『唐 紅』


「大谷。いよいよ関ヶ原に向かうというなら、もう一度確かめておくが、貴様の手駒は結局、石田だけなのか」
「やれ、同胞よ。あまり不吉なことを口にするものでないわ」
毛利元就と船上の一室で、二人きりの密議をこらしていた吉継は、低い声を震わせた。
しかし、元就は厳しい視線を吉継にあて、
「砂の海で己がいったことを、もう忘れたか」
月山富田城の砂丘で落ち合った時のことは、もちろん吉継も覚えている。
やってきた元就に同盟者を問われて、「良い駒がそろい踏みだ。巫、第五天、暗の主、西海の鬼も合わせれば、ぬしと立派に将棋もできよう」と告げた。
元就は細い目をさらに細めて、
「あの暴れ駒に振り回されて、状況が把握できておらぬようだな。まず、鶴姫は雑賀衆と通じている。雑賀の出方次第では、どちらに転ぶかわからない。織田軍の残党は豊臣に義理など感じておらぬし、魔王の妹は制御不能であろう、どう使う気だ。黒田は大坂城の井戸の底で、ろくに足も動かしておらぬのであろう? いくさばにひきずりだして、使いものになるのか。長曾我部も、万が一徳川に接触し、われらの謀り事に気づいたら、その場で東軍に寝返るのだぞ」
吉継は、ヒヒ、と低く笑った。
「では、同盟は破棄か」
すると元就は、ふと視線を遠くに投げた。
「いや。徳川の一人勝ちは、われも承服できぬ」
包帯を巻いた吉継の口元が、笑みに緩んだ。
「そうよな。今はまだ、伊達しかまともな援軍もなさそうだが、もし徳川が天下統一を果たした暁には、ぬしから中国を、大きく切り取るつもりであろうからナァ」
元就は薄い口唇を真横にひいた。
「そのようなこと、絶対にさせぬわ」
「ならば、少しでも徳川の力を削いでおいた方がよかろ。どう転んでも、ぬしに損はないはずよ。ところで金吾の動きは、その後、どうよ」
元就は冷笑した。
「あれを戦力と数えるわけにはゆかぬのは、貴様もわかっているだろう」
「だが、あれも守りは固いであろ。ぬしに連なる者なれば、くれぐれも怪しき僧に煽動されぬよう、よくよく注意を払っておいてもらいたいものよ」
正直な話、吉継は、元就自身を戦力として数えてはいない。
同盟を組んだのも、それは背後から襲われないためであって、邪魔さえされなければ、それでいい、と考えている。
毛利元就は、尼子氏を弱体化させ、中国領土を独力で拡大してきた、智将と呼ばれる男だ。そんな男が、なんの打算もなしに協力してくれるはずもなく、戦国の世の常で、裏切り、という概念すら、おそらくもっていないだろう。だからこそ、あえて同盟を組み、提示された条件をのんだのだ。ゆえに、予想もつかない攻撃を受けるのは、ごめんこうむりたい。
「いっそ、ぬしが西軍総大将でもよいのだがな、ぬしも表立つのは避けたいことであろ」
元就はふん、と鼻を鳴らした。
「石田に、もう少し人望があればよいだけのことだがな」
「無理をいうな。所詮、三成は、石田村の領主の次男坊に過ぎぬ。いくら太閤の左腕とよばれようが、単なる家臣の一人。しかもまだ若輩の身ときては、年かさの大名共は、下につく気になれぬわな」
「そして、無謀な野戦で関ヶ原が血の海となり、貴様の望んだあまたの不幸が降り注ぐ、というわけか」
「なに、すべて義のため、三成のためよ」
元就は、薄笑う吉継をじっと見つめていたが、ふと、声を低くして、
「あの暴れ駒、そう手管があるようにも、絶倫にも見えぬのだがな?」
「ハアッ?」
思わず吉継の喉は。妙な息を吐いてしまった。
「明るいうちから、いったい何の話やら」
すっと元就の顔が近づく。
「石田に抱かれたくてたまらぬ、と書いてある顔で、何をとぼける。貴様なら、あのような朴念仁でなくとも、求めればそれなりの者がえられよう? なのにあやつに固執するということは、凡百の者より、よほど巧いのであろう。快楽の虜になっているとしか、思えぬわ」
たまゆら、吉継は言葉を失った。それから、いつになく、うわずった声で、
「三成は淡泊な男よ。たいして強くも、うまくもない。物の本に書かれた通りにしかできぬゆえ、自分でした方が、よほど満足するほどよ」
「ならば別の相手を探すがよかろう。頭の中が濁るほど欲が溜まっておるなら、決戦前にすっきり、させておけ」
吉継はヒヒ、と笑い、いつもの余裕を取り戻した。
「病のせいで、いくさばでも避ける者が多いというのに、閨でわれをかまう物好きなどおらぬわ。まあ、同胞がわれの火照りを鎮めてくれるとでもいうなら、歓迎しようが」
元就は気色ばんだ。
「貴様の病など恐れぬが、閨で別の名を呼ぶかもしれぬ者を抱くほど、不自由はしておらぬわ」
「そうであろ、そうであろ」
楽しげに笑う吉継の前で、元就は立ち上がった。
「いくさの準備に手抜かりがなければ、それでよい」
「やれ、同胞の信頼は、かくも厚きものであったか」
「ふん、あまねく不幸よ降り注げ、という貴様の決まり文句は、豊臣への忠誠の裏返しではないか。ゆえに貴様がなにを企もうと、要諦は外すまいからな。すべて義のため、三成のため、という言葉は、本心ゆえに誰もが信じるのだ、違うとはいわせぬぞ」
元就は吉継に背を向けた。
「……つまらぬ惚気だが、先の台詞、石田がきいたら、それこそ真に受けて、血の涙を流すであろうな」
その低い呟きに吉継は目を剥いたが、元就はそれ以上からかうことはせず、音もなく部屋をでていった。
これで最後の密議も終了、ということだ。吉継も帰り支度に輿を浮かせながら、
「まさか、三成にきかすまいな」
そう呟いて、思わず顔を覆ってしまった。

明日は決戦と決まった夜、吉継は陣屋で横になり、星の光を感じながら、目を閉じた。
「別の相手を探すが良かろう、か」
毛利の冷やかしが、脳裏によみがえる。
「三成が血涙を? われの言葉で流すわけがない、すべて本当のことゆえな」
むろん、下手くそと罵ったことはない。もし佐吉の性戯に不満があれば、丁寧に修正してきた。ふだん、相手にあわせることを知らない三成が、閨で払う努力はなかなかのものだ。それ以上の何かを求めて、純な心を傷つけてもしかたがない。
「だがなにせ、悲しみに心を塞がれてしまう男ゆえな」
三成は感情の幅が狭い上、その心は、ひとつことに占められてしまう。
吉継が怪我の療養を理由に、笠取山にひとり籠もった時も、自分ではしなかったといっていた。
孤独に耐えられぬだけでない、ひとりでは欲も楽しめぬ男なのだ。
だから、太閤なき今、われの閨に来ることもない。
敵討ちに心を塞がれ、実際、勃たぬのだろう。
「だから、自分でした方がまだマシだというのは、嘘ではない」
三成は清廉な男だ。つまり艶っぽさにかける。それなりに時間をかけてはくれるが、ネチネチとしたところがない。乱れても、淫乱からはほど遠く、お互いが我を忘れて没入するというところまでは、なかなかいかない。こちらも今更、真面目な三成の下で、あられもない声をあげるのも恥ずかしく、しつこく続きを要求する気になれない。
「そうよな、三成でなくともよいのよな」
もし、適当に遊びで誰かと寝たところで、三成は悲しげな顔をするだけで、何もいわないだろう。若い日に紀之介が遊び回っていた時も、そのこと自体は責めなかった。病の身体に興味がある物好きもこの世にはいるので、どうしてもしたければ、相手を探せないこともない。
欲などというものは、たまってくれば自然にでるもの、それが厭なら、自分で処理すればよいだけのものだ。
若い頃と違って、絶対にしなければ耐えられない、というものでもない。
そう思っただけで、吉継の胸はしめつけられた。
「われは別に、三成に何を求めておるわけでもないわ」
吉継は、すべて終わってすっきりした後、別々に寝るだけとなった時に、再び三成が甘えてくるのが、ことのほか好きだった。
離れがたいという風情で、おずおずとすりよってくる。
吉継もその胸に、静かに身を寄せる。
三成の胸は、甘えるには狭すぎるが、筋肉のずっしりとついた肌は熱く、特に寒い時期は、吉継にとって心地よいものだった。
とろりとろけて目を閉じていると、そっとくちづけが降ってくることもあり、「閨での貴様は、本当に可憐だ」と囁く三成の腕の中で、思わず身をすくめてしまう。
くすぐったいような、はずかしいような、なんともいえない、あの心地——。
だが、そんなささやかな幸もすべて、あの篠突く雨の日に消えた。
優しい情人はとしての三成は、太閤の死と共に死んだのだ。
今の三成は、三成の姿をしていても、ただの抜け殻。
失われてしまったものを、まだ欲しがるとは。
「三成……」
吉継は己の身に、そっと触れてみた。
包帯をまいた掌の感触が、感受性の鈍った肌を刺激する。
三成はいつもどんな風に触れてきたか、もう忘れかけているような気がする。
見つめあい、目を閉じて互いの口をついばみ、舌を味わい、髪を撫で、頬を撫であう。
首筋から脇にかけての、皮膚の薄い、感じやすい場所をまさぐりあい、身体が緩んできた頃に、三成が吉継の胸を愛ではじめる。こわばったところを、少しずつゆるめ、衰えた脚にまで、力強い愛撫を丹念に施す。さんざん焦らされて、吉継が腰を浮かせると、三成の手指が、小さな口が、一番敏感な場所をほぐし、たっぷり濡らし、そして——。
吉継の掌の中で、陽物が跳ねた。
三成の美しいかんばせが赤く染まり、息を乱して吉継を求める姿を思い浮かべただけで、達してしまったのだ。
つまり、元就の指摘通り、溜まっていたのだ。
自分ですることも忘れるぐらい、三成に触れて欲しくて、たまらなかった。
だが。
「今から誘うなど、とうてい無理よ」
決戦前夜というだけでない。勃たない、とはっきりいわれたら、それはそれでつらいからだ。
三成は純粋な男で、自分が好きなものにしか興味をもたない。
閨でもそれは同じこと、だから吉継を抱くのである。
「いや、ほんに無理よ」
今までは誘う必要すらなかった。つまり、三成が抱いてくれなくなったのは、もう、この身に興味がないということ——。
背筋に冷たいものを感じて、吉継は震えた。
こんなつまらぬことで、動揺している場合ではない。
本来なら大坂城を決戦の場にすべきところを、他武将との兼ね合いを考えて、野戦にしてしまった。それだけでも三成にとっては不利なのだ。
西軍は数はいるが、所詮は烏合の衆であり、一枚岩でないから、どこでどう崩れるかもわからない。結局は主力の石田隊、大谷隊で、敵の本陣に斬り込んでいくしかないのだ。
吉継はとても眠る気になれなくなったが、浅い眠りを少しだけ眠った。
そして早朝、支度して起き出し、総大将の顔をみにゆく。
三成は戦装束を整え、武将の常として、出陣歌を書いているところだった。
筆がさらりと動き、端正な字を綴る。

《散り残る 紅葉はことにいとおしき 秋の名残りはこればかりぞと》

書き上げたものを近習に渡して立ち上がった三成に、吉継は低く声をかけた。
「やれ、この世にぬしが惜しむものが、まだ残っておったとはな」
家康にすべてを奪われ、自棄になっていた男に、まだそんな風流を詠む余裕があったかと思う。
色素の薄い三成の瞳が、吉継をまっすぐに見つめた。
「唐紅は、貴様の戦装束のいろだ」
からくれなゐ、とは、古今和歌集の時代から歌われているように、紅葉の緋色のことだ。
つまり、三成が己の命をかけて敵討ちにゆく中、唯一失って惜しいと思うのは、秋の色を身につけて、共にいくさばを駆けぬける戦友だと、三成は歌ったのだ。
「三成」
吉継の胸を、熱いものが満たした。
三成は純粋な男だ。
なぜ家康に裏切られたかも、想像もつかないほど清い男だ。
その男が、これ以上ないほど傷つきながら、われを信じ、案じてくれている。
それ以上、何をのぞむべきか。
「ゆくぞ、刑部。私はあの男を倒す」
吉継は力強く、うなずいた。
「そうよ、三成。進め、進め」
もう、迷わせてはならぬ。
余計なことを考えさせてもならぬ。
家康が、三成に懸想していたからこそ、豊臣を裏切ったなどということは——。

(2013.8脱稿)

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Written by Narihara Akira
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