『未 練』

1.

狩魔豪が独房をあてがわれたのは、ひとえにC刑務所の配慮だった。
元検事が刑務所へ入ったら、他の長期受刑者との摩擦が起こるのは容易に想像のつくことだ。特別扱いをするのはどうかと思われたが、作業中や運動中など、ある程度監視の目のとどく時間は他の者と同じ扱いをし、目が届きにくくなる夜の時間帯は独房でという形が、誰にとっても一番良いだろう、という判断がなされた訳だ。
狩魔はその扱いに不服をもらさなかった。だが、感謝も示さなかった。そして清潔な寝具を要求した。粗食についてはまったく文句を言わず、食事の差し入れなど要求することはなかったが、古い布団は老いた身体にこたえるという。例のうむをいわさぬ調子で、私費で新品を購入して、それに寝ている。
決まった時間に起きることは、彼にとってはむしろ楽なことのようで、黙々と起きだし黙々と作業し黙々と運動する。ありあまる夜の時間はたった二畳の房を清潔に整えたり、棚に揃えた法律書などを読み返したりしている。完全なるマイペースで、それが乱れることがない。まるで静かな隠居生活だ。激務に追われる検事時代に比べたら、ある意味天国とすらいえるだろう。
そんな彼にちょっかいを出す受刑者は、何故か一人もいなかった。とにかく気圧されてしまうらしい。刑務官らは彼に対して強く出そうなものだが、彼らも決して手荒に扱ったりしない。貴族の城館とみまごうこの赤煉瓦の刑務所は、狩魔豪を主のごとく迎えいれたのだ。
それだけでもおかしな話だが、何より異様なのは警察官が時々面会に来る光景だ。事件の捜査が手詰まりになると、罪人の彼にヒントを聞きに来る。現役時代にいろいろ噂をたてられたにしろ、彼の捜査力は高く評価されており、若い検事では至らない部分を彼の経験で補うことができるらしい。例の皮肉な笑みを浮かべて、短くアドバイスをしてやると、警官達は目の色を変えてとんで帰る。囚人に現在進行中の犯罪について知らせるものではないわ、と言い放つ時もあるが、定年を過ぎても乞われて検事局にいた人間だ、意見を求められるのはそう不快でもない模様だ。
家族は面会に来ない。幼い孫娘については多少気がかりであるものの、それ以外は自活できる年齢であり、本人も今さら会いたいと思わない。養い子ともいえる御剣怜侍が一度訪ねてきたが、かの青年は恨み言すら言わなかった。自分の父親を殺されたというのに、犯人が誰か薄々気付いていたはずなのに、その父が先に狩魔豪を害したのではないのかと疑っていた。なんというお人好しか。あれは検事に向いていない。厳しくしつけたつもりだが、あんなに甘いのでは犯罪者につけこまれてしまう。一人で考える時間が欲しいと休暇をとったらしいともきくが、不肖の弟子め、今からでも進路を修正した方がよかろう。
そんな余計な想念がたまに頭の隅をよぎるものの、普段の彼は実はからっぽだった。
単純な生活は、思考も単純化する。
そんな彼が思うのは、ひたすら「死」についてだ。

いくら模範囚とはいえ、七年の刑期は縮まることはないだろう。これだけの好待遇をえていても、身体の衰えは顕著だ。余命もそう長くはあるまい。刑務所から出た後、今よりいい生活を送れるとも思えず、また送りたいとも思わず、いっそ終身刑であれば良かったと思う日がある。死刑ならなおいっそうよかったが、いまや日本も、殺人被害者の遺族が死刑廃止運動をする世の中になった。実行まで時間がかかる死刑よりも、むしろ懲役という実刑の方が合理的で、裁判所の判断がそう間違っていたともいえまい。
むろん、生きることに飽いたのなら、自死はそう難しくはない。それこそ夜中に刑務服でも裂いて、格子にひっかけて首でも吊ればいい。もしくはひそかに絶食するなりだ。どのみち醜い屍をさらすことになるだろうが、死後のことなどどうでもいい。毀誉褒貶はすでに嘗め尽くしたのだ、何もかも今さらだろう。
朝、廊下の天窓から洩れてくる光を感じると、また目覚めたということは生きているのだと思う。身体の不調などないのだから覚醒は当たり前なのだが、律儀にいちいち目覚めるというのはどういうことかと思う。もちろん何が面倒という訳でもないのだ、だが、何もかも彼の心から遠い。
そんな彼の生活に異変が起こったのは、とある夜のことだった。

「こんばんは」
聞き慣れない声に、狩魔はぎょっとした。
そうでなくともこの狭い独房に誰にも気付かれず入り込める者など、いようはずがない。
思わず振り向くと、そこにたたずむ一つの気配があった。
「ごぶさたしております」
「迎えにきたか、ついに」
狩魔豪は薄く笑った。
その気配は親しげに微笑み、首を振った。
「貴方の天命は、まだ尽きていませんよ」
「ふん、そんなことまでわかる身分になったか」
「そんなに生命力に溢れている人が、簡単に死ぬ訳がありません。彼岸の身には眩しいぐらいです」
「いったい何をしにきた」
「さあ?」
微笑みながら狩魔豪の目の前に立っているのは、御剣信の幽霊だった。
三十代の身体にライトグレーのスーツ姿。殺した時のそのままだ。
銀縁メガネの奧の瞳は面白そうに笑って、
「というか、なにかしてもいいんですか、狩魔さん」
狩魔は顔を背けた。
「とり殺しにきたのなら、さっさと殺せ」
「心外だなあ。私をなんだと思っているんです」
「今更ノコノコ化けてでて、恨み言でもあるまいが、それ以外に理由も思いあたらん」
「今更って、時々貴方の側に降りてきていたんですよ。気がつかれなかったようですが」
「我が輩には霊感などないからな」
狩魔は布団の上に腰をおろした。信も身を屈める。幽霊のくせに足もある。
「忙しすぎただけですよ。そうでなければ、今になって見えるようにはならない」
「フン、確かに貴様のことなど考えるヒマもなかったわ」
「それは嘘です」
幽霊のくせに、上着をぬいで信はよりそってくる。
「精神だけの存在になると、相手の心もよりダイレクトにわかるようになりましてね」
「我が輩の心をのぞいたか」
「誤解されたまま逝くのは嫌でしたから」
「何も誤解などしておらん」
「それはわかっています。さすがは敏腕検事、すぐに真相を突き止めていたんでしょう。もっともそれを私が知ったのは、ぜんぶ終わってからのことですが」
耳元での低い囁き。狩魔は顔を背けた。
「……フン」
狩魔豪が御剣信を射殺した真の理由を知る者は、実はいない。
狩魔が法廷および取り調べで告白した動機――それは、殺害直前の裁判で御剣信から【汚職検事】と誹謗中傷され、裁判には勝ったものの、処罰を受けるはめになったショックとされている。
しかし事はそう単純ではない。
射殺に使われたのが偶然その場に落ちていた拳銃であったこと、後で事故と判明したものの、先に右肩を撃たれたのは狩魔の方だったこと、完璧な経歴の持ち主であった彼が、一番痛手を受ける場面で濡れ衣を着せられたこと、大地震の後という極限状況での発作的行動であること、そのすべてが考えあわされて極刑を免れた訳だが、もし真の動機が判明していたら、罪はさらに重くなったかもしれない。
つまり、二人の間には心理的肉体的な関係があり、初老の検事は若い弁護士に弄ばれ、裏切られたと思ったために、殺意をもってあの引き金をひいたのだということ――。
狩魔は不機嫌に呟く。
「いったいなにが真相だといいたい」
「ですから、私が貴方に近づいた理由です。なにか下心があった訳ではなく、ただ貴方に魅かれたからだということを、ご存じですよね?」
「……」
その通りだった。
逆上したあの瞬間には、もちろんまだ知らなかった。しかし落ち着いて考えてみれば、よく知りもしない政治家の弁護団にとつぜん投げ込まれた御剣信が、自分の弱みなど握っている訳がない。それこそ濡れ場の写真ならともかく、暴力団と密会している写真など都合良く入手できる訳がない。
だから彼は調査し、あの裁判の裏事情を知った。
その写真は御剣の先輩弁護士が老練な手管で手に入れたものであり、狩魔に弱みを握られて弁護団を解任された腹いせに、御剣信に渡して利用するよう命じたのだ。おそらくかなり圧力をかけられて、苦しみながら裁判に挑んだのだろう。裁判には敗北しても構わないから、とにかく狩魔をひきずりおろせと。
そう考えれば、気の毒な若造だったとも思う。結局狩魔豪は、長期休暇こそとったものの、後に中傷であることが判明し、実質的な処罰は受けずにすんだ。検事生活の一点の曇りになったことは事実だが、それはそれで諦めがついた。
だから、あらかじめ利用するために近づいてきたのではないことは、もう知っている。
とっくの昔に。
一人息子などひきとって、手塩にかけて育てたのもそのせいだ。相反する感情に引き裂かれながらも、せめてもの罪滅ぼしと思ったからだ。
御剣は続ける。
「どう思われてもしかたないと諦めていたんです。でも貴方はわかってくだすった。あの夜、どうしても貴方を思いきることができなくて、それで貴方を抱きしめたのだということさえわかっていただけていたなら、それで私は満足なんです」
優しげな囁きから、狩魔はなおも顔を背ける。
「気がすんでいるなら、さっさと成仏すればよかろう」
「でも、やっと貴方の目に触れられるようになりましたし」
長くひんやりした腕が、狩魔の胴にまわされる。
「しばらく側に、いさせてください」
狩魔はうつむいたまま呟く。
「本当に我が輩のことを考えているなら、独りにしておけ」
「そうですか。そうですよね」
そういいながら、御剣は離れない。
狩魔は戸惑っていた。
いくら実体のないものとはいえ、単純に「うっとおしい」と突き放せばすむものを、我が輩はなぜそのままにしている。
すべて夢だからなのか。
だからかえって、自分の思うようにならないのか。
そんなことを思っている間に、青い作業服の胸を御剣の掌が滑った。
「でも、こんな姿になっても、どうしても煩悩が去らなくて」
「愚かな。そんな姿で何ができる」
「試してみますか……?」
「何かできるものならな」
「では、お言葉に甘えましょう」

翌朝。
下着が汚れているのに気付いて、狩魔豪は苦笑した。
年をとっても色ボケだけはしたくないと思っていたが、このていたらくか。
淫夢の相手が、よりによってあの男とはな。
しかも。
幸せだった――。

夢を夢のような時間というのはおかしな話だが、信の口唇から「貴方を思いきれなくて抱いたのです」という言葉が洩れた時、自分はそれがどうしても聞きたかったのだと気付いた。
それは亡霊の未練ではない、自分自身の未練だ。
どんなに調べようと、御剣信が裁判で自分を攻撃したのは間違いのない事実だ。弄ぶために近づいてきたのだという疑念は、どうしても晴らしきれなかった。もちろん口先ではなんとでもいえる、だから生きていた頃の彼に弁明されたとしても、信じるのは愚かしい。何の証拠にもならない。
それでも。
自分が肌を許した相手が、すくなくともあの一夜においては下心も打算もなかったのだということを、信じていたかった。
そんなにも魅かれていたのか。
あの若造のいったいどこに。
我ながら信じがたい。
だが、寒い朝にこんな惨めな姿で目覚めて、身体の芯まで癒やされている。
夢でもいい、もう一度会えたらと思っていたのだ。
「御剣信……」
右肩の古傷が疼く。
そこにはまだ、例の銃弾が埋まっている。
摘出手術をするよりは、しない方が老体に負担がかからないこと、手術してから刑に服するとなると時間がかかってしまうこと、手術そのものが容易でないこと、そして、まず本人がそれを望まなかった。
あの日を、忘れないためだ。

狩魔豪がそんなしおらしい魂を持っていることを誰も知らない。老検事が乙女にまけない純情をもっているとは、いったい想像しにくいからだ。しかし本人は隠しているつもりもなく、自らの弱みは弱みとしてひそかに愛し、楽しんでもいる。
思い出になってしまえば、何もかも美しい。ただそれをひっそり味わっていられるのなら、この独房生活もそう悪くないのかもしれない。
しっとりとした笑顔を浮かべて彼は立ち上がった。着替えをし、汚れたものを簡単に始末して、いつもの日課へと向かう――。

2.

その夜、狩魔豪は非常に不機嫌だった。
異変が起こったからだ。
まず、刑務官が妙に眩しそうに自分を見る。
一部の受刑者が、彼を遠巻きにして何か囁いている。
そういう事態は、この刑務所に入ってすぐ発生すると思っていたが。
今更なぜ。

もやもやとした気持ちを鎮めるために、いつものように彼は模範六法を簡単にさらう。
六十も後半、そう簡単に眠れる年齢でもなくなった。
それでも冷え込みはそろそろ厳しい。
たとえ眠りがきざすまいと、布団に入った方がよかろうと本を片づけた瞬間。
「こんばんは、狩魔さん」
またか。
夢にしては到来が早い。
昨夜の生々しい存在感を思い出し、背筋がゾクリとした。
「貴様、まだ成仏しないか」
「だってあんなに喜んでくださったじゃないですか。嬉しくてたまりませんでした」
喜んだ記憶はないが、と言うかわりに、狩魔はそっぽを向いた。
「ずいぶんと未練がましい男だ」
「そう簡単に忘れられませんよ。貴方のように魅力的な人を……」
昨夜とおなじ、ひんやりした腕。
抱きしめられて寒いはずなのに、身体の中央でぽつんと灯ったものが、内から狩魔を溶かしていく。
「幽霊のくせに、なぜ触感がある」
「よくある話ですよ、霊との交感は」
「我が輩を抱きしめて、貴様は何か感じるのか」
「とても。貴方が思っている以上の喜びが。だいたい、こちらの快楽にまで配慮していただけるなんて、これ以上光栄なことがありますか」
耳に相手の口唇があたっているのを感じる。舌がその中心をくすぐり出す。そう感じるだけなのだと思っても、身体の震えはとまらない。魂が直接触れているのなら、それは確かに想像以上の喜びがあるだろう。この心の動きを知っていれば。それに自分も、触れられることで。
「そんなことを言っているのではないわ……う」
思わず呻きを洩らした瞬間、狩魔の口唇に冷たい指があてられた。
「ちょっとだけ声、我慢しててくださいね」
「なら離れろ」
「いやです」
ふいに宙を、白いものが飛んできた。柔らかなそれが狩魔の口元にあてられる。そして噛まされる。先日洗って乾かしておいたタオルだった。
すまなそうに信は相手の頬を撫でながら、
「本当は、貴方の声をもっとききたい。けれど、他の誰にもきかせたくなくて」
貴様、と言いたかったが、声にならない。
服の下へ侵入してくる掌。
そして。
「……!」

ひとくさり終わっても、信はなかなか離れようとしない。
それでもやっとタオルを外されて、狩魔は通常の呼吸を取り戻した。
「やはり殺す気だったか」
「いいえ」
名残りおしげに相手の腰を撫でながら、
「縛る気なんてありませんでした。これというのも、貴方がそんなに感じてしまうからですよ」
「勝手をほざきおって」
それでも何故こんなに感じてしまうのか、狩魔は自分でわからない。生前何度も肌を重ねていたというなら、ともかくも。
「それは貴方の閨房を盗み見てきたからです。で、なんというか、ちょっとしたコツをね」
内心の声にまで反応されて、狩魔はさすがに腹が立ってきた。
「都合がよすぎるぞ、御剣信」
「幽霊ですから、なんでもありです」
「夢の分際で我が輩をこんな目に遭わせおって」
「私は幽霊ですが、夢じゃないんですよ」
「どうやって立証する」
「こんな時にも証拠が必要ですか? やれやれ」
信はちょっと考え込むようにして、
「明日、狩魔さんのところに医者が来ます。敬虔なクリスチャンだそうで、聖書を持って来ますよ。その時、十戒のページを開いてくれ、と頼んでごらんなさい」
「なんの予言だ」
「騙されたと思って試してみてください。嫌なら試さなくても構いませんが」
「それで何の証拠になる」
「一種の手品だ、と医者には言ってください」
「だからなんのことだ」
「内緒です。また明日」
そう言ってようやく信は姿を消した。
後始末するのもおっくうなまま、狩魔豪は眠りに落ちた。
なんという。
なんという夢か……。

翌日、お告げどおりに狩魔豪の房を一人の医者が尋ねてきた。
内心の動揺をさぐられぬよう、背筋を伸ばしてそれを迎える。
まだ若そうな黒縁眼鏡の医者だ。おとなしい平凡な顔立ちで、だが白衣姿でなければ、誰かを思いだしてしまいそうだ。
簡単な問診と触診。冷たい聴診器の感触に、一瞬からだが震える。
「健康そのもののようですね」
医者は微笑んだ。
「若い頃に鍛えていた方や激務についていた方は、こういう生活に入ると衰えがはやいものですが、狩魔さんに限ってはそういうこともなさそうです。ただ最近急に寒さが厳しくなってきていますから、お休みの時には充分暖かくしてくださいね」
服をなおしながら、狩魔はむすっと応える。
「疑われているのは、拘禁ノイローゼか。それとも痴呆か、夢遊病か」
「はい?」
「不調を訴えた訳でもなんでもないのに、なぜ突然医者が訪ねてくる。我が輩の様子のどこがおかしい」
医者は一瞬、返答をためらった。それに狩魔は畳みかける。
「他の受刑者が我が輩を見る様子も妙だ。いったいなんだというのだ」
「いや、健康でもそんなに珍しいことではありませんから」
「なにがだ」
「夜中に独り言を呟くことですよ」
狩魔の頬が紅潮した。
そうか。
そういうことか。
あの淫夢を見ている最中、我が輩は大声で寝言を発していたのだ。
それであんな妙な視線を浴びるはめに。
色ボケじじいめ、とこの医者も内心笑っているに違いない。
まったくもって不愉快だ。
罪の意識からあんな夢をみてしまうのだろうとはいえ、それが己を慰めるためのものだと思うと、この身をこの場でかきむしりたいほどだ。いくら自業自得でも。
「むしろ、お会いできて安心できました。狩魔さんもそうご心配なさらず」
狩魔はかたく口唇を引き結んだ。医者は帰り仕度をしながら、
「もし何か体調の変化を感じたら、すぐお知らせください。遠慮はいりません。ご入用なものがあれば、私で手に入るものならお届け出来ますし」
親切なことだ、とさらに口唇を曲げようとした瞬間、昨夜の幽霊の言葉が蘇った。
「聖書を持っているか?」
「聖書をご希望ですか? では今度お持ちします」
「違う。いまキサマが持っているものを出せ」
「持っているのを、よくご存知ですね」
医者は軽く首を傾げた。彼は宗教的な話題をふった訳でもない、クルスをかけている訳でもない、近隣の房で説教をしたこともないのだ。
怪訝そうな医者に狩魔は押しかぶせるように、
「モーゼの十戒のページを開いてみろ」
医者はしぶしぶ手持ちの聖書を鞄から取りだし、出エジプト記の第二十章を開く。
先に顔色が変わったのは、医者の方だった。
「これはなんの手品です?」
その掌の中にある黒表紙の間から、黄ばんだ一枚の紙片が出てきた。
それを手渡されて、今度は狩魔の額に冷や汗が浮かんだ。

――【素敵でした】――

それは御剣信と合意で肌を重ねた日の翌朝、あの男が置いていった走り書きだった。
彼はそれを捨てずに、愛用の模範六法の表紙紙を剥がして、その裏側へ忍ばせていた。表紙は元通りに糊付けをしておいたから、誰に気付かれる訳もない。
その存在を知る者はいないはずだ。
ましてその簡単な五文字の意味するところが、そう簡単に判明する訳が。
いや。
これは手品だ。
この医者にノイローゼかどうか、試されているのだ。
房へ持ち込むものは点検される、その時誰かに抜かれたのだろう。それとも誰かが筆跡を真似て書いたものか。
だが、なんのためのハッタリだ。
それともこれは現実でなく、こちらの方こそ夢の世界か。
「まさか貴様、医者にとりついている訳ではあるまいな?」
思わずそう呟いて、はっと身を引く。
医者は怪訝そうな顔で彼を見返すだけだ。
そしておもむろに、
「現役時代は優秀な検事さんだったとうかがいましたが、相手を驚かすために手品まで使われるとは思いませんでした」
狩魔が返事に詰まっていると、軽く首を振って、
「あなたのような方に詐病されると、いささか厄介かもしれませんね。充分注意して診察しないといけない、という警告でしょうか」
「いや」
そういう訳では、と言おうとしたが、今なにが説明できるだろう。
「老いてなお盛んなのはむしろ健康な証拠ですから、本当にご心配には及びませんからね。それでは」
医者は腰をあげ、何事もなかったかのように房を去った。
「……ふん」
そうか。
夢では、なかったのか。
狩魔はひとりごちた。
頬をつねるのさえ馬鹿馬鹿しい。
認めようではないか。我が輩は二晩続けて、霊に犯されたのだ。
いま必要なのは精神科医でなく、むしろお祓いだろう。
しかしそんなものを頼めば、やはりノイローゼかと思われるだけだ。
なら、どうする。
「ふ」
皮肉な笑みがその口唇に浮かぶ。
どうする必要もない。
低級であればあるほど霊は淫乱で、人間の欲望をうつすという。
あれは信の姿を借りた、別のいやしい者である可能性もある。
だが、それがなんだ。
霊との交感は、生気を吸い取られると俗にいう。
そのまま吸われて、死ねばいい。
どうせ何も思い残すことはないのだ、自死することさえ考えていたのだ。今さら誰に好奇の目で見られようと構いはしない。夜ごと嬌声をあげればいい。
こうして辱められることが、我が輩に与えられた本当の罰。
十余年の猶予を経て与えられた、無様な愛の形見なのだ。

あれが愛であったのかさえ、未だわからぬというのに――。

3.

「とても柔らかな肌ですね」
信はその夜も、当然のように現れた。
すぐに胸のあたりをさぐりだす。
狩魔豪はみじろぎもせず、
「老いて筋肉が衰えたせいだ」
「またそんなことを。すべすべでたまりませんね」
その掌は腿のあたりまで滑って、
「でも、私より冷たい。もっと暖めてあげたい」
「ならさっさと抱け」
「狩魔さん」
銀に輝くその瞳は挑むように、
「タオルはいらんぞ。苦しいだけだ。せっかく看守が独房にしてくれたというのに、すでに外の医者にまで知れ渡っているのだ、今さら声を我慢したところで意味がない」
信の掌の動きが一瞬止まった。
「……すみません」
「謝罪など無意味だ。それより他の人間をおどろかすな」
信はその意味をすぐに察して、
「一瞬でも、あの医者にとりついていればよかったですね」
「愚かな。だいたいあんなものは小細工で、何の証拠にもならんからな」
「でも、夢でないことは信じていただけたでしょう?」
「実体がないのはかわらん」
信はため息をついた。
「それこそあの医者にとりついて、貴方を抱きにくることも不可能ではないですが」
「馬鹿馬鹿しい、朝から色ぐるいか。それこそ刑務所中の笑い物になるだけではないか」
「狩魔さん」
信の幽体が、ふと狩魔から離れた。
正面から灰色の瞳をじっとのぞき込むようにして、
「どうして私を拒みませんか」
幽霊のくせに眼鏡をかけて、幽霊のくせに体温を感じさせながら、
「貴方にもっと憎まれていると思っていました。その手で殺されても仕方がなかった私を、なぜ、拒みませんか」
「拒んだら、貴様は消えるのか。追い払えるのか」
「それは」
「そうまで未練が残っているなら、この身をむさぼっていけ。拒む理由は我が輩にはない。どうせこれは罰なのだ」
「罰だなんて」
信の掌が狩魔の細い肩に触れる。
「貴方はよくして下さいました。息子まで育ててくださって。感謝しています」
「怜侍には冷たくあたった。なにより父親を奪った」
「それも私のせいでしょう? 私が貴方にあんな破廉恥を働かなければ」
狩魔は首を振った。
「濡れ衣を着せて罪に陥れようとしたぞ」
「あれは灰根高太郎がいけないんです。貴方からの手紙いっぽんで生倉を殺したんですよ。なんの強制力もない手紙で。殺人教唆とすら呼べない。だいたい、あのエレベーターの中で灰根が私につかみかかってこなければ、怜侍だって拳銃を投げつけたりはしなかったでしょう。あの拳銃が暴発さえしなければ、貴方だって私を撃たなかったはずだ。きっかけはむしろ、あの男がこしらえたんです」
「詭弁だ」
狩魔はさらに首を振った。
「我が輩は殺さなくてもいい男を殺した。たとえ幽霊にだろうと、許されるべきではないのだ」
「狩魔さん」
「我が輩を慰める必要はない。さあ、さっさと弄ぶがいい」
信はしばらく、無言で狩魔を見つめていた。
ぽつりと呟くように、
「苦しみたいんですか、そんなに」
狩魔は応えない。
「貴方がどんなにストイックな方か知っています。ですが、そうですか……」

容赦なく責められて、狩魔はクタクタになって布団に沈んだ。
手を添えられて、何度も放った。
年甲斐もなく甘く乱れて。
「少し、落ち着きました?」
相変わらず身体の芯に響く信の声も無視して、狩魔は布団をかぶってしまう。
「狩魔さん」
「……どうせなら、息子の夢枕に立ってやれ」
「今さら喜びませんよ、怜侍は」
「我が輩へのところへも、喜ばせるために来た訳ではあるまい」
「まだ罰だと言い張るつもりですか」
「貴様は手ぬるい」
低く低く狩魔は呟く。
「化けて出るぐらいなら、この命をいますぐ奪っていけ。刑務所暮らしなど、何のつぐないにもならん。狭い所に閉じ込められたぐらいで参る我が輩ではない、日々の作業も辛いことなど何もない。なにより貴様を殺したことを後悔などしておらん。悔い改める気持ちもない、ゆえに……」
「つまり、本当に自分のことを思うなら、その手で殺せとおっしゃるんですか?」
狩魔の上に、ため息が落ちてきた。
「私が目の前に現れること自体が、貴方にとって、罰なんですね」
「そうだ」
その時、突然気配が消えた。
しばらく様子をうかがってから、狩魔は身を起こした。
廊下の天窓から入る月明かりで、ぼんやりと明るい房の中には、彼一人しかいない。
ついに逝ったか。
これでもう、あの男は来ないだろう。
我が輩を愛していると主張するなら、これ以上苦しめようとはしないだろう。
もしくは我が輩の願いをくんで、冷たい掌でこの細首を絞めに来てくれるか。
御剣信。

我が輩は嘘をついていない。
貴様をこの手にかけたことを、後悔していない。
もしあの日、引き金をひかなかったら、きっとあの一夜きりの交わりで終わらせることができなかったろう。こうまで想いが残っているのだ、泥沼が、修羅場が待っていたに違いないのだ。

いや、もしもの話は、意味がない。
何が真実かさえ、意味がない。

裁判において、客観的な「真実」は存在しない。あるのは検察官の真実と、被告、すなわち弁護人の真実だけだ。裁判官においては、真実すら存在しない。裁判官の任務は、検察官の主張する真実を検討し、検察側に落ち度がないかどうか調べるだけのことだ。その申し立てに少しでも法的瑕瑾があったり、立証が完璧でなかったりすれば、検察官は誤っているとして判決をくだしてしまう。
この司法という制度そのものに、我が輩はずっと挑戦してきた。
あの日、すべて歯車が狂ってしまう日まで。
狂った瞬間、それが許されることでなかろうと、我が輩は一個人として御剣を裁いた。
だから今、もし御剣が我が輩をその手で裁こうというのなら、甘んじて受けよう。

しかし。
夜ごと骨まで愛し尽くされるのは、辛すぎる。
それが夢ならば、自分の愚かしさを笑えよう。
しかしこの期に及んでも、貴様の遺志が我が輩に愛を伝えることだというなら。

なんという、見事な罰。

狩魔豪はガバと身を起こすと、薄い頭に水をかけ始めた。
清めることで何かを追い払うように。
身体に籠もった熱が、少しでも醒めるように。

もう御剣信は現れまい。
二度と会わずにいられるのだ。
なのに何故まだ、心引き裂かれる心地がするのだ。

そう、もう一度かき乱されるぐらいなら、あの日引き金をひかなければ……!

4.

次に目覚めた時、そこは独房ではなかった。
白い壁。清潔な硬いベッド。腕には点滴の管。
病院の個室だ。
「気がつかれましたね」
狩魔の顔をのぞき込んでいたのは、先日房を訪ねてきた医者だった。
なぜ、と自問する前に口唇を言葉がついてでた。
「肺炎でもおこしたか?」
「そうです」
水をかぶって寝たせいだ。文字通り年寄りの冷や水だと口唇を曲げていると、医者はしごく真面目な表情になって、
「かなりの高熱で、危ない状態だったので、それでこちらに緊急入院ということで」
肺炎という病気があなどりがたいことも、自分の衰えも知っている。
だが。
「いつ戻れる」
医者は鋭く切り返した。
「いつ戻される、の間違いでしょう」
「病人扱いは好まん」
「すぐには戻せませんね」
「どれだけ熱を出したかしらんが、もう平熱だ。医者にはあまり良い思い出がない。早く出せ」
「そうはいきません。いろいろと検査も必要ですし」
「我が輩が健康体だと、お墨付きを与えたのはキサマだろう」
「それは、私の診察が不十分だったからです」
医者はちょっと目を伏せ、あたりに人の気配がないかどうか軽くうかがって、それからもう一度狩魔を見つめ、すっと上体を倒してきた。
「狩魔さんは、夜中に独り言を呟いていたのではなかったんですね」
ギョッとして見返すと、さらに顔を近づけ、声をぐっと低めて、
「誰にされていたんです。看守ですか」
「馬鹿な」
一笑に付そうとした瞬間、腰を左手でそっと押さえられた。
「作業服を脱がせた時、その場にいた全員がぎょっとしたんですよ。背中じゅう鬱血の痕で。すわ暴行か、と慌てて検査したんですがね。ご自分で見てみますか」
二枚、手鏡を渡される。
茫然としていると、医者はいたましそうに首を振って、
「男ばかりの刑務所で、鶏姦は珍しくないといいますが、あそこまでとは……傷の手当もせず、よく我慢しましたね」
チューブに入った傷薬とタオルを狩魔に手渡しながら、
「意識が戻ったんですから、もうご自分で薬を塗ることができますね?」
「おい」
すっと立ち上がると、医者は彼に背を向けて、
「これは人権問題にも発展しかねない。狩魔さんが詳細をおっしゃりたくない気持ちはよくわかりますが、犯人は追求しないといけません」
そのまま病室を出ていった。
待て。
待てというのだ。
おい。
暴行犯など何処にもおらんのだぞ!

それでも言われた通り、鏡をあわせてそっと見てみる。背中は確かにキスマークだらけだった。ということは、後ろがかなり傷ついているのも事実なのだろう。はっきり鶏姦と断定していたということは、内部に犯された痕跡があったということだ。
そんな馬鹿な。
幽霊としてもそうなると?

精神の力は時に強大で、暗示をかけられただけで火傷をすることすらあるという。
めくるめく三つの晩が、肉体になんらかの影響を与えたのだろう。
鏡と薬をおくと、狩魔豪は点滴の腕だけ出して、毛布をかぶった。
身体が熱い。
発熱しているように熱い。
御剣信。
もう姿かたちもないくせに、貴様はまだ我が輩を困らせようというのか。
我が輩をこの世にひとり捨て置くだけであきたらず、さらに屈辱の淵に沈めようというのか。
そこまで徹底的に罰さなければ、気がすまんのか。

心の中で激しく罵りながら、狩魔は身体の疼きを感じていた。
全身が熱いのは病気のせいではない。
秘密をのぞかれてしまった恥ずかしさからでもない。

喜びに我を忘れた夜が、己一人の夢まぼろしでないことを知ったからだ。

5.

「どうしたら、いいのかな」
のんびりと信はつぶやく。
重力のくびきから放たれた存在にとって、時間はあまり意味をなさない。四十九日を経ても彼岸へ行けず、盆になっても息子の元へ戻ることも忘れている彼にとって、時間はほとんど無限に近かった。
いったいどんな未練が、この魂をいつまでも中空につなぎとめているのかといえば、初老の検事に抱いた恋心である。もっとはっきり言えば情欲か。ストイックな銀髪の紳士が、自分に犯されながら甘くうめいた瞬間を、どうしても忘れられない。暴君と思われその期待どおりにふるまう人が、とおりすがりの親切を忘れかね、その相手を探してすがってしまうほど本当は寂しくてたまらないという事を知ってしまったからだ。
その人を陥落させたと思った瞬間、自ら罠におちた。続けようのない恋と思いこんだ。好奇の目を今さら気にした。冗談や遊びと割り切ればどうということもなかったものを、すっかり本気になってしまって。
だから、実体をなくした後も、そばにいてずっと見ていた。
この人の可憐さを無邪気さを、みんな知らない。
本当は愉しいひとなのに、誰も知ろうとしない。
私だけがそれをこっそり、十二分に味わってきた。
堪能したのだから、そろそろ成仏すべき時なのかもしれない。

何度もそう考えたが、それでも消えることができない。
なぜだろう。

心配なのだ。
目が離せない。とてもひとりぼっちにできない。
苦しげな声で「殺せ」と叫びながら、愛撫を拒まなかったあのひとを。
いま私がほんとうに消えたら、それこそあの人は死んでしまうのではないのか。
むしろ、罰してあげます、といいながらつきまとい続けた方が、まだ気持ちが和らぐのではないだろうか。

「消すべきなのは、むしろ、周囲の記憶の方かなあ」
洗脳は難しいにしろ、夢でないものを夢と思わせる程度の暗示ならかけられる。
どれだけの人間をどれぐらいいじれるものかわからないが、狩魔豪をそういう目で見る輩が増えるのはあまり好ましいことではない。それこそ狙われたり犯されたりする可能性も出てくる。
あの人がどんなに素晴らしい躰の持ち主か、知られてはいけない。
「未練がすぎる、とまた貴方に叱られそうですね」
苦笑いしながら、信は準備を始めた。
幸いというべきか今はあの人も入院中だし、やるなら今だ。

そして、念のため病院をのぞいて、信はハッと顔色を変えた。

6.

コートの背を丸め、狩魔豪は深夜タクシーに乗り込んだ。
「××街へ」
彼が低く一言だけ呟くと、タクシーはすうっと走り出した。
暖房がきいているが、パジャマにコートを羽織っただけのなりは寒い。彼は震えた。

成功してしまった。
こんなにも簡単に。
まあいい。
それならばそれで構わん。

ぶりかえした熱に浮かされながら、狩魔豪は病院からの脱走を企てていた。
病院側は例の誤解から、警察関係者をなるべく院内に入れないようにしている。
だが、安静の必要な個室患者ということで、医者の監視自体は緩やかだ。
点滴をひっぱって歩けばトイレへも立てる、売店で買い物すらできる。
非常口の場所も、監視カメラの場所もチェックした。転落防止柵のついた窓の柵を乗り越えれば、非常階段まで壁をつたっていくことが可能とわかった。残る問題は、服と時間と逃走経路だ。パジャマのまま逃げるのは目立ちすぎるし、寒さはすぐに体力を奪うだろう。靴も必要だ。足を保護するだけでなく、やはり晩秋に裸足では異様にすぎる。院内を注意深くさがしてみると、緊急患者用の通用口のそばに、下駄箱とロッカーがあるのに気付いた。しかも鍵が壊れているものがある。そのあたりから靴やコートが拝借できそうだ。残るは逃走経路だが、病院を出て少し下ったところにロータリーがあるのが窓から見えるので、タクシーをそこへ呼んでそこまで行ければ、難しいことはなさそうだ。後はどうタクシーを呼ぶかだが、それこそなにげなく売店脇からかけてみるなり、無防備な若者から携帯でもひとつ失敬してトイレでかけるなりで解決するだろう。
そう、この計画はカンペキでなくてよい。
脱走の目的は逃げおおせることではなく、C刑務所に逆戻りするためだからだ。
これ以上、いもしない強姦犯人を追及されたりするのはかなわない。病院でぬくぬくと惰眠をむさぼっているのも耐え難い。
だからすぐに房に戻すべき囚人と思われたい。
てっとりばやいと思われる手が、脱走だった。

狩魔豪は、今まで完璧に近い模範囚だった。
だから誰も、彼が脱走するなどと思っていない。自分でもそんなつもりは毛頭なかったから、そんな素振りもかけらもみせていない。だから油断されている。
しかし一度外界に触れれば、逃げる気のあるものなのだと思われれば、もう一度刑務所に戻れるだろう。戻るのはC刑務所でなくてもいい、どこでもいい。噂のたった場所よりも他の場所がいいかもしれん。噂はつきまとい、実際に自分を犯しにくる者が現れるかもしれん。その時はその時だ。一度堕ちた身、今ならどのような屈辱でも耐えてみせる。だいたい、噂をさらに醜くしたてるために街場へ逃れていくのだ。大人のおもちゃ屋へ行くつもりだった。いない犯人をつくるためだ。色ぐるいの老人が、身体の疼きをこらえかねて、己で我が身を犯していたという話をこしらえるつもりだった。面会人があれだけ多く訪れるのだ、その一人に何かもってこさせたことにすれば、そう不自然な話にもなるまい。拘禁ノイローゼにかかり、言動のみならずどこかおかしくなる囚人はままあるのだ、我が輩が多少つじつまのあわない話を始めたところで、そう怪しまれもすまい。
いや。
我が輩はすでに病んでいる。
未練という名の病にむしばまれている。
信。
一時の激情のはずだった。
ゆえにあっさりと忘れることも、できたかもしれなかった。
発作的にとはいえ、この手にかけてしまったからいかんのだ。
それも、もう一度会いたいという気持ちを、完全に断ち切るためだったが――。

「すみませんね、化けて出るなんて手が残っていて」
狩魔豪はハッと顔を上げた。
「声をたてないで。貴方が思うだけで会話はできますから」
眼鏡をかけた横顔が傍らにあった。
タクシーの運転手に見えやしないかと思うほどハッキリと。
口唇を動かさずに狩魔は応えた。
「何をしにきた」
「肺炎を甘くみちゃいけません。そんなみっともない格好でのたれ死にでもする気ですか」
「病院へ戻れというのか」
「なおるまでは」
「なら力づくで戻してみろ」
「お望みなら、ある程度物理的な力も使いますが」
「フン。どうする」
「こうします」
信は前方へすっと手を伸ばし、運転手の首筋を撫でた。
とたん、運転手がギャッと声を上げてブレーキを踏んだ。
「お客さん、脅かさないでください」
「我が輩は何も」
「夏じゃないんですから、そういう冗談は勘弁してくださいよ」
いや、だからと言いかけた狩魔の喉から別の声が出た。
「ここで降りる」
「それならそうと言ってください」
料金を告げ、ドアを開ける運転手。
狩魔は茫然と信を見つめた。
信は前を見つめたままだ。
狩魔は無言でタクシードライバーの言う金額を払い、車を降りた。
自動ドアは一瞬閉まるのが遅れた。そして、運転者の意図しないタイミングで閉まった。
逃げるようにタクシーは去り、二人はその場へ取り残された。
目の前に小さな旅館があった。
古めかしい言葉でいえば、連れ込み宿。
「狩魔さん」
「なんだ」
「これっきりでいいんです。一時間、いえ、三十分でもいい」
「こんなところに一人で入れというのか」
「こういう場所で待ち合わせる人間だっているんですから、大丈夫ですよ。こういうところは客の風体もあまり気にしませんし、どんな声を出したって構わないんです」
灰色の瞳を伏せて、狩魔はため息をついた。
「病院へ戻されるよりはマシか」
そしてカラリと引き戸を開けた。

終わった後、急激に狩魔を襲ってきたのは重い睡魔だった。
もともと無理のできない状態であったのもあるが、なにより満ち足りた喜びが、深く交わった充実感が、眠りへと彼を誘っていた。
いまここで死んでしまえたら。
眠るように死ねたら。
いまかたわらにいる魂が、自分を一緒に連れ去ってくれたら。
この想いが、人生の最後に咲いたあだ花とわかっている。
だが、だからこそ今、散ってしまいたい。
「駄目ですよ」
「信」
優しい声に狩魔が思わず顔を上げると、
「それじゃ、罰にならないでしょう」
「う」
信は微笑んでいた。静かに狩魔を包み込むようにしながら、
「貴方の命のある限り、つきまとってあげます」
「それこそ身がもたん」
顔を背けるようにするのをのぞきこんで、信は囁く。
「茶飲み友達なら大丈夫でしょう」
「幽霊がか。ぞっとせんな」
「せっかく化けて出てるんですから、あらゆる手を使って嫌がらせをしないとね」
含み笑いに、狩魔はどうにか背を向ける。
確かに嫌がらせなのかもしれん。
なにしろこんなに乱れさせておきながら、もうこれっきりなどと……。
「狩魔さん」
「なんだ」
「とりあえず今晩は、病院へ戻りませんか。ここからもタクシー、呼べますよ」
狩魔は不機嫌な声になった。
「物理的な力を使うとかなんとか言っておったろう。好きにしろ」
「どうしても、お嫌ですか」
「もう、この身を調べられるのは……」
「そういうことですか」
身体がすうっと離れる感じがしたので、狩魔は思わず振り返る。
信はうーん、と低くうなって、
「あのですね、悪化する可能性もなきにしもあらずですが、事態がうやむやにできるかもしれないんです」
「なにを言っている」
「狩魔さんがさっきまでいた病院。さきほどボヤ騒ぎがありましてね。患者がみな外に避難してます。症状の軽い患者は、転院が可能かもしれません」
「まさか貴様が」
「いえ、それは私の仕事じゃないんです、むしろボヤを知ってから、狩魔さんがいないのに気付いたぐらいで。嘘じゃないですよ、なんならラジオでもつけてみます?」
狩魔は枕元のラジオには手を伸ばそうとしない。信は続ける。
「それでですね、狩魔さんのカルテもたぶん焼けてますから、弁のたつところでうまくこう逃げ出して、例の件をうやむやにすることができるんじゃないかと思うんですよ」
「馬鹿な」
吐き捨てるように呟く狩魔を、なだめるように信は、
「ご心配なら、例の医者をちょっといじっておくぐらいのことも、たぶんできます」
「どこまで悪党なのだ、貴様は」
「貴方にあきれられるぐらいは、悪いですね」
狩魔はしばらく黙り込んだ。
何を考えているか、心をのぞくことはできたが、信も黙っていた。
やっと重い口唇が開く。
「……どのみち、どこにいても貴様は現れるか」
「はい」
「うむ、貴様の提案をのんでやる。転院した方が早く房へ戻れるだろうしな」
「はい」
「だが、まだあそこへ戻りたくはない」
「そうですね、私もあまり貴方を長く寒空の下に置いておきたくはないですし」
「そうではない」
「え」
「いまさら何をとぼけている。我が輩が起きていられるうちに、もう一度ぐらいサービスしておけ」
信の顔がぱっと明るくなる。
「いいんですか」
狩魔は苦笑いした。
「茶飲み友達などと気色の悪いことを言われるより、こっちの方がまだわかりやすい」
「そういう貴方が……」
大好きです、とは言わずに長い腕で愛しい人を抱きしめる。
狩魔が低く呟く。
「夢だったか、などと二度と思わせるな」
「そんなことが思えないように、布団をびっしょり濡らしておきますよ」
「やめておけ。夏場の怪談ならともかく、後でどう思われるかわからん」
「まだ、どう思われるか気になりますか、狩魔さんは」
「なる」
「お若いですね。絶倫な訳だ」
「愚かなことを」
「すみません、茶化したりして」
「む」
冷たい口唇が、狩魔のうわくちびるを吸い上げる。
「でも、貴方が夢のようだと思えるほど、優しくしたいんです……」

* * *

C刑務所の奧ふかく、独房にすまう元検事に関して、相も変わらず様々な噂がとびかっている。
老人らしからぬ艶っぽいものも囁かれており、眩しそうに彼を見る者もいる。
しかしだからといって、狩魔豪に手を出す者はいない。

まるで誰かに、しっかり守られてでもいるように。

(2003.11脱稿/初出・恋人と時限爆弾『完璧な虜囚(とりこ)』2003.12発行)

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Written by Narihara Akira
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