▲日本の作家・漫画家論

「敵は海賊・海賊的浪漫――神林長平『敵は海賊』論」

1.ええと、まあ、そこらへんに座って下さいませんか、ろくなおもてなしもできませんが。

キャプテン・陶冥(ヨウメイ)・ツザッキィは、なかなかよろしい。
そう、神林の小説にでてくる、例の宇宙海賊のことだ。熱血する海賊課の刑事を適当にあしらう、気品のある敵役。
もし、この私がタバコをすう人間であったなら、二、三個煙の輪を吐いて、
「うーん。キャプテン・陶冥はかっこいい。……血が騒ぐ。胸がわく。久しぶりに、熱くなれるものが登場したよなあ。うーむ。好きだなあ……」
などとらちもなく呟いて、じっくりとキャプテン・陶冥の優美な雄姿を瞼の裏に描きつつ、幸せな一日を過ごせるだろう。
が、私はタバコのみではない。タバコどころか、一人では酒ものまない。嗜好品の類にも不調法で、空腹を感じると駄菓子をつまむかわりに、文庫本にかじりつくような、野暮な輩だ。
ゆえに、何故こんなにキャプテン・陶冥は面白いのか、などと、いろいろ考えてみる。
ひとつレポートでも書いてみようかしらん。彼にまつわる数々の謎を解き、エンタティメントのなんたるかを論じてみようか、とかさ。

クーーッ!
ほんっとうに、野暮だねえ。
だって、キャプテン・陶冥の美しさと魅力は、神林の小説を黙って読めば、充分わかる。キティフィルムのビデオを見れば十二分に楽しめる。
それ以上、余計な言葉は必要ない。
私、評論とか苦手なのよね。思い込みが先走るから。
だから、無駄な努力はやめにします。

というわけで、みなさん。
黙って本屋さんにいって、『敵は海賊』を注文して下さい。
この文章を書いている時点で、ハヤカワJAで、シリーズ四冊がでてます。『狐と踊れ』『敵は海賊・海賊版』『敵は海賊・猫たちの饗宴』『敵は海賊・海賊達の憂欝』(以後続刊)です。
あ、ビデオ屋さんも忘れずチェックしてね。ビデオは全六巻です。
それでは、さやうなら。

あっ、やめて。石投げないで!
待ってよ。ちゃんと書くから。……ごめん。危ないよう。やめてってば。いたいっ……
はい。わかりました。
あなたがこの文を読み終えた時に、本屋さんやビデオ屋さんに走りたくなるように書けばいいんでしょ。
じゃ、いくよ。
神林長平『敵は海賊』論だ!

2.独断と偏見か? いや、私は宣言する。キャプテン・陶冥は、現代最高、無敵のヒーローだ!

ずいぶん、もちあげてしまったなあ。
私、別に神林のファンじゃないんですよ。
でも、キャプテン・陶冥には、それだけの魅力がある。(ヨウの正しい文字は「陶」の字からこざとへんをとった字だが、ネット上では表記できないので、この論では「陶」の字で代用する)
私は好きだ。共感できる。真の現代人だよな。エンタティメントの敵役としては、全く新しいタイプの人間だ。設定も秀抜だし。
根拠をひとつ述べましょう。
それは、キャプテン・陶冥の信条と、そこから導かれる悪。

彼の信条はシンプルで、しかも繰り返し明記されています。
《おれに命令できるのはおれだけだ。おれを支配しようとする力には、手段を選ばず対抗し、必ず打ち砕いてやる》
特に変わった信条ではないです。彼は自由を愛する海賊の王なんだから、人から命令されたりするのは、当然まっぴらでしょう。
しかし、面白いのは、そこから先。
支配されなければ、彼はなにもかもがどうでもいいの。権力はいらないんです。贅沢にも、遊びにも、興味がない。人を操るのも、本当に必要な時だけ。派手なことが嫌いで、仕事はこっそりと目立たずにやる。自分の力を誇示する、ということが、まるでない。別に、自分を束縛するものがなければ、本当に何にも気にしないんです。
反対に、自分に対してなんらかの拘束が起こった場合は、命を投げ出しても戦うのね。死んでも自分の魂は守るの。ここはもう徹底している。
美しい欲望だわ。
直接ひとに迷惑かけてないし(海賊やってますが)。
自分に正直で、いいなあと思うんだけど。
え? それって、普通の人ですか? 割とよくあるキャラクターですか?
ま、普通でもいいや。
確かにね、普通の人間は、自分が気持ちよく暮らせれば、どこでなにがあろうとあんまり気にしないんじゃないかと思います。毎日とほうもない野心に燃えていたり、常に憤っていたり、というような、ものすごく疲れる生き方をしているのは、ほんの少しのひとでしょう。
単純に考えて、人間って、なんのために生きてるんだと思いますか? どんな喜びに生かされてると思います?
そんなこと考えると、キャプテン・陶冥の信条は、すがすがしい。哲学者みたいで、気持ちがいい。

でも、陶冥は悪なんです。
それは、普通の人間には許されない力を持っているから。ひとに迷惑をかけても、反省をしないから。

悪であるという前に、彼は確かに犯罪者です。
自分を縛るものをどうしても許せない彼は、家族を撃ち殺しました。教師も警官も。自分を使う海賊も殺して、海賊王にのしあがりました。
これらはみんな罪。でも、ここまでは悪とはいいきれない。彼は、そうしないと生きられなかったんですから。
だから、彼が悪であるのは、そこから先です。海賊の王として太陽系に君臨してしまう。表の世界でも実業家ヨーム・ツザキの顔をもって、何不自由なく暮らす。
まあ、そこまでもありがちな話です。
しかし彼には、罰が与えられない。良心の呵責さえ、取り除かれてしまう。ただ力だけが与えられていて。
これが、悪なんです。
悪の本質って、こういうもののような気がするんです。
自分がいつ死んでも、なんの悔いも無い。これが、彼の悪なんですが、本当の悪というものは、彼の悪に近いものがあると思う。
本当の悪人は、後悔しない。
後悔するような悪は、たいしたもんじゃない。
本当の悪は、滅びない。
つまり、キャプテン・陶冥は、すっきりと美しい、本物の悪人なんですね。真の悪の象徴というべき人物なんです。神をも恐れぬ悪だよ。いや、これは神なんぞを越えた悪です。なんてったって、「幻」の海賊なんだから。(これが私一人の思い込みでなく、神林の仕掛けた比喩であることは、キャプテン・陶冥と宇宙の超自然の存在と語って負けなかった数々の場面によって明らかです。無論、自分の限界もきちんと知っていて、不老不死などという寝ぼけたこともいいませんが)
プラス、軽妙な会話と、忠実に仕える片腕。(このラック・ジュビリーという奴は、無条件でいい奴でね、不幸な事件が無ければ、海賊なんてやってない男なんですが。キャプテン・陶冥を主人に選ぶと、本当にきちんと仕えている。陶冥も唯一側において信頼している、というきちんとした脇役です)
うん。文句なし。
素晴らしい!

え?
虚構の登場人物としてつくられた悪人に、そんなに感動するなって?
でも、しちゃいますよ。だって、今までのエンタティメントの中の悪人というのは、こういうものじゃなかったから。
エンタティメントの悪といえば、ただ一方的に侵略してくるものでした。勧善懲悪の物語では、とにかく倒すべき、憎むべき相手。訳のわからん野望に燃えて、ひたすら自分の利欲につきすすむ輩。(こんな概念は、エンタティメントに限らない。たとえば、仮想敵国なんて言葉。自分達の行動に動機や理屈を与えるための敵)
もちろん、悪にはいろいろとバリエーションがある。
悪の方にも事情があるんですよ、こういう人間味があるんですよ、善と悪といっても、相対的なものなんですよ、みたいな裏話をいれるというやつ。
しかし、最後に(正義の)主人公は、まず相手に勝つ。
倒さない場合もあるけど。最後に対するべき相手がさ、なんか曖昧な超自然みたいな存在だったりするやつ。または逃げるか、再生するか、というパターン。
すっきりしない。
すっきりしないだけでなくて、現実味も薄い。
もちろんそのことに、多くの人が気付いていたんだけれど、具体的な手をうつひとは、誰もいなかったように思われます。

と考えると、一見若書きのスペース・オペラである『海賊版』は、パターンを踏みながら、見事に虚構と現実をクリアしたんだ、と思うんですが。
今は、現実の中で、二項対立が崩壊してゆく時代です。
日本では、保守ばかりがうろうろ。ソビエトは力を失い、アメリカはどんどんいばりだし。
虚構の中でも、アクのある悪、存在感のある悪は姿を消しつつあり、ファミコンゲームの最後にほんの少しの痕跡を残すばかり。
悪が冴えないんじゃ、主役も冴えない。
主役も不在の時代になりつつある。
カリスマのでてこない時代になりつつある。
そういう時代の中で、『敵は海賊』は、きらりと輝くエンタティメントだと思います。
敵は、ほとんどパーフェクトに描かれた悪人。
そして、正義であるところの刑事達の健全さ。
彼らは、難しい理屈をこねない。彼らの合言葉は「敵は海賊。ひとり残らず撃ち殺してやる」であり、正義というものの乱暴さ、うろんさ、をつつみ隠さず行動する。これも、シンプルで正直で大変いい。仕事というのは、情熱というのは、意地というのは、こうでなくちゃいけない。
相対的な力関係の、空しさと良さを共に描いて面白い話なんですね。
ね。目新しいでしょ?
ちょっと、面白そうでしょ?
まだ、わからない?
では、次で、もすこし細かく、キャプテン・陶冥とこの物語の面白さを解きあかしていこうと思います。

3.創作家としちゃほっておけない! パロディ再生産のあやしい構造をときあかせ!……陶冥の浪漫。

「敵は海賊」のシリーズの中で私が一番好きなのは、『敵は海賊・海賊版』。
私は、この本を読み終えた夜、「やられた! 私が書きたかったのは、こういう話だったのに!」などと、意味不明のたわごとを叫んでいました。決して、スペースオペラを書こうと思ったのではありません。その人物と小説の構造が、私を感動させたんです。
この話は、神林の言葉遊びが縦横無尽の面白さを生み出しています。言葉使い師の面目躍如、というべきでしょう。虚構自体が多重構造になっていて、その構造だけ味わっても楽しめます。

まず、この話のタイトルにしかけがある。
『敵は海賊・海賊版』の意味。
いろいろあるんです。
この物語は、海賊陶冥が主人公の物語であること。
元海賊のカルマが語った物語であること。
そしてカルマが、陶冥の話と公的資料を元に、機械でうちだした海賊版の物語であること。
また、その機械(著述支援用人工知能)が暴走し、カルマの話をさらに海賊版にしてしまっていること。
物語の中に二重の世界が構築されていて、それぞれの登場人物に、ドッペルゲンガーが存在している、つまり海賊版がいる。
そしてそれらの海賊的行為によって、話が進行する。

ふふふ。
神林もなかなかやるでしょう。
言葉遊びをつかって、二項対立の面白さをみせるのは、神林のお得意の手のようですが、エンタテの骨子をもって、それが生き生きとストーリーを織りあげていくのが気持ちいい。カウンターパーツは限りなく登場し、どんどん意味をずらされていく言葉に、にやにや笑いがとまりません。注意深く読みかえすほど、増えていくメタファ。箱根細工の箱のように、精巧にこしらえられたつくりものの醍醐味が展開します。
面白い。
特に、この話に色をつけているロマンスの側面では、単純に感動してしまいました。
そうだよね。
キャプテン・陶冥のような人にロマンスさせたら、こうなるよね。
うん。わかるわ。
どういうことかと申しますと。
この人のロマンスには、生と性のずらしが、繰り返し、必ずかぶさるようになっているんです。そして、キャプテン・陶冥は、信条に縛られて、抜き差しならぬ感情の揺さぶりをかけられる。
これが、面白いんです。

キャプテン・陶冥は、まあ人並な感情の持ち主ではありません。滅多な人間にはなびかないです。しかし、一人だけ、彼がまいってしまった女性がいる。
その名は、シャルファフィン・シャル。
彼女は、ランサスという星の王女付きの女官です。彼女の王女が行方不明になり、占いに示唆されてキャプテン・陶冥に、王女を捜して欲しい、と依頼しに来るのです。
それが、ロマンスの始まり。

その場面は詳しく検証すると、非常に微妙な言葉の綾でなりたっているゆえ、長くなりますから、要点だけのべます。
シャルは、王女捜しの報酬をたずねられて、初めは母の形見を差しだしますが、きいてもらえません。すると彼女はいうのです。
「私に払えるのは、この命だけです」
そして、やってみせろ、という陶冥に、彼女は答えて、自分の胸に向けて銃の引金をひくのです。
本当に死んでみせるつもりで。
これにね、陶冥は、まいっちゃうんだな。

まいっちゃうのも、無理ないの。
彼女は、陶冥と同質の人間だからです。
自分の目的が一番大事で、命は二の次という輩だからです。
キャプテン・陶冥は、自分の魂の自由に至上の価値をおいています。魂が自由であるならば、自分の命はどうでもいい、という人間です。
共感を感じるでしょう。
あと、シャルがむやみに性を差しだしていないのも、いいんでしょうね。

私なんて品性下劣だから、若い美しい女性が、「私にあげられるものといったら」なんて口走ってごらんなさい、私の身体、なんて言葉がすぐうかんじゃうのね。まあ普通、仕事の報酬に、「私の命を差し上げます」とはいわないでしょう。神様に捧げ物にするんじゃあるめいし。
でも、キャプテン・陶冥には、反対に効果があるんだな。このひと、女の人があまり好きじゃないのね。
このひとは、お母さんと、お姉さんを殺してるんですよ。
特に母親については、「いやな女だった」と何度もはっきり言っていて、殺しても仕方がなかった、というようなことまでいっている人ですから。(母性を否定していることによって、自分の神性を高めようとしているのかもしれませんが)
つまり、女性不信なの。
(反対に、女性っぽいところがあるともいえるんですが)

そんな訳で、性のかわりに生を差しだしたシャルは、キャプテン・陶冥の嗜好にぴったりあうんです。

話は決って、シャルは海賊としてキャプテンの母艦、カーリー・ドゥルガーにのることになります。
この後の二人のロマンスにまた、生と性のずらしが入ります。
この二人の身体的接触は一回だけ。異次元の世界に飛び込んでしまい、戦闘鑑ガルーダの中で、キャプテン・陶冥とその副官ラック・ジュビリーは戸惑います。しかし、シャルは迷わない。目的がありますから。
そこで、陶冥はシャルを臨時の艦長にします。陶冥はシャルの顎をとる。驚いたシャルは、胸のペンダントに手をやる。これは、リバイヴァという自衛装置で、触れたものを殺す装置です。(同時に自分も仮死状態になる)
そこで、口吻。
シャルの手からリバイヴァが落ちる。
澄んだ瞳をした、物優しいようすの海賊は、静かに微笑んでみせます。
象徴を差し挟むことを忘れずに、見事ロマンスしています。生(その裏返しとしての死)と性を。

このあと、いろいろとあって、だんだん気持ちが近づいていく二人ですが、そのロマンスが最高潮に達するところは、なんと、シャルファフィン殺害のカット。

陶冥よりも自分の使命を選ぶシャル。母星の平和を乱すくらいなら、自分の命を差し出すというシャル。
女王サフィアンに、なにが望みかとたずねられ、陶冥は答えます。
「金か、惑星か、ランサスか? いいや、そんなものは実力で手に入る。おれの望みはこの女さ。いいだろう、シャル。望みどおり、殺してやる」
「なぜです、陶冥。やめなさい、殺してはなにもならないでしょう」
女王が叫び……陶冥は、次の瞬間、シャルを撃ち殺します。

これが、この二人の恋愛の成就です。
生と死で結び付いた二人の。
シャルは海賊に心を許した自分を許せないでいる。
陶冥は、シャルに心を許した自分を許せないでいる。
ゆえの結果です。
そして、陶冥も致命的な重傷を負って……。

このロマンスの最後のカットも、いいです。
なんとか生きて再会できた二人。
シャルはリバイヴァを作動させ、自分の心情を吐露し、使命に殉じて、自殺しようとします。陶冥は思わずリバイヴァを魔銃で吹き飛ばし、シャルをあきらめて去ってゆく。
「来い! カーリー・ドゥルガー!」

かっこいい。
泣けるわ。
読みなおせば読みなおすほど、このロマンスが陶冥にとって、本当に抜き差しならないものだったということがわかってくるんで、ちょっと切ないです。
例えば、瀕死の重傷を負った彼が、薄れゆく意識の中で思うこと。
《シャルファフィンめ……死んでなおおれの心を支配するのか。逃れようがない。時間だけだろう、この痛みを薄れさせるのは》
よくある言葉であっても、それまでの言葉のかけひきから考えると、深い意味を帯びてきます。その切なさは、虚構の複雑な構造の狭間にうまく落ちて、独特の硬質なロマンスをつくりあげています。自分の魂に対する、ストイシズムの、美しさです。

4.さて、キャプテン・陶冥の正体やいかに?人物像について、もう少しだけつっこんでみよう。

ところで、キャプテン・陶冥って本当に海賊なのかしら。
突然何を言い出すのかと思われたでしょうが、真面目な話です。一応海賊の筈なんですが、彼の海賊行為というのは、具体的に一つもないのです。
海賊というより、怠惰な貴族の趣きのある人だから。
(この人のボキャブラリーには、運動不足という言葉があります。なんて海賊だ)
『敵は海賊・猫たちの饗宴』なんかでは、星の王子様しているくらいです。空の星を数えて、あれはみな俺の星だという王様の話、ご存じですよね。ああいう台詞が、でてきちゃうあたりがあってね。

そういえば、彼は、白い猫である、というメタファもあるんだな。黒い猫の形をした海賊課刑事に対するものとして。
彼がいつも連れて歩いている猫は、彼の良心が形をとっているものとされていて、それが白いんです。彼のおまもりのような存在なんですが、意味深だよね。
猫は、自分が主である動物だから。
陶冥の本質は、つまり猫的なものなわけですね。
『海賊版』の一ページ目をきちんと読めば、それは裏付けされます。
その魂を、自分からとりだして、自由にしているというメタファも、なかなか面白い。
本当に、やってくれるよな、神林。

キャプテン・陶冥の名前についても、ちょっと触れておきましょうか? これも、謎ときのできる名前なんで。
まず、フリガナがヨウメイとされていますが、これ、辞書で読み方を調べると、トウメイ(こざとへんのない《陶》の文字に《冥》だもん)としか読めないんです。
つまり彼は、無色透明の男な訳です。
(清らかな天使のような容貌だそうですから)
角川新字源で、更に調べてみました。
同字の陶という字は、ヨウと読みます。焼物、土をこねてつくるもの、双、という意味もあります。なんか意味があるでしょう? 冥は、当然暗いという意味ですが、他にも、深い、海、心の底、あの世、道理、目に見えない神仏の作用、かくれる、おもいにふける、などという意味があります。ううん、これも面白い。
彼のミドルネームは、シャロームといいます。
これは、相手に対する最後通牒として使われる名前なんですが、もとはユダヤの人の挨拶で、「さようなら」という意味です。ちょっと恥ずかしい名前のようにも思いますが、ヘブライ語(ユダヤの言葉)の「平和」にあたる言葉である、という側面も考えると、また別のニュアンスを帯びてきます。
彼のラストネームは、ツザッキィといいます。
この名前の謎は私にははっきり解けていないんだけれども、ひびきからして、ヘブライ語の「Zack」あたりからきているんじゃないかと思っているんです。「神は讃えられている/名高い」という意味があります。
外れにしろ、ヘブライ語あたりがあやしいと思います。
このひと、ユダヤ系の思想があるんだもの。
『猫たちの饗宴』で、宇宙の同一言語化の話なんか出てきますから。これ、聖書のメタファであるだけでなく、ユダヤの匂いがする思想だから。
もちろん、神林は、インド、イスラム、ラテンの響きも縦横無尽ですから、断定はできませんが。

しかし、陶冥も無敵ではない。
『敵は海賊・海賊達の憂欝』は、本当に憂欝な話です。
虚構の約束ごと、特に『海賊版』でつくりあげた見事な虚構を、神林はどんどん打ち壊していきますから。
部下に裏切られ、ファンタシイに逃げられ、迫ってくる戦闘母艦カーリーに戸惑い、いやでも迫って来る現実に、さしもの陶冥も恐怖します。そして、捨て身で亡霊に立ち向かいにゆくのです。(この本は話自体のレベルは『海賊版』より落ちると思いますが、『海賊版』を補う本といえます。現実版とでもいえばいいんでしょうかね。あくまで幻であろうとする陶冥に、次々とつきつけられてくる現実の力。心をくすぐりますよ。私は読みながら「嫌、お願い、キャプテン。海賊をやめないで!」と叫んでいました。……ってなんてミーハーな)

しかも、キャプテン・陶冥は、海賊課の宿命のライバルなのに、どのシリーズでも、海賊課の本当の敵ではないんだな。
ずれてゆくんです。
神林って、本当に、どこまでもやってくれるよな。

うむ。やっぱり興味の尽きないキャラクターだわ。
後日、もう少し研究してみたいと思います。

5.ところで、エンタティメントとはなんぞや?SFとミステリの関係なんぞ考えながら。

ところで、作者は、何者なんでしょう?
思うに、神林は、SF風言葉遊び作家といえましょう。
SFであることより、言葉のかけひきを重んずる人です。
骨太なドラマなどなくても、言葉の力業だけで、人々を通常空間から連れ出せる人です。
よね?
前にも書きましたが、私は神林のファンではありません。
『敵は海賊』以外は、二、三冊しか読んでいませんから、断言はしませんが。

「敵は海賊」の最初の作品は、短編集『狐と踊れ』の中に登場する中編です。……これは、SFハードボイルドとでもいえばいいんでしょうかね。広域宇宙警察海賊課刑事、黒猫アプロとラテルの物語です。(陶冥はまだでていません)
この話は、他の収録作品にくらべて、ぐっとエンタティメントらしいです。会話の面白さ、テンポの良さ、わかりやすさ。筋立てもすっきりしていて、うまい作品です。
仕事が派手すぎて、評判の悪い海賊課。休暇と称して、特別任務を押し付けられたアプロとラテルは、ぶつぶついいながら仕事を始めます。依頼者はかわいい女の子、叔父が行方不明になったのでさがして欲しい、というのです。
事件の捜査を開始する二人。大都市の巨大コンピューターにからむ犯罪。素早く展開する推理、そしてアクション、クライマックス!
軽いジョークでしめくくって、ジ・エンド。

ところで、読み返して気付いたのは、この中編「敵は海賊」が、意外にミステリ寄りな作品であることです。論理がSFに寄りかかっていないんです。非常に古典的な思考法によって事件の真相は看破され、ストーリーとの融合も過不足ない。アクションあり、冒険小説的な展開ではありますが、納得のいく終わり方をしている。ちゃんと、刑事ドラマなのね。

で、わかったんです。
神林は、間違っても、電子探偵の夢は見ないということが。
(あ、電脳探偵という言葉を使った方がいいのかな。サイバーパンクも、恥ずかしい亜流がまかりとおった時期がありましたもんね)
神林は、エンタティメントの方法として、この設定を選んだ、ということが。

私の本職(?)は、ミステリ読みです。
私は、ミステリを娯楽の王者と信じています。全てのミステリが優れたエンタティメントでないにしろ、娯楽の要素を多分に詰め込んだ形式です。うるさがたのミステリファンはともかく、一般の読者は、善と悪との追いかけっこを楽しみ、最後に善が勝って満足し、ある程度形が決っているために安心して楽しめる娯楽を歓迎している筈です。数は多いし、種類も多いし、いつでもどこでも、手にはいる。
ゆえに、ミステリは娯楽の本道であると信じています。

ところで、娯楽の分野でミステリと双璧をなすのはSFですが、こちらは、楽しみの質がちょっと違う。
ミステリは、読者を日常の世界から、少しずれた非日常に連れ出すものですが、SFは反対。別世界の舞台から、日常を照らし出す。遠い場所の出来事としてこそ書ける、風刺や人間ドラマがある。完全な虚構の中で展開するからこそ面白いのがSFというものでしょう。人間的真実を含むが、まったくのほら話とされてしまうから、重たくならず、かえって面白いのです。
神林は、そこを狙っているんですね。
そして、それに、ミステリの娯楽性を付加したんです。

え? ちょっと強引ですか?
じゃあ、ちょっとSFミステリってものを思いだしてみましょうよ。
私は、あんまりSFミステリというのを信用していません。アシモフは『私はロボット』や『黒後家蜘蛛の会』みたいに、すっきりしたものの方が面白いと思っています。SFミステリといわれる『鋼鉄都市』なんかは、読んでておちつかないのです。私のような頭の硬いミステリ読みがこれを読むとですね、SFの論理で話が進むんで、推論のところでずるをされるんじゃないかと、ものすごく不安になるんです。だって「ロボット三原則」はアシモフのつくった法律だもの、一般論理じゃないから、安心してよりかかれないわ、てな感じで。

そこらへんを、神林は、よくのみこんでいると思うんです。
安心して読めるんだもの。

また、根拠のない駄ぼら吹いて、とお思いですか。
私、『海賊たちの憂欝』の最後にでてくるホテルマンが、アイザックという名前なのにも、意味はあると思うんですけどね。つまり、アイザック・アシモフに話の最後で、笑って手を振ってもらおう、という腹なんだな、と私は思うんですが。
いらぬ勘ぐり、ですか?
とは思えないんですよね。

さて。
そろそろ最後の結論にいきましょうか。
私は、一つのエンタティメントの末路を、神林に見る、と。

神林は、小業をきかせる作家です。物語的な面白味は薄いけれど、シンプルなエンタテの構造の中では、大変いきいきとその力を発揮します。そして、私はそのパロディ的な面白さに、大変ひかれています。虚構の再生産の面白さに。
2章目で書いたとおり、現代は物語の死にかけた時代です。
読者たちは、現実には夢も希望もないものだ、と子供の頃から叩き込まれ、物語の荒唐無稽さと豊かさは嫌われ、味気ない闘いの嵐が、フィクションの世界を吹き荒れています。
そういう中で、神林は心地よい。
派手すぎず、地味すぎず。
『敵は海賊』の適度なエンタテ性が、マイナーな喜びが、私の心を慰めるのです。
そう、小説家たるもの、このくらいのことをわきまえて創作しなければならんのだな。
などど、ひとりごちるのでした。

うむ。どこが評論なの。
また悪い癖がでてしまったようです。
ごめんなさい。
読んでない人には、「わからん!」という文章を書いてしまいました。
神林のファンでない方、SF、ミステリのファンでない方、ごめんなさい。

6.ビデオとの相互補完。神林の小説は、ビデオが出た後、売れた筈だ!だってかっこいいんだもん。

ほんとにこれで、最後の蛇足。
ビデオの話。
私が、『敵は海賊』シリーズを読むきっかけになったのは、
キティフィルムのビデオです。私のキャプテン・陶冥の評価は、この『敵は海賊・猫たちの饗宴』のビデオのイメージによって、かなり高められています。だから、この論を読んだあと、神林の本を読んで納得がいかない人は、ビデオを見て下さい。
それで、全然面白くなかったら、ごめんなさい。
でも、このビデオ、割と面白いんだよう。
でてる声優さんのファンだったので、なにげなく見てしまったのですが、なかなかいいんですよ。
製作のタツノコプロは、ちょうど、アクのある例のドタバタ喜劇から足を洗った(?)ところで、スマートなアクション路線を切り開き、スピード感溢れる美しい画面を作っています。ノリはタツノコなんだけど、かっこいいのさ!
特に、後藤隆幸のキャラクターデザインは、よく頑張ったね、と誉めてあげたい。特にキャプテン・陶冥はねえ、苦労がしのばれます。高貴で清潔なイメージの海賊、なんてよく絵にした、と思うよ。文句なく美しい。ほんと、ごくろうさまでした。この陶冥は、高名な挿絵画家である、某あまのよしたかでさえ避けた、難人物なんだから。(もし描かれたなら、きっと某ヴァンパイヤハンターになってしまうに違いないけど)
それから、音楽もいい。基調は、骨太なブリティッシュ・ハードロック! これがずしんときて、なおかつ哀愁を漂わせ、スピード感を盛り上げる! その中にまた、中世の雅びな音なんか混ぜてあったりして心地よい。キャプテン・陶冥のテーマになっている「レディ・カーリー」は、一日中かけていても飽きない。これは、中世嬉遊楽団タブラトゥーラというグループがつくっている曲なんだけれども、この人達が出している「タブラトゥーラ1〜3」(キティ)というCDがまた良くて、聞いて面白く、天才つのだたかしの書いたライナーノーツを読むだけでも半日笑いころげてしまえるという、なんかもうけた、という感じがする音楽なのです。
もちろん、おまけばっかりでなく、話もなかなか面白い。
私はうなったね。
神林って、機械と人間の意志疎通や、意味論なんかぶったりして、古めかしい堅苦しい人だと思ってたのに、こんな軽妙なエンタテも書いてたんだ、とちょっと見直したりして。

とにかく私は、このビデオがあれば年が越せてしまう、というくらい夢中になりました。
ふと、仕事の手をとめて画面を見れば、キャプテン・陶冥は、バー「軍神」のカウンターにいて、クラックトアイスをいれた火星産のブルーウィスキーを、静かにあおっている。
不意の来訪に驚いた、店の主人カルマにむかって、
「恋人でも待っているのか? それとも借金取か。まるでスキだらけだ」
カッコいい。
気障じゃないの。清潔なの。
また、いよいよクライマックス、という時、銀色の銃を構えて、裏切り者の部下、いや、他星系からの侵略者である男を撃ち殺すカット。
「幻の俺を撃つつもりか」
めくらましに硬直した海賊にむけられて、きらめく銃口。
「ごきげんよう、マルガンセールのヘルベルト・カッツ」
しかも、実際は自分の手は汚さない、というあたり。
かっこいい。
しばし、みとれてしまいます。

そう。
まるで夢なの。うっとりと、遠く思う夢。……宇宙船の中の人工の自然。大木の木陰に座り、白い猫を抱くゆるやかな服装の男。銀色のアンドロイドは古びた曲を奏で、忠実な片腕が自分のためにブランデーを差し出す。そして、バランタインをゆらしながら、彼が物思うのは……。

ぜひ、ビデオ、見て下さい。
小説を補って、余りあるから。
そういうの、小説にとっては邪道な楽しみ方かもしれませんが、損はない。

やっぱり、キャプテン・陶冥はよろしいです。

付記/文中にも記したが、ここで取り上げられている“キャプテン・ヨウメイ”なる人物の“ヨウ”の文字はネット上では表記できないため、「陶」の文字で代用している。読者の皆様には申し訳ないが、すべて読みかえていただきたい。

(1990脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第1号』1991.12)

「『名探偵は精神分析がお好き』(中島梓・木田恵子著)を読んで(栗本薫小論)」

人の寂しさには、限りがない。

……などと呟いたら、妹が「?」という顔をした。「いや、ちょっとそういう事を書いてみようかな、と思って」と取り繕ったら、「え、いつもそういう小説を書いてるんじゃないの?」と突っ込まれてしまった。
アハハア。
そう言われてみれば、確かにそうだった。

いやいや、そうではなくて。
人の寂しさには限りがない、と思ったのは、この本を読んだ時の、感想なので。
しばらくたっても、その感想に変わりはない。
だから、思わず呟いてしまったのだ。

この本は、評論家の中島梓と、木田恵子という心理学者との対談で構成された、心理学関係の軽い読み物である。内容は別に目新しいものでない。この本を見て木田さんという人の人となりや彼女の説に興味を感じたら、関連の本を読むがいいというガイドブック的なもので、さして中身がある訳でもない。
それなのに、妙に心に残ったのは、その中に、作家栗本薫の生い立ちの秘密が、評論家中島梓の手で暴かれていたからである。おかげで、この本を読んだ瞬間、私の中で栗本薫という作家の像が、ピンと一つに結ばれたのであった。

作家栗本薫に関して、私は多くを語る資格がない(評論家中島梓にもだ)。まず、彼女のファンタジー系の創作を一切読んでいないし、それ以外にも読んでいないものがあるし、最近の彼女の著作のほとんどに目を通していない。だから、真面目な読者の方々をさしおいて何事かを言うのは、おこがましい。
ただ、ある時期には面白いと思っていろいろ読んだし、影響も少なからず受けたし、今でも評価されるべき作品は評価されるべきだと思っている。
だから、少しだけ、彼女について書かせてほしい。

さて。
この本で明かされた話は、以下のようなものである。
作家栗本薫には、障害者の弟がいた。
彼女の母親は、この障害のある弟を、それは大事に育てた。そして、姉に関しては完全にほったらかしにし、むしろ憎みさえしたという。どんなにいい点をとってこようと、どんなにいい学校に進学しようと、どんなに媚びを売っても、この母は彼女に対して愛情を与えたことはなかった、と。
見捨てられた、と思った彼女は、最後はグレてしまい、大学を卒業しても、いい就職をして親を喜ばせようとせず、部屋に閉じ込もって凄惨な小説を猛烈な勢いで書いていた、と。

ここで私は、ハハア、と思った。
もし栗本薫が、自分の子供時代をそう捕らえていた、というのなら、私が彼女に対してもっていた幾つかの疑問はスルスルと解ける、と思った。
どうして彼女は、若い頃、青年達が血みどろになる小説ばかりを書いていたのか。
どうして今でも、あらゆるジャンルの通俗小説を書き散らすのか。
どうして彼女の通俗小説の主人公は、無償の愛ばかりを求めて、「愛してくれ!」と無言の絶叫を繰り返すのか。
どうして彼女はどんな所へも足繁く出かけていって、誰彼構わず応援したり、自分の所へ寂しい子供達、後輩達を集めて庇護したりするのか。
それが全部、すっかりわかってしまったような気がしたので、ある。

もちろん、作家を決定づける要素というのは一つではない。いろんな影響を受けてこそ、新たな作品が生まれる。だいたい創作家は嘘をつくし、彼女の言葉がまるごと真実であるとする他の資料がないのだから、これが本当だと断定する事はできない。それに、他人である私には、栗本薫の母親が、とりわけひどい存在であったとは思えない。
しかし、本当に彼女が、幼年期から青年期にかけて、親に愛されたいという寂しさを深く抱いていたのだとしたら、私の疑問はすべて解けるし、彼女の抱えている矛盾の厳しさも理解できる。
以下、少し、私の考証を述べようと思う。

仮定、その一。
栗本薫は、障害のある弟を、憎めなかった。

当り前の話のようだが、彼女のこの葛藤は、いささか複雑なものだったと思う。
おそらく彼女は、弟をかなり愛していたと思う。彼女の二十代の代表作である『真夜中の天使』に、主人公の青年に障害のある妹がいる、というくだりがある。この妹への言及は展開上ほとんど意味がなく、出てくるといってもほんの少しだけなのだが、主人公が妹に対して持っている気持ちは、他の人間と対する時と違う、暖かなもののようだ。
また、最近完結した『終わりのないラブソング』にも、口のきけない妹をかばって犯罪者になってしまうけなげな兄の話が出てくる。この兄は、主人公を助ける重要なわき役なのだが、その妹が口をきけない状態である必要は、あまりないように思われる。もちろんストーリーの展開上で役にたっている部分もあるのだが、やはりこの兄も栗本薫の陰影と見ていい、と思うのだ。
確かに兄弟姉妹の中で、年長者が年少者をかばうのは、特に小さい時期には普通の感情だろう。
だが、おそらく、栗本薫のいたわりの感情の裏には、暗い思いがひそんでいる。
つまり、弟さえいなかったら、という憎悪である。

普通の兄弟姉妹達は、親の寵を奪い合う。そして互いに、損した得したをやる。親の愛情の収支は、確かに平等でないかもしれないが、まあそれなりにゆきわたるのが普通だ。
しかし、少女栗本薫は、奪い合うことができなかった。
幼い時期には、それは辛い宣告だ。
その時たぶん、親だけでなく、少しは弟を憎んだのではないかと思う。
だが、この弟は、完全に庇護されるべき存在である。
それを憎むなんて、とんでもない筋違いだ。
そう考えてしまうと、彼女は憎悪を別の方向にねじまげざるを得なくなる。
そして彼女は、ありもしない空想へとんだのだ。
例えば、もしかして私が男だったら。
もしかして、私に、何か特殊な価値や欠点があったら。
弟のように、うんと愛されたかもしれない、と。

私のこの想像は、当たらずといえとも遠からずだと思っている。何故なら『終わりのない〜』で、主人公の青年は、美しいゆえにいきなり親から憎まれる。男のくせに妹より美人で気に入らないとか、感情をあまり外へ出さないからおまえは全然可愛くない、などと罵られて、酷い目に遭う。そんな馬鹿な、と思わず呟きたくなるような設定である。
だが、これは彼女の生い立ちのそのままの裏返しであることは、明白だ。
なんとも、痛ましい話だ。

いや。
痛ましいのは、その先だ。
少女栗本薫は、自分の空想の世界で、何度も絶世の美少年になった。
いろいろと損な女であることを脱ぎ捨てて、望んだ愛は全部手に入って当り前、のような、なんともきらめかしい存在になった。
しかし、彼女の書く主人公達は、みんな酷い目に遭う。
強姦もまず一、二度では終わらないし、彼らは何度も執拗に切り刻まれて、最後には殺されるか、廃人同様になるのが普通だ(特に若書きには例外がないだろう)。
はっきり言って、主人公達は、ほとんど憎まれているとしか思えない。
はて、せっかく素晴らしい主人公になれたのに、どうして彼女は自分を憎むのだろうか?

仮定、その二。
彼女は、自分が憎いのだ。

例えばこれを、弟への隠された憎悪、と読んでもいいかもしれない。障害というハンデを、美しいというハンデに変えて、それへの憧れや愛を含めて憎しみを書いたのだ、と読んでもいいかもしれない。
だが、私は、それならまだ救いがあると思う。
おそらく、真相は、違う。
たぶん、この憎悪は自分への憎悪――自分なりに非常な努力を重ねたにも関わらず、決して愛されなかった自分への、ぬぐいきれない憎しみだろう。
また、弟に醜い逆恨みを感じている自分に、痛いほどの罪の意識を感じて、「いっその事、めちゃめちゃに切り刻んでくれ!」と思う心のあらわれである――と、そう思うのだ。
だから一層、救いがない。
救いというやつは、救いを求めない人間のところには決してこない。また、きても、それが救いであると気付くこともできなければ、その恩恵にあずかることもできない。完全に絶望しきった人間には、どんな助力をしても無益なのだ。
だから。

愛してほしい人間に愛されない、ということは、その人自身の価値とは全然関係ないが、それでも、愛してもらいたいと思う人に少しも愛されないと思うことは、とても寂しくて辛いことだ。
もちろん誰もが、寂しさも傷も罪の意識ももって暮らしている。曇りが一点もないほど幸せな人間などいない。だが、なまじ秀才で、ある程度の事はなんでもできた彼女にとっては、愛されない、ということが、どれだけ苦しく、諦めのつかないことだったか、と思うと、同情を禁じえない。

さて、そんな共感をおぼえてしまうと、単に推論、一つの仮定でしかないとはいえ、先にあげた私の疑問が全部解けてしまったような気がしても妙ではないだろう。
たとえば、彼女があらゆる種類の通俗小説を大量に書き続けるのは、多くの読者に広く浅く愛されたいからだ。沢山書けば、沢山読まれる。いろいろ書けば、いろいろ読んでもらえる。
まあこれは、通俗小説家として正しい生産の仕方だが、ここにも実は、一種の痛ましさがあるように思う。彼女はいつも一般受けを狙い、マニアに媚びようとはしない。それはおそらく、一部の人間に批評を求めた時、必ずいい結果がかえってくるとは限らないからだ。彼女は母に対した時の失敗で、特定の相手に対する愛を求めるのがすっかりイヤになった。だから、広く浅く、できるだけ大勢に愛される方を選んだのだ――と考えられなくもないからだ。

だから、どうして彼女の小説の主人公が、無償の愛を求めつつ、「愛してくれ!」と無言の絶叫を繰り返すのか、という疑問に対しては、改めて解答する必要すらないだろう。
死ぬほど愛されたかった、と心の底で炎を激しく燃やしていても、そんなことは決して口には出せない。彼女は理性ある、模範的な姉だったのだから。

また、どんな所へも足繁く出かけていて、誰彼構わず応援したり、アマチュア向けの小説誌をつくって寂しい子供達や後輩達を集め、庇護したり後押ししてやったりする理由も、すぐに見えてくる。
彼女は同じ寂しさをもつ人々の痛みを和らげたいと思い、そしてまた、仲間の痛みを和らげることによって、自分の痛みもまた癒そうとしているのだ、と。
古い傷も、嘗めていれば、少しは楽になるだろうから。
やはり、これも痛ましい話だ。
うん。

だが、そんな彼女も今では人の親である。
そして、子供を大変愛しんでいるらしい。
いいことだ。
おかげで、彼女の作品も、昔よりは明るさを増しているようだ。愛される喜び、愛する喜びを感動的に描いた本も見られるようになった。いつもアンハッピーエンドで終わる、というようなことも、なくなったらしい。
うん。
いい、ことだ。

それでもひねくれ者の私あたりは、「愛して、愛して、愛してようっ!」と無言の絶叫を繰り返していた頃の彼女の作品が、愛しく思える。
それが、彼女の、真実の感情に思えて。

そういう情念が根底にあったからこそ、一般受けするような単純なつくりものや、かなり無理のある筋立ての話も独自の生命を宿していて、それなりの観賞に耐えてきたのだ、と思う。多くの少女達に読まれ、支持されてきたのだと思う。
もちろん、今の彼女の作品に魅力がない訳ではない。
通俗小説の王道を歩み続けるだろう彼女は、きっといつまでも読者を得続けるだろう。
だが、たぶん私は、これから先も、あまり栗本薫を読まない気がする。
もう、いいや、と。

それでも、彼女のことは好きだ、といっておこう。
誰だって、時には、死ぬほど愛されたい、と思うだろうから。

本当に、人間の寂しさには、限りがない。

補足

このエッセイを書いた後、栗本薫の父親は職業の関係で長く家を離れることが多く、そのため帰宅時には彼女を溺愛した、という彼女自身の文章を朝日新聞で見た。この論を覆すよりも強化する談話で、なるほどと思った。栗本薫の御母堂、そして母となった彼女自身に、少しでも幸あれかし、と思う。

(1995.12脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第17号』1995.12)

「松浦理英子――完成された未成熟」

1.まずは素朴に、出会いから。

二年前のある夏の日、市立図書館の本棚の間をぶらぶらと歩いていて、ふと、ゆきすぎる私の足をひきとめたタイトルがあった。
『ナチュラル・ウーマン』。
ハードカヴァーの黒い背表紙に、白抜きの明朝体でくっきりと浮かび上がるそのタイトルは、私の好きな作曲家であるキャロル・キングの有名な曲と、同じものだ。
本棚から引き抜いて、パラパラッとページをめくる。思ったとおり、このタイトルは、その曲から取られていた。
ふむ、曲におぶさった、ありがちな音楽小説かな?
いや、そういうのではなさそうだ。
気のきいたフレーズが、そちこちにある。
文体に、気持ちのいい熱がある。
この、登場人物の花世、という女の人、なかなかカッコイイな。名前もいい。確か、久生十蘭が好きな名前だよな、花世って。
表紙もなかなか気味が悪くて、いいな。緑色の地に首のない女性が、ムンク調に描かれているのが、シックだ。
これは、結構、好み系かもしれない。
すぐに、その本を借りて帰った。
勘は、はずれていなかった。
その本は、まさしくずばりアタリ、だったのだ。
作者の名は、松浦理英子。
またぞろ、スゴイ作家を発掘してしまったものである。

2.『ナチュラル・ウーマン』の魅力的な部分。

松浦理英子の小説は、現在四冊の著作が入手可能。『葬儀の日』『セバスチャン』『ナチュラル・ウーマン』『親指Pの修業時代(これが上下巻なので、五冊といってもいいかもしれない)』と、どれも河出で出ています。しかも、最初の三冊は文庫化されているので、気軽に買えます。
その中で、私はやはり、最初に読んだ『ナチュラル・ウーマン』が一番好きです。
これは、非常に純度の高い、美しい恋愛小説です。
彼女の作品の中でも、レベルの高い方に位置すると思うけれども、作家の個性や主張を抜きにしても、やはり優れているなあ、と思います。
ひろく普遍的な恋愛のエッセンスが、すべてここに結晶していて、読み返すたびに、ああ、とうなってしまう。
最初の読後感のメモに、私はこう書き添えています。
《これは、女性が書いた、女性による、女性のための、女性の関係を描いた小説だ。恋愛の幻想性を、ギリギリまでシェイプし、鋭く描きだしている。現代の女性の問題と孤独と非人間的な抑圧が、論文のように的確にカタログされている。しかも思想に走らず、肉体と感性のエレメントを扱って、卓抜な(作者の言葉を借りれば)ポルノグラフィだ。》
ま、これは、ちと大げさか。
当初からは読後感もだいぶ変わったんですが、現在の彼女の作品中、これが一番面白い、という意見は変わらないですね。確かに、最新作『親指P』の方が筋立てもいいたいこともわかりやすいし、世間的にウケたかもしれないけれど、それでもやはり、松浦に接するには『ナチュラル・ウーマン』が最初であってほしいと思う訳で。まあ、皆さん、騙された、と思って、読んでみて下さい。
細かい事はまた後で補足するとして、まず簡単に構成を説明しましょう。
『ナチュラル・ウーマン』は、三つの短編から成立している長編小説です。通しての主人公は、村田容子という若い漫画家。彼女がめぐりあった、三人の女性の恋人――肉体だけの関係の相手、夕記子。精神的に深く尊敬している相手、由梨子。そして、身も心も全てひかれた相手、花世。――彼女達が、それぞれの短編の中で、これ以上ないほど高密度の文章で、素朴な恋情と共に描きだされています。
それだけの骨組みの小説だけれど、示唆してくれるものは、あまりにも多いですね。恋愛の面でも、生き方の面でも、読んだ女性に対して、様々なことをささやいてくれる小説。これだけ純粋な、真正面な恋愛小説って、貴重です。特に花世との恋愛とその肉体的な感動を描いた三番目の短編『ナチュラル・ウーマン』は、どの一行も警句以上の重みがあって、詩の一編に匹敵する、とさえ言えます。
そんな訳で、どこを読んでも引用したくなってしまうのですが、二番目の短編『微熱休暇』の中から、私がとりわけ好きな一シーンを紹介しましょう。
容子は、由梨子と旅行にきて、夜中、いささかきまずい展開になってしまう。部屋を飛び出し、さまよった二人は、旅館の台所にいきつく。そこには水槽があり、大きな蛸がいる。由梨子が蛸が好きだ、という話をきき、容子はその蛸をとろうとする。そこに夜食を食べにきた調理師が現れ、彼女達に湯通しした蛸の足をわけてくれる。
由梨子は、蛸の足を、手で引き裂き、容子に半分わたす。二人は四本ずつ足を食べ、無邪気な娘達として、調理師と、ありふれた、気楽な会話を交わす。
たったそれだけのシーンなんですが、私はモノスゴおそろしく、好きなんです。
ここ、分析しちゃうと、素朴な美しさが台無しになってしまうから、あまりいいたくないんだけれども……ま、一言でいうと、一つの幸せの形というのが、ここに見事に存在していると思うのです。
普段の生活を離れた旅先で、好きな者どうしが、好きなものを、全く同じだけ、同じ場所でわけあって食べて、しかも、それをほほえましく見守ってくれる第三者がいる。こういう幸せな状態って、ありそうでいて、あんまりない気がするのだな。はっきり言えば、恋愛という人間の関係で、それ以上幸せなことってあるのだろうか、とさえ思う。
いや、もちろんありますよ。もう、理性もなにもかもぶっとんじゃった完全な恍惚状態とかさ、そういう瞬間もあります、それも結構好きです。それでも、これいいなァ、と思うのです。平凡であること、ささやかであることが、こんなにも美しいということ。そして、二人の関係にさしている、微妙な陰影。……いいなあ。
これを読んでからというもの、私はこれにあこがれて、海辺の街に遊びにゆくたび、蛸の塩辛を買って帰ることにしているのでありました(単に辛党で、酒のつまみにしているという説もあり)。

ところで、ここで描かれるのは、どうしてすべて、女性対女性の恋愛であるのか?
村田容子のセクシュアリティが、レズビアンだからか。
単に、松浦理英子が女性が好きだからか。
いや、そういうことではないですね。
ここに、女性の歴史がひとつ、刻まれている訳です。
つまり、男と女の恋愛関係というのは、どうしても女の側に分が悪い、という事実ゆえ。……これ、誰がなんといおうと、そうです。ちょっと社会的なことを考えてもらえば、いきなり明白だと思いますが。既婚女性を、立派な大人であるにも関わらず、独立した一個人として認めない状態って、あちこちに存在するでしょう?
もちろんね、養われることを割り切れる人、養われるふりをして夫を操ってる人、そういう人はまだいいんですよ。でも、そういう方々も、応々にして、矛盾にぶつかってないですか?
他の事には理解のある男性でも、自分が差別を受けていないと、そういう問題には結構鈍感なものではないですか? 良識ある相手の方が手ごわい事もあったりして、それはそれで大変なこと。一人前の大人なら、対男も頑張らなきゃ、と思いますが、この闘い、はっきり言って疲れます。シンドイ。
そこで、ふと、考え直す。
パートナーが男性だから、苦しいんじゃない? 矛盾を感じるんじゃない?と。
そういう解決しがたい難しい諸々を一気にとっぱらって、今の自分の生き方に、理想に、仕事に、有益な関係を築きたい。……そんな事を考えて、女性が選ぶ優秀なパートナーって、往々にして、健やかな女性だと思うんだけど、コレ、違います?
これが松浦の、女性に対する愛の一つの柱だと思うんです。
くだらない男にさいてやる時間なんて、これっぽっちもないよ、という。不幸はイヤだ、笑っちゃえ、進め!という。

この結論が、あながち見当違いでないと思うのは、彼女のエッセイ「最も新しい文学の誕生」の中で、『カラーパープル』は、痛めつけられていた女性同士が、自分を愛する事を知り、ついに手を組んで立ち上がった、という点が素晴らしいって意味の感動を書いているからです。ただ、ガチガチした観念的なものでなく、肉体的な結びつきであるところが面白い、だから、恋愛は女とでなくっちゃ、っていう展開をしているんですけども。
あ、言い添えておくと、松浦は、男性と女性の間の性も否定しないんですよ。それはそれで、幸せな関係がある、とします。まあ、人様のセクシュアリティを否定しても、不毛だものね。これほど個人的な事はないし、喧嘩になるだけですから。(ただし、彼女の描く男性のパートナーは、力の釣り合いを考慮してか、どこかしら障害のある人が多いです)
ゆえに、彼女の描く女性対女性の恋愛は、性的な問題が主軸におかれながらも、その上にあらゆる含みがある訳なんですね。
そこらへんも、文章や筋立ての間に読みとりたい作家ですね、彼女は。

しかし、そう考えると、反省しちゃうよな。
なぜ自分は、男の物語をつくってしまうんだろうって。
私の場合、それを書く力がないからなんだろう、って思います
つまり、女性にまつわる様々な問題をかかずにすむから、男が主人公にして書く方が、軽くて、簡単なのね、と。読み手にも、割と受け入れてもらいやすいし。
でも、それだけじゃいかんな、と思うようになってきました。いつか、誰にでも納得してもらえるような、本当の女性の話を書けるようになりたい、と思います。沢山いる、尊敬すべき、力のある女の人達の事を、さらっと書けるといいな、と。女の友愛が今までどんなにいろんなものを産んできたか、そういう事を含めて、書いてみたいなあ、と。
ちょっと、理想としては美しすぎるかな? 私の陰気な作風からして、あまりにも無理なような気もしますね(笑)。

3.松浦の恐ろしさ――《完成された未成熟》。

実を言うと、『ナチュラル・ウーマン』は恋愛小説としての完成度が高すぎて、彼女のフェミニズム的なモチーフは逆にかすんでしまい、あまりでてないかもしれないな、と思います。そういう意味では『親指P』の方が、主張が明快でわかりやすく、面白いところもある、と言えます。
でも、松浦理英子が松浦理英子であるゆえん、というのは、そういう前向きな主義主張でなく、実は彼女の影の部分だと思うので、つまり――永遠に未成熟な、ネオテニー(幼態成熟/子供のままで成人してしまう生き物の状態)の主人公、という恐ろしい存在を書いていることにあると思うんですね。
私も未成熟な、つまりは子供なので、最初は全然わからなかったんですが、ある日突然、彼女の描く女性主人公達が、怖くなってしまって。
怖い。
それに気づいたのは、去年の秋、『セバスチャン』と『ナチュラル・ウーマン』を並べて読んでいた時でした。
『ナチュラル・ウーマン』の容子と、『セバスチャン』の麻希子は、とてつもなく似通ってるな、と思った瞬間、ぱっと何かが閃いて。
二人とも、あまりにも才能溢れる、優れた女性の出現に目をくらまされて、全く相手の言いなりになってる女性な訳ですよ。麻希子は、好きになった相手と肉体的な関係は持たないけれども、精神的にはほぼドレイ。――そう思って、『葬儀の日』まで読み返すと、泣き女とか、幾子とか、唯子とかいう主人公達も、みんな、とんでもないマゾばかり。気がつくと、うわあ、とさけんじゃう。こういう関係を男性ともったら、そりゃあ大変だわ、と思いますよ。スゴイもの。『親指P』も、実はそういう系統ですね。
怖かったです。
いや、彼女達がMである事がコワイんじゃないんだ。山積みのタブーを見せられても、別に私は怖くないです。
でも、Mの彼女達は、恐ろしいのです。

彼女達は、自分達の関係を、恋愛と呼びます。
でもね。
相手に尽くして、ものすごくだらしない状態であるように見えながら、彼女達は何も失わない。相手に、何も奪われないんです。
自分を変えない。成長させない。変わる方法も知らないし、それに、変わりたいという態度も示さない。
それはそれで、その人の生き方ですから、全然問題ない訳なんだけれども。
でも、ふと、そんな彼女達に恋される側の気持ちになった瞬間(例えば、花世の気持ちを考えてみると)、心がパリンと凍り付きました。
これは怖い。
死にそうなくらい、怖い。
なぜ、主人公達が最後には捨てられていくのか、その瞬間悟りましたね。
だって、Mの彼女達に恋しても、何も返ってこないんだもん。
もう、ブラックホールを相手にしてるようなものですよ。
単純なナルシストより、ずっとタチが悪い。
こういう相手との恋愛って、地獄だわ。
どうあがいたって、変わってくれないんだもの。解ってくれないんだもの。努力は全て無駄になります。そのうち、疲れ果てて、相手の心がわからなくなってくる。挙げ句、粗暴になり、空しい戦いに敗れて、恋人の元を去らざるをえなくなります。
これ、普通の恋愛以上に、辛いだろうなって思いました。

なんだか、前のチャプターと言ってることが矛盾してきましたが、松浦理英子が主眼に据えるロマンスは、私の思う恋愛ではない、という気がしてくるのです。
恋愛って、互いの心の相互作用でしょ?
時には戦いにさえなってしまうけれども、違うものがぶつかって、互いを成長させていくのが、恋愛でしょ?
そうでない恋も、確かにあるでしょう。でも、私は、大人になる事っていうのは、一人でやっていける力のつくことではない、と思う人ですから。それは、単に孤立だと思うから。
自立というのは、自分の力で立てるけれど、他人がいなくとも自分を保てるけど、でも他人ともちゃんと折り合っていける、必要な時は心から助け合えるよ、という状態の事。そこまでそろって、ようやく大人と言えると思うのです。(それができる人はどんなに若くても大人だと思うし、できない人は一生子供だと思う)
だから、大人同士の恋愛も、そういうものであって欲しい。
自分がしっかりあって、なおかつ、もたれあえる、暖かく安らかな関係。
え、もたれかかるなって? それは違う。好きな相手になんでもしてあげたい、いうことをききたい、無条件に甘えたい、なにをされてもいい、という気持ちを、バカバカしいと否定してはいけません。それはだらしない事ではない。とても自然な事で、むしろ人間は、そうあるべきだとさえ思います。そういうことから、心が行き交うんだもの。嫌いな相手に無理に何かしてやるより、ずっと有益な、ヨイ事だもの。
でもね、自分のない、相手を傷つけない、魂をぶつけあわない、心を触れ合わせない、力を分け与えない、成長しない関係、それは恋愛じゃないと思う。どんなに相手が好きでも。それは、キレイゴトであって、恋愛じゃない。(いや、それのない相手は、友人でさえないと思うけどね。……え、あまりにも青臭かった?すみません)
だから、自分を成長させないネオテニーな相手と、きちっと恋愛するのは、至難の業なんではないかと思うんです。

そんな訳で松浦は、私の理想とする恋愛とは、少し違うものを書いているようです。もちろん、彼女の書いているものは、間違いなく恋愛。新しく目の開けていく、人間が変わっていく、やっぱり恋愛としかよびようのないものを書いています。自分も傷つく覚悟で、対象に全身で飛び込んでいっているし。そういう意味では、本当に自分の世界を極めているし、尊敬すべき人だと思います。
でも、彼女が本当に書きたかった事というのは、恋愛とはなんぞや、とか、これが恋愛だ、とかじゃ、ないみたいなんだな。対談でも言ってるし、小説の幕切れでも暗示されるんだけど、実は、人間、未成熟な子供のままでどこまでやれるか、という事のようなのです。
人間には、大人になる権利と共に、未成熟である権利もあります。成長の拒否はやろうと思えばできますし、そういうことが必要な人もいる。生きてく上で、そういう形の戦いを選択する人もいる。それは、否定しません。それは、それでいい。そういう生き方も、あります。
彼女の描いているのは、その、未成熟の完成した形なのです。一つの美学――人間は、大人であっても、未成熟でも、女の鋳型にはまらなくても、生きられる、という。

でも、それに巻き込まれた方は、恐ろしくシンドイでしょうね。ものすごく大人で、未成熟な相手をヨシヨシ、とお守りできる人なら、なんとかなるかもしれませんが、私はこんな恋人はイヤです。怖すぎる。
でも、私の恐怖は、自分ももしかして、松浦の主人公のような、だらしない、とんでもない、Mなのかも、という所から発していました。
それは、やだ。
私、たしかにMかもしれない。
決して、大人ともいえない。
それに私は、あくまでも私で、私でなくなる事はできない。
でも、それだけじゃないぞ。
人と接して、成長していきたいぞ。
ナチュラルな人間でありたいし、大人になりたい。
だから絶対、ネオテニーにはなっても、こうはならないぞ。
そう、思ったのでした。
ああ。
怖かったけど。
もう平気だもんね。新たに決意したもの。
私は自分の地平を切り開くもん、みっともなかろうと、どんなにもがこうと、彼女とは違うものになるんだって。
がんばるんだもんね。うん。

4.そして今、フェミニズムのキーワードは、非白人。

ところで、私が、松浦理英子の秘密を探りえた、彼女について書ける!と思ったのは、セリ・シャンブルという業書の中にあった、『大原まり子・松浦理英子の部屋』という本を読んだ時でした。これ、たぶん絶版じゃないかな。八六年の本。図書館の書庫から、わざわざ出してもらったんです。でも、いろんな意味で貴重な本ですよ。『ナチュラル・ウーマン』がでる直前の松浦の発言が読めて、作品の背景が見えてきますから。
それにしても、大原まり子とのカップリングには驚きました。なんで? 全然傾向違うんじゃない?と。
なんてね。
実は私、大原まり子をよく知らないので、本当はあまり驚く資格がないんです。……というのは、私には彼女のSFが読めないから。生理的に、受け付けないんですね。エッセイは楽しく読めるんだけど、小説となると、完全にアウト。意味がよくわからない、とか詰まらない、とかではなく、無機物と有機物の扱いのセンスが私と違いすぎて、どんなに努力しても、目から頭に信号がつながらないのです。彼女を把握する回路が私にはないのでしょう。愚鈍であることは、仕方がないよねえ?

まあ、とにかく、二人とも十代から、数少ない友人同士であったそうで。
友達の友達の、というネットワークらしいけど。
対談の中でも、いろいろ書いてあって、ほう、と思いました。
それによると、松浦は、青学出身者。先輩ですね。九つも年上だから、全然関係ないけど。
ただ、それが私の既知の場所であるゆえに、大原まり子が、「私達が知り合ったのは、大盛堂並びのマクドの前で、偶然ぶつかって」と言った時、思わず目の前にその場面がひらめいちゃいましたね。それは、編集者向けのギャグだったんですが。……そんなことがあったせいか、松浦の小説は、どこか郷愁を誘います。青山ケンネルなんか出てきたりして。特に『セバスチャン』。読んでると、私自身の大学時代が自然に浮かんでくる。海の描写とか、クラス名簿つくるとことか、ああ、私の十代、とか思ってしまうのです。どこかに、共通の違和感があるのかもしれないです。十八の頃、妙にスマートなお嬢さん達の中で、半端な田舎者の私が感じていたものは、なんとも名のつけがたいものでした。今更、大学選びが間違っていたとはかけらも思わないけれど、あの場所に、独特の空気があったということを、確信しました。ああ、学生時代、はるか遠くになりにけり。おぼろげに記憶の彼方。

この本には、松浦のエッセイがいくつか入っていて、先にも触れましたが、アリス・ウォーカーについての文章なんか、とても面白いです。
おかげさまで、A・ウォーカーのエッセイ集『母の庭をさがして』を読んでしまい、いろんな事がわかりました。
たとえば、なぜ、『ナチュラル・ウーマン』の花世が、黒人解放の漫画を描くのか。四分の一の混血と、二分の一の混血をかきわけるのか。なぜ、キャロル・キングの「ナチュラル・ウーマン」でなく、アレサ・フランクリンの「ナチュラル・ウーマン」、と花世が言うのか。
その謎が全部、バタバタととけてきました。
私達、日本人女性は、白人ではない。ゆえに、強者の白人の論理にうっとりしても、無駄なんである。それよりむしろ、黒人女性の問題の方が身近である、と。
だから、この曲が、白人女性のキャロル・キングの作った曲であっても、アレサ・フランクリンという黒人女性が歌ってヒットさせた事の方が重要なんだ、と。
そして、二分の一の混血と四分の一の混血までは黒人なんだけれども、八分の一はオクトルーンといって、白人扱いされるんだってことも知りました。
なるほどねえ。
『ナチュラル・ウーマン』には、こういう含みがあった訳ね、と感心しました。
松浦のエッセイを読まなかったら、私はたぶん、アリス・ウォーカーを読み返さなかったろうし、彼女の関連の本を読もうとも思わなかったろうし、彼女の意義を理解しようともしなかったでしょう、きっと。

こうして松浦は、私にとって、フェミニズムの重要な導き手の一人となりました。
そしてその後、注意深くしていると、日本のフェミニストの発言の中に、時々見られるんです、この表現。
これは、白人の物語ではない。私達、黄色人種の物語である、感動だよ、というような言葉。
私達で、新しい物語をつくっていかなきゃ、という意味の。
そんな意味でも、やっぱり松浦は、意識してもしなくも、日本のフェミニズムの人の一人、それを実践している一人と言えるんじゃないかと思います。
そう。やっぱり自分で書かなきゃ。
自分達の文化は、自分達で築かなきゃ、イカンですよ。

あ、一つだけ補足。これ、白人の物語は最初から全部ダメ、という否定論ではないんですよ。あれだけ、白人にポーッとなってちゃいかんよ、というアリス・ウォーカーだって、白人貴族階級のヴァージニア・ウルフを尊敬してたりもするし。でも、彼女が矛盾してるとは思わないですけどね。いいものを素直にとりいれるのは、必要なことであると思います。私もウルフの『自分だけの部屋』、好きだし。よい意味で連帯するのは、やはりイイコトでしょう?
ただし、ウルフも特殊な人ではありますけどね。精神病疾患による差別とか、夫がユダヤ人の成金であったりとか、差別される要因や圧迫の中で、懸命に戦った人ですから。そのあたりについては、そのうちまた創作ででも、『のんしゃ』で書けるといいな、と思ってますけどもね。

5.補足――松浦理英子語録から。

さて、今まで松浦理英子のうわっつらをカリカリとひっかいてまいりましたが、そろそろページも尽きてきたようです。
彼女についてまとまったものを書くのは初めてで、エッセイというより論文を、と思ってやってきましたが、なんだかゴタついて、あんまり成功してないみたいだな。ま、とりあえず手持ちのカードを皆さんに見せるだけでも。なんかしらの意義はあったと思います。新しい発見があれば、またあとで書けばいいしね。五月にでた『クレア』の文章も見逃してるし、オチはかなりあるでしょう。とにかくダラダラやっててもキリがないので、ここらで終えたいと思います。

その前に、ちょっとだけ補足。
松浦理英子の発言から、落穂拾い。
彼女は、あまり目新しい事はいいません。誰もが思ってるんだけれども、あえて誰も言わない、もしくは言えないようなことを、いきなり人前でズバズバズバッ、と言っちゃう式。おかげでまわりが、ウッそれは、とつまっちゃう発言が多いんですけど。痛快だよ。(でも、いいよな、痛快で。私のは、何も考えないでただシャベルくちだから、駄目だな。頑固なくせに、矛盾だらけなんだもんね)
そういう中から、いくつか引用して、私の感想というか、コメントをつけて、簡単に締めくくりましょう。では。

――私小説とか、小説の小説を書こうという人は別として、そうでない小説を書く時に、差別でない差異から生じる諸々の事象を書くこと以外に書いておもしろいことなんかあるのかな、という考えはありますね。《河出文庫『セバスチャン』対談》

これ、しごくマトモな事いってます編。松浦の小説論は、うなずけるものばかり。彼女は、小説を書くノリというのは、「ねえ、これ聞いて聞いて面白いから」に尽きると言うけれど、確かにそうあるべきだと思う。差異から生じる事象――これ、小説の基本だと思いませんか?
自分は全然書かないのに、このくらい書けるよ、と嘘ぶくエセ文学青年は病的だし嫌い、ともいってたね。たしかにいるいる、空いばりする、口先だけのヤナ奴。そうかそうか苦労したんだねえ、と同情して読んでいると、でも、自分が今やってるのは青春の残務整理なんだけどね、なんて返してきたりするんだけど。ま、潔いですねえ。

――女性が体張って生きていると言うと、身勝手な男連中はすぐ大勢の男の前に気前よく脚を開いてボロボロになりながらも愛を探して歩いている女のイメージを描くようだけど、性器を媒介にするのは何か甘い気がするんですよね。何というか性器以外の物事を曖昧にしたまま安易に世界を肯定しようとしているみたいで。ああいう女性たちは体じゃなくて性器を張って生きているだけだから全然コンプレックスを感じない。でも女子プロレスラーにはコンプレックスを感じますね。あの人たちこそ本当に体を張って生きている。《『大原まり子・松浦理英子の部屋/セリ・シャンブル6』旺文社》

これはちょっとハッとした編。私もスポーツできなくて、体力のなさにコンプレックスがあるけれども、女子プロレスラーを、男性以上に、身体をはって生きる人達、と見ることはできなかったなって。松浦は、他の女性の健全さ、明るさ、力強さを思いきり肯定します。自分の肉体は嫌いな人で、意志で女性的な成長を止めちゃうタイプなんだけども。
私は自分の身体を痛めたくないし、今更女性の身体である事を否定しないけれども、女が強くてカッコよくたっていいじゃない、という軽やかさは好きです。そうでなくっちゃ、と思う。私も健やかな女性が好きです。……でも、実際の女子プロの世界って、体育会系の陰惨さがあるんじゃないのかな、とも思ったりするんだけど。

――私は純文学にしか興味がない。もちろん、純文学とは作者の主義主張を訴えたり人間性の本質とやらを解明する文学である、などといった俗説は信じていない。私が純文学を好む理由はただ一つ、最もすぐれたポルノグラフィは純文学の中からしか生まれない、と考えるからである。
ポルノグラフィと言っても、必ずしも性を扱っている必要はない。題材は何であれ、描かれた世界に作者の欲望が息づき、特に作者の欲望に同調しない読み手をも作品世界に巻き込んで、読みつつある世界を現実に生身で生きているように感じさせるほど、力のある言葉がうねっていれば、それは私にとっての純文学=ポルノグラフィである。従って、先の言葉を「私はポルノグラフィにしか興味がない」と言い換えても差し支えはない。
ミステリー小説も現代ではいろいろなスタイルの作品があるようだが、探偵役の登場人物が事件の謎を解明して行くことを主眼としたスタイルの物は、概ねポルノグラフィではない。謎に向かって突き進んで行くことばの運動は、原理的に単調でしかあり得ないせいである。(人間性の本質を解明しようとする小説は、世間では純文学と称される物であっても、本来ミステリー小説だ!)《『鳩よ!』九三年三月号/江戸川乱歩の世界》

これは、アア、気持ちワカルよ、編。
私は、ポルノも文学もミステリの定義も松浦と違いますが、気持ちはよくわかります。
彼女は、描ける人間の歪みがある程度自由だから、とエンタティメントでなく純文を選んだ人だといいます。つまり、ジャンルとしての純文を愛しているし、誇りに思ってる訳です。そういう人だと、こういう考え方になるよ。自分の愛しているジャンルには、こういう理想が抱かれて当然。
私はミステリが守備範囲ですから、ミステリという分野をやはり愛している訳で、しかもそれは純文の中にすっぽり入るジャンルだと思っていますから、ミステリというものは、確かにシンプルであることが身上なんだけど、文学の一人として、謎に向くべきだと思ってるし、うねりのあるダイナミズムが必要だと思ってますし、将来的にもそういう流れが残っていかないと駄目だと思っている訳なんですけどもね。
でも、気持ちはわかる。
お互いに、頑張りましょうね、といいたくなります。
え、ここに何が書いてあるかわからないって?
十回くらい繰り返し読んでみてください。わかるよ。
ああ、ミステリは文学か否か、なんてゴタク並べる奴に、松浦の爪の垢でもせんじて飲ましてやりたいよ。ホント。

それでは、本日はこれまで! カーテン・フォール。

(P.S.この項を書いている最中、白水社から、松浦理英子のエッセイ集『ポケット・フェティッシュ』がでた様子。注文したんですが、まだ届かず。情報、古くてすみません)

《オマケ》

☆フェミニズム系の本で、最近読んで面白かった五冊☆

『レズビアンである、ということ』掛札悠子(河出書房新社)
*現在の日本で、私が一番尊敬しているフェミニストの本。目からウロコがおちまくりました。この人の発言は、どん な時でもさりげなくて、しかも、超絶カッコいいのだ。「私は、政治的に言えば、女と組みたいからレズビアンだ と言うし、女のためにエネルギーを割きたい、女と一緒に 死にたいし女と一緒にいたいから、レズビアンという。」なんてスパッと言ってくれる。感動して、涙でちゃうよ。中味のある活動をしてる人の言葉には、説得力、あります。

『百合子、ダスヴィダーニャ』沢部仁美著(文藝春秋)
*作家、湯浅芳子と宮本百合子の友愛を通して、女性の生き方を再考させられる本。思わず、百合子の『伸子』も読んでしまった。これを読む度、自らを戒め、フェミニズムについて、真剣に考えようと思います。こういう充実した啓蒙書、もっと沢山あるといいのに。

『少女日和』川崎賢子(青弓社)
*これ、久生十蘭論が読みたくて買ったんですが、吉屋信子、尾崎翠論の方が面白くて、手放せないですね。さらりと読めるし。本田和子あたりより、ずっといい少女論です。

『小説・捨てていく話』松谷みよ子(筑摩書房)
*モモちゃんシリーズの彼女が書いた、自伝的小説。これは、文字どおりとてつもない本。彼女の人生が詰まってい て、一行一行重い重い。ごく薄い本だけど、大長編より波乱万丈。コワイヨー。すさまじいよー。女性が生きていくことって、こんなに凄いことなの?

『幻の朱い実』上・下/石井桃子(岩波書店)
*プーくまの翻訳者、石井桃子さんの自伝的小説。彼女の ユニークな言語センスが横溢、それがとぼけた味わいをかもしだしてほのぼのしているんだけれども、実は彼女の青春時代には女性の恋人が……という本。下巻の展開があまりにもお約束ですが、私は好きです。

補記

とある講演会&サイン会で松浦理英子さん御本人と会った(向こうは覚えてはいないだろうが、彼女と同じ雑誌に載った事があったので、名刺を出して自己紹介もした)。顔といい声といい、作品をほうふつとさせる不可思議な美人である。本稿では生煮えのフェミニズムをぶつのに熱心で、彼女の作品論作家論がいいかげんになってしまっていてとても申し訳ないと思う。今の私は、どうしてネオテニーが良くないのか、ということを考え続けている。
これを書いた時も、そして今も、松浦理英子は出てこなければならなかった作家だと思っているし、後に続くものが出てこなければいけない作家だと思っている。――とだけ記してこの項を終わる。(1998.12)

(1994.6脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第11号』1994.6)

「ついに彼女も逝ってしまった――三原順回想」

正直言って、それはショックだった。
八月のアタマ、本屋の漫画売り場をぶらついていた私は、ふと、妹の声に呼び止められた。
「ねえ、この本、《三原順、最後の作品》って書いてあるよ」
「えっ、嘘!」
一瞬、彼女が筆を折る決意をしたのか、と思った。
しかし、そのコミックスの腰帯には、とっさには信じられない恐ろしい文句が連ねてあった。

――それは、あまりにも突然だった。「最後まで描き上げたかった。」という、悲しい叫びを白いページに残したまま、あの三原順は逝ってしまった――。

「ちょっと待て! なんで死んだんだ」
慌てて手にとったそれについていた編集部の説明は、全く簡単なものだった。
――一九九五年三月二○日、三原順先生は、ご病気により永眠されました。――
と、いう、一行のみ。
「……おい、それだけかい」
なにやらふつふつと怒りが湧いてきて、編集部に電話して、彼女の病気の種類と墓のある場所を聞いてやろうかい、と思った。さすがにできなかったが。
それにしても、ショックだった。
彼女が死んだのを、何ヵ月も全く知らないで、私という奴は毎日ゲラゲラ笑っていたのか、と。
そう思うと、本当にショックだった。
とにかく、その絶筆である『ビリーの森ジョディの樹』の二巻を、他の脳天気な漫画と一緒に買って帰った。

その夜、彼女の遺稿を読みながら、私が「よかった」と思えたのは、おそらく、彼女の死が、自殺でも精神病でもないだろう、と信じられたことだった。
彼女なら、自殺するくらいなら、こんな中途半端な原稿を残しはしないだろう。精神病に苦しんでいたなら、ここまで明るい展開の話は描けなかったろう(ただし、彼女が本来予定していたプロットは、もっと陰惨な、普段の彼女らしいものだったらしいが)。
それでも、彼女が自分で命を絶たなかったと信じられる事だけが、私にとっての救いだった。
「そうか。……それでも、ついに彼女も、逝ってしまったのか。ついに……このひとも」
冥福を祈る、という言葉の、なんと白々しい事。
あの人は、おそらく、死の国でも、やすらかになれやしない。
どこにいっても、永遠に煉獄で苦しむ。苦悶の表情こそ出さないものの、いつまでもいつまでも内面に燃える業火にじりじりと灼かれて、悶えるに違いない。
彼女はそこまで、自分を追いつめる人間だ。
だからこそ、ここまで強く魅かれたのだ。
三原順、という、作家に。

三原順の作品の中に、あるもの。
殺伐と乾いた、繰り返し血が流されるような人間関係。
肉親への、ねじくれて殺意までに高まる憎悪。
婉曲な言葉と手段で、暑苦しいくらい押し付けないと気がすまないらしいしつこいお節介(と、それからくる深い失望)。
他人から嫌われないように猫をかぶり、その猫の皮の重みと厚さに窒息しかけてもがくアイデンティティ。
また、その逆に、誰を騙しても不器用な自分の生き方は絶対に守り、決して悪びれない剛胆さ。
人間不信からくる、動物へのストレートすぎる愛情と不可思議なユーモア。
人を殺しても罪悪感を持たず(もしくは持てず)、平然と無邪気を装い、その天真爛漫さでかえって相手を傷つける精神(又は、その自分のどこが悪いと開き直り、自分も犠牲者だと怒る醜さ、図々しさ)。
そして、それら全てを内包したゴチャゴチャした頭の中で、「自分は、本当に生きていていいのか。どういう理由でか。理由があれば、自分の様な人間でも、生きていてもいいのか。目の前の死体のかわりに死ぬべきなのは、殺されるべきなのは、自分ではないのか? 死にたい訳じゃない、だが、生きていたいと思う気持ちさえなくなりかけているのに、自分はどうして、いつまでもながらえている?」と否定的、かつ絶望的な存在意義を、自らに延々と問い続ける青年達。
一種の哲学にまで高められた、複雑で難解でゴツゴツしたネームと、かっちりした絵柄。
それが、三原順の世界だ。
それだけ聞くと、知らない人は、なんて陰気な漫画なの、と思われるかもしれない。知っていて投げ出した人もあるかもしれない。
確かに、彼女の漫画は明るくない。
そして、一度読んだだけではよくわからない程、筋立ても台詞も難しい。
だが、もし私が、無人島で一週間過ごさなければならないとしたら、彼女の代表作『はみだしっ子』を一揃え、スーツケースの中に忍ばせて、無聊を慰めたいと思うだろう。あてのない放浪の旅に出るとしたら、彼女の『夕暮れの旅』の一冊を持っていくだろう。また、あまりにも絶望のどん底に落ち込み、睡眠薬を飲むか道路へ飛び出すかしかないと思える日には、お気に入りの三原順の本のページを開くだろう。眠れない夜の気晴らしに、『Sons』や『ロングアゴー』を開く時もある。
そうすると、心がやすらぐのだ。
なにしろ、人間が持たなければいけない疑問の全てがそこにあって、自分のかわりに彼女が考えていてくれるのだ。
そう。
すべての答が、そこにある。
だから私は迷った時、三原順にあたるようにした。
「……これで、いいんだよね?」
私がそう尋ねた時、納得のいくYESを返してくれるフィクションは、いつも彼女の作品だった。
彼女の漫画によって、私の心は確実に浮上した。
彼女の描いたキャラクター達は、私の落ち込んでいる所まで一緒に沈んでくれて、そしてその後、私を水面まで押し戻してくれた。
それなのに、彼女は、逝ってしまったのだ。

いや、たとえ、生きていたとしても、今まで以上に優れた作品を描いてくれはしなかったかもしれない。私は時代遅れだ、もう売れないから、と筆を折ってしまったかもしれない。
でも、それでも、死んでしまわれるよりはマシだ。
なにしろ、彼女はもう、戻ってこないのだ。
信じられない。
しかし、こんなに深い喪失感を覚えるとは、思ってもみなかった。それはまるで、長年一緒に同じ目標を目指してきた同胞を失ったような、大きな衝撃だった。

私が最初に三原順の名を聞いたのは、十八の時、ある友人の口からだった。
地下鉄のコンコースを並んで歩きながら、機関銃のように自分の考えをしゃべりまくる私の顔を、つくづく眺めていた彼女は、その日突然、
「I(彼女は私を本名で呼んでいる)さんって、グレアムみたいだと思う」
と、呟いたのだった。
私は、首を傾げた。
「グレアムって、誰?」
「三原順って人の描いた『はみだしっ子』っていう漫画に出て来る、男の子」
その題には、かすかな記憶があった。しかしそれはすでに古い記憶だったし、その漫画が載っている系統の雑誌は読んだ事がなかった(実際、三原順がそれを描いていたのは一九七五年から一九八一年の間であり、小学校三年から中学三年の時期の貧乏な私が読んでいた漫画は、親のおしきせの学習雑誌系統や、それ近辺の幼いものばかりだった)。
しかし、自分がそんな、読んだこともない漫画の少年に少しでも似ているとは、ちょっと思えなかった。
「ふうん。……『はみだしっ子』ってどんな漫画?」
「うーん。一言では説明できないけど……四人の子供が、放浪生活をしながら、いろんな事件に遭う話、かなあ」
「ふーん」
その時、三原順の名前は、脳裏に刻まれはした。
だが、それはまだ決定的な出会いではなかった。
数年後、同じ友人から、三原順の『Sons』の最初の二巻を送られて、彼女の作風を知っても、まだ私は三原順に傾倒しなかった。
だが、社会人になった最初の年の夏。
私は、ついに『はみだしっ子』シリーズを買った。
何らかの意図があったわけではない。
その頃の私は、狂ったように漫画を買い漁っていた。お給料をもらえる身分になり、しかも現実が窮屈で不平不満だらけだった私は、暴力的な長電話と滅茶苦茶に漫画を読み散らかす事でストレスを発散していた。だから、貧乏な学生時代には考えられなかった程の大量の漫画を読んでいた。十代に読んだ作家達をついに卒業してしまい、読みたい小説がもうなかった、というのもあった。
そして、そうやって読みあさった漫画の中に、三原順という作家があっただけの話だった。
しかし、私は驚いた。
「……凄いぞ、これは。宝の山だ」
これが、決定打だった。
本屋と古本屋をはしごして、三日くらいで全十三巻を揃えた。通常のコミックスを読む時間の三倍から五倍くらいをかけながら、何度も読んだ。そして、誰彼かまわず、三原順は素晴らしいです、と吹聴しはじめた。
友人の言ったとおり、『はみだしっ子』というのは、親や親戚に虐待されて行き場のない子供達が四人集まり、放浪生活にでる話だった。彼らは可憐にも、肩を寄せあって疑似家族をつくり、大人の冷たさや社会の不条理と闘い、この辛い状況を彼らなりに乗り切っていく。一種、感動的な物語だ。絵柄も瑞々しいし、乾いた皮肉にも抑制がきいている。間違いなく、彼女の代表作だ。三原順は、この一作だけで、確かに素晴らしいのだった。
だが、まだ、その頃の私は、本当に三原順が解っていた訳ではなかった。特に、『はみだしっ子』の最終巻の台詞は、あまりに理解不可能な部分が、多かった。

友人の指摘どおり、私はグレアムが好きになった。普通の漫画であれば、別の少年(例えば、多少道化てはいるが、素直でキレイで親切なアンジー)を愛惜したろう。それが、私の本来の好みの筈だった。
しかし、グレアムの前では、他の少年は霞んだ。
彼は――素晴らしかった。
意地っぱりで不器用だが、友達には誠意をこめて尽くし、自分を高めようと常に厳しい心持ちでいる。恐ろしい生い立ちを忘れかね、また、罪の意識にさいなまれて、いつも黒い服を身につけるストイックさ。澄んだ大きい黒い瞳を見開いて、いつも何事かを考え続けている彼の純粋さ。私はそれが好きだった。他の少年達を引き連れて、「さあ行こう」と言える彼が、好きだった。おそらく、三原順の三原順らしさを、一番濃く凝縮したような彼は、ギラギラと作中で輝いていた。私のような軟弱者は及びもつかないが、しかし、かけらくらいは近い魂があるといい、と願うような、そんな存在だった。

しかし、最終巻の彼は、難しかった。
彼は、してもいない殺人の罪をかぶろうとし、自分を養子にした親切な男から逃げだそうとする。そしてそれが失敗すると、廃人同然の有様になってしまう。
グレアムは豹変する。
それまで、紳士的すぎるほど優しく、生活態度も良好で、他人への深い配慮のあった彼が、自暴自棄になった人のように突っ走り、不良の真似事をし、その挙げ句には、発狂したかのように自分の殻に完全に閉じ込もってしまう。
ここに、疑問は大量に出てくる。
どうして彼は、自分のやっていない罪をかぶろうとしたのだろうか。彼が罪悪感を感じるべきことは他にあるのに、どうして?
そのこだわりの意味が、わからなかった。平穏な生活をしている友達を守りたいから、などという名目を掲げながら、もう誰にも愛されたくない、と他者全てをつきはなしてしまう彼。――その心持ちを推し量るのは、難しかった。
でも、今ならわかる。
彼は、疲れたのだ。
闘って、闘って、闘い続けて、それで、疲れきってしまったのだ、と。
彼は最後まで、決して自分のために生きようとしなかった。
それは――今まで彼がいろんな人間からすりこまれてきたメッセージ、「おまえは人の子じゃない、生きている資格がない」のせいだった。そして、彼の友人達は、そんな彼を助けてやることができなかった。自分をかけらも愛せない人間を、助ける事の出来る他人はいない。だから、自分を愛せない人間は、どんな手当てをされても、結局は滅びる。
この夏、読み返した時、私はやっと、グレアムの気持ちを実感する事が出来ていた。
そして、平凡な結論に落ち着いていた。
自分を救うのは、最後は、自分でしかないのだ、という事。
ただし、他人からあまり大量のネガティブをすりこまれてしまうと、その自分を救う力は、こんなにも弱まってしまう、という事を。
否定的な結論ではあるけれども、おそらく、そういう事なのだろう、と。

昔はわからなかった、もしくは、つまらなかった本を読み返して、ああ、今ならわかる、面白い、と思う時がある。それは、私のようなものでも成長して、体験によって感性が変化しているからだ。
だから、本当に私を変えたのは、三原順ではなく、おそらく、時間の流れに違いない、と思う。
だが、それでも、私は確実に彼女の影響を受けている。彼女の存在を知らなくても、同じような発想をしていた、とも思うが、それでもだ。美しいもの、軽やかなものにひかれる反面、三原順がのぞいていた深く淀んだ淵に、私は憧れる。その淵のまわりを、この中へ落ちまい、と、全身の力を振り絞って疾走していた三原順という人に、愛しさをおぼえる。
もちろん、『あなたのための子守歌』や『つれていって』を読まなかったとしても、私は、自分の影の部分を延々と書き出してきただろう。例えば、『神の名を呼べ』の天野祐という青年は、三原順を読む前に、私の中からうまれてきたのだから。
私は、彼女から、発想をもらったのではない。
感情を、もらったのだ。

彼女がいてくれて、私達のために作品を残しておいてくれて、本当によかった、と思う。
あの、淀んだ淵を一度でも覗き、恐怖や嫌悪でなく、何かひかれるものを感じた事のある人間は、きっと、少しでも救われる筈だ。
それが、三原順の、力なのだ。

付記

三原順のファンクラブが発行した同人誌によると、彼女は心臓が悪く、それが原因で若くして亡くなったらしい。熱烈なファンは今でも彼女の作品の掘り起こしを懸命に続けているし、白泉社から愛蔵版も出続けている。
が、「NHKマンガ夜話」で三原順が取り上げられた時、男性コメンテーターは皆一様にけなし、どうしてこんなに嫌うんだろうかといぶかしんだ事がある。何がいったいあんなに彼らを否定的にさせたのか。うっすらわかるようでいて、未だ私にはよくわからない。一番驚いたのは、「クークーのゼンマイ人形をつくって売ったらどうだろう。いつまでもグルグル指を回してるだけの奴」という某氏のブラックジョークで、どういう意図での発言か知らないが、このヒト闇夜に後ろからバッサリ殺られても知らねえぞ、と思ったものである。今はインターネットの時代だから、放送翌日に抗議のメールでパソコンがパンクする、ぐらいのことですむかもしれないが。(1998.12)

(1995.9脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第16号』1995.9)

「俺の漫画が面白かったら駄目なんだ――変化球の作家/ゆうきまさみ&冨樫義博」

この題と内容、本人達よりも、彼らのファンから怒られそうだ。どうしてこの二人を並べてひとくくりにするんだとか、彼らの漫画は面白いぞとか、ガンガン文句がきそうだ。
確かに二人は、二人とも同人誌あがり(おっと、冨樫はあがってないか)だが、その方向性も描く世界も違う。年齢もデビューの仕方も違う。かたや小学館かたや集英社の作家、ファン層も、前者は細く長い固定ファン、後者は広く大きい最近のファンを持っている。
隔たりは大きい。
だが、この二人には共通点がある。二人ともプロ意識をもち、プロとしての仕事をそれぞれ十二分にこなしているが、その底に流れている考えが同じように思われる。
いわく、《俺達が面白い商業漫画描かなきゃいかん世の中は、絶対に間違ってるぞ》と。

彼らは面白い漫画が読みたかった(ゆうきまさみは面白いアニメかも)のだ。でも、自分にとって面白い漫画がなかった。自分の飢えを満たす漫画がなかった。それで、自分は傍流でいいとばかりに、隅っこで漫画を描いてじっと待っていた。才能溢れる誰かが、自分達の望むような素晴らしいエンタティメントを、ガンガンつくりだしてくれるのを。
しかし、そんな時代はこなかった。二人ともにこなかった。二人はいつの間にか、自分達が期待される側になっているのに気付いた。もちろん、それまでの蓄積やノウハウがあるから、個性ある漫画、それなりに面白い漫画は描ける。そして、どんどんファンも増えてくる。
だが、その都度彼らは呟いていた筈だ。
「違うんだ、本当に面白い漫画っていうのはこういうんじゃないんだ! 俺のボールは小手先の変化球だ。プロだからそれなりにはやるけどよ、小技が好きな奴や、それをわかって楽しむ奴はいいけど、そうじゃない奴はなぁ!」と。
この二人は二人とも、ある意味ひどく真面目な作家だ。職人気質という意味もあるが、根が真面目なのだ。道徳的とも言っていい。風刺まで真剣だ。一見ふざけているようだが、登場してくるのは、必ず立派な大人や愛らしい子供達だ。勧善懲悪は絶対に守られ、そのためには話のダイナミズムを犠牲にさえする。
しかし、そんな漫画が面白くていいのだろうか?
少年漫画はドラマだ。道徳的であってはいけないのだ。悪にも理由があり、時には勝たなければならない。小手先のシニカルな業では、決して描ききれないものだ。
彼らはそれを知っている。自分の分もわきまえている。プロの意地もある。だが、それでも内心絶対に呟いている筈だ。
《俺が面白い商業漫画描かなきゃいかんなら、王道だと思われるなら、その世の中は絶対に間違ってる》と。
ただし、そんな二人は二人とも、どちらも大変良心的な少年漫画家だと思うのだ。
愛すべき。

(1996.6脱稿/初出・Narihara Akira編『のんしゃらんと第19号』1996.6)

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