『ノコ弁』
「ねえねえ、今日のイトノコさんのお弁当みた?」
「見た見た、ソーメン弁当!」
婦警たちの騒ぐ声が耳に飛び込んできて、御剣怜侍はふと足をとめた。
ソーメン弁当とは、いったいなんだ?
そうめんをゆでて、職場に弁当として持ちこんでいるというのか。糸鋸刑事の生活はそこまで逼迫しているのか。
生倉弁護士殺人事件以来、冷や汗をかいて目覚める朝から逃れることはできたものの、人の声に対してだいぶ敏感にならざるをえないでいる御剣である。そうでなくとも必要な引き継ぎは既にすませている、一刻も早く検察局にひきあげて、上級検事執務室の静謐な空間で仕事をすべきだ。
だのになぜ自分は、警察局のど真ん中で、つまらぬ噂話に耳を傾けているのだろう?
糸鋸刑事の話だからか。
だが、自分が何を気にする必要がある?
法廷で「次の給与査定を楽しみにしていることだな」と毎回おどかしてはいるが、それはあくまで冗談であって、実際に減俸しているのは御剣ではない。それに、仕事の失敗に対して責任をとるのは、社会人として当たり前のことだ。彼の食事が真冬ですら毎日ソーメンだったとしても、それは仕方のないことではないか。
華やかな声は続いている。
「レンジでチンしてるの、なんだろうと思ってのぞいたら、やっぱりソーメンで」
「でもあれ美味しかった!」
「ええっ。味見させてもらったの?」
「うん。前の日ゆでたのを、塩とお酒で炒めたんだって。挽肉と刻んだネギがのせてあって、それだけなのに結構いけるの。私もつくってみようかな」
「割とグルメよね、イトノコさんて」
「いいお店もしってるし」
「そういえばイトノコさん、ウドンも手打ちって言ってた」
「今度のお給料日、どんなお弁当つくってくるのかな」
「さすがにお給料日は、《ベントーランド》のステーキ弁当でも買うんじゃない?」
「そこまで余裕があるかどうかは、ねえ?」
「だったら誰か、つくってあげてもいいんじゃない? 日頃の御礼にさ」
糸鋸刑事は意外に人気があるのだな、と思った次の瞬間、御剣はそれを自分で打ち消していた。人一倍働くから同僚のウケはいいのだ。面倒見がいいので部下からも慕われている。おおざっぱなようでいて、実は周囲に気をくばるタイプだ。年下の御剣に対しても一種の保護欲を感じているらしく、地震を異常に怖がる彼のために、執務室の本棚を耐震加工してくれたり、必要な資料がすぐ出せるよう机まわりを美しく整頓してくれたり、外部の助力が必要と判断すれば、御剣が出かける前にひそかに根回しすらやってくれたりする。
それは親が子どもにするようなお節介で、正直「うっとおしい」と思う時もある。だが、御剣の過去の醜さも十五年間の悪夢も理解した上で、「自分は御剣検事を信頼してるっス!」と迷わず言ってのける糸鋸刑事の存在は、孤立無援の若き検事にとって、ひとつの救いではあった。もし彼が刑事として、もっと優秀であったなら、こちらも信頼できるものを……。
そう考えた瞬間、見回りの巡査が近づいてくる気配(というか何故かハウリングの音)がして、御剣は急いでその場を離れた。
「フ。次の給料日には、彼の昼食でも見せてもらうか」
ここしばらく暗く翳ったままだった御剣の眉間が、一瞬ゆるんだ。
その微笑みを世界で一番喜ぶ男のことで、微笑んだのだ。
「イトノコギリ刑事、こんなところで何をしている?」
「ハッ、御剣検事!」
警察局の屋上のベンチで、糸鋸圭介はひとり、弁当を開いていた。
天気は良かったが、これから一年で一番寒い時期になろうとしている。ここまで探しにきた自分も自分だが、外で弁当を食べるのは、かなりの物好きといえるのではないか、と御剣は思った。まして彼のようなフレンドリーな人間は、昼どきに多少の時間があれば、誰かと一緒に食べに出て、おごるなりおごられるなりするのではないのか。今日は給料日なのだから、皆の懐も多少は暖かいはずだ。
しかもその弁当は、御剣が初めてみる種類の弁当だった。
アルマイトの弁当箱をギッシリうめつくす、タコさんウィンナーの群れ。
「《ベントーランド》とかいう弁当屋は、変わったものを売りに来ているのだな」
「いや、これは自分の手づくりッス」
「手づくり、か。なるほどな」
たぶんその下には米飯が入っているのだろうが、とにかくウィンナーしか見えない。肉体労働派の三十歳が肉がそこまで好きでも変ではないが、限度というものがあるのではないか。
しかし、思ったより良い匂いがする。そう思った瞬間、御剣の口から、思いもよらない台詞が飛び出していた。
「味見をしてもいいだろうか」
「えっ、この弁当ッスか?」
ハッと見上げる糸鋸刑事から、ふっと御剣は視線をそらせた。
「この間、交通課の婦警が、イトノコギリ刑事の料理の腕を誉めていたが……そうか、誰にでも味見させるものでは、ないのだな」
「イヤそれは、しかし、自分の弁当を、御剣検事が?」
「無理にとはいわない」
御剣は、糸鋸刑事の脇に静かに腰をおろした。
「ボーナスが四桁の男から、せっかくの貴重なタンパク質を奪う訳にもいかないしな」
糸鋸刑事も、ふっとうつむいた。
そのまま弁当を差し出して、
「御剣検事の口にあうか、自信がないだけッス」
「別にご馳走を期待している訳ではない」
受け取った弁当箱から、御剣はウィンナーをつまみあげた。
刑事のウィンナーに、御剣の皓い歯があたる。
はちきれそうな肉の塊は、プツッと熱い音をたて、青年検事の口の中に柔らかく吸いこまれていった。
中で、クチュ、と濡れた音が響く。
糸鋸刑事はうつむいたまま、御剣の様子をそっとうかがっている。
うっすら頬を染めたまま、若い検事がすべてをのみくだすところまで。
「ウム」
食べ終えて、御剣は薄く微笑んだ。
「噂は本当だったな」
「良かったッスか?」
うっすら潤みさえ帯びている糸鋸刑事の瞳を見て、御剣はうなずいた。
「塩味がききすぎているようにも思うが、まずくはないな。こういうものを食すと、力がでるものなのか」
「そりゃあ、御剣検事が普段食べているものには、遠く及ばないッス」
「謙遜しなくていい。私には自炊の経験がない。一人でいる時はもっぱら外食で、米すらまともに炊いたことがないのだ。ところでさすがに、ウィンナーの下は米だな」
糸鋸刑事は頭をかきながら、
「こないだ実家から送ってきたッス。ソーメンだけじゃ身体がもたないだろうって。ありがたかったッス」
「それは私に対するイヤミか?」
「いや、それはその、違いますッ」
御剣はウム、とうなずいて、
「そうか。なら、これをやろう」
「えっ、いったいなんスカ?」
紙袋を手渡されて、糸鋸刑事は目を輝かせた。
だが、中身をのぞきこんで、すぐ怪訝そうな顔に変わった。
「ヘロイン? 事件の証拠品ッスか?」
御剣の眉がつりあがった。
「麻薬ではない、小麦粉だ! 刑事のくせにそんなこともわからないのか!」
「小麦粉?」
「イトノコギリ刑事は麺類が得意で、うどんも自分で打つときいたから、よさそうなのをみつくろってみたのだ」
糸鋸刑事の目の縁に、ふっと涙がもりあがった。
「自分、ぜんぜん御剣検事のお役にたたないのに、そんなにしてもらって……自分は……」
「さっさと弁当を食え。それ以上しょっぱくなったら、食べられたものではないぞ」
「ハイッ。いただきます」
御剣の食べかけた部分の続きから、糸鋸刑事は弁当を食べ始めた。
溢れそうになるものを何度もぬぐいながら。
もらった袋を、しっかり握りしめながら。
それはまだ、御剣にまつわる黒い噂が蒸し返される前の、ほんのわずかな安らぎのひととき――。
(2005.10脱稿)
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Written by Narihara Akira
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