『わたしのかみさま』
私は既存の宗教を信じていない。
キリスト教の大学に在籍しているので、宗教の単位をとらないと卒業できない。しかたなく礼拝に出てレポートを書くが、勉強すればするほど嫌いになる。クラスメートは数回の授業で洗礼を受けるに至ったが、私は旧約聖書のエピソードを知るたびに、神が嫌いになる。いうことをきかなければ殺す、子々孫々まで呪うと脅してくる。絶対的な力で支配する権力を、どうして崇めなければならないのだろう。新約聖書はそれを正当化するキリストというペテン師の話で、どこをどう読んでも不愉快だ。おそらく、教えを垂れる人達は、聖書をまともに読んでいないし、理解もしていないのではないだろうか?
そもそもキリスト教に限らず、宗教の名のもとにどれだけの戦争が行われただろう。今だって争いが続いている。自分の安寧のために他人を害する理由は様々だが、救済の機能であるはずの宗教でそれをやるのは、一番駄目じゃないのか?
とはいえ、ハンドベルや賛美歌は嫌いではない。そしてこの学校に通って一番美しいと思ったのはアドヴェントだ。キリストが誕生する前の四週間、教会の中にかかっている紫色の幕は、すべて白いものにかわり、厳かな雰囲気に変わる。点火祭の日は、教会前を通りがかった人にも火をともしたキャンドルが配られ、クリスマスツリーの点灯式にあわせて、一斉に掲げる儀式がある。タイミングがあわず、今まで一度も参加したことはないが、幻想的な光景だときいている……
「ねえ、アメリカと日本が戦争始めたのって何日だっけ? クリスマス休暇中だっていうから二十三日ぐらい?」
「えー、そうだっけ、わかんない」
せっかくの穴場のスタバなのに、頭の悪い母親同士が大声でしゃべっている。当然だが子どもも騒いでる。私はそれを横目で見ながら、
「ああいう人って子どもに何を教えてるんだろうね。毎年ニュースでやってるのに、どうして十二月八日が覚えられないんだろう。アドヴェント・カレンダーも結構一般的になってるのに、クリスマス休みはまるまる一ヶ月休む長期休暇だって知らないのかな。ケストナーも読んだことがないのかも」
私の憎まれ口に、彼女は静かな声で応えた。
「誰もが親が歴史の先生じゃないんだよ」
「知ってるものでしょ、普通」
「十二月八日はジョン・レノンが死んだ日だよ」
「それも知ってるけど」
「鹿賀丈史が金田一耕助を演じた《悪霊島》は、ジョン・レノンの死の翌年に公開されて、そのニュースから始まるって知ってた? 鹿賀丈史はその頃からうさんくさかったのか、撮影中に共演の犬に噛まれたらしいよ」
「そんな古い映画のこと知ってるのは、映像作家の娘ぐらいだと思う」
「親はそういうの観ない。私が好きで観てる」
「だろうね」
上野美夜は小さい頃からの幼なじみだ。進路が別々になった今も、月に一度ぐらいは会ってる。今日もスタバで待ち合わせた。彼女はいつも通りカフェ・プレスで、豆はハウスブレンド。私は期間限定のクリスマスカフェモカ。彼女は限定物を試さない。行事とか流行とか、そういうものが嫌いなのだ。お祭りとかクリスマスとかも一緒に遊んでくれない。バレンタインの友チョコがせいぜい。デザイン学校に通っていて、流行無視でいいのかな。それとも私が目新しい物に浮かれすぎなのかな?
彼女のデザイン学校は三年で卒業なので、もう就職先も決まっているらしい。そんな大きな会社じゃないけど、いずれは独立するから、なんでもやれるところにしたという。
「卒業制作の進み具合はどう?」
「展示会には間に合うよ」
「余裕だね。終わったらまた、京都旅行に行くの?」
「行きたいデザイナーズホテルがあって。でもなかなか予約がとれなくて。行くなら二月かなって」
「いいな、私も泊まってみたいな」
「若井さん、その頃は後期試験じゃないの」
「一月中にだいたい終わるよ。二月は高校生の受験シーズンだもの、私たちは学校には来ない」
「そうなんだ。ああ、卒業までに一度、学食を試させて欲しかったな」
「うちの? まあ値段は安いけど、肉類が壊滅的においしくないよ。お奨めできるのは麺類かな。中華定食、たまに和定食もいけるけど、美夜姉の口にあうかどうか。あと、学食、授業が休みの日はやってないから」
「そう。残念」
私は彼女のことを美夜姉と呼んでいる。洗礼を受けても洗礼名をつけず、ただ××兄、××姉と呼ばれる人たちがいる。《ケイ》と読むけど私は《ネエ》にして呼んでる。彼女の方は私を、名字の「若井さん」で呼んでる。名前からきた「えいちゃん」というあだ名はいつの間にか使われなくなった。今さら私に敬意を払っているみたいに。
「ところで《トゥジュール》の更新を次で最終にしようと思ってるんだけど、若井さん、また書く?」
「そっか、終わっちゃうんだ。もともと学校の課題だったんだもんね」
彼女の学校でウェブサイト制作の授業があって、「サイトへ並べるテキスト、書いてくれる人を学校の内外で募ってるんだけど、若井さんも何か書かない? 小説でもエッセイでも、短いテキストならなんでもいいよ」と誘われた。課題としての評価が終わった後も、《Toujours》と名付けられたそのサイトは年に四回更新され、そのたび私も書いた。読んだ本のこと、好きな音楽のこと、本当にたわいのないこと。書き手は大勢いたが、彼女の文章はずば抜けていた。知らない映画の話なのに実際観たような気になる。一人旅の話もよかった。彼女は大勢の人を集める力があるけど、時々ひとりになりたい人で、そういう時には物理的に一人になるか、私を呼ぶ。
「締め切りはいつも通り?」
「うん。ああ、そろそろ行かなきゃ」
次に会う日は約束しない。文系の大学三年生より、彼女の方がずっと忙しいから、誘って断られるより、彼女が余裕のある時に呼んでもらった方が、こちらもありがたい。
「うん。またね」
手をふって見送った。
彼女が就職して、今よりもっと忙しくなったら、どうなるんだろう。
一緒に書く場もなくなる。少しずつ距離ができて、いずれは縁が切れるんだろうか。
彼女と離れていると、私の心は少しずつ、昏い水の中へ沈んでいく。会えば水面まで戻れるけど、こんなことを繰り返していて、呼吸はいつまで続くんだろう。心が死んでしまっても、身体は生きていられるのかな。
宗教なんて何の役にも立たない。だって私を救わない。
「そっか、アドヴェントのことでも書こうかな。ちょうど時期だし」
最終回にふさわしい内容かわからないけど、大学の紹介でもいいよね。彼女の成績に関係してくる記事でもないし。さらっと書いて送ってしまおう。
図書館に返すのを忘れていた本があって、呼び出しをくらった。そういえば今日が点火祭の日だっけ、と大学に向かった。来年は見る余裕もないかもしれないし、本当はどんな感じなのか、見ておこうかと。
「どうぞ」
門の手前で火のついた小さなキャンドルを渡された。あたりは同じようにキャンドルを持った人でいっぱいだ。これならいつ火が消えても火が借りられそうだ。
すぐ後ろで声がした。
「本当に雰囲気いいね、《トゥジュール》に書いてあった通り」
「うん。写真撮らせてもらえないかな。人が入ってなければいいかな。誰にきけばいいんだろ」
私はびっくりして振り返った。
「いま《トゥジュール》って言いました? もしかして八千代デザイン学校の人ですか」
言われた相手もびっくりした顔をしたが、
「もしかして若井永遠さんですか。あのアドヴェントの記事を書いた」
「どうして私の名前を? イニシャルでしか署名してないのに」
「だっていつも上野さんが、自慢の友達だって話してるから。サイトの名前を《Toujours》にしたのだって、永遠さんの名前からとったんでしょう。フランス語の、永遠」
もう一人の女性が笑って、
「まあ自慢するのもわかる。面白いもんね、若井さんのエッセイ。読めなくなっちゃうのが残念。どこかで続きは書かないんですか」
「別になにも面白いことなんて……」
その時、校内アナウンスが流れた。
「そろそろ点火の時間です。皆様、手に持っているキャンドルを一緒に掲げて下さい」
私は昏くなり始めた空へ腕を伸ばした。風はなく、ちいさな炎のひとつひとつが、星のようにきらめいている。
「それでは点火いたします」
鐘の音と共に、教会の前に立てられた、巨大なクリスマスツリーの電飾が輝き始めた。自分たちが持っている火が、ツリーにそのまま、灯ったように――。
いつのまにか、デザイン学校の人達は姿を消していた。人混みに紛れてしまったようだ。私は小さいキャンドルの火を消し、回収係に渡して、門の外へ出た。
そのとたん。
「若井さん」
「わあ、びっくりした」
振り向くと美夜姉が立っていた。
「やっと気づいてくれた」
「え、点火祭、わざわざ見に来たの? もう学食やってないよ?」
彼女は苦笑した。
「SNSに、今年は行ってみようかなって書いてたから、会えるかと思って来たんだよ。京都のデザイナーズホテル、泊まりたいって言ってたでしょ。二月にツインの部屋がとれたから、一緒に行く気があるかと思って」
私は目を瞬いた。
「行っていいの」
「だから、行く気があるかどうか訊いてるんじゃない」
「もちろん行く。どんな用事があっても蹴っ飛ばしていく。絶対追試にならないようにする」
「追試の心配はしてないけど、まあ、風邪とかひかないように気をつけて」
「うん、予防接種も万全にしとく」
「そんなに喜んでもらえると、知らせにきた甲斐があったよ。どうする、これからご飯でも食べる?」
「そうだ、ロクシタンカフェ行ってみない? 前から行ってみたかったんだ。まだ夜も浅いから大丈夫だと思うけど、混んでたらごめんね」
「いいよ。だめだったら二人でいいところを探そう」
「いいの」
「もちろん!」
私は既存の宗教を信じていない。
信じる必要がないからだ。
だって、わたしのかみさまは、ここにいる。
(2022.11脱稿 「そこの路地入ったとこ文庫」ミニ回参加作品)
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Narihara Akira
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