『誘惑のマーメイド』

澪といつ知り合ったか、はっきり憶えていない。
一緒に飲み歩いていた女の子達の中に、いつの間にかまぎれこんでいたような気がする。顔は見覚えあるような、でもなんて名前だったっけ、という感じで。
とにかく最初に言葉を交わしたのは、街角で不意に彼女に肩を掴まれた時だったと思う。
「なに!」
驚いて足を止めると、澪は片方の目をパチ、と閉じた。
「ごめん。ちょっとだけ肩貸してくれる?」
潤んだ瞳と声の切実さに、私の警戒心は緩んだ。
「酔ったの?」
「ううん。靴に石が入っただけ。でも、片足だとうまくバランスとれないから。少し我慢しててくれる?」
彼女は片手でショートブーツを脱ぐと、逆さに振って小石を落とした。私の肩に手を置いたまま靴をはきなおす。暖かい手にぎゅっと掴まれる感触に、心がくすぐられた。波うつ長い髪と寂しい頬骨は好みの範囲内だ。少し疲れて感じやすくなっていたのもあって、妖しい想像が胸に沸いた――この子はあの時、どんな声で鳴くんだろう。これは《今晩どう?》という誘いではないのか。
内心のそんな動揺を隠して、笑みをつくろう。
「もう平気?」
「うん」
しかし彼女はそれからも、足をひきずって歩いていた。
「もしかして、足、怪我してるの?」
「長いこと歩くのに慣れてないだけなの。気にしないで」
歩くのに慣れてない――箱入りのお嬢さんなのか。
「じゃあ、少し休む?」
「大丈夫。ちょっと遅れるけど、ついていける」
そう言われるとかえって気になる。私は歩調を落とした。他の子達とはぐれないように人混みを抜けつつ、彼女にあわせて歩き続けた。暖かい夜、ゆっくりと歩くのはいい気分だった。どこからか、微かな潮の香りがするのも心地良い。近くに、海か河があるのかもしれない。
さて、次の店を出た後、その夜はお開きということになった。皆それぞれの家の方向にあわせて散り、私も一人、夜の底を歩き出した。
その頃私は独り身だった。前の彼女と別れて、寂しいことは寂しかったが、しばらくは誰もいらないと思っていた。その夜も大人しく、ただ寝に帰るつもりだった。
「……あ」
地下鉄の階段の下で、彼女が待っていた。
熱い眼差しで、こちらを見つめている。やはり、さっき誘われていたらしい。私は微苦笑を漏らした。
「帰り、こっちなの?」
「ええ」
「そう」
私はあえて、それ以上何も言わずに歩き出した。
彼女は黙ってついてきた。電車の中でも、ただ私の脇に立っていた。そして、何も言わぬまま同じ駅で降りる。アパートまではもうすぐだ。それ以上の沈黙にたえかねて、私の方から口火を切った。
「それで、御用は何?」
彼女は、ごく自然な微笑みを浮かべ、
「あわせてくれて、ありがとう」
子供っぽい声で呟く。私は気が抜けた。
「別にたいしたことじゃないよ」
「ううん。そんな事ない」
そのままニコニコしている。私は肩をすくめた。
「まさか、お礼を言うためにここまでついてきたの?」
「ううん。そんな訳ないでしょ」
次の瞬間、私の首に彼女の手が回され、濡れた口唇がぴったりと吸いついてきた……。

シーツの上に、波のように広がる豊かな髪。ぬけるように白い肌をした若い躰が、その中で息づいている。私の押した、無数の口唇の赤い痕と共に。――並べて敷いた布団にうつ伏せて、私は小さくため息をついた。
「こんなこと、今までなかったのに」
「こんなことって?」
それまで眠そうに身を丸めていた彼女が、黒々と濡れた瞳を丸く開いた。
「ゆきずりの人を押し倒すなんて。名前も知らないのに」
私は簡単に誰とも寝ない。うんと長くつきあってからでないと、怖くてできないのだ。つきあい始めるまでも、恐ろしく時間がかかるくらいなのに――。すると彼女はゆっくり寝返りをうち、私の方に身を寄せてきた。
「私が何者かわかってないと、いや?」
彼女の吐息が、私の頬をくすぐる。
「いやじゃないけど、でも」
「名前も知らない女なんか、二度と抱きたくない?」
「名前なんてどうでもいいんだけど、でもね」
「私は澪よ、霧恵」
彼女はいきなり私の名を呼んだ。酷く真剣な眼差しで、
「私、前からあなたの事を見てた。だから、今日はとっても嬉しかった。親切にしてくれたのも、ここまで何も言わずに連れてきてくれたのも。でも、別にゆきずりだと思われてもよかった。だって私、あなたにとって、少しでも魅力があったんでしょう?」
じっと見つめられて、私は言葉を失った。彼女は私の喉へ手をのばし、そっと首筋に触れてきた。
「私は澪。あなたは霧恵。二人とも女。それじゃ駄目?」
ためらいがちの指先が、答を待っている。
まいった。こういうの、ちょっと弱い。
「確かに、それだけでいいよね、最初は」
「……ありがとう」
澪は、私の胸に顔を埋めてきた。彼女の声が甘く掠れたものに変わるまで、私はその肌を味わい尽くした……。

翌朝、まだ明るくなる前に澪は帰った。しばらくしてから起き出した私は、ふと、部屋の隅になにか光るものがあるのを発見した。
「なんだろう、これ」
桜貝を思わせる破片だった。ただし大きい。長い部分が三センチくらい、薄桃色の楕円が何枚も重なったようなものだ。私の持ち物ではなかった。落ちていた場所はちょうど澪が服を脱ぎ捨てたあたりだ。彼女の忘れ物に違いない。
「海の物よね。でも、魚の鱗にしては大きすぎるし……」
そういえば、昨晩の澪の身体からは微かに潮の香がしていた。海へ行った帰りだったのかもしれない。
「もし大切なものだったらまずいから、しまっておこう」
そう思って薄紙に包み、机の引き出しに入れた。
しかしそれは、何日かして思いだした時には、魔法のように消えてしまっていた。

それにしても、澪には謎が多かった。
私があえて聞かなかったのもあるが、具体的な事を何一つ教えてくれなかったのだ。
だから、些細な部分がかえって気になった。ミネラルウォーターにこっそり天然塩を入れて飲む変な癖とか、手の爪はピンクなのに足の爪はマニキュアをしてないようなのに見事に真っ赤だとか、怪我もないのにいつも軽く足をひきずっているのは何故か、とか。
普段の私は、一旦打ちとけてしまうと相手の事をひどく知りたがる。新しいつきあいが始まる時の、不安やさぐりあいに耐えられないのだ。何が好きで何が嫌いか、どこで生まれてどんな学校へ行って、どんな仕事をしているのか、細かい事がうんと気になって問いただす。これがかなりしつこく、嫌われる原因になった。
しかし、澪に関しては、かなり冷静でいられた。自分の事を話したがらないのを無理に押して、深く詮索しようと思わなかった。
彼女が好きでないからではない。むしろ逆だった。逢えば逢うほど、目の前にある実体そのものが好きになる。だから、余計な情報はいらないように思えたのだ。
それでも、どうしてもききたいことがある。
「澪」
「何?」
「タオルなら何枚でも貸すから、今日はシャワーを浴びてから帰りなよ」
その夜、畳の上に小さなテーブルを出して、澪と差し向いでささやかな食事をしている時、私はようやくその件を切り出した。緊張して、いつもより早口になる。
「だって、髪が濡れるのがいやだから使わないって言ってたじゃない。それとも、うちのシャワーなんて、使う気しない?」
「霧恵」
彼女は、驚いたような顔で私を見つめた。
最初の晩はなりゆきもあって、シャワーも浴びずに抱き合った。しかし、それから何度やってきても、澪は最初にシャワーを使わないのだ。家で入ってきたからといい、言葉どおり全身すっかり清潔にしている。だが、終わった後も決してシャワーを使わない。そのまま身支度をして帰ってしまう。つまり、澪はシャワーをいやがるのだ。一人でも、二人でも入りたがらない。どうしてなの、と尋ねると返事を渋る。ようやくこの間、長い髪を濡らしたくないから、と言った。乾かすのに時間がかかるから、少しでも濡らしたくないの、と。
「つまらないことだけど、どうしてお湯を使っていかないのか、本当の所をきいてもいい?」
「本当って……」
澪は言葉に詰まった。
私も喧嘩を売るつもりはない。嘘をついていると疑っている訳でもない。ただ、確認しておきたいのだ。
「だから、あなたに嫉妬深い同居人がいて、他でお風呂を使ったりすると、その人にバレてまずいっていうような事が、ある訳じゃないわよね?」
その時、頬がひきつれたのは私の方だった。どこが冷静なんだ、嫉妬深いのは自分だと思うと、恥ずかしくて仕方なかった。しかし彼女は、逆に表情を和らげた。
「ううん。そんなんじゃないわ。同居人も、嫉妬するような人もいないもの」
頬をこわばらせたまま、私は重ねて尋ねた。
「じゃあ、どうしてなの?」
彼女はふっとうつむいて、口唇を噛んだ。
「霧恵が興味をもってくれるのは、嬉しいんだけど……」
「やっぱり、他に理由があるの」
彼女はしばらく、困ったような顔をして頬を押さえていた。しかし、思い切ったように顔をあげると、私の傍らに来て膝を揃えた。
「本当の事、言うとね」
「なに?」
彼女は小さな声で、こう耳打ちした。
「……あなたの匂いが好きだから、洗い流すのを少しでも遅くしたいの。それだけ」
なんて古典的な口説き文句!
明りをつけたまま何度も抱き合っている仲なのに、今更何をと思いながら見おろすと、澪は文字どおり頬を染めていた。本気で恥ずかしがっている。
どうやらお互い様らしい。私は口元を緩めた。
「わかった。……じゃ、私も、明日の朝までシャワーは使わない。澪の匂いが好きだから」
「霧恵」
嘘ではない。何故か懐かしい感じがするくらいだ。
「今日、泊まってく?」
「うん」
強くうなずいたかと思うと、いきなり抱きついてきた。私はそのまま、澪の長い髪の海に溺れた……。

「このピカピカしてるの、なんだろう」
電灯の下で、私は自分の指をかざした。虹色の小さな薄片が、指に幾つかはりついてわずかにきらめいている。
同じ布団の中にいた澪も、目を細めてそれを見た。
「ごめん。……これ、私の口紅がついてるんだわ」
「口紅?」
「私の口紅、パールピンクだから。魚の鱗がついたのよ」
そういえば、マニキュアや口紅のパールカラーは、真珠を削って出すのではなく、半透明の小さな魚鱗を使っているという話をきいたことがある。なるほど、さっきじゃれあっていた時についたらしい。
「全部ぬぐったつもりだったのに」
そう言って澪は、再び私の指を口に含んだ。
「あ、いいったら」
私は指が弱い。軽く噛まれるのも駄目だし、根元あたりを嘗められるとゾッとしてしまうのだ。それを見透かしたように、澪は薄く微笑んだ。
「霧恵、今日はもういや?」
「いやじゃないけど」
「なら、いいでしょ?」
指をからめたまま、澪が私の上になる。
「そう言えば」
ふと、私は例の鱗のような物の事を思いだした。最初の晩に彼女が落としていったのは何か、尋ねようとした。
「澪さ、最近海に行った?」
「ううん。なんで?」
澪は更にじゃれついてくる。
「大したことじゃないんだけど……」
「うん?」
その瞬間、ポン、と大きな音がした。驚いて振り向くと、ラジカセの電源が入った。時報直前のニュースが、淡々と流れ出す。甘い雰囲気は一気に崩れた。
「ごめん。タイマー入れてたの、忘れてた」
私は身を起こし、それを消そうとした。しかし澪は放してくれない。
「霧恵、今晩私が帰ったら、何を聴くつもりだったの?」
「別に大したものじゃないわよ。ラジオドラマ。新しいサラウンドシステムで録音したって触れ込みだから、どんなかなと思って」
ヘッドフォンをしなくとも臨場感が味わえます、という宣伝を、何日か前の情報誌で見た。それでその時、タイマーをセットしておいたのだ。しかし澪は首を傾げた。
「でも、わざわざ? サラウンド録音なんて、今時そんなに珍しいものじゃないでしょ」
「うん。でも、その録音場所が、スタジオじゃなくて私の生まれた町だっていうから」
「霧恵の生まれた処?」
「そう。何にもない海辺の小さい町でね。砂浜でぼーっとしてるのが唯一のリクレーションみたいな処で。でも、何にもなくても楽しかったな。砂の感触を楽しむとか、波を見てるだけでも一日潰せたもの。もう何年も帰ってないから、記憶に紗がかかって美化されてるかもしれないけど。最近は、近くの海にすら行ってないし。……そうね、そのうち、一緒に海に行かない?」
「海?」
澪がそう呟いた瞬間、ザァッという波の音がした。
ドラマが始まったのだ。部屋中が、砕け散る波の音に浸された。二人が並んで寝ている布団は、突然大海原を漂う小舟になった。錯覚を起こすくらいその音は生々しく、全身を洗われる心地がした。
「そう。こんな感じなの」
躰を起こす気が失せた。私の下を静かな水が流れているのだ。布団から手を出したら、そこにはライム色の冷たい波がある筈だ。その幻想はたとえようもなく懐かしく、潮の匂いが鼻先に、しょっぱい味が口の中に蘇るような気さえした。
「澪」
「なに?」
「澪っていつも海の匂いがするでしょう。ずっと不思議に思ってたんだ」
澪に覚える懐かしさは、この潮の香りのせいだったのだ。目の前にいる彼女からかすかに漂う、生温かいオゾン臭――汗の香りとは違う、独特な水の匂い。
「ごめん、霧恵」
澪は、急に布団をはねのけて立ち上がった。驚いて身を起こした私を、厳しい眼差しで見つめる。
「私、さっき嘘をついたの。ここでシャワーを使えない訳は、別にあるの。それに、霧恵と海にも行けないの」
「どういう事?」
「霧恵、『スプラッシュ』って映画、観たことある?」
「うん。TVでなら」
確か若い人魚が人間に恋して、人間のふりをして陸にあがってくる話だ。飲み込みが早くて、最初はなんとか正体を隠していた彼女も、水を浴びると人魚の姿に戻ってしまうという弱点のせいで……単純なドタバタ喜劇だけれど、最後はハッピーエンドで楽しい映画だ。童話の人魚姫が、歩くたびに足に激痛が走ってよろめいたり、口をきけなくされたりするのに比べたら、ずっと素敵だと思う。恋の争いに負けて泡になって消えてしまうなんて、つまらない話だ。
しかしそれが、澪とどういう関係があるのだろう。
「私が何であっても、好きよね?」
視線のきつさは変わらない。私は訳がわからぬまま、
「だって、あなたはあなたでしょう? ここにいるあなたが、あなたなんじゃないの」
「そうよ。でも、もう一つの姿があるの」
澪は私の手をとり、シャワー室に向かった。
「どうするの?」
「一緒にお風呂に入りましょうって事。どのみち、嫌われたら、私、泡になって消えるしかないんだもの」
「どういう意味?」
「まだ、わからない?」
彼女はそこで、シャワーの栓をひねった。
特殊撮影、としか思えなかった。
ゆるく巻いた髪がこぼれおちる上半身は見慣れたものなのに、下半身は色鮮やかな鱗を持つ躰に変わっていく。その鱗は、先日彼女が残していったものと同じ形をしていた。
彼女が、人魚――。
そんな馬鹿な。
空想上の生き物でしかない筈なのに。映画と同じように変身するなんて。あれが、現実だなんて。
ユニットバスの中で裸身を浸した彼女が、私を見上げる。
「どうしてこの部屋でシャワーを浴びないでいたか、もうわかったでしょう? 乾かすのが大変だし、正体が隠しきれないからなの。落ちた鱗は何日かすると消えるんだけど、肌についているのはどうしてもとれなくて」
「そうだったの」
それで謎もとけた。最新式の人魚は便利らしい。童話や映画の世界よりも、ずっと進んでいるのだ。
「どう? 驚いた? 嫌いになった?」
私は首を振った。
「嫌いになんかならない。でも……困った」
「何が?」
澪は、心配そうな顔で私の言葉を待った。私は膝を折り、彼女の耳元でこう囁いた。
「だって、人魚とじゃセックスできないもの」
澪は笑い出した。
「やだ、霧恵ったら古い冗談言って」
「ううん、真面目な話」
彼女は嬉しそうに両手を上げた。
「じゃあ、来て。教えてあげる」
パシャン、と水音が鳴る。ヌル、とした感触が、私の肩口とうなじに触れた。

……確かに、それは、悪くなかった。

(初出・テラ出版「アニース」vol.2/96年秋号)

《創作少女小説のページ》へ戻る

copyright 1998
Narihara Akira
http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/