んでいる」
その顔があまりに真剣なので、成歩堂は視線をそらすことができなかった。
そして、やっと答えた。
「……誰だったら、いいんだい」
熱のせいなのか、潤んだ瞳で見つめ返されて、御剣の方が目をそらしてしまった。
「そういう答え方は、私は嫌いだ」
「ふうん」
だしぬけに成歩堂は早口で呟いた。
「今は誰も愛してない」
はっと顔をあげた御剣に、ありありと浮かんだ安堵を認めてから、成歩堂は付け加えた。
「……というのは、ウソだけどね」
「成歩堂!」
軽く鼻をすすりながら、
「余計なお世話だよって言わないだけ、マシだと思ってくれないかな」
「それは」
「でも、興味はあるな。いったい御剣が誰のことを想像してるのかってことはね」
「からかっているのか」
「そう思うかい」
「病気のせいで、ふだんの軽口まで悪化したか」
成歩堂は肩をすくめた。マスクをはずし、ベッドにつけられた簡易デスクをよけると、
「そう思うなら休ませてくれ。病人なんだから、少しいたわってもらいたいんだけど」
「すまない」
素直に頭を下げると、御剣は立ち上がった。
そのまま成歩堂に背を向けると、
「そこで、帰っちゃうんだ」
ドキリと振り返った御剣が、次の瞬間きいたのは、派手なくしゃみの音で。

真宵クンなら良い。
とっさにそう思って、御剣は慌てて打ち消していた。
真宵クンなら、などとは、なんて失敬な。
あのひたむきな少女に、成歩堂はもったいない。
むしろ相手は、姉の綾里千尋である方が自然だったかもしれないと思う。
神乃木荘龍があれほどまでに成歩堂を敵視したのは嫉妬の感情に他ならず、検事の彼が行った数々はずいぶんと的外れな復讐に見えるが、果たしてそれが本当に見当違いであったのかどうかは誰にもわからない。彼女が死んでしまった今だからこそ、尚更わからない。
そう、綾里千尋でも構わない。
あんなに若い女性が数年で財と信用を築いたのだ、その手腕は並々ならぬものだ。彼女がその気になれば、成歩堂を陥落させるのはいともたやすいことだったろう。優しい師匠だ、恩人でもある、成歩堂の側に拒む理由はなにもない。だから二人の絆がどのような形で結ばれていても、それをどうこう言うつもりはない。
つまり、成歩堂の相手として、私がどうしても嫌なのは。
あやめだ。

春美クンと自分が同じレベルかと思うと、さすがに少し恥ずかしいが。
あんな女にさらわれるかと思うと、耐えがたい。
いや、あの女が勝手に頬を赤らめているぶんには構わない、と御剣は思う。
では何が問題か。
成歩堂のポーカーフェイスだ。
最近気付いた。あの男は喜怒哀楽が豊かなようでいて、自分の一番大事な部分は表に現さないタイプだ。検事局のエリートたる私が、昔の友人があんなショッキングな事件に巻き込まれていたことを知らなかったのも、そのせいだ。
昔つきあっていた恋人が殺人犯で。
裁かれて刑に服しているはずなのに、うり二つの女性が現れて。
自分の過去を確かめに行った成歩堂の行動は、奇妙なものではない。
しかし結局、本人に直接問いただすことはなかったらしい。
それは何故だ。
なぜなのだ。
過去の愛だったからか。奴の中ですべて終わっていたからか。
愛はだが、突然蘇る時がある。劇的な再会が、ロマンティックな感情をかきたてるのだろう。
まして彼女が、やはり無実とわかったなら。
五年の喪失感が成歩堂にどう作用したのか、神ならぬ身では想像のしようがない。
だが。

「君の嫉妬の方向がわからないよ、御剣」
世にも情けない顔で振り返った怜侍を、潤んだ大きな瞳が見つめている。
「僕が誰を好きだって構わないじゃないか。もしそれが狩魔冥だったとしても、君にどうこう言われる筋合いはないはずだよ」
「それは、わかっている」
「わかってない」
ふっと寂しげに視線はそれた。
「わかってたら、あんな質問の仕方はしやしないよ。しかも自分は、彼女といい雰囲気だと匂わせておいて……」
かすれた語尾が気になって、思わず御剣はベッドに身を寄せた。成歩堂はさらに顔を背けて、
「知ってるよ。君はいい奴だから心配してくれてるんだろう。心配されるのは嬉しいよ。たとえ見当違いでも、君の好意なんだ、喜ばなきゃな」
ひとつも嬉しそうな声ではない。気のせいか顔色も悪くなっている気がする。
「電話一本で飛んできてくれて、僕のかわりを引き受けてくれて……ぜんぶ本当に有り難かった……けど、だからって、期待しちゃいけなかったんだな」
とまどっている御剣の掌を、成歩堂の熱い掌がぎゅっと握りしめる。
「いいんだ。感謝してもしきれない。それだけわかってくれてたらいいよ」
らしからぬ細い声に、御剣の胸は痛んだ。
「感謝の言葉などいらない。私は君の期待に応えられなかったのだろう?」
成歩堂の手の力が一瞬弱まった。
「君らしい台詞だな。腹が立つほど」
次の瞬間、御剣は強くベッドの上に引き倒されていた。
わけもわからず目を瞬かせていると、
「人にうつすと、治るっていうよな」
そのまま口唇を奪われ、舌を吸い上げられて。
御剣はやっと相手のいらだちの原因に気付いた。
乱れた息が。潤みきった瞳が。熱い肌が。
ひとつの事実を告げていた。
そうか、最初から成歩堂は。
御剣は相手の背中に、そっと腕を回した。
「今は誰も愛してない、と言うのは……」
「君があんまり意地悪だからだよ。それにウソだとはっきり言った」
「知らなかったからだ。何も知らなかった。だから私は、ただ君が幸せであってくれれば、誰を好きでも構わないと」
「まるで、僕から誘ったみたいに言うんだな」
ふいっと横を向き、御剣の胸を押し返す。病んでいて力無いせいか、その仕草は可憐で、なんとなく御剣も頬を染めた。
「私はあまり、こういうことが得意でないので……君から誘ってもらえなければ……いや、つまり……その……」
「得意でした訳じゃないよ」
銀の滴が、御剣の頬にしたたり落ちる。
「元々イーブンじゃないんだ。僕は君をずっと忘れられなかった。でも君は一昨年まで、僕をすっかり忘れていた。それなのに、今更そんなしおらしい顔をして、思わせぶりに嫉妬してみせるなんて……からわれてるのかと思うじゃないか」
そんなつもりでは、といいかけて止め、御剣は相手の頬に指で触れた。
溢れるものを掌で受け止めながら、
「忘れていた訳じゃない。自分には人に愛される資格などないと思っていたから、すべての人間と距離を置こうとしただけだ」
グス、と鼻を鳴らすと、成歩堂は御剣の掌をひきはがした。
「君が……先に誘ったんだよ」
「?」
「しらないだろう。君が《みせたくなかった。こんな自分を、君にはな》って言った時、僕がどんなにゾクゾクしたか」
枕元のティッシュで軽く鼻をかみ、涙を手の甲でぬぐう。
「僕は忘れられてなかった、御剣は昔のままだ、だから僕に弱っているところを見せたくないんだ――あの時どんなに嬉しかったと思う。今まではどうあれ、あの時の君の心は、僕に向いていた。僕に開かれていた。たまらなかったよ。それなのに、裁判の後すぐに姿を消してしまうし、やっと帰ってきたと思えば外国へ行ってしまうし。君がいなくて寂しいと思う資格すら、僕にはなかったんだ。ならもう誰も愛したくないと思った」
「成歩堂」
「もし、誰を好きでも構わないなんて気持ちでいるなら、出ていってくれ。哀れみならいらないよ」
「それは違う」
とっさに否定してから御剣は真っ赤になった。
「私はその……つまり……」
「僕だって、熱に浮かされてこんなことを言ってる訳じゃないからね」
迫られて御剣は瞳を閉じた。
口唇をそっと差し出す。
成歩堂は指で、その口唇をなぞった。
それだけでは足りない、なしくずしは嫌だ、言葉の証が欲しいとでもいうように。
小さく喘いでから、御剣は喉から声を絞り出した。
「君の心に住んでいるのが自分だったら、とずっと願っていた」
「御剣」
ふいに成歩堂の声が優しくなったので瞳を開くと、
「……よく、言えたね」
彼は微笑んでいた。
「君がまた外国に行ってしまう前に、二人でどこかに出かけられたらいいな」
御剣も微笑みを誘われた。
「検討しよう。君からうつされた悪い風邪が治ってからになるだろうが」
「おっと。まだちゃんとうつしてないよ」
「しかし、人が来たら」
「看護婦さんの回診は、時間が決まってるから大丈夫だよ」
「そうか?」

互いの体温が溶けあうように抱きあって、それに二人とも心地よく浸ってしばし。
成歩堂の口唇から、小さな呟きが洩れた。
「大事に、するよ」
さすがの御剣も、いったい何を、とは訊かなかった。
いつものように低く一言だけ、
「……ウム」


『次は私が』

「寒いわね」
ふっと身を震わせて、狩魔冥は窓の外を見た。
空港の空調の隙をぬう、空気の流れのせいではない。
日本の冬はどうということはない、ニューヨークの方がよほど寒いのは、誰もが知っていることだ。
ひとりでアメリカに帰るのは、これで二度目。
そう思うと、自分の肩を自分で抱きしめたいような気がして。

一年ぶりにきいた御剣怜侍の声は明るく、それだけで冥はちょっと救われた気がした。
日本に行くのだが一緒に来ないか、と言われた時は、うっすら期待もした。
期待といっても別に凄いことを考えた訳ではない、妹扱いされているのは知っている。けれど黙って行方不明になられるよりは、一緒に成歩堂に会いに行こうと言われる方がずっとマシだ。
法廷では堂々と落ち着き払っているけれど、実はとても神経質な怜侍が、くったくなく笑えたり冗談を言えるようになったのは、あの弁護士のおかげとわかっている。
そう思うと、素直に感謝の気持ちもわく。
だから日本まで、こうしてわざわざ出かけてきたのだけれど。

大きな掌を、してる。
そんなことに改めて気付いて、胸がときめいた。
あの掌で、髪を撫でてもらえたらどんな気分かしら。
傍らに立つと、その胸のあたりにうっとりと吸い込まれてしまいそうになる。
こんな気持ち、顔に出てないといいけど。
自分について囁かれている声を知っている。
「いい女になった」と。
一度日本にいってから物柔らかくなった、とよく言われる。
腕は、あげた。
特に女性の証人や被告の取り扱いにかけては右に出る者がいないという自負もある。完璧な検事としての名は日に日にたかまっている。
だから、とんだ茶番とわかっていても、割り切ってふざけた裁判に出ることもできるようになった。
いい女とは、駆け引きの上手い女のことだ。
誰の前でも本心は見せない。そして誰に対しても、「貴方にだけはこんな顔もしてみせるのよ」という部分をチラリと見せておく。そうやって他人を操縦する術は、検事としても必要なものだが、それ以上に、女ひとりで生きていく知恵でもある。
私にはもう何の後ろ盾もない。
父の悪評はいまや足をひっぱるだけだ。
そう、今こそ自分自身の力で、未来を切り開く時。
そう思いながら、怜侍の前でこんなにしおらしい自分は、なんだろう。

「しかたがないのかもしれないわ」
周囲にロクな男がいないせいだ。それでいて、十九になった冥の肉体は、恋に対しての準備が整っている。それが熟しきって本当の喜びを知るのはだいぶ先のことであっても、すでに身体の芯で萌えだしているものはある。それが適切な相手を求めようとするのは、生理的発達段階の問題といえる。
そうでなくとも怜侍とは昔なじみで信頼感がある。共感もある。かばってやりたいと思うことすらある訳で、それが恋愛感情に近似してしまうのは不自然なことではない。
あんな風に、怜侍の前で泣いてしまったし。
「間に合ったな」
耳馴染みのある声がふってきて、冥はハッと振り向いた。
御剣怜侍。
その微笑みが眩しいような気がして、冥は視線をそらした。
「わざわざ見送りに来てくれたの」
「いや、今回は君と一緒に帰る。呼びつけた手前もあるからな」
「あら」
言われてみれば大きな手は、銀の光沢をにぶく放つスーツケースをさげている。
「成歩堂龍一とのお別れはすんだの」
「フ」
深くくぼんだ瞳は不敵に輝いて、
「君こそ今回は、ずいぶん成歩堂に親切にしてやったようじゃないか」
「いやね、そんな焼き餅のやき方」
灰色の瞳も意味ありげに相手を見つめる。
「嫉妬などしていない」
「わかってるわ。本当にフケツね」
軽くいなして冥は歩き出した。
「向こうはもっと寒いのよ。うつされた風邪、こじらせないといいわね」
さすがに御剣はぎょっとしたが、なんでもないような顔で後を歩き始めた。
「そうだな。君に看病してもらう訳にもいかん」
「そう? 入院するほどひどくなったら、お見舞いにいってあげるわよ。完璧な千羽鶴をもってね」
冥はちょっぴりおかしくなった。
今はいいわ。
このままで。
私より大事な相手がいても構わない。
でも。
次は私が。
「……泣かせてあげる」
「ム」
問い返そうとする御剣に振り向いて、冥は微笑んだ。
「それより私にうつさないことね、御剣怜侍。そんなことになったら、うちの屋敷まで看病に来てもらうわよ」
「そうか。では君は先に帰るか」
「いいえ、手遅れ。もう熱っぽいの」

その囁きと共に、くちづけが一つ、盗まれた。

(2004.4脱稿/初出・恋人と時限爆弾『今は誰も愛していない』2004.5発行)

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Written by Narihara Akira
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